急な来客が去り、一人となった部屋でしばらく呆然としていた。
早く街を出る準備を済ませなければならないのに、どうしても動く気になれない。
──こうなったのは、きっと彼女の言葉のせいだ。
バラライカさんが最後に放った一言に自分でも驚くほど動揺していた。
なぜ彼女はあんなことを言ったのか。
まさか、私の気が変わると本当に思っているのか。
例えそうだとしても、わざわざ言わなくてもよかったのではないのか。
……いや、考えるのはよそう。考えたって彼女の真意が分かる訳でも、私の行動が変わる訳でもない。
意味もなく思案したところで無駄なのだから。
中で渦巻く混乱を振り払うように頭を振り、ベッドから腰を上げる。
今度こそ着替えようと手を動かそうとした途端、ふいにジャスミンの花が目の端に映る。
──何度断っても押し付けられた彼からの贈り物。
花瓶に丁寧に生けられた花を見ると、嫌でもあの人とのやり取りを思い出してしまう。
白いバラを気障なセリフと共に渡してくれたこと。
紫のカーネーションを「ついでだ」と微笑みながら持ってきたこと。
桔梗を社長室に飾ったと楽し気に話していたこと。
今でも褪せることなく色づいた記憶。
忘れたくても忘れられない、彼とのひと時。
花を見る度に思い出される彼の顔は楽しそうで。
普段晒さない素顔で笑うあの人はどこか可愛げがあって──隙がない雰囲気を醸し出しているいつもの姿とはまた違っていた。
微笑ましい記憶のはずなのに、思い出すだけで胸の中を針で刺されたような痛みに襲われる。
全く、花を見るだけでこのザマだ。
何故こんなに乱されるのか、自分でも分からない。
彼に挨拶する前に、なんとしてもこの気持ちを割り切らなければ。
瞼をきつく閉じ、深くため息を吐く。
花瓶からジャスミンを取り出し、近くにあるごみ箱に捨てようと足早に向かう。
後は手を離すだけ。
それなのに──手が震え始め、動かせない。
今までは捨てられないとしても、こんなに手が震えることはなかった。
最後だからなのか、それとも別の何かのせいなのか。
何であれ、早く捨てなくては。
彼への思いも、望みも……全部捨てなきゃいけない。
だが、手放そうとすると時が止まったかのように動けなくなる。
鼓動が早くなり、息苦しさが襲い呼吸が段々荒くなっていく。
眉根を寄せ、息を整えようと思い切り息を吸う。
それでも収まることはなく、心なしか耳鳴りまでしてくる始末。
落ち着かなくては、と目を瞑りゆっくり呼吸することを意識する。
「捨てるのか」
耳鳴りが響く中、鮮明に届いた低い声音に息が止まる。
その声に、ようやく後ろに人がいることに気が付いた。
一体いつの間に来ていたのだろうか。
どうやら物音一つ聞こえないほど動揺していたらしい。
未だ鳴りやまぬ鼓動に心臓が痛くなるような感覚を抱き、落ち着かせるように静かに息を吐く。
それでもどんな顔をすればいいのか分からず、振り向けなかった。
反応を見せないことに痺れを切らしたのか、ドアが閉まる音の後すぐさま足音が近づいてくる。
すぐ後ろで彼の気配を感じた途端、避けるかのように足が自然と動いていた。
「後片付けをしてただけです」
花を手にしたまま窓際まで移動し、体の震えを悟られないよう声だけは冷静にと意識する。
早口になってしまったが、大して気になるほどではないだろう。
ふと、目の前の窓に彼の姿がうっすら映り込んだのが目に入る。
窓越しに一瞬だけ目にした彼は、いつものように私が仕立てたであろうロングコートとスーツに身を包み、白いストールを首に下げていた。
……そういえば、ロングコートが傷み始めていたから新しいのを仕立てようかと彼に言っていたことを思い出す。
──もう、それは二度と叶わないが。
「考えは変わらねえか」
「ええ」
動揺を悟られないよう、淡々とした声音での問いに間を空けることなく返せば、彼は「はっ」と笑う。
「頑固だな」
「貴方こそ。……花はいらないって、何度もお伝えしたはずですよ」
「そうだったのか? 俺は聞いてねえが。あいつらが伝え忘れたのかもな」
「嘘つきですね」
「お前に言われたくねえな」
「は?」
背中越しに飛んできた言葉に、思わず振り返る。
目の前の彼の顔には、トレードマークであるサングラスはなかった。
久々に見る素顔は感情を一切感じさせない。
怒っているのか、それとも面倒だと思っているのか、露わになっている昏い瞳はこちらをじっと見据えている。
「俺はお前ほど自分に嘘はついてない」
「……何を、言ってるんですか」
「事実だろ? ──素直に俺に縋ればいいものを、お前はあーだこーだ理由をつけて逃げようとしやがる」
放たれた言葉に眉間に皺が寄る。
一体、彼は何を言っているのだろうか。
「逃げるのも、冗談だと流すのもまあいい。だが、俺がこのままみすみす逃すと本気で思ってる。それが気に入らねえ」
「……洋裁屋でも何でもない、無価値な女に拘る理由が貴方にあると」
「じゃあ今のお前はなんだ。ただのキキョウか。それとも、リオ・キサラギか?」
彼の口から自分の本名が出たことに目を見開く。
だがすぐさまこの人も知っていたことだと思い出し、放たれた問いの答えを考える。
「…………どう、でしょうね」
ぽつりと呟き、彼へ再び背を向けた。
「自分でもよく分かりません。どちらでもないのかも、しれませんね」
そう言っている窓に映った自分の顔はやつれているように見えた。
幻肢痛のせいで夜も満足に寝れなかった上に、用意してくれた食事をよく残してしまったせいだろうか。
改めて見ると本当に酷い顔だと自嘲する。
「どちらでもない、か。なら俺は、今目の前にいるお前をこの街で生きてきたただのキキョウとして扱おう」
「……」
今の自分は洋裁屋キキョウではない。
洋裁屋でなくなった瞬間、この街の私は死んだのだ。
なのに、彼はまだ私を……キキョウを生きている者として見ている。
その態度が、胸の中の重りを増やしていく。
「だから俺も、
告げられた一言の意味がすぐには理解できず、戸惑いながら彼に顔を向けた。
彼が真剣な表情をしているせいか、少しばかり空気が張り詰める。
「以前言ったな。俺の隣にはお前がふさわしいと」
「……」
「それは撤回しよう」
端的に発せられ目を見開くのと同時に、時が止まったかのような感覚に襲われる。
呼吸の仕方を忘れた私に、彼は容赦なく言葉を続ける。
「今のお前は一人じゃ生きていくにはそれなりに苦労する。傍に置いて荷物になるのは確かだ」
「……」
「俺はお前がいなくても、生きていけない訳じゃない」
放たれた一言に胸が詰まる。
事実だと分かっているのに、どうしてこんなにも締め付けられるのか。
怒りなんて湧くはずもなく、突きつけられる現実に少しだけ俯く。
「だが」
低く、固い声音がはっきりと耳に響く。
何を言われるのか見当もつかず、花を握りしめる手が再び震える。
「お前のいない人生を送るのはごめんだ」
…………。
……今、この人は何と言ったのだろうか。
理解しようとすることもできず、すぐさま顔を上げる。
「俺はただ、お前の傍にいたい」
言っていることが理解できない。
どうして、そんなことを言うのか。
こんな何もない、何の価値もない女の傍にいたいなんて、一体何の冗談だ。
「洋裁屋でもなんでもない、ただのキキョウの傍に」
やめて、そんなこと言わないで。
この街で利益を優先して動いてきた彼が、私にそんなことを言うはずがない。
冗談でも、聞きたくない。
「価値だのなんだの、そんなもの俺とお前の間に必要ない」
やめて。
頭がただその言葉だけで埋め尽くされていく。
「誰かが俺の荷物になるのなら、それはお前がいい」
「……て……」
「お前一人くらい、どこまでも背負ってやれる」
「やめてくださいッ!」
羅列する言葉が聞くに堪えず、気付けば声を荒げていた。
何かがせり上がって来るものを感じながら彼を睨みつけるも、勝手に溢れる涙のせいで視界が滲む。
荒い呼吸を何度か繰り返す度に、胸の奥と右腕が痛む気がした。
「こんな女の傍にいたい……? 価値なんて必要ない? 一体何を言ってるんですかッ」
言いながら花をぐしゃりと握り潰す。
やめなければと頭では理解していても、自分の中で弾けた感情は収まらない。
「街の……三合会の利益を何より優先してきた貴方が! そんなこと言うはずがない!」
彼がどれほど自身と組織、街の利益の事を考え動いてきたか。
それを理解しているから、彼が放った言葉に憤りを覚えざるを得なかった。
今、この状態でありもしないことを言われて落ち着いていられるわけがない。
「今まで以上に醜くて、なんの役にも立たない……なんの価値もない! 貴方の傍にいても、本当にただの荷物になるだけ!」
腕も失い、背中だけでなく胸元も火傷痕で覆われた醜い体。
何の利益も生まない、生きてるだけ誰かの迷惑になってしまう存在。
それが私。
「ただの荷物を背負うなんて、何も考えてない愚かな人間しか言わない! でもあなたはそんな馬鹿じゃない!」
私が知っている彼は賢くて、いつも私の一歩先を行く。
そんな貴方が愚かなことをするはずがない。していいはずがない。
「貴方の傍にいるべきなのは私じゃないことくらい、子供だって分かること! 」
彼が歩むのは血に染まった茨の道で、いくつもの死体が積み上がっているのだろう。
そんな地獄のような道を共に歩いていけるのは、彼の支えとなれる人間。
こんな役立たずなんかじゃない。
「利き腕がなくなったら今まで通りじゃいかなくなる! 義手があったとしても、これまでと何もかもが違う生活になる! そんな女が傍にいるなんて迷惑でしかない!」
自分の言葉のはずなのに、重くのしかかる。
そのせいか息苦しさは段々増すばかり。
「それに私は、二度も貴方を……街を、くだらない事に巻き込んだ! 尚更傍にはいられない……ッ!」
溜まった涙が頬を伝う。
一つ、また一つと止まることはない。
いい年した大人が泣きじゃくる無様な姿を、彼は何も言わずただ見ているだけ。
「こんな役立たずのせいで、もしあなたがまた巻き込まれたら……その時貴方は絶対後悔する! 無価値な女を傍に置いたことも、私を生かしたことも!」
「……」
「街から追い出せばよかったと思うに決まってる!」
殺されるのも、追い出されるのもかまわない。
ただ──
「貴方の言葉に期待して、信じて……ッ、貴方に後悔させて無様に捨てられるくらいなら、殺された方がずっといい!」
彼の傍で、彼の隣で、彼に甘えることを許された人生を得てしまえば、きっと一度だって手放せない。
彼がいないと生きていけなくなったその時、もし見放されたとしたら。
やっぱりお前はいらないと、折れた針のように簡単に捨てられたら……もうその先は地獄でしかない。
そんな生き地獄を味わうくらいなら、さっさと彼から離れて一人で生きた方がマシだ。
だからこの人の傍に……隣に立って歩む選択肢はない。
選択する権利すらない。
分かっていたはずの事実に、何故か大粒の涙が溢れて止まらない。
「お願いだから、もうやめてください……」
震えた声音で懇願する。
窓に背をつき、力なくそのまま座り込み、これ以上無様な顔を晒さないように俯く。
「もう、疲れたの」
彼からもらう花に思いを馳せるのも、彼がもたらす甘さに縋りつきたくなる衝動に抗うのも、彼が脳裏に浮かぶ度に締め付けられる感覚を味わうのも──全部疲れた。
決めたはずの覚悟を揺らがすような言葉を、これ以上聞きたくない。
お願いだから、もう何も言わないで。
色々な感情が蠢く中、ぽつりと呟いたのを最後に沈黙が落ちる。
自身の荒い呼吸だけが響き、時間だけが過ぎていく。
「で?」
やがてほんの少し息が落ち着いた頃、無情にも低い声音が降り注ぐ。
「言いたいことはそれだけか」
その言葉に答える気は起きず、俯いたまま無言を貫く。
何一つ反応を示さずにいると、足音がこちらに近づいてくるのが聞こえる。
瞬時に顔を上げると、真っすぐ私を見つめながら歩みを進める彼が目に入った。
「こ、来ないで……ッ!」
近づいてくる彼に頭が混乱しながらも声を荒げる。
後ろに下がることもできず、前からは彼が迫って来る逃げることのできない状況に、近寄ってほしくないという感情のまま握っていた花束を投げつけた。
弱い力で投げた花が静かに床に落ち、彼が歩みを止める。
それも束の間、無残に転がっている花を意にも介さず再び長い足を数歩動かし、とうとう目の前で見下ろされる。
黒い瞳の視線から逃れるように体が動いたが、彼にとって私の動きを止めることは容易だった。
立ち上がりその場を離れようとした瞬間。いとも簡単に左腕を掴まれると強引に引っ張られ、腰に手が回される。
体が密着し、左腕を力強く握られ身動きが取れない。それでも逃げ出そうと力を込め、右腕で彼の胸板を叩き反抗する。
「離し──」
私の抵抗の言葉は、彼によって閉ざされた。
唇に触れる柔らかい感触に無意識に動きが止まる。
何度も触れてきた唇を、今ばかりは受け入れることができない。
突き放そうと抵抗するも到底敵うはずもない。それでも彼の腕の中で藻掻き続ける。
すると、逃がさないと言わんばかりに唇を塞がれたまま壁に追いやられ、本当に一歩も動けない状態となってしまう。
顔を横に逸らし口づけから逃れても、背中に回されていた手で顎を掴まれ、無理矢理元の位置に戻される。
息を整う暇も与えられず、強引にもたらされる唇に目の端から涙が伝う。
なぜ、今になってこんなことをするのだろうか。
一度貴方の手を跳ねのけた私に、なぜ。
混乱する頭の中でそんな疑問が沸き起こる。
離れなきゃいけないのに。触れてほしくないはずなのに──心のどこかで彼の腕の中に収まっている状態に、どうしようもない安堵を感じてしまっている自分がいる。
服から漂う煙草とムスクが混ざった香り。
武骨な大きな手。
煙草の苦みがある唇。
それらすべてが、頭の中を飽和させていく。
最早何も考えることができず、抵抗する力もなくなり、やがてただ彼の口づけを受け入れるだけになってしまう。
そうしてしばらく唇を重ねた後、ようやく顔が離れていく。
「……ふ……っ……」
堪らず嗚咽を漏らす。
彼は顎を掴んでいた手を離し、次から次へと流れ出る涙を指で拭うと、そのまま流れるようにいつもの癖を出してくる。
久々に味わう頬を包む感触に、えも言われぬ感情が溢れてしまい涙が止まらない。
「全く、舐められたもんだ。お前は俺をとことん最低なくず野郎だと思っているらしい」
彼は涙で手を濡らされているにもかかわらず、頬を包んだまま静かに言葉を投げかける。
頬の上で指を滑らせ、また落ちた滴を拭う。
「まあ……目の前にいるのは、何十人、何百人と殺し、腐肉を漁って来た極悪非道のマフィアだからな。それをよく分かってるお前が、俺を信じられないのも仕方ない」
違う。
貴方を信じられないのは……言葉に頷けないのはそんな理由じゃない。
貴方が血に塗れたマフィアだから、私はずっと──。
心の中の呟きは、嗚咽によって口に出すことができない。
「だから、これが最後だ」
そう言うのと同時に俯きかけていた顔を上げさせられ、視線が交差する。
こちらを見つめる瞳があまりにも真っすぐで、自然と嗚咽が止まった。
「俺がお前を求めるのも、こうして触れるのもこれで終わりにしてやる」
「……え……?」
「その気もない女を必要以上に追い求めるなんざ滑稽でしかない。俺から離れたきゃそうすりゃいい」
堅い声音で発せられる言葉に息が止まる。
何故かまたせり上がって来るものを感じながらも、泣くまいと必死に涙を堪える。
それでも、次は何を言われるのか分からない恐怖に視界が勝手に滲んでいく。
「だが」
頬を撫でる指が止め、言葉を区切る。
そして一つ間を空けた後、硬い声音が続く。
「今から言う言葉を受け入れるってんなら、俺は永遠にお前の傍に居る。何があろうとだ」
「え……」
「キキョウ」
彼が名を口にした瞬間、心なしか頬を包む手に力が入った気がした。
「お前の全てを、人生を俺に寄越せ」
──何を、言っているのか。
「恐怖も傷跡も何もかも、お前の全てを俺が背負う。──だから」
言いながら、私の手首を掴んでいた手を離し、今度は固く握りしめられていた拳をゆっくりと包む。
その手つきは、驚くほどにとても優しかった。
「お前の傍にいさせてくれ」
放たれたのは、聞いたこともない柔らかな声音と懇願にも似た言葉。
今まで「傍に居ろ」と命令口調だった彼の口ぶりとは思えない一言に、思わず目を見開いた。
彼がこんなことを言うなんて、思ってもなかった。
その上、あんなに柔らかな声音で。
こんなに──真っすぐな瞳で。
彼の全てに気圧される。
彼の視線に、表情に……何もかもに。
どうして、ここまで。
跳ねのけなくてはいけないという意志と、受け入れて楽になりたいという甘えが入り乱れ、どうしていいか分からなくなる。
一度緩んだ涙腺がすぐ元に戻ることはなく、感情が動かされる度に涙が溢れてしまう。
今もまた、瞬きするまでもなく滴が頬を伝っていく。
「……なんで」
「……」
「なんで……私なんか……」
口から勝手にぽつりと零れた。
「理解できないです……なんで……」
「できなくてもいい。今はお前はどうしたいか、それが聞きたい」
その問いに小さく頭を振る。
「……分からないです……何も……」
傍に居られるわけがないと分かっているのに、彼を跳ねのける言葉が出てくれない。
今自分が求めているのは何なのか、頭に靄がかかったようにその答えが薄れていく。
「なんで、私なんですか」
彼から視線を逸らし、微かに俯きながら問いかける。
少し間を置いて拳を包む手が力み、すぐさま小さい息を吐いたのが聞こえた。
「ふとした時、浮かぶのはいつもお前の顔だ」
「え……?」
「今何してんのか、また無茶してやしねえか、何を与えりゃ喜ぶのか。んな事ばかり考えてた」
柔らかさが変わらない低い声で発せられる話に、戸惑いで視線が上がる。
再び彼の顔を目にし、何故かまた涙が溢れていく。
「一人の女にここまで感情を乱された」
そんなはずはない。
彼が乱される姿なんて、今まで一度も見たことなかった。
「信じられねえって顔だな」
「……」
図星を突かれ目を泳がす私に、彼は「女の前じゃ男は平静を装っちまうもんさ」と少し困ったように笑う。
「何の力もないただの女に、天下の無頼者が無様にかき乱された」
「……」
「だが、それも悪くねえと思ったんだ。そしてそれは、これから先も変わることはないとも」
「……」
「それが多分、惚れてるっていうんじゃねえか」
「な……」
あまりにも直接的な表現に思わず声を上げる。
生れてはじめて言われた言葉にどうしていいか分からず戸惑ってしまう。
「惚れちまったもんはしょうがないだろ」
そう言い放つ彼の顔には、変わらず子供じみつつも少し困ったような笑みが浮かんでいた。
頭が混乱し、息を忘れ体が硬直する。
「で、どうなんだお前は」
「……私、は……」
「過去の事も今回の事も、腕の事もどうでもいい。んなもん全部忘れろ」
震えた声音で何か言おうとした途端、彼の声が重なった。
声を荒げたわけでもないのに、頭にはっきり伝わって来る。
「それら全部取っ払っても、俺の傍に……いや、お前の傍にいさせちゃくれねのか」
懇願するかのような、ほんの少し不安が混じった声音と共に、心なしか頬と拳を包む彼の手が強張ったのを感じた。
──いつも飄々と余裕な笑みを見せる彼が、こんな力も何もない女に感情を曝け出すなんて、今まで一度もなかった。
そのせいか、彼の手を跳ねのける気は起きなかった。
「……私は、何も持ってない。何もない人間です。その上、また貴方達を巻き込むかもしれない」
もう一度同じ言葉を繰り返す。
「いつか、私を用済みだと……いない方がよかったと、そう思うはずです」
緊張を不安を震えた声音に乗せ、ゆっくりと呟く。
俯きながら、消え入りそうな声で続ける。
「そんなことはないと……そんな日は来ないと、はっきり言えますか?」
「ああ」
間髪入れず答えが返ってきたことに目を見開く。
肯定が返って来るなんて、思っていなかった。
戸惑いつつも、再び顔を上げる。
「俺がお前を手放すことは絶対にない」
はっきり断言する彼に困惑の波が広がっていく。
息が詰まりそうな感覚が再び襲う中、なんとか口を開く。
「……絶対?」
「ああ」
「…………どうして……馬鹿じゃ、ないですか」
「酷いな」
目線を下に逸らし、震える声音で心情を吐露する。
罵倒する言葉に怒ることなく、張さんはほんの少し軽くなった声音を発した。
沈黙が落ちる中、様々な感情が渦巻いている頭で考える。
私が今どうしたいのか。
鼓動がうるさくなり頭が飽和しそうになりながら、その答えを出そうと意を決す。
「……望んでも、いいんですか」
震えた声音で問いかけながら包まれている左手をゆっくり開き、そのまま指を絡めていく。
不安げに武骨な手を弱い力で握ると、彼も同じ力で握り返してくれた。
「こんな私でも……貴方の隣を」
「お前ならいい」
はっきりと、不安を感じさせる間もなく返って来た言葉にきつく目を瞑る。
この街に来てから、何があっても後悔しないようにと選択してきた。
自分が傷つこうとも、子供を見殺しにしても、初めてできた親友が殺されても──そうしてきた。
ただ一つだけ、後悔するかどうか分からないまま選択したことがある。
それが、目の前の彼と一線を越えた時。
──そして今、また彼のことで選択を迫られている。
自分も彼も後悔するか分からない、とてつもない選択を。
“お前の傍にいさせてくれ”
彼の言葉が頭の中でこだまする。
「……張さん」
覚悟を決め、震えた声音で名を口にする。
「何もない私を」
言葉を区切り、一つ息を吐く。
これから発する言葉は、笑顔で言いたい。
何故かそう思った。
顔を上げ、彼の真っすぐな視線に微笑みを返しながら武骨な手を更に強く握る。
──ほんの少しだけ、許されるなら。
他ならぬ、彼が許してくれるなら。
「貴方の傍に、いさせてくれますか?」
震えた声音で言い終えた途端、彼の腕の中に包み込まれた。
無言で強く抱きしめられ戸惑ってしまう。
だがすぐさま妙な安心感が湧き上がり、また何かせり上がって来る感覚に抗うことなく、瞳から滴が零れ落ちる。
おずおずと彼の背中に腕を回し、胸板に顔を摺り寄せた。
「待たせやがって」
吐息交じりに張さんが呟いた。
「これでフラれたら流石の俺もショックで寝込んじまうとこだった」
「……ご冗談を」
「冗談じゃねえよ、ったく」
そう言うと、彼の腕が少し緩む。
流れるように両頬が彼の手に包まれ、ゆっくりと顔を上へ向けられる。
すぐさま額や瞼に唇が落とされた後、今度は先程より弱い力で抱き締められた。
彼の腕に包まれている中、ふと床に落ちている花が目に入る。
「花……投げてごめんなさい」
自身が投げつけてしまったのだと思い出し、申し訳なさで胸がいっぱいになる。
「初めてお前に物を投げられたな。随分可愛らしい抵抗だった」
「……からかわないでください」
張さんは怒ることなく、柔らかい声音を発した。
思わず咎めるように言うと、彼は「くくっ」と笑う。
ふと、武骨な手が再び頬に触れると、ゆっくりと顔を上げさせられた。そのまま瞼に指が触れ、優しく撫でられる。
「目、腫れちまうかもな」
「……こんなに泣いたのは、生まれて初めてです」
泣けば殴られてきた幼い時の経験からか、涙を流すことは滅多になかった。
生理現象で涙が出ることはあっても、感情に流されて泣くというのは今までで一度もない。
──母さんや春さんが死んだ時でさえ。
それが人前でこうも大泣きすることになるとは思ってもみなかった。
「そりゃ、悪い男に泣かされちまったな」
「ええ。ほんとに」
笑みを浮かべる彼に釣られ微笑む。
撫でる指を止めると、すぐさま彼の顔が近づき瞼の上に今度は唇が落ちた後、次に額へ軽くキスされる。
落とされる唇の感触を受け入れていると、再び強く抱き寄せられた。
「もう俺から離れようとするなよ」
「はい。……貴方が離さない限りは」
「それでいい」
満足げに呟かれた言葉に先程とは違う感情で胸が詰まる。
──この人の傍で、この人と共に生きていく。
自分で選んだ結末に、どうしようもない嬉しさがこみ上がる。
彼を抱きしめる力を強めると、ひとすじの涙が頬を伝った。
ようやくここまで来ました……。めでたい