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三月中旬の土曜日。
春は名目上そこにあるのに、風はまだ冬の悪意を少しだけ引きずっている。厚手のコートを着るほどではない。けれど薄手のカーディガン一枚では頼りなくて、結局私は中途半端な上着を選んだ。こういう「どっちつかず」は嫌いだ。私の生活は今までずっと、ある意味でそうだったのだけれど。
駅から少し歩いた場所にある喫茶店。
古い木の扉を押し、暖かい空気に迎え入れられた。焙煎の香りと、控えめなジャズ。店内の照明は暗すぎず明るすぎず、会話は自然と小さくなる。静かな場所。私はこういう場所を選びがちだ。……今日に限っては、その静けさが私を追い詰める材料にもなっているのだけれど。
窓際の席に案内された。私は椅子に背を預け、メニューを開くふりをして、ひとつ呼吸を整えた。何度も頭の中で整理して言い直した。言葉を組み立て直した。順番も、声のトーンも。
それでも、胃のあたりは妙に落ち着かない。
私は紅茶を頼んで、運ばれてきたカップを両手で包んだ。熱が指先から掌へ伝わって、ようやく自分の体がここにあると認識できた。こういう時、私は自分の感情よりも身体の感覚のほうを信用する。感情は、すぐに暴れたり、逆に固まったりするから。
窓の外を眺める。車道を走る車の列。横断歩道を渡る人々。誰もが、普通に生きている。たぶん、ほとんどの人にとって、この土曜日はただの普通の土曜日だ。
────私はその普通の土曜日に、人生の節目みたいなものを持ち込もうとしている。ちっぽけな大事。けれど、大きな大事。
そんな折に、扉が開く音がした。
軽いベルの音。視線を上げると、すぐに分かった。
「やっほー、雪乃ちゃん。待った?」
雪ノ下陽乃。私の姉。私の天敵。私の……、たぶん、いちばん近くて、いちばん遠い人。
「いえ。今来たところよ」
嘘ではない。待っていた時間が長かったのは事実だけれど、私にとっては「待つ」という行為そのものが、もはや緊張の儀式みたいなものだった。
姉さんは軽やかに席へ座り、メニューを一瞬で把握し、コーヒーを頼んだ。いつも通り。完璧で、余裕で、隙がない。それが、妙に眩しく見えてしまう。
「それで? 今日はどうしたの?」
姉さんが首を傾げる。
やめてほしい。その仕草は「あなたが何を言いたいか、だいたい分かってるけど、あえて言わせる」時のやつだ。どうすれば私がより恥ずかしい思いをするのかを確信してやっている。
「…………」
私はカップの縁を指でなぞり、言葉が喉から出るのを待った。……待つというのは、つまり逃げであるのだけれど。
「もしかしてさ」
姉さんが、ほんの少し声のトーンを落とす。周囲に聞かせないためというより、私を追い詰めるための音量調整だと邪推してしまいそうだ。
「彼と付き合った、とか?」
────心臓が跳ねた。
あまりにも真っ直ぐで、あまりにも簡単で、あまりにも核心だった。
私は反射で否定しそうになり、反射で誤魔化そうになり、反射で視線を逸らしそうになった。しかし、その全部の反射行動を理性の私が上回る。
……だから私は、目を伏せて、頷いた。
頷くという行為は、こんなにも重いのか。たった一度の上下運動で、世界の構造が少し変わってしまう感じがした。
姉さんは、すぐには反応しなかった。笑わってこない。茶化してもこない。
私は内心、拍子抜けと警戒の両方を抱えた。これはこれで怖い。次の事象に何が生じるのか皆目見当がつかなかった。
「……そっか」
姉さんは、私から視線を外して窓の外を見た。まるで、そこに映る景色の中に、答えがあるみたいに。
私は戸惑った。姉さんはいつだって、私のことを面白がる。私が何かを掴みかけた瞬間に、その手から落とさせる。そういう人だと思っていた。……いや、そういう人だった。
だから私は、構えてしまう。からかわれると思っていた。何なら、覚悟もしていた。
「遅いよー」とか、「やっとかー」とか、「ほら見て、雪乃ちゃんのほっぺた赤ーい」とか、そういう軽薄で正確なナイフで切り刻まれる準備はできていた。
なのに。
「おめでとう、雪乃ちゃん」
姉さんは、私の方を見て、そう言った。冗談抜きの純粋なる祝辞。
その声は、妙に柔らかい音に満ちていた。
「…………」
私は言葉を失った。嬉しい、とは違う。もどかしい、でもない。ただ、予想と違うことが起きた時の、脳の停止に近い。
「……ありがとう」
なんとか言葉にした。
私の声は少し掠れていた。恥ずかしくて、咳払いをする。
「いやー……」
姉さんが小さく息を吐き、カップが運ばれてくる。コーヒーの香りがふわりと広がった。姉さんはそれを一口飲んでから、再び窓の外へ視線を戻す。
カップを持つ指先が、ほんの少しだけ止まった。外の景色を眺めながら、姉さんはどこか遠いものを見るような表情をしていた。それは、何かを懐かしむようでもあり、感慨深げでもあり、私の知っているどの顔とも少し違って見えた。
「姉さん……?」
思わず、声をかける。
「あー……いやね」
姉さんは小さく息を吐き、微笑んだ。
「なんて言うかさ。ちゃんと、春が来たんだなーって思って」
意味が、すぐには分からなかった。
私は困惑したまま、黙って姉さんを見る。
「姉さん……?」
「ん? なに?」
いつもの姉さんに戻ったようで、でも戻っていない。
私はその曖昧さに、少しだけ救われ、少しだけ怖くなった。
「それで?」
コーヒーカップをソーサーに置き、姉さんは胸の前で両手の指を絡めた。
「今日はそれを言うためだけに呼び出したわけじゃないでしょ」
……さすがだ。
私は小さく頷いた。私は少し黙ってから、正直に言った。
「どうすればいいのか、分からなくて」
「……は?」
姉さんがきょとんとした。
それは演技ではなく、本当に理解できていない顔だった。
「だから……その……」
私は歯切れ悪く続ける。
普段なら、言葉が足りない人間を責める側なのに、自分の言葉が足りないのは耐え難い。
「お付き合いって、何をするのが正解なのか分からないの。どう振る舞えばいいのかとか、どこまで踏み込んでいいのかとか……全部」
言い終えて、私は自分が情けなくなった。こんな初歩的なこと。恋愛だの、交際だの、そんなものは、世の中に溢れている。けれど私は、そこからずっと一歩引いた場所にいた。引いたというより、最初から立ち入り禁止の柵の外にいた。
姉さんが固まった。
一秒。二秒。
そして──
「……っ、あはははははははは!」
爆笑。
「ちょ、ちょっと……!」
「ごめん、ごめん、だって……!」
姉さんは涙を拭いながら笑い続ける。
「雪乃ちゃんが! そんな! 初心者みたいなことで悩むんだもん!」
「初心者よ……!」
私はむっとして言い返した。事実だから腹が立つ。
「そっかー……。そっかそっか……」
姉さんは笑いを落ち着かせながら、少しだけ真面目な声になる。
「一般論で言うならね、正解なんてないよ。……でも──」
カップをテーブルに置いて、姉さんは指を折る。
「一緒にいて楽しいことをする。相手の好きなものを知る。嫌いなものを避ける。気を遣いすぎて余計なことをしない。疲れたらちゃんと言う。……あと、相手を試そうとしない」
私の胸が少し痛んだ。
試す。
私は、彼を試してはいないか。彼の優しさに甘え、彼の諦めに寄りかかり、彼の自己犠牲を当然のものとして扱ってはいないか。
「……難しいわね」
「難しいよ。恋愛ってめんどいし」
姉さんはあっけらかんと言う。
「でもね、雪乃ちゃん」
姉さんは少しだけ声を落とし、微笑んだ。
「好きなところに連れて行けばいいのよ。彼の負担にならない程度にね」
その結論は、驚くほどシンプルだった。
私は小さく頷く。
「……それだけ?」
「それだけ。あとは勝手に転ぶから」
「……転ばないようにしたいのだけれど」
「転ぶのも含めて付き合うってことだよ」
姉さんは軽く肩をすくめた。
そして──すぐに、目の色が変わった。
「で?」
「……なに」
「どんな風に告白されたの?」
来た。私は顔をしかめる。
「……言わない」
「言うまで帰らないよー」
「帰りなさい」
「むーりー」
子どもみたいなやり取りを数分続けた末、私は観念した。姉さんに対して隠し通せた試しがない。隠し通せたとしても、いずれ別の角度から刺される。
「……私から言ったの」
「へえ?」
姉さんが身を乗り出す。やめてほしい。捕食者の目だ。
「言葉は……」
「言葉は?」
私は息を吸い──吐いて。
「『あなたの人生、私に下さい』って」
姉さんの口が、ぽかんと開いた。目が一回だけ瞬いた。脳が処理落ちしている時のそれだ。
「………………重くない?」
思わず、という風に姉さんが漏らした。その言い方が、あまりにも素直で、あまりにも率直で、私はカッとなった。恥ずかしさが怒りに変換される。私は普通の人間だ。
「他の言葉が思い付かなかったのだから仕方がないじゃない!」
早口で捲し立てる。自分でも分かる。今の私は、完全に拗ねている。
「だって……だって、そういうのしか思い付かなかったのよ。好きとか、付き合ってとか、そういう軽い言葉が……私には、どうしても」
言いながら、喉の奥が詰まる。私は、軽い言葉が怖い。軽い言葉は、軽いまま消えるから。
姉さんは、笑った。けれどそれは、さっきみたいな爆笑じゃない。やさしい声音だった。
「……ほんと、雪乃ちゃんらしい」
姉さんは立ち上がり、私の横に回り込んで抱きしめられる。そして、軽く私の頭を撫でた。その手つきは、驚くほど優しかった。
私は固まった。姉さんが私に優しいのは、いつだって裏がある。
──そう思ってしまう自分が、嫌になる。
「大丈夫」
姉さんは小さく言った。
「その言葉を重いって思う人もいる。でも、あの子は……」
姉さんの視線が、一瞬だけ遠くなる。
「たぶん、重いって思いながら、その重さを抱えて笑うタイプだよ」
私は、その言い方に少しだけ安心した。彼なら。比企谷くんなら。そう思えること自体が、以前の私とは違う。
「……それで、彼はなんて?」
姉さんが尋ねる。
私は目を逸らして、少しだけ口元を緩めた。
「……『人生が歪んだって知らねぇぞ』って」
「うわ、言いそう」
姉さんが笑う。
「……姉さん」
「ん?」
「私、怖いの」
言ってしまった。こんな弱音、姉さんに言うつもりはなかったのに。
「怖いって、なにが?」
姉さんの声はからかいを含まなかった。だから私は続けられた。
「失敗するのが。壊すのが。……彼を傷つけるのが」
「うん」
「私が、何か間違えたら……」
姉さんは、私の頭から手を離し、目線を合わせるように屈んだ。その顔は、珍しく、姉ではなく「大人」だった。
「間違えるよ。絶対」
姉さんは言い切った。
「でも、間違えたら直せばいい。謝ればいい。向き合えばいい」
私は黙って聞いた。姉さんのそういう言葉は、たぶん、経験から来ている。経験の重みは、軽い慰めより信頼できる。
「……それに」
姉さんが少し笑う。
「雪乃ちゃん。間違えたら怖いって思える時点で、もうだいぶマシだよ」
「……姉さんは?」
「私は間違えても平気って顔するタイプ」
「最悪ね」
「最悪でしょ」
姉さんは肩を揺らして笑った。
その後、姉さんは案の定、根掘り葉掘り聞いてきた。どこで。いつ。どういう空気で。何を言って。どういう顔で。私は半分うんざりしながら、半分だけ、その質問が嬉しかった。
姉さんは私を弄っているのに、今日は妙に丁寧だ。その丁寧さが、逆に胸に刺さる。
帰り際。店を出る直前に、姉さんがぽつりと呟いた。
「……雪乃ちゃん」
「なに」
「本物になりなよ」
私は返事をしなかった。代わりに、ほんの少しだけ頷いた。
その瞬間、姉さんの目が、ほんの少しだけ潤んだ気がした。気のせいかもしれない。でも、そうだったらいいと思った。
──────
同じ頃。
比企谷八幡は、駅前のロータリーで、死刑宣告を待つ受刑者みたいな顔をしていた。
呼び出したのは八幡だ。ラインにて「話があるので会ってください。陽人さんの都合に全面的に合わせます」と、普段は絶対出さない勇気まで使って送った。なのに、会う前から胃が痛い。
雪ノ下雪乃と付き合った。
それは幸福な出来事のはずなのに、八幡の体はそれを危機として処理しているらしい。手のひらは妙に湿っていたし、背中には嫌な汗が浮いていた。
────つーか、なんで俺、雪ノ下と付き合った報告をその兄にしに行ってんだよ。普通そういうのって、段階踏むだろ。せめて雑魚敵からみたいな。いきなりラスボス面談は、難易度調整ミスだ。てか、この家族ラスボスしか居ねえのおかしいだろ。
エンジン音がした。低くて、独特で、鼓膜の奥を撫でるような音。普通の車の音じゃない。目の前に滑り込むように止まったのは、光沢のある青色のFD。その青は、空みたいに爽やかというより、深海みたいに底が見えない青だった。
助手席の窓がスッと下がる。
「乗りな」
運転席にはサングラスをかけたスーツ姿の男。雪ノ下陽人。雪乃の兄だ。
────くそっ、かっこいいなこの人。
その姿は「彼女の兄」というより「物語の登場人物」みたいだった。八幡は唾を嚥下し、ぎこちなく助手席へ乗り込む。シートが体を包む。車内の匂いが、革と香水と、ほんの少しのガソリンの混じった匂いで、妙に現実感がある。
ロータリーエンジンが唸り、FDは滑るように走り出した。窓の外の景色が流れる。
八幡の心臓は、その速度と関係なくずっと早い。
沈黙。
気まずいというより、怖い。八幡は耐えきれず、無意味な話題を口にした。
「……平塚先生みたいな車ですね」
陽人が一瞬だけ黙り、次の瞬間に大笑いした。
「はははっ! そりゃそうだ。俺が真似してんだから」
「……は?」
八幡は思わず声を漏らした。あの教師に憧れる大学生? 想像が追いつかない。
「静ちゃんはマジでカッケーからな」
陽人はサングラスの奥で目を細めて笑った。笑ってる。普通に笑ってる。純粋に。
────怖。逆にこわ。
「それで?」
陽人が、唐突に本題へ戻る。
「要件は? わざわざ俺を呼び出したってことは何かあるんだろ?」
八幡の喉が詰まる。言わなきゃいけない。けれど、言いたくない。言った瞬間、何かが終わる気がする。終わるというか、始まるというか。
陽人は急かさない。ハンドルを握りながら、鼻歌を小さく口ずさむ。車内に流れている音楽と同じメロディだ。クラシックなのか、映画音楽なのか、八幡には判別できない。だがそれが余計に落ち着かない。
「……ゆっくりでいいよ」
陽人が言う。優しい。優しいが、優しさの形が分からない。ナイフを綿で包んだだけの可能性がある。
八幡は深呼吸をして、腹の底から言葉を押し出した。
「……妹さんと、お付き合いすることになりました」
信号が赤になる。FDが止まった。
陽人が、サングラス越しに八幡を見た。その視線が、妙に静かだった。怒ってない。笑ってもいない。評価待ちの沈黙。八幡にとって最悪の空気だった。
信号が青になる直前、陽人の口元がニヤッと歪む。
「比企谷くんは、ウチの親父に似てんな」
「は……?」
八幡は思考停止した。
親父似。
それは褒め言葉なのか。罵倒なのか。呪いなのか。どれでも嫌だ。
FDは再び走り出し、気づけば温泉施設の駐車場へ入っていった。
「……ちょ、ここ、どこですか」
「温泉」
「温泉?」
「ちょっと付き合え」
「いや、話の流れおかしくないですか」
「おかしくない。俺が決めたからな」
問答無用。八幡は、こういうタイプに弱い。強く押されると、反射で引くが、結局押し切られる。世の中、押しが強いほうが勝つ。理不尽。
受付は陽人が慣れた手つきで支払いを済ませた。八幡が財布を出しかけると、陽人は片手で制した。
「いいよ。俺が出す」
「いや、でも……」
「いいって。ここで変に気遣うと、余計めんどくさくなることを覚えとけ」
それは妙に納得できる理屈だった。八幡は黙って財布を引っ込めた。
脱衣所にて、服を脱ぎながら、八幡は横目で陽人を見て固まった。鍛えられた体。筋肉があるではなく、配置されている。無駄がない。というか、無駄が許されない世界の人間の体だ。周囲の客が二度見、三度見しているのが分かる。
見たことないレベルの完成された体だ。八幡は自分の体を反射で見て、虚無になった。
浴場へ入ると、さらに視線が集まる。陽人は平然としている。これが日常なのだろう。付き従って見える八幡だけが異物だった。
体を洗い、湯に浸かる。熱が皮膚から筋肉へ浸透して、ようやく肩の力が少し抜けた。
静かな湯気。水の音。
ここなら、話せる気がした。……いや、話をさせられる気がした。
「それで?」
陽人が言う。主導権は最初から最後まで向こうだ。
「……怒ってないんですか?」
「は? 怒る理由ある?」
「いや、あるだろ……普通」
「普通って便利な言葉だな」
陽人は笑った。
笑ってるが、目は笑ってない。……いや、サングラスじゃないから目は見える。普通に目も笑ってる。怖いのは、笑ってることそのものかもしれない。
「雪乃はさ」
陽人が湯の中で腕を組む。
「強いようで弱いんだよ」
八幡は黙った。反論できない。反論したら、俺が誰より雪ノ下を理解していると言い張るみたいで気持ち悪い。だが否定もしない。そういうところだぞ俺、と八幡は内心で自身を気持ち悪がった。
「比企谷くんは、弱いようで頑丈だ」
「褒めてるんですかそれ」
「たぶん」
「たぶんて」
陽人は肩を揺らして笑う。湯気に紛れて、その笑いが少しだけ大人びて見えた。
少し沈黙が落ちた。湯の音だけが続く。
八幡は、こういう沈黙が苦手だ。沈黙は、相手が何を考えているか分からなくなるから。
分からないものは怖い。
────だから俺は、いつも言葉で埋めるか、逃げる。
「……俺」
八幡は口を開いた。
「雪ノ下を幸せにしますとか、そういうこと言えないです」
「うん」
陽人は即答した。否定しない。
「言えないなら言わなくていい」
「……え?」
「口だけの誓いって薄いから」
陽人の声が、少し低くなる。
「でも、薄いのに頼りたくなる時もある。人は弱いから」
八幡は、妙にその言葉が刺さった。
薄い言葉。俺は薄い言葉が嫌いで、だからこそ、薄い言葉を拒否するふりをしてきた。けれど、本当は欲しかったのかもしれない。薄い言葉でもいいから、誰かに肯定されることを。
陽人は、湯の中で少しだけ姿勢を崩す。
「本物ってやつは見つかったか?」
その問いに、八幡は一瞬だけ息が止まった。
あの頃の言葉。
“本物”
八幡の耳が熱くなる。恥ずかしさと、苦さと、懐かしさが混じる。
「……分かりません」
正直に言う。
────分からない。分からないから、俺は今ここにいる。だが、そのまま終わるのは嫌だった。逃げたくない。逃げる癖が、もう嫌だ。
「でも」
八幡は、はっきり続けた。
「将来の俺たちが見つけると思います」
陽人の表情が、少しだけ変わった。驚き、というより確認が孕んでいる。
「お前、そこに立ってるんだな」という確認。
「……大人になったな」
陽人が、感慨深く呟いた。八幡は、その言葉に居心地の悪さを覚えた。
────大人になった、って。俺はまだ何もできていない。ただ、逃げる方向を間違えないようにしているだけだ。
「一つ、アドバイスだ」
陽人が言う。
ここから、空気が変わった。
湯の温度は同じなのに、体温が一段落ちるような感覚。
「はっきりとしない関係性は脆い。つけ入る隙がいくらでもある」
陽人は淡々と言葉を並べる。言葉が鋭いのに、声は柔らかい。だから余計に刺さる。
「閉鎖的な関係性であったとしても、一つの隙で内部から崩壊する」
八幡は黙って聞く。思い当たる節がありすぎる。
俺たちは、ずっと崩れかけては、偶然で持ちこたえてきた。偶然の上に立っていた。
「人々がこぞって既存の社会的概念に落とし込むのは、合理性を担保して崩壊性を逓減させるためだ」
難しい言葉。
だけど意味は分かる。“彼氏彼女”とか、“恋人”とか、そういうラベルは、関係を守るための枠だ。枠があるから、人は安心して中にいられる。
「男がマイノリティの関係性において、瓦解の兆候は男から始まる」
八幡の胸が少し痛んだ。
────俺から始まる。間違えるな、って言ってる。そう言われると、逆に怖い。俺は、間違えるから。
「踏み外すな。保て」
陽人は、湯を見つめたまま言った。
「八幡、お前が始めた物語だ」
その言葉が、湯気の中で妙に重く響いた。
俺が始めた。
始めたのは俺じゃない。俺は巻き込まれただけ──そう言いたい自分が、喉の奥で暴れた。
でも、違う。
俺は、あの時、手を伸ばした。
望んで、始めた。
だから、終わらせ方も、責任も、俺にある。
陽人が立ち上がる。
「露天行こう」
水滴が肩から背中へ流れる。その背中が、異様に大きく感じる。八幡は思わず、声を漏らした。
「……でけぇ……」
陽人は顔だけ振り向いて、笑った。
「なあ八幡。芥川は好きか?」
「はあ……まあ、好きですけど」
「『鼻』は読んだか?」
「読んだことは……」
「じゃあ、水洟の一句は?」
「……知らないっす」
陽人は鼻を鳴らした。
「俺、見てくれだけはいいんだよ」
その言い方が、妙に自嘲っぽくて。八幡は、なぜか笑えなかった。
──────
陽人が「離縁」という言葉を口にした瞬間、この世界の色が消えた気がした。
いや、正確には私の中で携える意味が死んだのだ。
離縁なんて。夫婦でもないのに。兄妹なのに。
それでも、その単語が私の喉の奥を切り裂く刃になったのは、たぶん私のほうが先に“そういう関係”として世界を見ていたからだ。世界の側ではなく、私の側が。
言葉には重みがあると世の人は簡単に言う。
でも本当は、言葉に世界を終わらせる力なんてない。
世界を終わらせるのは、そこに反応してしまう私自身だ。
私が、私の脳が、私の心が、勝手に終末のスイッチを押してしまう。
────陽人が離れる? 私から?
その可能性を想像しただけで、私は世界から見捨てられた気がした。世界が私を拒絶するのではない。私が世界を拒絶する。だって、陽人がいない世界なんて、最初から“私の存在する意味”が介在しない。
兄妹だから。
そんな理屈は、私の生にとって何の効力もない。
────兄妹というラベルが、私の呼吸を保証してくれる? しない。
────血縁が、私を救う? 救わない。
むしろ呪いだ。逃げ道を潰して、私をこの檻に閉じ込める。
私が彼を求めることは倫理に反するのだろう。社会に反するのだろう。でも、誰のために? 誰の倫理だ?
どうして誰かが作った常識の上で、私は自分の存在を殺さなければならないのか。
正しく生きろ。
普通でいろ。
妹として祝え。
姉として笑え。
それは全部、私の中の私を殺すための言葉だ。
人は愛されたいのではない。認められたいのでもない。
生きていたいのだ。生きたいから、愛も承認も欲しがるだけだ。順番が逆なのに、世間はそこを間違える。
私にとって陽人を失うことは倫理を守ることじゃない。単なる死刑執行にすぎない。温かい言葉で包んだ処刑。正しさという名の絞首台。
そうだ。
私は、死にたくない。
だからこそ私は、陽人を壊してでも抱えていたいのだ。
────壊す? 違う。
壊れる前に、先に手を伸ばすだけだ。奪われるくらいなら、奪ってしまう。世界に奪われるくらいなら、私が奪えばいい。
けれど。
人は、私の欲望をすぐに「肉体」に結びつけたがる。分かりやすいからだ。下品で、簡単で、処理しやすいと。
でも違う。
私は陽人と肉体関係なんて持ちたくない。触れたいのではなく、手に入れたいのでもない。
────意味を、壊したくないのだ。
肉体は、理性を剥がす。愛の発展だなんて綺麗な言い訳を貼り付けているだけで、本質は動物的な衝動だ。息が荒くなり、思考が鈍り、判断が濁る。そんなものを愛なんて呼ぶから、世界はいつも歪むんだ。
私はそこに堕ちたくない。そんな低俗な存在に堕ちるくらいなら、最初から地獄に行く。
私が欲しいのは、身体じゃない。
陽人の時間だ。
陽人の選択だ。
陽人が“私を選び続ける理由”そのものだ。
だから私は、奪うとしても奪い方を選ぶ。噛みつくのではなく、鎖を結ぶ。熱ではなく、誓いで縛る。衝動ではなく、罪で固める。
そして、ようやく気づく。
私の恋敵は、特定の誰かではない。陽人を「正しく」しようとする世界そのものだ。
兄として。男として。社会の一員として。
外の倫理を、陽人自身の言葉で語り始めた瞬間、私は負ける。
だから、負ける前に私の言葉で彼を満たす。彼が私以外の正しさを選べないように。
人を傷つけてはいけない。
兄妹で恋をしてはいけない。
幸せになりたいなら誰かの幸せを願え。
それらすべては、他人が望む正しさでしかない。
他人が望む正しさのために、私が死ぬの?
────冗談じゃない。
私は、誰の正義の燃料にもならない。
────いつかは負ける? どうして? なぜ、雪ノ下陽乃が負けを受け入れないといけないのか。
諦めかけていた完全勝利。黒星なんて、そんなものに価値はない。負けるくらいなら、ルールそのものを壊してしまえばいい。
そして私は、ひとつの真実に到達する。
「正しさ」は、誰かの我慢の上にしか成立しない。
ならば、私が我慢する必要はもう、ない。
私が我慢して築いた正しさに、私が殺されるなんて、滑稽すぎる。
陽人は気づいていない。陽人との血縁が、私をこんな化け物にした。最初から近すぎた。逃げる余地も、諦める余地も、誤魔化す余地もなかった。私がここまで歪んだのは、全部、彼のせいだ。優しいくせに、強いくせに、私を置いていける顔をするからだ。
それに雪乃ちゃん。
あの子が何かを得るたび、私は笑って祝ってきた。姉として、立派に、正しく。
でもその笑顔の下で、私はずっと数えていた。陽人が私を見なくなる理由を、ひとつずつ。
だがしかし、今日、ついにそれがゼロに戻った。雪乃ちゃんは第二の陽人を見つけたのだ。
その確信が取れた瞬間、私は初めて、彼に罰を与える資格を得た気がした。
────罰を与える? 違う。
彼に、私の生存を背負わせるだけだ。彼が私を生かしたのなら、最後まで責任を取ればいい。
それが間違っているなら、この世の正しさは地獄にくれてやればいい。私は地獄で、綺麗な顔をして生き延びる。理性のまま狂う。
そして地獄の門の前で、私は彼の手を取る。逃げられないように、指を絡めて。優しく。丁寧に。
────陽人が壊れないようにね♪
【謝辞】いつも読んでいただいている皆様へ
更新が亀で誠に申し訳ございません。
これからも自分のペースで自分の好きなように書いていきますので、よろしければ気長にお待ちください。
感想等をいつもくださる方も感謝しております。返信等はあまりしておらず申し訳ない気持ちでいっぱいですが、いつも元気や励みをいただいております。