────九校戦1日目
直接の観客のみでも、10日間で延べ10万人。1日平均1万人のギャラリーが競技を見に来る。有線放送の視聴者は少なくともその百倍以上となるだろう。競技プロの試合が行われる人気スポーツ競技に比べれば少ないとはいえ、これだけの人間が注目している。
開会式は華やかさよりも規律を強く印象付けるものであった。魔法競技はそれだけで華やかさを伴う競技であるため、セレモニーをそこまで華美にする必要はない。長々とした来賓の挨拶もなく、九校の校歌が順に演奏された後、すぐに競技に入る流れである。
今日から10日間、本戦男女各5種目、新人戦男女各5種目、計20種目の魔法競技会の幕開けである。
さっそく本戦予選が各地で行われ、午前の競技では真由美がスピード・シューティングをパーフェクトスコアで予選突破、摩利がバトル・ボードの予選突破と第一高校の予定通りの結果となり終了した。
午後の競技まで1時間ほどの休憩が取られる。
尽夜と達也の2人は会場から離れたあるホテルに足を運んでいた。エントランスの警備兵士に案内され、ホテルの一室に通される。
「来たか」
中に居たのは、達也の師匠九重八雲に教えを受けた兄弟子、独立魔法大隊少佐、風間玄信とその部下である男女。彼らは共に一服しているようだった。彼らの表情には達也の横の存在によって、和やかなムードではなかった。
「風間少佐、お久し振りですね。沖縄事変以来でしょうか?」
対照的に尽夜の雰囲気は穏やかで、朗らかであった。軽く会釈とともに握手を求めた。
「ああ、そうだな。少し見ない間に大きくなったな」
「おかげさまで」
風間はやや堅く尽夜の握手に応えた。部屋には部下たちが緊張を孕んだ面持ちで二人を見守っている。
風間は尽夜に対面に座るように促した。尽夜はそれに素直を従う。
「さっそくで申し訳ないですが、昨夜の侵入者についてお聞きしても?」
「今回の背後にいたのは情報通り『無頭竜』で間違いない。しかし、奴らの目的が九校戦を中止させることなのか、はたまた別の狙いがあるのかは明らかでない」
明かされた情報に尽夜は頷く。ちょうどその時、尽夜の前に紅茶が差し出される。尽夜は給仕してくれた女性に目線をやって会釈で感謝を示した。差し出された紅茶を一瞥し、視線を風間に戻す。
「尋問では効果無しですか」
「おそらくは下っ端の構成員で、ほとんど何も知らせずにやらせている可能性が高い。奴らの情報管理は甘く見るべきではないのかもしれん」
風間の意見に尽夜は頷き、同調を見せた。
「現在、軍の中でも判断が難航している」
「それは、どの規模のものか伺っても?」
「佐伯少将と私の間で、だ」
「上層部と現場で意見がすれ違うことはよくありますね」
尽夜が軽口で述べると、風間は苦笑いしながら開いた両足の間で両手の指を合わせた。
「私としては旅団として早々に対処すべき事態であると進言している。しかし、少将は大隊のみの派遣にとどめる命令を下されている」
「専守防衛の原則ですか。御立派なことで」
「何十年前の話をしているんだ。君が軍所属ならば軍法会議並みだぞ」
「これは失礼」
風間が尽夜をギロリと睨む。
「未来ある若者に被害が出てからでは遅い。我々は大人として君たち高校生を外敵から守るためにあるのだから」
「ありがとうございます」
尽夜は目を閉じて礼を述べた。だが、風間は尽夜のそれを素直な意味合いでは受け止めなかった。
「君のような存在にこそ、我々を頼りにしてほしいものなのだがな」
「頼りにしておりますとも。だから、我々は達也を預けているではありませんか」
「……まあいい」
「?」
含みのある風間の物言いに尽夜は首を傾げた。
「現時点での対応策は監視強化意外に無い。どうしても後手に回らざるを得ない状況にある」
「情報がない状況下では仕方のないことでしょう。再発防止に努めるしかありませんね。アジトを突き止めることができれば良いのですが」
「その件だが、周辺捜査を行っている。突き止めた暁には、四葉家に特尉の出撃を許可していただきたく思う」
「母上に進言しておきましょう」
「感謝する」
尽夜はその言葉を皮切りに席を立つ。
「それでは、長居するのも場違いですのでこれにて失礼させていただきます」
風間も立ち上がった。
「四葉君、いや尽夜君。君は新人戦に出場予定だったな。初めての九校戦頑張ってくれ」
風間から激励の言葉をかけられ、尽夜は微笑んだ。
「ええ、四葉の名に泥を塗らない勝利を」
それが最後の言葉となった。尽夜は立ったままの達也を置いて扉に手を掛けて室外へと出ていった。
彼が出ていくとしばらく静寂が訪れたが、風間の副官、秘書役の女性が空気を変えようと話題を振る。
「遅れたけど、達也くん久し振りね」
「ええ、お久し振りです」
「尽夜くん、また紅茶を飲んでくれなかったわ。達也くんから好きだと聞いてたのに」
まだ少し湯気の見える紅茶。結局尽夜は一瞥こそしたものの、それを口にすることはなかった。
「本家やウチではよく飲んでいるのですが」
「何か違うのかなぁ」
「俺には分かりかねます」
「そっか。それはそうと、天下のトーラス・シルバー様が九校戦のエンジニアなんて反則じゃない?」
「一応、俺も高校生なんですが?」
「そうだったわね。メンバーはシルバーの事は知ってるの?」
「いえ、秘密事項ですので」
「そう。それにしても昨夜はお手柄だったわね。もしかして警戒してたの?」
「いや、偶然です。散歩していたらたまたま気配を掴んだんです」
「あんな遅い時間まで?」
「競技用CADの調整をしていましたから」
和気あいあいとこの部屋の中で最も歳の近い藤林響子少尉と会話をする。その後、真田大尉や柳少尉、山中軍医少佐とも挨拶を交わし、それぞれの近況に華を咲かせた。
「四葉君はスピード・シューティングとピラーズ・ブレイクに出場だったな。確かピラーズ・ブレイクには一条家の跡取りも出場予定だった気がするが、特尉の目から見てどうなりそうだ?」
風間が尽夜の出場種目に話題を移した。達也は淡々と答える。
「十中八九、いやそれ以上の確率で尽夜に軍配が上がるかと」
「彼はそんなに強いのか?」
「自分が『誓約オース』を解除したとしてもあいつと戦えば勝つ保証はできません」
「……そうか。それはまた別の意味でも凄いことだ」
「ええ。魔法を使って尽夜と戦うとどうなるのか、自分でも想像がつきません」
「そうなったら人類は生き残れるのかしら」
クスクスと藤林少尉が笑う。
「彼を我が隊に、いや国防軍に入れれなかったのは悔やまれるな」
「叔母上がそれを許すとは思えませんが」
「だろうな。特尉を預けてもらうのでさえ苦労したんだ。実の息子となると相当なものだろう」
風間が苦虫を噛み殺したように苦汁を飲んだ。
「達也君は選手としては出ないの? 『マテリアル・バースト』はともかく、『雲散霧消』を使えば結構いい線に行けるんじゃないの?」
「軍事機密を衆人環視の競技会で使うことはできませんよ」
「まあ、そうだな。だが達也、もし選手として出場することになった場合は」
「分かってますよ。それに、我々はそうならないように尽力すべきです」
「そうだな……」
2人は苦笑気味に醒めた目で話題を打ち切る。しかし、心の奥底では達也は自分の推測に十分な自信を持ってはいなかった。
────2日目 第一高校 宿泊ホテル
2日目の成績はアイス・ピラーズ・ブレイクが男女共に予想通り予選突破。しかし、クラウド・ボールでは男子が予想外の結果となった。出場選手3人が1回戦、2回戦、3回戦と順に姿を消した。来年の3人出場枠はなんとか手に入れたが、一人も予選通過がならなかったことは流石に予定外である。
九校戦のポイントは順位によって振り分けられている。
1位50ポイント、2位30ポイント、3位20ポイント。スピード・シューティング、バトル・ボード、ミラージ・バットの4位が10ポイント。クラウド・ボールとアイス・ピラーズ・ブレイクは4位から6位が決められないため3回戦敗退の3人に各5ポイントが与えられる。モノリス・コードは1位100ポイント、2位60ポイント、3位40ポイントと最も比重が大きい競技。
新人戦はこの二分の一のポイントが総合得点に加算される。
優勝ができなくとも相応の順位を取ることによってポイントが加算されることを加味すると上位を独占することが差を引き離したり縮めることには有効であった。
「芳かんばしくありませんね…………」
鈴音はホテルのラウンジで作戦スタッフと共に計算をし直していた。
「新人戦のポイントが予想できませんが、今のリードを考えると残り本戦の波乗り、棒倒しを男女共に優勝、ミラージとモノリスを優勝すれば安全圏だと思います」
計算結果が鈴音に報告される。彼女は眉をひそめて考える素振りを見せ、どこか確信めいたものを顔に浮かばせた。
鈴音は作戦スタッフに解散を言い渡して、自身も気分転換にと散歩に出た。ホテルには広い中庭が存在しており、散歩や休憩などに適している。暗い夜道をゆっくりと闊歩した。
「四葉くんには本戦のクラウド・ボールに出場してもらった方がよかったでしょうか」
作戦スタッフは新人戦のポイント予想ができないと報告を受けたが、鈴音は事前にある程度こうなるであろうという予測を立てていた。確証が無いため公にはしていないが、自信はあった。その予想結果故か、鈴音の表情には余裕がある。しかし、もっと安全な状況にポイントを置けていた可能性を考慮すれば悔やむ気持ちは出ていた。
「おや、市原先輩」
鈴音が考えに耽っていると、近くから声をかけられた。それは見知った後輩だった。人が姿を隠せるような大きな木が後ろにある。
「四葉くん。こんばんは」
暗闇でも目が慣れてきたおかげでお互いの姿はよく見えた。
「奇遇ですね。そろそろ遅い時間ですが」
「ええ。先程まで作戦スタッフとポイントの計算をしていたので」
「ご苦労様です」
「ありがとうございます」
尽夜の労いの言葉に、鈴音は軽くお礼を言った。尽夜は深い緑のTシャツに黒のスウェットを着ており、闇夜に溶け込みそうな風貌だった。
「なにか考え事でも?」
「……ちょうど四葉くんのことを考えてました」
「俺の?」
「あなたを本戦に出場してもらっていれば、もっと余裕を持てたのではないかと」
「なるほど」
尽夜は鈴音の考えに理解を示した。
「真由美さんを筆頭に順調な結果を残してくれていますから、もっと力になれればよいなれればよいのですが」
夜の視界が悪い状況下でも、鈴音の表情は少し暗く見えた。
「私の見立てでは、四葉くんと司波さんのお二人は2種目とも新人戦で優勝できるでしょう。もしかしたら現時点で本戦優勝も可能なのかもしれません。その逸材を新人戦で眠らせるのはどうなのかと、少し自責が」
鈴音はなぜ自分が二つも歳が下の後輩にツラツラと自分の弱さを吐き出しているのか分からなかった。今までこんなことは同級生相手にもしたことがなかった。
「尽夜?」
そこへ2人新たな人物が登場した。
「達也。それと、E組の、確かレオと呼ばれてた記憶がある」
1人目は同部屋の見知った顔であり、そしてもう1人は、非常にガッチリした体格で、肌も日本人にしては茶色く、欧州の雰囲気を感じさせる男性だった。
「彼は西城レオンハルト。いつも仲良くしてる」
「びっくりしたぜ。四葉くんじゃねぇか。紹介の通り、西城レオンハルトだ」
「はじめまして」
「実は初めてではねぇけどな」
「授業日初日の件かな?」
「その節はウチのグループの女がどうも」
レオは笑って両手を後頭部に添えた。
「市原先輩、こんばんは」
達也は鈴音に頭を下げた。
「こんばんは」
鈴音も丁寧にそれを返す。
「先輩?」
レオは首を傾げて目を細めた。
「生徒会役員の市原鈴音さんだ。九校戦では作戦スタッフのリーダーとして従事されている」
「げっ、すんません。暗闇でなかなか見えなかったもんで。こんばんは」
「いえ、私は真由美さん等とは違いなかなか表に出ませんので」
レオは即座に頭を下げた。鈴音は特に不快にならず、首を左右に振った。
「それで、達也と西城くんはどうしてここに?」
「せっかくならレオって呼んでくれよ。達也と仲良いんならこれからもよく会うだろうしよ」
「そうか。では、そう呼ばせてもらおう。こちらも自由に呼んでもらって構わない」
「おう。よろしくな、尽夜」
「それで、話を戻すが、どうしてここに?」
尽夜の問いに、レオは嬉しそうに懐から何かを出した。剣のような形状で、刃のちょうど真ん中に切れ込みが見て取れた。
「達也が俺用にCADを作ってくれてよ。それを今から試そうって訳だ」
「そうか。この先に広いスペースがあるからか」
「そういうことだ」
「早く試したくて仕方ねぇよ。早く行こうぜ」
「まあそう焦るなレオ。尽夜も来るか?」
「いや、俺はいいよ。また今度見せてもらおう。レオ、その時は驚かせてくれ」
「おう! びっくりさせてやんよ!」
鈴音に挨拶をしてから、レオは早足でその場を後にした。達也は可笑しそうにレオの後を追って姿を消した。
「よかったのですか? せっかくの機会を」
「レオとは長い付き合いになる気がします。これから仲良くなっていきますよ。それに」
「それに?」
「女性をこのような夜道で一人にさせられませんよ」
鈴音は少し息が乱れた。今まで男性からそのような言葉を受けたことがなかったから。
「敷地内ですから危ないことも無いと思いますが?」
鈴音は少し空白を置いた。月明かりが木々の間から2人の姿に影を作る。
「美しい女性はどんな場面でも警戒を怠るべきではないですよ」
影が一歩近付く。動いたことで尽夜の顔が月の光で鮮明になり、鈴音の視界いっぱいに広がった。一般人からしたら人間離れした美貌が自分に襲いかかる。色白い肌。シャープな紅瞳。全てのパーツが美しさの黄金比で揃っていた。鈴音は思わず顔を逸らした。
すると、遠くに見知った顔の女性二人を捉える。同学年で仲の良い二人だ。
「市原先輩?」
固まった鈴音に尽夜は問いかける。彼女の視線を辿ると、真由美と摩利の姿があった。二人はこちらに気づいていない。
「こちらへ」
「え、はい」
鈴音は尽夜の手を取って、側にある大きな木で二人から見えないように姿を隠した。何故二人から身を隠すのか、鈴音は分からない。何故か今、あの二人に会いたくなかった。
「市原先輩」
「静かにしてください」
首を傾げた尽夜に、鈴音は小声で注意する。真由美と摩利は徐々にこちらに近付いてくる。鈴音の鼓動は少し早くなっていた。握り心地の良い手を胸の前で少々強く抑える。バレてくれるな、と思いながら。すると、真由美と摩利は二人に会うルートではない方向へ進路を変えて見えなくなった。
ホッと息を吐く鈴音。動悸は今もまだ少し早い。
「すみません。急に──」
思い出したように尽夜に顔を向けた鈴音は言葉を失った。先程よりも近い尽夜の綺麗な顔。女性の自分でも羨ましいと嫉妬する肌。それを認識した。胸の前に引き寄せた腕は未だ尽夜の手を握っており、二人の距離は必然的になくなっていた。息が詰まる。目と目が合った瞬間から、時間が静止したような錯覚に陥った。鈴音はまばたきを忘れ、尽夜の紅の瞳がまるで人の心を覗き込むように彼女を見つめている。
「……市原先輩?」
柔らかく名前を呼ばれ、鈴音はハッと我に返る。慌てて手を離そうとしたが、尽夜の指がほんのわずかに力を込めた。その動作に、再び心臓が跳ねてしまう。
「あ……あの、手を」
「失礼。少し強く握られていたもので」
さらりと放たれた言葉に、鈴音の頬が熱を帯びる。まるで夜風よりも速く体温が上がっていく。そんな自分に気づいて、彼女は居心地の悪さを誤魔化すように笑った。
「……冗談はよしてください」
「本気に聞こえましたか?」
「ええ、少し」
尽夜はわずかに口角を上げた。どこか人を試すようなその微笑みに、鈴音はまた視線を逸らした。月の光が彼の横顔を淡く照らす。白磁のような肌に、赤い瞳が不思議な深みを帯びて見えた。
「そんな言葉を自然に言えるなんて、ずいぶん落ち着いていますね」
「そう言われるのは慣れています」
「慣れている……?」
「年上の方によく言われます」
その言葉に、鈴音の心が一瞬、ざわついた。何故だろう。妙に胸の奥をくすぐった。
「大人びているんですね」
「背伸びをしたくなる年頃なんです」
囁くような声音に、夜の空気が震える。風が梢を揺らし、葉の擦れる音が二人の間を流れた。鈴音はもう一度目を伏せる。
「でも、近いのは困ります」
「困る、ということは……嫌ではない?」
挑むような問い。言葉を返す間もなく、尽夜が少し顔を近づけた。距離が詰まり、鈴音の背中が完全に木の幹に接する。硬い感触と共に逃げ場がなくなるのを理解した。
「四葉くん……」
「名前で呼んでいただけると嬉しいですね」
笑みを浮かべながらも、尽夜の視線は真っ直ぐだった。軽い冗談。鈴音は自分に言い聞かせた。ただ、無意識に呼吸を浅くしていた。
「……あなた、どうしてそんなに人を惑わすようなことを言うんですか」
「惑わしているつもりはありません。ただ、感じたままを言っているだけです」
「感じたまま?」
「はい。初めてお会いしたときから、ずっと——」
鈴音が息を呑んだ。
「──自己評価が低過ぎる」
尽夜は静かに微笑んだ。鈴音の頬をかすめる風が、夜の蒸し暑さを一瞬だけ忘れさせるほど穏やかな笑みだった。
けれど、尽夜の目はどこまでも深く覗き込むようで、彼女の奥にある何かを正確に見抜いているような気がした。
「低過ぎる、ですか」
「ええ。市原先輩は非常に有能な方です」
「……あなたに言われると、なんだか説得力がありますね」
苦笑まじりに返す鈴音の声は、どこか震えていた。彼女の中で、警戒と戸惑いと──ほんの少しの興味が複雑に混ざり合っている。
夜の闇の中、尽夜の存在は異質だった。ただの後輩にしてはあまりに成熟しすぎていて、ただの青年にしてはあまりに危うかった。
「言葉は信用できませんか?」
「信用……というより、怖いですね」
「怖い?」
「ええ。何を考えているのか、分からないです」
尽夜は目を細め、少しだけ空を見上げた。雲の切れ間から月が覗き、光が二人の間に落ちる。その光の輪の中に、鈴音の顔を見つめながら、彼は低く囁いた。
「安心してください。あなたを傷つけるつもりはありません」
「……その言い方が、また怖いんです」
「それも慣れています」
尽夜が小さく笑う。その笑みが不意に柔らかくなり、鈴音はわずかに息を飲んだ。彼の言葉には冗談めいた響きがあるのに、時折、鋭く核心を突く瞬間がある。まるで心の奥を覗いてから、軽く撫でられている感覚だった。
「そろそろ戻りましょう」
鈴音は視線を逸らして言った。それは自分に言い聞かせるような口調だった。
「そうですね。送りますよ」
「いいですよ。一人で帰れますから」
「美しい女性は、どんな場面でも警戒を怠るべきではない。俺の言葉を忘れましたか?」
皮肉めいた言葉に、鈴音は唇を噛んで俯いた。彼の言う「美しい女性」という言葉が、どうしてこんなにも胸に刺さるのか、自分でも分からない。軽口だと分かっているのに、反応してしまう。まるで彼のペースに飲まれていくようだった。
しばらく歩いた後、ホテルのエレベーターに乗り、それぞれの階のボタンを押す。
「送っていただきありがとうございました」
目的の階に到着した。鈴音は会釈し、歩き出した。その瞬間、尽夜が口を開く。
「明日からも頑張りましょう」
鈴音は振り返って頷いた。
「新人戦、期待してます」
尽夜は腰を折った。エレベーターの扉が閉まる。鈴音の心に残ったのは、奇妙な高揚だった。