まあ……この展開でいわくつき、だもんね。聞くまでもなかったね。
スズカもみんなも想像できてる通り。実にストレートなモノ。
蹄鉄に祈りを捧ぐの。自分の血というお供え物を用意してね。
時間は夜の十二時を回ったところ。
月明かりだけが眩しい空の下、他に誰も居ない練習レース場にスターさんは居た。
練習でもストレス発散でもなく。おまじないを実行するために。
「神様、私に。アイを……下さい」
ポーチに入れてあった小さいカッターを指の腹に当て、溢れ始めた血でこれまで共に戦ってきた蹄鉄の表面をなぞった。
滲むこともなじむこともなく、血はアルミの表面を伝っていく。両方の靴におまじないを施したら、かすれた血で染められた靴を履いて。スターさんはレース場を走り始めた。
悔しさ、憎らしさを原動力に、深夜のレース場を全力で回り続けた。
脚にヒビが入ることも気にせずに。寧ろ壊れてしまえと念じるくらい一心不乱に。
走っていたというより走らされていたといった方が無難かな。
見えない何かに突き動かされるように、鬼気迫る表情で走り続けていた。
誰も来るはずのないレース場。けれどいつだって例外は訪れるもの。
「……スター! だめだ、こんなこと! 止まってくれ、お願いだ!」
草木も眠る時間だっていうのに、トレーナーが止めに来たの。
どうも同室の子が心配してくれたみたいでね。当時は携帯なんてなかったらしいから、トレーナー寮に電話をかけたんだって。
「スターちゃん、まだ戻っていないんですけど、トレーナーさんのところ、ですか?」
こんな感じかな。当たらずも遠からずだと思うけど、トレーナーとしては気が気じゃないでしょ。いくら引退を決めたとはいえ、彼女はまだ担当ウマ娘。どこに行ったか分からないってなったら、何か事故に巻き込まれたんじゃないかってなるでしょ。方々を探し回って、ようやくたどり着いたんでしょうね。
そこで見たのが、力なくふらふらと走る傷ついた彼女の姿……まさに悪夢のようだったろうね。走る姿に惚れこんでスカウトしたぐらいなんだしさ。
トレーナーは身体を張って止めに行った。ジョギング程度の速度しか出ていないとはいえ、走っているアタシたちを止めるのは大変だよね。
怪我覚悟、だったんじゃないかな。スターさんの進行方向に立って、手を広げて叫んだの。
「お願いだ、止まってくれスター……!」
「……っ?! トレーナー、さん……?!」
「スター、どうしてこんな無茶を……!」
「……あなたには関係ないでしょう?」
「バカ言わないでくれ! 君のこれからに関わるし、私はそんな姿、見たくは……!」
「私の姿って、なんですか!? トレーナーさん、あなたに私のことなんて関係ない!」
「関係ないわけないだろう!」
「関係ないでしょう……?! 好きでもないくせに……!」
「……違うっ!」
「何が違うって言うんですか……!」
「伝えるときは、私の方から。時間をかけて言いたかったんだ。私は……」
トレーナーは懐から何かを取り出しながら、スターさんのことを見つめた。
その時だった。
「えっ……?!」
「なんだ、これ……?」
トレーナーの言葉を遮るように、強く打ち込んでいたはずの蹄鉄が靴から外れて、二人の目の前に浮かび上がった。
あまりの出来事に面食らって、動けない二人など一切構わず。
蹄鉄のひとつがトレーナーの胸へと吸い込まれていった。
「ぐっ、ああ……っ!」
とぷん、とぷん。彼の胸に、ゆっくり溶け込んでいく蹄鉄。
沈み込んでいくにつれてトレーナーは苦しみだした。
一体何が起こってるのか、二人には見当もつかなかった。
「あ、ああっ……!」
トレーナーが痛みに呻いているそばで。
呆気に取られていたスターさんの胸も軋みだした。
見ればもう片方の蹄鉄が、自分の胸に入り込み始めていた。
槍の穂先をじわじわと刺しこまれているような、鋭く鮮烈なのに緩やかでじっとりした痛み。
どんどんと増していく痛み。
とうとう立っていられなくなって、二人とも地面にうずくまった。
胸を抱えながら、謎の痛みと必死に戦っていたとき。
スターさんの耳元で、ささやく声があった。
「アイ、ほしい?」
無邪気な子供にも、しゃがれた老婆にも思える声。
痛みから逃れるためだったのか、反射的なものだったのか。
どちらかは分からないけれど、彼女は間髪入れずに答えたわ。
「ほしい……!」
そうしたら、突然。目に見える風景の色が変わった。
荒んだ青色の景色から、美しい橙の景色に。
胸の痛みは知らないうちにとれていた。
立ち上がるよりも早く抱き起こされて、スターさんはトレーナーと向かい合う形になった。
「君を、愛してる!」
トレーナーは、物静かで落ち着いた彼には似つかわしくない、はきはきとした声で叫んだ。
思慮深いはずのスターさんも、考えることを放棄したかのように無邪気に喜んだ。
「私も、愛してます!」
明らかに様子の変わったトレーナーはもちろんだけど、スターさんだって直前まで苦しそうにうめいていた彼を心配しそうなものなのに。二人はうっとりした瞳で見つめあったまま。愛の前には何もかも無意味、とでも言わんばかりにあっけらかんとしていたわ。
手を取りあって歩き出す二人。喜びに満ちた二人の軽快な足取り。ターフを離れることに対して逡巡やためらいなんてなかった。
だから、どっちも気づくはずないよね。
砂地の上に落ちたままの、愛の言葉を綴った手紙になんて……
……不思議な話だよね。
蹄鉄がトレーナーの身体に全部吸い込まれた段階で、何もかも塗り変わったかのように一変した。
世界線が切り替わった、って言った方が近いかも知れない。
シナリオを書き直すんじゃなく、どこかから引用してきたもので塗り絵さながらに。
二人を知る人はそのあまりの変貌ぶりにすごく驚いたらしいよ。
ストイックで物静かだった二人が、楽天的で大雑把な二人に変わっちゃったんだから。
それにスターさんに関しては脚も治っちゃったんだ。
産まれのものだったはずなのに、どうしてか。
代わりにね、彼女は走ることの一切を辞めた。最初から興味もなかったみたいに。
ほどなくして学園から普通の学校へ編入して。トレーナーだった人も職を変えたって。
それで、今に至るらしい。二人がお付き合いをしてること以外、二人をつなぐはずの接点はなくなってしまった。今でも幸せに暮らしてるんじゃないかな、蹄鉄が導いた愛の道筋をひたすらに。走ることも、走ってもらうこともなく、さ。
もしかして、なんて想像をしちゃうよね。
パラレルワールドってあるでしょう?
現実とそっくりな、けれど細部は違うもう一つの世界。
そこから夢の叶った自分を引き連れてきた……ううん、成り替わられたとか。
不可思議なエネルギーの詰まった蹄鉄に、あったかも知れない未来を捏造された……とか。
ふふ、妄想が過ぎたね……え、蹄鉄がどこに行ったか?
うーん、私が聞いた話だと、結局蹄鉄は見つからなかったらしいけど。
でもまあ、身体に入っていったんだから、見つからなくて当然かも知れないよね。
スターさん、友達に自分の恋心とか話してなかったらしいから、みんな素直に祝福したんだって。後になって面白がったり、変に探りを入れたりする人もいなかったみたい。
同室の子だけは奇妙に思ったらしいけど、二人が好き合っているのは知っていたから、成就してよかったねって。それで話は終わってしまった。
だから真実は二人の胸のうちに沈んでる。
ずっと、ずっと取り出せもせずに。
重たく、溶けずに、湖底に沈んだ澱のように。
でもね、不思議な話で、時々。血の色みたいに朱の滲んだその蹄鉄がね。
恋に破れた生徒の下駄箱に、そっと入ってるらしいんだ。
それを使えば、同じことが出来るって噂の、ね。
……それで、スズカ。
あなたが蹄鉄に張り裂けんばかりの祈りを捧げて……なんてことするとは思えないから、ちょっとだけ変化球で聞くね。
あなたに好きな人がいて。仮に嫌なものを見てしまったとして。
あなたの下駄箱に愛の蹄鉄が入っていたら。
自分の望みを叶えるために、愛するものを得るために、ためらいなく使える?
「悩むだろうけれど……使う、かも知れない」
仮に自分が絶望の淵に沈んでしまった場合。そんな、選択肢が他にない場合を想定したとき、私は絶対に使わないとは言えないんじゃないかと思った。
今自分が考えている『必要に駆られた状態』が恋とか愛に結びついたものかどうかは分からないけれど。
これだけの話をしてくれたドーベルに対して、私は真摯になるべきなんだ。だから、私はそう答えた。
そう告げた私を、ドーベルはどこか悲しげな色合いを宿した瞳で見つめる。
それから目を閉じ、小さく息を吐いた。
……そっか。
多分その判断はクレバーなものに間違いないんだろうね。
……これは良いとか悪いとか、そういう善悪基準で語れるものでもないしさ。
アタシだって分からないから、知る由のない未来のことなんて。
今のうちに色んな選択肢を持っておくべきだよね、アタシたちってさ。
いつか選ぶ必要に駆られたときのために……
……ごめん、仮定に仮定を重ねても仕方ないし、何よりスズカに失礼ね。
蛇足はやめてここで締めるよ。
……この話はアイの蹄鉄。
アイは哀しみ。アイは自分。アイは狂えるまでに深い恋情。
ひたすら自分のためだけに、ひたすらに空しい形で愛を叶える。
愛しいだけじゃ終われなかった、藍色の想いに呼応する幸せの蹄鉄。
みんなも気を付けてね。
アイは少女漫画みたいにきらきらしてるばかりじゃない。
蹄鉄が届いてしまうような、そんなアイを抱えているのなら……
ううん、自分のアイが歪になってきたと思ったら、少し顧みた方がいい。
きれいなだけじゃないからこそ、アイには無限の形がある。
まあ、後ろめたいアイでも成就すれば構わないなら、別かもね。
……ふぅ、うまく話せたかな。
ちょっと自信ないけど……これでアタシの話は終わり。
ええと、次は誰の番になるの?