東方有栖(アリス)伝   作:店頭価格

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おかしいな。
私の一月と二月と三月と四月は、何処……?

長らく感想返しと誤字報告の対応が出来ず、申し訳ない。

あと、今回主人公さんは不在です。


116・水曜速報! 草の根ネットワーク!

 地獄や地霊殿のある旧都とは異なる、地下世界の一つ。

 鬼が生まれ、鬼が暮らす、荒れ地ばかりの大地には、砂の混ざった乾いた風が流れている。

 そんな荒涼とした世界にて、小さな小さなあばら家の前でぼろ布をまとった小人族の老人が揉み手擦り手で接客をしていた。

 

「おうおう、待たされたかいがあるな。中々良い出来じゃねぇか」

「へへぇ。ありがとうございます」

 

 この地下世界の住人は、大半が鬼やそれに連なる種族だ。

 赤い肌に二つの角を持つ如何にもといった風貌の大男は、袖を通した黄金色をした豪華な装飾の服にご満悦の様子だ。

 小人族は、その小ささ故に細かい作業が得意だ。同じく、小ささ故に時間が掛かってしまうところが難点だが、鬼の着ている服は掛けた時間に見合うだけの精巧な意匠が施されていた。

 

「それで、報酬の件ですが」

「あぁ、ほらよ」

 

 老人に言われて、鬼は面倒臭そうに小袋を放り投げる。

 中に詰まっているのは、銅銭を模した鬼の世界の貨幣だ。

 普通に代金として支払う以外にも、鬼の妖気が注入されている為、ある種の燃料としても利用出来る優れものである。

 

「あ、あのぉ。大変申し上げ難いのですが、お願いしていた代金には達しておりません」

「あぁん? 俺様の支払いに、ケチ付けようってか」

「めめめ、滅相もない!」

 

 少し脅されただけで、小人の老人は顔を真っ青にしながら慌てて首を振る。

 小人は弱く、鬼は強い。今この瞬間鬼から足を振り下ろされるだけで、この老人はなす(すべ)なく潰されてしまう。

 

「大体、仕上がるまでに時間が掛かり過ぎなんだよ。俺様を待たせた分、こっちで報酬を値引きさせて貰ったぜ。ったく、本当ならこっちが慰謝料を貰いたいくらいだ」

「そんな……お客様への納期は、事前にお伝えしていたはずでございます。この代金では、その服の為に用意した材料の原価に消えてしまいます」

「俺様が知るかよ、そんな事。次の客にでも上乗せして請求するこったな」

「お、お客様お待ちを! お待ちを! あぁ……」

 

 だから、老人は大男に逆らえない。

 それが如何に理不尽で、滅茶苦茶で、道理に合わない一方的な都合であっても。

 強者は、何をやっても許される。

 弱者は、何をやられても耐えるしかない。

 強者が食い、弱者が食われる支配の構図こそが、この地下世界の絶対的正義なのだ。

 とはいえ、小人族とてただ黙って搾取されるだけではない。

 

「……ふん、行ったか。まったく、金払いの悪い奴は頭も悪くて困るわい」

 

 鬼が去った後、老人の態度と表情が豹変する。

 眉をしかめ、唇を尖らせ、聞かれれば殺されかねない文句を平然と口にする。

 

「あんな()()にこれだけの金を出すなど、愚か、愚か」

 

 鬼は嘘を嫌う。故に、嘘は吐けない。

 老人の言った、「服の為に材料を用意した」という部分は事実だ。ただ、用意した材料をあの鬼が受け取った服に使ったかどうかを教えていないだけ。

 安物の素材を()()()()()見せる(すべ)も、もう慣れたものだ。

 数は少ないが、金払いの良い上客も中には居る。そして、そんな金払いの良い客ほど目利きは優れている者が多い。

 今回仕入れた材料は、そんな目の肥えた鬼たちへと使われる事になるだろう。

 鬼を相手に商売をしているのは、客から得た貨幣に込められた妖気を、小槌の魔力へと変換し蓄積する為だ。

 しかし、折角貯めたその力は依頼品の素材や加工の為の道具を生み出す願いとして、消費されてしまう。

 今のような傲慢で我儘な客ばかりという事情もあり、長い年月を経た今でさえ小槌の魔力はほとんど溜まっていなかった。

 

「一体何時になったら、地上へ帰還が叶うのか……」

 

 小槌の魔力が枯渇した際、小人族は超過分の対価として「未来への可能性(運命)」を根こそぎ奪われた。

 「未来への可能性(運命)」を失った彼らに許されるのは、「今」のみすぼらしい弱者の生活を続ける事のみ。

 小槌からの束縛を逃れる為には、小槌の力で解放を願うしかない。

 一族郎党を救う願いへの対価は、生半可な魔力では到底足りないだろう。

 脅され、騙し、罵倒され、陰口を吐く。

 小槌の魔力を溜める為に、小槌を使わざるを得ないという、矛盾に満ちた日々。

 そんな惨めな暮らしを嘆く老人の問いに、答えるものは居ない。

 首を振って気分を改め、老人はあばら家に控えていた同胞たちを呼び寄せ、小人族にはいささか大き過ぎる小袋を数人掛かりで持ち上げ小屋の中へと運んで行く。

 小屋の中央にある階段から更に地下へと向かって行くと、そこにはお城を思わせる見事な作りの内装が姿を現す。

 床が上、天井が床。全てが逆さまの輝針城。

 地下深くへと埋もれてしまった小人族における罪の集大成にして、今なお続く欲望の具現。

 城の中では、それなりの数の小人族が身綺麗な格好で普通に生活をしている。

 階段を下って来た小人族たちも、入り口に置かれた布で身体を拭き普通の服へ着替えて城の中へと入って行く。

 

「お帰りなさいませ」

「うむ、夕餉の支度は?」

「すでに整っております」

 

 入り口に控えていた侍女へ、身体を拭いた布や着替えを渡して足早に奥へ奥へと足を進める。

 小人族も妖怪だ。本来であれば、食事は必要ない。

 だが、それでも彼らは頑なに「食事風景」を作る。

 どれだけ虚飾に塗れていようと、どれだけ欺瞞に満ちていようと、嘘だらけの光景を生み出す事に執念とすら言える情熱を注ぐ。

 

「何度見ても、お(ひい)様はお美しい限りでございますなぁ」

「しかり、しかり。あの美しさは、鬼共に見せればそれだけで(さら)われかねん」

「お(ひい)様は本日、蹴鞠をして戯れられたとか。誠に可愛らしい事で」

 

 膳に並べられた食事に舌鼓を打つ()()をしながら、全ての者たちが上座にて鎮座する一人の少女へと上品な口調で美辞麗句を繰り返す。

 少名針妙丸。

 未目麗しい少女へと、男子の名が付けられた理由は至極単純だった。

 醜いほどに単純で、哀しいほどに切実な理由――つまりは、()()だ。

 殿に仕え、姫を敬う。

 大事なのは、「誰に」ではなく「誰が」。彼らは、「主君へ従う自分たち」というその構図に酔いしれたいだけなのだ。

 ここに並べられた豪勢な料理の数々も、泥をこね、雑草を編み、色を付けて並べただけの偽物である。

 本物は、針妙丸の前に置かれた一つのみ。それすらも、安物の素材をそれらしく見せた見栄えだけの代物。

 仕える()()は、崇拝する()()は、一つで良い。

 だから、「姫であり殿である」針妙丸が一人居るだけで、こうして小人族は満たされる。

 げにおぞましきは、この矮小な者たちに掛けられ、長い年月を経て腐敗し果てた深い呪いだ。

 穏やかな生活、主君へ仕えた誇らしき日々。

 世代交代の果てに、当時を知る者が全て死に果ててなお、縋り続ける偽りの栄華。

 彼らに掛けられた甘い甘い毒の名は、人間たちから「郷愁」と名付けられていた。

 

「お(ひい)様」

「お(ひい)様」

「お(ひい)様」

 

 誰もが姫の名を口にしながら、誰一人として針妙丸を見ている者は居ない。

 誰もが姫を褒めながら、現実から目を逸らし彼方の過去を懐かしむ。

 此処は地獄だ。

 此処こそが地獄だ。

 本物の是非曲直庁(あの世)は彼方にあれど、此処ほどその名に相応しい場もそうはあるまい。

 地の底へと落とされた罪人たちが、我が身の救いを願いながらただひたすらに鬼たちからの責め苦を受け続ける。

 

「……」

 

 己の役目を理解しているのか、いないのか。

 針妙丸は、ただ無言で微笑みを浮かべ小人族たちが願う「理想の姫」として君臨し続ける。

 小物の中の大悪党が、籠の鳥である少女を(さら)い外へと連れ出す日は未だ訪れず、その予感さえも見当たらない。

 そんな、遠い遠い在りし日の出来事だった。

 

 

 

 

 

 

 幻想郷の歴史に残るであろう、大雨の災害が起こるより少し前。

 一人の青年が、霧の湖にて釣り竿を振るっていた。

 青年の名は、徳兵衛。人里から半日ほど歩いた場所にある、小さな村の住人だ。

 魚籠の中では、本日の釣果である何匹かの魚がびちびちと元気に跳ね回っている。

 遥か彼方に紅魔館の異様が見える今日の釣り場は、どうやら当たりだったらしい。

 

「おっ、おっ」

 

 ひと際大きく竿がしなり、握る両手へずっしりと大物の気配を伝えて来る。

 魚と人間の真剣勝負だ。唇を舌で濡らし、慎重に相手の出方を伺った青年は、再び大きく竿が引かれたタイミングで勢い良く両手を後ろへと引く。

 

「よいしょー!」

「いやーん、えっちー」

 

 釣り糸に引き摺られるようにして、わざとらしい声と仕草で水面から少女が飛び出して来た。

 釣り針を服に引っ掛けた上半身が人間、下半身が魚の姿をした人魚だ。

 肩ほどまで伸びた、深い青色の巻き髪。耳の位置には、魚のひれのようなものが付いている。

 

「こりゃー! まーたおめぇか、わかさぎ姫!」

 

 「また」と言っているように、何時もの事なのだろう。

 水中から現れた妖怪に驚くでも恐れるでもなく、怒鳴り声を上げる徳兵衛。

 そして、すいすいと寄って来た笑顔の人魚から手慣れた手付きで釣り針を外してやる。

 

「ったく。釣りの邪魔ばっかしやがって」

「だってぇ、退屈なんだもの。知り合いが遊びに来たら、一緒に遊びたいじゃない」

「おらの釣りは遊びじゃねぇって、何度も言ってんだろうがっ」

 

 笑ってばかりのわかさぎ姫に憮然と言い返し、徳兵衛は改めて釣りを再開する。

 

「私も何度も言ってるじゃない。お魚さんが欲しいんなら、私が幾らでも取って来てあげるわよ? だから、空いた時間で私と遊びましょ」

「……妖怪からの施しは受けねぇ」

 

 それは、人間として当然の警戒であり、同時に自身の身を守る為に語り継がれた村の掟でもある。

 人間の常識は、妖怪には通じない。

 逆に、妖怪の常識も人間には通じない。

 「魚を取って来てやったから、お前の命を寄こせ」というような理不尽な要求を、平然と言って来るのが妖怪だ。

 しかも、性質が悪い事に妖怪の場合悪意であろうと善意であろうと、人間にとっては致死となり得る場合がある。

 妖怪を相手に、警戒はし過ぎて足りるものではない。

 

「おめぇがそこでばしゃばしゃしてたら、魚が逃げちまうだろうが。ほれ、行った行った」

「えー」

「「えー」じゃねぇよ。遊びてぇんなら、今度暇な時に付き合ってやっから」

「本当!? じゃあじゃあ、その時は私のお家にご招待してあげるわね!」

「おめぇの家って、何処にあんだ?」

「この湖の底よ」

「……おめぇ、やっぱり妖怪だよ」

 

 ただ、普通に会話をしているだけでこれだ。

 もしも徳兵衛が何も聞かずに頷いていれば、彼はこの少女の()()によって湖の底へと引き摺り込まれ、そのまま帰らぬ人となっていただろう。

 

「おらたち人間は、水の中じゃ息が出来ねぇって毎回も教えてんだろうが」

「そうなの?」

「そうだよ」

 

 水中で呼吸が出来る事が常識であるわかさぎ姫は、出来ない者の理屈が理解出来ない。

 やはり、妖怪を相手にするのは何処に危険が潜んでいるか解らない。

 可愛らしく小首を傾げる殺人未遂人魚を半眼で睨みながら、男は深々と溜息を吐き出した。

 結局、その後も散々邪魔をされ以降の釣果が得られないまま、徳兵衛は自分の村へと戻って行く事になる。

 

「よう、おかえり」

「おう、ただいま」

 

 村に着くと、畑仕事をしていた村人の男と何時も通りの挨拶を交わす。

 釣った魚で今日食べ切れない分は、他の家を周って野菜等と物々交換に利用する。

 それでも魚が余った場合は保存用の干物にするのだが、生憎本日はお茶目な人魚の妨害によりそこまでの釣果は達成出来ていない。

 釣れた魚が多ければその日の食事が豪勢になり、少なければ質素になる。

 おけらの日と雨雪の激しい日には、干物をかじって糊口(ここう)をしのぐ。

 それが、釣りという趣味を生涯の友とした徳兵衛の日常だ。

 右脇に交換した幾つかの野菜を担ぎ、自分の家へと帰ろうとした青年の前に、二人の村の男が近寄って来る。

 

「おい、徳兵衛よ。今日はわかさぎ姫ちゃんに会えたんか?」

「おらは釣りに行ってるだけだ。あの妖怪娘に会いに行ってる訳じゃねぇよ」

「ばっかおめぇ。おらたちが行ってもほとんど会えねぇのに、おめぇが行ったら向こうから会いに来てくれるんだろ? 影狼ちゃんも」

「わかさぎ姫も影狼も、おらの釣りを邪魔して遊びたいだけだよ」

 

 話題に出て来た今泉影狼は、人狼の妖怪だ。

 わかさぎ姫の友人らしく、その関係で徳兵衛は何時の間にかその人狼とも知り合いになっていた。

 

「おめぇそれでも男か! あんな可愛い娘たちにちやほやされて、調子に乗ってんじゃねぇ!」

 

 同じ村に住みながら、美少女たちと知り合いになれない男たちには徳兵衛の平静な態度が不満らしい。

 

「いきなり怒鳴んな! あいつら妖怪だぞ!?」

「だからなんだってんだ! わかさぎ姫ちゃんのでっけえおっぱい最高だろうが!」

「はぁー!? そんなもん、影狼ちゃんが屈んだ時の突き出たお尻に敵うわきゃねぇだろ! 出直して来い!」

「やんのかこら!」

「表出ろ!」

「おめぇらうるせぇ! 喧嘩なら他所でやれ!」

 

 理不尽に絡んで来た挙句、目の前で勝手に争う男たちへ負けじと声を張り上げる徳兵衛。

 男三人。村の真ん中で騒いでいる姿は、住人たちから丸見えだ。

 

「こりゃー! おめぇら、村の中で何を騒いどるかー!」

「げ、村長来た」

「逃げろ逃げろ」

 

 杖を振り回しながら、村で一番偉い老人の怒鳴り声が響く。

 徳兵衛に絡んでいた男たちは、喧嘩を止めて向かって来る村長とは逆の方向へそそくさと逃げ去って行った。

 

「ったく、あの馬鹿共が」

「年なんだから、あんまかっかすんなって」

「ふんっ、余計なお世話じゃ。それよりも、徳兵衛よ――解っとるな」

「あぁ。妖怪からの施しは受けてねぇ。油断もしねぇ。村に招くつもりもねぇ。掟はちゃんと守ってるよ」

「……んなら良い」

 

 村の住人全員が、家族で、仲間で、同胞だ。

 小さな集落では、たった一人の過ちが簡単に全体の破滅を招く。

 妖怪と人間の関係に変化が訪れているとはいえ、どちらもそう簡単に変わるものではない。

 

「――で、どっちが本命なんじゃ?」

「村長……」

 

 それはそれとして、退屈な暮らしの中で娯楽に飢えているのは村長とて例外ではない。

 裏切りにも等しい下世話な質問に、徳兵衛は何も答えず肩を落とすだけだった。

 

 

 

 

 

 

 本日の徳兵衛の釣り見物には、わかさぎ姫の他に彼女へ会いに来ていた影狼も加わっていた。

 今日は釣れ行きが好調で、持って来た魚籠はすでに満杯になっている。

 その為、今彼が行っているのは単なる趣味の釣りになる。これから釣れる魚は、狼少女の胃袋へと収まる事になるだろう。

 釣れなくても良いという精神的余裕もあり、徳兵衛は邪魔者二人へ文句を言わず世間話に付き合っている。

 

「ねぇねぇ、影狼ちゃん、徳兵衛さん。「結婚」って知ってる?」

 

 そんな中、湖の中から上半身だけを出して岸辺に組んだ両腕と頭を置くわかさぎ姫が、唐突に変な事を言い出した。

 

「へ? 結婚?」

「知っとるけども、いきなりどうした?」

 

 相手の意図が解らず、呼ばれた二人は疑問符を浮かべて首を傾げる。

 

「湖の中に落ちてたつるつるの紙に書いてあったの。綺麗で真っ白な服を着た女の人も一緒に描かれてて、なんなのかなって」

「あぁ、なるほど。結婚っていうのはね――」

 

 陸地の事情に疎い人魚姫へ、竹林住まいの狼少女が得意顔で説明しだす。

 

「へぇー、変な風習ね。一緒に居たいなら、そうすれば良いだけじゃない」

「まぁ、一応区切りっつーか、節目っつーか、そんな意味でやるんだよ」

「ふーん。じゃあ徳兵衛さん、私と結婚してみる?」

「する訳ねぇだろ。おらは、まだ死にたくねぇ」

 

 知った言葉を使いたいだけだろう美少女からの誘いを、きっぱりと断る青年。

 村の掟で、妖怪を村へは連れて行けない。新居を建てる甲斐性もないため、もしもわかさぎ姫と結婚した場合徳兵衛の住居は相手側の住処になる。

 わかさぎ姫の住処は、この湖の底だ。つまり、徳兵衛にとっては結婚と溺死が同じ意味となってしまう。

 

「あ、じゃあ私とはどう? 私が狩りをして貴方が釣りをすれば、肉と魚が食べ放題になるわ」

「おめぇさんは、肉も魚も生で食う上に火が苦手だろ。おらは焼いて食いてぇ」

 

 影狼は特定の住所を持たず、迷いの竹林の中やその周辺で適当に野宿をしているらしい。

 彼女と結婚した場合は、住居と食事の問題により早々に風邪か食当たりで早死にするだろう。

 

「もー、徳兵衛さんったら我儘ばっかり」

「ったりめぇだ。結婚ってのはなぁ、「一生そいつと一緒に居ます」っていう一回限りの約束だぞ」

 

 現代社会より古い価値観が根付く幻想郷にて、結婚後の離婚や別居は余程の事情がなければ行われない。

 妖怪との結婚はその「余程の事」に含まれる気がするが、少なくとも徳兵衛にとって結婚とは「相手と共に暮らすもの」という認識が強いのだろう。

 

「相手がどんだけ美人の器量良しでも、一緒に居られねぇ理由が一個でもあるんなら、結婚なんてするもんじゃねぇよ」

 

 それはつまり、わかさぎ姫と影狼を「美人の器量良し」と認めているようなものだ。

 その上で、冗談半分の提案に対し自分なりの考えで真摯に返答している事も含め、彼の善性が出ていると言える。

 

「ふふっ。私、徳兵衛さんのそういうところ、好きよ」

「おらは、おめぇたちみたいなおっかねぇばけもんは嫌いだよ」

 

 笑う人魚に、顔をしかめる人間。

 妖怪が人間を襲い、人間が妖怪を退治する。

 その図式は、今もなんら変わっていない。

 しかし、スペルカード・ルールの普及によって妖怪からの脅威が減り、僅かずつながら二つの種族の関係は変わり始めている。

 人魚と狼少女と人間による奇妙な交流は、こうして何事もなく平穏無事に続いていくのだった。

 

 

 

 

 

 

 幻想郷の全土を襲った大雨は、当然徳兵衛の住む村にも容赦なく降り注いだ。

 一日二日程度であれば、悪態の一つも吐いて終わる出来事だっただろう。

 それが、三日、四日と続けば、小さな村への被害は取り返しの付かないものとなる。

 降りしきる雨風の中、収穫時期には早いものも含め畑に植えられていた野菜を可能な限り採取して村長の家へと運び込む。

 住人たちは自宅へとこもり、ただひたすらに祈り、念じ、恐怖しながら、この災害が終わるのを待ち続けた。

 徳兵衛も、己の家で釣り具の整備や水漏れしてくる壁の修繕等をして、ここ数日を過ごしている。

 先行きの見えない天の猛威を前に、不安の種は尽きない。

 

「――っ! ――っ!」

「あん?」

 

 そんな中、激しい雨音に紛れ何人かの叫び声が外から聞こえて来る。

 念の為、武器の代わりに先ほど修繕した鍬を持ち、雨に濡れながら声のする方向へと向かう。

 

「帰れ帰れ! 帰りやがれ!」

 

 そこには、村の入り口を守るように村長を含めた村の男たち数名が居り、黒い傘を差した何者かと対面していた。

 村では見た事がない風貌をした若い男だ。編み笠を被り、村の住人では逆立ちしても手に入らないだろう綺麗な着物を着て、腰には二振りの刀を差している。

 村長から親の仇の如く睨まれても、来訪者は大して気にした様子もなく雨音に負けぬ良く通る声で告げる。

 

「村長。お主が昔、人里で詐欺の被害に遭った事があるのは記録で読んだ。その点に関しては同情するが、今は村を束ねる責任者として判断を下していただきたい」

「うるせぇ! おめぇらなんざ信用出来るか! おととい来やがれ!」

「致し方なしか……」

 

 取り付く島もない村長の剣幕に、男は小さく溜息を吐く。

 そうして、彼の口から出た言葉は村の存続に関わるとても重要な内容だった。

 

「改めて告げる。此度の天災において、各村の救援を行う事が人里内の協議にて決まった。明日、改めて迎えの者がこの村へと訪れるだろう。その者の指示に従い、人里まで向かって欲しい」

「嘘吐け、この泥棒野郎! 上手い事言って騙そうったって、そうはいかねぇぞ!」

「断るというなら好きにせよ。こちらも命懸けなのだ、従わぬ者を無理に連れ行くほどの余裕ない――後はそちら次第だ」

 

 語り終えた男は、踵を返し人里の方角へと去って行く。

 

「そ、村長……ほんとに良いのかよ」

「はっ、馬鹿馬鹿しい! 洪水で他の村が流されたなんざ、ある訳ねぇだろ! どうせ嘘っぱちだ!」

 

 村長と男の去った場所を交互に見ながらおろおろとする男周に、村長が怒りに任せて大声で怒鳴る。

 小さな村は身内での結束が強い分、排他的になりがちだ。

 程度の差はあれ、余所者が信用出来ないという認識は共通している。故に、村人たちは村長に何も言えず黙ってしまう。

 そんな中、それでも動いた者が居た。徳兵衛だ。

 

「あ、おいっ」

 

 手に持つ鍬を捨て、誰かの制止の声も無視して人里から来たのだろう男を追って駆け出す。

 雨に濡れるのも構わず走り続けた為、それほど時間を掛けず男の背はすぐに見つかった。

 

「お侍様! お侍様! 待って下せぇ!」

 

 徳兵衛の声に気が付き、男は足を止めて振り返る。

 

「私は別に、侍ではないのだが……まぁ良い。何用かな」

「こんなに止まねぇ雨はぜってぇ変だ。お侍様は、この大雨がなんで起こってんのか知ってんのか?」

「いや、人里でもこの異常気象は「異常である」という事しか判明しておらん」

 

 人間の集落の中で、最大の規模と最高峰の技術を持つ人里ですら、その全容が把握出来ない災厄。

 実際に妖怪や神が跋扈(ばっこ)する幻想郷において、こうした人智を超えた現象は発生し得る。

 大事なのは、その摩訶不思議な数々の現象の中で如何に「生き残る為の判断」が出来るかだ。

 

「……村長の事はおらが謝る! だからお願げぇだ、おらの村を見捨てねぇでくれ!」

 

 ぬかるんだ地面に膝を付け、徳兵衛は泥塗れになるのを構わずに深々と頭を下げる。

 必死の懇願に、人里からの来訪者は少しだけ困ったような表情をしながら語った。

 

「申し訳ないが、私はただの先触れに過ぎない。お主たちを救う力も、権限もないのだ」

「……」

「先ほど言ったように、人里への誘導は別の者が担当する。生き延びたくば、明日お主の村へ訪れる者を追い返さぬ事だ」

 

 徳兵衛からの返事は求めず、頭を下げ続ける彼へと自身の手に持つ傘を被せるように置いた男は、被った編み笠だけを頼りに服を濡らしながら足早にその場を立ち去って行った。

 傘と共に残された徳兵衛は、大急ぎで村へととんぼ返りする。

 そこには、未だに村の入り口で集まり続ける村長たちの姿があった。

 

「徳兵衛おめぇ、何勝手に――っ」

「おめぇら! 村長ふん縛れ!」

「なっ!?」

 

 村長からの追及よりも先に、徳兵衛が周囲の村人たちを扇動する。

 興奮して喚き散らす村長が居ては、話し合いすらままならない。

 

「今の村長がまともじゃねぇのは、見りゃわかんだろ! このままじゃ、ほんとに皆死んじまうぞ!」

 

 その気迫に戸惑いながら、村長と徳兵衛を交互に見た村人たちは、全員で村長を押さえに掛かる。

 

「わ、わりぃな。村長」

「すまねぇっ」

「お、お主ら、なんのつもりじゃ!? この罰当たり共が……もがもがっ」

 

 数人掛かりで村長を拘束し、猿ぐつわを噛ませて村長の自宅へと運ぶ。

 その途中で、手の空いた者たちで村を周り各家の代表を同じく村長の家へと集わせる。

 村一番の広さを持つ部屋も、十人近くが集まるにはいささか小さい。

 互いの肩が触れ合うほどのすし詰め状態で、今後の方針について意見を交わし合う。

 

「徳兵衛よ、余所者の言ってる事なんて信用出来んのか?」

「おらだって、別に頭っから信じてる訳じゃねぇ。だがよ、どの道畑はもう全滅だ。このままじゃ、まともに冬は越せねぇ」

 

 対価の要求もなく突然手を差し伸べられれば、不信に思うのは当然だ。

 だからといって、疑うばかりでその救いの手を払い退けてしまえば、待っているのは破滅だけだ。

 

「そりゃあ、そうだが……そんな簡単に、村を捨てろってのかよ」

「だったら、村に残りてぇ奴は残る。避難してぇ奴は避難する。それで良いだろ」

「「……」」

 

 徳兵衛の言い分に、他の村の者たちが眉を寄せ無言になる。

 

「この大雨が、何時終わるか解らねぇ。あのお侍様も、悪い奴には思えねぇ。だったらおらは、あのお侍様に賭ける」

 

 耳が痛いほどの雨音が、屋根を激しく鳴らし続けている。しかも、床下では徐々に浸水まで始まっていた。

 村の中でも一番立派で頑丈な村長の家で、この状況だ。数日後――或いは、他の家では明日の安全すらも危ういかもしれない。

 

「ま、まぁ、折角助けてくれるっつぅんだ。おらたちを騙すつもりなら、もっと自分が安全な時にやるだろうしな」

「そうだな。最悪でも男集が暴れれば、女とガキだけは逃がせるだろ」

 

 こうして話し合う間にも、大雨の被害と脅威は増し続けているのだ。

 周囲に目配せをしながら、自分へと言い聞かせるように男たちが語る。

 全体の意見は、避難を肯定する方向へと動いていた。

 

「……はぁっ」

 

 そんな中、徳兵衛はうつむくように顔を隠し小さく溜息を吐く。

 村を捨て、人だけを生かす苦渋の決断。

 誰も、そんな重大な決定の責任など負いたくないと思うのが普通だ。

 本来、それは村長が負うべきものだ。だが、今の村長が使い物にならない以上、誰かが代わりに意見を出して皆をまとめる必要があった。

 

「柄じゃあねぇんだがなぁ……」

 

 誰だって、死にたくはない。

 そして、大切な隣人が死ぬ姿を見たくもない。

 村を愛する一人の住人として、釣り好きの青年は皆が生き延びられるよう願いながら、両手を強く握りしめた。

 

 

 

 

 

 

 翌朝。

 雨は相変わらず土砂降りのまま、衰えるどころか更に勢いを増していた。

 直ぐに移動出来るよう村の入り口で固まっていた人間たちの元へ、案内役の少女たちが空より飛来する。

 

「妖精?」

 

 現れたのは、背中に羽を生やす複数の妖精だった。

 大きな葉っぱを傘の代わりに持った七、八人程の小さな少女たちが、村人たちの少し前の上空に浮かんでいる。

 

「応さ! あたいたちがひなんゆーどー係りだよ!」

 

 その中でも、珍しい氷の羽を生やした水色の妖精が胸を大きく逸らしながら自信満々に鼻息を鳴らす。

 

「妖精が誘導って……大丈夫なのかよ」

 

 妖精の悪戯好きは有名だ。しかも、無垢で純粋な上に本人たちは死んでも「一回休み」になるだけなので、その悪戯には限度がない。

 崖から突き落としたり、毒胞子漂う魔法の森へ迷い込ませたりといった普通の人間であれば死ぬしかない「悪戯」を、平気な顔で仕掛けて来る厄介な種族なのだ。

 ただでさえ、大雨の中での移動は危険だというのに、妖精に先導を任せるなど不安になって当然だ。

 

「最強のあたいが来たからには、泥船に乗ったつもりでいなさい!」

「チルノちゃん、それって大船? ――あれ? でも、それであってるのかな?」

 

 氷の妖精の後ろで、緑髪の妖精が訂正しようとして首を捻っている。

 そして、緑の妖精はそのまま村人たちへと進み出て頭を下げた。

 

「初めまして、人間さんたち。周辺にある複数の村の人たちを一緒に避難させる為に、集合地点で早苗さん――案内役の人が待っています。そこまでは私たちが誘導しますから、少しの間ですがよろしくお願いしますね」

「お、おう」

 

 礼儀正しい妖精など、聞いた事がない。

 しかし、そんな聞いた事もない存在が目の前に居る現実に、徳兵衛は思わずひるみながらどもってしまう。

 

「あ、悪戯の心配はしなくて大丈夫ですよ。貴方たちを集合地点まで連れて行く事と、その間は悪戯をしない事が、報酬を貰える条件ですから」

「ふふーん! アリスの作ったお菓子食べ放題よ! 羨ましいでしょ!」

 

 強気で元気な氷の娘と、穏やかで理知的な緑の娘。どうやら、この二人が代表役なのだろう。

 少なくとも、二人の言葉からは普通の妖精とは違った雰囲気を感じる事が出来る。

 命を懸ける報酬が随分と安い気がするが、前述の通り「一回休み」になるだけの妖精であれば、対価として釣り合いが取れているのかもしれない。

 

「よろしくお(ねげ)ぇしやす」

「はい。一緒に頑張りましょうね」

 

 助けてくれる相手だ。徳兵衛も村人たちから一歩進み出て、深々と頭を下げた。

 緑の少女は、彼の協力的な態度に安堵した様子でにっこりと笑う。

 

「お、おい、徳兵衛よ。ほんとに妖精なんかに付いて行くのかよ……」

「文句があんなら残れよ。こっから先は、全部命懸けだ。途中で喚かれても、見捨てるしか出来ねぇぞ」

 

 今更及び腰で裾を引いて来る男へ、徳兵衛は素っ気ない態度と視線を送りさっさと妖精たちへと共に足を進め始める。

 

「ま、待ってくれよっ。おわっ」

「あっ――大丈夫ですか?」

「あ、あんがと」

 

 慌てて追い縋ろうとして、ぬかるんだ地面に転びそうになった男の手を、緑の妖精がさっと掴み踏み止まらせる。

 

「安心して下さい。皆、ちゃんと連れて行きますから。ね?」

「ふ、ふひっ。わ、解ったよ」

 

 妖精も、人外だけあって皆が容姿端麗だ。至近距離から美少女に微笑み掛けられ、男は変な声を出しながら逃げるように徳兵衛の近くへと向かう。

 

「うん、まぁ、妖精ってだけで変に疑うのも悪いよな」

「おめぇは……」

 

 村人の華麗なる手の平返しに、徳兵衛はなんとも言えない表情で呆れを含んだ溜息を吐いた。

 

「老人や子供は、大人の人が一緒に付いてあげて下さい。歩けなくなった人は、誰かが背負った後ろから私たち妖精が支えます。チルノちゃんたちは、疲れている人を見掛けたら助けてあげてね」

「「「はーいっ」」」

 

 妖精たちの中で、あの緑の娘は飛び抜けて優秀だった。

 人間と妖精の双方に的確な指示を出しながら、大雨の中を警戒しつつ進んで行く。

 先頭は氷の妖精に任せ、遅れている村人は居ないか、周囲に危険はないか、何度もしっかりと確認しながら慎重に全体を目的地へと誘導している。

 しかし、比較的安全に行われていた避難の途中で、思わぬ事態に陥ってしまう。

 

「は、橋が……っ」

 

 元々小川だった場所は、この雨の影響で大河へと変貌していた。

 当然、そこに設置されていた使い古しの小さな橋など、規模と勢いを増した濁流に耐えられるはずもなく流された後だ。

 こんな大荒れの川を無理に渡ろうとするなど、自殺行為でしかない。

 しかし、複数の妖精たちで一人ずつ運ぶのは彼女たちの体力が持たない。

 

「あたいがこんな川、全部凍らせてやるわ!」

「ぜ、全部を凍らせるのは無理だよ、チルノちゃん」

「大丈夫! あたい最強だから!」

「それに、もし凍らせる事が出来たとしても今度は此処で水の流れが堰き止められちゃう」

「……良く解んないけど、なんだか大変そうなのは解った!」

「うん。解ってくれてありがとう、チルノちゃん」

 

 混乱するだけの村人や他の妖精たちとは違い、緑の妖精は氷の妖精をなだめつつ口元に手を添えしばらく思考に耽る。

 

「……下流へ進んで、渡れそうな流れの場所か他の道を探すしかない、かな――皆さん、こっちです」

「お、お前! いい加減な事言ってんじゃねぇだろうな!」

「え?」

 

 再び誘導を開始しようとした緑の妖精向けて、先ほどとは違う男が怒鳴った。

 

「それでほんとに、おらたちは助かるのかよ!?」

「あ、えと……」

「なんとか言ったらどうだ!」

「大ちゃんを虐めるな!」

「ひぇっ」

 

 そのまま掴み掛りそうな剣幕で迫る男へ、氷の妖精が手の平の弾幕を見せ付けながら二人の間に割って入った。

 

「襲って来やがった……っ! や、やっぱり、こんな妖精なんてもんを信じたおらたちが馬鹿だったんだ!」

 

 自分から襲い掛かっておいて、余りな物言いだ。

 だが、極限状態での不信は一気に村人たちへと伝播していく。

 

「そ、そうだそうだ! こっからは、妖精を無視しておらたちだけで逃げた方が良い!」

「大体、妖精なんてもんが、まともに道案内なんて出来る訳がねぇんだ!」

「なんだとぉっ! やるかぁっ!」

「チルノちゃん、止めて! 暴力は駄目だよ!」

 

 感情に任せて、妖精たちを排除しようとする村人たち。

 受けて立つと気炎を上げる氷の妖精。

 仲間の反撃をいさめる緑の妖精。

 皆が皆、好き勝手に動けばそれこそ全滅だ。

 特に、村から随分と離れた今、導き手である妖精たちを追い払ってしまえば村人たちは戻るべき道も進むべき道も解らなくなってしまう。

 そんな簡単な未来すら予想出来ず、自身の不安を妖精たちに押し付ける村人たちの中で――ただ一人、釣り好きの青年だけは違った。

 

「いい加減にしやがれえぇぇぇっ!」

「「っ!?」」

 

 周囲の声や大雨の音に勝る絶叫に近い大声を上げ、村人や妖精たちの視線を自身へと向けさせる徳兵衛。

 

「決め事一つ守れねぇのか! この馬鹿野郎が! 文句言うなら付いて来んなって、最初(はな)っからずっと言ってただろうが!」

「で、でも、そいつが……」

「だったらてめぇは、あの娘が言った以外で向こう岸に渡る方法があるってんのか! あぁっ!?」

「い、いや、ねぇけど……」

「ねぇんなら黙っとけ! あの娘は、おらたちを助ける為に頑張って知恵を絞ってくれてんだぞ! 下んねぇ文句言う元気があるんなら、村長か他の爺婆でも背負ってろ!」

「……ちっ」

 

 徳兵衛の剣幕に負け、男たちは舌打ちしながらすごすごと村人たちの中へと身を隠す。

 

「あの、出発の時といい、何度もありがとうございます」

 

 怯えた様子の村人たちを睨み、鼻息を鳴らす徳兵衛の元へ緑の妖精が降り立ち頭を下げた。

 優しい娘だ。不安を押し付ける槍玉として理不尽に責められたというのに、やや困ったような表情で笑っている。

 

「お礼を言うのは、おらたちの方だ。それに、助けて貰ってる恩人に文句を言うなんざ、まともな人間がして良い事じゃねぇ……本当に、申し訳ねぇ」

「良いんです。悪戯ばかりの妖精が信用出来ないのは当然ですし、この大雨で不安になるのも当然です」

「あんた……」

「さっきのは、そんな色々がたまたま悪い方向に向かってしまっただけだって解ってます。だから、頭を上げて下さい」

 

 この娘は、本当に妖精なのだろうか。

 気遣うように微笑む少女の知性と寛容さは、普通の妖精とは余りに掛け離れている。

 だが、その疑問を徳兵衛が口にする事はなかった。

 

「徳兵衛! あぶねぇっ!」

「え――っ?」

 

 村人の注意も虚しく、突如発生した大波が徳兵衛と緑の妖精が居た場所を一気に押し流す。

 

「人間さん!」

 

 空を飛んで逃げられたはずの妖精は、徳兵衛の頭部を抱きかかえるように自身の身体で包み、諸共に波の中へと引き摺り込まれた。

 水中でもがこうにも、全方位から滅茶苦茶な勢いで襲い来る水圧に人間如きの抵抗など無意味だ。

 このままでは、徳兵衛も妖精も生きて陸地へ上がる事は出来ないだろう。

 溺れて果てるか、木石や水底に叩き付けられて潰れるか。

 

『あらあら、徳兵衛さんじゃない』

 

 そんな、絶望しかない状況に、まるで似合わないのん気な声が水中で響く。

 聞き間違えでなければ、それは霧の湖から出る事が出来ないはずの淡水の人魚である、わかさぎ姫のものだった。

 しかも、理屈は解らないが彼女の周囲のみ、水流が停止しているかのように緩やかになっているらしく、泥水の激流をものともせずに徳兵衛たちを抱きかかえる。

 だが、それで助かったと見做すのは早計だ。

 

『この大雨で湖が溢れて、色々な場所に行けるようになったのは嬉しかったけれど、誰も水辺の近くに居なくて退屈だったの』

 

 地上の人間たちにとっては大災害でも、水中に暮らすわかさぎ姫にとっては普段とは少し違った日常でしかないようだ。

 しかし、こんな水害の中大した目的もなく川へ近づこうする者など居るはずがない。

 

『徳兵衛さんに会えて良かったわ。それじゃあ、地上は危ないみたいだから私のお家でお喋りでもしましょうか』

「……っ」

 

 人間は、人魚とは違い水の中で呼吸は出来ないし、会話も出来ない。

 しかし、今正に水の中に居る徳兵衛には、それを伝える為の言葉を紡ぐ事が出来ない。

 村の掟は、何も間違ってなどいなかった。

 妖怪から、施しを受けてはならない。

 それは、相手からの何気ない善意すらも該当する。

 

「……っ」

 

 死の恐怖から逃れようと、必死に藻掻く徳兵衛。

 そんな虚しい人間の抵抗を妖怪の腕力で捻じ伏せ、更に強く抱き寄せた人魚が彼の耳元で囁く。

 

『なーんちゃってー』

 

 最高の悪戯が成功したと楽しそうにくすくすと笑いながら、わかさぎ姫は安心させるように徳兵衛の背中を優しく撫でる。

 

『人間は、水の中で息が出来ないのよね。貴方が教えてくれた事、ちゃあんと覚えているわ』

 

 彼女は、人間の理屈が理解出来なかったのではない。

 ただ、友達である徳兵衛をからかいたくて解らない振りをしていただけなのだ。

 

『じっとしていて。貴方たちが居た陸地まで運んであげる』

 

 最早、抵抗をする必要はなくなった。

 されるがまま、人間と妖精が人魚姫によって水上へと運ばれて行く。

 

 開海 『海が割れる日』――

 

『あら、あらあらあらー』

 

 その途中で、わかさぎ姫が戸惑いの声を上げる。

 次の瞬間、彼女たちの居た水中が大きくうねり、まるで噴火したかの如く轟音を立てて真上へと吹き上がった。

 

「あーれー」

 

 水中から空中へと放り出され、空を飛べないわかさぎ姫が再び川の中へと落ちて行く。

 

「げほっ、げほっ。人間さん、大丈夫ですか!?」

「あ、あぁ、大丈夫だ」

 

 同じく宙を舞った緑の妖精は、落下していく徳兵衛の服を掴み、ずぶ濡れになった背中の羽を必死に羽ばたかせて下降を開始する。

 

「皆さん、もうご安心を!」

 

 一直線に断ち割られた川の対岸立ち、お祓い棒を真上へと掲げて自身満々にポーズを取る少女が一人。

 

「私が! 来ましたぁっ!」

 

 残されていた村人や妖精たちは、やって来た救世主である風祝(かぜはふり)の東風谷早苗――ではなく、その遥か上へと視線向けていた。

 川を裂いた奇跡の一撃は、同時に空中の曇天にすら切り込みを入れている。

 その雲の切れ間から降り注ぐ光を浴び、濡れた羽をきらきらと反射させながら一人の人間を抱えて飛ぶ緑の妖精。

 人を助け、救い、導いてくれたかの少女の健気さを象徴するように、最早絵画すらに匹敵するその光景はただひたすらに美しく、村人も妖精も言葉を忘れて見惚れていた。

 こうして、小さな村の避難劇は誰一人犠牲を出す事なく、人里に到着するまで続くのだった。

 

 

 

 

 

 

 十日を掛けて振り続けた大雨がようやく止まり、命蓮寺へと避難していた村人たちは、念の為更に数日を開けてから村へと戻った。

 そこにあったのは、無残にも流されただの廃材と化した家々と――その代わりとして建てられた、真新しい家々だった。

 此度の大災害に対する特例措置として、各地へと派遣された土蜘蛛や鬼等の優秀な建築技術を持つ妖怪たちがほぼ一日で全ての建物の再建築を行ったのだ。

 元の家の設計図など存在するはずもない為、当然被災前の村とは家の位置が違ったり内装が違ったりと相違点は幾つもある。

 しかも、家だけあっても畑は全滅しており、場所を決めて耕す所から始めなければならない。

 予想される各集落の食糧難に対し、生産が一定の軌道に乗るまでの間は人里が備蓄を放出し面倒を見る事になっている。

 今回の大雨で人里も少なくない被害を受けているが、元々かなり前から農業の近代化を推し進めている関係で収穫量は常に右肩上がりの状態だった。

 備蓄にもかなり余裕がある為、各集落向けに放出しても最低一年は持つというのが人里内での結論だ。

 当然、これは各集落が何時か返さなければならない「貸し」として抱えていく事になる、大きな負債だ。

 持ちつ持たれつ。大変な時にこそ、皆で助け合えるのが人間という種族である。

 

「よぉ、徳兵衛よ。また釣りか」

「おう。今日村でやる仕事は終わったからな」

 

 しばらく村の手伝いばかりをしていた徳兵衛は、久々に趣味の釣りが許可された事で上機嫌だ。

 

「おめぇも飽きねぇなぁ」

「こればっかりは止められねぇよ」

 

 再出発となったこの村では、今回の大雨を契機に一つの風習が追加された。

 それは、村人たちが協力し新たに建てた小さな(ほこら)へのお祈りだった。

 観音開きとなっている木製の(ほこら)の中には、あの時村人たちを助けてくれた緑の妖精を象った木彫りの像が鎮座している。

 

「あのお嬢ちゃん、何もんだったんだろうな」

 

 お祈りを終えた徳兵衛に、村の男が問い掛ける。

 結局、集合地点で人数が増えた後もあの緑髪の少女を含む妖精たちは案内役を続けてくれた。

 時に励まし、時に背を押し、時に降り掛かる雨風から守ってくれた。

 正直、あの娘が居なければ幾人かの老人や子供は人里へ辿り着く前に力尽きていたかもしれない。

 

「そんなもん、決まってんだろ」

 

 釣り道具を背負い直し、徳兵衛は何処か遠くを眺めている。

 妖精にしては賢過ぎる。

 妖怪にしては優し過ぎる。

 ならば、もう答えは決まっているではないか。

 

「ありゃあ、神様だよ」

 

 人を助け、人を導き、人へと希望を与える、人とは異なる超常なる存在。

 この村の住人たちにとって、彼女は正しく「神」だった。

 故に、これから先もあの時の感謝を忘れぬよう、こうして彼女を称える(ほこら)を作った。

 この村が滅びるまで、彼女への信仰は続いて行く事だろう。

 村を離れ、何時もの釣り場である霧の湖に到着した徳兵衛は、早速釣り糸を垂らして獲物を待つ。

 しかし、彼にとっての至福の時間は長く続かなかった。

 

「よいしょー!」

「いやーん、えっちー」

「こりゃー! まーたおめぇか、わかさぎ姫!」

 

 何時もの時間、何時ものやり取り、何時もの風景。

 変わるものもあれば、変わらぬものもある。

 ただの人間である青年と、湖に住むお茶目な人魚の関係は、きっとこれからも変わる事なく続いていくのだろう。

 幻想郷という閉ざされた楽園の中で、今日もまた変わり映えのない平和な一日が始まろうとしていた。

 




蛇足①:村人たちからの信仰により、大ちゃん後光を獲得するの巻。

ぺかー(効果音)
大「な、何これぇ。チ、チルノちゃん助け――」
チ「うおぉっ! 大ちゃんすっげー!」
他「大ちゃんすっげー!」
大「ふえぇ……」

蛇足②:一方その頃、是非曲直庁にて。

大雨によって急増した死者への対応の為、書類地獄と化した閻魔の執務室。
映「ただでさえ不安定な立場にあるあの妖精に信仰を与えるなど、なんと罪深い……(ビキビキッ)」
小「映姫様、なんかめちゃんこキレ散らかしてて草。近寄らんとこ」
映「小町! またサボっていますね! こっちに来なさい!」
小「おうふ(白目)」

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