『一件目の誘拐殺人はな、1ヶ月前や。5歳の竹本美羽がショッピングモールの帰りに姿消しよった。母親がカート戻しに行った、ほんの一、二分の隙やで。誘拐から7日後にその子は新宿の公園で遺体で発見されたらしいわ』
「遺体の状況は?」
『綺麗なもんやったらしいで?』
「綺麗? 性的暴行や虐待はないって事か?」
『微塵もあらへん。そないな形跡はな。むしろよう可愛がられてたみたいや。新品の服着せられて、髪もきっちり整えられてな。土の上に寝かされて、腕組まされて、その上から布かけられて、花まで添えられとったんやて』
「随分と丁寧な遺棄だ。殺した事を後悔してるのか?」
『うーん……後悔にしてはやり過ぎとちゃう? どっちか言うたら儀式めいてるわ。ちなみにもう一件、新宿駅のガチャガチャん前で攫われた6歳の山村明衣子も、同じやったらしいで。今日駅見てきたんやろ? どうやった?』
「暴れなければ誰も気が付かないだろうよ。他人の行動に気を使うような場所じゃないからな」
『お前さんみたいな胡散臭いのがガチャガチャ回してても、誰も興味もたへんのやもんなぁ』
「うるさいぞ」
電話の向こうの相手はこちらを煽るようにクスクスと笑っていた。その態度がどうにも苦手で、ジャックは舌打ちをする。
「死因は?」
『ねっちゅーしょー』
やたらとゆっくりと、耳をくすぐるような声を出す相手に苛立ちが募る。
「もう秋になるのに熱中症か。と言うか誘拐された被害者の死因が熱中症?」
『わけ分からんやろ? 自分もそう思うわ。暑ぅて苦しぅて、喉カラカラで死ぬやなんて、可哀想やなぁ。犯人はペケやね、ペケ』
遺体を整えるくらいには死なせた事を後悔しているだろうに死因が相手を苦しませる熱中症であると言うことにジャックは少し悩むが、こんなものは状況不足の中考えても意味がない。
「誘拐なら身代金とかはなかったのか?」
『二人とも親は普通の家庭やしなぁ。動機らしいもんは見当たらへんわ。ただ接触はあったみたいやけど』
「接触? どんな?」
『お前の不注意が死なせたんだ』
態とらしく、低い声で、責めるような口調で言われ、ジャックは思わず顔を顰めた。そう言う手紙が家に入ってたんだってと付け足され、また舌打ちをしそうになる。
「事件の責任を両親に押し付けてるわけか」
『見事な責任転嫁やこと。犯人、頭イカれてるんとちゃう?』
「イカれた奴しか人なんか攫わない」
『なんや、自己紹介? こないだアメリカに探偵君のこと、さらっと連れ去っとったんよう覚えとるよ』
「うるさいって」
通話相手は、まあ殺されるまで6日あるわけだしまだ大丈夫でしょうと笑う。攫われた少女は2人とも攫われてから1週間後に遺体が見つかっている。腐敗の状況から発見の前日に殺されていると考えられる。とはいえ、確信はない。今日殺されないという保証はない。
「だから今日見つける」
『えらいやる気やなぁ。元組織の女なんか、別に死んでも構わへんのとちゃうの?』
「良くない。貴重な情報源だ」
『あらそ。丸なったもんやね。前のお前やったら、迷いもせんと殺してたやろうに』
「目的の為だ」
『それならええんやけど。なんか最近、顔つきがちょっと柔らかくなった気がしてな? てっきり歳の近い子らと話して、勘違いしてしもたんかなと思って』
「勘違い?」
『そう。昔みたいに普通に喋って、普通に誰かと仲ようなれるんと違うか……なんて。工藤新一に、怪盗キッドに、灰原哀……。誰も、お前とお友達になんかなってくれへんよ?』
「馬鹿にするのも大概にしろ」
くつくつと喉の奥で笑うような声が聞こえる。ひょっとして灰原哀に惚れたのかと揶揄われ、そんな訳がないと否定する。いや、否定するのも面倒で深い深いため息が出た。気を抜いたらあっという間に逮捕されるぞと告げられ、当然分かっていると返事をした。
「……遺体を見せてもらったって言ってたよな? 検死結果は?」
問われ、通話相手はその時のことを思い返す。
* * *
蛍光灯の白い光が、廊下の奥まで均一に伸びていた。影の薄いその空間は、時間の感覚を曖昧にする。空調は低く唸り、一定の温度と湿度を保ち続けている。外界の気配は遮断され、ここにはただ保存と記録のための静けさだけがある。
自動ドアが短く音を立てて開いた。
白衣の検視官と、その後ろに続く人物が中へ入る。足音は抑えられているが、床材の硬さがわずかにそれを拾い上げる。消毒液の匂いが鼻を刺す。金属と薬品が混じった、冷たい匂いだった。
遺体管理室の奥、ステンレス製の台の上に、白布をかけられた小さな体がある。
検視官は慣れた手つきで手袋を引き締め、端末に記録を呼び出しながら歩を進めた。もう一人も無言でそれに続く。視線はすでに、布の下にあるものへと向けられている。
布が静かにめくられる。
露わになったのは、幼い少女の遺体だった。
皮膚はわずかに乾燥し、通常の死後経過時間に比して張りを失いかけている。頬の色調は不自然にくすみ、唇はひび割れている。
「検視官、この状況で事故の可能性はありますか?」
問われ、検視官は端末に表示されたデータへと一瞬だけ視線を落とす。
「現時点では低いですね。発見は死後数時間だったようですけど、その時点で深部体温が異様に高かった。外気温との乖離が大きいです」
記録には、発見時の直腸温が明確に残っている。通常、死後数時間であれば体温は環境へ向かって下降する。しかしこの遺体は逆だった。環境温よりも明らかに高い値を維持していた。
「秋の夜に公園で見つかった遺体が、こないに高温やなんてな。ここ最近は雨続きで24℃前後が多かったのに」
「ええ。直腸温の記録、臓器の状態ともに一致しています。生前、深部体温は41度前後まで上昇していた可能性が高い」
41度。その数値は、単なる発熱の範囲を超えている。体温調節機構が破綻し、酵素反応が異常をきたす領域だ。タンパク質の変性が始まり、細胞レベルでの損傷が進行する。
「あららぁ、41度……普通の環境やとまず出ぇへん数値やねぇ」
検視官はデータを確認する。内臓の色調、浮腫、微細な出血。肝臓はわずかに腫大し、腎臓には虚血性変化が見られる。それらはとある事実を示していた。
「内臓は熱による損傷が顕著ですね。多臓器不全に至った典型的な熱射病の所見です。加えて脱水も極端で、血液は著しく濃縮されています。喉の粘膜の状態も確認しましたけど、酷い状態でしたね。ひび割れと出血……強い渇きがあったはずです」
検視官は口腔内の写真データを指先で拡大する。乾燥した粘膜、亀裂、微小出血。唾液分泌の枯渇を示す明確な所見だった。血液検査の結果もそれを裏付ける。ヘマトクリット値の上昇、血漿浸透圧の増加。循環血液量の低下が明白だ。
「酷いなぁ。それに気になるんはこのデータや。指先やけど、爪の間から細かい何かが検出されとる。多分掻きむしった形跡やろなぁ」
問われ、検視官は手袋越しに指先を持ち上げる。爪の隙間に残る微細な異物。顕微鏡写真では断片が確認されている。皮膚表面には、軽微だが連続した擦過痕がある。
「公園内には該当する損傷痕は見つかっていません」
「となると……まぁ、予想通りやけど、公園は死亡場所やない可能性が高いな。遺棄と見るべきやろ」
検視官は静かに頷き、再び全体を見渡す。
死後変化の進行度も、環境との不整合を示している。
「……遺体の皮膚状態についても、通常の死後変化より進行が早い印象があります」
「高温環境に置かれてた影響やろなぁ。死後変化がやたら早い。発見は早かったはずやのに、この進み具合は説明つくわ」
皮膚の乾燥、角質の剥離傾向、軽度の表皮損傷。それらは高温、低湿環境に曝露された場合に典型的に見られる変化だった。
「衣服の状態はどう見ますか」
検視官は遺体の着衣へと視線を移す。層状に重ねられた衣服。繊維の厚み、通気性の低さ。
「着衣もなぁ、保温性の高いもん重ねとる。外気に対しては過剰やな。ただ、それ自体が死因を直接示すわけやないけど」
熱がこもる条件は揃っている。しかし、それだけでは説明しきれない。外的な高温環境、あるいは閉鎖空間の存在が前提になる。
「外傷は限定的ですね。暴力の痕跡は見当たりません」
「骨折も打撲も見当たらへん。となると死因は、やっぱり内部の熱損傷っちゅうことか……」
検視官は最後に全体を見渡し、ゆっくりと布を戻した。
「まとめると、被害者は生前に高温環境へ長時間さらされ、重度の熱射病によって死亡。その後、比較的短時間で公園に移動された可能性が高い、ということですね。前の少女と同一です」
「現段階やと、その認識でええやろな。追加の組織検査と周辺の付着物分析、進めといてくれるか?」
「了解しました。繊維の同定結果が出れば、環境の特定に繋がるかもしれません」
「そうやな。まずは物証固めよか。話はそれからや」
検視官は端末に入力を加え、記録を保存する。
室内には再び、機械の低い駆動音だけが残った。
* * *
あれから数日でまた子供を攫うとは、なかなか行動的な犯人である。
衝動的でありながら、決定的な痕跡を残さない。無計画に見えて、結果だけが異様に整っている。世間に紛れ込めるような“普通”の顔をしているのかもしれない。そうでなければ、ここまで痕跡が薄くはならない。
ジャックは遺体発見現場となった公園に足を踏み入れた。すでに日は沈み、空は群青に沈みかけている。街灯がぽつり、ぽつりと灯りはじめ、昼間の輪郭を曖昧に溶かしていた。遠くの車の走行音が低く流れ、風に乗ってかすかな土の匂いが運ばれてくる。人影はまばらで、昼の喧騒はすでに退いている。それでも完全な静寂にはならないのが、この街の夜だった。
足元の地面は昼間と同じはずなのに、どこか別のもののように見える。光が減るだけで、風景はここまで変わる。ジャックは園内の奥へと進みながら、様子を観察する。
気温から考えて少女の死亡現場はここではない。どこか密室で、態々季節に見合わない厚着に着替えさせ、蒸し殺しているのだ。
『とはいえなぁ、遺体の腐敗具合から見てやけど、攫われてすぐ熱中症で死んだ、ちゅう感じやあらへんなぁ』
軽く、どこか他人事のように響く声。だがその裏にある観察は正確だった。
「6日間は生きてたはずだ。7日目に何故か殺して遺棄してる。何か共通点は?」
ジャックは足を止め、街灯の下で影を落とす。長く伸びた自分の影が、地面の上で歪んだ。
『二人ともなぁ、死んだんは金曜の夜遅くやね。多分22時は過ぎとるくらいやろなぁ』
「その時刻に犯人か、その大切な人の身に何かあった。その再現か?」
『ちなみに今は金曜日の21時やねぇ』
「時間はもうない」
夜風がわずかに強まる。木々の葉が擦れ、かすかな音を立てた。視界の端で揺れる影が、人の動きのように見えて、すぐに消える。
ここは新宿とはいえ、人が集まるエリアから少し外れている。だがそれでも昼に遺棄すれば誰かに見られるだろう。つまり捨てたのは深夜だ。死んですぐに遺棄したのだろう。だが車を止めれば誰かの目につく。それならば気が付かれにくい場所に止めるはず。そう考えて辺りを見渡すも、どこに停めても誰かの目にはつきそうだ。公園に入って仕舞えば木々に隠れられるが、外はそうもいかない。
ジャックはゆっくりと歩きながら、視線を外周へと向ける。道路の位置、街灯の間隔、住宅の窓の高さ。光が届く範囲と、死角になる場所。
(車は離れた場所に停めたのか? それとも犯行現場がこのすぐそばなのか……手を組ませて布を被せて花を添える。時間がかかってる。まるで葬式……)
足を止める。
ほんのわずかな沈黙の中で、その違和感が形を持つ。
死因が残酷な割に、この行動は矛盾している。
(死なせるつもりはなかった、とか……?)
自分の思考を、他人のもののように眺める。
異常な仮説だ。だが、完全に否定もできない。精神が病んでいる犯人ならありえないことでもない。むしろ、その歪みこそが事件の核である可能性もある。
ジャックは再び歩き出し、低く息を吐く。
「なぁ、確か山村明衣子ちゃんの方は学校でお別れの会やったんだよな? 一般参加ありの」
『ああ、せやったなぁ。あの子、地域の劇団入っとったから、けっこう人来とったらしいで。人気者やったんやろなぁ』
「名簿あるか?」
『当然やろ。抜かりある思うてるん?』
「俺が送った駅の動画にその会の参加者が映ってないか調べてくれ。映っていたらそいつの経歴も。特に子供を失っているかどうか」
わずかな間。
通話の向こうで、相手が笑った気配がした。
『えらいとこ突くやん。ほんま、いやらしい目ぇしとるわ。……ええよ、超特急で調べたげる。ほな、感謝の言葉は?』
「結果が出てからだ」
短く言い切ると、ジャックは通話を切った。
誰の声も聞こえなくなり、夜風が頬を撫でていく。とはいえ、偽物の顔を作るためのマスクをしているため、風は感じられない。本来なら頬をかすめていくはずの冷たさは遮断され、代わりに布越しのわずかな圧迫感だけがそこにある。外界と自分の間に一枚、膜が張られているような感覚。世界に触れているのに、どこか隔てられている。
公園に留まり不審がられるのも良くないと、ジャックはそのまま街を歩く。通りに面した店はすでに多くがシャッターを下ろしているが、いくつかのショーウィンドウだけが灯りを残している。整然と並べられた服や靴、装飾品。
その前を通り過ぎようとしたとき、不意に視界の端に自分の姿が映り込んだ。
ガラスに反射した顔。
見慣れたはずの、だが本来は自分のものではない輪郭。
かつて己に親しくしてくれた男の顔。
大切な少女の、兄の顔。
足が、ほんのわずかに止まる。
街の空気は変わっていない。音も、光も、何一つとして変わっていないはずなのに、その瞬間だけ、世界の層が一枚剥がれたような違和感が走った。
頭痛がする。
頭の奥で、鈍い脈動が一つ打つ。
それはゆっくりと広がり、視界の輪郭をわずかに歪める。
ショーウィンドウに映るその顔が、一瞬焼け焦げた無惨な死体に見えた。
黒く炭化した皮膚。
ひび割れた表面の奥で、赤黒い肉が露出している。
形を保っているはずの顔が、崩れかけている。
焦げた匂いが、存在しないはずなのに鼻腔の奥に蘇る。
瞬き一つ分の、錯覚。
だがその一瞬で十分だった。
鼓動がわずかに速くなる。だが乱れはしない。呼吸も崩れない。外から見れば、ただ立ち止まっただけにしか見えない。けれど内側では、何かが確実に切り替わっている。
あの日の熱。
皮膚の内側にまで染みついた、焼けるような感覚。
記憶ではなく、感覚そのものが引きずり出される
殺さなければならない。
あんな無惨なこと、許されていいはずがない。
犯人は人を殺した。被害者の未来を奪った。
それなのに、なぜそいつは呼吸をしている?
なぜ飯を食い、眠り、のうのうと生き続けている?
許せない。許されてはいけない。
人殺しは死ななくてはならない。
人殺しを殺して、そいつと同じ「人殺し」を全員、この世から消さなきゃいけない。
殺したい。今すぐ、この手で、跡形もなく。
でも、殺せば自分も「人殺し」だ。殺した自分は「人殺し」だ。
人を殺した奴は、生きていてはいけない。
だから、自分も死ななくてはならない。
死にたい。
でも、彼らを殺した犯人を生かしたままでは死ねない。
殺したい。殺して、殺して、全部終わらせて、それから自分も死ぬんだ。早くこんなことは終わりにしたい。
次は誰だ? 灰原哀を攫った奴だ。
まだ、のうのうと生きている「人殺し」がそこにいる。
消さなきゃ。自分が、己の手で、地獄に連れて行く。
殺さなければ。
殺さなければならない。
殺してやる。殺す。
思考がぐるぐると回り始めた時、そのとき、ポケットの中でスマートフォンが小さく震えた。
現実に引き戻される感覚。
ジャックはわずかに視線を落とす。調べ物が終わったのだろう。相変わらずの仕事の速さに感心する。
『まだ自殺とかしてへんよね?』
軽い声。冗談のようでいて、どこまで本気かわからない響きがある。
ジャックは短く答えた。
「してない」
間を置かず、相手は続ける。
『お前の言うとった通りの奴が一人おったで。お別れの会にも来とって、新宿駅のあの場にもおってな、子供を失うてる女や』
8月の猛暑日、サウナ店を営む安東佳代が開店準備に追われ、わずか数分目を離した隙に起きた悲劇だ。寝ていると思っていた6歳の娘が、恐らくだがあまりかまってくれなかった母親を驚かそうと、かくれんぼのつもりでアイスの納品待ちで空だった業務用冷凍庫に入り込み、そのまま凍死してしまった。母親が疲れて少し休んだ、ほんの一瞬の隙に入り込んでしまったのだ。
冷たい箱の中。
閉ざされた空間。
外からは気づかれない、静かな死。
発見時、氷のように冷たくなった娘を前にパニックに陥った母親は温めればまだ助かると信じ込み、娘に引っ張り出したコートなどを着せて稼働中のサウナ室へ運び入れたが、その甲斐なく娘を死なせてしまったという事件。冷凍庫に入った娘が見つかったのが、金曜日の夜11時頃らしい。母親の証言からわかっている。夜勤に出ていた父親が帰ってきた早朝に通報が入ったのだ。
「なるほどな。殺されるまで7日あったのは偶然で、金曜日の夜がトリガーだったのか」
『そうやろうなぁ。そんでな、優秀な自分はもうお前さんのスマホに安東佳代の住所、送っといたで。ほら、お礼の言葉は?』
どこか楽しんでいるような声音。相手の反応を待つ余裕がある。
ジャックは歩きながら、画面に表示された情報を一瞥する。住所、地図、周辺環境。必要なものは揃っている。
「犯人だったら殺す」
『ええやん、その物騒さ。期待してるわ。頑張りや〜』
ジャックはスマートフォンをポケットにしまう。
その動作に迷いはない。足取りがわずかに速くなる。
やがて停めておいた自分のバイクの元へと辿り着く。キーを差し込み、エンジンをかける。低い振動が、身体の芯に伝わる。
ジャックはアクセルを開く。バイクは音を抑えたまま滑り出し、闇の中へと溶けていく。
向かう先は一つ。
目的はすでに定まっている。
迷いはなかった。
* * *
「さあ、未來ちゃん。夜ご飯だよ」
安東佳代は、うっとりとした手つきで少女の茶色の髪を撫でた。椅子に座らされた灰原は、眉を顰めて答える。
「……私はあなたの娘じゃないわ」
そうやって乾ききった声で拒絶しても、安東の耳には届かない。彼女の瞳に映っているのは、目の前の少女ではなく、あの日、冷凍庫の中で凍りついていた本物の娘の幻影なのだから。
「何を言っているの、未來。今日はあなたの好きな温かいシチューよ」
差し出されたのは暖かいシチュー。安東はそれを、赤子をあやすような手つきで灰原に差し出す。当然ながら灰原がそれを口にすることはないのだが。
やがて、部屋の古びた時計が金曜の夜11時を告げた。
テレビから、軽快な番組のオープニング曲が流れ出す。
その瞬間、安東の動きが止まった。
瞳の焦点が急激に収縮し、呼吸が荒くなる。脳裏に、1月前のあの夜の光景が、フラッシュバックとなって襲いかかった。
アイスボックスの蓋を開けた瞬間。
この番組の曲が聞こえる中で触れた、娘の、あの絶望的なまでの冷たさ。
「……ああ、ダメ。また冷たくなってる」
安東の声が、悲鳴のような湿った響きを帯びた。
「未來、あなた震えているわね? 嘘、こんなに冷たい。死んじゃう、また死んじゃうわ!」
「え、なに? あ、ちょっと!」
安東は狂ったように立ち上がり、クローゼットからさらに厚手の冬用ダウンコートを引っ張り出すと、抵抗する灰原に無理やり着せかけた。
「やめて……こんなの要らないわよ……!」
灰原の必死の訴えも、安東には届かない。
「大丈夫よ、今すぐ温めてあげる。あそこなら、もう二度と冷たくならないから」
安東は灰原を引きずり始めた。向かう先は、一階にあるサウナ室。
「大丈夫。すぐに体の芯まで温まるから! あんなに冷たくならなくて済むのよ!」
不気味なほど穏やかな笑みを浮かべ、安東は重い木製の扉名前に立つ。サウナ室の重い扉が開かれ、熱風が廊下へ溢れ出した。
「嫌……放して……!」
暴れる灰原を、安東はさらに奥のベンチへと押し込む。
テレビから流れる、夜11時の軽快なオープニング曲。それが安東にとっての、狂気の合図だった。
「こんばんは。一つお伺いしても良いでしょうか?」
その時、背後から一人の男が踏み込んできた。
「貴方誰? 救急隊員? 未來は無事よ」
「いいえ。私は殺人者。世間からは“ジャックザマーダー”と呼ばれている者です」
悪魔のような面を被った黒衣の人物。彼は手にした袋から、女児用のリボンと傘を安東に見せる。
「こちらはこの家で見つけた竹本美羽のリボンと山村明衣子の傘です。それぞれが行方不明になった際に所持していたことが確認されています。
竹本美羽のリボンには、彼女自身が書いた名前があり、“美しい”の横棒が一本多く書かれています。これは彼女が写っている写真とも一致します。
山村明衣子の傘の持ち手には、彼女が貼ったシールがあります。こちらも写真と完全に一致しています。
先ほど指紋を採取し照合したところ、子供たちのものと一致しました。つまり、間違いなく彼女たちの持ち物です。
ところで一つ伺いますが、これらの持ち主である子供たちは、どうなりましたか?」
安東は遺留品を一瞥し、困ったように笑った。
「その子達は親がひどい奴だったわ。子供のことをちゃんと見てないんだもの。子供はちゃんと見ていないとダメなのに。ダメな親。よくない親よ。だから代わりに私が助けてあげる事にしたの」
「攫ったんですね」
「ええ。それでね、私が温めてあげたの。だから、この子もそうしてあげるのよ。凍えなくて済むように。あの子達だってもう寒くないわ」
「殺したのですね」
「殺した? 違うわ、私は守ったの。守りきれなくて死なせてしまったけど。あの子はとても冷たかった。冷凍庫の中で、あんなに冷たくなって……。でも見て、この子は大丈夫。こんなに温かい。もう、二度と寒くないわ……!」
仮面の奥でジャックの瞳が、わずかに細まった。
「……そうですか。認めるんですね。貴方が、彼女たちを殺したことを」
「殺したんじゃない! 助けたのよ! 助けられなくて死んでしまっただけで! 私が、温めて……! 助けてあげたの!」
「いいえ、殺したんです。貴方が」
ジャックは迷いなく、懐から抜いた刃で安東の喉を切り裂いた。あまりに鋭く、澱みのない一撃。
「人を殺した人間は、生きていてはいけないんだ」
鮮血がサウナ室の床に飛び散り、石に飛び散り、熱気の中でじゅう、と嫌な音を立てた。灰原は「ひっ」と小さく悲鳴をあげ、その隣で安東は壁を背にずるずると崩れ落ちる。
(あ……あ……)
身体の芯から、熱が逃げていく。
あんなに恐れていた、あの8月の冷凍庫と同じ冷たさが、指先から這い上がってくる。
「……寒い……わ……。未來……どこ……?」
安東の視界が白く染まっていく。
薄れゆく意識の向こう側で、あの日と同じように、冷凍庫の底で静かに凍りついている娘の幻影が見えた。自分を蝕むこの凍りつくような死こそが、娘が最期に味わった感覚なのだと、死の間際に理解する。
「……今、行くわね……」
「いいえ。貴方は娘の元へはいけません」
ジャックは無慈悲な言葉をかける。
「貴方がどんなに手を伸ばしても、その汚れた手で子供に触れることは二度とできない。貴方は、自分の犯した罪という炎に焼かれながら、永遠に独りなのです」
血溜まりの中で、安東の瞳から光が消えた。ジャックは側に赤いカードを置いておく。
「The fiery lake of burning sulfur. This is the second death.」
「……火と硫黄の燃える池。これが第二の死である。ヨハネの黙示録ね。彼女の罪は、肉体の死で終わるような軽いものではないって事? 死後も永遠に続く地獄の苦しみが待っている、と」
「私はそう考えています。その方が胸がすく」
「だとしたら、手を血に染めた私たちは、一体どれくらい長くそこで燃え続けることになるのかしら?」
「さあ? 少なくとも彼女よりはずっと長く苦しむ事になるでしょう」
「……そうね。私たちの罪を燃料にするなら、その火は永遠に消えそうにないもの」
ジャックは灰原を一瞥した。助けるでもなく、声をかけるでもなく、ただ自分の手についた返り血を冷淡に見つめる。それから、それを拭いポケットへと手を入れ、少しの間だけ動きを止めた。指先に触れるのは、千切れたチェーンの感触だった。取り出したのは、あの小さなヨークシャーテリアのマスコット。今日、自分が渡したもの。トイレの床に落ちていたのを回収して、そのままにしていたものだ。
返すべきかと一瞬悩む。こんな殺人鬼からの贈り物など、持っているべきじゃないだろう。だが一度あげると言った以上もうこれは彼女のものだ。悩んだ末に灰原に向けて、それを差し出す。
「要らなければ捨てて構いません」
短く、それだけ言う。ジャックは通報は任せると告げ、踵を返して闇の中へと消えていった。残されたのは、熱り続けるサウナの乾いた熱と、虚しく流れ続けるテレビ番組の陽気なBGMだけだった。