〇猗窩座、猗窩座、猗窩座!!(昭和)
「――――何だと!?」
社長室。無惨の拳の下で、机が真っ二つに割れる。いかにも高級そうな代物だったのだが、無惨はそれを意識に入れる事もなく鷹のように目つきを鋭くさせ、机だった物の前に立つ
「確かなのだな?」
「はい。当人と私以外知らないはずの事を知っていました。私の耳には声も同じに聞こえましたし、本人ではない可能性は限りなく低いものと思われます」
その報告を聞いた無惨は、心底不愉快そうに顔を歪めると、空木に短く指示を出した。
「猗窩座と妓夫太郎を呼んで来い」
「ただちに」
数分後。青白い鬼気を立ち昇らせる無惨の前に、猗窩座と妓夫太郎、無限城から呼ばれた玉壺、そして空木が跪いていた。
「南米に出張させている我が社の社員が誘拐された」
キナノキからマラリアの特効薬が採れたり、アオカビからペニシリンが採れたりと、植物や微生物が薬の材料になる事は多い。そのため無惨は世界のめぼしい場所に社員を派遣し、役に立ちそうな新種や珍種を探させている。
ワシントン条約が採択されるのはこの時代からすると未来の1973年であるため、法的な問題も(おそらく)ない。あったところで無惨が気にするはずもないが。
「犯人は現地の違法武装組織、いわゆるカルテルのようだ。今鳴女にその居場所を探させている。見つけ次第殲滅する」
無惨が部下に方針を通達したちょうどその時、鳴女から念話が入ってきた。
《無惨様、誘拐された二人を見つけました》
《早かったな》
ここまで早いのには訳がある。鳴女は常日頃から世界中に“眼”をばら撒いて監視網を作り上げているのだ。と言っても普段は世界の観光名所や絶景を眺めるくらいにしか使っていないのだが、そのうちの一つに運よく引っ掛かったのである。
《間違いないのか?》
《はい。無惨様に見せて頂いた写真と同じ顔です》
その言葉に無惨は鳴女の“眼”と視界を共有する。暗い部屋の中うなだれている二人の男は、確かに無惨が知る顔だった。それを確認した無惨は、低い声で命令を下した。
「鳴女が見つけた。犯人どもは一人残らず殺せ。社員は死んでいなければ助けろ」
ここで鳴女に任せたり、他の上弦を呼ばないのは合理的な理由がある訳ではない。単に無惨のストレス解消である。頭は悪くないのに、感情を最優先して動くところは千年経っても全く変わっていなかった。
「空木はここで私の代理を務めろ。場合によっては私の姿を使っても構わぬ。行くぞ!」
『はっ!』
琵琶の音が響き、無惨と上弦の三名は地球の反対側へと跳んだ。
麻薬カルテル、というものがある。主に南米や中南米を拠点とした、麻薬を取り扱う武装集団をそう呼ぶ。2000年代からメキシコで仁義なき戦いを繰り広げているのが有名だろう。時として軍に匹敵するほど巨大化する事もあるが、大抵は泡沫政党のように生まれて消えるのみである。
無惨の部下を誘拐した彼らもまた、そんな麻薬カルテルの一員だ。とは言え上り調子であり、人員もそれなりに有する、将来有望と言って良い組織であった。
『ちょろい仕事だったな』
『ああ、楽な仕事で良かったぜ』
人目につかぬよう、ジャングルの中に建てられたアジト。かなり大きめのその建物の外に立つ見張りの二人は、薔薇色の未来を夢見て笑みをこぼしていた。
『薬だけじゃ金が足りねえからって誘拐までやる、なんて聞いた時にはどうなるかと思ったが……こんな楽なもんならもっと早くやっときゃよかったぜ』
『今度は日本人か……日本人は金持ちだからな。身代金も期待できるな』
『なあに、ケチるようなら指の二三本でも送り付けてやりゃいいんだ。そしたら処女みてえにビビッて金を吐き出すだろうぜ』
『ハハッ、違いねえ!』
誘拐された二人も無策だった訳ではない。現地の案内人を雇って、危険なところは避けるようにしていた。が、その案内人が真っ先に殺されたのだ。ジャングルには詳しくても、裏の事情には詳しくなかったらしい。要は人選ミスである。
『ん? 何だ、あれ?』
『どうした?』
見張りの一人が何かを見つける。木の陰から見え隠れする、白色の何かだ。不審に思い銃を構えながら近づくと、その正体に眉をひそめた。
『……壺? なんでこんなとこに……』
華美な花の紋様が描かれた、高そうな壺である。明らかにこんなところにあって良い物体ではない。見張りは声を上げて相方に異変を知らせようとしたが、それは叶わなかった。その見張りの身体がまるでブラックホールに吸い込まれるように、壺の中に無理矢理引きこまれたからである。
『……は?』
あまりにも常識を外れた光景に、残されたもう一人の見張りは動きを止める。次の瞬間、壺から肉塊が排出され、それに続いて
「ヒョッヒョ、初めまして。私は玉壺と申す者。殺す前に少々よろしいか?」
『は? え? 何?』
「あのお方の怒りに触れたあなた方は、もはや死ぬ以外の道はない。だがそれだけではあまりに憐れ。故に我が芸術を以って、冥途の土産にして頂きたい! ではご覧頂きましょう、『愚か者どもの嘆き』です!」
玉壺の横に地味な壺が現れ、そこから大きな塊が姿を現す。見張りの男にはそれが何なのか一瞬分からなかったが、そこから飛び出る
「おお! なんとなんと、吐く程感動して頂けるとは!」
その塊は、誰が誰かも分からぬほどぐちゃぐちゃに圧縮された人間たちだった。血塗れのそれの所々から、そこだけは原形を留めた頭が突き出している。その表情は断末魔をそのまま保存したかのように、絶望に歪んでいる。さらに肉塊には彼らが持っていた銃が突き刺され、まるでパフェに刺さった棒状の焼き菓子の如くなっていた。
「あのお方に歯向かうなど愚かの極み。頭がいくらあろうと何の意味もない。ゆえに身体をひとまとめにし、頭だけをあえて残す事で、その愚かさを分かりやすく表現してみたのですよ! 『船頭多くして船山に上る』と言えば少しは分かりますかな?」
その短い腕を打ち鳴らしながら悦に入って説明する玉壺だったが、一転して残念そうな表情を作ると説明を切り上げた。
「本来はもっと説明したいところでしたが、残念ながら時間がない。冥途の土産はもう十分でしょうし、最後にあなたを芸術にして差し上げよう」
『こ、この、化物めえぇぇぇッ!』
男は渾身の気力を振り絞って銃口を向けるが、その引き金が引かれるよりも玉壺が動く方が早かった。
――――血鬼術 水獄鉢
玉壺の手から一瞬で壺が生み出され、そこから粘性の高い水が溢れ出す。不可思議な事に水は重力に従う事なく男の周りに寄り集まり、壺の形となって憐れな人間を閉じ込めた。
「溺死はこの世で最も美しい死に方だ。愚かな人間の中でも特別に愚かな者だったが、最期に美しい芸術になれるのだからこれ以上の事はないだろう」
酸欠の苦しみに男は手に持つ銃を乱射するが、水の抵抗が大きい事と、水獄鉢の表面がゴムのように柔らかく強靭である事により、脱出の役には一切立っていなかった。
「玉壺」
「これはこれは、無惨様」
無惨が背に妓夫太郎を伴い姿を現した。遊んでいた訳ではない。他の場所にいた見張りを始末して来たのだ。
「これで見張りは全てのようです」
「ならば鳴女と協力し、引き続き周囲を包囲しろ。一人たりとも決して逃すな」
「御意」
「妓夫太郎は私についてこい」
「はっ」
水獄鉢の中で最期のもがきを見せる男の事など気にも留めず、無惨は妓夫太郎と共に建物の正面玄関に歩みを進めた。
その頃、猗窩座は正面玄関の反対側、裏口から侵入を果たし、攫われた社員たちがいる場所を目指して突き進んでいた。無惨の命令は第一に敵の殲滅、第二に救出なのだが、何故殲滅より救出を優先するような行動を取っているのか、猗窩座自身にも分からなかった。
「…………」
『何だお前は』
――――破壊殺・滅式
上弦の参の前に、カルテルの構成員たちは断末魔も上げられずにひき肉になっていく。文字通りの鎧袖一触だ。呼吸も使えず武装は銃くらいしかないので、当然の結果なのだが。
「……まあいい。あのお方の意に反している訳でもない」
猗窩座は誰にともなく言い訳じみた言葉を呟くと、誘拐された社員たちの許へと一直線に向かって行った。何故か頭のどこかに引っ掛かる、“守る”という単語を無視して。
正面から堂々と侵入した無惨達の前に、構成員が立ち塞がる。最初こそ少なかったものの、あっという間に数が増え、通路の陰や部屋の内側に隠れつつ、雨霰のような銃弾を無惨達に浴びせかけていた。
「自動小銃か。外の連中は持っていなかったが……米軍から流れたか?」
「無惨様、ここは俺が……」
「下がっていろ」
妓夫太郎は鬱陶しい連中を処理しようとするが、無惨に止められる。自らを危険に晒すような台詞に思わず妓夫太郎は反論しそうになったが、その爆発しそうな表情を見て反射的に口をつぐんだ。敵にもなれない憐れな連中の、十秒後の姿が分かったからだ。
「鬱陶しいぞ羽虫どもが!」
狭い通路を埋める銃弾は、黒死牟ならその卓越した剣技で弾き飛ばすだろう。童磨なら氷の血鬼術でこともなげに防ぐだろうし、猗窩座ならば闘気を探知し躱してしまうだろう。だが無惨の剣才は黒死牟に劣り血鬼術の才は童磨に劣り拳才は猗窩座に劣る。ならばどうするか。
『効いてねえ!?』
『撃て撃て、とにかく撃て!!』
『嘘だろ、どうなってんだ!?』
無惨は“鬼としての性能”で全てを解決する。
銃弾は無惨に当たってはいるし、その体に穴も開けているのだが、その一瞬後には全て元に戻っている。まるで水でも撃っているかのような、恐るべき再生速度だ。技も何もない、単なる性能任せのゴリ押しである。
格上には通用しない戦法だが何の問題もない。現在の地球には、無惨より格上の生物など存在しないのだから。縁壱? あれは生物の例外だ、だって縁壱だもん。
『も、もうダメだ!』
『やってられっか!』
『あっ、おいまて逃げるな!』
銃の効かない無惨を見て、逃げる者が現れ始めた。どう考えても早すぎるが、軍や警察ではない単なる武装集団ならそういう者が交じっていても不思議はない。
「逃がすかァッ!」
とは言え逃げられると無惨としては少々困る。無惨がいくら強かろうが一人しかいないので、四方八方に散らばられると逃がす可能性があるからだ。玉壺と鳴女が包囲しているとはいえ、逃がさないに越した事はない。
こういう時、黒死牟なら逃げられる前に斬撃を飛ばして全員始末するだろう。童磨なら地面を伝って足を凍らせて足止めするだろうし、猗窩座なら闘気を察知する血鬼術で居場所を見つけるだろう。だが無惨にはどれも出来ない。ならばどうするか。
『ひいっ!』
『ば、化物! 化物!』
無惨は“鬼としての性能”で全てを解決する。
ぼろ布になった服を破り捨てると、その背中から触手を生やして攻撃し始めたのだ。血管の先に刃がついたような形状のその触手は、逃げる人間の背を正確に追尾し串刺しにする。複数ある脳で触手の動きの補助をしているのだ。触手がちょうど八本である事もありまるでタコのようだが、煮ても焼いても食えない辺りタコとは一線を画している。
「む」
無惨の攻撃には漏れなくその血が付随する。人間にとっては猛毒であり大抵は即死するが、死ななければ鬼になる事がある。この場にも、そんな元人間が存在していた。
「フン」
成り立てであるがゆえに飢餓状態のその鬼は、辺りに散らばる
「お前の仲間を殺してこい」
無惨がその鬼に命令するが、全く動く気配がない。これまでにない事態に無惨の眉根が寄る。こうなった鬼にもはや自我はほとんどなく、無惨の命令にだけ従うロボットのようなものなのだ。飢えのため勝手に人間や他の鬼を襲い始める事はあるものの、無惨の命令を無視するような事はありえない。
「何だ? 何故動かぬ?」
「ひょっとして、日本語が分からないのでは?」
妓夫太郎の言葉に、無惨は虚をつかれたような顔を見せる。日本語を解さない者を鬼にするのは初めてだったため、想定外の出来事だったのだ。
「……Mate seu companheiro.」
無惨の趣味の一つは外国語を学ぶ事であり、仕事で使う事もあるので、当然のようにこの国の公用語も喋れる。自らの理解出来る言語で命令された鬼は、弾かれたように動いてあっという間に姿を消した。その先から悲鳴と怒声と銃声が聞こえて来たので、今度は通じたらしかった。
「このような事があるとはな……」
思念ならば言語に関係なく通じたかもしれなかったが、音声によるものだったので本人の知らない言語は通じなかったのであろう。思わぬ出来事に気勢を削がれた無惨は、溜息を吐くと妓夫太郎に指示を出した。
「ここはもう私だけで良い。他に行って殺してこい」
「はっ」
意外と腰が軽く、率先して自身で動く事が多い無惨だが、その実単独で戦う事はほとんどない。万一の時盾になる部下を同行させる事が大半だ。それを外したという事は、もはやここに脅威はないと判断したという事だった。
「社員の救出と敵の殲滅、完了いたしました」
上弦の三名が無惨の前に跪き、猗窩座がその代表として報告していた。なお助け出された社員二名は、色々面倒だった猗窩座が気絶させてその辺に転がしている。扱いがぞんざいだがまあ、あのままピーチ姫をやっているよりはマシであろう。
「よし。ならばこのまま他の場所にいる連中の仲間と、ついでに周辺の武装組織を殲滅する。予防だ」
製薬会社の社長らしい台詞が飛び出て来た。つまり無惨は、この辺りでの植物発見を諦めてはいないという事であった。
ちなみに何故他の場所に仲間がいる事を知っているのかと言えば、先程鬼にした男を喰って記憶を読んだからだ。その鬼は再生する事もなくそのまま無惨の腹の中である。記憶を消しても敵意が持続する事があるため、鬼にした敵は基本的にその場限りの使い捨てだった。
「猗窩座。お前はこの二人を空港まで連れて行き、日本行きの飛行機に突っ込んで来い」
「ですが、それでは無惨様を守る者が減る事に……」
「猗窩座」
思わず反論した猗窩座の名を無惨が呼ぶ。一切の情を感じさせない氷のようであり、爆発寸前の火山のようでもある、不機嫌を極めた声だった。
「猗窩座。お前は、この程度の者どもに、万一にでも私が負けると思うのか?」
「いえ……」
「それとも猗窩座、お前はこの二人が無事に日本まで帰れると思っているのか?」
誘拐された社員の優先順位は低かったが、生きて助け出されたのならば見捨てる気は無惨にはない。その程度には自身の役に立っていると認めているのだ。
「お前は私を、日に二度も部下を攫われた間抜けにするつもりか? それとも、人間に鳴女の血鬼術を見せろとでも言うのか? どうなのだ、猗窩座!?」
無惨から灼熱のような怒気が立ち昇る。遠くで鳥が一斉に飛び立ち、獣が種類を問わず鼠のように逃げ去った。
「猗窩座、猗窩座、猗窩座!!」
跪く猗窩座の身体から、絞り出されるように血が滴り落ちる。無惨の怒りに鬼の肉体が悲鳴を上げているのだ。永劫にも思えるような時間だったが、それは唐突に終わりを告げた。
「最近どうもたるんでいるようだな。強くなるのではなかったか? 私を失望させるなよ、猗窩座」
「……………………………………はっ」
「行け」
無惨が顎をしゃくると、猗窩座は気絶したままの社員二人を小脇に抱え姿を消す。無惨は鼻を鳴らしてその後ろ姿を一瞥すると、玉壺と妓夫太郎を伴い鳴女の作った扉をくぐった。
クッパに助け出されたピーチ姫、もとい、何が何だか分からないうちに誘拐され、何が何だか分からないうちに助け出され気付けば日本行きの飛行機に乗っていた社員の二人は、揃って呆けたような顔を見せていた。
「先輩……」
「なんだ後輩……」
「飛行機の席、空いてて良かったっすね……」
「そうだな……」
「てか俺ら、日本に帰っていいんすかね……」
「
二人はぼんやりと正面を見ながらぼんやりと言葉を交わす。窓の外の風景を眺めるとか、話し相手の顔を見るだとかの余裕も今は無い。
「何で警備員の藜さんがあそこにいたんすかね……。こっちに来てたなんて話は聞いてないから……どう考えても移動時間足りないっしょ……」
「俺が知ってる訳ねえだろ……」
「やっぱあれっすかね……『不老不死の薬を開発した』って噂、本当だったりするんすかね……」
無惨を始めとした鬼たちは不老なので、ずっと若いままの姿だ。擬態は可能ではあるが、『老い』は『死』を連想させるため、そうする意思が無惨に全くない。となれば部下の鬼たちも右に倣えである。製薬会社である事も相まって、『社長たちは不老不死の薬を開発して服用している』という噂が根強く囁かれているのだ。
「なんで不老不死だったら地球の反対側まで移動出来るんだよ……」
「それはほら、あれっすよあれ……なんかこう、不老不死がもたらす不思議な力で超能力とか使えるんすよ……」
「やる気とセンスのない推測だなおい……雑にも程があんぞ……」
実は大体あってるのだが、二人がそんな事を知る由もない。
「でも実際、そうでも考えないと辻褄が……」
「後輩」
僅かに低くなった先輩の声にこれまでにない真剣さを感じ取り、後輩は思わず口を閉ざした。
「少しばかりお前より長く生きている俺が、この会社で上手くやっていくコツを教えてやろう。余計な事に首を突っ込まない事だ」
「…………」
「必要な事ならさすがに教えてくれるさ。そうしてないって事は、知る必要がないってこった」
無惨は部下の意見を聞く耳を持っていない訳ではないが、それでも究極のワンマン社長なので、部下として残るのは極端な話イエスマンのみだ。もちろんただのイエスマンではない。有能かつパワハラをものともしない選ばれたイエスマンであり、ある種の事なかれ主義の権化である。
「でも……」
「納得できなくてもしておけ。お前だって職を失いたくはねえだろ」
「…………」
後輩は黙り込むが、その顔には納得できないと大きく書かれている。それを見た先輩は、一つ溜息を吐くと口を開いた。
「社長は確かに自分の思い通りに行かないと怒りだす、少々人格に難のある御仁だ」
いきなり自身の雇い主をこき下ろし始めた先輩に、後輩の目が点になる。酷い言い草だが、何より酷いのは単なる事実である点であろう。
ちなみに今回猗窩座が猗窩座猗窩座されたのも、元を正せばそれが原因だ。『たるんでいる』というのは殲滅よりも救出を優先した猗窩座の態度もだが、何より記憶の封印の事なのだ。自身の支配が緩んでいる事を察して怒ったのだ。それが自身への怒りではなく猗窩座猗窩座になる辺り、無惨はやはり無惨であった。
「が、経営手腕は確かだ」
意外かもしれないが、無惨の会社経営は堅実である。好きなものは“不変”と言うだけあって急激な変化を善しとはしないし、今現在は特に焦る理由もないので、必然的にそうなっているのだ。無惨の会社以外では作れない薬があり、部下も優秀なので、それで十分成立するのである。
「結果を出せば認めてくれるし、そこに人物の好悪を差し挟んだりもしない。社長としてはある種の理想だろう」
人格はともかく、と口にする事はなかったが些か遅きに失した感はあった。
なお無惨の価値基準は『自身の役に立つかどうか』なので、あまり好きではない相手だとしても能力を示せば評価はする。童磨が未だに首にならず、上弦の弐であり続けている点からもそれは明らかだ。もちろん極端に機嫌を害させるような相手なら別ではあるが。
「つまり会社が潰れる心配はほとんどないし、俺らの出世の目もあるって事だ。それ以上何が必要だ?」
「………………そうっすね!」
後輩はこの上ない現金さを見せ、凄い勢いで掌を返した。手首にモーターが内蔵されているかの如き速度の掌返しだった。
「よく考えたら助けてくれた訳っすからね! あれこれ聞き回るのも良くないっすよね!」
「そーそーその通り。俺らは自分の仕事をきちんとこなしゃあいいんだよ。それはどこの会社でも変わんねえだろうさ」
そこで先輩は話を切ると、くぁと大きなあくびをした。
「つー事で、だ。日本までまだ時間がかかる。寝るぞ」
「あんま眠くないっすけど……」
「そりゃ疲れを感じてないだけだ。いいから寝とけ」
「うす……」
そしてしばらくの後、二人は並んで寝息を立てていた。日本に帰った後、どうやってか先に戻っていた猗窩座に会って驚く十数時間前の出来事であった。
◇ ◇ ◇
〇色変わりの刀(平成)
数百年ぶりに上皇が誕生すると巷で話題になり、平成から令和に移り変わろうとする頃。黒死牟は無限城で、日輪刀を手に無惨と向き合っていた。
「どうした黒死牟、さっさと来るが良い」
「は……」
無惨の忠実なる部下たる黒死牟が、何故その主に刀を向けているのか。その理由は、数日前に遡る。
とある日曜日の午後。どこか気怠い雰囲気の中、黒死牟と三日月流師範は、縁側に座って囲碁を打っていた。
「待った……」
「またですか……これで三度目ですよ」
師範は呆れたような目で黒死牟を見る。黒死牟は囲碁が趣味なのだが、残念な事にあまり強くは無いのだ。五百年も続けていてこれなので、剣と違ってこちらにはあまり才がなかったらしい。
「まあいいですが……」
「かたじけない……」
そうしてまたしばらく、パチリパチリと石が碁盤に打ち付けられる音だけが響く。数手ほど進んだところで、師範がふと何かに気付いたように顔を上げた。
「そういえば、師範代に見て頂きたい物を手に入れたのです」
「何だ……?」
「現物があった方が説明しやすいので、今持ってきます」
腰を浮かせようとする師範を、黒死牟が呼び止める。
「まだ……対局は、終わっておらぬが……」
「いえ、そこの大石はもう死んでおりますので。ここからの逆転はもう無理でしょう」
「………………」
その言葉に黒死牟は盤面を見る。言われて初めて気づいたが、五十子ほどの大石が欠け目になって死んでいた。おまけにそれに連鎖して、生きていたはずの別の石まで死んでいた。ここからの逆転は、たとえ本因坊秀策でも不可能であろう。黒死牟の表情は変わる事はなかったが、どこか雨に打たれた犬のような雰囲気を醸し出していた。
「それで…………見せたい物というのは…………それか…………」
「はい、この刀です」
普段より『……』が若干多い黒死牟だったが、気を取り直して師範の持って来た刀を見る。とそこで、僅かに背筋に嫌な感覚が走った。
「日輪刀、か……? いや、しかし……」
日輪刀は鬼の天敵。故に相対すると本能的に、“何となく嫌な感じ”がする。それは日光を克服した現在でも変わらない。その感覚を目の前の刀から覚えたのだが、黒死牟の知る日輪刀からの感覚とは、どことなく異なる気がした。
「やはりそうなのですか……まあ百聞は一見に如かず、とりあえず見て頂きたい」
師範は刀を鞘から抜き放つ。鈍い白銀に輝く刀身が、白日の下に晒された。だがその
「色が……変わっておらぬ……?」
強い剣士が日輪刀を握ると色が変わる。この師範の強さなら確実に変わる、もしくはすでに変わっているはずである。すでに変色済みの刀ならその色に固定されるが、黒死牟が見る限りそのような事はないようだった。
「日輪刀では……ないのか……?」
「私も最初はただの刀かと思っていました。ですが――――」
師範は両手で柄を握り、力の限りをそこに込める。すると驚いたことに、刀身が根本から薄紫に染まっていく。薄紫、即ち藤色は月の呼吸の剣の色だ。“色変わりの刀”である事のこの上ない証左であった。
「――――このように、強く握ると色が変わるのです。そして力を抜くと元に戻ります」
「ほう…………」
「噂に聞く日輪刀かとも思ったのですが、日輪刀は力を込めずとも色が変わる上、一度変わると戻らないという話でしたので、やはり別物なのかとも……」
少し考えた黒死牟が、刀に目を向け話し始めた。
「材料は……日輪刀と同じであろう……。……おそらく、作り方が……違うのだ……」
「作り方、ですか」
「日輪刀を……作ろうとして、失敗したのか……、何も知らぬ者が……偶然日輪刀に使われている……鉄を見つけて作ったのか…………。あるいは……そのどちらでも……ないのかは……、分からぬが……」
日輪刀の材料は、陽光山という場所で“太陽の光を吸い込んだ鉄”だ。が、これは要するに“地表に露出した鉄”という事である。陽光山は立ち入り禁止という訳でもないので、何も知らない人間がたまたまその鉄を見つけてそれで刀を打った、という可能性はある。
もちろん単に日輪刀の失敗作が出回っただけかもしれないが、ひょっとこの鍛冶師たちが既に全滅しており、この刀にも銘がない以上、真相は藪の中であった。
「して……この刀を……どうするつもりだ……」
「そうでした、それが本題でした。今、各呼吸への振り分けは師範代に任せきりですが、これを使えばより分かりやすく出来るのではないかと」
「ふむ……」
江戸時代、黒死牟に月の呼吸を教えられた男が立ち上げたのが三日月流剣術だ。故に三日月流剣術とは月の呼吸そのものであり、三日月流の門を叩いた者は必ず最初に月の呼吸を学ぶ。しかる後に自身に合った呼吸に移行するのだが、何が自身に合った呼吸なのか、というのは日輪刀抜きでは中々分かるものではない。故に今は、黒死牟が経験則から一人一人見て振り分けている。その作業を、この刀を使って代行しようという話だった。
「悪くは……ないな……。適性が……一目で分かるのならば……、鍛錬にも……身が入ろう……」
「それは良かった。これで師範代の負担も減りますな」
「私への……気遣いは、無用……。鬼に疲労は……存在せぬ故……」
師範は何かを言いたげだったが、それは黒死牟がふと思いついた言葉を口にした事で喉から出る事はなかった。
「そういえば……その刀は、藤色以外にも……なるのか……?」
日輪刀なら適性に合わせて色が変わる。が、これは日輪刀とは厳密には言い難い代物。万一程度の事だが、藤色以外には変わらない可能性も残されていた。
「……試しておりませんでしたな。とりあえず師範代、試されてみますか?」
「私が握っても……藤色になるだけだと……思うが……」
「もしも別の色になったら、欠陥品であって判別には使えないという事ですから」
「それもそうか……」
黒死牟は刀を受け取り握りしめる。だがその色は、全く変わる事はなかった。
「む……?」
「もっと強く握ってください。相当に力を入れないと変わりません」
「あい分かった……」
今度は両手をかけ、思い切り握りしめる。鬼、それも上弦の壱の剛力に晒された刀は、先程と同じように根元からその色を変えていく。だがその色は、月の呼吸のものではなかった。
「オレンジ……いや赫……? 藤色ではないという事は、やはり欠陥品……? 師範代はどう……」
黒死牟の意見を聞こうとした師範は、ぎょっとして固まった。覗き込んだその顔に、眼が六つあったからだ。初見ではないとは言え、いきなり眼が増えればさすがに驚く。
「どういう……事だ…………!?」
赫刀。日の呼吸の使い手にしか――より正確には、縁壱にしか使えなかったはずの刀の色。それを目にした黒死牟は、擬態が解ける程に驚きを露にしていた。
「(そうだ……それを報告したところ、このような事になったのだったか)」
黒死牟からの報告を聞いた無惨は、実験用として無限城に保管していた日輪刀で実験する事を命じた。その刀でも赫刀になる事を確認すると、鼠の鬼を使った実験を経て、無惨自身を斬るよう命令したのだ。
日光克服に伴い、無惨以外の鬼も日輪刀を克服した。だが縁壱以外使い手のいなかった赫刀で斬られた場合どうなるか、それが分からなかった。かつて縁壱から受け、その後数百年に渡ってその身を灼き続けた赫刀の斬撃。その二の舞にならない事を、無惨は求めていた。
「どうした黒死牟。鼠の鬼でも、日光を克服していれば赫刀でも死ななかった。ならば、私を殺す事など夢のまた夢のはずだ。何をためらう事がある」
「しかし……」
「いいからやれ。私は、確かめねばならぬのだ」
「……………………は」
ためらいを振り払った黒死牟が、
「…………」
その色を目にした無惨の眉が、不快げにぴくりと動く。あのトラウマを、自らの身体を切り刻んだ、出鱈目な御伽噺の住人を否応なしに想起したのだ。よりにもよって黒死牟と同じ顔なので、不快感は倍である。
とは言えここに来て止めるという選択肢はない。というか自分で言い出しておいて止めるなど、無惨のなけなしのプライドが許さない。故に赫い刀から勝手に逃げようとする身体を、今まで生きて来た中で最大級の忍耐力を以って押さえつける。
そして赫刀が自身の腕を
「は、ははははははは……!!」
過去に無惨を生死の淵まで追いやった赫刀は、その肉体に一切の影響を残す事はなかったのだ。日光を克服していない鼠の鬼を使った実験では、黒死牟の赫刀でも再生能力を阻害していたにも関わらず。
「成った……成ったぞ……! ついに私は、完璧なる生物に成ったのだ……!!」
毒も効かず太陽も日輪刀も赫刀も効かない、究極の生物。老いず、朽ちず、死なない、完璧な生物。無惨が夢見て焦がれたそれに、ようやく手が届いた――――いや、
「これでもはや日の呼吸だろうが赫刀だろうが、恐れる事はない……! 長かった、本当に長かったが、ようやくだ……!!」
もはや無惨にとって脅威となり得るのは、核兵器くらいのものだろう。だがそうそう使われるものではないし、地面に潜るなり物陰に隠れるなりして直撃だけは避け細胞をいくらか残せれば再生できる。放射線は鬼にとっては問題にならない。であるならば、もはや無惨の生を阻むものは、地球上に存在しえないと言っても過言ではなかった。
「これで私は、永遠だ……!!」
「祝着至極に……存じまする……」
無惨はこの世の誰よりも死から遠ざかってようやく、生の確信を得る事が出来たのだ。無惨が己が夢の名を付けた無限城に、その歓喜の声だけが響き渡っていた。
なお無惨が日の呼吸を恐れる必要がなくなったので、縁壱の子孫である陽一の首が紙一重で繋がったのは全くの余談である。