※この小説は小説家になろう様にも投稿しています。
川岸を歩いていると風が気持ちいい。まだ初夏だからか、正午の照り付ける太陽もどこか柔らかく、祝福されているようにすら感じる。大金が手に入った時などは尚更だ。僕は堤防の上に止めて置いたバンの傍らに歩み寄ると、片手に抱えていた真っ赤なキャッシュケースを開いた。中には学問をすゝめてくることに定評がある慶應義塾の創設者の肖像が1ダースほどは整列している。
彼の著書に「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずといへり」という一節があるのは有名だが、これはあくまで彼の主張の前振りであり、この後にもう一節続くことでその文意が完結していることはあまり知られていない。「されども今広く此人間世界を見渡すにかしこき人ありおろかなる人あり貧しきもあり冨めるもあり貴人もあり下人もありて其有様雲と泥との相違あるに似たるは何ぞや」というのがその下の句とも言うべき一文だ。つまり、人は生まれながらに平等な筈なのになぜ格差が生まれるのか?それは賢人と愚人が学ぶか否かによって決まるからだ、というのである。僕のような学生時代を無為に過ごした人間にとっては頭の痛い言葉だ。
しかし、僕がそんな過去の偉人のお気持ちに劣等感を感じる必要がないことは、目の前のキャッシュケースの中身が示している。有り難いお言葉を吐いた偉大なる思想家サマの肖像を無数に意のままにできるということが心地よくて、つい笑みが零れるのを抑えられなかった。そんなちっぽけな優越感を振り払って、キャッシュケースの中身をバンの運転席から取り出したリュックサックに詰め終えてケースを放ると、僕は彼の思想家が言うところの学びを経ずに僕に富をもたらした恩人に挨拶するべく、バンの後部座席のドアを開いた。
そこには一人の少女が座っていた。いや、座らされているというべきか。年齢は高校生くらいだろう。黒を基調としてフリルとレースをふんだんにあしらった華美な洋装をしている。ゴスロリというやつだろうか。首には革製のチョーカーが付けられており、どこかアブノーマルな雰囲気を醸し出している。後ろ手に痛々しく縛られているので余計に。まあ縄の方は僕がやったんだけど。物憂げな表情によく似合う怜悧な切れ長の瞳が差し込んできた日光に驚いたのか眩しげに細められ、ちらりと僕の方へ向けられた。眩しいのはこっちだぜ。
「やあ、ご機嫌いかが?」
僕はそう少女に問いかけたが、彼女はその不自然なまでに深紅の唇を開こうとはしなかった。家族との電話口ですら彼女は複雑な表情で黙りこむだけだった。彼女の声だけは未だに聴けていない。
「君のご家族から身代金を頂いてきたよ。大事にされてるんだねえ。なんか全然外出させてもらえてないみたいだったし。箱入り娘っていうの?誘拐するの大変だったんだから。」
彼女は口を開かない。
「学校も行ってないでしょ。いじめられてたとか?」
彼女は口を開かないし、表情すら変えない。その病的なまでに白い肌には色も差さない。
「まあ知らないし、興味もないけどさ。」
気づけば意固地になって、負け惜しみのようにそう言った。それと同時にむくむくと嗜虐欲が湧いてくる。どうせこの哀れな少女はお前の思うが侭じゃないか。そう自分に言い聞かせて、欲求のままにバッグからナイフを取り出すと彼女の前に見せつけるように振って見せた。
「もう身代金は頂いたからさ。もう君は用済みなんだよね。」
こうして少し脅してやれば少しは声を上げるだろう。
「……」
強情な子だ。僕は最終手段に訴えるべく、彼女の首筋に刃先を向けた。なあに、少し切り傷を付けてあげれば、流石に驚いて声を上げざるを得ないだろう。そう考えて、僕は一時の欲と劣情に身を任せた。ふとチョーカーが邪魔であることに気づき、ナイフを置くと彼女の細すぎず、しかしすらりと通る首筋に手を伸ばす。彼女が拒絶の意思を示すかのように身体をよじるのが少し嬉しくて、なだめるように、割れ物を扱うようにゆっくりと腕を首の後ろに回す。チョーカーの留め金が見えにくかったので覗き込んでやると、白いうなじに後頭部に纏めて結わえた後ろ髪から逃れた数本がその存在を主張して見えた。僕はまた少しだけ劣情を満たすとやっと留め金を外し、いよいよ遮るもののいなくなった首筋を拝もうと正面に向き直った。すると。
そこには無いはずのものがあった。
僅かに戸惑った刹那、首元に伸ばした指に激痛が走った。痛みのあまり手を振り払った僕に畳みかけるように額を衝撃が駆け抜け、視界が明滅する。思わず車外に倒れ出ながらも僕は混乱のただ中にあった。え?ヱ?ゑ?いやでも彼女…いや彼女じゃない?彼はあんなに美しい子で。でも彼は女の子の恰好を。でも兎に角て似合ってたことは僕の感覚が証明していて。をかしさは性別によって制約を受けないってコト?あれ、じゃあ別に問題無いのか。いやしかし…。
眼から飛び込んでくる情報に対する情動と固定概念の整合性を付けられないでいると、どこからか声が聞こえてくる。
「それが…学びじゃよ。」
朧気ながら姿も見え始めた。あれは…あの先ほどまで飽きるほど見ていた仏頂面は…。
「福沢先生…。」
これが学び…か。
僕にそれだけ伝えて福沢先生は掻き消えた。サンキュー学問のすゝめ。代わりに意識が覚醒すると、口の周りをやや鈍い朱に染めた彼女…否、彼がいつの間にか解いた縄を放り棄てて倒れた僕を見下ろしていた。縄の方はどうやら付け爪が悪さをしたらしい。しかしキレイだな。僕のくだらない血潮で彩ってもなお、美しい。いや、新しい概念を学んだからといって、それを理性が受け入れるかどうかは別の話だ。末期の抵抗の言葉を脳内で唱える僕に現実を突きつけるかのように、彼が表情なく口を開いた。
「ありがとう。外に出してくれて。」
変声期のテノールがどこか落ち着いた響きで僕の耳に飛び込んでくる。いかん。これはこれでありだな、などと考えてしまっている。先ほどの頭突きのダメージが残っているのだろうか。いやでもくるものがあるなこれは。今回ばかりは僕も自身の見識の浅さを恥じざるを得ない。福澤先生、僕がバカでした。
僕が煩悩に敗北している間にも、彼はハッとして自分の恰好を見下ろすと少し頬を赤らめた。もしかして本人の趣味ではないのだろうか。家の事情であの恰好をしているのかも。そこまで考察して、考えるのを止める。彼女の装いの背景なんてものは重要なことじゃない。それよりも今はかけるべき言葉がある。僕はついに健気にも抵抗する固定概念を振り払うと、いっそ清々しい気分で笑顔を作って彼に声をかけた。
「大丈夫。似合ってますよ!」
僕は返答に降ってきたキャッシュケースの形状を脳で覚える羽目になった。
某月某日午後二時、通行人が堤防の護岸コンクリートの上に空の赤いキャッシュケースだけが遺棄されているのを発見した。中身の行方は誰も知らない