有り得たかもしれない、未来の一つ。
何処にも無いけど、何処かにある。
夢の陛をぬけた先、微睡みの奥にひっそりと。
夢を見た。不思議な夢を。私たちが、今とは違う形でそこにいた。
少しだけ、歪で。少しだけ、不穏で。でも、楽しげに。
ああ、良いかもな。こういうのも、有り得たのかも。
でも実際には、そうならなかったんだ。
目を覚ました後も、その余韻は続いている。
朝の身支度をしていて顔を合わせた時、うっかりとそれを引きずったまま挨拶しそうになってしまったくらいだ。
幸い口を出る前にその言葉は食い留められ、そして形を整えて言い直される。
「おはようございます、――猪股先輩!」
私が猪股家に住まわせてもらうようになって、もう二ヶ月になる。
本当なら親の都合で一緒に外国へ移住するはずだったけど、私は結局こうして日本に残った。とは言え独り暮らしなんか危なっかしくて許可できない、と母は友人へと私を預けたのだ。
そして私は猪股家の居候となり、猪股先輩と一緒に暮らしている。
男子バドミントン部の二年生、猪股大喜先輩。年上にこういうこと考えるのは失礼だろうけど、可愛い感じの人だ。家族ではない男子と一つ屋根の下で暮らす、というのは最初ちょっと怖かったけど、すぐにそれは杞憂だと分かった。だって猪股先輩、好い人だし。……それとまあ、私みたいにワンパクでたくましい女子相手に
――まあ、それはそれとして。
周りに余計な気を遣わせたくないから家を出る時間はズラすけど、朝練で結局一緒になる。学年も部活も違うから、そこだけが学校での接点。最近はそれが、楽しみになりつつある。
帰れば幾らでも話せるし、そもそも朝練中はお互い殆ど喋らない。それでも、この時間がとても心地良い。
猪股先輩を、独り占めしている気がする。
どうやら私は猪股先輩を、好きになりつつあるみたいだ。……困ったことに。まったくもって、困ったことだ。
「千夏っちゃん、お疲れー」
「蝶野先輩、お疲れさまです」
だから雛で良いんだよー、と笑う蝶野先輩と並んで歩く帰り道。そろそろ梅雨入りも近いからか、今日の天気は花曇り。……あれ、花曇りって今時期じゃないんだっけ? まぁいいや。
蝶野雛先輩は、猪股先輩のお友達。新体操部のエースで、全国三位の強者だ。
曇った街さえ照らしてしまうような、輝く笑顔が自慢だと自分で言ってるくらいに元気な人。
そして――。
「大喜さ、千夏っちゃんに迷惑かけたりしてない? あのバカ、迸るほどバカだしさー」
いえいえそんなことは、と返しつつ。二人の距離の置けなさが、少しだけ羨ましくなってしまう。
蝶野先輩は猪股先輩が、好きだから。私はそれを、本人の口から聞いているから。二人を応援したい、と思ってもいる。蝶野先輩の事も、私は好きなんだし。
でも、それでも。私は時々、思ってしまうのだ。
雑談を交わしながらも、心はざわめいていく。
私は所詮、居候だから。ほんの一時期側にいるだけの身だ。
だから、割り込めない。二人の積み上げてきた、強固な関係には。
悔しいけど、でも仕方がない。
……と。考えすぎたせいで会話が不自然に止まってしまっていたのか、蝶野先輩が少し不安そうな顔になっているのが見えた。
いけないな、これは。
「あ……そうだ今朝、変わった夢見たんですよ。私が先輩たちより、上の学年になってる夢なんですけど」
「えー、それ私たちが留年したとかー?」
大喜のバカはともかくさー、とけらけら笑う蝶野先輩。さっきの不安げな色はすぐに消え、再び話は続いていく。どうでも良いような、でも楽しいいつものお喋りが。
もし私も猪股先輩が気になると言ってしまったら、この楽しい時間は失われる。二度と手に入らなくなる。だから今は――、言わないでおこう。
でもあれは、不思議な夢だったな。
猪股先輩が私を千夏先輩と呼んで、私は猪股先輩を大喜くんと呼んで。蝶野先輩……蝶野さんが大喜くんと仲良くなるのが悔しくて、拗ねて線を引いてみたり。それが寂しくて撤回したのに、私は先輩だからとか言って変に遠慮したり。考えてみたら、おかしなものだ。私はどうあっても、この通りなんだから。
――全体で言えば、良い夢だったかな。でも夢の残滓はだんだん曖昧になっていく、それがちょっと寂しい。
でもまあ、もしかしたらまた今夜続きを見られるかもしれない。
私たちがもしかしたら辿っていたかもしれない、いつかの可能性。それを夢に描くため、今日はもう寝よう。
壁の向こうですやすや眠っているであろう猪股先輩に、心のなかでおやすみなさいを呟いて。
明日も幸せであることを願って、私は目を閉じた。