作:黒灰

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小説家になろうで書いたオリジナル短編に加筆したものです。
相当昔のものに今年加筆しました。




 不思議な夜のあの日。

 その3年前に結婚して、その日の前の年、連れを亡くしました。

 

 

 

 

 

 それは、冬の日でした。

 雪の降り積む日暮れ直ぐの時間です。茜から紺に空の色が変わる、ちょうどその時間帯でした。

 私は、その当時交際していた女性にプロポーズしました。

 一人の歩き道に、横断歩道の向こうにその人を見たので、つい。

 随分といきなりですが、私は叫びました。

 

「結婚して下さい」

 

 そう叫ぶと、なかなかに可愛らしく怒った顔でこちらに小走りで歩いて来ました。

 その横断歩道はあまり人気のないところでしたが、私の声がそれなり以上に大きかったので、聞いていた人は多かったのです。

 今思えば、気まずくなることをやってしまった、と思います。

 

 しかし、流石は我が恋人。

 憤慨しながらもにやつきが浮かび、私の右頬を叩いたときは全力というもので照れを表現してくれました。なので、鼻息荒く左を差し出すと無視され、代わりに唇に接吻を贈られました。

 所謂一つのマーヴェラスというやつです。

 

 そうして、私は彼女と結婚することになったのでした。

 

 私と彼女の馴れ初めは、大学時代からでした。

 同じ故郷で生まれ育ったのですが、幼・小・中・高、と尽く違うところへ。

 そして、ついに地元の大学で知り合うに至りました。

 彼女と自分の関係は、所謂サークル仲間で始まりました。

 如何わしい活動もない、健全なサークルです。

 当然です。盆栽サークルでしたから。皆真剣です。特に変わったことも有りません。

 

 彼女には初恋、と言うものが有ったそうです。

 それを聞かされたのはある程度親密になってから、余計なことを言えば、私が彼女に惚れてから3ヶ月頃です。惚れたきっかけはささいなことで、風になびく長髪に、不覚にも見とれてしまったことでした。

 とても絵になる瞬間でしたとも。

 緑深まる夏の日の一瞬の風でした。

 風が吹いたので、私は作業を一旦止めてしまいまして。

 その時、しゃがみ込んでいたのですが、立ち上がって伸びをしました。

 視界の端ではなく、真ん前直線距離3mほど。

 そこに彼女は居ました。

 左横顔が見えました。

 耳の形もよく、鼻筋も非常に美しく通り、なかなか高い。

 髪は長く、前髪は真ん中で分けられていました。

 一瞬でした。

 風は一息吹き、私は永遠に囚われました。

 注意一秒恋一生。

 ああ、なんという事でしょう。

 

 話を戻しましょう。

 初恋の人の話を、酔った彼女から聞きました。

 その日は成人を迎えたばかりの何人かで飲み屋に行ったのです。

 男3人、女3人。

 合コンというやつなのでしょうか。

 しかし皆顔見知りというかサークル仲間でしたので、そういうことにはなりませんでした。

 私はザルという、とてもアルコールに強い人間だったのでほとんど酔っていなかったのですが、彼女は赤い顔でご機嫌。他の4人もそれよりひどい有様か、さらに酷く機嫌が宜しい。そこで、半ば愚痴のようにいきなり唐突に聞かされたのが、初恋の人についてのお話でした。

 

「その人はねぇ、あれぁ確かしょーがくの6年くらいかなぁ」

「うーん、なんというかねぇー、うん、男はつらかったよーって感じの人だったねぇ、えへへ」

 

 何と変わった初恋でしょう。

 所謂灰になったような中年に惚れていたわけですから、正直に言うとショックです。

 私は愕然としました。控えめに言うと死にたくなりました。

 まだ若い上に燃えている最中でしたから。

 彼女の好みには合わない人間であることを、嘆きました。

 やけになって手元にあったビールをいきなり一気飲みをしてみたので、流石に急性中毒になりました。

 油断した上に精神力もダメでしたので仕方ないことです。

 

 病室で起きると、彼女に叩かれました。

 右をやられました。至福です。

 なので笑顔になると、彼女は少し驚いた顔になり、次に怪訝な表情を見せました。

 また殴られました。それでも笑顔なのでまた。

 どんどん気持ちよくなり天にも登るような気分でしたが、登り切る前にお預けを食らってしまったのがそれなり以上の苦痛でした。

 初恋相手からの贈り物は、どんなもので嬉しいのです。

 たとえそれが悪意だとしても、痛みだとしても。

 私はその人を愛さずには居られなかったのです。

 ……悪意は言いすぎですね。

 

 それから、私はあの人にどう告白すべきか考えるようになりました。

 そのうち、まだ好感度が足りないぞ、と気付き、どうアプローチすべきかを考えるように。

 

 まずは攻めの一手です。

 話の続きを聞いていなかったので、続きが聞きたい。

 そのようなことを彼女に言って続きを促しました。

 それが病院に担ぎ込まれた二日後です。

 雪のよく積もった晩の、次の朝でした。

 

「うん、昨日会ったんだ、今年も」

 

 なんと、現在進行形でしたか。

 これは勝てない。

 愕然としました。控えめに言うと、その中年を過去に戻って轢き殺したいほどに。

 

 そんな私の心はいざ知らず話は続きます。

 

「実はね、毎年同じ日、同じ時間、同じ場所でだけ会えるの。何故か分からないけど、気がついたらその人は隣にいてね」

 

 何だか非常に運命的ではありませんか。

 最早これまで。

 ですが彼女の手前、もう一度急性アルコール中毒になるわけには行きません。流石に見放されます。

 そもそも酒も手元にないのですし。

 その場を誤魔化す手段もないまま話を聴き続けなければなりません。

 しかし、語る彼女の笑顔が命綱となり私をつなぎとめました。

 今思えば、切ってやりたいです。

 

「うん、この前言ったっけ?小学6年生の時、ちょうど昨日の晩。あの日も、雪が結構降っててねー。不思議だけど、毎年同じくらい降るのよ、その日は。それで、傘差して信号が変わるの待ってたのよ。そしたら、いきなり隣にその人が現れてね。あと、その信号さ、変わるまで結構時間かかるのよ、3分くらい。まぁ、気にする必要なんて無いくらいしょうもない場所なんだけど。結構真面目な子だったのよー私。毎日毎日なっがーい信号待ち。……なっがーいって言うほどじゃないか。三分だし。んー、来年カップラーメン持ってってあげようかな」

 

 どうやら長い話になりそうでした。

 実際は長く有りませんが、15秒でも堪えられそうにない自分としては十分以上に長く感じられました。

 死ねそうです。

 しかし、笑顔が素敵すぎて生かさず殺さずの状態です。

 慣れてくるとこの鬱さ加減が癖になってきました。息が少々荒いです。

 ちなみに彼女はと言うと、所謂『入り込んでいる』状態でしたので幸いにも気づかれませんでした。

 

「で、実はね……そうだなー、2年くらい前かな?うん、二年だ。ちょうど高校3年だったや。その人にね、告白してみたのよ。何でだろ。毎年会ってるだけの全然知らない人なのにね」

 

 殺す気なのではないでしょうか。

 笑顔も何だか、はにかみが入ってきてて更に素敵です。

 逆に笑顔の方に殺されそうです。

 

 そもそも、何故話してくれたのでしょう。

 それを少し聞いてみると、ええ、微妙な心持ちになりました。

 

「うん、似てるの。あんた」

 

 どうしろと。

 

 ちなみに振られていたようでした。

 安心。

 その憎っくき中年曰く、

「君にアホみたいに惚れ込む人間が現れたらそっちに告白したらどうだい」

 とのこと。

 

 何ですかそれは。

 あてつけですか。

 いいでしょう、やってやりましょうぞ。

 アプローチ開始です。

 

 まずは、相手を知るべきでしょう。

 

 彼女は盆栽好きです。

 ええ、私も盆栽好きです。

 同じサークルに入っている時点でもう既に条件は満たしています。

 別に変わったところはありません。

 

 ふと思いました。

 ひょっとしたら、彼女は中年好きなのでしょうか。

 オジン趣味なのでしょうか。

 枯れかけたのがええのんでしょうか。

 回りくどく聞いてみますと、どうやら察してくれたようで、答えてくれました。

 

「いや、多分その、特別なんじゃないかなぁ……あの人だけはさ」

 

 畜生。

 いや、もしかすると自分も守備範囲内かもしれません。

 良かった。

 

 しかし、問題はそこではありません。

 もっとも重大です。

 癪です。悔しいです。でも聞かねばなりません。

 仇敵の靴を舐めるような屈辱です。

 

 親の仇に跪かねばならぬ心持ちを想像していただきましょう。

 あなたはそれを初めは知らない。

 そう、あなたはその仇に救われた、ように見せられているのです。

 その仇はあなたを見て笑っているのです。

 利用価値を見出し、その利用のために飼い慣らしていこうとするのです。

 そしてついに靴を舐めても苦と思わぬ蛆虫にまで堕とされ、最終的にネタバラシです。

「お前の親を殺した相手の靴を舐めるのはどういう気分だと」

 ええ、屈辱でしょう。最悪の気分でしょう。

 殺してやりたい。しかし一度自分は跪いている。屈服している。どれほどの屈辱か想像できましょうか。

 私は想像できますとも。ええ、親不孝者ではありませんもので。

 例えとしては控えめですとも、はい。

 

 それはそうと聞きました。

 

「あの、僕にどう似ているんですか」

「ああ、あのさ。この前ぶっ叩いたじゃん。ほっぺ。そういえばまだ謝って無かったや、ごめん。えへへ。許して?」

 

 いいですとも。

 むしろもっとやってください。

 

 続きを促します。

 

「その、あんたさ、何故か笑ったじゃん。あの時、びっくりしちゃった。それが似てるのよ。なんというかその、さ。本当に嬉しそうな顔しててさ。あの人のそれにやられちゃったというかねぇ」

 

 気持ち悪いという感想は無かったようでした。

 流石女神は格が違います。

 しかしまたあの中年の話です。

 死にたくなります。

 ええ、いつも通り彼女の笑顔を保養に相殺します。その時も素敵でした。

 

 というわけで、私はよく笑うようになりました。

 練習はしません。自然ではなくなりますし、もし間違った練習だったなら、無価値どころか負債になりますから。

 現金な男と笑えば宜しいかと思います。

 しかし、どうしても気を引きたいのです。

 初恋でしたので。

 

 そのうち、仲良くなって来ました。

 どれくらい掛かったか、具体的に言えば7ヶ月くらいです。

 必死でした。

 見放されないように、好かれるように、愛が徐々に伝わるように、時には我慢、時にはアグレッシブにアプローチを掛けていきました。

 ええ、笑顔は忘れません。

 自然でないわけではありません。幸せが湧いてくるのですから、その心の動きに顔の筋肉を任せていればいいのです。

 我慢をしないのは打算有りきでした。

 しかし、笑顔そのものは全く混じりっ気なしの心からのものであったと言い張れます。

 ええ、下心は純粋な内に入りますとも。

 

 夏です。

 またやってきた夏です。

 厳密に言えば残暑です。しかしその年も厳しい暑さが残っていました。

 前の年のその頃、私は彼女に惚れたのです。

 また、同じような作業がありました。

 当然です。植物を扱うのですから同じ時期に同じような作業をすることに何らおかしいところはありません。

 しかしこれほど出来過ぎた日もありません。

 構図が、同じだったのです。

 

 彼女が私の前に立っています。

 私はしゃがんで作業を続けています。

 風が吹いたら、私は立ちます。

 私は立ちますが、風になびく彼女の長い髪の毛、それに惚れ直します。

 惚れ直した勢いで、告白するでしょう。

 

 そしてそのまさか、同じ風が吹きました。

 彼女は前の年と同じく、風に向かって立ち、長い髪をなびかせていました。

 同じようですが、少し違います。

 あれから一年経ちました。彼女はまた美しくなりました。

 化粧もより上手くなったように思います。眩しいです。それでも刮目します。見逃せません。

 愛する人の美しい姿を見逃して何が片思いか、どうしてそれで懸想していると言えるのでしょうか。

 視線を合わせられなくともその目を見つめていたいと、しかしそれではどうしても視線が合うだろう、それは恥ずかしいと、いやしかしそれでも見つめたい、とどうしようもない悩みが頭を回らないのであれば、そんなものは本物の恋などではありません。ただ恋に恋しているだけでしょう。しかし私は初恋です。言ってしまえばこれが本物かどうか判定しようがありません。しかしそれでも、これが恋なのだと信じています。

 涙が溢れました。

 

 あまりに愛おしい、美しい。何て素敵な人なんだろう。もう、この人を見つめていられるなら、この人に見つめていてもらえるなら、それだけで生きて行ける。その気持を、素直にぶつけました。

 

「好きです」

 

 なんというか、酷く青臭いように思えます。

 なんせ私は初心者です。恋愛に関しては赤ん坊同然です。小学生以下です。

 この時まで色々策を打って来なかったわけではありませんが、あまりに稚拙でしょう。

 ですから、バレバレだったわけです。

 

「今更だねぇ」

 

 回りには実は仲間が居ました。盆栽サークルの仲間です。

 人の目など気にしない。

 私の恋に関する基本方針がそれだったと、今思い返して気付きました。

 

「うん、私も結構好きだよ」

 

 あれ。もしかしてライクでしょうか。

 こちらのラブに気付いて頂けなかったんでしょうか。

 出直しですか。もしかしてやり直しですか。

 いいえ、まだ思いの丈の全てを語るには余りに序の口です。

 こんなものではないのです。私の思いはそんな軽いものじゃないのです。重いのです。

 

「あなたの何もかもが好きです」

 

 ええ、控えめに一言で纏めてしまいましたが。

 

「……うん、分かったから……その……二度も言わなくても分かるよ」

 

 顔が赤いです。ひょっとするとちゃんと意図が伝わっていたのでしょうか。

 

「私も、あんたの事好きだよ」

 

 目を見てもらえませんでしたが、うつむいて恥ずかしそうです。

 ああ、死んでもいい。

 

 貧血で私は倒れました。

 

 医務室で目覚めると、右頬をまたぶっ叩かれました。

 ここは天国なのでしょうか。

 また笑顔になります。左を差し出しましたが、抱擁で返されました。

 私も遠慮遠慮がちに抱きしめました。

 彼女の情熱を免罪符に、私も途中から熱くやってしまいましたが。

 

 私は、その時からあの時まで、ずっと幸福でしたとも。

 

 そこからの話は特筆するべきことしかありませんでしたので割愛しましょう。

 私にとっては彼女さえ居れば最高なのです。

 ええ、この上ないほどに。

 彼女が私を愛してくれるというもう幸福のあまり卒倒しそうな状態というのは、ずっと続くのだと思いました。

 倦怠期など有りません。私は常に受身に攻めます。いつでもそうでした。

 

 そして、そんなこんなで大学4年の冬、ようやっと結婚に漕ぎ着けました。

 

 それから、毎年結婚記念日に再現をやろう、という話を持ちかけました。

 例によって殴られました。飽きません。私は彼女を愛しています。

 愛の一撃を受けることが生き甲斐の一つといっても過言ではありませんでしたから。

 

 私も彼女も地元で就職しました。

 もちろん職場は同じです。

 同じ職場で働けるように骨を折りましたが、苦ではありません。

 むしろ、彼女の方に迷惑を掛けた気もします。

 笑って許してくれたので気にしません。気にするなと言われた以上気にするわけには行きませんでした。

 

 結婚一周年。ついにその日が来ました。

 台詞は変わっています。流石に毎回「結婚して下さい」はおかしいでしょう。

 一年周期で寄りを戻しているようで周りの人が心配をしてしまいます。

 ですので、「愛しています」と私が横断歩道の向こうから叫ぶのです。

 信号が変わる直前に叫ぶので、変わったら直ぐ彼女が渡ってきて私を殴ってくれます。

 ええ、幸せですとも。口付けもセットで付いてきます。

 まさに黄金体験でした。

 私の愛はそもそも死んでいませんが、やはりその日を迎え、更に燃え盛るように思えました。

 

 年が明け、また夏が来ました。

 その頃、彼女が妊娠していると分かりました。まさに幸せの絶頂を極め、そう、所謂有頂天でした。

 仕事にもさらに熱が入ります。

 彼女が見ています。見てくれています。

 彼女が頑張っています。私だって頑張れます。だから頑張ります。

 毎日全力です。社会人としても夫としても全身全霊、次はお父さんになるのだと思うと、身の引き締まる思いです。

 

 結婚二周年。

 

 私は忘れません。

 

 まるで、静かに蓋が閉じるように、彼女が地面に振り下ろされたあの光景を、覚えていないはずがないのです。

 彼女からほとばしる赤が、道路を静かに流れて染めていくのを、忘れられるはずは無いでしょう。

 

 地面が凍っていたのです。

 彼女が身重だったのです。

 信号が幾分異常だったのです。

 トラックのブレーキが間一髪の瞬間遅く、効いたのです。

 私のプロポーズが、彼女の到達を待つ、そういう形だったのです。

 

 それらが、いけなかったのでした。

 

 彼女は死にました。

 お腹の赤ん坊も一緒に。

 私も、死にたかった。

 

 あの時、私もその場で倒れました。

 脳卒中だったそうです。

 ショックで血管が切れたようで。

 気づきませんでしたが、過労が祟ったようです。

 それでも。

 誰も、私の右頬を叩いてくれませんでした。

 誰も、私を抱きしめてくれませんでした。

 誰も、私に口づけをくれませんでした。

 そのまま死ねればよかった。

 

 夢をみました。

 横断歩道にいます。隣に、彼女がいました。

 私は地面に張り付いたように立ち尽くし、彼女は歩きだしました。

 向こうにいくのです。

 信号は青です。渡らなければなりません。

 彼女は、一度私に向かって振り返りました。

 名残惜しそうに、済まなそうに、愛しそうに、憐れむように、この上なく切なそうに。

 いきました。

 私は泣いていました。

 ただただ、泣いて、その背中が掠れて消えるまで、見ていました。

 声を上げて、赤ん坊のように泣いていました。

 

 目覚めると、病院でした。

 両親、彼女の両親、皆揃い踏みでした。

 でも、彼女は居ませんでした。

 みんな泣いていました。

 私が一番泣いていました。

 しかし言葉が出ません。

 出ないのです。

 

 私は、言葉を失いました。

 愛していると言ったのに、結婚してくださいと言ったのに、好きです、あなたの全てが好きですと言ったのに、それが最初から無かったかのように、私から言葉が消えました。

 リハビリをするつもりはありませんでした。

 私の言葉に何の価値がありましょう。

 彼女には、もう二度と言葉を届けられません。

 

 右足と左手が麻痺しました。

 それでも、リハビリをするつもりはありませんでした。

 私は仕事が出来なくなりましたから。

 頑張る理由もありません。

 歩く意味もありません。

 彼女は、もう私を見てくれませんから。

 

 私の眠る間に、彼女は煙となって天へいきました。

 私は、いけませんでした。

 

 トラックの運転手は、通夜にも葬式にも出てきたそうです。

 本当に誠実な方だったそうです。

 トラック側の不備でした。彼に落ち度は無かったと言えます。

 賠償は、彼の雇用主である企業と彼の折半で行われました。

 私が目覚めたと聞いて、真っ先に私の下に駆け付け、

 ええ、見事な土下座でした。立派な謝罪でした。

 許せない。仇です。しかし、恨めないのです。

 彼は、あまりに誠実だったのです。

 責められません。責めようとしたところで言葉がありませんでしたが。

 恨みを糧にすることも、私には出来ませんでした。

 そうすれば生きて行けるかもしれない、そう考えたことを後悔しました。

 私は、もう笑えませんでした。

 

 私は、全てを失いました。

 あんなに愛したあの人を、失いました。

 私の全てを、失いました。

 

 死にたかった。

 

 それから、私はすっかり老けこみました。

 髪の毛は、ごっそりと抜けることはありませんでしたが、もう全部白髪でした。

 体は衰えました。

 右足が麻痺していなくても、もう歩くのが精一杯でしょう。

 

 灰です。燃え滓です。もう、火の付くはずもありません。

 私は、賠償金と親の金で生活する、言ってしまえば穀潰しになってしまいました。

 私と彼女の貯金は、葬儀代とベビー用品で消えていました。

 私が、払うと伝えたので。

 

 庭先にあった、彼女と私で世話をしていた盆栽も、すっかり荒れ放題です。

 なので、この前父が世話をしてくれました。

 でも、私はそれを見ているだけで辛かったのです。

 それでも、辛いからと言って打ち壊してしまうのは、余りに虚しすぎて、そのままでした。

 世話をしてくれた父にも、申し訳が立ちませんから。

 

 私は、庭先に座り込み、宙を見て日々を過ごすのでした。

 それでも、私たちの両親は見捨てませんでした。

 それは、余計ではあるものの、有り難かったです。

 

 妻と子供のお墓には一度も行きませんでした。

 しかし、どうやらトラックの運転手だった方と、その当時の雇用主が、毎月参りに来ているのだと、それをもっと後で両親たちから聞きました。

 私が立ち直れない一方で、彼らはなんとか立ち直り、ひたすら懺悔を続けていました。

 申し訳ない、と思いました。

 あんなに謝られて、それでも何も出来ない私は、彼らの謝罪に報いることが出来ていません。

 そうですが、私はそのまま灰のままであり続けました。

 

 冬がやって来ました。

 私は、さまよい歩くようになりました。

 何故だったのでしょう。

 彼女の面影を追うならば、もっと早くても良いのですし。

 ですが実際私は夜毎に杖を付き、ハット、コートを引っ掛けて出かけるのでした。

 

 夜とは言っても、そこまで暗くはありません。

 西の空に朱色が滲むくらいの明るさではありました。

 紫の空が、毎日私を見下ろしています。

 

 私は歩くのが遅いです。

 左の足で一歩を踏んで、右の足は引きずって。

 倒れないように、動く右の手の杖で支えて。

 そうしてやっと、妻のいたところにたどり着くのです。

 私は、そこでずぅっと立っています。

 長いこと、毎晩立っていました。

 

 彼女が死んでから、ちょうど一年の日でした。

 三度目の結婚記念日です。

 私は一人です。

 

 あの横断歩道に、立っていました。

 私は渡りません。向こうへは行きません。

 ただ、彼女の最後に立っていた場所に、私も居るだけでした。

 空が、紫色です。

 西は、茜色です。

 東はもう、紺色でした。

 雪は降り積み、白は深かったです。

 いつの年と比べても、同じようでした。

 

 ふと、場違いだ、と思いました。

 何故でしょう。でも、私は、ここにいてはいけないと思いました。

 ここにいてはいけないのです。私はここにはいないはずなのです。

 居てはいけないはずは、ないのですが。

 

 私がさっき見ていたよりも、真新しい街並みが広がっていました。

 何も変わっていません。ただ、何となく私が知っているよりも幾分ほど新品らしさがありました。

 

 となりには、傘を差し、ランドセルを担いだ女の子が立っていました。

 

 信号は、赤です。

 変わるまでは恐らく、そう。

 3分。

 

 3分の出来事でした。

 

 女の子が、私に気づきました。

 いきなりその子は現れました。

 気づいたらそこに居たのです。

 私は驚きました。

 だから、当然のごとく、その子も驚いたのです。

 

「……わ、おじさん……いつからそこにいたの?」

 

 無遠慮におじさんと呼んできました。

 おじさん、と来ましたか。

 仕方ありません。まだ、25歳だったのですが、些か以上に老けこんでいましたから。

 

 答えました。

 ごくごく自然に。

 

「うん、おじさんはね……ずっと、ここにいたんだ」

「ずっと……?不思議だね、私が信号待ち始めたら、いきなり出てきた感じするけど」

 

 私も凄く不思議に思います。

 ずっと立っていたらいきなり風景が微妙に変わったのですから。

 そして、女の子がそこにいたのですし、私にもわけがわかりません。

 

「僕もね、びっくりしちゃったよ。気がついたら君がいきなり出てきたみたいに見えたから」

「ふーん、不思議だねぇ」

 

 女の子が、私と顔を見合わせて、笑いました。

 その子は、真ん中で前髪を分けた、髪の長い女の子でした。

 

 なんだか、あの人を思い出します。

 あの人の笑顔と酷く似ていて、あの人を思い出して、あの人が居なくて寂しくなって、あの人はどこにも居なくて、と思ってしまって、辛かったです。

 でも、何故か、あの人がまた私に笑いかけてくれているようで、嬉しかったのです。

 

 私は、一年ぶりに笑いました。

 彼女の好きだった、私の笑顔は、そこにまた蘇っていたのでしょうか。

 

 何故か、その女の子がまじまじと私を見つめていました。

 あの人に見られているようで、ちょっと寂しくなったり、悲しくなったりしますが、

 あの人が見てくれているような気がして、単純で現金ですが、幸せになってしまいました。

 私は、また笑っていました。

 

「どうしたんだい」

「あ、うん、その、なんでも、ない……うん」

 

 うつむいて、私から視線を外しました。

 何から何まで、似ています。

 彼女を思い出します。

 私の愛したあの人を思い出します。

 私の全てが、そこに有るような気がして、胸がつまりました。

 でも、なんだか、この子は違うはずなのに、あの人がそこに居るみたいで、胸がいっぱいになりました。

 

「おじさん、何か悲しいことでもあった?」

 

 唐突に、そう聞いて来ました。

 私たちは二人とも、信号の赤を見つめていました。

 

「……僕の好きな人が、ここでいなくなっちゃったんだ」

「ふられちゃったの?」

「いや……違うんだ、その……事故だった」

 

 傷がえぐり出されて、心が痛みます。

 ずきずきと痛み、じくじくと染みて、どくどくと心から何かが流れ出て行く感覚です。

 

「あ……ごめん、なさい」

 

 その子は、そう言って、申し訳なさそうな抑揚で言いました。

 

 気まずい沈黙が流れます。

 

 視界の端で、黄色の色が見えました。

 もうすぐ、信号が変わります。

 

「おじさん、また会える?」

 

 何故か、その子がそう言い出しました。

 私は答えに窮しました。

 

 会ったことのないその子に、また会えるのか。

 正直、会えないだろうと思いました。

 私は今までずっとここに立っていました。

 ずっとこの子を見かけませんでした。

 だから恐らく一度きりでしょう。

 しかし私は冗談を言いました。

 

「そうだね、また同じ日の同じ時間なら、会えるかもしれないねぇ」

 

 その子は私のことなんか忘れます。

 一年もしない内に忘れるでしょう。

 でも、私は間違いなく、来年もここに居るでしょう。

 

 そう言ったのと同時、信号は青になりました。

 彼女は渡ります。

 

 歩き出しました。

 そして、真ん中あたりで振り向きました。

 何かあるのでしょうか、と思いましたが、

 

「おじさん、またね!」

 

 傘を持つ右手と逆、空いていた左手で小さく笑顔で手を振ってきました。

 彼女はまた前を向き、その横断歩道を無事渡りきりました。

 私の左手は動きませんから、ただ、笑顔が見えてくれるといいな、と思いながら、笑って見送りました。

 彼女の姿が、掠れて消えるまで。

 涙が零れないように、久しぶりの笑顔で、見送りました。

 

 彼女の姿が消えた時、私は、またあの人のいた場所にいると気づきました。

 私は一歩も動いていません。

 あの子の足あとは隣にありませんでした。

 

 とても、不思議な夜でした。

 私の言葉も、何故か、戻ってきていましたし。

 

 それから、私は毎年、同じ日、同じ時間にそこに立つことにしました。

 妻を偲ぶ思いもありました。

 しかし、あの子との約束を形だけでも果たしてみようか、と、変な気まぐれを起こしたのです。

 

 ちなみに、主治医によると私の失語は心因性だったのではないか、とのことです。

 脳卒中による手足の麻痺との合併症状ではなかったようです。

 

 私は、やはり灰でした。

 燃え滓ではありましたが、また、盆栽の世話をするようになりました。

 父母は、それを色々な思いで見ていたでしょう。

 

 コスモスの「精霊流し」でも歌いながら世話をしてみようかと思いましたが、生まれるはずだったあの子がいませんから、余計に悲しくなると気づき、ワーキングソングとしては不適である、と思い至りまして、結局黙々と作業をすることにしました。

 足がだめでしたから、あの頃のようにしゃがんで作業することはできませんでした。

 丸椅子に座り、台の上に鉢を乗せ、なんとか片手で手入れをしました。

 そういうわけで、リハビリをしてみようか、と思ったわけです。

 せめて左手は添えられる程度には動けば、と。

 足のことは、特に考えていませんでした。

 

 リハビリが効果を見せ始めたのは、奇しくも残暑の頃でした。

 私の全てが始まった、そんな時期です。

 ですから、墓参りに行ってみよう、と思い立ちました。

 

 その日は麦わら帽子を頭に載せ、霊園まで歩きました。

 左で踏み込み、右は引きずり、右手に握った杖で体を支え、地面を鈍く削りながら滑るように歩きました。

 

 妻の墓は、綺麗でした。

 念入りに手がかけられており、雑草も確かに生えてはいたものの、除去の努力が見て取れます。

 墓石には、私たちの苗字と、彼女の名前が彫りつけられていました。

 私はそれを、右手の人差指でなぞり、愛に思いを馳せました。

 

 ひとりごとをつぶやきます。

 彼女のかけらが、目の前に収められています。

 言葉は届きません、でも、届いて欲しいと願って、つぶやきました。

 

「会いに来ました」

 

 それだけ言って、それだけなのに、私は涙が止まらなくて、もう、どうしようもなくて、墓にすがりついて泣きました。

 麦わら帽子はずり落ちて、太陽は私の頭を、顔を、涙を容赦無く照りつけます。

 杖は傍に落ちています。消えかけた琥珀色の光沢に光が反射していて、それのせいで頬を緩くつねられるような熱さも感じていました。

 その日は、誰も回りにいませんでした。

 特に月命日だったというわけでもありませんでしたので、あの二人も来ていませんでした。

 

 ひとしきり泣くと、私はこの間の結婚記念日のことを報告することにしました。

 不思議な不思議なあの日のことを。

 報告が終わると、私はなんとか立ち上がり、立ちくらみがしながらも何とか家にたどり着きました。

 

 私の心に、何か、ほのかに温かいものが湧き出してくるのを、あの不思議な日から感じていました。

 それは、燃え滓だった私の中から感ぜられ、それにどこか尊さすら感じていました。

 

 また、結婚記念日がやってきました。

 やはり、私は一人でした。

 しかし、とある女の子との約束もあります。

 私は、前の年と同じように横断歩道の前に立ちました。

 

 空は、やはり茜色でも、紫色でも、紺色でもありました。

 雪も深く降り積もり、それに重なるように現在進行形で降っていました。

 

 信号が赤になると、また、景色が不思議に変わります。

 そして、隣を見れば今回も女の子が居ました。

 

 左手で傘を差し、右手でカバンを持っています。

 セーラー服でしたので、中学生かと思われました。

 高校生にしては少し以上に幼気がありましたので。

 

 その子が私に気づきました。

 

「……おじさん!」

 

 去年初めて出会った、あの子でした。

 少し大人びたように感じます。

 私は、去年と同じ服装でした。

 今回、コートは引っ掛けずにちゃんと着ておりましたが、ハットは去年と同様です。

 わかりやすいようにしておいて、よかったと思います。

 

 その子の顔は、私を悲しくさせ、切なくさせ、あの人の事を思い出させましたが、やはり私はそれ以上に、何故か、本当に嬉しくなりました。

 

 呼ばれたので、

 

「やあやあ、また会えたね」

 

 と返しました。

 私も嬉しかったのですが、彼女はそれ以上に嬉しかったようです。

 まさか、覚えていてくれたとは思いませんでした。

 私も忘れませんでしたが。

 

 また、3分だけの世界が始まりました。

 

「おじさん、ちょっと元気になったみたい」

「そうか……そうだねぇ。去年より少し元気になったかもねぇ」

 

 その子は私を本当によく覚えていたのでしょう。

 確かにそうでした。私は確かに少しだけ前を向いていたように思います。

 

 今年は、好きなことを聞かれました。

 私は素直に盆栽が好きだと言いました。

 彼女は、趣味がなかったそうです。

 ですので、私が質問し返すと、困った顔になっていました。

 無いというのも恥ずかしい乙女心、あると嘘を言ってしまうことを避けたい人情。

 そういうことだったのでしょう。

 

 また、去年と同じく別れました。

 彼女はやはり一度振り向き、私に手を振りながら別れを告げました。

 今回は、私は左手を振って、笑顔で彼女を見送りました。

 

 しかし、やはりその後はその子の足あとは有りませんでした。

 

 それが、5年も続くと、意味がわかってきてしまいました。

 

 その子は年を重ねるごとにあの人に似ていきます。

 似ていくというのは正しくありませんでした。

 近づいていくのです。

 

 私は、時をかけていたようです。

 

 ただの夢だと一蹴しても良かったのですが。

 そう、良かった筈なのです。

 

 その子は、確かに私の妻でした。

 その子が数えで18になる年の時、私は愛の告白というものを受けました。

 

 私は、酷く苦しみました。

 

 私が愛したのはただ一人です。

 私の妻だけです。

 しかし、そこに若いころの妻がいるのです。

 それを愛さずにはいられるでしょうか。

 

 私は、悲しみを堪え、言いました。

 彼女の好きな、笑顔で。

 

「ごめんよ、僕はその気持ちを受け取れない」

 

 彼女は、どこか分かっていたような顔で、それを聞いていました。

 でも、少しくらいは悲しいのか、私の目を見てくれません。うつむいていました。

 

「君にアホみたいに惚れ込む人間が現れたらそっちに告白したらどうだい」

 

 言いました。

 ええ、私こそが、あの憎っくき中年なのですから。

 私の憎んだ、仇です。私は私の仇です。

 

 私は我慢しました。

 彼女の未来の為に、私自身の過去のために、我慢しました。

 彼女を離したかったわけがありません。

 彼女に口付けたくなかったわけがありません。

 ただ、堪えました。

 私も随分、控えめになりました。

 

 彼女は、その年も歩道を渡りました。

 ええ、振り返って、笑いながら手を振ってくれました。

 幾分寂しそうな笑顔でしたが。

 

 それを見て、僕は悲しくなります。

 あの人が悲しいと、僕も悲しいです。

 でも、あの人の笑顔は素敵だから、僕はどうしても、笑顔になってしまいます。

 

「おじさん、またね」

 

 私は、左の手でぎこちなく手を振ります。

 私は、ちゃんとその時も笑っていました。

 

 私は、彼女に会えるから、生きてきました。

 彼女が、いつもそこにいてくれるから。

 でも、いつまでもそこにいてくれるわけではないことにも、とうの昔に気づいていたはずです。

 

 私は、この不思議な夜の意味が分かってから、ずっと考えていました。

 思い出と心中しよう、と。

 あと5年で、彼女とは永遠に会えなくなります。

 私は、あの時と今が繋がるその日に自殺することを決めました。

 死に損ないの死に時としては、これ以上無いと思ったのです。

 

 女々しいと笑ってくれても構いません。

 弱い人間だと罵ってくれても構いません。

 私には、彼女が居なくては始まらないのです。

 もはや、彼女なしでは私ではありません。

 意気地なしと言えますが、それほどに彼女は私のすべてだったのですから。

 

 私は残り五年を、どう生きるか考えました。

 不思議な夜のことは誰にも言っていませんでした。

 だから、いきなり自殺したように思われるでしょうし、とりあえず、死ぬ前の身辺整理を5年かけてゆっくりとしていくことにしました。

 

 12年間、長かったと思います。

 ずっと、何をしていたのか、よく思い出せません。

 でも、妻の墓にはあの後毎週参りに行っていました。

 そして墓の世話をしていました。

 悲しかったです。でも、そうしているのが自然なように思われたのです。

 あの人を今も昔も思い続けていると、自分に分からせたかったのかも知れません。

 私は灰でした。

 でも、生きていましたとも。ええ。

 

 それからも、私はあの横断歩道に立ちました。

 彼女は、私の知っているとおりに美しくなりました。

 そして、彼女が大学の3年生の冬に、馬鹿な男の話を聞きました。

 彼女の恋人の話でした。

 

「おじさん、私、付き合う人が出来ました」

「そっかぁ」

 

 私は、万華鏡のように、よく分からない何か、しかし確実に美しい何かを感じていました。

 妻と居た年月が、鮮やかに、光り輝くように私の心を再び、一瞬の風のように通り抜けて行きました。

 

「馬鹿みたいに君のことが好きなのかい」

「うん、本当に、馬鹿な人」

 

 彼女ははにかみながらそう言いました。

 幸せいっぱいで、照れながら笑っていました。

 

「私の何もかもが好きだ、って。とっても、とっても恥ずかしかったけど……すごく嬉しかった。私しか見えてなくて、凄く切ない人。危なっかしくて……そう、私が見てなきゃって思うの。ちょっと困っちゃうところはね、私が心配そうに見ていても、安心して見ていても、絶対に頑張っちゃう所。もう……嬉しくて、心配で、どうかなっちゃいそう」

 

 そう、赤裸々に語ってくれました。

 照れます。こう、言葉にされたのはあまりなかったので、その。

 とても、私も嬉しかったです。

 

 また、いつもと同じように別れました。

 

 その次の年、私はその歩道に立ちませんでした。

 好き合う二人に、野暮な仇が入ってはいけません。

 

 私も彼女も、その方がいいでしょう。

 

 私は、最後に旅行にいくことにしました。

 あの夜の彼女が、結婚した次の年の夏です。

 妻の写真を連れて、色々なところをめぐりました。

 随分と長い旅行になりました。

 私の歩みは、少し早くなっていましたが、それでも遅かったです。

 長い、長い、旅路だったように思います。

 ゆっくりと、ゆっくりと歩きました。

 私は一人でしたが、最後にみやげ話ぐらいは持っていけるように、と思って。

 新婚旅行で行ったところや、初めて二人で出かけた場所とかを、夏が終わるまで巡り続けました。

 

 私のやることは全て終わりました。

 もう、あの冬の日まで、私はただ空を眺めて過ごしていました。

 私はもうすぐ終幕だと思って、笑って生きました。

 

 父母にはとても申し訳ないと思いました。

 彼女の両親にも。

 みんな、強く生きました。

 私のほうが白髪になるのは早かったですが、抜け落ちるのはやはり父のほうが先でした。

 私も人の子ですから、少し辛くなりました。

 母も、年をとるにつれて皺が目立つようになりました。

 でも、優しさは、私を確かに少しだけでも潤してくれていたと、今はわかります。

 

 私は気まぐれを起こしました。

 それがこれなのです。

 これは、私の思い出を綴った手記です。

 私は、これを持って死にに行こうと思います。

 でも、最後にあの横断歩道にもう一度だけ立とうと思います。

 今回は反対側です。

 彼女の立っていたところです。

 信号が変わったら渡って行って、そのまま海へ行こうと思います。

 海で、一人でいこうと思います。

 ちゃんと睡眠薬も買いました。一つ悪いことをしました。

 となり町で、偽名で睡眠薬を買ったのです。

 愛嬌です。

 

 これで、この手記は終わりです。

 誰が拾うのでしょうか。

 そんなものは知りませんが、ただ、何となく書いただけなのです。

 

 長い長い、12年でした。

 いってきます。

 ●

 

 今年も結婚記念日がやってきた。

 

 今日は結婚記念日、結婚を記念するから毎年結婚を再現してイチャつくのが僕の生きがいで、そういうわけでプロポーズした場所に立っている。

 

 僕と彼女の距離は横断歩道、この道の幅の分だけ。

 あの日詰めた距離が、目の前。彼女はその延長線上にいる。

 見渡せばそこには、経年のせいだけじゃなくてうらぶれた町並み、意味があるのかわからない古びた信号機が僕らに赤色を示している。

 正味三分。

 その時間だけそれが僕らを引き離す。

 降り積もっていく雪がプリズムのように信号機の色を照り返して鮮やかだ。

 

 西に茜色、南北に紺色、東に黒色。そして目の前で踊る青に赤。ありふれて仕方のない夕方の色彩が僕らを包んでいる。

 そう、この上ないほどのロケーション。

 少なくとも、僕にとっては。

 しかしながら、実のところ彼女さえいればいいのだけれど。

 目の前で顔を真赤にしてはにかむ彼女が。

 

 見よ、黒髪をセンターで分けて流す姿。

 鼻筋は通り目もきらめいているではないか。かんばせは女神とかそういうなんか諸々を超越してもう、なんだ、美しい。最高。耳の形とかもこう、くりんといい感じに曲線で愛らしいです。

 

 僕は仕事帰りなので着替えるまもなく背広、彼女もあの時とは違ってゆったりとしてふくらんだ暖かそうな格好。もじもじしているから、差している傘がゆらゆらゆれる。

 顔が見え隠れしているのがこれ以上ない焦らしで卑怯過ぎる。愛してる。

 しかも車もたまに通るからそこでも隠れてしまって、なんで車なんてものがあるんだろうとか思ってしまう。もう横断歩道に車道なんていらないだろう。

 

 そんなことを考えているとすぐに3分、とはいかず。

 まだまだ信号は赤いままだ。恨めしい。けど高まる。この気持が高まるのだ。

 

 ……仕事疲れだろうか。

 ふとくらりとしてしまった。

 

 待て。

 

 なんだ、あの男。

 彼女の隣のあの男は。車が横切ったときだろうか。

 超スピードとかチャチなもんじゃない何かで登場したあの男は。

 

 特徴を見る。

 顔はハットでよくわからない。カッコつけやがって。

 コートを着込んで杖なんかもついてる。いわゆるオシャレ爺か。

 

 彼女が隣の男に気付いた。

 傘がぴんと斜めに固定される。驚いて握りしめる手に力が入ったのだろうか。

 だから、彼女の顔がよく見えた。

 すごく、変な顔をしている。

 なんだか嬉しそうな、でも凄く驚いているような、ついでに色々気がついたような顔。

 

 積もった雪で声は減衰する。それでも聞こえた彼女の声は、

 

「おじさん」

 

 この一言だった。

 

 彼女が言っていたあのおじさんだ。

 僕が憎んでやまないあの男が、そこにいるのだ。

 対面したくなかった。

 この目で僕の恋敵を認めてしまうなど、あってはならないし、それもないと思っていた。

 あの野郎老いらくの恋か何かに目覚めてんじゃないだろうな。だから来たんじゃないだろうな。

 自分でも分かるほどに顔が引きつる。

 怒った顔だろうか。

 いや。これは単純にものすごい顔になってるんだろう。

 

 もはや今は彼の三分だ。僕と彼女のそれのはずだのに、彼の三分がここに現れた。

 それは、どうしようもない事実。

 

 ただ、思い知ってしまった。

 彼女がなぜこのイチャつきを認めたのか。あんなにもじもじして恥じらう可愛い姿を晒してまで、なぜこんな素敵なことを続けるのか。

 やはり、逢いたかったのだ。この男に。

 それが最早終わった恋であっても。

 彼女は、初めて慕った男を忘れてなどいなかったから。

 

 ●

 

 隣には、あの人がいた。

 車が通りすぎて雪を跳ねる音。

 それが終わると、もうそこにいた。

 

 また少し老けた、初めて恋して、愛したひとが。

 

「あ、ああ……また逢えたんだねぇ」

 

 ものすごく驚いているのに、ものすごく嬉しそうで、それで全て分かったって顔をしていた。

 何がわかったというのかは、わからないけれど。

 でも、すぐに私の好きな顔になった。

 

「おじさん」

 

 思わず声に出た。

 ああ、聞かれたな、と思った。赤い信号機の下で気をもむ馬鹿に。

 

 いつもどおりの流れで行くと、また3分。もう幾分待ったはずなのに3分。

 私とおじさんの時間が始まった。

 私の好きだった人との。

 

 そして、私はすべてが分かってしまった。

 この人が愛したのは私で、だからこんなに私に笑ってくれるのだと。

 私は愛してくれたこの人に見惚れて、愛してくれるどうしようもない馬鹿に惚れられて、愛してしまったのだ。

 

 どうして、とあの日の否の理由を問うことはしない。

 だって、私はこの人と歩いていけないから。

 この横断歩道を一緒に渡る人ではないからだ。

 最後の3分、それは私も彼も思い知った。

 24の彼を目の前にしている今、出会った時25と言った彼を目にしたあの日。

 それならばもはや、私の未来も自明だった。

 

「あ、ああ……そういうことなんだ……」

 

 震える。

 私の一寸先が見えて、この3分の先が知れて。

 無意識に手はお腹に。多分失われる大事なものに。

 目線はおじさんから外れて、ものすごい顔をした私のひとに。

 多分、私はいま。違ったものすごい顔をしている。

 

 でも、

 

「愛しています」

 

 フライングだ。青色になるまえにもう言われた。

 声は近い。隣だ。

 おじさんの口から、私のひとの声で。

 

「ねえ、おじさん、私は」

「いいや」

 

 私より年上の生意気なおじさんは、私の恐れをすぐに否定した。

 でも、理由がわからなかった。

 私のせいでこの人がこうなってしまったのに、この人は私のせいにならないと、そう言い切ったのだ。

 色々なことを、この人は遮った。

 

 私は死ぬの、私が死んだからこうなったんでしょう。

 私は、私はあなたに好きと言ってはいけなかったの。

 

「そうじゃないし、そうならない」

 

 愛してるの言葉より雄弁な、この人の未練。

 でも、この時を恨むよりも深く、愛があった。

 

「僕は、君を愛しているから」

 

 信号が、笛を鳴らした。

 彼が私を抱きしめて、だから一歩も動けなかった。

 

「あ、ああああ」

 

 さっきまでの絶望なんて頭にない。

 ただ単純に、やられた、と思った。よりにもよって私のひとの前で。

 おじさんの目を見れない、顔が逸れる。それであいつを見てしまった。

 

 笑っちゃうくらい恐ろしい形相で、笑えないくらいやっちまった感に襲われた。

 

 その時、青色が突然遮られた。

 

 トラック。目の前で、停止線をかるがる超えて横断歩道に車輪を乗せて止まっている。

 たまにあることだ。いつもなら、危ないなぁと気にしないことだ。

 でも、間違いなく今の私、いや一瞬前の私には致命的。

 

 私はきっとこれを避けられなかった。

 横断歩道は氷の凹凸で歩きづらい。

 身重の私ではとても機敏には動けない。

 ならば、これは。

 通りすがりの私の死神だったということだ。

 

 この人の、愛しているの意味を理解した。

 おじさんが、あの一瞬で何を分かったのかが、私にも伝わった。

 

 この人は、私を愛しているから、愛していたから、死ぬほど愛してしまったから。

 助けたくなってしまって、この人は自分の歩んだすべてを否定してまで、こうして私を引き留めた。

 

 この流れだと、おじさんは存在ごと消えてしまう。

 自分自身が歩んだ道を否定したから。

 報われない。苦しんだ時間すべてが無に帰る。

 

「愛しています」

 

 生きたことすべてが、この時のためだったと言い切って。

 そう、愛しているからと笑って、それだけでこの人には足りてしまうのだ。

 

「馬鹿」

「うん」

「本当に、あんた、馬鹿なんだね」

「よく知っている通りです」

「ひっぱたかせて」

 

 返事を聞かずに、右頬を殴った。

 高い音が雪に沈んだ町並みに埋もれていった。

 

「ありがとう」

 

 それだけ言って、私が一番好きな顔で、いなくなった。

 

 ●

 

 大泣きする彼女の上に、再び赤信号が灯る。

 あんなロマンスを魅せつけられてまた3分待たされる。

 しかもなんかあいついなくなるし。

 

 僕にも気がついてしまう。

 あの男の正体、彼女が僕を好きなわけ。

 僕は運命のマッチポンプで、彼女を好きなどうしようもない馬鹿。

 そういうことだった。

 

「ちくしょう、引き分けにしてやる」

 

 どうしても負けを認めたくないし、そもそも一人相撲だし。

 僕はそんな恨み節を一人つぶやいた。

 

「愛してる」

 

 声がする。

 横断歩道の向こう側から。

 天上の響きより麗しい声が。

 

「私は、あんたを愛してる!」

 

 ぐずぐずに泣きじゃくる彼女が、僕に叫ぶ。

 予定は狂ってない。僕も泣く。

 

「愛しています!僕は、あなたのすべてを愛しています!」

 

 全力で叫ぶ。もう全身全霊で、世界中に響き渡るくらい大声で。

 

 そのせいだろうか。

 信号が青色に変わった瞬間、体が急に傾いて倒れた。

 驚いた彼女が可愛くよちよち歩く姿が見えて

 

 ●

 

 例によって病室で目覚めると、彼女に右頬をつねられた。

 

 どうやら過労やらなんやらが祟って脳卒中だとか。ビンタは遠慮したらしい。せつない。

 僕はというと、すぐに彼女が助けてくれたので特に後遺症はない。

 とりあえず、今のところは。

 

「私だって、あんたを愛してるから」

 

 僕の愛するひとはそう言って、晴れ晴れとした顔でふくらんだお腹をさすった。

 

 そう、これは所謂一つのマーヴェラスってやつ。

 ハイになった僕の、傍迷惑なファンタジー。

 

 





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