やはり仮想現実でも俺の青春ラブコメはまちがっている。   作:鮑旭

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第10話 其々の抵抗

 魔法によって蘇生されたフリックは、微動だにせず草原に横たわっていた。大の字になって空を見上げたまま、しばらく呆然とする。そんな彼の顔をサクヤが上から覗き込んだ。

 

「気は済んだかフリック」

「サクヤ様……」

 

 フリックの返事には模擬戦前のような威勢の良さはなかった。ノロノロとした動作で起き上がり、ため息を吐く。

 たった1人を相手に、6人掛かりで手も足も出なかった。その事実はサクヤの護衛として日々精進してきたつもりの彼を打ちのめすのに十分なものだった。

 

「不甲斐ありません……。あれだけ啖呵を切っておきながら、私は……」

「そう落ち込むな。今回は相手が悪かったよ」

 

 意気消沈するフリックの背中に、サクヤは明るく声をかける。(くだん)の相手であるハチに視線を向けると、先ほどの戦いで見せた強者の雰囲気が嘘のように、今はひとり居心地が悪そうにしながら槍を弄っていた。その落差がなんだか可笑しく思えて、サクヤは小さく笑う。

 

「しかしまあ、これでわかっただろう。今さら警戒するだけ無駄なのさ。彼にその気があったのなら、これまで私を討とうとするチャンスはいくらでもあったんだ。あれだけの実力を持っているのだからな」

 

 言いながら、彼女はフリック以外の仲間たちにも視線を送る。完全に納得したわけではないだろうが、護衛団のメンバーはお互いに顔を見合わせつつ、小さく頷いた。

 

「彼がサラマンダーの密偵だという危惧も要らぬ心配さ。モーティマーなら彼をもっと上手く使うだろう」

「そうですね……」

 

 頷いて、フリックがようやく立ち上がる。

 ハチというプレイヤーは、密偵として使うには過ぎた駒だ。知将と呼ばれるモーティマーならばそんな采配は取らないだろう。その見解はフリックも一致していた。

 

「……ただ、ひとつ気になることがあります」

 

 フリックは声を潜めてそう言った。サクヤに歩み寄り、小さく耳打ちをする。

 

「最近アルヴヘイム各地に出現している妙に強い初心者(ニュービー)たちの話はサクヤ様もご存じでしょう。彼らはあのSAOの生き残りだという噂があります。もしかしたら、あいつも――」

「フリック」

 

 その先を遮るようにして、声を上げた。穏やかな、しかし有無を言わさぬ意志を持った瞳で、サクヤはフリックを見つめる。

 

「その詮索はマナー違反だ。そして意味のないことでもある。大事なのは彼が我々に友好なプレイヤーであり、強力な力を持っているということだ。違うか?」

「それは……いや、そうですね」

 

 フリックは圧倒されるように頷き、ひとつ息を吐いた。そうして少し考え事をするように俯き、やがてその視線をいまだひとり居心地が悪そうに立っているサラマンダーの男に向けた。

 

「お前……いや、ハチと言ったか」

「ん、ああ」

 

 ハチの目には警戒の色が見て取れた。また突っかかって来られたら面倒だなと彼は内心で危惧していたが、そんな予想に反してフリックは深々と頭を下げる。

 

「悪かった。侮っていたのは私の方だったようだ。お前のような男がサクヤ様の護衛に力を貸してくれるのなら心強い。よろしく頼む」

「え、あ、ああ……。よろしく」

 

 ハチは挙動不審になりながらも、何とか差し出された手を取った。どうやらこれ以上のトラブルは避けられたようだとほっと息を吐く。そんな彼の下にサクヤも歩み寄っていった。

 

「しかしきみ、なんだか昨日より強くなっていないか? もしかして、力を隠していたのか?」

「いや、そんな器用な真似できないっつの……。勘を取り戻そうと思って、ちょっと自主練したくらいだよ」

「自主練? 昨日、あの後でか?」

「昨日の夜と、今日の朝だな。その辺で槍振り回したり、適当にモブと戦ってきた」

「それだけであれほど変わるものなのか……」

「いやまあ、結構ブランクあったし……。あ、それよりちょっと魔法のことについて聞きたいんだけど、いいか?」

「構わないが、魔法のことなら私よりニナに聞いた方がいいな。ええと……」

「サクヤ様」

 

 会話を続ける2人を制止するように、フリックが割り込んだ。彼は時刻を確認しながら言葉を続ける。

 

「模擬戦で時間を取ってしまったので、あまりのんびりしている余裕がありません。申し訳ありませんが、お話は道すがらということでよろしいですか」

「おっと、そうだったな。ハチ君、悪いがそういうことだ。ひとまず出立を……の前に、せめて全員の自己紹介くらいはしておくか。まだ名前も把握してないだろう?」

 

 そう言ったサクヤが護衛団を整列させて、順番に簡単な自己紹介を行う。1度に全員の名前を覚えきる自信は全くなかったが、ハチは空気を読んでうんうんと頷いていた。

 その後はハチも組み込んだ隊列について軽く打ち合わせをして、すぐに出立となった。しばらくは見晴らしの良い草原でモンスターの出現率も低いため一行に緊張感はなく、雑談も交わしながらの和やかな行軍である。

 もっともサラマンダーを敵視していたフリックが態度を軟化させたため、護衛団の他のプレイヤーたちもハチを受け入れる空気を作り始めていた。積極的にハチに話しかけようとするメンバーも存在し、雰囲気は悪くない。話しかけられた当の本人は、少し居心地が悪そうにしていたが。

 薄緑色の(はね)を持つ妖精たちの中に、ひとり交じって異彩を放つ赤い燐光。北へと飛び立つ一行の中で、彼の濁った瞳は山脈の向こう側――遠くアルヴヘイムの中心に(そび)え立つ世界樹を見据えていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 現実時間、午後7時頃。

 既に風呂も晩飯も済ませた俺は、上下スウェットという楽な格好で自室のベッドに横たわっていた。スマートフォンを耳に押し当て、電話の向こうのキリトに話しかける。

 

「つーわけでひと悶着あったけど、その後は割と順調だな。今は蝶の谷とかいうところの手前でキャンプ地作って休憩してる」

「あーなるほど、ハチは西回りで行ってるのか。俺は今ルグルー回廊の手前だよ」

 

 会話の内容は、言わずもがな互いの状況報告である。ログアウトする度にメールを送り合ってはいたが、タイミングが合わずこうして通話するのは昨日と合わせてもまだ2回目だった。もっと小まめに連絡を取りたい気もするが、互いのパーティメンバーの都合もあってログアウト時間を合わせるのが難しい。現状大きな問題もないので、しばらくはゲーム攻略優先で連絡は二の次ということになっていた。

 今回はたまたまタイミングが合ったので、こうして通話でやり取りをしている。直接話さなければ取りこぼしてしまう情報も多いので、ここでキリトと話が出来たことは正直助かった。

 

 どうやらキリトの方も順調に世界樹に向かっているようだ。アルヴヘイムの中心に位置する世界樹は四方を山脈に囲まれているのだが、この山脈は標高が高く頂上付近は飛行制限区域に設定されているため空からの山越えは不可能であり、ここを抜けるにはいくつか存在するルートを選んで通る必要がある。

 そのルートのひとつが蝶の谷であり、ルグルー回廊だ。シルフ領から世界樹に向かうのならばキリトの言うルグルー回廊を通るのが最短ルートのようだが、俺は開始位置が若干西よりだったことと、シルフとケットシーの会談場所の関係で蝶の谷を通ることになったのだった。

 俺がシルフ領領主サクヤに傭兵として雇われることになった経緯は、既にキリトに説明してある。世界樹攻略においてはキリトもセットで雇われることについても了承済みだ。

 

「今日中にアルンで合流は……微妙なところかな。明け方までやってれば着ける気もするけど、リーファ……あ、俺のパーティメンバーの名前な。彼女の都合もあるし」

「まあ明日合流出来ればいいだろ。こっちもシルフとケットシーの会談に付き合うことになってるし、それが夜中の1時の予定だからな」

 

 顔合わせを兼ねてということで、俺も2種族の会談に出席することになっている。ただサラマンダーの俺がいきなり顔を出すと要らぬ混乱を招く可能性があるので、正式に同盟の調印が終わって、俺という傭兵をひとり雇ったことをケットシーに説明してからになる予定だ。それまでは少し離れた場所で待機ということになるだろう。

 

「2種族の同盟か……それは協力して世界樹を攻略するために、ってことでいいんだよな?」

「ああ。細かいことは他にも色々あるっぽいけど、メインはそれだ」

「そこに一枚噛ませて貰えるのは大きいな……。俺たちだけでの世界樹攻略を諦めたわけじゃないけど、正直難易度が高いのは事実だし」

「まあな。けど全部順調にいっても準備に時間が掛かるから、実際に動けるのは最短でも1、2か月は掛かるって話だ。最初からそれを当てにはしたくない」

「わかってるよ。俺だって、少しでも早くアスナを助けたいんだ」

「……なあ。俺たち、アスナに近づいてるんだよな」

 

 弱音を吐くつもりなどなかったが、気付けばそう口にしてしまっていた。キリトとALOを始めてから、ずっと感じていた不安だった。

 あの鳥籠の姫君という存在は、本当にアスナと関係があるのか。実は俺たちの推察は全くの見当違いで、ALOと未帰還者たちの間には何の関係もないのではないか。そうなれば、俺たちがしていることはただの時間の浪費だった。

 当然キリトも俺と同じ不安を感じているはずだ。しかしキリトは少しの沈黙の後、迷いを振り切るように言葉を発した。

 

「今は、そう信じて進むしかない。それに迷ってる余裕もないぞ。俺たちの推測通りなら、一刻の猶予もないんだ。アスナたち未帰還がどんな扱いを受けているかはわからないけど……300人も拉致するような奴らだ。ろくでもないことを企んでるのは間違いない」

「……そうだな。悪い、馬鹿なこと聞いた」

「まあ弱気になる気持ちもわかるさ。でも、今は全部置いておこう。全ては世界樹の上に辿り着いて、鳥籠の姫君とやらに会ってからだ」

「ああ」

 

 不安を拭い去ることなど出来るはずもなかったが、俺は努めて気丈に頷いた。キリトだって、目的さえはっきりと見えないこの状況を手探りで進んでいるのだ。俺だけがここで折れるわけにはいかない。

 あるいはアスナも、何処かで足掻いているのだろうか。いや、鼻っ柱の強いあいつのことだ。大人しく囚われの姫君になっているわけはないだろう。

 

「あ、やべっ。リーファとユイを待たせてるんだった。そろそろ行かないと……」

「わかった。ちょっと早いけど俺もインしとくか」

「オーケー。じゃあ、また後でな」

「おう」

 

 通話を切って、スマートフォンをベッドサイドに置く。次いでナーヴギアを手に取った俺は、それを頭に装着してベッドへと横になるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 アルヴヘイムの中心、天高く聳える巨木《世界樹》。

 その一端。長く伸びた枝葉の先には、巨大な鳥籠が吊るされていた。

 金色の格子で造られた鳥籠の中は思いのほか殺風景で、広い空間には白い大理石の丸テーブルと椅子、その傍らに天蓋付きのベッドがぽつりと置かれているだけである。純白の天蓋には精巧な細工が施されていたが、調度品の少ないこの部屋ではかえって空々しさがあった。

 《鳥籠の姫君》と呼ばれるかの少女――結城 明日奈は、長い間この檻の中に囚われていた。時折訪れる小鳥たちと戯れる以外の時間は、硬く冷たい椅子に腰かけて日がな一日格子の隙間から外を眺めるだけ。そんな生活を、彼女は既に2か月ほども続けている。

 四方を囲む金色の格子ひとつひとつの間隔は大きく、一見簡単に間を通り抜けられそうに見えるが、実際には決して外に出ることが出来ないようシステムに設定されている。ここ唯一の出入り口はアルヴヘイムには似つかわしくない鈍色の自動ドアで、キーパッド入力による暗証番号でロックされていた。

 

 アスナはいつものように白い椅子に腰かけ、これからのことを静かに思案していた。事態はどんどんと悪い方へと向かっている。おそらく、猶予はもう幾ばくも無いだろう。これから自分は、どう立ち回るべきか――。

 

 そんな彼女の思考を邪魔するように、唐突に自動ドアが開いた。現れたのは、豪奢な衣装を着こんだ長身の男。彼は苛立たし気に足音を響かせながら、アスナへと歩み寄った。

 

「全く! きみは本当にじゃじゃ馬だなぁ!!」

 

 長い金髪を振り乱しながら、男は恫喝するように大声を上げた。アスナは彼に一瞥もくれなかったが、男は乱暴に彼女の頬を掴んで顔を向けさせる。

 

「部下に報告を聞いて、飛んで帰ってきたよ。一体どうやってここを出たんだい?」

 

 質問には答えず、アスナはただ男を睨みつけた。今すぐにでも男の手を振り払って一発パンチをお見舞いしてやりたいところだったが、この仮想世界のシステム管理者であるこの男には何をしても無駄である。せめてもの抵抗として、アスナは固く口を閉じたのだった。

 

 男の言う通り、アスナは既に一度ここからの脱出を試みていた。そして、その半ばで失敗した。

 システム上の抜け穴を利用して自動ドアの暗証番号を手に入れ、この鳥籠から出るまではよかった。しかしこの仮想世界からログアウトするにはシステムコンソールが必要であり、それを見つけ出してログアウトボタンを押す前にアスナはここの職員だという男たちに発見されてしまったのだった。現在のアスナは戦闘能力をほとんど保持しておらず、必死の抵抗も空しく結局は再びこの鳥籠へと連れ戻されることになった。

 

 当然の如く自動ドアの暗証番号は再設定されてしまった。同じ方法での脱出は難しいだろう。

 しかし、全てが振り出しに戻ってしまったわけではない。この鳥籠を出た先の通路の構造を多少でも把握できたし、コーンソールの位置も確認出来た。それに何より、ひとつ()()()を手に入れることが出来た。

 ここで男にそれが発覚すれば、間違いなく取り上げられてしまうだろう。絶対に隠し通さなければならない。その意思をもって、アスナは男を一層強く睨みつけた。

 

 数秒間の睨み合いの末、根負けしたのは男の方だった。苛立ちを吐き散らすように息を吐いて、アスナを掴んでいた手を解放する。

 

「……だんまりか。まあ、いい。どうやってここから出たのかは知らないが、もう同じことが出来るとは思わないことだ。これからは監視を強化させるし、扉のコードも随時変更させて貰う」

 

 言って、男はアスナの表情を伺うように再び彼女に視線をやった。しかし無表情に沈黙を続ける彼女の様子を見て、期待した反応を得られなかったのか、拍子抜けしたように肩をすくめる。

 

「ふん。もっと絶望した顔を見せてくれるかと思ったけど、まだそんな目が出来るんだねティターニア」

「私の名前は結城 明日奈よ。妙な呼び方をしないで、須郷さん」

「ここでは妖精王オベイロンだと言っただろう。興が冷める」

 

 須郷と呼ばれた男は目を細め、アスナを見下ろした。それを見つめ返しながら、彼女は顔を顰める。

 目の前の男の姿はリアルの彼とは似ても似つかないブロンドヘアの美丈夫だったが、そんな表情をすると何処か面影があるような気がするとアスナは思った。常に何処か人を小馬鹿にしたような、あのいけ好かない糸目の男の面影だ。

 

 須郷 伸之――レクトフルダイブ技術研究部門の主任であり、アスナとは家族ぐるみの付き合いがある人物である。父からは婚約の話も勧められるほどの関係だったが、しかしアスナ自身は昔からこの男が嫌いだった。

 何か明確なきっかけがあったわけではない。だがそんな自分の感性は間違っていなかったのだと、今のアスナは確信していた。

 

 2か月前、茅場晶彦との戦いでハチを庇ってゲームオーバーになった後、アスナは気が付けばこの鳥籠の中に横たわっていた。まさかここが死後の世界なのかと困惑するアスナの前に現れたのは、妖精王オベイロンの姿をした須郷伸之だった。

 混乱するアスナに対し、自己顕示欲の強い彼は得意げに全てを語りだした。

 SAOサーバーに繋がるルータに細工を施し、ゲームクリアの瞬間一部のプレイヤーたちをこの世界へと拉致したこと。そして彼らを利用し、ナーヴギアやアミュスフィアの放つ電子パルスによる思考、感情、記憶の改変を行う実験を行っているということ。

 

 つまり目の前に立つ男こそ、自分をこの鳥籠に閉じ込めた張本人。そして、本来ならば解放されるはずだった300人ものSAOプレイヤーを再び電脳世界に拘束し、非人道的な人体実験に利用する姑息な犯罪者であった。

 

「……こんな企み、長く続くはずがないわ。いつか誰かが貴方に辿り着く」

「ははははっ! 誰が辿り着くっていうんだい? 政府や警察は無能ばかりさ。この情報世界のことを何も理解しちゃいない」

 

 須郷のこの発言はただの虚勢ではなかった。実際警察は須郷の企みに気付いていなかったし、事件との関与に疑いこそ持っていたが結局その尻尾を掴むには至っていない。サーバー維持費の節約というちゃちな理由でALOというゲーム内に研究所を構えている須郷だったが、それが隠れ蓑として機能している側面もあった。

 そんな警察の捜査事情などアスナは知る由もなかったが、実際にこの2か月の間に救助が現れることはなかった。だからこそ傲慢に笑う須郷に反論することも出来ず、アスナは黙って拳を握りしめた。そんな彼女の様子を見て、須郷はいやらしい笑みを一層深くする。

 

「ああそれとも、もしかして彼らに期待しているのかい? SAOを終わらせた、あの英雄くんたちに」

 

 堪えきれないとばかりに、須郷は再び不快な笑い声を上げた。興奮に息を荒げながら、言葉を続ける。

 

「これはお笑い(ぐさ)だねぇ! SAOでどんな活躍をしたのか知らないが、あんなのは現実世界じゃあ何の役にも立たないただのガキどもさ!」

「……2人に会ったの?」

 

 目を見開いて、アスナが問いかけた。須郷はその反応を楽しむようにじっとりと彼女を見つめながら唇を舐める。

 

「ああ。きみの眠る病室で僕たちの婚約のことを話して煽ったら、キリトとかいうガキは悔しそうに顔を歪めていたよ。もうひとりの目の腐ったガキは……ハチとか言ったかな。どうにもPTSDを患っているようでね。きみの顔すらまともに見れないみたいだよ。ははははっ! とんだ英雄サマもいたもんだっ!」

 

 心底可笑しそうに笑う須郷の前で、アスナは表情を隠すように顔を伏せた。それが失望からの反応だと考えた須郷は、さらに追い打ちをかけようと嬉しそうな表情で口を開く。

 

「ん? どうしたんだい? もしかしてショックだったのかな? きみのゲーム友達が、役立たずの能無しだったと知って」

「……出て行って。もう、気は済んだでしょう」

「ふん。そうやって普段からしおらしくしていれば可愛げもあるんだけどねぇ」

 

 俯いて声を震わせるアスナを見て満足したのか、須郷は軽く息を吐いて彼女から距離を取った。

 

「まあいい。研究は完成間近だ。もうすぐきみの感情は、僕の思うがままになる。そうなったらたっぷりと可愛がってやるさ」

 

 捨て台詞のようにそう言って、須郷は鳥籠の中から出て行った。それを見送ってから、アスナは俯いたまま心の中で喜びの声を上げた。

 

 ――ハチくんは……ハチくんは、生きてる!

 

 この鳥籠に囚われてから、それがアスナの最大の憂慮だった。

 SAOがクリアされる以前、アスナが覚えている最後の記憶は、ハチと茅場晶彦の一騎打ちの光景だ。そしてその一騎打ちは、ハチの敗北という形で終わってしまった。

 ハチの死が目前に迫った瞬間、アスナの頭の中は真っ白になった。そして次の瞬間には、彼の下に駆け出していた。

 システムによる拘束をどうやって抜け出したのか、自分でもわからなかった。ただ気付けばハチを庇い、彼に振り下ろされるはずだった刃をその身に受けていたのだった。

 アスナの無防備な背中を切り裂いた凶刃は、一撃で彼女のHPを全損させた。予想外の事態に戸惑うハチの腕の中で、そうしてアスナはゲームオーバーを迎えたはずだった。

 しかしアスナの意識は消失することなく、気付けばこの鳥籠の中で囚われの存在となっていた。そしてそこに現れた須郷信之によって、SAOがクリアされたことを告げられたのだ。

 

 SAOがクリアされたということは、自分がゲームオーバーになった後に誰かが茅場晶彦を倒したということだろう。しかし、あの状況からハチがもう一度戦うことが出来たとは思えない。きっと他の誰かが、おそらくはどうにかしてあの場に駆け付けたキリトが茅場晶彦を倒したのだ。

 

 しかしそうなると、気になるのはハチの安否だった。自分が庇ったことで1度は命を繋いだとは言え、茅場晶彦にその気があれば彼を殺すことなど造作もないことだったろう。もしあの後、再び茅場晶彦の剣が彼に振り下ろされていたとしたら――。

 

 ここに閉じ込められるようになってから、アスナは幾度もそんな想像をして、その度にそれを否定してきた。きっと彼は生きている。そして無事に現実世界に帰還したはずだ。祈るように、何度も何度もアスナは自分にそう言い聞かせてきた。

 しかしどれだけ前向きに考えようとしても、不安は確実にアスナの心を蝕んでいた。先の見えないこの状況では、どれだけ気丈に振舞っても彼女の心は弱っていたのだ。

 

 しかしハチの生存という吉報が、アスナの心に火を灯した。他でもない須郷信之が、アスナの不安を綺麗に打ち払ってくれた。

 当の本人はアスナの心を折ろうとしたのだろうが、見当違いもいいところだった。自分を絶望させるためには、彼らは死んだと嘘を吐くべきだったのだ。

 まったく、頭はいいのかもしれないが、詰めの甘い男だ。自分が一度ここから脱出出来たこともそうだし、きっとこの状況でもまだ何処かに付け入る隙はあるだろう。

 しかし喜んでばかりもいられない。須郷によれば、ハチはPTSDを患っているという話だ。まず間違いなく、要因のひとつは自分だろう。なんだかんだと言って責任感の強い彼のことだ。戦友のゲームオーバーと未帰還者たちの件を繋げて考えて、自分を責めているに違いない。それを救えるのは、きっと自分だけだ。

 

 アスナは大理石の椅子から席を立って、豪奢なベッドへと腰を下ろした。左手で大きな枕の下をまさぐると、硬い感触が指先に触れる。

 ここからの脱出は、きっとこれが鍵になる。前回の脱出未遂の際に手に入れた戦利品――銀色のカードキー。

 システムコンソールに刺さりっぱなしになっていたそれを、アスナは何とかここまで隠して持ち帰っていた。アクセスできるシステムコンソールそのものがなければ役には立たないが、今はこれが外に繋がる唯一の手掛かりだ。

 枕の下から取り出して眺めることはしなかった。部屋は監視されている可能性が高いし、見つかれば取り上げられてしまうのは間違いないだろう。

 誰にも見られないよう、アスナは強くカードキーを握りしめた。そして、強く決意する。

 一刻も早く、ここから脱出して彼に会うのだ。彼の前に立って、もう大丈夫だよと笑ってみせよう。そして今度こそ、あの約束を果たすのだ。

 

 ――待っててね、ハチ君。

 

 遠く、鳥籠の外を眺める。その瞳には、揺らぐことのない不屈の意思が宿っていた。

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