「わあ……カッコいいっ……!」
「どんな武器を持たせても絵になるけれど、際立つわね。それを持つと」
それらしくなりたいなら。その道を極めたいのなら。この人の真似をすればいい。
素人目に見てもそう思ってしまうほどに美しく、何処までも洗練された姿は、まだ九歳だったベルの
「褒めてもこの弓を買うつもりはないぞ、ヘファイストス」
「素直に褒めただけだから、貴方こそ素直に受け取りなさい、アルテミス」
親し気に語らう両女神のやり取りは耳を素通り気味。型を崩さず構え続けている凛とした横顔に、ベルは釘付けになっていた。
「すごいなぁ……カッコいいなぁ……!」
「ベタ褒めじゃない、ベル・クラネル」
「はい! すごく似合ってて、すごくカッコいいんですもん!」
「本当に素直な子ね……それなら、貴方もアルテミスの真似をしてみたらどうかしら?」
「はえっ!? ぼ、僕ですか!?」
「憧れているばかりじゃしょうがない。そうでしょう?」
「そっ、それはそうですけど……」
「神々でも指折りの腕前を誇る女神様が目の前にいるのよ? こんな機会滅多にないんだから。何事も挑戦よ挑戦。ほらほらっ」
「あ! わわわ!」
ヘファイストスに背を押され、矢を構えたままのアルテミスの前に飛び出したベル。あたふたしているその姿を、聖堂に飾られている彫刻のようぴたりと構えたまま、しかし目線だけでベルを追い掛けるアルテミス。
「であるならば、貴方も構えてみるといい。この弓と矢を持つんだ」
「は、はい…………えっと……こ、こんな感じでしょうか……?」
手渡された弓矢を見様見真似で構えを取ってみる。構えの良し悪しはさておいて、まだ身体の小さなベルには弓も矢も大きいらしく、まあ絵にならない。
「半身になれ。そしてもっと顎を引け。背筋を伸ばし胸を開け。いや、もう少し足を開け。肩幅よりも更に開くんだ。違う、左足はもう少し前だ。ああいやその角度ではダメだ。もっと外向きにするのだ。両足の先が狙う的に対して一直線になるように揃えろ」
「あわわ……!」
「正に矢継ぎ早ね」
アルテミスの涼やかながら熱の籠った指導とヘファイストスの苦笑の下であたふたする九歳男子。
その後も何度も何度もこれでもかまだ出て来るのかとダメ出しをされにされまくって。
「ふむ、少しは見られるようになった」
「あひがろぅぼらいまふ」
アルテミスの思う最低限に届く頃にはベルくんすっかりヘロヘロである。
「それにしても……」
「な、なんれすか……?」
「似合っていないな」
「あうっ!?」
褒められていた構えを維持出来ずシナシナのショボショボになってしまうベル。アルテミスの遠慮のない言葉の穴埋めをしなければと、ベルが手にしている弓を商品として取り扱っている女神が前に出る。
「もっと言い方があるでしょう……気にしてはダメよ、ベル・クラネル? アルテミスが言いたくなるのも無理はないと言うか……ほら、ね?
そのサイズの弓矢を今の背丈の貴方が構えてもどうしたって絵にならないと言うのは仕方がないことだと思うの。けれど構えそのものはそれらしくなっているわ! 本当よ? だからそんなに落ち込まなくて大丈夫。貴方の成長が、そのまま貴方を一人前の射手にさせてくれるわ。あくまで見た目だけはね。当然だけど、腕前の方は精進よ、精進」
「……がんばります……」
「ちょっと……落ち込んじゃったじゃない……なんとかしなさいよアルテミス……!」
頑張って励ましても手応えが薄いと感じたヘファイストスが、ベルを凹ませた張本人に耳打ち。耳打ちをされたアルテミスは、然程悩む様子も見せず、口を開いた。
「ヘファイストスの言う通りだ。貴方は今よりずっと大きくなる。あと五年もすれば、私よりも大きくなる。これは間違いない」
「どうしてわかるんですか……?」
「神の勘というヤツだ。信じてくれていい」
「は、はあ……」
「もう一度構えてみてくれ」
「えっ、と…………こんな感じ……ううん……もう少し足を前に……」
「悪くないぞ」
「はうっ!?」
言われるがまま弓を構え直すベルの小さな両肩に何かが触れた。アルテミスが手を置いたのだと即座に理解し、即座にベルの様子がおかしくなる。
「こら、しっかり立たないか」
「ごめんなさいっ」
「……うん……やはりいいな……わかっていたことだが……貴方には『矢』が似合う。それも当然か……」
不思議なことを言っているなって、ベルは思った。
そもそも似合っていないと言われたばかりなのにどうして?
それと、屁理屈みたいな角度からの見方にはなるけれど、そこは矢じゃなくて、弓なんじゃないですかと、そう思ったから。
「しかし生憎と『私の矢』を貴方に託すことは出来ない。そうならないようにしなければならないからな」
「あの、それって」
「前を向け」
「はいっ!?」
これまた言っている意味がわからなくてその意味を聞こうと振り返ろうとするも、ぐいっと肩を押されて叶わず。
「忘れるな」
膝を曲げたらしく、アルテミスの声が耳の直ぐ近くから聞こえてベルくんドキドキ。
「貴方が構える先。鏃の向こうにいるのは、貴方の未来を脅かす大敵だ」
そのドキドキに飲まれながら、それでも自分の構える先を見据える。
「それを越えなければ、貴方は貴方の望みを叶えられない」
「僕の……望み……」
そこには誰もいなくて、何もない。
「今の貴方には難しいかもしれない。けれど、未来の貴方になら出来るかもしれない。貴方の前に立ち塞がる、貴方の未来を黒く染めてしまう何か。その全てを射抜くことが」
「……僕にも出来るんでしょうか?」
「それはこれからの貴方次第だ。けれど……私には見える」
ベルには見えていないが。
ベルの肩に両手を置いたアルテミスは、目を開いていなかった。
「私の『矢』ではない、貴方の『矢』が、全てを穿ち、射貫く。そんな未来が」
「僕の『矢』?」
正直な話。アルテミスのように自分のものに出来たらカッコいいんだろうなと思いはするんだけど、弓矢を主軸に戦う自分というのはちっとも想像が出来ない。
だから、ピンと来るようでピンと来ていない、って感じだった。
「そう難しい顔をしないでくれ。全ては可能性。それを現実にするもしないも貴方の努力次第。我々が思い描く可能性を越えるのも、な」
ポンポンと二度、柔らかく両肩を叩かれた。もういいのかなと思ったベルは、構えていた弓を下ろしながら振り返った。
「いつか、貴方と肩を並べ、弓を引いてみるのもいいな」
それはきっと、胸が躍る体験だろう。
「っ……ぁわ……!」
そう付け加えた女神の微笑みは、九歳の男の子の脳裏に鮮烈に焼き付いた。
* * *
懐かしい景色を見た。
憧れ。夢。可能性。
前向きなもので溢れたいい夢。
いい思い出だ。
「ふぁ……んぅ……」
開きの甘い目元に喝を入れるよう右腕でゴシゴシ。少しは動きが軽くなった瞳が見つけた窓の向こうから差し込む光はまだ幼くて弱々しい。その頼りのない光が、自分はいつも通りの時間に起きられたらしいことを教えてくれる。
「弓かあ……」
寝台から上半身だけ起こして、いつかのデートの日に教わった構えを取ってみる。
「なんか違うような……」
上半身だけで構えたのだ、差異が生まれて当然である。なんでだろうなどと真剣に考えてしまっている辺り、頭の方の覚醒にはもう少し時間を有してしまうご様子。
「少しくらい様になったら……驚いてもらえるかなぁ……」
こんな為体ではいかん。そうだ、心当たりのある弓の使い手に教えを乞うなんてどうだろうか。弊派閥にもフレイヤの子供にも弓を扱う冒険者はいる。オラリオ最強魔導士と名高いロキ・ファミリア所属のエルフのお姉さんや、最近になって付き合いの出来たタケミカヅチ・ファミリアの少女を頼るのもいいだろうか。本人が気乗りしてくれるかは読めないが、ミアハ・ファミリアの団長さんも弓の名手だと知っているが。
「……いいか」
それらの光景を想像しようとする頭に、急ブレーキを掛けた。
「もう直ぐ……会えるもんね……」
頼るなら。最初に弓との縁をくれたあの人がいい。
女神であり友達の、あの人が。
「にゃ」
そうだそうだと肯定するかのよう。今朝はベルの部屋に忍び込んで一緒に眠っていたらしいフリーダムキャットのシロが一声添えた。
「そだよね……うん……」
うんうんと納得しながら親友の頭を撫でると、ごろごろと喉を鳴らしながらベルの手に頭を擦り付けてきた。
「そうだよねっ……!」
今度は両手で真っ白な身体のあちこちをわしゃわしゃ撫で回す。ベルにしては強めなコミュニケーションにされるがままになるシロも気持ちが良さそうである。
「もう直ぐ会えるんだもん……!」
「にゃ」
「一緒に会いに行こうね!」
その日その時を想像してフワつく身体に鞭を打ち、シロの真っ白な身体を抱きながら寝台から跳ね起きる。
「んみゃ」
「わかってるよ、浮かれるなって言いたいんでしょ?」
「ん」
会話が成立しているような雰囲気を醸し出しながら頷くベルと、彼の左肩に飛び乗るシロ。
「先ずは次の遠征から無事に帰ってくる! だよね?」
「にゃ」
ベルの頬をペロリと舐めるシロ。
その通り。合格。わかっているならちゃんとしろ。辺りを訴えているのやもしれない。
白猫様の仰る通り。
五年振りの再会の前にやっておかなければならないことが。
越えなければならない冒険がある。
「うん。一つ一つしっかり丁寧に、だね。それで……そうしたら……」
「にゃ?」
「……えへへ……」
緩んだ笑みを浮かべる親友の肩の上で身を小さくする白猫様。本当にわかってんのかお前と今にでも喋り出しそうな雰囲気アリアリ。
「待ち遠しいなあ……うん? 何これ?」
着替え等々済ませるべく退室しようとする、締まりのない表情を浮かべる部屋の主の足が、ピタリと止まった。彼の紅い瞳が見つけたのは、丁寧に封蝋まで施されている書状。シロがいつでも出入りが出来るようにと隙間が開けられている窓の下、窓台に置かれていた。
「何か知ってる?」
「みゃ」
「だよねえ……ちょっと待ってね……」
そんなもん知らんとばかりにブンブンと振られた尻尾に首の裏をペシペシと叩かれながら開封。
「終わった」
印字されている最後の一文字にまで目を走らせるなり、さっきまでニヤニヤしっ放しだった笑顔は掻き消え絶望一色に染まってしまった。
『当今の貴様は弛んでいる。よって、締まりのない心根を矯正する。
かつては先生。ここ数年は
「今日……生きてお店……行けるかなあ……」
この手の呼び出しで酷い目に遭わなかったケースなどなかった。きっと今日も大層酷い目に遭ってしまうのだろうなあ。
「一緒に来てくれる?」
「ん」
んな馬鹿なと言わんばかり。ぴょんとベルの肩から飛び降り、ちょこんと座って毛繕いなど始める白い動物様。
「じゃあせめて、僕が生きて帰って来られるよう祈ってて……」
「にゃ」
「はあ…………よしっ! 切り替え切り替え! 洗濯とご飯! 今日はご飯食べてくよね?」
「んにゃ」
沈んだ顔をしていても仕方がないと、無理矢理気味に笑顔を作ってみせる。
一つ屋根の下で暮らしていない上、頻繁に顔を合わせることが叶っていない日々だ。それでも
だったらいい機会だ。今夜は楽しいことが待っているけれど、数日後には命を張らなくてはならない舞台に挑むんだ。
きっと無理難題と過酷を強いてくるだろう
「そうだ、忘れてた……!」
くるりと振り返って小走り。画鋲で壁に留めているそれ目掛けて一目散。
「これでよしっ」
壁に掛けてある用紙を一枚破くと、とある数字に赤く丸がされている用紙が姿を現した。
赤い丸で囲まれているその日。今月の後半。とあるお祭りが催される。
月を神に見立て、怪物たちの魔の手からの無事を祈る、神々が下界に降臨される以前より行われていた、伝統的なお祭りだ。
約束のお祭り。約束の日。
このカレンダーを次にめくる頃には、近くにいなくともずっとずっと自分を支えていてくれた人と再会を果たしている。
「……行こう!」
「みゃ」
五年前に交わした約束が果たされる日を待ち侘びる一人と一匹は、早朝であることを忘れたかのように慌ただしく、館内を駆けた。
* * *
「え? 僕が? 本当に?」
日中。何処ぞの白い妖精に虐め倒された心労を隠せていない横顔に浮かぶ困惑。祝いの席の渦中にありながら景気の悪い表情となってしまったベルが、集った者たちの表情を検める。揃いも揃って悪くない笑顔を浮かべているもので、いよいよと意を決さざるを得ないかと、早々にベルは腹を決めた。
「じゃ、じゃあ……僭越ながら僕が乾杯を……って、あれ? ヘスティア様は?」
「お店の裏に連れ込まれて行くのを見ましたね」
「ベルのお姉ちゃんらしい店員とどっかに行くのを見て以降姿を見てないな」
「お姉ちゃんと? 気付かなかったな……」
「店に来て直ぐのことだったと思うぞ」
参加者全員がそれぞれに杯を手にしたにも関わらず、ベルのお隣は空席。いきなり腰を折られた祝いの席だがしかし、雰囲気が迷子になるまででもない。
「二人は初対面だったと思うんだけど……なんだろう……ちょっと迎えに」
「ちょうど戻って来ましたよ」
ベルの左隣に座る小さな娘、リリルカ・アーデが最初に気が付いた。
「あ、ごめんねベル。乾杯の前だったよね」
基本的には自称。最近は他称も追い付いて来ているご様子な、ベル・クラネルのお姉ちゃんこと、シル・フローヴァ。
「む、むむぅ……」
彼女から数歩遅れて姿を見せたのは、なんやかんやあって初めての眷属を招き入れ約二ヶ月になる、女神ヘスティア。
ベルの勘違いでもなんでもない。正しく初対面である二人が、何故か人の目を避けて密談を交わし、祝いの席に戻って来た。
「いいんだけど……いきなりどうしたの? ヘスティア様に何か変なこと言ったりしてない?」
「私がそんなことするわけないで、しょっ!」
「お姉ちゃん、営業中。ちゃんとお仕事しないとミアさんパンチだよ」
「ベル成分の充電してるだけだもーん!」
「何言ってるの……」
苦笑しながらも、自らに飛び付いてきたニコニコなシルを突き放したりはしないベル。
「お、おぉ……」
その光景を妙ちきりんな表情で見上げる女神が一柱。
「ヘスティア様? 何か?」
「……なんというか……本当にクセの強い家族に囲まれているんだね……君は……」
「と言いますと?」
「仲睦まじくて素敵だなー! って言ってるんだよヘスティア様は!」
「適当なこと言わないの」
「てへっ」
「……なんか……痛々し」
「なんですー?」
「なんでもないでぇす!」
「へ、ヘスティア様?」
「いやこれ……やっぱり反応に困るな……」
「あの、本当に何か変なこと言われたりしてませんか? この人、変な所があるので……」
「あーひどーい! っていうかベルにだけは言われたくないなー」
「変ではあったんだけど……まあ…………うん! 大丈夫! ボクは飲み込んだ! 直ぐに慣れると思う! 自信はあんまりない!」
「え? えっ、と……」
「悪い話をしていたわけじゃないんだ! 女同士のナイショ話ってヤツをしていただけさ!」
「そうそう!」
「う、うーん……」
アヤシサノカタマリ。
しかもしかも。
女同士のナイショ話とやらの真ん中に、自分がいた気がしてならない。
「とにかくっ。これからよろしくお願いしますね、ヘスティア様?」
「うんうん! よろしく頼むよ! フ」
「ヘスティア様ー?」
「おっといけないいけない! シル……シル何某くん!」
「ナニガシ?」
胡乱な呼称がベルの表情を更に強張らせるも、当人同士的にはナシではない落とし所らしく、初対面なはずなのに初対面をまるで感じさせない女神と街娘は、和やかに頷きあっていた。
「細かいことはいいから乾杯しようぜー! ほらほらベルくんっ!」
「おっ、とと……!」
シルから奪い去る勢いでベルの身体に飛び付いたヘスティアに引き摺られ席に戻って行くベル。ベルから引き剥がされたシルはぶーと頬を膨らませこそしたが、それ以上何も言わずに仕事へと戻って行った。
「いやー待たせてしまってごめんよ! ということでベルくんよろしくっ!」
「は、はい……じゃあ……えっと……お、桜花さん!
他派閥にも関わらず、何故か乾杯の音頭を任されたベルの声から遅れて立ち昇る乾杯の数々が、今夜も満席御礼である豊穣の女主人の店内を華やかに彩った。
「あ、ありがとうございます……なかなか照れますねこれは……」
「感謝する……」
今夜の主役の二人。Lv.2へのランクアップを果たして数日を経た、ヤマト・
「こんな席を用意してもらってしまって……改めて礼を言う。ありがとう、ベル・クラネルと愉快な仲間たち」
「その纏め方は流石に雑過ぎます!」
「神様たちって往々にしてこういう所あるよな」
からからと笑う男神、タケミカヅチに半眼を向けるのは、リリルカ・アーデとヴェルフ・クロッゾ。
「おめでとう、二人共。ということで、この
「記念と言うなら商売にしようとするでない」
商魂逞しい
珍しいことに同派閥の姉たちが一人もベルに同行していない卓は、姉たちに頼ることなくベル自身が結び、築き上げてきた信頼と友情の結実と言えるだろう。
「そうだベル殿! 改めてにはなるのですが
「俺からも頼む」
「わかりました……けど……」
「けど?」
「どうかしたか?」
「い、いえ! 間違いなく伝えておきますね! は、ははは……」
曖昧に笑うベルの脳裏に浮かぶ、数日前の惨劇。
ベル・クラネルの指導を率先して務めていた貴方に是非。と、
「二人纏めてならば少しは遊べるかと思っていたのだが、遊びにもならんとはな」
選出した調整相手が悪いと言わざるを得なかった。
じっくり相手に合わせてなんて基本的にしてくれない輝夜は、開始の合図を耳にするなり
「この時間を求めたのはお前たちだろう。望み通りじっくりと、何時間だって付き合ってやる。ああ、死にたくなったら早めに言ってくれ。一つの門出を迎えた同郷の後輩たちの願いだ。隔てなく全て叶えてやろう」
ヘファイストス・ファミリアの団長、椿・コルブランドに打たせた刀の形をしためちゃツヨ打撃武器を手にした輝夜は、終始意地の悪いにも程があるニヤニヤ笑顔で、同郷の後輩たちをイジメ倒した。
しかし、当人たちが礼を口にしている辺り『調整』そのものは上々だったのだろう。
それに。口こそ悪いが輝夜は、なんだかんだとても面倒見が良かったりする。
「お前は律儀に立ち合いすぎる。どうしてわざわざ相手の土俵に上がろうとする。相手の得意に付き合うな、拒絶しろ。相手の不得意を見抜き、そこに擦り寄り己の得意を押し付けろ。そも、忍びの訓練も受けたと吐かしておきながら非情に徹しきれないその甘さはなんだ。忍びごっこなど幼年期で卒業しておけ、ケツの青い小娘が」
調整なんて二文字などとっくに忘れて死ぬ気で跳ね回る
「ランク、そして立場。貴様は、他の団員たちより背負っているものが重い。腕っぷしだけでなく脳を鍛えろ。今より脳筋になれと言っているわけではない。寧ろそこから逸脱し、視野を広く、視座を高めろ。お前が倒れることは、お前を頼りにしている者たちが倒れることと同義だとより深く理解しろ。って、聞いているのか? おい起きろ、筋肉達磨」
数の有利を活かすべく、自分が輝夜を正面で相手取って
口が悪い。手癖も悪い。足癖も言わずもがな。
それでも輝夜が施す訓練は、辛かった痛かった苦しかった意外の、極めてポジティブな何かを齎してくれる。
元末っ子のリューなどを虐めるばっかりで他者への指導らしい指導など碌にすることなどなかった輝夜だが、この五年のほぼ毎週末に行われていたどっかのダメダメ兎との訓練の日々が輝夜の視野を広くしたのだろうことは、輝夜本人も自覚していたりする。
辛かったのは間違いないが、得るものが本当に多かった。『調整』もばっちり。
故に
とはいえ、怖かった恐ろしかった口悪い意地も悪いなどの学びもちゃーんと持ち帰っているので、あの女だけは怒らせまいと、二人は内心で誓っていたりする。
「お陰様で調整は万全です! 迫る遠征で成果をお見せする所存でおりますので!」
「右に同じだ。今度はベル・クラネルにおんぶに抱っことならない仕事をしてみせる」
その真ん中にいるのはタケミカヅチ・ファミリアではなく、ベルでもヴェルフでもなく。
「頼りにしています
ヘスティア・ファミリア。その団長、リリルカ・アーデ。
オラリオに属する探索系ファミリアは、一定以上の等級とギルドに認められると、定期的に『遠征』を行う義務が発生する。
しかし、ヘスティア・ファミリアはその義務の対象外。新興勢力な上、Lv.1のサポーター唯一人しか団員がいないのだ、当たり前である。
それでもリリは、実績を欲しがっている。
ヘスティアに抱えさせてしまった借金を返す為。そして、ヘスティア・ファミリアへ入団を希望する者を増やす為に。
故に、間近に控えるタケミカヅチの子供たちやベルやヴェルフが同行する遠征の名目は、ヘスティア・ファミリアの遠征。ベルたちとは派閥連合という形。もちろん、探索で得た報酬は彼らと分配する。
生き急いでいる自覚がリリにはある。無理をするな。そんなに慌てないで大丈夫なんだと、彼女の主神にも諭されている。大小問わず、積み重ねていくことの大切さだって理解している。リリの力だけではダンジョンを深く深く進んでいくことなど不可能な以上、常に誰かの力を借りなければならない現状をいつまでも良しとするつもりもない。
けれど。リリの側には、喜んでリリの力となってくれる者たちがいる。
その者たちの厚意に甘え、頼り、彼らの力となり、共に未知へと挑んでみたい。
彼女に宿った知らない手触りの高揚は、とても無視できたものではない。
人を頼ることも頼られることも知らなかったリリは、新しい生き方、その可能性の一つと真正面から向き合っている真っ最中なのだ。
「そうだそうだ! 今日は
「僕に言われても……」
そんなことをこの店のオーナーたるドワーフが許すわけがないが、盛り上がることを許された席は、なかなかの賑わいとなった。
「ジャガ丸くんに精通している者が多いみたいだが、誰のジャガ丸くんが一番美味いんだろうな」
ベル、ヘスティア、タケミカヅチ。
ヴェルフが何気なく放った一言がきっかけ。
店の厨房を借り、誰の作るジャガ丸くんが一番美味いか選手権が開催されもした。
口にする以前からベルの作るジャガ丸くんが一番だと言って憚らないシルお姉ちゃんは審査員から除外された投票の結果、初代王者はベルに決定。ジャガ丸くんと向き合い続けた年季の違いを見せ付ける格好となった。
ちなみに、ミアから請求された材料費は、僅差で最下位となってしまったヘスティアが払うことになった。ヘスティアはもちろん、リリも負けじととんでもない表情になっていた。
ベル・クラネル、初のダンジョン挑戦から一週間程度を空けて決行された、アストレア・ファミリアの遠征の話題にもなった。
前半戦は姉たちの支援を受けてのポイントマン。後半戦は徹底的にサポーターとしての役割を全うし、派閥の目標であった到達階層の更新の瞬間に五体満足で立ち会うことが出来た。
「やっぱり深層の雰囲気が……無理矢理に連れて行かれたリリの気持ちがわかったよ……」
思い出すだけでも身震いするような鮮烈な体験。姉たちやフレイヤの子供たちからの指導に加え、低ランクのサポーターが深層でも出来ることの心当たりをリリから聞かされていなかったら、真実ただの置き物と化したまま深層で息絶えていたかもしれない。
「それに……みんながみんなじゃないみたいで……カッコいいなって思っちゃって……」
派閥内での訓練や、フレイヤの子供たちとの訓練でもそうは拝めたものではなかった、姉たちが全身全霊を賭す姿。
いつまでも憧れている場合じゃないということはわかっているけれど、まだまだ手が届きそうにないなと改めて思い知らされた。
下向きになってしまったわけではない。寧ろやるべきことが明瞭になったようで、やる気満々なくらいだ。
「姉さん方から聞かせてもらったが、あの話はしなくていいのか? ほら、階層主戦の話」
「あー」
初めて踏み込んだ深層。その最初の階層、三十七階層。
そこでベルたちを待っていたのは、階層主。ウダイオス。
人生で初めて階層主と一線を交えることとなった、その戦闘の最中。
ベルにしか出来ないサポートがある。
そう言ったのは魔導士組のセルティとリャーナ。
正直、しっかりと余力を残して討伐出来そうな雰囲気を出していた姉たちだが、些細なことで戦況が不利に傾いてしまう可能性はいつだって隣り合わせ。
故にもう一押し。それを欲しがった魔導士組にいらんことを吹き込まれたベルは。
「が、頑張ってっ!」
盾役のアスタに守ってもらいながら前進をし。
「お……お、お……お! お姉ちゃんたちっ!」
セルティとリャーナ曰く、みんなにブッ刺さるらしいバフをばら撒いた。
「っく……ふふふふ……!」
「あー! クるわこれーっ!」
「た、たまらないよぉ……!」
「見ててね! お姉ちゃんの勇姿!」
姉たちの大半が壊れた。
「何をやっているんだあの馬鹿は」
「アホしかいねえのかうちの派閥って」
輝夜とライラは呆れ顔こそ浮かべていたが、それにしたってさっきより絶対動きいいよねと、姉たちの本気を拝める機会が少ないベルにだって理解出来る程度にパフォーマンスが向上していた。
結果、蹂躙である。
「今ならなんでも出来る気がするわーっ!」
いつも冷静で、頼れるお姉さんである
「か、かわいそう……」
今日まで頭に叩き込まれてきた階層主戦の基本の実践と検証を行う機会に恵まれたのだが、ほとんど何もさせてもらえないまま一方的にボコボコにされていく階層主に同情すら覚えてしまう程度には圧倒的な勝利となってしまい、学べたことなど、弊派閥内に限り自分のサポーター適性は高いらしいということくらい。
尚、これ以降。
「危ないからお姉ちゃん呼びは禁止! その呼び方はシルちゃんだけにしましょう! あ! 私と二人きりの時は全然おっけーよ! というか時々呼んで欲しいわ!」
一旦冷静になったアリーゼによって、お姉ちゃん禁止令が発令された。私欲剥き出しの文言を添えた所為で揉めに揉めたのは語るまでもないだろう。
「お姉ちゃん禁止令ってなんなんですか……」
「ベルがお姉ちゃんって呼んでいいのはお姉ちゃんとしての格が違う私だけ! ってことだよねーベルー?」
「ふぎゅ」
リリの呆れ顔が超呆れ顔になってしまうような絡み方を見せるシルお姉ちゃんにベルくんお疲れ気味だが、話そのものは大いに盛り上がった。
「随分と盛り上がっているじゃない」
「へ、ヘファイストス様!?」
仕事を片付けて来たらしく、ヘファイストスが遅刻で参戦すると、場回しが巧みであったヴェルフの口数が露骨に少なくなった。その理由に心当たりのあるベルとリリの采配により、ヴェルフとヘファイストスは隣席にさせられた。
「お前ら……知ってて言わなかったのか?」
「うん」
「はいっ」
「ふざけろ。覚えとけ」
彼らしからぬマジ照れに、ベルもリリも頗る上機嫌。ニヤニヤを抑えるのに苦労さえしている様子だった。
「何故お前たちはニヤついているんだ?」
「皆目わからぬが、仲良きことは良きこと、であるな」
「タケミカヅチ様もミアハ様系男神なんだ……」
「ナァーザ殿の仰る通りで……」
「苦労しそうだね、お互い」
「はぇ!?」
「
「お気持ち……わかります……!」
ベルとリリがニヤついている理由など皆目検討も付かないらしい男神二人を真ん中に、今日まで交流が薄めだったナァーザと
尽きない話題と盛り下がらない時間を心行くまで楽しむこと数刻。
周囲の客たちが続々と帰っていく姿が閉店時間が迫っていることをベルたちに気付かせ、流石にそろそろお暇しようとなった。
会計を済ませたり身支度を整えたりと皆がしている中。
「ごめんなさい、ちょっと外します」
その場の全員に一言断って、ベルは厨房へと駆けて行ってしまった。
「
これはいい機会だと言わんばかり。
白い髪を揺らす背中が見えなくなったことをしっかりと確認して、桜花が
「なんです?」
「結局、春姫の話は」
「輝夜殿の言い付け通り、ベル殿には伝えておりません」
少しは酔いが覚めたのか、極めて真剣な面持ちとなった本日の主役たる二人は、内緒話を始めた。
「あのお子様には伝えるな」
ゴジョウノ・輝夜と初対面を果たした祭りの夜。輝夜は
「アレは、それだけになってしまう。お前の探し人が見つかるまで跳ね回ることになるだろう。何せアレは視野が狭い。取捨選択というものが碌に出来ないのだ。我々には遠征が控えている。アレが心ここに在らずとなれば、アレに入れあげているうちの馬鹿共の調子も狂う。故に伝えるな。これが飲めるならば私に出来る限りのことをすると約束しよう」
弟思いの御方だ。
遠征の件は言葉通りとして、生真面目な彼が一人で抱え込んでしまうことを良しとしていないのだろう。
「わかりました。ベル殿の耳には入れないこと、お約束します」
「……詳細は?」
「はいっ」
桜花たち団員全員に。主神であるタケミカヅチにも、輝夜に相談する旨の了承をもらっていた
「気が進まないが、使えるものは出し惜しみせず使うとしよう。一先ずは私に預けろ。貴様らは何処ぞの小僧のように目先に囚われず、鍛錬に励め」
その夜以後、
慌てず騒がす。今は輝夜の言う通り、日々の精進を厚くしながら次なる展開を待つ。それでいい。
「確かに、ベルさんの耳に入っちゃったら、一生懸命になり過ぎちゃいそうな気がするね……」
当然桜花たちと情報の共有をしている千草が、二人の間に入って来た。
「ありがたいことではあるのですが、振り回すのは望ましくない」
「ただでさえいつも忙しないヤツなんだ。この件くらいは遠い所にいて欲しもらおう」
「だね」
「はいっ」
自分たちの友となってくれた少年の身を案じる極東の幼馴染たちは、これからも方針を曲げないことを確かめ合った。
一方。
「アーニャさん」
「んニャ?」
極東の面々の話も聞こえてこない店の裏側。見慣れた尻尾が引っ込んでいくのを確かめたベルは、同僚であるアーニャの背中を追い掛けていた。
「いつもの報告、今いい?」
「聞かせるニャ」
「うん。その……一昨日ね、アレンさんの方から訓練を付けてやるって言ってくれて、三時間くらいみっちり指導をしてもらったよ」
アレン・フローメル。
彼の近況及び、彼と話したことや彼と行ったことなどを、アレン本人とベル本人のプライベートを尊守した上でアーニャに。
アレンの実妹、アーニャ・フローメルに報告する。
およそ五年前。
「ベルは、フレイヤ様たちと仲良しって聞いてるニャ……だから……に、いさま……ミャーの兄さまのこと……聞かせて欲しいのニャ……」
それまでに知ったアーニャの姿から想像も出来ないような、何かに怯えきったかのような姿を見せるアーニャが、当時は自分よりずっと背の低かったベルに、こんなお願いをした。
僕から聞いてみましょうか? アレンさんに、アーニャさんのことを。
背景の見えないベルは、何気なくそんなことを口にしてしまった。
「い、言わないで!」
アーニャはベルの両肩に縋り付き、何度も首を横に振った。
「兄様のことを嗅ぎ回ってるって兄様に知ってほしくないニャ……フレイヤ様にも言わないで欲しいニャ……」
アーニャの瞳は憂いと恐怖で、微かに濡れていた。
「これ以上……兄様のお荷物になるのは嫌……」
ごめんなさいと謝ったベルは、アーニャの頼みを引き受けることにした。
それから数年を経ても、大して中身のない報告になろうとも、ベルは必ずアーニャへ届けている。
「僕が深層に行ったことを知ってたみたいで、いつもよりスピードを上げてもいいか、なんて言われちゃって。本当に目にも止まらない速度でボコボコにされちゃって死ぬかと思ったよ……」
「まだまだ弱っちぃベルじゃとーぜんだニャ。そもそも兄様は手加減とか得意じゃニャいニャ。生きてるだけ兄様に感謝するべきニャ」
「そうだね ……」
何処か得意気にアレンのことを語るアーニャの姿が、ただでさえ複雑なベルの内心を余計に複雑にさせる。
アーニャにとってのアレンは自慢のお兄さんなのに、その自慢をアーニャが出来るのは、ベルにだけ。
いつもは誰が止めたって誰よりも元気に駆け回っている明るいアーニャなのに。
きっと、いつものノリでアレンさんのことを語ってくれたなら、すごく楽しい光景になるだろうに。
「……ねえアーニャさん」
「なんニャ?」
「そろそろ、アレンさんと」
「ダメにゃ」
ベルの言葉を待たずに、アーニャは首を横に振った。
「ベルがミャーと兄様のことをずっと気にしてくれてることくらい馬鹿なミャーでもわかってるニャ……でも…………兄様と家族に戻りたいけど……兄様に会うのも……フレイヤ様に会うのも……怖い……」
さっきまでのドヤ顔も何処へやら。行き場に迷う小さな娘のよう、アーニャは俯いてしまった。
「……そっか」
「ごめんだニャ……」
「え?」
「ベルがフレイヤ様とすっごく仲良しなこと、知ってるニャ……ニャから……」
「気にしなくていいんだよ、アーニャさん。僕なら大丈夫だから」
「ベル……」
「けど、これだけは言わせて」
「ニャ?」
「アレンさんのことを大切にしているフレイヤ様が、アーニャさんのことを大切にしていないわけがない。僕はそう思っているよ」
ベルの知っている女神フレイヤは、自分の子供をとても可愛がる人だ。
子供たちの好きなもの、好きなことにまで意識を這わせ、気紛れに子供たちにサプライズを決行してみたり。
女王様みたいな側面が目立つ人だけど、そうして絶対の存在として自らを誇示することが、子供たちの成長に大きな影響を与えることを理解している人だ。
同時に。子供たちに試練を与える人でもある。
だから、アーニャにだって。
多分、アレンにだって。
少なくともアーニャは知らない、フレイヤなりの思惑がちゃんとある。
都合の良い解釈かもと自覚はしているが、強ち間違いでもないだろうという確信も、ベルにはあった。
「……そんなこと言われても……ミャーは」
「うん、わかってる。困らせちゃってごめんね」
「ずっとベルを困らせてるのはミャーの方ニャ……ベルが謝ることじゃないニャ……」
「……なんでも言ってね」
「え?」
「僕でよければどんな相談だって聞く。僕で力になれることならなんでもする。だから、ね?」
「……ん……」
「うんっ。じゃあ今日の報告おしまい! さて! お店の片付けしよう! 僕も手伝うから!」
コクコクと二度、小さく頷くアーニャに強がりでもなんでもない笑顔を披露して、今日は客として来ているにも関わらず閉店作業に参加するつもりのベルは、アーニャに背を向けた。
「待つニャ」
「うん?」
「……いつもありがとうだニャ。ベル」
「どういたしまして!」
にひーっと、大袈裟なくらいに大きく笑うベルの姿が、アーニャの中に巣食っている暗澹とした思いを、少しだけ溶かしてくれた。
「はぁ……」
慌ただしく仕事に向かう二人の背中から遠い所に落ちる溜息。
「兄妹かあ……」
ミアに見つかってドヤされるまでしばらく、シル・フローヴァは、そこから動けないでいた。
* * *
「改めて、戦力と目標の確認をさせてください」
麗らかな陽気に包まれた朝。
バベル直下の
「今回の遠征に参加するのはヘスティア・ファミリアからリリ。アストレア・ファミリアからベル様。ヘファイストス・ファミリアからヴェルフ様。タケミカヅチ・ファミリアの団員の皆様。以上九名となります。四派閥合意により、遠征目標は十八階層。『
申し訳なさそうに眉を寄せるリリに、その場にいる全員が頷きで返したのはあっという間のこと。
「ありがとうございます……! どうぞよろしくお願いします……!」
リリの身体の倍以上はあるだろうバックパックを揺らしながら、リリは頭を下げた。
「次に隊列の確認です」
実は結構な緊張を抱えているリリなのだが、少しは硬さが取れて来たのか、その後の確認作業は筒がなく、且つ賑やかに行われた。
「それと、十七階層の階層主。ゴライアスの情報です。ゴライアスの
「念には念をって感じだな。リリスケ」
「なんていうか、リーダー! 指揮官! って感じだよね! カッコいいなあ!」
「茶化さないでくださいっ。ということで、出発してよろしいでしょうか? 神様方」
ニヤつくヴェルフと尊敬の眼差しを注ぐベルに返す言葉にキレはなし。赤面を隠さないリリは、見送りに来てくれていた神たちに、最後の一押しを託した。
「皆、心身共に準備万端な様子で何よりだ。最高の準備が叶ったのだ。お前たちならば成し遂げられるだろう。ただ、心しておけ。油断は禁物。そしていつだって、初心忘れるべからずだ。いいな?」
「はいっ!」
一番声が大きかった
「ボクの言いたいことタケがほとんど言っちゃった……! まあいいや! 君たちが帰ったらベルくんの働くお店で打ち上げといこうじゃないか! その時を楽しみに、君たちの帰りを待っているからね! どうか誰も欠けずに帰って来ておくれよ!」
「はい!」
今度はリリとベルが同着一位くらい。子供たちの溌剌とした姿にヘスティアのにんまり笑顔がより大きく育つ。
「というか、ヘファイストスは来なかったのかい? 意外と冷たいとこあるよなー」
「出発前に発破を掛けてもらいましたよ。それで充分です」
「そーかそーか!」
ヴェルフがどんな言葉をもらったのかなど定かではないけれど、彼の気持ちを昂らせるには充分なものだったのだろうことは、口の端を吊り上げる様一つでわかるというもの。
冷たいとこあるよなーなんて言いつつ、さっすがヘファイストスっ! なんて内心なヘスティアであったりする。
「それで、今日はアストレアは不在なんだね。いつもは見送りに来てくれるのに」
「来てますよ」
「何処にって……ああ、なるほど」
ベルが、バベルを見上げる。釣られるよう、その場にいる全員もバベルの最上階に目を向ける。
そこに、アストレアがいる。
「フレイヤ様も一緒です」
フレイヤもいる。
別に、母親たちの姿が見えているわけではい。ただ、あの場所からお見送りしてあげる旨を伝え聞いているだけだ。
「日頃から慈善活動に従事されてらっしゃるアストレア様はまだしも、フレイヤ様は辺りをお散歩しているってだけでどんな騒動に発展するかわからないお方ですからね……」
「僕がオラリオに来たばかりの頃なんかは僕に振り回されてあっちこっちに一緒に歩いてくれてたんだけど、今思えばとんでもないことをしていたんだなあ……」
浮かんだ苦笑も、当時の思い出にでも触れたのか、苦みの抜けた笑みに早変わり。
左手で日除けのカーテンを作り、バベルを見上げ。
「行ってきます。アストレア様。フレイヤ様」
小さく呟き、小さく右手を振って見せた。
「よし! それじゃあ行っておいで! みんな!」
「気張っていけよ!」
女神と男神に気持ちの良い返事で応えた九人の冒険者たちは、バベルの根元を目指し、歩みを早めた。
* * *
「これ、見えていると思う?」
「見えていないでしょうね」
微笑み合う二柱。アストレアとフレイヤは、息子に倣うよう小さく右手を振りながら、バベルに飲み込まれていく子供たちの背中を硝子越しに見つめていた。
「初めてのダンジョンへの挑戦以後、本当に目の回るような忙しさね。喜ばしいことであるのだけど、二人きりになれる時間がめっきり減ってしまったことには物申したいわ」
そう言って、わざとらしく唇を尖らせてみせる女神フレイヤ。ベルと出会っていなければ絶対に見られなかったであろう彼女の姿にアストレアの笑みも深くなる。
「あの子とのデートは無事に帰ってきてくれた時のお楽しみね」
「……本当に良かったの?」
「あの子に護衛を付けなかったこと?」
「ええ」
子供たちの背を見送り、それぞれの帰路に就くヘスティアとタケミカヅチを見下ろすフレイヤの表情がきりりと締まる。
「今日、間違いなくイシュタルが動く」
美の女神のお気に入りとなった。
たったそれだけの理由で今日、ベルは命を狙われるのだと、フレイヤはそう言っている。
「今も
「フレイヤの子供たちと私の娘たちから離れたダンジョン内。狙うには格好のタイミングだものね」
「ヘグニなんて、あの子の身を案じるあまり私にも内緒であの子を尾けようと画策していたくらいだったんだから。見抜いたヘディンにたっぷり怒られていたわね。貴方の娘たちは? 納得しているの?」
「納得と言うより、折れてくれたって感じだったわね。リュー、貴方はどうかしら?」
窓際に立つ二柱の後方。今朝はアストレアの護衛として同席している、ピシリと背筋の伸びているリューの本音を引き出そうと、アストレアが問い掛けた。
「不安はあります。正直に言ってしまいますと、不満も。しかし、アストレア様とフレイヤ様のご意志の下、私たち全員で決めたこと。皆の決断が最善の結果となるよう願うばかりです」
「そうね……」
眷属の素直な言葉に微笑みで返したアストレアは、リューより後方にて静かに佇んでいるフレイヤの娘、ヘルンに目を向けた。
彼女もまた、何やら言いたいことを隠していそうな感がある。
「聞こえた? リューは不満だそうよ、ヘルメス?」
フレイヤが話の矛先を向けたのはヘルンではなく、フレイヤに呼び付けられて参上した、ソファに浅く腰掛ける男神、ヘルメス。
「右に同じ、なんて言葉があちこちから飛んで来そうな雰囲気だなあ……けれど」
「なんと言われようと、この決断以外を選ぶつもりはない。と言った具合かしら? 皆まで言わなくていいわヘルメス」
「貴方の提案とその動機は、私たちの意思を曲げさせられるだけの力を備えていた。だから私たちは貴方の提案に乗ったのだから」
「理解してくれてありがたい限りだ。けれど、すまないねアストレア。フレイヤ様。リューちゃんもヘルンちゃんも。君たちの家族を囮にするような真似をしてしまって」
軽口はお留守番。極めて真剣な眼差しで、その場にいる一人一人の瞳と向き合い、ヘルメスは謝罪をした。
囮。
当人だけが知らないがしかし、正しく今日のベル・クラネルに与えられた役割である。
大抗争。それ以後も。
秩序の側に立った神々の采配は冴えていた。
まるで未来を知っているかの如く危機を未然に察知し、
極め付けは大抗争の終結以後。およそ五年前に行われた、フレイヤ・ファミリアによる、
美の女神の子供たちによる容赦のない暴力の嵐に飲まれた
近々では数ヶ月前。とある
今も存命であろうタナトスやヴァレッタらに繋がる痕跡は皆無な状況を変えることは叶わなかった。
地上は徹底的に探した。オラリオ内はもちろん、オラリオに属していないファミリアや他国の力を惜しみなく借り、オラリオの外も可能な限りに。
それでも、現在の
神々……というか、ヘルメスは確信した。
重ねて。
食料の補給や情報の提供などを行っているファミリアが。
これも間違いないだろう。
事前にどれだけ備えを用意出来ていたとしても、それでも五年だ。
そこでヘルメスが提案したのは、
候補は幾人かいるが、その中でも最有力候補は誰か? 出来れば派閥の規模が大きい方が望ましい。一つきっかけを掴めれば、芋づる式に次へ次へと展開を早められるからだ。
ヘルメス。アストレア。フレイヤ。三柱の意見は一致した。
会合の末、彼らは標的を、女神イシュタルに定めた。
ヘルメスたちの第一にして最優先の目的は、イシュタルと
バベル以外に存在している、ダンジョンへの出入り口の発見にある。
そもそも。バベル以外にダンジョンの出入り口がある可能性は既に、大抗争の折にロキ・ファミリアの団長、フィン・ディムナが示唆していた。
大抗争の最終局面。
バベルの警備の誰一人にも悟られず十八階層に現れた、かつての覇者にして大罪人。
その大罪人から遅れてやって来た、ダンジョンのモンスターたちに命を狙われるはずの神の身でありながら、まるで散歩にでもやって来たかのように、決戦場たる十八階層にふらりと現れた邪神。
騒動の以後、全ての出来事を精査する過程で、彼らの存在と行動がバベル以外の出入り口の存在の説得力を大きく底上げし、フィンの言説が妄言だと受け取られることはなくなった。
フィンを中心に、ダイダロス通りが怪しいと調査を試みもしたが成果は芳しくなかった。
というか。神々によって、深追いは厳禁とされた。
深追いをした果てにどんな罠があるかもわからないし、何処から監視されているかもわかったものではない。
子供たちに危険な橋を渡らせるにしても今じゃない。臆病なくらいが丁度いい。少しでも情報を集め、リスクを削って削って削って、ようやく大胆な行動に移れる。
そうして生まれた五年の沈黙。
しかしここへ来て、ようやく時を得た。
ようやく駒が盤上に上がってくれたと、ヘルメスは拳を握った。
間違いなく存在しているバベル以外の地下への出入り口。
その存在を知っている可能性が極めて高い歓楽街の首魁。イシュタル・ファミリア。
そして、イシュタルが目を付けている、ベル・クラネル。
彼を守る姉たちは不在。フレイヤの子供たちの影も無し。
最高戦力がLv.2のベル・クラネル本人であるという貧弱なパーティー。
事が起こるならば、間違いなく今日だ。
「間違いなく次の遠征で、ベルくんは狙われる。しかし、護衛を付けないで欲しい。この五年の沈黙という辛抱強さを鑑みれば、護衛の存在を悟られた時点で撤退も大いにあり得る。端的に言う。ベルくんを囮として使わせてくれ」
動機を構成しているものを詳らかにしたヘルメスは、アストレアとフレイヤに頭を下げた。
それを二柱が受け入れ、子供たちを説得し、今日を迎えたのである。
「しかし、囮とは穏やかではありませんね……そもそもですが、本当に女神イシュタルは動くのでしょうか? 神々のご采配を疑うわけではありませんが、不鮮明な部分が拭えないように思えます」
「リューちゃんの懸念はもっともだと思う。俺だって杞憂に終わるならそれでいいと思っているよ。ベルくんたちの無事に勝るものはないからね。もっと言えば、イシュタルだってきな臭さを感じていると思うよ。都合が良すぎる、ってね」
「でしたら」
「それでも動く。彼女ならそうする。なんだったら、イシュタル本人が動く可能性だって高いと思っているよ」
「どうしてそう言い切れるのかしら?」
続きを促したのはリューではなく、フレイヤ。
「彼女が抱えているフレイヤ様への情念は、俺たち神々の持っている物差でも測れそうにないほどのスケールだからさ」
これが、イシュタルがヘルメスたちの標的となり得た最大の理由であったりする。
どれだけ辛抱をしようともイシュタルならば、いつか必ず動く。
フレイヤの美貌が屈辱に歪み、彼女が地べたを這いずる姿を見られるならば、イシュタルはどんなことでもする。
それこそ、
彼女は、そういう女神だから。
「私にはわからない話ね」
息子たちの姿も彼らに寄り添う神々の姿も見えなくなった窓の向こうの景色に瞳を向けたフレイヤ。硝子に反射する彼女の表情には、特別な色は浮かんでいない。
「とにかく。今日何も起こらないなんてことはありえないよ。早速動きもあったみたいだし」
「と言いますと?」
「これさ」
リューの素直な疑問に答えながらヘルメスが掲げたのは、薄青く輝く水晶玉。
「それは?」
「
「そのような
「残念ながらリューちゃんが思い描いている娘ではないね。俺のお友達ご自慢且つ御禁制の一品、とだけ言っておこうかな」
それちょーだい! と、ヘルメスに告げられた際、表情に乏しいローブの下の真っ白なお顔を、それでもはっきりと苦渋に歪めていたお友達の姿を思い出しながらヘルメスが掲げた
「反応があった。ベルくんたちの出発がイシュタルの耳に早速入ったのか、イシュタルたちが行動を開始したみたいだ。規模を聞きたい所だけど、こちらから呼び掛けるのは危険だから我慢だなあ」
「ならば、後は彼女次第ということですね」
その彼女とやらを慮るリューの表情に微かな影が差した。
「そうだね」
ヘルメスの瞳は、わかりやすく不安を表に表しているリューではなく、窓際からこちらを見つめている二柱の様子ばかりを映していた。
数日前。
ヘルメス、フレイヤ、アストレアの三柱間にて、子供たちの耳には入れられない内緒話が交わされた。
「ベルくんを囮にする。理由も伝えた。が、これはあくまで表向き。と言うより、概要を削りに削ったものって感じかな。アストレアには七年前。フレイヤ様には五年前、ベルくんがオラリオへやって来た当初に伝えているね。俺たちが探している、ダンジョンへ繋がる別の出入り口、その名称を」
「
「そう」
子供たちの前では回りくどい言い回しをしているが、ヘルメスたちは知っている。彼らが探している、秘密の抜け道の名を。
その名を知るのは現状ヘルメスと、アストレアとフレイヤ等、ヘルメスが情報の開示をした幾人かの神だけ。
それが
その冒険者は、アルと名乗っていた。
「それと……これはアストレアにも見せたことがなかったね」
「それは?」
ヘルメスが懐より取り出し二柱の女神の眼前に掲げた白い球体には、眼球のような意匠が施されていた。瞳の中には謎の記号が刻まれていて、とても趣味の良いデザインとは言えないものであった。
「『彼』……アルは、ダイダロス・オーブと言っていたね。
「鍵まで入手していたとはね」
「全て『彼』のおかげさ。目を開けているだけでも辛い日々だったろうに、本当に大した道化師だよ、彼は」
アルが未来から齎してくれた情報。そして、この時代にて孤軍奮闘の果てに
「子供たちの安寧に繋がる情報と成果をアルは齎してくれた。いくら感謝をしたって足りないくらいだ。しかしながら、これを活かしきれていないのが現状だ。
「尋ね人?」
「それは?」
「エニュオ」
「『
アルから情報を託されたヘルメスがどれだけ駆けずり回っても、些細な情報の一つさえ掴ませなかった存在、エニュオ。
エニュオに辿り着くのは、アルから託された多くの『宿題』の中でも群を抜いた難問。情報を提供されたと言っても、名前以外に碌な情報を提示されていないのに辿り着こうと言うのだ、難しいに決まっている。
「アルはエニュオなる人物に纏わる事件にそれほど関与していなかったみたいなんだ。知っているのはその名と、オラリオが消滅するかもしれない程の事件が起きたというふわりとした情報だけだったからね」
「では何故地下に潜伏していると?」
「少し焚き付けたら勝手に暴れてくれる
「概ね同意出来るけれど、ここまで全て憶測でしょう?」
「その通りだけれど、どの道今は全て憶測でしか語れない。だったら少しでも可能性を感じる憶測に寄り添った方がいいだろう?」
「希望的観測ばかりになるのは致し方ない、と」
「纏めよう。まず第一に
「そう上手くいくかしら?」
「今回だけでは無理だろう。なんなら確実に。それでも、エニュオへ通ずる一歩を刻めるかもしれないこの機会は、千載一遇なんだ」
この五年、誰よりも辛抱をしていたのはヘルメスなのではないか。
二柱にそう思わせてしまう程度には、ヘルメスは此度の機会に賭けていた。
「ベルくんたちに危ない橋を渡らせてしまう以上、手ぶらで終わるなんて出来やしない。それすらも子供たち頼りになることが心苦しいが、俺は俺の出来ることをやるさ。特に今年は色々と荒れるだろうから。おちおち適当ばかりをやっていられそうにないしね」
「荒れる?」
「前提が何もかも違う以上間に受け過ぎるのも良くないとは思っているが、未来の『彼』がオラリオにやって来たのが今年。そして、ベルくんが冒険者として本格始動したのも今年。運命だなんて言えないけれど、この偶然の一致を無意味だと吐き捨てるのは俺には出来ないかな。二人も、何か感じているんじゃないかい?」
「ええ」
「さてね」
迷わず頷くアストレアと煙に巻くフレイヤ。それぞれらしい反応に口の端を高くしたヘルメスが告げる。
「時代が動く時が……神々でさえ知らない『未知の英雄』が現れる時が来たのさ。きっとね」
それ即ち、神の予言。
「やはり私だけでも彼女の応援に向かうべきではありませんか?」
そんなやり取りを神々がしていたことなど知らないリューが、単独でイシュタル・ファミリアの動向を追っている友の安否を気遣って、きっと突っ撥ねられるだろうとわかっていながらのご提案を一つ。
「イシュタルたちが動き始めた以上、今からの合流はリスクを高めるだけだよ。向こうには一度暴れ始めたら手が付けられない団長さんや、『
「『
その冒険者の名前、実力に覚えがあるのか、リューの眉根に微かな皺が寄った。
「厳しい言い方になるけれど、
「それは理解していますが……」
「今は信じてやってくれないかな。リューちゃんたちが自分の身を案じてくれていることを理解していて、それでもと単独で俺たちの無茶に応えようとしてくれているんだ、うちの団長さんはさ」
「……何かあったら直ぐに動けるよう待機しています」
「うん、それがいい」
それ以上の提案も我儘も控えると決めたリューは、来るかもしれない大波の到来に向け、心を落ち着ける時間を設けることとした。
「大丈夫よ、フレイヤ」
陽の光を浴びて輝いているはずなのにどうにも明るいものに見えない尊顔で、もう息子たちの姿も見えなくなってしまった下方を見ろし続けている美の女神の横顔に、アストレアが声を掛けた。
「心配は尽きないけれど、それでもあの子たちなら大丈夫。あの子のお友達の加護が、あの子を守ってくれるから」
「お友達の加護、ね……」
加護なんてものを授けたらしいお友達とやらに心当たりのあるフレイヤだが、それでも彼女の表情は変わらない。
「でも、心配は尽きないわね」
「……こんな冒険もどんな冒険も乗り越え、そしていつか『未知の英雄』となる。それが、この私の息子たるあの子に与えられた命題」
基本的にベルにはダダ甘なフレイヤではあるが、今ばかりは決然とした眼差しで、そう断じていた。
「そしてそれは、あの子の夢と直結している」
フレイヤの右手の指先が、綺麗に保たれている硝子に触れた。
「私たちをまとめて守れるくらいに強くなる。英雄になる。その憧れを変わらず胸に抱いているのなら、こんな程度の冒険を乗り越えられないようじゃいけないわ。だから……」
力が入ったのか、まるで誰かの背中を押すかのよう、指先ではなく掌全体が硝子に触れた。
「無事に帰って来て……ベル……」
こつんと、微かな音が聞こえた。
フレイヤの額が硝子に衝突した音だった。
「ふふ……」
あまりにも素直な美の女神の有様に母性を擽られ、フレイヤの頭を撫でてやりたい欲が湧いたアストレアだが、ヘルンの目があるので全力で堪え、その代わりにフレイヤへと身体を寄せた。
一人の息子の無事を願う二人の母親は、心配も不安も後悔も、全てを分かち合った。
「どうか無事で……ベル……」
自らの母親と、自らの母親とは流石に言えないけれど、すっかり自分にとって大切な存在となった美の女神の姿を見ながら。
「アンドロメダ……」
家族と親友の無事を何かに祈るよう、可憐な妖精は、静かに瞑目した。
* * *
極めて順調。
そう断言していいだろう。
「ふぅ……」
努めて音を抑えた深呼吸を一つ。
持ち得る
何せ、透明化した彼女の前を歩く者たちは、手練揃いである。
「ゲゲゲッ! 久し振りに暴れられるねぇ!」
イシュタル・ファミリア団長。Lv.5の実力者、フリュネ・ジャミール。
「久し振りも何も連日暴れ回っているだろうが。少しは自重しろヒキガエル」
同派閥の幹部にして、能力の高さと人望の厚さや確かな統率力でもって、実質的に派閥の指揮官として機能している、アイシャ・ベルカ。
派閥最高戦力と言っていいだろう二人の周囲にも腕の立つ
その中に一人だけ幹部でもない、なんなら戦闘など碌にこなせそうにない獣人……恐らく
何も知らない一般男性が見れば心を奪われるような妖艶さを放つ一団。その真ん中。
「暴れることなど認めていない。今のお前たちは私の護衛。目的は品定め。隠密行動であることを失念するなよ、フリュネ」
厚手のフードを被り顔を。どうやら神威も隠してこそいるらしいが、麗しの子供たちの存在感を希薄にしてしまうほどの『美』が、艶かしい肢体を揺らし、優雅に歩を進めている。
「ゲゲゲゲゲゲッ! わかってるよぉ、イシュタル様ぁ」
アスフィの主神たるヘルメスたちの思惑通り。
ベル・クラネルのダンジョン侵攻に際し行動を開始したイシュタル・ファミリア、その主神。
イシュタル本人がいる可能性も大いにある。
ヘルメスより告げられていたアスフィだから、大した驚きはなかった。
しかし。派閥最高戦力の投入に加えてこの人数。その上更に、女神イシュタルの存在。
ヘルメスが言っていた通り、イシュタルたちの目的がベル・クラネルへの接触や、彼によからぬ事を働く事であるのなら。
「相変わらず歳上にモテる子ですね……」
軽口にしなければいられなかった。
間違いなく女神フレイヤへの敵愾心が基軸なのだろうが、だからと言ったってこれほどの戦力をたった一人の品定めに当てるか普通?
いや。普通など、考えるだけ無意味だった。神々の行動理念や価値基準は、下界の民の理解から遥かに遠い位置にあるものだから。
「集中……!」
この任務を終えたら話の渦中にいるのに何も知らず友人たちとの冒険に胸を躍らせているのだろう少年に肩を揉んでもらい美味しい食事を用意してもらいなんなら半日いやどうせなら丸一日あの子を独り占めしてデートに興じるそれくらいの権利ありますよね私そうですよね世界もそうだそうだと言っていますよね?
素直な雑念で緊張感を緩和させながら、アスフィは気を引き締め直した。
イシュタルたちが歩いているのは、アスフィも知らなかった道。ダイダロス通りの行き止まりの石壁を押したら出て来た通路である。
早速の成果とオラリオに潜んでいた未知に心を揺らされたが浮かれてばかりもいられない。メモなど取れる状況ではないので、目に付くもの全てを脳内に叩き込みながら十分前後歩いた所で。
「扉……?」
石造りの通路とは様相の異なる門の前で、イシュタルたちが足を止めた。
その門は一目でわかる金属製。いや、単なる金属などではなさそうだ。それこそ、
「サミラ、鍵を」
「あいよ」
イシュタル・ファミリアの幹部の一人、灰色の短髪の下に勝ち気な笑みを浮かべているアマゾネスの戦士サミラが、イシュタルに命じられ扉の前に立った。距離を保ったまま、眼鏡の奥の碧眼を細めてサミラの様子に注視していると、彼女が何かを取り出して、それを掲げ始めた。
白く丸い球体だ。
「な……」
全貌は見えないが、異質な雰囲気を放っている球体の存在に稀代の
なるほど、見るからに頑強そうなあの扉を開閉するには、常識を遥かに超越した膂力でも備えていない限り、鍵の存在は必須と。
「よし……」
ダイダロス通りの秘密。謎の扉。そして鍵の存在。
充分すぎるほどの結果が得られたと言っていいだろう。本音を言えば、あの一団を追って更なる成果を得たい。この先にどんな光景が広がっているのかという純粋な興味もある。しかし、あの一団を追って扉の向こうに閉じ込められてしまおうものならば目も当てられない。引き返すならばここだろう。
「進むぞ」
イシュタルの号令の下、進行を再開する一団。その背中がどんどん遠退いて行く。
「はぁ……」
見送らざるを得ない歯痒さとこの緊張感からようやく解放される事実のないまぜが、少し重めな溜息の形を得て、アスフィの影も見えない所為で誰の影も存在していない空間に落ちた。
そして、アスフィは学びを得ることとなる。
「姿を消して覗きとはいい趣味してるじゃないか!」
気を緩めるには早過ぎた事実と。
「一体何処のどいつだい!?」
野生の勘というか、彼女だけが持ち得る嗅覚というべきか。
「はっ!」
イシュタル・ファミリアの幹部にして悍婦。
『
「くっ!」
自分よりレベルは低いはずなのだがそれを感じさせない超スピード。姿は見えていないだろうに、獣染みた動きから的確にアスフィ目掛けて叩き込まれる大朴刀。間一髪で避けたアスフィの代わりに石床が無惨な亡骸と化す。
死ぬ。
あの数に追い立てられて無事で済むわけがない。
死ぬだけならまだいい。
ここで捉えられ、美の女神の魅了の下僕に堕ちてしまったら、自分の周囲の人々全てを危険に晒すことになってしまう。
冗談じゃない。
そんなことになったらいの一番に歓楽街を牛耳る彼女たちの毒牙に掛かるのは、あの子。
幾つになっても真っ白なあの子だろう。
そうしてあの子は、望まぬ形で大人への階段とやらを登る羽目になってしまうのだろう。
そんなの、許せわけない。
あの子に不埒な真似を働く輩など、許してなるものか……!
思考が姉ンジャーズに寄りまくっている自覚など希薄なアスフィは、見えぬ姿なれど、それでもこの女戦士は一切関係なく自分を追い立てて来れるだろうと理解した。
分水嶺がここであり、ここをしくじれば自分や誰かの破滅に直結していることも。
だから、必死になれ。それでも冷静さを手放さず、手札を探せ。
然して、生存への道標へ直ぐに辿り着けた。
「使わせてもらいますよ……」
キレのいい回避行動を取りながら、黒い球体を懐から取り出すアスフィ。
「ライラっ……!」
それを躊躇なく、足元に叩き付けた。
「くっ……!」
瞬間、先頭のアイシャも、追い付いて来たアマゾネスたちも動きを止めざるを得ないほどの眩い輝きが、狭く薄暗い石造りの通路を満たした。
「なんだこの光!?」
「直視するな! 目が焼ける!」
「イシュタル様を守れ!」
あまりにも眩しく、そして効果時間の長い輝きは、以前に護身用としてライラより託されていた、強烈過ぎる閃光弾が齎したもの。
「これやるよ。んだよーそんな目で見んなよー。いらねえからゴミ押し付けてるとかじゃねえーっつの。そいつはただの閃光弾だよ。そこらのヤツでも作れるようなシロモノだ。ま、アタシなりに手を加えまくってるけどなー」
にやにやと笑う彼女はそれ以上の詳細を語ろうとしなかったが、アタシなりに手を加えまくったということはただの閃光弾ではないのだろうと使用を控えていた。とはいえ、今日のような危険な任務やダンジョンへ赴く際は必ず携帯していたりする。
口も悪いし正義の派閥の娘にしては性格もアレな感じはあるが、裏表がなく自分の利益に何処までも正直なライラの人柄にも、ライラ手製の品々の性能にも一定以上の信頼を置いていたりするのだ。
それにしたって。
「魔改造にも程がある……!」
なんなんですかこの光量おかしいんじゃないんですか使用者の目まで纏めて潰す気なんですかあの
と、帰ったら言ってやろうと決意したアスフィは、使用者自身の目も焼きかねない輝きに背を向け全力で走った。脇目も振らず、自分が透明であることも気配も音も消すことも考えず、とにかく走った。
「『ヘル・カイオス!』」
そんな彼女の直ぐ側を、何かが駆け抜けた。
魔法。それともスキルか。それは定かではないが。
「ぐっ、ぁ……!?」
アスフィの左腕に深い裂傷を走らせたのは、間違いなく斬撃の類であった。
「手応えあったよ!」
その技を放ったのは、アイシャ・ベルカ。
なんと彼女は、両目の機能が回復していないまま、アスフィが発する音と気配、後はもう勘で、アスフィの命を脅かしてみせた。
左上腕に走った裂傷から滴る赤い血。もう少し斬撃が深く刺さっていたとしたら、今頃前腕と上腕はさようならしていたことだろう。
「もうやだっ……!」
痛む腕。溢れる泣き言。それでもアスフィは止まらず、必死に駆けて駆けて駆け倒して。
「だあっ!」
乱暴な声を吐き出しながら、イシュタルたちが用いた通路から飛び出して、ダイダロス通りに戻って来ることが出来た。
「まだ安全圏じゃない……!」
呼吸を整えるのも後回し。冒険者らしく持ち歩いている
「はあ、はあ、はあ、はああぁぁぁぁ……!」
アスフィ謹製の
「血の跡が残っているのは出入り口まで……それ以上に目立つ痕跡は残していない……追い付かれたら素直にお手上げ……あの女戦士を称賛せざるを得ませんね……左腕上がりませんけど……」
アスフィに与えられた任務は達成された。
しかし彼女は既に、その先を見据えている。
「はあ…………聞こえますか。クソボケアホカスゴミクソ主神様」
しっかりとした止血も
『聞こえてるけど流石に酷くないかなアスフィさーん?』
「疲れた身体が余計に疲れる声……ヘルメス様の声で間違いなさそうです……」
『確認の仕方が嫌! っていうかクソって二回言ってたよ!?』
げんなりとした表情の中に微かな微笑みを浮かべるアスフィ。生きた心地がしなかった世界からの逃走劇を制したばかりの彼女にはこの喧しい声が、今だけは心強く思えた。
「ヘルメス様の予想通りです……ダイダロス通りに抜け道がありました……その先には金属製の扉が」
『ちょっと待てアスフィ。今何処にいる? 身体は大丈夫なのか?』
「セクハラです死んでください」
『なんでぇ!?』
「負傷はしてますけど大丈夫です。だから腰を折らずに効いてください。その扉を開くのに鍵を使用していました。恐らく
『……他に報告は?』
「団長フリュネやアイシャ・ベルカ等、二十名以上の集団で歩いていました。その真ん中に、神イシュタルがいました。単なる護衛と言うには過剰過ぎる戦力です。間違いなくこの後何かやらかしてくれることでしょうね」
『他には何か?』
「神イシュタルは、品定めと言っていました。そしてあの戦力。端的に言って、ベルの身が危険だと思います。それも非常に。リオンはそこにいますね?」
『ええ。ここに』
「私はこの足でベルたちを追います」
『追うと言ってもアンドロメダ、貴方は負傷をしたと』
「問題ありません。少し休めば大丈夫。本当に大丈夫ですから、そんなに不安そうな顔をしないでくださいリオン」
リューの姿など見ずともどのような顔をしていて、
「ヘルメス様に脅されまくった所為で嫌な予感しかしていなかった所に加えてあの戦力です。あまり悠長を決め込んでいられる時間はないと見ていいでしょう。ですから」
『駄目だ』
つらつらと語るアスフィの言葉を止めたのは、語気がふにゃふにゃしていない、ヘルメスの声。
『怪我をしているんだろう? 今は帰還を最優先としろ』
「聞けません。とにかく」
『アスフィ』
「……なんです?」
『一度帰って来い』
「…………」
『頼むよ』
「…………わかりました」
不承不承の体をまるで隠さず、それでもアスフィは、主神の言葉を受け入れることにした。
『案ずることはありませんよ、アンドロメダ』
「……後を頼みます、リオン」
『お任せを』
「…………はぁ……」
それ以上言葉を交わすつもりはないのか、
「流石に……死ぬかと思いましたね……」
アドレナリンの過剰分泌から解き放たれつつある身体は妙に重く、今直ぐに動くのは厳しそうだった。
「少し……もう少し……休ませてください……」
そうしたらベルのことを追い掛けてしまおうか、などと考えてしまうアスフィ。
だって、恐らくというか間違いなく。リューは直ぐにベルを追えない。
如何に彼女が卓越した腕前を誇っているとは言え、戦闘経験が豊富なイシュタル・ファミリアの主戦力たちをたった一人で相手取ることの無謀さが理解出来ない彼女ではない。
故に、まずは援軍集めに奔走するのだろう。
真っ白な末っ子に手を出した者を絶対に許さない、あの女戦士たちを。
「初めから全員で待機していたら……とは言えませんか……彼女たちは市民の人気者……とても多忙な娘たちですから……」
ギルドに憲兵に市民に冒険者に。彼女たちは非常に頼りにされている。
今の彼女たちは、飛ぶ鳥を落とす勢いの新鋭ファミリアでもなんでもない。大抗争の頃とは立ち位置が明確に違うのだ。
ならば。彼女たちの友である自分が、出来ることをしなければ。
そう思っていたのだが。
「信じる他ありませんか……」
自ら袖を千切った所為で剥き出しになっている左腕を抑えながら、生活の匂いを漂わせる石造りの煙突に寄り掛かる透明な影。
「過度な無茶をしたり……神イシュタルに貞操を食い荒らされたりしたら……お説教ですからね……ベル……」
すっかり姉ンジャーズの一員と化したアスフィは、自分にとって特別な存在となった少年の笑顔を瞼の裏に描きながら、薄く微笑んだ。
* * *
「アイシャ?」
「悪いねイシュタル様。逃げられたよ」
まだ正常に戻り切っていないのか、両目を手で覆いながら、団員たちに四方を挟まれているイシュタルの元へアイシャが戻った。
「いい。しかしよく気が付いたものだ」
「向こうの気の緩みを拾えただけさ。大したことじゃない」
「ふんっ!」
アイシャより冒険者としての格が上であるはずながらまるで気が付けなかったフリュネが乱暴に鼻を鳴らす前で、派閥の実質的な指揮官であるアイシャと主神イシュタルが、話を前に進める。
「それで、どう思う?」
「このタイミング。そして場所。私に抱かれたい男でもあるまい。アストレア、ガネーシャ、ヘルメス辺りだろうが……お前たちに碌に悟らさせないほどの技量と、それを支えた規格外の
「それなら『
「ヘルメスには『おつかい』を頼んでいるのだが……こちらは心配するだけ無用か。引き受けた以上やりきる。アレはそういう
「目的は?」
「
「どうするつもりだい?」
「放っておけ。ここを知られても私たちに大した損害はない。ただ、これではっきりした。少なくとも今は、あの玩具に護衛を付けていない」
「護衛を厚く置いていたら私らが踵を返し、ここを利用しない可能性があるから?」
「そうだ」
「そこまで込みで誘いの可能性は?」
「その気になったあの女王気取りが回りくどい手段を用いるとは到底思えない。表立って私たちを討つだけの材料があるならとっくにそうしている。あの女共は我々を利用し、楽して地下へ向かえる道を知りたいのだろう」
「妥当な所だね」
「は、はえー」
この集団の中でも一際幼い印象を受けるアマゾネスの少女、レナ・タリーは、先ほど見せた勘の良さと、主神であるイシュタルにまるで臆することなく正面から言葉を交わし合う同族の戦士の堂々たる姿に、何処か羨望混じりの眼差しを向けながら、ほけーっと口を開いていた。
「まだあいつらは
細くしなやかな人差し指を顎に当て考え込む仕草を見せるイシュタル。たったそれだけの仕草が異様に艶めかしく、そこらの男がこの場に紛れ込んでいたらするりと心を拐われてしまっていたことだろう。
「お前たち。『
アイシャと語らうばかりだったイシュタルの言葉が、その場にいる眷属全員に向けられた。
「以前にも聞かれた覚えがあるが、知らないね」
「俺も知らねえ」
「んーそんな人いたかなー?」
「ゲゲゲッ! その冒険者がなんだって言うんだいイシュタル様ー?」
眷属の様子を
子供たちは本当に知らないらしい。
暗黒期のある時期に、オラリオに属している誰の耳にも届いたろう、お人好しな冒険者の名を。
暗黒期。大抗争の最中。
当時は今程付き合いの厚くなかった
しかし、その鍵が何処かで使われた痕跡はないと聞いた。
だったら、その鍵は何処へ消えた?
そもそも何の為に鍵を強奪した? 使い方を理解している者の仕業か? 大抗争の最中、ただの一度も活用された痕跡がないと言うのに?
であるならその鍵は何時、何処で、誰が使う?
そこの予測を立てるのは流石に厳しい。
しかし、その鍵を強奪した者ならば、推測は容易だ。
何故なら、全ての責任を覆い被せることの存在がいるから。
仮にだが、自分が誰か一人に鍵の強奪を命じるとするならば。
どんな行動をしても、名前も顔も存在さえも、子供たちの記憶に残らない。
悪巧みをするのにそんなにも都合の良い子供がいたとしたら、自分ならば絶対に使う。
実際にそんな冒険者がいるらしい。
いや。いたらしい。
この身は確かに偽善者めいたお人好しな道化とやらの活躍を覚えている。その二つ名めいた通り名から、ロキの手引きしている冒険者なのではと疑ったことも記憶にある。
自分は。神は覚えている。
眷属たちは。下界の子供たちは忘れている。
となると、大味なものにはなるが、信憑性を感じる仮説を立てることは可能。
子供たちはその冒険者を忘れていて、記憶しているのは自分……いや。神々だけ。
であるなら、鍵を所持しているのは『
もう『
もっと言えば、この世界に。
奴に纏わるどんな痕跡も子供たちの目にも耳にも記憶にも残っていないとまできた。単なる死。天に還った。そのどちらでもあり得ない事象だ。
常識を逸脱した何かが発生し、恐らく役割を終えたのだろう、お人好しの冒険者とやらは。真実がどうであれ、そう考える他ない現状だ。『
鍵の所在地の最有力は『
『
ならば、鍵の所在はアストレア。件の派閥との付き合いが大抗争の時期より活発になったヘルメス。ロキの可能性も捨てきれない。それか、あのクソ
それらの仮説に加え、今し方発生したばかりの出来事。
これはもう、間違いないと断言してしまってもいいかもしれない。
「まあ……必然と偶然の境目はわからないがな」
「なんだい?」
「詮ないことだ、忘れろ」
妄想と思考の境界すらあやふやにさせてしまうような
「相変わらずよくわからない主神様だ。それで? 方針は変わらずでいいのかい?」
「何も変わらない。進むぞ」
あくまで仮説。仮にこの仮説が正しくなかったとしてもどうでもいい。
どうせあの神々の本命は地下でコソコソしている
そもそも、イシュタルはあんな陰気な地下世界に引き篭もるつもりなどさらさらない。
何処ぞの女王気取りを引き摺り下ろし、この都市の女王たるは誰であるかを知らしめす必要があるのだから。
しかし、包囲が狭まっていくのを感じる。
そう遠くなく、フレイヤと一戦交える予感さえある。
ならば、その時がオラリオ勢力図が塗り替えられる、幸せな時となるわけだ。
「ふ……ふふ……」
自分は、なかなかに危険な橋を渡っているらしいと理解している。
だからこそイシュタルは笑う。
堂々と陽の下を行き、全ての民にこの『美』を見せ付け歩く。
それが、真の女王たるものであろう。
「面白いことになってきたじゃないか……!」
口の端を高くした美の女神の横顔は、分厚い金属の扉の向こうへと消えた。
* * *
「着いた……!」
「すげぇ……!」
「ここが『
先頭の桜花に続き、ヴェルフ、
それほどまでに広大であり、雄大。
無数の水晶。そして、全域などまるで見えやしない大森林。
ベルとリリ以外の全員が初めて訪れた十八階層には、ここがダンジョン内であることを忘れさせるほどの光景が広がっていた。
ここまでの冒険は、順調を極め倒していた。
Lv.2のベルを先頭に、その背後をヴェルフが固め、
怪我人なし。大きなトラブルもなし。リリが仕入れていた事前情報の通り、十七階層に現れるという階層主と出会うこともなし。
しかし成果は盛り沢山という、実りのある冒険となっていた。
「無事に目的の階層まで来られたわけだが……これからどうするんだ、リリルカ・アーデ?」
ここに来るまでの過程で、リリの指揮能力や知識の豊富さに舌を巻いていた桜花が、当たり前のようにリリに意見を求める。
「目的は達成。リリの方の
「この
「その通りです千草様。皆様も、異論はありませんか?」
溌剌とした幾つもの返事が、リリよりも高い位置で重なり響いた。
「わかりました。でしたら先ず、リヴィラの街に行ってみませんか? 宿はぼったくりにも程がある額なので取れませんが、折角ですので、食事休憩は何処かでしてみましょうか」
「いいですねリリ殿!」
「私も興味あります! 実は私……リヴィラのグルメマップを持ち込んでいまして……」
「ぐっしょぶです千草様っ!」
道中ずっと張り詰めていた表情を見せていたリリだが、ようやく肩の力が抜けたらしい。
「ノリノリだな女子連中は。特にリリスケのあの顔見ろよおい」
「事前の準備も今日の道中も、誰よりも頭を使って気を巡らせてくれていたからね。まだ往路でしかないけれど、少しは肩の荷が下ろせたんじゃないかな」
「実際、かなり頼もしかったな。責任感のようなものも感じられた。判断も早いし指示も的確。Lv.1ながら深層から生きて帰ったというのは伊達じゃないな」
「そ、それに関しては
すっかり女子女子し始めた同行者たちを見つめるベルたちにも笑顔が広がる。
ベル。
三人のLv.2は、上級冒険者の面目躍如と言わんばかりの奮闘っぷりを見せていた。
そんな彼らが最大の貢献を果たしていたと手放しで称賛するのが、リリ。
アストレアの娘たちと共に深層へ行った経験と、それ以降も彼女たちと共にダンジョンへ通った日々。折を見ては、主にライラが面倒を見てくれた座学関連。
そこらのLv.1のサポーターでは絶対に出来ない経験と、知恵の引き出しを無数に持っているライラからの教えを小さな身体に宿したリリはこのパーティの
「そんなリリスケが羽を伸ばしたいって言うんなら、好きなだけ伸ばさせてやらないとな」
「だね!」
「異論なし、だ」
「あ! 皆様! リヴィラの街に入ったら手荷物を盗まれないようめちゃくちゃ注意してくださいね!」
「はーい!」
すっかり観光モードに意識が切り替わっているリリを先頭にした女子連中の背に置いて行かれないよう、リリに負けじと明るく笑うベルと愉快な野郎共も、リヴィラの街を目指した。
モンスターたちに壊されては造ってまた壊されてまた造ってを繰り返し続けている街、リヴィラ。
今代で三百三十四代目らしいリヴィラの街を歩くベルたちは、正しくおのぼりさんと言った具合の浮かれっぷりであった。
道すがらに見える店々にいちいち顔を覗かせては法外な値段の商品にげんなりしたり、地上ではなかなかお目に掛かれない下層や深層の鉱石にヴェルフが目を輝かせたり。
その辺りの損得勘定に一過言あるらしいリリによって、一行がリヴィラで買い物を楽しむことはなかった。リリ曰く、ぼったくり価格と理解していて購入するのはぼったくり犯に加担しているのと変わらないらしい。さもありなん。
『
そして、早速酒場にて一悶着起こった。
「お、お前! ベル・クラネルだろ!? アストレア・ファミリアの! 間違いねえな!?」
大きい卓を独占し始めた若い冒険者の集まりを眺めていた隣席の冒険者が、ベルに絡んで来たのだ。
「あ! え、と、そ……の……はい……」
「やっぱり! そうか……お前が……!」
先頭きってベルの前に無骨なツラを突き出す冒険者。既にそこそこの量を飲んでいるのか、なかなかに酒臭い息がベルの鼻にストレスを与える。
ベルよりもずっと歳上だろうその冒険者は、左目に眼帯を付けている、如何にも荒くれといった風体であった。
「俺はボールス!」
ボールス。
彼は確か、リヴィラの街で一二を争う規模の買取り所を営んでいる、リヴィラの大頭なんて呼ばれている男。以前に姉たちとの遠征でここを通過した際には出会えなかった冒険者だ。
「あの叔父様はね、卑怯でガメつくて長いものに巻かれるタチでなーんか小物感が強い人なんだけど、兄貴肌って言うのかしらね! あの人を頼りにしているリヴィラの住人はたくさんいるはずよ! 多分!」
遠征の度に高頻度で顔を合わせているらしいリヴィラの頭目の人柄を自分なりの言葉にして、アリーゼが聞かせてくれた覚えがあった。
「お前の話を聞いてみたかったんだ! ベル・クラネル!」
「そ、そうなんですか……?」
あーこれアレだ。
アストレア・ファミリアに所属しているのマジ羨ましいとかそっち系のあれだ。
この数年間、特に酒場で汗を流している最中にその手の絡まれ方をすることが多かったベルは、参るなあを隠せない程度に表情を引き攣らせていた。
そのボールスの隣にもう一人、印象的な男がいる。
「俺はモルド。こうして話すのは初めてか? なあ、酒場の店員さんよ」
ボールスの視線から逃れた先にいたもう一人は、顔や額に目立つ傷のある、こちらは荒くれというより、ゴロツキなんて表現が妙にしっくり来る男。
記憶違いでなければ、オグマ・ファミリア所属の冒険者だったはず。彼の両隣に今もいる冒険者たちをそれぞれガイルとスコット呼んでいた覚えもある。ベルが知っているのはその程度だけ。それらも、受動的に仕入れた知識でしかない。
というのも、ベルが勤める豊穣の女主人に時々顔を出すのだ、このモルドという男は。その度にまあ悪い酔い方をするもんで、ミアやルノアたちに叩き出されるのがお決まりとなっていて、まともな会話になったことがない。
時々ではあるが、何かを値踏みするように自分を観察されていることも含め、直接のやり取りなんて事務的なものしか今日までなかったが、それでもベルにとって、忘れられない顔の冒険者であった。怖い的な意味で。
「ちょうど俺も、あんたに聞きたいことがあんだわ」
「は、はあ……」
ベルに詰め寄る二人の酔っ払い。圧のある剣幕を放つ二人が良からぬことを仕出かす前に飛び出せるようにと、ヴェルフや桜花が微かに腰を浮かせる。
「じゃあ聞かせてもらうが……」
「な、何なりと……!」
「どうやってランクアップしたんだお前!?」
「どうやってアストレア・ファミリアに入団したんだてめぇ!?」
「…………はぃ?」
ボールスとモルドから同時に放たれた質問は、重なっているようであんまり重なっていなかった。
「聞いたぞ! お前つい最近までダンジョンに潜ったことねぇんだって!? それなのにどうやってランクアップしたんだ!?」
「何がどうしたら乙女の花園に入団出来んだよ!? 羨まし……いやいやちげぇぞ!? あんなケツの青い小娘共の派閥に入団出来て羨ましいとかそういう話じゃねぇからな!?」
「あー」
なるほどぉと、困ったように八の字になるベルの眉を見て、ヴェルフと桜花は浮かせていた腰を下ろし、パーティのエースが困り果てている様を眺めて愉しむ方向に頭を切り替えた。
「えっ、と……入団出来たのはたまたまというか……僕もよくわからない理由だったりするんですけど……」
「そこを事細かに説明しろよ!?」
「本当にわからないんですーっ!」
「んだよ使えねえなぁ!」
「そんなこと言われたってぇ……」
「んな話はいいんだよモルド!」
「いってぇ!?」
「俺が聞きてえのはお前がランクアップした経緯だよ!」
「ひっ……!」
大きな手に顔を押されてベルの視界からフェードアウトするモルドの代わりにドアップになるボールスの強面にビビったベルくん、しっかり後退り。
「何処ぞの戦闘狂たちが集まる国でもあるまいし、オラリオ所属の冒険者が何をどうしたらダンジョンに行かずに偉業を稼げんだよ!?」
「そ、それは……そのぉ……」
「いいんじゃないですか、話しても」
「減るもんじゃないしな」
その辺りのことを知っているリリとヴェルフから、肯定的なんだろうが、何処か投げ槍気味に聞こえる意見が返って来た。
「じゃあ……多分っていう注釈は付きますが……僕に良くしてくれるとある男神様が言うには……ガバ判定ってヤツらしくて……」
「なんだそれ?」
「いいから聞かせろ!」
「その…………ふ、フレイヤ・ファミリアの……オッタルさんの顔を殴ったことが……偉業扱いされたんじゃないかって……はは……」
照れ臭そうに、恥ずかしそうにベルが告げた瞬間。酒場内の空気が変わった。
「オッタルって……『
「はい」
「オラリオでいちばぁん強ぉいーとか言われてる、あの猪?」
「そのオッタルさんです」
ボールス、次いでモルドからの質問に澱みなく答えるベルに殺到する酒場内全員の眼差しは驚愕を隠さない。
「ここでのリリたちの立ち位置も悪くないものになりそうですねっ」
「他人の威光を笠に着るようでいい気分じゃねえが、やっぱ『
なんてヒソヒソ話をリリとヴェルフがしていることも知らず、ベルの姿を初めて見る冒険者たちは硬直したまま。
ベルは嘘を言っていない。
もうずっと前の話だ。
ベルのスキル、
「オッタル、ベルのスキルの試し打ち、付き合ってあげなさい。言う通りにしてくれるなら、まだ一度もダンジョンに潜ったこともない九歳の冒険者を虐めたことを弄るのはこれっきりにするから。子供たちにも徹底させる」
フレイヤお気に入りのちびっこ、九歳のベル・クラネルを弊派閥の団長が虐めたと噂になった。実際は尾鰭が付きまくっているにも程がある話なのだが、オッタルが派閥内で肩身の狭い思いをしていたのは事実。
その辺頓着なさそうなオッタルではあるが、流石に九歳男児を虐めた泣かせたなどと喧伝されてしまうことには抵抗感を抱いていたらしく、見るからに楽しんでいる主神、フレイヤの提案に首肯した。
「あれこれ語るな。全力で来い。そしてさっさと終わらせろ」
「は、はい!」
本当にそんなことしていいんですか後で殺されませんかと震えるベルがいつまでも踏ん切りが付けられずにいたもので、彼の背中を押すような発言をし、わざと顔面で受ける為に腰を下ろすオッタル。その様を見学しているフレイヤやヘグニやガリバー兄弟たちは揃って意地の悪い笑みを浮かべていた。
「団長だから許されていますけど、構図的には虐めそのものではー?」
常識的な観点から物を言う、副官のロナとイルデを連れ立ったヘイズや、何をしているのですかうちの派閥の皆様はマジで、と言うのを頑張って堪えている呆れ眼のヘルンらも見守る前で、ベルが拳を握った。
アストレアに教えてもらったように、英雄の存在をイメージする。
この時にベルがイメージしたのは絵本の中で活躍していた英雄でも、英雄たちの船頭となった道化でもなく。
「お祖父ちゃんみたいな……すっごいパンチを……!」
かつて。故郷の野山で、ゴブリンにベルが襲われた時。
農具を振う傍ら、豪快に振り回した拳でもゴブリンを吹き飛ばしてみせた、自分の祖父。
冒険者でもなんでもないただの老人。ずっと一緒だった家族だけどその人柄もあって、親友と称したくなるような面白い人に。
いつだって磊落な笑顔を忘れない祖父が見せた勇敢な背中に思いを馳せていた。
今より幼かったベルの命が脅かされたあの時に感じた恐怖。しかし、それを置き去りにしてしまうほどの強烈な憧れは、今も昔も変わらずベルの中で燃え続けている。
「わ……!?」
然して。スキルの
オッタル含め全員がその光景を注視。そのど真ん中で誰より驚き慌て倒しているベルが、どうにも様にならない格好で力を貯めて貯めて貯めて、丁度一分。
「な、なんかいけそうな感じです!」
「そうか来い早くしろ」
「は、はいっ! その……え! えーいっ!」
見ている方の力が抜けてしまいそうなへにゃへにゃ声が勇士たちの魂を研ぎ澄ます原野に響く。
めちゃくちゃ急かしてくるオッタルに従ったベルのキラキラ光る右拳が突き進み、気持ちがいいくらい綺麗な角度で、オッタルの左頬を捉えた。
いつか、オッタルの右手に拳を叩き込んだ時に感じたような抜群の手応えが、ベルの右手に返ってくる。
「痛いっ!?」
しかし手応えがあり過ぎた。
人を殴ったことなど碌にないベルが正しい殴り方など知るわけもなく、しっかりと拳を痛めて蹲ってしまった。
「え?」
「嘘」
「あらー?」
「へぇ……」
「「「「マジ?」」」」
クスクス笑っていた見学者たちの驚愕混じりの声は、
ベルが拳を抑えて疼くまる上方。
「っ……!」
オッタルの上半身が、斜めに傾いていた。
「い、いたた…………あ、あの……オッタルさ」
「なんだ」
しかしオッタルさん負けず嫌い発動。ベルが拳を抑えて俯いている間に上半身を正位置に戻し、まるで何事もなかったかのようにベルを見下ろしてみせていた。
「パンチしてごめんなさい……! だからこっ、殺さないでくださいっ……!」
涙目で怯え倒すベルの小さな身体は小刻みに震えまくっている。そりゃ怖いよね。
「気にするな。悪くないスキルを会得したらしいが、お前の拳は軽過ぎる。もっと精進を」
「あ」
「…………」
ベルが気付く。オッタルも当然気付く。
お前のパンチマジ軽いと告げるオッタルの口の端からつーっと、赤い血が滴り落ち始めたことに。
「あ、あのあのっ! その血……えっと……!」
「…………まずまずだ」
「へ?」
軽いと言ったばかりの口から飛び出した言葉にベルが首を傾げる。
「うわっ!?」
それ以上その場に留まることを嫌がったのか、オッタルは何処かへと飛び去ってしまった。フレイヤに一礼すらしないという彼らしからぬ迅速さであった。
「え、っと……」
「やるじゃないかって褒めていたんだよ、オッタルは」
「いいスキルじゃないか」
「それくれ」
「つーかオッタルダサ過ぎ」
「絶対防御(笑)」
微笑むヘグニと好き勝手を言う四兄弟。
彼ら
「オッタル様が……」
「とりあえず拳を見せてくださいベルー。診てあげますからー」
オッタルの敗走染みた雰囲気の中、呆けたように呟くヘルンの横で、至って平常運転のヘイズはニコニコ。
「
ヘイズに治療されるベルの姿を眺めながら、フレイヤが笑う。
「英雄の資格はまだなくとも、英雄の一撃を振るう資格は得ているってことかしら……ふふふ……」
その笑顔を大きく大きく育て、ヘイズたちに弄られているベルの元へ、フレイヤは歩み寄った。
この出来事が、フレイヤやヘルメス曰く、ガバ判定ながら偉業扱いなんだろうとのこと。それ以降も彼女たちは、ベルが成し遂げた偉業に値するのは冗談抜きでこの一件くらいじゃないかと口にして憚らない。
今日までの訓練で成し遂げて来た小さな積み重ねたちが器の昇華を後押ししてくれたんだとベルは信じているのだが、特にベルの鍛錬の過程の多くを眺めてきたフレイヤがそう言うのだからそうなのかもなあ、程度には主張がふにゃふにゃになってしまっているのもまた本当。
「ランクアップの秘訣を誰かに聞かれたら、オッタルの顔をパンチすることですって答えちゃいなさい。ベルみたいに素直な子が間に受けて道場破りよろしくオッタルの所へやって来る展開、面白そうじゃない? まあないでしょうけれど」
いざベルが初めてのランクアップを果たした時。ふざけた調子で嘯きながら、ベルの頬をペチペチ叩いては撫でてと遊び倒していたフレイヤに言われているもので、一応はそうしている。わざわざ自分の命を放り捨てるような奇特な冒険者がオラリオにいるわけないと理解しているから出来るおふざけとも言える。勲章のように誇ることではないから振り翳すのは違うんだけどなあと思うも、フレイヤや一部の姉たちにこれで通すよう言われている。
リリとヴェルフの使い方と同じだ。
オッタルを殴った事実を素直に才能、もしくは度胸の片鱗と捉えてくれる者もいるだろうが、何よりもまず、オッタルとの縁の証明になる。
オッタルを殴っても生きている。
オッタルを殴っても許される間柄。
そう思われることは、オラリオで過ごしていく上では強固な盾となることであるから。
「そ、そうなのか……おのオッタルを、ね……」
「『
「少なくとも命知らずには違えねぇ……」
「それかとんでもねえ強運か……」
ボールスもモルドも、彼らの周囲の冒険者たちも。なんなら盗み聞いていた酒場の店員たちも目を見開き、可愛い顔してとんでもねぇ真似をやらかすヤンチャさんらしい十四歳の冒険者に視線を釘付けにしている。
「で? 生意気なガキをシめるとかなんとか言ってたが、どうすんだモルド?」
「はあ!? い、言ってねえ! んなこと言うわけねぇ! 馬鹿なこと言ったのはオメェだろボールス!」
「言うかバカ!」
「バカはテメェだろうがバカ!」
「あぁ!?」
「おぉ!?」
「あ、あはは……」
額を突き合わせん勢いで怒声と唾を飛ばし合う強面二人の物騒なやり取りにベルの背筋が冷え冷えになる。曰く、この話をしてなかったら、僕はここでシめられちゃってたのかぁ。
「物騒な話にならなかったのは助かるけど……やっぱりなんか居心地が悪いや……」
「ベル様は何も嘘を言っていません。堂々としたらいいんです」
「示し合わせて真実を差っ引くのは充分嘘な気もするがな」
「ヴェルフ様、すていっ」
あぁだのおぉだのコラだのオイだの喧しいおじさんたちに聞こえない声量で語らう一行。
「なんだ?」
「今……」
「強く揺れましたね」
その平和な光景を半眼で眺めていた桜花、千種、
地震にも似た揺れが、彼らの全身を微かに騒がせた。
「寝惚けてんのか? ここはダンジョンだぞ」
「これくらいの揺れ、日常茶飯事に決まってんだろうが」
俄かに浮き足立つ若輩たちに、相変わらず睨み合ったままのおじさん二人は落ち着き払った様子で告げる。
「そうだった……まだダンジョン内なんだ……」
気を緩めていた自覚はないけれど、五年前より毎日のように過ごしている酒場の雰囲気と似ている所為か、無意識に己が弛緩してしまっていたことをベルは認め、そして認識を改めた。
他の階層より安全であれど、絶対不可侵の安全地帯に足を付けているわけなどではない。
モンスターの暴走やダンジョンの気紛れ。それらがきっかけで、この穏やかな階層が戦場になることは大いにあり得る話だ。
実例もある。例えば、ベルがオラリオにやって来る以前の大抗争。
ベルの姉たちは、この十八階層で戦ったのだと聞いている。
都市を滅さんとした、『絶対悪』と。
「ん……」
いきなり降って湧いた感傷に飲み込まれることを良しと出来ず、酒場で酒をやらねぇとか潔癖エルフかあいつはと周囲の客たちに笑われながら注文した水を飲み干し、一時の感情の揺れと纏めて身体の奥深くに詰め込んだ。
「それにしては揺れが強いような気がしますね」
「なああんたら。ほんとにこんな揺れが日常茶飯事だってのか?」
「お、おお……まあ……これくらいは……」
「ゴライアスはまだ出て来ねえはずだが……」
モルドが曖昧に答え、ボールスは答える代わりに考え込む素振りを見せた。
「なんだか……嫌な揺れ方ですね……」
不快か、それとも不穏か。
自身の身体を揺らす振動にポジティブなものを一切感じないらしく、
「おいボールス! 外! 外見てくれっ!」
いやに重苦しくなった店内の雰囲気を切り裂く叫び声は、開け放たれた扉から顔を出した壮年の男性冒険者のもの。
それを受けたボールスは返事より先に外へと足を向けた。ガイルとスコットも引き連れボールスも続く。
「ベル様」
「うん」
リリに促されたベルとパーティの一団も後に続く。
「周囲が暗くなっている……」
「さっきまであんなに明るかったのに……!」
桜花も千草も、一歩外に出た瞬間にわかる変容に動揺を隠せない。
この十八階層は、天も地も煌びやかな水晶で満たされている。この水晶たちはそれぞれ光を放っているのだが、その光量は時間帯によって変化しているらしく、故にこの十八階層層には、擬似的ながら『昼』と『夜』の概念が存在している。
先程までは夏の最盛を先取りしたかのような快晴。気持ちの良い『昼』であった。
それがいつの間にか、身震いさえしてしまうほど冷たく澄んだ暗い世界に。しかし所々はまだ明るいという、歪な『夜』に変わってしまっていた。酒場に入って半刻も経過していないはずなのに。
「あれ、なんだ……?」
ヴェルフが見上げる天井には、無数の水晶。その中心に、十八階層の太陽とも言える、最も巨大な水晶がある。
「何かがいる……!」
その水晶の中で、何かが脈動していた。
薄れていく光源。その真ん中で蠢くソレがこの街に影を落とし、気の早い夜を呼び寄せているらしい。
強まる震動。深まる闇。そして、水晶内でどんどん肥大していくナニカ。
その光景に冒険者たちが目を奪われていると、一際大きな震動が発生。壁や隣に立つ者に縋るなどしなければ立っていられないほどの揺れが、いよいよ冒険者たちの脳内に極大音量の警鐘を掻き鳴らす。
危険だ。逃げろ。
しかし既に、遅きに失しているのだと、冒険者たちは知る。
バリンと、硝子が粉砕したかのような音が鳴り渡り、無数の破片がリヴィラの街にも降り注ぐ。
幻想的ですらあるその光景に浸ることなど許されない。
遂には、巨大な水晶が粉々に弾け飛ぶ。
そして、ソレは落下してきた。
二腕二足。記号的なものだけならばヒトのそれに違いが、ヒトと並べるには巨大過ぎる、正に怪物。
それが、何か辛いことに遭遇し部屋の隅で蹲る子供のように膝を抱えて丸まった姿勢で、十八階層の中央に聳える巨大樹に程近い大地へ突き刺さる。
「くっ!」
「すごい揺れだ……!」
発生した巨大な振動は今日一番のもの。ベルたちが語らっていた酒場内で何かが壊れたり割れたりする音が発生するも、冒険者たちの耳はそれを拾えない。
『オオオオオオオオオオッ!』
巻き上がる砂塵の塔の中から階層全域は疎か、上下に隣接している階層全域でさえ戦慄かせてしまうような産声に耳を満たされてしまっているから。
十八階層に夜を齎したのは、本来ならば十七階層に生まれ落ちるべき中層の階層主。
『
「ゴライアス!?」
「に違いねぇが、なんだあの色!?」
モルドもボールスも、突如現れた異形の正体を違えなかった。
同時に、大きな変化も発見した。
黒いのだ。
本来は薄い灰色であることを忘れてしまったのか、十八階層を揺らすゴライアスの全身は、漆黒に染まっていた。
「な、なんだってんだあいつは!?」
「
その光景に釘付けになっていた冒険者の誰かが叫ぶが、その問いに正しい答えを用意できる者は現れてくれそうになかった。
「こっちを見ていない……?」
気付いたのは、ベル。
咆哮を上げた漆黒のゴライアスは、人の多く集まっているリヴィラの街ではなく、鮮血の色にも似た巨大な眼球を大森林の東方面に目を向け、まるで威嚇をするように、獰猛に息を荒げていた。
「なんだかわからねぇが……ヤるなら今しかねぇ!」
「はぁ!?」
「た、戦うんですか!?」
「それしかねえだろ! やりたくねえけど!」
ともすれば、誰しもの戦意を薙いでしまうような異様な光景。しかし、目を丸くするモルドとベルの前でボールスは吠える。
「でもアレは」
「アレはヤバい! んなもんわかってんだ! 先輩冒険者舐めんなチビガキ!」
「だったら」
「
「ゴライアスの注意が逸れている間に大きな一撃を入れ、無理矢理に隙を作って逃走。手応え次第ではそのまま討伐、ってことですか?」
「先読みすんな
ボールスの思考を読み切ったリリが臆せず前に出て、苛立ちも露わにボールスは肯定。
「それに今日は事宜がいい! それなりの冒険者が集まってる今ならあいつを討伐することだって」
「お、お待ちください! あれを!」
リヴィラの大頭の面目躍如と言わんばかりに場を盛り立てるボールスの言葉を遮ったのは、
「は?」
「え?」
「あ?」
誰のものかも判然としない困惑が、雁首揃えて綺麗に並ぶ。
ボールス、モルド、ベルたちが少し目を離したその間に変化は起きていた。
「全身が……光ってる……!?」
自己を聖なる存在だとでも主張するかのよう。場違いなくらい煌びやかな黄金混じりの輝きが、ゴライアスの全身を包んでいた。
「ボールスさんモルドさん……あれを」
「あっちもこっちも見たことも聞いたこともねぇよクソッタレ」
「ふざけんな……何の冗談だよこいつは……」
ベルの言葉を待てなかったボールスの悪態にキレはなく、モルドに至ってはベルの声になど耳を傾けていない。
全てが異質。全てが異常。
そして、どんな木端冒険者でも肌で感じられてしまう程度に、強い。
それも、圧倒的に。
「やべぇぞボールス! そこら中からモンスター共が溢れ出してやがる!」
「何ぃ!?」
ボールスより少し若いだろう冒険者の報告と容赦のない現実がゴライアスだけに目を向けることを良しとせず、冒険者たちの心を急き立てる。
「いよいよごちゃごちゃ言ってる時間はねぇな! おい聞けぇ! この場にいる冒険者共! あのゴライアスと一戦交えるにしてもしねえにしても、目の前のモンスター共をどうにかしなけりゃ始まらねえ! 全員武器を取れ! 療養所で寝てる連中は療養所の連中が中心になって上の階層に運び出せ! それ以外の連中で芋引く野郎には二度とこの街を歩かせねえ! わかったらさっさと」
『オオォオォォォ……!』
「ボールス様っ!」
己の動揺を後回しにしてまで恐怖に慄く冒険者たちにボールスが発破を掛けようとする遥か下からリリの声。目を見開くリリの見つめる先に視線をやると、黄金のゴライアスが背を逸らしていた。
「息を吸って……
「そうだと思われます!」
ボールスとリリの意見は合致。
「み、みてぇだが……こっちは向いてねえな……」
ホッと息を吐くモルドの言う通り。黄金のゴライアスは以前変わらず、十八階層の東方向に敵意を向けたまま。いくら魔力を帯びた
そう考えたのはモルドだけではない。ボールスやベルやリリだって、同じ意見だった。
『アアアアァァァッ……!』
その見積もりが如何に甘いものであったか。
「え?」
それが、彼ら全員の視界が暗転する前に得た、生涯忘れられないだろう学びであった。
* * *
「間一髪だったよ、イシュタル様……!」
「流石に肝が冷えたぜ……」
「ギリギリまで扉閉めるの許してくれないんだもん! 死ぬかと思ったよーっ!」
「しかし、無事だったろう?」
尊顔も、漆黒のゴライアスを招き寄せる鍵となった神威さえも隠すのをやめた女神イシュタルの眼前で冷たい汗に塗れているのは、アイシャを始めとした、イシュタルの娘たち。
彼女たちの背後。つい数秒前まで開いていた
「力の程度を見たいからギリギリまで引き付けてから扉を閉めろだなんて享楽染みたこと、気軽に言わないで欲しいね」
「危ない話を渡るのは嫌いじゃないだろう?」
「仰る通りだが、誰かにこの命を粗末に扱われるのは好きじゃないんでね」
「そうか。それは済まなかった」
アイシャや団員たちから注がれる苛立ちも露わな視線の真ん中でも悪びれる様子など微塵も見せないイシュタル。
彼女にとっては正しく、享楽なのであろう。
「ゲゲゲッ! ただの
「本当にこの扉大丈夫なのかなあ……」
「案ずるな。どれだけ強化しようと、ゴライアス程度ではこの扉は貫けない。まあ、目を見張る威力だったのは間違いないがな」
「で、この後はどうするんだい?」
「このまま待機だ」
「あのバケモノとやり合うなんてオチだったら流石に帰らせてもらうよ」
「お前たちに死なれては困る。そんなこと言うものか。間もなくあの怪物はこの扉の前を張り付くのをやめる」
そう断じながらフードを被り直し、発していた神威も抑えるイシュタル。
「気配が遠退いたらもう一度扉を開ける。胸踊る見せ物の結末を知らずに帰るなど、大損もいいところだろう」
「悪趣味だよ、本当に」
「それは同族嫌悪というものか?」
「よしてくれ」
上機嫌を隠さないイシュタルの口の端は歪んでいる。そんな程度で彼女が備える美が損なわれることなどないが、誰かに降り注いだ災難に機嫌を良くしているその姿に、イシュタルの娘の幾人かは冷たい汗を背中に滲ませている。
そのまま待つこと暫し。
「足音が離れた。ピーピー喚き始めた連中に群がり始めたらしい。もう一度鍵を開けろ」
「はいよ……」
ゴライアスの雄叫びも足音も遠退いたことを認めたイシュタルがサミラに解錠を指示。付き纏う不安と緊張感に短く揃えた後ろ髪を引かれながら、それでもサミラは鍵を掲げた。
「あ……!」
間も無く開かれた扉の向こうの景色に息を呑んだ娘がいた。
長く伸びた金髪と同色の耳と尻尾を有し、極東の文化の象徴たる一つである着物に袖を通した娘の身体は、小刻みに震えていた。
先刻。娘は言った。
自分の術は、器の昇華。背中に神の恩恵を宿した者のレベルを上げるもの。だから、あの怪物に術を使っても無意味ですと。
女神は断じた。
レベルなど、
何処までも冷たく、そして躊躇いを抱いていない眼差しに怯えたその娘は、女神の言い付けに従った。
そうして生まれたのが、怪物を越えた怪物を更に越えた怪物。
「そ、んな……」
その怪物を育てた一人であるその娘の声は上擦り、震えている。
扉の向こうに広がっていた無情な光景を作り上げたのは、自分だ。
魂を犯されることを、痛みを恐れ、歯向かうことも出来ず。言われるがままの人形となり、多くの人を傷付けてしまった。中には命を落としてしまった者だっているやもしれない。
弱い。脆い。救えない。
この身この心は、本当にどうしようもない。
「ご、め……っ……」
娘の瞳から溢れる涙。
その様をつまらなそうに眺める女神がいる。
感情の見えない瞳で見下ろす悍婦がいる。
口の端を釣り上げ獰猛に笑う巨女がいる。
「な……っ……!」
ごめんなさい。
そう告げようとした口を無理矢理に引き結ぶ。
全てを傷付けてしまったこの身に、謝罪を口にする権利などあるわけがない。
嗚呼。どうか知っておいてくださいまし。
私です。
この私が、全てを傷つけてしまいました。
だからどうか、私を許さないでください。
恨んでください。
憎んでください。
私のような存在は、許されるべきでないのです。
娼婦たるこの身が齎すことが出来るものなど、結局破滅でしかないのでしょう。
ですが。
ダメでしょうか?
たったの一つでいいのです。
願いを抱くことは、許されませんでしょうか?
こんな過ちを犯した自分には許されないのかもしれないでもそれでもどうしても。
何か一つ。たった一つでも願いを抱くことを、どうか許して。
「たす……けて……」
震える娘の悲壮な願いは、きっと誰にも届かない。
* * *
「ぐっ、ぁ……!」
浅い呼吸の中から無理矢理に引き摺り出した呼気に驚かされ、心肺機能を構成する器官たちが悲鳴にも似た過剰反応を示す。
意識は飛ばなかった。代わりに吹き飛ばされた身体はさっきまでベルたちの心身を癒してくれていた酒場の外壁に叩き付けられていて、特に背中に走る痛みが尋常ではなかった。
「な、にが……」
全身を苛む痛みを引き摺りながら視線を持ち上げ、そして知る。
「は……?」
なくなっている。
荒くれたちを支え続けたリヴィラの街は、土と石の墓場と化していた。
ベルの背中を支えているものは酒場ではなく、かつて酒場であったものであると訂正せざるを得ない。
太く逞しく根を張った樹木以外のほとんどが吹き飛ばされ横倒しに。飛来した樹木に押し潰されている者もいるのか、樹木の下に赤い水溜りが見えたりもした。
この階層に昼と夜を提供してくれる水晶の多くも粉々に砕け散っていて、斑尾模様だった夜はいよいよ澄み切った夜へと移ろっていて、微かに残る水晶たちの輝きは夜空を瞬く星々のそれによく似ていて、そこら中から鼻を刺してくる血の匂いや死の気配がなければなかなかに手触りの悪くない夜と言えたのかもしれない。
よく見れば、あちこちに魔石が転がり落ちているのが確認出来る。呼び寄せられたのだがなんだか知らないが、姿を見せたモンスターたちは先の衝撃波でどいつもこいつも葬られてしまったのだろう。戦わずして多くの魔石が手に入ったと前向きに捉えられる者がこの場にどれだけ残されていることだろうか。
『オオオオオオオオオオッ!』
乱雑に突き立てられた墓標たちの向こうでは、ただの
「な、んだ……なんだよアレ……!」
相変わらずこっちに見向きもしないままに自分たちや誰かの思い出の詰まった街を土塊に還した化け物への悪態は、何処かベルらしくない語勢の強さを帯びていた。
「……リリ?」
自分の死か誰かの死という最悪を想像せずにはいられない世界の中。ついさっきまで自分の隣に立っていた仲間の姿が見えないことに、ようやくベルは気付いた。
「ヴェルフ……
去来する恐怖心に背を蹴られ、迷子の児童かのようにベルは叫んでいた。
「ベル殿っ!」
怯えを隠せない仲間の声に最初に応えたのは、
「
「こちらに!」
声の在処を必死に探す。右を見て左を見て下を見て、そして見つけた。瓦礫の山の下より、ベルに向けて伸ばされている、指先が血で染まっている右手を。
「千草殿たちもここに! 手を貸してください!」
「はい! こ、のっ……!」
弾かれたように駆け出し、
「ぐっ……あぁ……! よし……!
見れば、
「桜花! しっかりして桜花っ!」
「ぁ……が……」
手に届く位置にいた二人を咄嗟に庇ったのだろう、彼によく似合っていた極東の香りが色濃い
「桜花さんっ!」
血の気が失われたような顔色になってしまったベルが桜花たちに手を伸ばす。
「
「はい!」
「桜花返事して! お願いだからっ!」
「千草殿っ!」
喉こそ震わせているが返事を返さない桜花に縋り付く千草も
「桜花さんを瓦礫から出します! 手を貸してください!」
「やりますよ千草殿! やれますね!? いいですね!?」
「う、うん!」
桜花が身を挺しても二人を守り切るには届かなかったのか、腕や足、頭部などより多量の出血が認められる
「酷い……」
「桜花ぁ!」
雑に言ってしまうと、桜花の全身は歪んでいた。
あるべきものはあるべき場所からズレていて、人体に存在していてはいけない大きな潰瘍の真ん中からは止め処なく血が溢れている。
死ぬ。
今直ぐに
「
もはや誰の物かもわからない背嚢に手を突っ込んで中を検めるも中身は全て粉微塵となっていた。仮にこの瓦礫の山の中に自分の荷物が残っていたとしても、末路は同じだろう。
「どうすれば……!」
苛立ち露わに唇を噛む
「こ、れ……」
そんな
「……リリ殿?」
「リリ!?」
身体の小ささ故か、ベルたちより遥か遠くまで飛ばされてしまっていたリリが、ふらふらと頼りない足取りで、それでも自分の身体よりもずっと大きなバックパックを背負い、しかも片手には桜花や千草たちの荷物を引き摺って、
「リリの……バックパックの中……無事な
「無理して喋らないでリリ!」
駆け寄ったベルが肩に背中に手を添えると、持っていた全ての荷物を手放しながら、リリは瓦礫の海に膝を付いて蹲ってしまった。
リリは左足をやられてしまっているらしく、膝から下が全く動いていなかった。
「しかし先ずはご自分に
「リリはだいじょーぶです……桜花様を早く……千草、様……」
意地。ただのつよがり。
もしくは、これからの行動を考えた場合、回復が優先されるべきなのはLv.2の桜花とLv.1のリリのどちらか。
なんて、現実主義なリリらしい計算に基づいた行動と見るべきだろうか。
「あ……の……ありがとう……!」
託された試験管タイプの
「っぐ……は…………か、感謝する……」
「い、え……」
回復が齎す急激な反動に全身を焼かれながら感謝の言葉を口にする桜花。それに応えるリリの方がいよいよ重傷患者だ。
「た、大したタフさだ……大男……」
ベルたちの近くの瓦礫が崩れ、赤い髪が這い出て来た。
「ヴェルフ!」
「よお……意外に元気そうじゃねえかベル……」
軽口を叩くヴェルフは、リリほどの負傷を抱えている様子ではないが、赤い髪の色素が溶け落ちていると錯覚させてしまうほどの鮮烈な赤い滝が、彼の右目を覆い隠してしまっている。頭部に深い裂傷があるのだろう。
「笑ってる場合じゃ」
「わかってるから叫ぶな……リリスケ、
「み、みんな……!」
ヴェルフの視線が促した先にいたのは、瓦礫の上に転がっているタケミカヅチの子供たち。誰も彼もが酷い怪我を負っているらしく、その姿を見ただけで千草の瞳は多くの涙を生んだ。
「全員生きてるみたいだが……死んでないって方が正しいかもな……」
「珍しく……ヴェルフ様と意見が合いました……」
「だな」
乾いた笑いも長続きしない。今回の遠征に参加したパーティ全員の所在を確認出来たことは僥倖だが、死の手触りに心臓を掴まれたままであることは依然変わりない。
「リリ……ヴェルフ……みんな……」
傷付いた仲間たち。
何の幸運なのか、無傷は嘘にしても、痛いと明確に言える箇所が背中一つで済んでいる自分。
「…………」
迷っている時間はない。
もう、これしかない。
一つ、大きな決断を心中で終えたベルが、その決断の中身を打ち明けようと息を吸う。
「だあっ!」
その深い呼吸に吸い上げられたかのように、トッピングが如く多量の土砂を塗した石煉瓦が勢い良く盛り上がった。
「クソッタレ! 何人死んだ!?」
中から出て来て叫ぶのは、リヴィラの大頭、ボールス。決して浅くない傷を負ったらしく、血の流れる右腕を抑えている。頭部からも出血が確認出来る。とても戦闘が可能な状態には見られない様相だ。
「ふざけんな……ふざけんなよあいつ……!」
ボールスの目は多くの結末を見た。
ボールスの言っていたそれなりの冒険者たちの多くは、見るも無惨な有様を迎えている。
見つかるのは死体もしくは死に体ばかりで、戦闘可能な者など一人も見えやしなかった。
「ま、だ……生きてやがる……そっちの方が悪い冗談だぜ……へへへ……」
ボールスより遅れて瓦礫から這い出て来たのはモルド。彼の全身もまた、ボールスに負けじと傷に痣に血だらけだった。彼と共に這い出て来たガイルとスコットも、互いを支え合わなければ歩けもしないような状況らしい。
「ボールスさん……モルドさん……!」
無事という言葉が安く聞こえるが、確かに無事であった強面たちの姿が、ベルの決断を何処までも後押ししてくれた。
いけ。いくんだ。さあ言うんだ。
後に引けなくなる提案を。
決断を告げるんだ。今言うんだ。
怖くて震えるのは、後でも出来るだろう?
「ボールスさん! モルドさん!」
「あ? 何だお前か……」
「悪運は強いらしいじゃねぇか……」
「ここは僕に預けてもらえませんか!?」
「は?」
「どういう意味だよ?」
「あの怪物、僕一人で相手をします」
「「はあ!?」」
その元気があるならやっぱり大丈夫そうだとベルに思わせてくれるボールスとモルドの大きなリアクションは、綺麗に重なっていた。
「ベル様……!?」
「ベル殿!?」
リリのバックパック内の損傷を免れていた
「ったく……」
何かを察したのか。それとも、その決断を曲げることは叶わないと悟ってか。相棒の横顔を眺めるヴェルフの口元には、微かな笑みが見えていた。
「お前一人でアレをヤれるってのか!? 粋がってんじゃねえよクソガキ!」
「てめぇみてーな勘違い
「そうです!」
「あ!?」
「僕じゃあいつには勝てません!」
「それがわかっていて何を」
「僕たちの今の戦力じゃあ、絶対にアレには勝てないんですっ!」
怪物の咆哮には及ばすとも、ベルのその叫びは、三途の川を渡り損ねてしまった冒険者たちの多くの耳を揺らした。
「ボールスさんもモルドさんもわかっているんでしょう!?」
「……逃げるのは俺も賛成だ。ここまで破壊されちまって街を守れなんて言うつもりもねえ」
「だったら逃げましょう!」
「てめぇが、その為の時間稼ぎをするってか?」
「そうです!」
傷付いた二人の先輩冒険者を赤い瞳に映す後輩冒険者は、はっきりと頷いた。
「幸い僕の怪我は軽い! だけど僕じゃ統率なんて執れやしない! でもお二人は僕と違って顔が広いし他の方々の信頼も得ている! ダンジョンの経験も豊富です! 今この場で統率を執れるのはあなた方しかいない! お二人が中心になってみんなと上層に逃げてください!」
「んな簡単に」
「怪我人が多過ぎる! このまま手を拱いていたら助けられる人も助けられない! どうかお願いします!」
「少しは俺たちの意見も」
「ファイアボルト!」
一方的に話すばかりでこちらの話に耳を貸そうとしない白髪の子供に詰め寄る二人の前。何の脈略もなく、十八階層の天井目掛けてベルご自慢の炎雷が飛んで行き、弾けて消えた。
「い、いきなりなんだぁ!?」
「ご覧の通り、アイツに嫌われそうな飛び道具も持っています!」
わざわざ自分の
「さっきからアイツの動きを見てますけど、幸い速度はそこまで速くない! それなら何とか出来る! 逃げ回るのとタフさにはステイタス以上の能力があると自負していますので!」
「自信があるってもお前、Lv.2だろ!?」
「そうですけど大丈夫です! この五年間、怖い人たちに徹底的にイジメられ続けていたので! それに比べたらこんな程度の土壇場なんてへっちゃらです!」
懐かしい光景に瞼の裏を焼かれたのか。それとも努めて余裕があるようみせる為か。
ニッと高くした口角をボールスたちに見せ付けてから、リリたちの元へとベルは走った。
「ヴェルフ! みんなをお願い!」
一度ヴェルフの傷を見て。次にヴェルフの眼差しを見て。有無を言わせない勢いでベルは叫んだ。
「お前……」
「いけるよね!?」
「……ああ、任せろ」
「な、何を……! ダメですベル様! こんな」
「信じて!」
仲間たちと分け合って
「僕なら大丈夫! だから……信じてよ。ね?」
「……そ」
「いいから行くぞリリスケ」
「ん、なっ!? ヴェルフ様っ!?」
信じてというベルに、それでも何か言いたそうにしていたリリの体がふわりと持ち上がり、ヴェルフの肩に居場所を取った。
「お前の荷物を持って行くのは流石に無理だな。
「勝手に話を進めないでくださいヴェルフ様!」
「そういうことになった。議論してる時間も惜しい。言いたいことなら後で聞く。今は行くぞ、
「……わかりました……!」
ベルにもヴェルフたちにも伝えたいだろう多くの言葉を苦渋と共に飲み込んだ
「えっと……あった! 桜花さん! 盾を借ります!」
瀕死だろうと気合い一つでリリが引き摺って来ていた桜花の荷物から彼愛用の盾をもぎ取って、今も千草に介抱されている桜花にベルは笑い掛けた。
「お、前……」
「いい盾ですね! 頼らせてもらいます!」
「……ちゃ、ちゃんと返せよ……!」
「もちろんっ!」
ニッと笑ったベルは、もう振り返らない。
「あいつがこっちに意識を向ける前に十七階層への連絡路の反対方向に行きます! そこから先は出たとこ勝負です! じゃあみんな! どうか無事で!」
「おい!」
「待てこら!」
微塵の躊躇いも見せない白い背中を、ボールスとモルドのドスの効いた声が引き留める。
「必ず援軍を連れて戻ってくる!」
「それまでにくたばりやがったらブッ殺してやるからな!」
「……はいっ! 全て終わったら報酬の取り分の相談しましょうね! あ! 僕の分は気持ち多めだと嬉しいです!」
冒険者らしい粗野な発破に背をブッ叩かれ、軽口まで挟んでから白い影は急発進。持ち味である敏捷を活かした軽快な動きで、かつてリヴィラと呼ばれていた街の亡骸から早速抜け出して行った。
「ったく…………おい! お前!」
誰かが叫んだ。ベルの背中が木々の墓場に消えたのを確認した、ボールスだ。
「そこでくたばってる無様なお前に言ってんだ!」
お前と呼ばれた誰かが、怪物の立てる地響きにも劣らないボールスの声に反応を示した。
「お前は逃げろってよ! 乙女の花園に入団することを唯一許されたチビガキが! お前を生かす為に命張るからさっさと尻尾巻いて逃げろってよ!」
瓦礫が崩れる音と土煙があちこちから立ち上り、お前と呼ばれた死に掛けの冒険者の多くが這い出して来た。
「ふざけた話だと思わねえか!? 何様なんだあのガキは!? ムカつくガキだと思わねえか!? あんな生意気で乳臭え野郎、一発シメてやんなきゃ気が済まねえよな!?」
掠れた声のコーラスが何度壊れても何度だって立ち直って来た街の亡骸を揺らす。
「けれど今は仕方ねえ! ここはあのガキに花を持たせてやる! あのガキよりガッツのねぇ俺とお前は撤退! だが! 態勢を立て直してさっさと戻って来る! あのバケモノのドロップ品なんて絶対高く売れるに決まってんだ! あのガキに独占なんてさせるわけにいかねぇ! 俺とあのガキとお前で奪い合いをすんだ! だから……さっさと立ちやがれ!」
言葉も意地も汚い、実に冒険者らしい鞭。
その痛みと屈辱は、生への執着が消えかけていた幾人もの冒険者の冒険心に、小さくとも熱い火を付けた。
「何だまだまだ動けんじゃねえか! 初めからそうしろ馬鹿野郎共!」
うるせぇだのお前の声が耳障りで寝てられねえだのなんだのと口々に叫びながら、それでも立ち上がった冒険者たちは、ボールスの指示に従うと言うよりも、己の意地や見栄に突き動かされるように、行動を開始した。
比較的傷が浅い者が重症者に手を貸し、
「くそったれ……やるしかねぇじゃねえか!」
冒険者たちの敗走の指揮役を任されたボールスの代わりと言わんばかり、上層へと戻る道の最前線に立つのはモルド。後ろには負傷の影響を隠せていないガイルとスコットも意地で喰らい付き。
「自分も戦えます!」
「わ、私もです!」
比較的傷の浅かった
冒険者たちの行く手を阻む怪物たちは彼ら五人が中心になって蹴散らしていった。
進軍が遅いのも隊列が伸びてしまうのも仕方がないとして、それでも敗走部隊の行動は充分に円滑。死人になりきれなかった死に体たちもどうにか命を繋ぎ、地上の光を求めて同業者たちと共に進んで行く。
その隊列の前方。
「引き返してください!」
変わらずヴェルフに米俵よろしく担がれているリリは、ヴェルフに向けて不満をぶつけ続けていた。
「今直ぐ引き返さないとベル様が危ない! ヴェルフ様だってわかっているんでしょう!? わかっていながらどうしてベル様一人だけ置いて来ちゃったんですか!?」
「おいうるせぇぞリリスケ」
「僕なら何とか出来るとか! 自信があるだとか! へっちゃらだとか!」
思う通りに動いてくれない身体を震わせながら、リリは叫ぶ。
「あんな見え見えの嘘! なんで真に受けちゃったんですか!?」
瞳から涙を落としながら、ただ叫んだ。
「不慣れな嘘を吐いてまで……勝ち目なんてないってわかってて……それでもリリたちみんなを生かす為に囮になるだなんて……!」
その叫びはタケミカヅチの子供たちに。ボールスに。モルドに。ベルを気に入らないと感じている冒険者の多くに聞こえていた。
「ベル様の怪我だって軽くない……なのに無理して強がって……このままじゃ本当に死んじゃいます……! だからリリたちだけでも」
「いい加減にしろ!」
リリの叫びを飲み込む叫び声が、リリの言葉を飲み込んだ。
「碌に嘘なんて吐けねえヤツが! 誰にだってわかる見え見えの嘘を吐いたんだぞ!?」
リリに叫び返しながらも走り続けている、ヴェルフの叫びだった。
「俺たちが汲んでやらなくてどうすんだ!」
「で、でも」
「今の俺たちがあそこにいたって足手纏いでしかねえ! 俺たちに出来ることはあいつが囮の役割を全う出来る最高の環境を用意すること! そして全速力で応援を呼んでくること! 違うか!? いいや違わねえ! お前だってわかってんだろ!?」
「ヴェルフ様……」
「あいつがどんなに頼ってくれようと! 俺たちがいないとダメだってあいつが言ってくれようと! 今の俺たちじゃ! あいつと肩を並べて戦うことも出来ねえんだって!」
「っ……!」
ガリっと、奥歯を噛み締めるような音が鳴る。その音はヴェルフの口内や、リリの口内。
「だから! 今出来る最大のことをやって、あいつを迎えに行く! だからお前も出来ることをしろ!」
「リリの……出来ること…………ふぬっ……!」
瞳を湿らす涙を乱暴に拭ったリリは、それ以上泣き喚くことをやめた。何か考え込んでいるのか、ヴェルフの耳にリリの小さな声が響く。
「お前らもさっさと走れよ! デビューしたてホヤホヤの冒険者に命を救われた情けねえ敗残者共!」
「うるせぇぞそこの赤髪!」
「言われなくてもわかってんだ!」
「ガキの命をダシにして今夜飲む酒がうめぇもんかよ!」
惨めな負け犬が吠え、惨めな負け犬たちが、ただの負け犬ではないぞと証明するかのように吠えて返す。
「へへっ……!」
死んで楽になろうとしている者など、もう一人としていない。
士気は十分に高まった。
「待ってろよ……ベル……!」
あとはただ、走るのみ。
* * *
「ふぅ……!」
リヴィラの街の真反対までノンストップで駆け抜けた心肺機能が新鮮な空気を欲しがった為、不慣れた行いをするにあたって付き纏っていた緊張感ごと纏めて吐き出して、木々の倒壊が激しい大森林の中で、ベルは息を整えた。
嘘は苦手だが、それらしい演技は出来た。
それが、仲間たちの前で啖呵を切って見せた自分に対しての評価。
「ライラさんにお礼しなきゃかなこれは……」
嘘を操ることに師匠がいるのだとしたら、昔も今も多種多様な嘘でベルを翻弄し続けるライラで間違いない。
さっきだって、ライラならどんな風に言うんだろうか、なんて思いながら口を開いていたりしたくらいなのだ。
食事当番をちょくちょくサボるライラだが、一度くらいは大目に見てあげるのもいいだろうか。いやいや待て待て。それよりも今度、フィンとのデートを勝手にセッティングしてみる、なんてのはどうだろう? そうだ、それがいい。きっとどっちも喜んでくれる……はず。その前に、勝手なことすんなとライラにはめちゃくちゃ怒られそうな気がするけれど。ついでに、多分ティオネに殺されるだろう。ついでで許される被害かそれ?
「さて……!」
先ずは、その今度とやらに出会う為、発生したばかりの出会いをなんとかしなければならない。
あの怪物が自分にもリヴィラの街の冒険者たちにも意識を向けていない今のうちに、少しでも情報を集めるべく目を凝らす。
「やっぱり……」
望んでいなかった出会いをベルたちと果たしてしまった怪物は、何かがおかしい。
なんというか、チグハグだな。
相変わらず東方向に釘付けとなっているゴライアスを眺めていて、ベルは感じていた。
ゴライアスの放つ
あの個体が通常のゴライアスよりも圧倒的に強いのは証明された。肌の色が黒いこともその要因の一つであるだろうし、その黒い体躯を包む黄金の輝きも無視出来ない要因であると極め付けてしまって良さそうだ。
しかしだ。
「あの光を……引き剥がそうとしている……?」
ベルの目には、ゴライアスはただ暴れているのではなく、自身に纏わり付く輝きを毟り取ろうとしているように。
もっと言えば。ゴライアスは怒り狂いながら同時に、何処か困惑しているようにもベルには見えていた。
「あの光はゴライアス自身が発生させているものじゃない……?」
仮にそうだとしたら。
あの光は何処から? ゴライアス以外の怪物がゴライアスに力を貸している? ダンジョンそのものが何かをしている? それとも、もっと別の要因が?
「ここにリリがいてくれたら…………何を考えてんだ僕っ……!」
いつも頼ってばっかりで、この状況でもまだ甘えようとしている自分の甘さに喝を入れるべく自らの頬を張った。しっかり痛いが、歩くだけで鈍痛走る背中に比べたら全然マシだ。リヴィラから飛び出した途端に痛みが激増しやがってからに。困ったものである。
「ん?」
そして、とうとうゴライアスの動きが変わった。
見つめていた何かを諦めたのか。それ以上に、ダンジョンから地上に帰るべく集団で行動を開始した死に体たちに反応したのか。
ゴライアスはその赤い眼に、無数の冒険者の姿を映している。
「ファイアボルト!」
『グオオオオオオオオ!?』
弾かれたように掲げられたベルの右手から飛び出した炎雷が、二つの眼球のうち一つ。左の眼球を焼いた。
「手応えあり!」
いきなり発生した痛みに堪えかねて顔を覆うゴライアス。彼は残された右眼一つで無礼を働いた者を探して探して探して、見つけた。
『オオォォオオオォオオッ!』
「くっ……!」
自らの敵に威嚇をするように吠えるゴライアス。その風圧に地面から足が浮かされそうになるも、踏ん張って耐えてみせた。
「凄い迫力…………あ、あれ?」
そして、知りたくなかったことを知ってしまった。
「再生……出来ちゃうの……?」
左眼を覆うことをやめたゴライアスの手の下。確かに奪ったつもりだったのに、怪物の赤い左眼は、そこにあった。
見れば、ゴライアスの身体から、赤い光の粒子のようなものが発散されている。アレがゴライアスの身体を修復しているとか、そんなカラクリだろうか。
「そ、それは卑怯だと思うな!」
『アァァァアアアアッ!』
お前と話すことなどないと言わんばかり。ベルの訴えは完全無視で、いよいよゴライアスがベル目掛けて突っ込んできた。
「ここまでは計画通り!」
目が治っちゃうのは計画通りじゃないけど! と頭の中で添えながら、とにかくリヴィラから離れるよう進路を取り、怒り狂うゴライアスを誘導する。
「動きは速くない……ってこともないか……!」
見た目通りの鈍重さ、というには機敏。早過ぎて手に負えないなんて言わないが、鈍重で助かるーなんて楽観もさせてくれない。
少なくとも。ベルの側に速度の面で圧倒的なアドバンテージがある、などということはなさそうだ。
「逃げる! とにかく逃げる!」
囮を引き受けたけれど、ここで死ぬつもりなんて毛頭ない。
今も必死に地上を目指している冒険者たちが、必ず援軍を連れて来てくれる。
「それまで……」
腰に差した『
「耐えるっ……!」
しかし途中で軌道変更。桜花から借りた盾の背面に設置されているグリップを掴んだ。左手は既に固定式のベルトに通してある。
「じゃあ……勝負だ!」
『ゴオオオオオオオッ!』
ベルの叫びとゴライアスの雄叫びが合図。
捕まったら間違いなくぺしゃんこにされるだろう、二人きりの鬼ごっこが始まった。
* * *
「ふざけろ……地上ってこんな遠かったかよ……!?」
ヴェルフの悪態に反応してやる冒険者は一人もいない。
「スピード落ちてます……ヴェルフ様……」
「わかってるよ……!」
唯一反応を返してくれたのは、ヴェルフの肩から背中へと居場所を変えたリリ。
「おらぁ!」
「ふっ!」
最前線で戦い続けるモルドや
彼らは碌に足を止めず、地上を目指す冒険者の一団の正面から向かってくる怪物たちを一匹たりとて背中に通していなかった。
「上層までくりゃあなんとかなんだろ! とはいえ気を抜くんじゃねえぞお前ら!」
この団体で唯一のLv.3であるボールス。本来ならば彼こそ最前線にて暴れてもらうべき存在なのだろうが、彼はそれを拒否。全員を癒やすにはとても足りていない為か、
彼は、桜花ら重症者たちの身を守ることを最優先とし行動していた。
下の階層に理解不能な怪物が現れようとも、そこより上の階層は平常運転。当たり前に襲い掛かってくるモンスター共を凌いで掻い潜って
走り続けて、現在先頭を行く
「気なんか抜けるかっての……!」
ボールスの発破に応えるモルドの声は、酷く弱々しくなってしまっていた。
彼の背中を支えるように走り続けているガイルとスコットも。
「ぐっ……!」
痛む身体と底の見えている体力に脳も心も圧迫されながら、それでもモルドたちと並走し続けている
「はぁ……はぁ……!」
「正面! ウォーシャドウ! 上! キラーアント! 天井から! 正面は自分が!」
新手の登場になけなしの体力を注ぎ込んで
「う、上は任せ……あっ……!?」
それは、起こるべくして起こった。
「矢が……!」
今も走り続けていることさえ褒められるべき活躍を見せた、本来は中衛から更に後方に陣取るべきであろう千草。
身体も心も限界以上に摩耗している彼女は、番えようとした矢を取り落としてしまった。
「しまっ……!」
その隙を見逃してくれるほど、ダンジョンは冒険者たちに優しくない。
都合のいい獲物と認めたのか、キラーアント数匹が天井から脚を離し、慌て倒している千草目掛けて飛び掛かって来た。
「ぁ……!」
矢を拾おうにも間に合いそうもない。近接武器に持ち替えるだけの時間もない。
「ヤベェ!」
モルドたちも。
「千草殿っ!」
「お……うか……!」
何も出来ないと悟ってしまった千草が最後に発したのは、大切な家族。大切な異性の名前。
「千草あぁぁぁ!」
「あ、暴れんなおい!」
その光景が見えていた桜花の叫び声が爆発する。ボールスの背中で暴れたって、今からではとても間に合わない。
誰もが頭の中に最悪の光景を思い描き、そしてそれは現実のものとなる。
「伏せなさい!」
しかし、そこに待ったを掛けるが如く。
「『ルミノス・ウィンド!』」
ダンジョン内に、
「わっ!」
慌ててしゃがみ込んだ千草の頭上で、キラーアントたちが弾けて散った。
吹き抜けた風の光球は千草の頭上だけでなく、縦に伸びた冒険者たちの列に迫る怪物全てを撫で、風の愛撫に身を任せた怪物たちは一様に灰と魔石へ姿を変えていた。
「あ、れは……」
「『疾風』!」
「援護します!」
「リュー殿っ!」
アストレア・ファミリア所属の冒険者。ベルの姉。リュー・リオンの頼もしい宣誓に、抑えきれない歓喜を
「先走るなと言っているだろうがっ!」
「相変わらず視野が狭えなあ、元末っ子は!」
リューから数秒遅れてやって来た輝夜とライラも、何故どうしてを問うより先に周囲の安全確保を優先とし、周囲のモンスター掃討に奔走した。
「はぁ……!」
「た、助かったぁ……」
輝夜とライラの後方にも、都市を代表する女戦士たちの姿が見えた。それに安堵を覚えた者たちは足を止め、その場にへたり込んでしまった。
「リリちゃんヴェルフくん! タケミカヅチのみんなも無事!?」
「んぐ!?」
知った顔を見つけるなり真っ直ぐに飛んでくるのはアーディ。ヴェルフに背負われているリリに手を伸ばし、無理やり気味に
「みんな仲良くお散歩! って言うには死に物狂いな雰囲気過ぎるわね! 何があったのか聞かせてもらえるかしら!?」
「……はあぁぁぁぁぁぁ……!」
女戦士たちの最後尾から姿を現した赤い髪の冒険者。アリーゼ・ローヴェルの姿を見るなり、ここまで踏ん張り続けていたモルドもいよいよ地面にへたり込み、大きく息を吐いた。
「アストレア・ファミリア……」
正義の女神の娘たち、全員集合であった。
「ヴェルフくんたちはいるけどベルがいない! もっと後ろの方にいるの!?」
「ベル様はここにはいません!」
隊列の顔触れを確かめていたアーディの動きを止めたのは、ヴェルフの背中からピョンと飛び降りたリリ。
「どういうこと?」
「リリから説明します! 時間がありません! アリーゼ様たちもどうか聞いてください!」
そうしてリリは、十八階層で発生した出来事と、ベルが何処で何をしているのかを、アリーゼたちに伝えた。
「ここからは推測になります。あのゴライアスは本来のLv.4相当の個体より遥かに格上。Lv.6相当かそれ以上の能力を備えていると見て良いかと思います。ただでさえ異質な姿だったゴライアスがあそこまでの怪物になってしまったのは、謎の光が原因です。そしてあの光は、人為的なものだと思われます」
「人為的?」
「ゴライアスに強化を施すような魔法やスキルを行使した第三者がいると思います。恐らく、十八階層の東に」
「根拠は?」
「あの輝きを浴びてからのゴライアスは、レベルで言えば一つか二つ以上は優に格が上がっていました。いくら階層主とは言え、あんな規格外の魔法染みた能力を備えているなんてありえないと思います」
「東にいるってのは?」
「ゴライアスが頻りに東方向に威嚇のような行動をしていました。リヴィラを壊滅させた
「ほんとはお前と議論の一つでもしてぇとこがだが、マジで時間がなさそうだ。しかし上出来だ。よく生きて情報を持ち帰った」
「ベル様に救われただけです……!」
苦々しそうに吐き出すリリの頭を、彼女と同族の女戦士であり彼女の師匠、ライラがポンポンと撫でてやった。
「情報は充分よ! ありがとうリリちゃん! 輝夜! ネーゼ! アスタ! リャーナ! 先行! 止まらず十八階層まで向かって! 邪魔するヤツだけ斬って突き進んで!」
「ああ!」
「了解!」
「任せて!」
「急ぎましょうか!」
「ライラ! ノイン! セルティ! イスカも輝夜たちと一緒に! ただし、貴方たちは道中での怪我人の保護が最優先! 同行者の有無も確かめてね! 一人も見落としちゃダメよ!」
「へいへーい!」
「わかってますって!」
「はい!」
「お任せあれ!」
「マリュー! リオン! アーディはここで負傷者たちの回復!」
「ええ!」
「わかりました!」
「うん!」
「回復が済み次第私たちも十八階層に向かう! そこで、ゴライアスなんだけどゴライアスじゃなくてでもなんか真っ黒いゴライアスでいつの間にか金ピカゴライアスですーぱーゴライアスらしいゴライアスと一戦交える!」
「ゴライアスゴライアス言い過ぎ!」
「私たちの常識の外の階層主と正面からぶつかり合うことになる! 東にいるらしい誰かさんは気になるけど今はベルの安否が最優先! 全力で急ぎながら各自装備のチェックは抜かりなく! じゃあ行動開始! ごーごー!」
アーディのツッコミを無視してアリーゼが右手を掲げると、先行班として名を呼ばれた団員たちは、凄まじい速度で飛び出して行った。リューたち治療班も早速回復魔法を行使し始め、今際の際を歩いていた何人もの冒険者たちを引き戻すことに成功していた。
「さて! 私たちも」
「申し訳ありませんでした!」
「……リリちゃん?」
ライラたちの背を見送ったアリーゼの眼下で、リリが頭を下げた。
「生きる為に、ベル様を囮にしました……ベル様にへたっぴな嘘まで吐かせてまで……」
「俺たちには何もしてやれなかった……すんません……」
リリの隣に立ったヴェルフは、この行軍中わざとらしいくらいに勝ち気な笑みを浮かべ続けていたのだが、今の彼は臍を噛み、俯いてしまっていた。
「……そっか! あの子、成長したのね!」
「え?」
「私たちやみんなを守る。あの子が抱えている大きな願い。嘘って形で、それでもその願いに指先くらいは届いたんだわ。これが成長じゃなくてなんだって言うの!? お姉ちゃん嬉しい!」
「っと……」
「次はちゃんと気付かせてあげないと! 誰かを守る為には、先ず自分を守らなきゃいけないんだってこと! 大丈夫! 私たちがあの子に教えるから! 絶対に間に合わせてみせる! 後は私たちに任せて!」
「……任せる……?」
ピシッと、何かに罅が走るような音が聞こえた。その音は、ヴェルフの右手に収まったばかりの
「ふっざけんな……!」
「ヴェルフくん……」
ヴェルフの怒りの矛先が向いているのはアリーゼではない。
「守られてばかりで肝心な時に一緒に戦えねえでダチだ仲間だ相棒だって? はっ……なんて情けねえ……!」
今のベルの隣に立てない自分自身に向けられていた。
「貴方たちやみんなの無事が、あの子にとって一番大切なことなの。そういう子だって、貴方たちは誰よりも知ってるでしょ?」
ヴェルフは何も答えず、歯を食いしばっているばかり。
「だから……」
アリーゼの両腕が伸びる。右腕はヴェルフの背中に。左腕は、ヴェルフの隣で俯いているリリの後頭部にそれぞれ伸びている。
「生きててくれてありがとう。あの子の願いを叶えてくれて、ありがとう」
傷付いたヴェルフとリリ。ベルの親友二人を抱き寄せ、アリーゼは微笑んだ。
「でも……そう思うのなら、強くなりなさい」
二人の身体をパッと開放したアリーゼは、眩しい笑みを隠していた。
「あの子の抱えている夢は私たちよりもずっと大きくて、ずっとずっと無謀なもの。それを叶えたくてあの子は、自分なりの最高速でこの五年を走り続けてきた。これからもあの子は走り続けるでしょうね。貴方たちを置き去りしてしまうくらいの速さで」
ヴェルフとリリ、二人の表情が強張る。
「あの子の足を引っ張るのが嫌ならば、強くなりなさい。強くなって、あの子に振り落とされないようになりなさい」
「言われるまでもねえ……!」
「わかってますっ!」
苛立ち混じりの二人の目の色が、確かに変わった。
「……どうかお願いね」
その瞬間を己の瞳に映したアリーゼは、もう一度二人の背中に手を回し。
「あの子を……一人にしないであげて」
他の誰にも聞こえていそうにない声量で、そんなことを囁いた。
「最低限の治療とアイテムの分配も済みました。アリーゼ、そろそろ」
「おっけーリオン!」
シリアス顔が長続きしないことに定評のあるアリーゼさん、リューの報告を受け二人の後輩冒険者を即開放。活力に満ちた眼差しをボールスに向けた。
「ここまで立て直せたら後はなんとかなるでしょ! 後のことはボールスの叔父様に全て任せたわ! 絶対無事に地上に辿り着いてね!」
「けっ! なーにが任せただ! 相変わらず小生意気な娘だ! いいからさっさと行け! あのガキ死なせるんじゃねえぞ!」
「言われるまでもないわ! マリューリオンアーディ! 私たちも!」
頷き合ったアストレアの娘たちが急発進。瞬く間に頼もしい背中が小さくなっていく。
「リリちゃんっ! ヴェルフくんっ!」
駆け出したばかりの赤い髪が揺れる背中が、九階層全域にまで届いてそうな叫び声を上げた。
「後でね!」
一つに結われた赤い髪を大仰に揺らしながら一瞬だけ振り返ったアリーゼはにひーっと、場違いなくらいに明るい笑顔をリリたちに見せ、いよいよ下の階層へと飛び込んで行った。
「…………リリスケ」
「なんですか?」
「今回の遠征の戦利品、十八階層に忘れてきちまってるだろ」
「はい。うっかりしてました。どうにか回収したいです。手ぶらで帰ったらヘスティア様に何言われるかわかったものじゃありませんから」
「決まりだ」
いつも、間にいるはずの誰かの不在で隣同士になっている鍛治師とサポーターが、不遜な笑みを交換し合った。
「お、おいおいお前ら」
「おい! そこでくたばってる大男! 十八階層にご自慢の盾を忘れてるんじゃねえか!?」
「……回収に……行かないとな……」
何言ってんだこいつらみたいな表情を浮かべるモルドは完全スルー。お前忘れ物してんぞとヴェルフに指摘された桜花は、二本の足で立ち上がってみせた。
「ベル殿が心を許すはずです……!」
ずっと余裕のなかった
「私たちだけ先に帰るなんて出来ないよね……!」
みんなの足を引っ張るまいと能力以上の仕事をし続けた影響で心身共に限界だろう千草だが、
「なんなんだ……ベル・クラネルの周りには命知らずのアホしかいねぇのかよ……!」
呆れたようなモルドの呟きへの返答は、ヴェルフの勝ち気な笑み一つ。
「報酬の取り分……あのガキと相談しねぇとな……」
「ボールス!? お前までなんで」
「赤髪の小娘にはこいつら託されちまったが……ガキにケツ拭かせてハイおしまいってわけにはいかねぇな」
「何急にやる気出してんだよぉ……だーもうクソっ!」
負傷していた右腕の具合を確かめるよう肩を回しながら立ち上がるボールスから遅れて、心底嫌ですを隠さないながら、それでもモルドは勢いよく立ち上がった。ガイルとスコットも溜息混じりで後に続く。
「輝夜様たちが道を綺麗にしてくれている今なら最低限の戦闘で戻れるかと」
「だな」
「急ぎましょう!」
「桜花、本当に大丈夫?」
「問題ない。心配するな」
パーティ全員の腹は決まった。
建前なんてどうでもよかった。
アリーゼの言う通り。今は肩を並べて戦えないかもしれない。
だからと言って腐ってはいけない。
肩を並べて戦うだけが、共に戦うということではない。
隣に立てないのならせめて。
背中に立って、思いっきり背中を押す。
「では……行きましょう!」
リリたちの戦いは、まだ終わっていない。
* * *
十四。
十四は過ぎた。
あれ? そうだよね? そうだと思う。だとしたらもう少しなはずなんだけど。というか十四ってなんだ。何の話だっけ? 僕の年齢? うーん、なんか違う。なんだっけなんだっけなんだっけ。
「なんっぶないっ!?」
なんだっけに囚われていたベルの反応は鈍かったが、ゴライアスの右手が投げ付けた巨大な岩石を回避することに成功。気が緩んでいたというか、気が触れそうになっていた感がある。いろんな意味で危なかった。
「ぜ、全然へばらないねそっちは! こっちはもう限界なんだけど!?」
『ヴオオオォオッ!』
気安いやり取りが許される間柄かのよう、ベルを踏み潰したくてしょうがなさそうなゴライアスに声を掛けるも、返って来るのは獰猛な唸り声ばかり。
岩の破片が頬や額を裂いたなどの裂傷こそ見えるが、ベルの生命の終わりに直結するような外傷はなし。
それでも、後に響きそうな負傷は抱えている。
「やっぱ動かせないなーこれ。痛いし」
ベルの両手の指。その半数以上は、へし折れてしまっていた。中には骨が粉々になってしまっている指も。
リヴィラを壊滅させたあの衝撃波。あれが、ベル一人目掛けて放たれた。
馬鹿馬鹿しい程の破壊力を誇る必殺の通常攻撃全て回避するのは難度が高く、盾を地面に突き立て受けざるを得ない瞬間があった。そのただの一度で盾は歪んだが、どうにか耐え切った。それでも衝撃を殺し切るには至らず。
その代償として差し出す羽目になったのが、縦の裏に隠していたはずの、ベルの指の機能の大半。
しかし、足を止めずに動き続けられる程度の負傷なら、ベル的には全て軽傷。
「何処かに都合良く
なんて軽口を発し、痛みを思考の外に無理矢理押し出して走り続けている。
ベルはまだ走れる。ある程度は原型を留めているから。
その代わりに。桜花から借りた盾があとどれだけ保つかが怪しくなっている。
回避が間に合わないと判断した際はゴライアスの投石を盾で受けるよう徹底していたのだが、それを繰り返すうちに、盾の端部などが抉り取られてしまっていた。盾のど真ん中に穴が開いたなんてことはないが、破損した端から徐々に崩れ落ちて行く様はベルの心胆を際限なく冷やしていく。
痛みを堪えて今も構えているが、ベルが装備している物は、あとどれだけ盾としての役割が真っ当出来るものだろうか。
「桜花さんになんて言おう……」
参った。ちゃんと返すと約束したのに。
「でも、そろそろだ……」
元大森林と称した方が適切かもしれない、暴れ回る黄金のゴライアスにとことん荒らされた大森林を舞台にした鬼ごっこも、かれこれ一時間を経過していた。
その時間の中でベルは一つ、重要な気付きを得ていた。
「そろそろそろそろそろそろ……きた!」
消えた。
ゴライアスが纏っていた黄金の輝きが、消え失せた。
「やっぱり、大体十五分……!」
時計を頼れない且つ全力で逃げ回る中でもベルの体内時計はいい仕事をしてくれたらしく、かなり信憑性のある計時に成功していた。
半刻ともう少しほど、時を遡る。
必死で逃げ回る鬼ごっこの最中、ゴライアスの動きが止まった瞬間があった。もう諦めてくれたのかなと振り返ると、金色のゴライアスが、漆黒のゴライアスに戻っていた。
「な、なんで…………へ?」
ゴライアス自身も当惑してるご様子の変化。何がどうしたのよと眺めていると、漆黒のゴライアスはまたも、黄金のゴライアスに変貌。
『ウ? オォォォ…………アァァァアアッ!』
「笑劇みたいなノリなんなの!?」
なんやこれ。まあええか。みたいなノリでベル殲滅活動を再開するピカピカゴライアス。
そのまま追いかけっこを続けていると、またもピカピカはクロクロに。で、さほど間を置かずにクロクロはピカピカに。その規則性を知りたがったベルが、ピカピカが消えてクロクロになるまでを脳内で計時に努めてみたところ、出てきた時間が、大体十五分だった。
閑話休題。
「僕もなかなかやるじゃない!」
自分の推察、そして計時が的を得ていた事実ににっこり。
「ねえ少し休憩しない!? 僕もどっかの英雄さんみたいにメモでも書きたいんだけどな! 君の弱味になりそうなことをね!」
『オオオオオオオ!』
尚更許してくれるわけないだろうな文言を添えた為か、早速ピカピカを纏い直したゴライアスが怒ったような気がしてならない。
その証拠になるかは定かでないが。走ることをやめたゴライアスが、巨大な両手を大地に突っ込んだ。
「え、えぇー?」
引き抜かれた両手の上に、溢れんばかりの量の岩石が載っている。
どうやらキラキラゴライアスは、あれを一斉に投げようとしているらしい。
「し、死んじゃうんだけどなー! そんなの食らったら!」
聞く耳持ってくれるわけがない怪物が投擲の構えを取る。力を溜めるよう大きく肩を引いて、大きく振りかぶって。
『ォアァアアァァァァ!』
音速に迫るかそれ以上の速度を有していそうな巨大な散弾が、ゴライアスの右腕からベル目掛け、一斉発射された。
「桜花さんごめんなさい! 今度ヴェルフにすごい盾作ってもらいますっ!」
左腕に装備している盾をゴライアスに向けながら全力で飛び退く。
「くそっ……!」
が、速度が上がらない。跳躍の距離が稼げない。
痛みが右肩上がりな背中が、ベルに最高のパフォーマンスを発揮することを許してくれない。それ以前の問題もある。
単純な話。この一時間強の追いかけっこで、ベルの体力は底を付いていた。
「ま! だ! まだまだぁ!」
そんなの関係ない。とうに底を付いているなら底の下から掬い上げろ。そこすら空っぽになっちゃったのなら何処か適当な所からどんなものでもいいから絞り出して燃料に変えろ。
「こ、のぉっ!」
鼓膜を破壊しかねないような風切り音がベルと盾のスレスレを通過して行き、大地に無数の穴が開く。都度襲い掛かって来る衝撃に身体の安定を何度も試されるが、負けてなるものかとベルは膝を屈しない。
まだだ。まだまだ地獄は終わっていない。
「走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れっ!」
アドレナリン全開。叫んで走る。とにかく走る。ひたすら叫んで何処までも走る。
「あ、ぶないっ! ギリギリせーふっ!」
ベルの必死の走りが功を奏した。
何たる幸運か、盾の方にさえ一度の被弾もないまま土壇場を一つ凌ぐことが出来た。
「大体凌げ……ヤバっ!」
が、まだ終わりじゃなかった。
左手で掴んでいた岩石の山を右手に移したゴライアスは、既に二投目の構えに入っていた。予測は出来ていたが、なんともいやらしい時間差攻撃である。
しかも球数がやたらと多そうだ。回避運動は当然するが、全てを避けられる気がしない。
いざとなれば、歪んで欠けている盾で受けるしかない。
「ぐっ!」
今のベルに発揮出来る最高速からの最大跳躍を繰り返し、少しでもゴライアスから離れるよう距離を稼ぎ、的を絞らせないようあっちにこっちに跳ね回りまくる。その間も常に、盾の中に身体を隠すことを意識する。
「来た!」
ゴライアスの投擲を目視で確認。さっきより格段に精度が高い。
というか、数が多い。
大きな物を放るより細かな物をたくさん放った方が当たりそうだと気付いたのだろうか。賢い怪物である。
感心している場合ではない。
「くうううぅぅおおおおおおおお!」
走れ走れ走れ跳べ跳べ跳べ躱わせ躱わせ躱わせ避けろ避けろ避けろ外せ外せ外せ当てるな当てるな当てるなふざけんなふざけんなふざけんなふざけんなふざけんな!
努力と祈りと怒りと幸運パワーを全力投入。これで駄目ならさてどうしよう。
「ぐうっ!」
巨大な倒木を飛び越えた、まさにその時。
焼けるように痛む指とベルの喉から悲鳴が上がった。
跳躍中に、投石の一つが桜花の盾のど真ん中を捉えたらしい。盾が凹む嫌な音が鳴ったが、これだけ一方的に嬲られているのにそれでもまだ持ち主を助けてくれる。本当にいい盾だ。
ただ。惜しむらくは。
ベルの指が安全であったのならば。
指に力を込め、浮き上がってしまった盾を抑え込むことが叶っていれば。
「しまっ……!」
尚も降り注ぐ岩石のシャワーの前に、下半身を晒すことなどなかったのであろう。
ここまでの過程全てが奇跡なのだとしたら。その代償を支払う時が、割とあっさりと訪れてしまったらしい。
「がっ!」
人間の頭部かそれ以上はありそうな大きさの岩の一つが。
回避行動中の左膝に直撃した。
「ぁ……あぁぁぁあぁ……!」
下半身丸ごと引きちぎらんばかりの破壊力に身体を撫でられたベルの跳躍は、自由落下に名を変えた。
「ぐぅっ!?」
軌道を修正することは疎か、満足な着地すら叶わず。たったの一撃で身体の自由を奪われてしまった身体は、荒れ放題な大地に叩き付けられてしまった。
「げほっ! あ、がっ……ぐっぁぁぁ……!」
痛いなんて次元じゃない。死ぬ。死んだかも。わかんない。大穴が開いたか左膝から下が千切れた。骨や筋肉が爆発したのはわかるんだけど見るのが怖い。うっかり左足を落っことしていたとしたら、見るだけで怖いものを見なきゃならないから。そんなの嫌だもん。
「はっ、はぁ…………ふざけろ……!」
涙さえ勝手に溢れ出る痛みの洪水の中で足掻くベルの口から零れ落ちたのは、数年に及ぶ付き合いで、時々だけどベルも口にするようになってしまった親友の口癖。その度に似合わないと親友本人にも姉たちにも笑われていたりする。自分でもそう思っているので特に反論をしたことはない。
間違いなくLv.6以上の能力を有している怪物と一時間に亘る追いかけっこをなんとか成立させていたベルの持ち味、敏捷は死んだ。
だったらどうやって、大地を削りながら迫るアッパーが避けられると言うのか。ふざけろと言いたくもなる。
『アァァァアアァァァ……!』
ようやく捕まえたぞ。
なんて、ピカピカゴライアスが笑っているかのように見えた。尚更ふざけろである。マジふざけろ。
「……無事に……地上に出られたかな……」
死を間近にして脳裏を過る、傷付いた仲間たちの姿。
「みんなに……会いたいな……」
共に迷宮に挑んでくれた仲間たち。地元の村のみんな。共に暮らしている家族たち。もう一人の母親と彼女の城に住まう憧れの勇士たち。
本当に多くの顔が浮かんだ。
アレか。これが走馬灯ってヤツなのか。
「だから!」
ふざけんなと。
「絶対!」
認めてたまるかと。
「生きて帰るんだ!」
痛みを無視して上半身を起こす。この一時間だけでなく、十八階層への冒険でも、本来の持ち主と共に自分たちの冒険を支え続けてくれた頼れる盾を大地に突き立てる。
その陰から、涙を拭うなんて器用なことなどもう出来ないだろう右手を怪物目掛けて突き出し、叫ぶ。
「ファイアボルト!」
燃えるように痛む指々の根本から、炎雷が駆け出した。
「おおおおお!」
そして吹き荒れる。
ベルを殺すためだけに振るわれる拳に、横殴りの炎雷雨が殺到する。
「ああぁああぁぁあぁああぁ!」
炎雷雨は、炎雷暴風雨になった。
ありったけ。何発撃てるとか何発撃つとか考えもしない。今放てる全てで吠え立てる。
局所的で破滅的な悪天候と拳の正面衝突。凄まじい爆炎が咲き渡り、厳かに散って行く。
人か怪物か。
派手に立ち昇る土砂と黒煙の抱擁の傍らに、勝者の姿がある。
『ガァアァァァアア!』
勝者は猛り狂い、敗者に相応しい末路を与えんと、焼け爛れた拳を再生させながら走る。
「か……ぁ……」
加減も限界も忘れ、全てをこの攻防に注ぎ込んだベルの心臓を愛撫する終幕の名。
敗北者は敗北者らしく、潔く散るべきなのであろう。
「か! かかってこいっ!」
だからそれは、単なる負け犬の遠吠え。
否。
ベルはまだ、この敗北を敗北を認めていない。
それがただの意固地だとしても、しかしそれは絶対であり全てだ。
敗北を敗北と認めず膝を屈さない馬鹿者だけが辿り着ける境地が。起こせる奇跡がある。
そんな都合のいいこと、もう何も起こらないとわかっていたとしても。
「諦めるもんかあああああっ!」
強欲なベルは、勝利以外を欲しがらない。
盾の背面のベルトに固定されている左腕を、もはやまともに動きはしない右手で健気に支える。せめて頭を守らねばという思考は働いたのか、突き出した両腕を盾にするようにして頭を守る。
『アアァァアァアアァァァァッ!』
「おぉおおぉおおおぉぉおおっ!」
衝突は、一瞬。
その一瞬で、全てが白く染まった。
「ぁ」
バキバキと、何かが割れて散っていく叫びが聞こえた。桜花から借りた盾の声だ。
ボキボキと、何かが砕けて散っていく悲鳴が聞こえた。自分の骨だ。それもあちこち。
輪唱するみたいに、体の各所から異音が響く。骨とか臓器とかなんか色々、人でありたいなら失っちゃいけない系の連中が壊れたり砕けたり爆発したりと、それぞれの形で伝えてくれた。
お前は、もう終わりなんだって。
「は……」
矢のような勢いで吹き飛ばされ、地面と激突し、それを何度も繰り返し、ようやく何処かに着地というか、衝突をした。
それが示すものは、死。
耳の機能も死に掛けているらしいベルが最後に知覚出来たのは。
『オォオオォォォオオオォォッ……!』
弱いものイジメを果たしてさぞご機嫌らしい、誰かの雄叫び。
「み……ん、な……」
赤い血肉の塊から搾り出されたものは、最後まで自分以外の誰かを案じる音をだった。
* * *
『腹部の潰瘍が酷い! 出血が止まらない!』
誰かが言った。マリューだ。
『応急処置は施した。これ以上は回復魔法を行使し続けるしか取れる手段など……アーディ?』
誰かが名を呼んだ。リオンだ。
『アーディ。聞こえていますか、アーディ!?』
『わかってる。私は冷静。やるべきことはちゃんとわかってるし、今も全力でやってる』
名を呼ばれた少女は、短く揃えた薄青色の髪を揺らし、淡々と口を開きながら、誰かを助けることが叶うかもしれない魔法を一心不乱に行使していた。
『でも……で、もっ……!』
アーディたちの回復魔法を纏めて受け止めている血塗れの誰かの身体に、涙が落ちた。
『怖いの……震えが止まらないの……! 怖がってる場合じゃないのに……泣いてる場合じゃないのにっ……!』
血塗れの誰かの身体に向けた二つの手は、可哀想なくらいにガタガタと震えていた。
『ダメ……この人だけはダメ……絶対に失いたくない……お願いだから連れて行かないで……!』
アーディの周囲を囲む少女たちは、怯える友の姿に何も言えずにいた。
『大切なの…… 大切な人なの! まだ伝えてないこと、いっぱいあるの!』
震えるアーディの背中に誰かが手を添えてくれた。誰かを確かめる余裕なんてアーディにはなかった。
『だから行かないで!』
行かないでと言われた誰かは何も答えてくれない。
『一緒にいてよ……!』
一緒にいてと懇願された誰かは懇願した少女を置いて何処かへ旅立とうとしている。
『──!』
アーディが、名前を呼んだ。
しかし聞き取れない。
その光景そのものに細工がされているかのよう。そこだけ綺麗に音がなくなっていた。
いや知らん。負けるもんかと耳を傾ける。
『──!』
やっぱり聞こえない。
だからなんだ。聞こえるまで粘ってやる。
『──っ!』
聞こえた。微かにだけど、語尾が聞き取れた。というかお前の声が小さい。
もっと頑張れ。もっともっと叫べ。
『─ルっ!』
更に聞こえた。でも足りないぞ。こっちまで届いてないぞもっと吠えろ。
もう一度。何度でも名前を呼べ。
そして、私に教えて。
顔も名前も思い出せない、それでも大切で大好きな『彼』の名を……!
「ベルっ!」
「え?」
はっと、現実に引き戻された。
「あーこれ……」
それは、夢ではなかった。
彼女……アーディ・ヴァルマは、眠ってなどいないから。
既視感とか、そういう類のものなのだろう。
だったら。いきなり脳裏に浮かんだあの光景は、そういうことなんだろう。
惜しかったなあ。
そう思ってしまうことを許してほしい。
もう少しだけでも続きが見られたならば、忘れてしまっていたものを思い出せたかもしれないんだから。
けれど、それはそれだ。
「目を覚ましたぁ……!」
マリューの声が響く。
「どうなることかと……」
リューの声には深い安堵が混じっている。
「よかった……よかったよーっ!」
自分の声だ。今日も今日とて品行方正で可愛くて超可愛くて無敵に可愛い伸ばした髪も完璧に似合っているアーディお姉ちゃんの声だ。
そうして、自分は過去にばかり囚われていないのだと確かめることが出来た。
憧れを追うのはいつだって止められない。
「ごほっ! ごほっ…………あ、れ……? みんっ、な……?」
それでも今は、憧れを追い続ける弟に寄り添う時なんだから。
「え、っと…………おはよう?」
「何を呑気に」
「おはようー!」
「おはようベルーっ!」
「あだだだだ……!」
「抱き付くのは止しなさいマリューにアーディ!」
リューに怒られてもベル・クラネルの姉二人は、三途の川をチラ見しただけでこちらに帰って来てくれた弟にしがみ付いて離れようとしない。見兼ねたリオンお姉ちゃんが無理矢理に二人を引き剥がす。
「今の状況がわかりますか?」
「あっ、と…………あーうん。僕、あいつに殺されかけたんだね……」
最後に見た景色と相違ない世界の中で暴れ狂うキラキラゴライアスの姿を紅い瞳に映したベルは、おおよそのことを理解した。
「確かに鈍重だが、もらえば即死だなこいつは!」
「ウダイオスと同等かそれ以上! バロール級くらいはありそうな戦力ねこいつは!」
「っていうか再生すんのズルじゃない!?」
「よくもまあこんなの相手に一時間以上も持ち堪えてたじゃねーの、うちの末っ子は!」
「後でいっぱい褒めたげなきゃね!」
「抱っこしておんぶしてよしよししたげよ!」
「お喋りしてないで集中してくださいみなさんっ!」
「兎にも角にもこいつには、ベルを虐めた報いを受けさせてやらないとね!」
ゴライアスが現在ご執心らしいのは、アストレア・ファミリアの団員たち。
「間一髪でした。輝夜が間に合ってくれなければ、貴方は今頃……」
ここへ来るまでの道中の至る所でも、ベルの元に到着してからも何度も何度も回復魔法を行使していた影響か、額に玉の汗を浮かべるリューの言う通り。
ゴライアスに殴り飛ばされ地面を転がるボールのように突き進み続けていたベル。間もなく巨大な樹木に衝突するという瀬戸際で彼の身体を受け止めてくれたのが、立ち塞がる全てのモンスターを一刀の下に切り伏せ一切スピードを落とさないという、最速且つ最高のパフォーマンスで最初に十八階層へ辿り着いた、輝夜だった。
「誰でもいい早く来い! 間に合わなくなる!」
必死で受け止めた弟の様子を検めた輝夜は、何処かの元末っ子を小馬鹿に出来ないくらいの動揺を示し、派閥の仲間を呼んだ。
遅れて来た仲間たちと連携し、更に遅れて来た回復班たちにまともな状態じゃなくなっているベルを託し、ようやく本格的な階層主戦へと段階を移行し、今に至る。
「心臓が止まっていなかったことが奇跡だってくらいの損傷だったんだから!」
「頑張るベルは好きだけど、無茶のし過ぎは関心しないんだから!」
マリューとアーディはぷんぷんである。ごめんなさいしなきゃいけない場面なのに、二人して頬を膨らませて迫ってくる姿は可愛いと可愛いが掛け合わされてサイキョー過ぎて笑ってしまいそうでいけない。
「アーディの言う通り。誰かを守りたいと思うのなら先ず、自分を守れないようじゃないと話にならないんだから」
「アリーゼさん……」
回復班たちの護衛として立っているアリーゼは、こちらを向いていない。
「でも安心して。リリちゃんにヴェルフくん。タケミカヅチのみんなやボールスの叔父様たちも無事よ」
ベルたちに背を向け、黄金のゴライアスに瞳を向けたまま、アリーゼは事実を告げた。
「……ほんとに?」
「ええ。貴方のこの一時間の頑張りが、貴方の大切な人たちを助けたの」
「っ……」
仲間たち。先輩たちの無事の報告が嬉しくて、瞳が潤んでしまった。
「やるじゃない! さっすが私たちの弟ねっ!」
くるりと上半身だけ振り返ってアリーゼがそんなことを言うもんだから、余計にウルッと来てしまった。
「泣き虫なのは変わらないわね!」
「アリーゼさんも、一言余計なのは変わらないね……!」
「それが私だもの! みんな! ベルが目を覚ましたわ! ここからは総力戦で行く! 私も前に出る!」
アリーゼの叫び声は、どっかんどっかん喧しい争いの音色に飲み込まれないくらい大きく、そして力強かった。
「本来ならベルは参加させたくないくらいなんだけど……あの怪物は、ベルの敵だものね」
横目で弟の様子を伺うと、まだまだ身体は万全じゃないだろうに、やる気満々と言った具合の末っ子が、暴れ狂う怪物を睨んでいる。
「いけるわね?」
「……っ、と……」
手指や背中などの痛みは薄れた。思い通りにも動いてくれる。重畳と言って良いのだろうが、どうやら血が足りてないのか、身体がフラついた。何も言わずに支えてくれるリューとアーディの優しさが痛む身体に沁みる。
「すううぅぅぅぅぅ……」
いつだって優しく厳しく接してくれる二人の姉の手から巣立つよう、大きく一歩を踏み出しアリーゼの隣に立ち、大きく大きく息を吸って。
「使命を果たせ!」
アリーゼの言葉に。
心意気に。
纏めて応えられる言葉を、叫んだ。
「天秤を正せ!」
こめかみに青筋が立つほど力を振り絞って、ただ叫んだ。
その叫びは、心も魂も賭して戦う女戦士たち全員の耳に届いていた。
「はっ……!」
最前線で誰より暴れ回っている輝夜が、獰猛に口の端を釣り上げる。
「小っ恥ずかしいんだから勘弁しろっての!」
小兵のセオリーに則り機動力と豊富な手札で前衛たちの背中を支えるライラが、極めて愉快そうに苦情を叫ぶ。
「少しは様になって来たじゃん!」
相手の機動力を奪うべく極めて危険度の高い怪物の足元へ果敢に飛び込んでは剣撃を与え続けているノインが、死の気配を無視してニッコリ笑う。
「やっぱ雄は吠えてこそだよなぁ!」
ノインと息を合わせ、相手の再生速度を上回ってやろうと息もつかせぬ連撃を浴びせるネーゼが、豊かな毛並みを有する耳や尻尾の毛を逆立てながら牙を剥く。
「惚れ直しちゃったよーベルーっ!」
最前線の戦士たちに迫る土壇場の全てに大盾を手に割って入り、全ての破滅を跳ね除け続ける小さなドワーフのアスタが、恋も愛も纏めて大きく叫んだ。
「私好みのいい雄に育っちゃってさあ!」
乙女モード入ってるアスタのサポートを基軸に、自分よりも遥かに巨大な怪物に二つの拳で挑み続けるアマゾネスの勇敢な戦士イスカは、傷だらけになっている拳を己の胸に当て、決して無視出来ない昂りに頬を赤く染めた。
「男の顔になったわね……!」
ゴライアスの目を撃ち抜くなど、中衛として、ピンチに陥った味方を救う為のヘイト稼ぎはもちろん、再生能力のカラクリを読み解き、魔力を下げる
「いつか星となるその日まで!」
大きく吐いた分を補給したベルが背筋を伸ばし、怪物を見上げながら、姉たちから分けてもらった誓いの言葉の続きを詠う。
「すっかり立派な冒険者だね!」
雷を迸らせ、リャーナの
「もう子供扱いなんて出来ないわねー!」
誰の消耗も見落とさず、万全を維持出来るよう皆を癒し続けるマリューは、子供扱い出来ないとか言いながらこの戦いが終わったらいっぱい撫で撫でして労ってあげないとーとか考えるあまり表情をゆるゆるにしてしまっている。
「貴方と肩を並べられることがどれだけ嬉しいことか……!」
特にオラリオにやって来た頃のベルはリューにべったりだったもので、何かあるとリューさんリューさんと甘えてばかりだった弟が自分の前に堂々立っている光景にリューは、心を震わせた。
「やられたらやり返してやんないとね!」
弟可愛がりが過剰なあまり距離の測り方を間違えて何度もベルとすれ違って来たが、その数だけ心を通わせ絆を深め共に歩んだ、ベル・クラネル過激派筆頭にして姉ンジャーズ大隊長のアーディは、すっかり逞しくなった弟の背中をぱしんと叩き、笑顔の大輪を咲かせた。
「貴方がこんな所で終わる男の子じゃないって、私たちに見せ付けて頂戴!」
隣に立つ弟の肩をこつんと叩いたアリーゼは、彼女の冒険を支え続けてきた愛刀、クリムゾン・オーダーを鞘から解放しながら、綺麗な白い歯ととびきりの笑顔を世界に見せ付けた。
「天空を駆けるが如く! この世界に英雄たちの足跡を刻む!」
いつか、隣のアリーゼが熱心に語り聞かせてくれた文句に少し手を加えてみた。どうやらアリーゼにも刺さったらしく、こんこんゴンゴンとベルの肩を叩く叩く。普通に痛い。
なんだか締まらないけれども、こういう方が、我が家らしい。
そのらしさを抱えて。最愛にして最高の家族。正義の女神の子供十三人で。
「「「「「「「「「「「「「正義の剣と翼に誓って!」」」」」」」」」」」」」
少しフライング気味なベルを先頭に、十二人の姉たちと共に、誓いを叫んだ。
同じ女神から恩恵を賜った子供たちの咆哮が、暴れ回る怪物の咆哮を押し潰し、十八階層に迸る。
ここへ来て士気は、最高潮に高まった。
「元気でよろしい! じゃあ行くわよみんな!」
カーンと、高く澄んだ音色がアリーゼの足元から聞こえた。両手で握る愛刀を、足元の岩石に突き刺した音だ。
「この戦場! 私たちアストレア・ファミリアの独壇場にしてやりましょう!」
アリーゼの叫びが轟く。
「っ……!」
その猛々しい叫びから稲妻でも発生しているのかと勘違いしてしまうほど熱く激しい何かが、ベルの脳から背中、手指の先。心も魂も纏めて痺れさせた。
恐怖なんかとうに消し飛んでいる。
こんな土壇場でありながらベルは、憧れの姉たちと肩を並べてとっておきの冒険に挑める興奮に、魂を震わせていた。
「うんっ!」
まだまだ幼さの拭えない返事はアリーゼの隣から。その姿にニッコリ笑顔を見せたアリーゼは、そのままベルに顔を寄せた。
「とは言ってもベルはまだ万全じゃない。最前線に出るのはナシ!」
「でも」
「貴方はここでとっておきを放つ準備!」
「スキルのこと?」
「そ! ベルのとっておきならあいつをビビらせちゃうことも出来るってお姉ちゃんたち知ってるんだから! 私たちが道を作る! 一発どかーんとブチかましちゃいなさい!」
「……うん! 任せて!」
「任せた! リオン! アーディ! 私たちも前に!」
「わかりました!」
「うん!」
「リャーナとセルティはベルの前まで後退! マリューも合流!」
「ええ!」
「はい!」
「わかったわ!」
「アスタはリャーナたちの前に!」
「任せなさいっ!」
「よしっ! ごーごーっ!」
戦闘中であることを忘れさせるような溌剌とした笑みで、リューとアーディと並んで最前線へと突き進むアリーゼの背中を見送り、入れ替わるようにポジションを下げたリャーナたちと合流。
何か言いたそうにこっちに視線を寄越す姉たちと、本当は一言二言くらい交わしたいけれど、それはアイツに勝ってからでいい。
任せてと言って、任せたと言われたんだ。
今は、その期待に応える時だ。
意識を飛ばしている間に使用してくれた
大事なのは、この
ベルお気に入りの魔法は何発撃とうがアイツを沈めるには火力不足。形容し難い痛みと臨死体験を経て叩き込まれた学びだ。
わかっている。今のベルの力では。魔法だけでは。あの怪物の命に届かない。
ならばスキルで上乗せする?
悪くないが、きっと違う。
必要なのは、全てを燃やし尽くす火力ではない。
あの怪物の分厚い皮膚も。その向こうの骨も臓器も。更に奥に潜んでいる魔石も。
全てを貫く一撃が必要なのだ。
「待たせちゃってごめんね」
なればこそ。
「行くよ……」
ベルの相棒、ヴェルフよりも付き合いの長い初代相棒以外に、誰がこの舞台を担えると言うのか。
「『
腰のホルスターから『
「すーっ…………はぁ……!」
仄暗くなってしまった地下世界を静かに照らす『
「っ!」
勢い良く開眼。
「来た!」
「相変わらず可愛い音ね!」
ベルの右手が掴む『
アリーゼの言う、とっておき。
ベルのスキル、『
『
『英雄オッタル』。
誰よりも強いのに誰よりも強さを求め続け、誰と戦っても膝を屈することなく全てを薙ぎ払うあの豪快な姿は、多くの文献や絵本の中に息づく、ベルが憧れた英雄そのもの。
強さというものの絶対性。その高み。
彼から与えられた痛み。苦しみ。恐怖。そして、悔しさ。
それらをベルの心身に叩き込んでくれた彼の豪快な姿も、時々フレイヤたちに弄られて耳をしょんぼりさせている姿も、話してみると結構優しいことも知っている、身近な英雄の後ろ姿に手を伸ばすように。『
「?」
スキルの
吸われている。とでも表現するのが良いだろうか。
経験則から知っている、ベルのスキルの決まりごと。
このスキルは
不思議なことに、
「あ……!」
更に気付く。
「『
白く輝く『
「これ…………そっか……」
その輝きをぼんやりと眺めていたベルが、何かを察して呟く。
ベルが特別冴えている、というわけではないいが。そのカラクリ。そしてこの輝きの意味する所を、ベルは理解することが出来た。
「アルテミス様……」
ベルの身を案じてくれる『友達』が。神匠に託した、思いやりの形なんだと。
* * *
「の、脳筋過ぎるわよ……アルテミス……」
『そうか?』
ヘルメスが用意した
「まあいいわ……一度整理するわよ。口にしたって整理出来る気はしないけれどそれでもするわよ。ベル・クラネルが既に覚えている魔法と、ベル・クラネルがこれから覚える……一度だけ攻撃の威力を凄く高めるスキルだかなんだかを、より強力に出来るような効果をこのナイフに付与したい。そういうことで間違いなかったかしら?」
『ああ』
「意味がわからないっ!」
いよいよ両手で頭を押さえ、ヘファイストスは叫んでしまった。
「ははは……!」
その様を眺めるヘルメスは、愉快そうに笑うばかり。
「どういうことなの!? さっきも言っていたけれど、貴方どうしてあの子がこれから発現するスキルを知っているの!?」
『細かいことは気にしないでくれ』
「全然細かくないでしょう!? 仮に貴方の言ったようなスキルがあの子に発現しなかったらこの武器の本領全てを発揮することは叶わないかもしれないのよ!?」
『心配は無用だ』
「何を根拠に言っているの!?」
『このまま押し通してもいいのだが……ヘルメス。どう思う?』
「んー二人のコントを眺めているのもいいけれど、折り合いが付かないなんて展開になられても困るし、ヘファイストスには伝えてしまおうかな」
「……やっぱり、貴方たちお気に入りのベル・クラネルには、何か秘密があるのね」
「あるとも。とっておきの秘密がね」
『塩梅は貴方に任せる、ヘルメス』
「仰せのままに」
芝居掛かった一礼を
全ては語らなかった。今はその時ではないと感じているから。
ヘルメスが打ち明けたのは、ヘルメス。アルテミス。フレイヤ。そしてアストレア。
この四柱が、ベル・クラネルの未来の姿。その可能性を知っていること。それだけ。
「どうやら本当みたいね」
「なんだ、あっさり信じてくれるんだね?」
「貴方一人の言葉なら信じる余地なんて皆無だけれど」
「さりげに酷いなー」
「フレイヤにアストレアまで知っているとアルテミスが言うのだもの。疑う方が馬鹿馬鹿しく思えてくるわ」
「理解を示してくれてありがたい限りだよ。しかし、今はこれ以上を語れない。他の誰でもない、ベルくんの為に語るわけにいかないんだ。彼の人生を歪めるような真似をしたくない。どうか理解して欲しい」
「焦らしてくれるわね……まあいいわ。何を知ろうともあの子があの子であることは変わらないんだから。ただし。いつか聞かせなさい。絶対よ?」
「約束する。必ず全てを打ち明けるよ」
『ありがとう、ヘファイストス』
「はいはいどういたしまして。話を戻すわよ。貴方たちの言っていた通りのスキルが発現するとして。どうして彼の成長の妨げになりかねない効果を付与しろと言うのかしら、アルテミス?」
『はっきり言おう。彼は弱い。これから幾らでも伸びる余地はあるが、今の彼ではあまりに力不足だ』
「そんな子に自分の力を勘違いさせてしまうような効果のある武器を手渡すのは気が引けるんだけど?」
『彼がただの少年ならば私もこんな提案をすることはなかった。しかし……彼は、どんな相手にだって果敢に挑めてしまう。そういう一面を持っているんだ』
「ああ……なるほど……」
『自分の未熟、弱さを認め、それでも彼は、誰かの為にならと。抱いた夢の為にならと、戦うことが出来てしまうんだ。怖いと感じてしまっていてもだ。現にそのような行いをしたばかりだと言うではないか』
「そうなの?」
「フレイヤ様の所の『
「は、はぁ!?」
ヘルメスの口からさらりと飛び出した
『それは素晴らしいことだと思うが、同時に酷く危険なことでもある。けれど、彼は戦うだろう。どれだけ苦しい戦いでも、そう簡単に諦めたりなど出来やしないだろう。そんな時に必要になるのは、全てを覆すことが出来る逆転の一手。即ち、英雄の一撃だ』
「英雄の一撃……ね……」
『彼が……ベルが、意志を貫けるよう。夢も願いも叶えられるよう。守りたいもの全て守れるよう。ベルの道に立ち塞がるもの全てを貫ける力を与えてやってほしい。頼む』
「…………私の培ってきたもの全てを注ぎ込んだとしても、強力な効果の見返りに、大きなリスクが発生してしまうのは避けられない。それでも構わない?」
『少しでも優しいリスクにしてもらえると助かる』
「そう都合よくいかないわよ…………わかった。やってみる」
『ありがとうヘファイストス……!』
「その代わり。貴方の要望に応えつつ今出来る最高の仕事をしようと思うと……そうね…………甘く見積もっても大体七億ヴァリス程度は値段が跳ね上がってしまうけど、それでもいいのよね?」
『…………も、ちろん……だ……』
「声が小さくて聞こえないわよー?」
当時九歳のお子様も知らない神々の会合の真ん中に響くのは、小さな子供のように大きく口を開けている、ヘルメスのご機嫌な笑い声だった。
* * *
「この光……!」
「スキルにこんな効果なかったはずよね!?」
弟が見せる知らない姿に目を剥くのは、セルティとリャーナ。
姉たちも知る真白い輝きに黄金の輝きがその身を寄せ、手を取り合い踊るかのように戯れ、ついには一つに混ざっていく。
大きく展開していく白銀と黄金の舞踊。その幻想的な光景に見惚れながら、生粋の魔導士でなくともそれに気付く。
「ふ、普通じゃないよこれ……!」
現在後衛に位置しているベルたちを守る盾となっているアスタが驚愕を露わにしている。
ベルを包む輝きが秘めたエネルギーの底が、まるで見えてこない。
あまりに濃密。あまりに規格外。
リャーナとセルティ。二人の魔導士の全力全開を掛け合わせたとしても届き得ないだろうと思わせる程度には、既に力の桁が違う。
こんなもの、とてもLv.2の冒険者が捻り出せる力じゃない。
だからこそ。
「アリーゼちゃん!」
「何!?」
「届く!」
アスタたちの代わりに、マリューが伝えた。
あの怪物をビビらせるどころじゃない。
今のベルならば、あの分厚い身体を貫くことだって叶うと。
「そんな感じよね……! じゃあベルで行く! ベルの
銘々の返事がゴライアスの周囲で炸裂。響く音色と白銀と黄金の粒子を脅威と認めたゴライアスが、ベルに対して牙を剥くも、アリーゼたちが一歩も進ませやしない。
そうだね。この力なら、きっと届く。
言葉なく頷いたベルは、『
今持っている自分の全てをここで使い切ってやると、そう決めた。
その代償として自分が戦闘不能になるだろうことを直感的に理解していて尚、そうすると決意した。
ヒントはあった。
ダンジョン内で
スキルを介した己の魔法の威力が桁違いの破壊力になり、体力と
これまで何度も行使してきたスキルなはずなのに、あの瞬間とそれ以前では何が違っていたのか。答えは単純明快。
『
訓練に於いて一度も『
『
お前の相棒は、こんなことが出来るんだよと。
「頼りになる相棒だ……!」
そう笑い掛け、右手の中で輝きを増していく相棒に己の全てを注ぎ込んでいく。
神匠ヘファイストスが持ち得る全てを注ぎ込んで打たれた究極の武器、『
杖と剣。
そのどちらの特性をも天上の次元に届き、しかも
『
もっと言うならば、ベルのスキルや魔法。ベルの魔力に対しアジャストされ打たれた武器と言ってもいい。
『
ベルが『
短剣の形をしていながら、触媒や杖の役割を果たすのである。
ベルがスキルを行使すれば触媒の役割を担い、スキルの効果をベル本人の器を遥かに凌駕するだけの高みにまで引き上げるだろう。
ベルが魔法を行使すれば杖として機能し、そこらの魔導士が束になって掛かってきても余裕で圧倒出来る程の威力を発揮するだろう。
しかし当然、代償はある。
スキルと魔法の超強化という破格過ぎる効果の代償は、使用者であるベルの体力及び
仮に、『
その場合、『
一撃に全てを賭したとしたら自分は動けなくなるだろうというベルの読みは全くもって正しい。
リターンの膨大さを鑑みてもあまりにハイリスク。気軽に使用することなど出来やしない。
しかも今のベルでは、この効果を任意で発揮することが出来ない。
『
この破格の効果を支える要因の主たる部分は、『
女神アルテミスの無茶な依頼に応えるべく、持ち得るツテと資産を惜しみなく投入し魔法大国アルテナより仕入れたその魔導石は、比肩する物など世界に二つとして存在していないのではないかと言わせるだけの、世界最高品質の魔導石である。
ロキ・ファミリアの副団長、リヴェリア・リヨス・アールヴの愛杖、マグナ・アルヴスに埋め込まれている魔法石が子供扱いされてしまうほどの品質と言えば、どれだけ規格外の存在であるかが伝わることだろうか。
以前にリヴェリアが『
もちろん代替品など簡単に用意できるわけがない故に、仮に『
世界最高品質の魔導石に加え、ダンジョン深層でも滅多にお目に掛かれない鉱石類で基礎を構成。ブレード部には、こちらも超貴重な鉱石類を惜しみなく投入。
そこへ更に、ヘルメスが持ち帰った古代の怪物の素材。アンタレスの爪が投入された。
「現存するどんなモンスター由来の素材よりも扱いが難しかったわ。じゃじゃ馬って言うのかしらね。簡単に思い通りになってやるものか。そんな意地みたいなものを感じたわ」
以前にヘファイストスは、ヘルメスにこんなことをボヤいていた。
神匠の手を焼かせ続ける古代の怪物とヘファイストスの意地の張り合いは三日三晩に及び、誇張抜きで一睡もしなかったヘファイストスは、たった一人で古代の暴れん坊を制してみせた。
そうして打たれた『
触れるもの全てを果てなく傷付けてしまうという圧倒的な暴力性を憂い、鋭さを落とすこともヘファイストスは検討した。
それでもヘファイストスは、強度も鋭さも何もかもを一切妥協せず、何もかもが最高であり最強となるまで鍛え上げた。
彼女の友である女神の祈りに応える為、妥協することを彼女は諦めたのだ。
刃にはその女神、アルテミスの毛髪、及び血液が投入されている。
そうして付与された、月の女神の加護。
女神アルテミスと心を通わせた友達、ベル・クラネルにだけ効果を発揮するその加護は、前述した魔法やスキルの強化に加え、ベルが『
どんな敵を前にしてもベルが戦えるように。決して諦めないだろう彼と最後の最後まで共に戦えるように。
誰かを守りたいと願う少年を守ってやりたいと願う、月の女神の祈りの顕現なのだ。
そしてこれはベル本人が一切知らないことなのだが、刃にはベルの毛髪も投入されている。
ヘファイストスがヘルメスに用意するよう依頼をし、その依頼を彼の派閥の苦労人である団長に丸投げ。丸投げされた団長アスフィは、いつも通りにベルの頭を撫でてやるフリをして、思いっきってえいやっと数本抜いてしまったのである。当然ベルは痛がったし怪しんだけれど、蚊が飛んでいたのでつい手が出てしまったんですヨーなどと嘯いて誤魔化した。純朴なベル少年は一切疑うことなく、ありがとうございます! なんて笑っていた。
その晩のアスフィお姉ちゃん、ちょっとおセンチモード入っていたとかなんとか。真実を知るのはヘルメスとローリエの二人だけ。
しかしその髪の毛が、ベルの魔力にのみ反応する礎となった。
それから今日まで欠かさずに『
そうして今日。その結実が、白日の下に晒される。
この武器と共に戦う者に求められるものは、一撃。
御伽話の中でも見たことがないような一撃を現実に顕現し、全てを穿ち、貫く。
ただの『英雄』の一撃ではない。
ベルと共に『未知なる英雄』の一撃を放つべく『
「二分経った!」
「これでベルのスキルも……え?」
ベルが『
「まだ終わっていない!?」
ベルが握る『
「音が変わった!?」
「鈴じゃなくて……鐘みたいな……!」
姉たちに可愛い音と称された、リン、リンと静かに響く鈴のような音色が。
ゴォン、ゴォォンと高く、そして遠くまで届くような、大鐘楼の音色に変貌した。
未知なる強敵との命の奪い合い。
憧れの
そして、初めて真の力を見せてくれた相棒が与えてくれる高揚感。
それらが
「何処かで聞いたような鐘の音じゃんか!」
「血は争えないってヤツかな!」
「ベルの今の姿を見せたかったなんて私たちが言うのはどうなのかな……」
「いいに決まっているだろう! 穏やかな未来を招き寄せる英雄の到来を誰より願った女だぞ! あの女がこの光景に、胸を高鳴らせないわけがないだろう!」
「ちゃんと持ってるじゃん! 英雄の資格!」
「あとは証明するだけだねっ!」
「それは私たちもよ! あの子が壁を越えようとしてるんだから、私たちがここで遅れを取るわけいかないわ!」
「言われるまでもない……!」
十八階層全域を揺さぶる鐘の音色が、姉たちの戦意を果てなく昂らせる。
その音色の意味する所など、当のベルは考えてもいない。
「…………」
無言のまま。何も考えぬまま。
右手の中で輝きを増し続ける『
「あれは……」
「矢を構えている……?」
姉たちの声も。怪物の咆哮も。自らが放っている音さえもベルの耳には遠い。
ベルは、声を聞いていた。
その声は耳ではなく、心を叩いている。
『半身になるんだ』
「はい」
『もっと顎を引いて』
「はい」
『背筋を伸ばし、胸を開くんだ』
「はい」
『もう少し足を開いて』
「肩幅よりも開いて、外向き?」
『そうだ。よく覚えているな』
「ベル……誰と話してるの?」
「ねえ、ベル!?」
姉たちの声はベルの耳に届いているのだが、それでもベルは心に響く声を求めた。
『両足の先が狙う的に対して一直線になるように揃える。覚えているか?』
「これでいいんですよね」
『そうだ。ちゃんと覚えていたな』
「勿論です」
僕と貴方の、大切な思い出だから。
とは言わず。それでも心で伝えて。
見えない弦を右手で引き、教わった構えそのままに、左手に持ち替えた『
『いい構えだ。少しは様になったじゃないか』
終始抑揚に乏しい声だがしかし。
『流石、私の友達だ』
今、ベルの心を叩いたその声は、喜色を纏い、弾んでいた。
「ありがとうございます」
目の前に集中し続けるベルが、鐘の音と眩い輝きの中、微かに微笑んだ。
「まずい!」
そんなものしるか。と言わんばかり。
正義の娘たちの猛攻にも簡単に膝を折らない黄金のゴライアスが、自分の周りをチョロチョロする連中を振り払いながら、足元に転がっていた岩石を、尋常ではない雰囲気を放っているベルを抹殺するべく、蹴り飛ばした。
直撃したら跡形も残らず弾け飛んでしまうだろう破壊力の岩石が、凄まじい速度でベル目掛けて転がり進む。
「任せてっ!」
その岩石とベルの直線上に、小さな影が割り込んだ。
「こんっのおおおおおっ!」
その影は、小さな身体に装備している大きな盾を構え、突き進んでくる岩石の下へ潜り込んでえいやっと突き上げ、ベルたちから遥か後方へと吹き飛ばすことに成功した。
タイミングや角度の計算だけでなく、恐怖に怯まず立ち向かえる勇敢な心を有していて初めて実現可能な荒技に、その場の誰もが目を見張った。
「やるじゃないアスタ!」
「流石ですっ!」
「えへへー!」
リャーナとセルティに褒められ、ドワーフの女戦士のアスタは、厳つい兜の下で可愛らしく笑った。
「こっちは任せて集中して! ベルには指一本触れさせたりしないから!」
言葉はなく、逞しい姉の姿にベルが返したものは、穏やかな微笑み一つ。
「…………えっ? 今わたしと結婚するって」
「前見てアスタぁ!?」
「岩飛んで来てるわよー!?」
「ベル笑っただけで何も言ってませんでしたよ!?」
「やったあああああああっ!」
「ってすげー! 余所見してるのに飛んで来る岩全部逸らしてるー!?」
「相変わらずベルのバフやっべーわ」
「幻聴でここまでパフォーマンス上がるのもはやなんかの病気でしょ」
「ベルとお揃いの指輪買いに行かなきゃーっ!」
アスタ・ノックス。Lv.4。
「って! しっかり背中通しちゃってるじゃないですかっ!」
「世話が焼けるわね!」
ベルと出会ってから妄想癖的な何かに目覚めしまったらしいアスタが逃した岩石が二つ。
それらを、横殴りの雷と炎が粉砕した。
「危なっかしいんですからもうっ!」
セルティ・スロア。Lv.4。
「本当に危険なのは全て受けている所は流石だけどね!」
リャーナ・リーツ。Lv.4。
「危ないことしないで!」
「ベルに当たったらどうすんだっ!」
機動力とパワフルさ兼ね備えたアマゾネスと
「私の雄に手を出していいのは私だけなんですけど!?」
イスカ・ブラ。Lv.4。
「いつからイスカの雄になったんだっての!」
ネーゼ・ランケット。Lv.4。
「好き勝手言ってないで少し下がって! 回復するわよー!」
仲良く言い合いながらバッチリの連携を見せる前方の二人や、相変わらず勝手に浮かれポンチ全開で喜び跳ねるアスタたちに届いた紫色の光粒が、全ての傷を洗い流す。
「そもそもあの子は、私みたいな歳上のお姉さんがタイプなのよー?」
マリュー・レアージュ。Lv.4。
「それはマリューが都合良く解釈してるだけだと思うけどなー!」
ゴライアスの身体を蹴上り、両目に苛烈な斬撃を加えながら最年長のお姉さんにツッコミを入れるという、いろんな意味で死を恐れぬ芸当に、ゴライアスが怒りの咆哮を上げる。
「吠えられたくらいで今更ビビりますか! ベルに嫌われる方がよっぽど怖いって!」
ノイン・ユニック。Lv.4。
「わかる! わかるよノイン!」
ノインに先行を任せ、ゴライアスがノインを叩き潰そうと大振りになった所を突き、人間ならば手首の腱に当たる部位に集中攻撃。切断とはいかないが、それでもゴライアス左手の動きは確実に鈍くなった。
「ベルに拒絶されるあの苦しみを君も味わってみるといいよ! ゴライアスくん!」
アーディ・ヴァルマ。Lv.4。
「モンスター相手に何言ってんだお前ら!」
勝手放題言いながら切り刻んでくる冒険者たちにゴライアスが怒りの咆哮を上げると、その時を待っていたと言わんばかりにアスタよりも小さな女戦士が飛び上がり、彼女お手製の手投げ弾をゴライアスの口に放り込んだ。ゴライアスが吐き出すより早く炸裂。怪物の下顎周りが綺麗さっぱり吹き飛び、体液や肉片を撒き散らした。
「効いてんだろうけどやっぱ再生しやがるかー! 美味しいとこはお前にくれてやるからよ! なんとかしてみせろよな! 末っ子!」
ライラ。Lv.4。
「『禍つ彼岸の花……』」
「『何者よりも疾く走れ。星屑の光を宿し、敵を撃て!』」
ゴライアスの怒りを買ったライラを叩き潰そうと、ゴライアスの両手が迫る。
「『ゴコウ!』」
「『ルミノス・ウィンド!』」
ゴライアスの両手は、ライラに触れることを許されなかった。
右手は手首を切り落とされ、念には念をと言わんばかりに全ての指も、魔力の斬撃に纏めて切り裂かれた。
左手は、爆砕とでも言うべきか。緑風を纏う魔力の砲群が手首から先全てを灰と化した。
喧嘩するほどなんとかを体現しているかのようなヤツらが怪物の両手の自由を奪ってくれると信じ切っていたライラは悠々と着地をし、ゴライアスから距離を取った。
「厳つい見た目の割に脆いな! 何処ぞのお子様の方がよっぽど殴り甲斐があるぞ!」
ゴジョウノ・輝夜。Lv5。
「ベル! 私たちに見せてください! 貴方だけの光輝を!」
リュー・リオン。Lv.5。
「って! あいつ! なんか様子おかしいぞ!?」
最初に気付いたのは、ライラ。
顎周りの修復が、ライラがこれまで観測して来た修復より早い。
その上何やら、力を溜めている様子にも見える。
「
リヴィラを壊滅させ、盾越しにベルの指を粉々に砕いたあの一撃をもう一度叩き込もうと、ゴライアスは再生を急ぐ。
「『アガリス・アルヴェシンス!』』
その再生に、花が添えられた。
燃え盛る、紅蓮の大花が。
「
怪物の足下で開いていく大輪の真ん中。
「行くわよ!」
焔の花に負けない笑顔の華が咲く。
右手の愛剣も自分自身も燃やすその笑顔の持ち主は、特大の一撃を今正に放とうとしている眼前へと思い切り飛び上がり。
「『
燃え盛る豪炎の一撃をブチかました。
『オオォオォォォッ!』
修復の過程にありながら講じようとしていたゴライアス渾身の攻めの一手は、己の首から上の全てを焼滅させられるという形で、真正面から叩き潰された。
「さあ! 道は作ったわよ!」
アリーゼ・ローヴェル。Lv.6。
とても新進気鋭の勢力などと呼べない戦力を得た、正しく少数精鋭を体現するアストレアの娘たちが、弟が行く花道を綺麗に舗装してくれた。
「ベル様っ!」
時宜がいいと言わざるを得ない。
さあこれからと前のめりになるアストレア家の遥か背後で、多くの声が聞こえた。
「生きてやがったかあのガキぃ!」
「この音はなんなんだ!?」
「ベル様が無事だったのは嬉しいですけど! なんですかあれぇ!?
「ベル殿のあの輝きは!?」
「凄まじい魔力だ……!」
「ベルさん! 頑張れーっ!」
ベルに囮役を任せ、多くの冒険者たちを生かす為にダンジョンを駆け上っていたリリたちが、ベルを迎えに来たのだ。
「これが……ベルと『
その輝きの正体を看破している鍛治師は、改めて自分の相棒の力と、自分が憧れている女神が託した白いヤツの力に手指の先も心も魂までも震わせ、その光景に瞳を輝かせていた。
「クソっ……!」
遅れて、それは沸々と湧いてくる。
「リリスケぇ!」
震える手をグッと握り込みながら、ヴェルフが吠える。
「は、はい!?」
「今回が最後だ! 俺たちがここにいるのは!」
「ヴェルフ様……」
「もう二度とここには立たねえ! そうだろ!?」
「……ええ。これから先、どんな戦いだって」
唇を噛みながら、ヴェルフと同じ思いに胸を焼かれるリリは頷いた。
「ブチかませ! ベルっ!」
「やっちゃってくださいベル様ーっ!」
こうして背を見守るのではなく。
背中を押すことしか出来ない今を糧に、いつだって肩を並べ、共に戦えるように。
走り続けるベルと対等であるんだと。
揺るぎない決意を新たに宿した鍛治師と
背中を押してくれる仲間たちの声は、微かにではあるけれど、ベルに聞こえていた。
ありがとうみんな。
後は僕たちに任せて。
その思いさえ左手の中の『
すると、ベルの近くにいる姉たちが、変なことを口にし始めた。
「うそ……」
「あ、アルテミス様……?」
セルティとリャーナには見えた。
ベルの隣に立ち。鏡で写したかのように同じ構えを取っている、美しい女神の姿が。
彼女たちが見ている幻と同じ幻の鼓動を、ベルも感じている。
その幻に目を向けることなどしない。
今はただ、前を向くのみ。
ここへ来て、大鐘楼の音色は最高潮。
大きく育った『
目を焼かれてしまいそうな輝きの中。『
貴方と共に。
アルテミスが望み、ヘファイストスが掘った
月の女神の祈りと願いを形にした
果てのない純白の抱擁に包まれ『
「三分……!」
三分。
生死を分つ世界に身を置いて成長を遂げたベル・クラネルという器が新たに許された、英雄へ至る為の助走の時間。
三分、溜めに溜めた。
後はもう、飛び立つだけ。
「来た!」
「みんな離れてっ!」
自分たちもベルの背後へと慌てて移動したアスタとマリューが叫ぶと、アリーゼたちは即座に散開。
ベルの前に立つ者は、棒立ちで再生を急ぐ怪物ただ一体のみ。
「お願い、いいですか?」
再生を終えようとしている怪物に目を向けたまま。独り言のように、ベルが呟く。
『聞かせてくれ』
「僕に力を……いえ」
違う。そうじゃない。
離れていても共に生きる。
そう約束した僕たちなんだから。
「一緒に戦ってください……!」
離れていても、共に戦うんだ。
『ああ。共に行こう!』
声の続きはもう聞こえない。それでいい。
「すーっ……」
鐘の音色を自分にまで届けてくれた、ベルに流れる、赤き血。
自分自身と家族。仲間。憧れの冒険者たちと共に鍛えた、純白の輝き。
神匠と友が託してくれた、英雄へ通ずる、黄金の片道切符。
ともすれば喧嘩してしまいそうな色々全てを一つに束ね、生まれたのは透明という名の、鮮やかな混色。
この透明な輝きと鐘の音色が、産声。
ここから始めるんだ。
本当の冒険を。
相棒と行く、最高の冒険を。
誰かの『オリオン』になることのなかった『
過去も未来も現在も違う世界にも。彼を取り巻く全ての世界に届くような。
「ふっ!」
声無き極光の咆哮が、全てを幻想的に染め上げた。
* * *
地上。とある山中。
山間の村々にモンスターが進出して来ている。対処願うとの要請を受けたその派閥は、今日も今日とて愛馬と共に、怪物退治を承っていた。
「どうかしましたか?」
ほぼ一方的な殲滅劇の最中。その女性の変化に最初に気が付いたのは派閥の団長、レトゥーサだった。
「戦っている」
「団員たちでしたらまだ戦闘中で」
「わかるんだ。何処かで、戦っているんだ」
蒼き髪を揺らし、木々の向こうに見える空へと手を伸ばす。
「世界の何処にいても、何処で何をしているのかわかる冒険者になる、か……」
その手指の先には、都がある。
冒険者たちが集う、英雄の都が。
「約束、守ってくれたのだな」
「増援です! 山頂方面から下って来ています!」
「やはり山頂近くに根城を構えているか! 厄介な所に拠点を作ったものだ! 我々も前に! よろしいですね!?」
「ああ。一匹たりとも逃すな」
「はい!」
指示を飛ばす横顔は、ここではない何処かに心を惹かれている。
どうやら、せっかちな彼は、再会を待たずに約束を叶えようとしてくれるらしい。
「……負けていられないな」
いつまでも呆けていては、追い付かれてしまう。
彼は、敏捷が売りの冒険者だから。
「離れていても共に生き……共に歩み……」
「後ろです! アルテミス様っ!」
伸ばしていた手を下ろし、自らが最も得意とする武器に指を掛ける。
「共に戦おう!」
きりりと表情を引き締めた女神の一矢が、無粋にも女神の肢体に触れんとする怪物の眉間を穿ち、貫いた。
* * *
地下世界に昼が。いや。
太陽が、地下に落ちて来た。
今のベルに放てる最高の一矢は、音速など軽々凌駕。その超常の輝きが地下世界を果てのない白に染め上げたのも一瞬。一転してやって来る、残された水晶たちが陽射しの残滓を吸い込んで完成した、月星の煌めきを思わせる静謐な夜。
結果を目撃出来たのは、陽が落ちてからのこと。
「ど、どうなったの……!?」
「あ……!」
目を焼きかねない輝きの残光と耳を壊しかねない爆音の残響に神経を撫でられながら、正義の娘たちが作った花道を見上げる。
「ゴライアスの胴体が……」
「空っぽに……!」
全てが終わっていた。
花道の真ん中に佇むのは、自らの死を知覚出来ているかも怪しい、黄金の怪物。
間違いなく
『ガッ……ァ、オオォォオオオォオオ……!』
自らの身体が抉られ、綺麗さっぱり消滅させられたことを理解したゴライアスが悲鳴を上げるが、それも長続きせず。
『ォオオオ……オッ……!』
大地に膝から頽れ、凄まじい量の土砂を巻き上げながら、ゴライアスの全身が灰へと返っていく。
丁度十五分が経過したのか、漆黒へとその身体を染め直しながら。
がらりと大きな音が鳴る。今思い出したかのよう、ベルの一矢が貫いた天井の瓦礫が落ちてきて、死の淵で踠く怪物に降り注ぎ、土砂と灰を巻き上げた。
輝夜とリューに破壊された両手の再生は終わっていたらしく、残骸の下から太く長い指が伸びているが、それもまた灰へと還っていく。
そこからころりと、ちゃんと持って帰れよと伝えるみたいに、大きな何かが落ちた。
ゴライアスのドロップアイテムだ。
ここに、勝敗は決した。
その残骸、その戦跡に誰もが言葉を失くしていると。
「…………」
「ベルっ!?」
矢を放った姿勢のまま彫刻のように固まっていたベルが、前のめりに倒れた。真っ先に反応したのは、ベルの直ぐ後ろにいてくれた、アスタ。
「おっと!」
兜を脱ぎ捨てながら、すっかり自分よりも大きくなってしまった末っ子の身体を受け止め、そして抱き締める。
「はっ! こ、これが伝説の……新婚初夜!?」
「アホ言ってんなアホドワーフ」
「いたーいっ!」
ネーゼに後頭部を小突かれ、頑丈な女戦士さん涙目。とろりと蕩けたお顔が崩れていないあたり、痛くて泣いているのかただの感涙なのかわからないのがおっかない。
「大丈夫!? 私たちがわかる!?」
ニヘニヘと歪んだ笑みを浮かべるアスタの上で項垂れる弟に顔を寄せ、アリーゼが叫ぶ。
「……み」
「み? み、何!?」
「み……んな……無事……?」
この勝利を手繰り寄せた誰かさんが最初に問うたのは、怪物の末路でも、自分の具合の報告でもなく。誰かの安寧だった。
「無事よーっ!」
「うべっ……!」
「ベルのお陰でね!」
胴はアスタが抱き締めているからとアリーゼはベルの首の後ろに両手を回し、思いっきりベルを抱き寄せた。変な姿勢になったり呼吸路を圧迫されたりで、ベルの喉から変な音が溢れ落ちる。
「団長そこ退いて」
「ベルは私に抱かれるのが一番嬉しいんだからー」
「っていうかすごかったじゃん今の!」
「ゴライアスの魔石ごとバチコーン貫いちゃってさあ!」
「Lv.2が出していい火力じゃないよ!」
「硬い皮膚ごと魔石を貫くとは……」
「団長の火力も馬鹿だけど、末っ子の火力も馬鹿だったとはな」
「見ての通りリスクは大きいですけど、リターンも計り知れないですね!」
「ま、私たちが鍛えたお陰だよねー!」
「やるようになったじゃんかよー」
ベルを真ん中に出来た小さな輪から溢れ出す笑声の渦。
「ベル様……ご無事でよかったっ……!」
「本当にやりやがった……ベルのヤツ……」
「ベル殿はやはり凄まじい御仁ですっ!」
「な、何が起きたのかわからなかった……」
「俺もだ……」
「マジかよ……」
「あの怪物をLv.2が……」
その輪の外には、安堵や興奮や驚愕を隠さない仲間たちの姿。声は聞こえていたけれど、改めて無事な姿を目にすることが出来て、ずっと胸の中に広がっていた暗雲が全て散った。
「そっか……勝ったんだ……」
歓喜の輪に身を浸してようやく、己の一撃が、一人では勝てなかった怪物の命に届いたのだとベルは理解した。
まともに身体は動かないし、なんなら依然としてダンジョンの中にいるが、少しくらいは浮かれたいものだけれども。
「……あの」
「うん? なぁにベル?」
「しゅ、集合……」
集合。それとちょっとお静かにと、姉たちの真ん中で右手を高く掲げてアピール。なんだなんだと顔を寄せる家族たち。リリたちもそろりそろりとその輪に身を寄せる。
「えっと……」
まだ、全てが終わったわけじゃない。
* * *
「何の素養もないおのぼりさんだと決め付けていたが、認識を改めざるを得ないな」
砕けた多くの水晶の組成がゆっくりと再構築されていく、十八階層の東端。
「まさか、これほどのものが見られるとは」
神威を隠し。その美貌もフードの下に隠している女神イシュタルは、笑っていた。
「思うよりもずっと愉快な玩具じゃないか。居座った甲斐があるというものだ」
極めて愉快そうに、口の端を釣り上げていた。
「お前たちもそう思うだろう?」
主神の問い掛けに答えを返す者は一人としていない。
ベルよりもランクが上である団長のフリュネも。アイシャも。誰も彼もが。ダンジョンデビューを果たしたばかりらしいLv.2の冒険者の放った一撃に、息を呑んでいた。
「ま、るで……」
その輪の隅で、春姫が囁く。
「御伽話の……英雄様のよう……な……」
彼女はイシュタルに命じられ、ゴライアスに掛けた魔法の効果が切れる毎に掛け直し続けた。これ以上はと拒んでも、イシュタルの命を受けた派閥の団員たちの手で無理矢理に
休むことなど許されず、自分の限界を越えての酷使を強要されていた春姫は今も、レナ・タリーと言う名の団員に背中を支えてもらい、ようやく立つことが出来ている。
彼女の顔は病的なほどに青ざめていて、どれだけ拭ったとて消え失せない多量の汗に今も不快感を煽られ続けていた。
「ふむ……」
今にも倒れ伏してしまいそうな春姫にも他の眷属たちにも目を向けず、何かを思案し始めた様子を見せるイシュタルに、アイシャが怪訝な目を向ける。
縛りは多そうだが、あの玩具は想定以上の戦力を有している。
延いては、アストレア・ファミリア。
正義感なんて虫の好かないものに傾倒している哀れな娘たち。
ヤツらは大抗争の折にでも
そうしていつの間にか、フレイヤロキ程の高みへは届かずとも、決して見劣りするよう映らないだけの華と力を付けてしまった。
それだけならば可愛いものなのだが、昨今はあのクソ
「…………変えてみるか」
諸々を織り込んだ上で、指針を定め直した。
目標は変わらない。
そこに至るまでの道程に、軌道修正を図る。
「変える? 何の話だい?」
「やり方をだよ、アイシャ……」
食い付いてきた眷属に答えながら、イシュタルは微笑んだ。
「ふふ……ふふふふふ……!」
蠱惑的に映るその笑みは、悪巧みをしていますを隠すつもりなど微塵もないらしい。
「さて、撤退だ。有意義な散歩に」
「全員中へ戻れっ!」
愉快そうに眷属に語り掛けているのに、それを遮るアイシャの一括。
その意味をイシュタルが理解するより早く。
「!」
何かが弾ける音がして、同時に広がった眩い輝きに、イシュタルと眷属たちの動きは止められてしまった。
「突入!」
覚えのある輝きから両目を守りながら、アイシャはその声を聞き逃さなかった。
「大体二十人!」
「アンドロメダの報告通りです!」
アイシャたちの目を焼いたのは、少し前に苦汁を舐めさせられた物と似た性能を有しているらしい、閃光弾。
それを放ったのは。アイシャたちが身を隠していた通路に飛び込んで来ようとしているのは。
「アストレア・ファミリア……!」
ヤバい。
最悪、終わる。
内心で舌を噛みながら、誰よりも早く奇襲に気付いたアイシャが抜剣。なりふり構っていられる場合ではない。
「ちっ……!」
両目を抑え背を丸くしている春姫に目を向けて舌打ちを一つ。
流石に酷使をし過ぎた。もうただの一度も魔法の行使など出来やしないだろうし、そもそも詠唱の隙をこの女戦士たちが与えてくれるわけもない。春姫の力は頼れない。
向こうはこちらを殺すような真似をしたがらないだろうが、こちらは殺す気でやらねば、全員捕縛も大いにあり得る。
「アストレア・ファミリアの奇襲だ! 全員武器を取れ! とにかく後退しろ! 着いてくるなら扉を閉めて出られなくしてやればいい! 前に出る必要はないよ!」
「聞こえた!? アリーゼ!?」
「ええ!」
機転を効かせ、退路が奪われる可能性を正義の娘たちに仄めかせながら自分は前に出る。
「フリュネっ!」
「団長に命令してんじゃないよぉ!」
そうは言いながら、アイシャと並んで最前線に巨女が立つ。極めて危険度の高い状況にあることを理解している彼女もまた、二度目はないと言わんばかりに両目を保護し、既に応戦可能な状態を作っていた。
「姑息な真似してくれんじゃねぇか!」
「いいから撤退だよサミラ!」
「ヤバいよ! 春姫隠して隠して!」
「無駄口叩いてないで動けレナ!」
「ごめーん!」
文字通りに無駄、と言うより泣き所の名前を口にしたレナへ叱咤を飛ばし、アイシャは駆ける。
そして、己の耳を疑った。
「春姫だと……!?」
何故か、その名に反応した女戦士がいる。
その戦士は、艶やかな着物を纏っていた。
「ん?」
その女戦士の反応に反応を示したのは、アイシャだけではなかった。
「なんだ?」
フードの下で目を細めている女神。イシュタルもまた、それを聞き逃さなかった。
「くっ!」
「輝夜!?」
「先走んな!」
「わかっている!」
アリーゼもライラの言葉を聞きながら、それでも思いっきり飛び出す輝夜。早速立ちはだかるのは、最前線に立つ二人。
「舐めんじゃないよぉ!」
「あんた一人でやろうってのかい!?」
フリュネとアイシャ。イシュタル・ファミリア最強格の二人と交戦開始。
「こいつ……!」
「やるじゃないか!」
フリュネとアイシャが繰り出す凶悪な攻撃全てに対応してみせながら、彼女たちの向こうにいる人物たちに意識を割く輝夜。
「違う違う違う違う……あれか……!」
甲高い金属音を掻き鳴らしながらフリュネの剛剣を受け止めた輝夜は、確かに見た。
聞き及んでいる特徴全てと合致している。
もう間違いない。
着物を纏ったあの娘は、
「扉を閉める。入れなかった者の今後には関知しない。精々必死になれ」
その春姫の更に後方にいるフードを被った女の声が、イシュタル・ファミリアの面々の心胆を冷やした。
やると言ったらやる。
あの女神は、躊躇わずに自分たちを見捨てる。
「後退だ! フリュネっ!」
「アタイに命令するなって言ってんだろぉ!」
女神に言われずとも必死に戦うアイシャとフリュネ。そこに幾人かの団員が加わり、妙に鼻息の荒い極東の女戦士たちの足留めに掛かる。
「クソっ……!」
「輝夜! 深追いはダメ!」
アリーゼの忠告も聞かない輝夜の猛攻に敢然とフリュネが立ちはだかり、輝夜よりもランクが低いにも関わらずどうにか食らいついてみせるアイシャの奮闘。
「本当に閉めてやがる……!」
そんなもの知るかと言わんばかり。ゴゴゴと音を立て、
「おおおおおおっ!」
文句も泣き言も何の足しにもなりやしないと理解するアイシャは、とにかく剣を奮った。
「おらあああっ!」
フリュネも同様。この場を凌ぐために全霊を尽くしている。
「そこを退けアバズレ共!」
遠慮ない斬撃に遠慮ない言葉を乗せ、輝夜が吠える。
「輝夜ここまでよ! 輝夜っ!」
「くっ!」
その猛剣が、ぴたりと止まった。
一人先走る輝夜を羽交締めし、アリーゼが動きを止めたから。
「ここだ!」
「覚えてやがれ生意気な不細工共! お前たち全員アタイがグシャグシャに踏み潰してやるからよぉ!」
その最初で最後のチャンスをアイシャとフリュネは逃さなかった。
ゆっくり閉じていく扉の隙間へ、ほとんどスライディングのような格好で強引に滑り込むことに成功を果たした。
「はぁ……はぁ……!」
「よく間に合った。大したものだ、お前たち」
「……色々言いたいことがあるよ、イシュタル様」
「帰ったら聞いてやる。お前が、私に言えるのならばな」
汗だくのアイシャに睨まれてもイシュタルは顔色一つ変えやしない。他の団員たちも何も言えずにいる中を堂々と歩き、懐から取り出した
「充分楽しんだ。収穫もあった。
まだ息を整えられないアイシャとフリュネも、相変わらず死人みたいな顔色をしている春姫も、他の団員たちが何か言いたそうに自分を見ていることも全てに関心を示さず。何事もなかったかのように、イシュタルは一人進んでいく。
収穫があった。あの玩具周りだけではなく、想像の埒外から、使えるかかもしれない情報を手に入れることも出来た。
「急げよ、お前たち。素晴らしい夜がお前たちを待っているぞ……ふふふふ……!」
立ち昇る紫煙の向こうに見える横顔の妖艶さに眷属たちが覚えるものは、恐怖以外の何ものでもなかった。
* * *
ゴライアスは、誰かに強化されていた。その強化を施した誰かは、恐らくこの階層の東方面の何処かにいる。
集合を掛けたベルが、姉たちに伝えた内容である。
「チビスケからも同じ報告を受けてるが、根拠は何かあんのか?」
あくまでリリのことをチビスケ呼ばわりする
ゴライアスが纏っていた光が消えた瞬間が何度かあった。その度にゴライアスは光を纏い直していた。ゴライアスの光が消えるまでの時間を計ってみたら、約十五分だった。詠唱らしい何かをゴライアスがしていた様子もないし、なんならゴライアス自身がなんだこれ? みたいな反応も見せてたし、間違いないと思う。
「私が最初に十八階層に到着して間もなく、ゴライアスの光が消えた。その直後にまた光を纏っていた。死に掛けのお子様の介抱を優先したもので考察も深入りも控えたが……」
「光って消えての瞬間があったのはそういうことだってのですね……」
死に物狂いで走り回りながらも情報を集めていたベルをダダ甘系お姉ちゃんのアーディやアスタなどがすごいすごーいいい子いい子ーと甘やかす横で、ベルの報告と自分たちの見たものに齟齬がないことを認めた輝夜とリューがやおらに頷く横から、ライラが話を前に進める。
「何が目的かは知らねーけど、ゴライアスを強化していた誰かは、ゴライアスが強化されている様子を見ていたのは間違いねぇ。だとしたら、そいつらが撤退するなら……アリーゼ?」
「聞きたいことが山ほどある。行くわよ」
ベル発案の作戦行動の果てにアストレアの娘たちが見つけたのは、明らかに人工的に造られた通路。その中から顔だけ出してゴライアスを観察していたらしい、イシュタル・ファミリアの団員たちであったと。
「アンドロメダの報告通りでした。姿は確認出来ませんでしたが、あの一団の中には女神イシュタルもいたのでしょう」
「目深にフードを被った色っぽいねーちゃんがいた。アレだろうな」
「この騒動を引き起こしたのは間違いなく彼女たちです。ギルドに報告しますか?」
「シラを切られておしまいだし、そもそも少しの罰則なんて気にする派閥じゃないわ。ギルド側もイシュタル様たちには強く出れないみたいだし、報告するだけ無駄でしょうね」
押しても引いても蹴っても殴っても開きやしない金属製の扉の前で、イシュタルの娘たちに逃げられてしまったアストレアの娘たちが集まっている。
ベルとリリやボールスたちは置いてきた。そもそもベルは一人で動ける状態ではない。護衛役としてリリたちに付いてもらっている。
「……それで? 聞かせてくれる、輝夜?」
少しの非難とそれを上回る心配を瞳に宿したアリーゼが、何か言いたそうにしているリューを背中に隠し、真正面から切り込んだ。
「……ベルたちを置いてきて正解だった」
「どういうこと?」
「
「
「そうだ」
「それであんな無茶を……」
「だったら
「伝えるな」
「なんでって……あー」
「なんとかするんだーって一人で無茶する未来が見えるわねー」
「ベルも知っちゃったとしたら二人纏めて余計に突っ走っちゃいそうだね……」
「色々と厄介な相手だ。
「元々仲良し小好しでもなんでもないけどね」
「今直ぐにどうこうするのは不可能と見ていい。妙案と、何かきっかけが必要となるだろう」
「きっかけって?」
「それがわかれば苦労はない」
「ですよね」
「何れにしても……」
握った拳を、無体を働いた者たちを向こう側に隠してしまった扉に叩き付けた輝夜は。
「少々面倒なことになりそうだ」
強く香る悪い予感に眉根を顰めた。
* * *
「んー」
背を逸らしながら、緩やかに息を吸い込む。心地の良い夜風がベルの着ているシャツの中に滑り込み、好き放題にベルの身体を撫でてはさらりと何処かへ飛んで行ってしまった。
「気持ちの良い夜だなぁ……」
「にゃー」
煌々と輝くまんまるお月様がベルとシロを見下ろす中庭。今夜も今夜とてベルは、『
「みゃ」
「うん。この前はこの子に無理させちゃったから。ちゃんとご機嫌を取っておかないとね」
いつまでやってんの、とでも言いたげなシロに澱みなく答える脇で、そうだそうだ良きに計らえーと言わんばかり、刀身の傍らに置かれている鞘に刻まれている矢尻の装飾が、月明かりを反射してきらりと輝いた。
ゴライアスとの死闘から、三日が経過した。
その足で向かったというか無理矢理連れて行かれたのは、ディアンケヒト・ファミリアが運営している治療院。
「久しいですね、ベルさん。以前に会った時よりも背が伸びましたね」
その治療院を支える屋台骨。数年前に縁が出来ている少女、アミッド・テアサナーレに身体の具合を診てもらうなどした。
「ところで。貴方は最近、ミアハ様とのご縁が出来たそうですね。それでしたら是非私もああいえなんでもありません少々エリスイスの話でもしようかと思っただけですええ本当にだからあまりこちらを見ないでくださいはい」
かくかくしかじかあって既に数年来の付き合いとなるアミッドが妙に早口になったことが気になるけれど、それどころではなかったベルは運び込まれた寝台の上にて一夜を明かした。
翌朝には退院を認められたベルは、迎えに来てくれたアリーゼやリューたちにお願いをし、ヘファイストスの元へ向かった。
「そう……一つ、壁を越えられたのね」
ベルの表情や『
「本当ならばその子を託した私には、その子の持つ力の全てを伝える責任があるけれど……もう伝える必要もなさそうね。これからも何も変わらないわ。貴方がその子を理解し、信頼を託し合い、共に歩んで行く。その子の力を発揮するのも、その子の力をお休みさせてあげるのも、貴方の意思一つ。その意思を、これから何度だって示してあげて。そうしたらその子も、貴方の意思に応えてくれるから」
初めて出会った頃と変わらない輝きを取り戻した『
その日の夕方には、フレイヤの元へ足を運んだ。
「おかえりなさい……!」
ベルが何か言うよりも早く、ベルの身体を思いっきり抱き締め、フレイヤはベルの肩に顔を埋めた。
「ただいま……フレイヤ様……」
いつの間にこうも心配性になったのかな、なんてほんのりと考えながら、無事の帰還を誰よりも喜んでくれた母の背中に腕を回し、二人で一つの影を作った。
その晩はフレイヤたちの
朝にはヘグニや他の団員らに聞かれたので、フレイヤに伝えた内容と相違ないものを、フレイヤの子供たちにも伝えた。
「オッタルさん! ありがとうございました!」
オッタルとすれ違った際には、彼に向けて大声での感謝と深い礼をした。
「?」
いきなり感謝を告げられたことがまるでピンと来なかったらしく、怪訝そうな表情を浮かべるオッタルなんて珍しいものが見られたと、その場に居合わせていたヘイズらはクスクス笑い、休養日でも慌ただしく過ごしているベルを送り出してくれた。
その足でヘスティアやタケミカヅチやミアハらに会いに行き、帰還の報告と感謝を伝えた。
豊穣の女主人にも顔を出した。
ベルを抱き締めて離さない困った姉、シルに絡まれながら、数日したらまたお手伝いさせてくださいとミアたちに告げた。あんたの好きな時に来たらいいさと、豪快に笑ったミアに背中を小突かれた勢いそのままに店を飛び出し
それ以降は
いつも通りに早起きをし、いつも通りに館のあれこれに精を出し、しかし訓練はほとんどせず。座学に精を出すこともせず。気儘に流れていく空を眺めるばかりだった。
訪問者も多かった。
リリとヴェルフ。
アスフィとローリエとヘルメス。
「よかった……本当によかった……あぁ……無事で何よりですよベルっ……!」
アスフィは、館でのほほんとしているベルの姿を見るなり深い深ーい溜息を吐き出しながら安堵の表情を浮かべ、次には何故か、ベルの髪を両手でわしゃわしゃーっと掻き回した。
「わ、私も……いやいやいやっ……くぅ……!」
その様を羨ましそうに眺めていたローリエさん、アスフィの真似をしようと試みるも勇気が出なくて断念。彼女の幸せはまだ遠い所に位置していそうだ。
姉たちが不在の時間や友人らの来訪がない時間は、アストレアとひたすら語らっていた。
ステイタスの更新もしてもらった。特に耐久と敏捷の伸びが鋭く、その他のステイタスの伸びも過去最高値を記録したのだが、ランクアップにまでは至れなかった。
「今回の冒険は貴方にとって、向上したステイタスみたいに数値化など出来やしない部分に多大な成長を齎したものになったのだと思う。それがランクアップの礎になることでしょう。何はともあれ、無事に帰って来てくれてありがとう、ベル。ところで今夜は、貴方が時々フレイヤとしているみたいに、同じ寝台で私と眠りましょう? いつもフレイヤばっかり特別扱いされていてズルいもの」
真面目な話もそこそこに飛んできた突飛な提案にさぞ驚いたし、そのまま押し切られそうになってしまったけれど、ベルとアストレアのイチャイチャの波動を感じ取った姉ンジャーズの幾人かの帰宅によってお転婆なアストレアママの目論見は失敗に終わった。
その翌日。今日は本当に何もしていない。誰の来客もなく、アストレアも含めて家族たちは全員不在。
館の掃除に精を出すにも日頃から綺麗に保っているもので頑張り所は大してなく。
ただひたすらにぼけーっとしているだけの一日を満喫していた。
「それにしても……みんな遅いね」
「にゃ」
『
ダンジョンへ潜るなど
「なんかあったのかなー」
夕飯の仕込みも既に終えているような時間になるまで誰もいないなどほとんど記憶にない。努めて考えないようにしていたが、心細いよりもいよいよ心配が勝ってしまっている。
「んーごめんシロ、留守番お願い」
「みゃ?」
「みんなを探してく」
「ただいまーっ!」
「る……必要なかったみたい」
「んにゃ」
『
「ただいま、ベル」
「おかえりなさいアストレア様! って、みんな一緒だったの?」
「そうなのよー!」
どかーんと喧しい先頭のアリーゼの後方には、アストレア家全員の姿があった。
「遅くなってごめんなさい。
「なるほど!」
三ヶ月に一度、オラリオに属する神々がバベルの三十階の大広間に一堂に介して開催されている、
情報交換と言いつつ神々の神々による神々の為の暇つぶしが主だっている席ではあるが、特に冒険者たちにとって、
「それでね、ベル? 今回の
「何がです?」
「貴方の二つ名」
「ほんとですか!?」
「ええ」
途端に沸き立つベルに微笑みを向けるアストレアたち。
本来ならばベルの二つ名は今回以前の
「あの子は冒険者になり、器の昇華も果たした。けれど、あの子の冒険はまだ始まっていない。だから、あの子の二つ名を決めるのはまだ待って欲しいの」
ベル本人とアストレアが望み、アストレアが神々に頼み込んだことにより、ベルが輝夜に一撃を入れて冒険者として本格始動するまで、二つ名は付けないでおこうと決めたのだ。
ベルが初のダンジョン挑戦を終えて以降初の開催となる
実は内心、いつかカッコいい二つ名を付けてもらうんだ! と期待をしていたベルくん待望の時がやって来た。
「
ごくりと、ベルの喉が鳴る。
「『
「リトル……ルーキー……」
落胆はない。けれど嬉しいかと言われたらうーんな感じなもので、ベルのリアクションは中途半端なものになってしまった。
「あーわかる! なんかこう、無難だよね」
「これでもいい方なんだけどな。神様たちのセンスが爆発した時なんてもっと酷い二つ名になることだってあるんだから」
「ベルと同じで今日決まった
「え? 何?
イスカ、ネーゼが理解を示し、ノインが
「その話は置いといて! 簡単な話よベル! もっとカッコいい二つ名が欲しいのなら、頑張ってランクアップして二つ名を変えてもらえばいいのよ!」
「簡単って、簡単に言わないでよアリーゼさん……」
「何しても、お前ががやるべきは変わらない。そうだろう?」
「……うん。そうだね」
強くなる。憧れや願いを形にする。
その積み重ねの果てに、付いてくるものもあるだろう。
輝夜の言う通りだ。やるべきことは、何も変わらない。
「さ! 話も纏ったし! 早速お見せしちゃいますかー!」
「見せるって?」
「じゃーん!」
「お! わ!?」
ずずずいっと、ベルの眼前に何かが迫る。
それは白くて、大きくて、ほんのりと甘い香りを放っていた。
「これ……何?」
「ケーキ! ベルの二つ名決定のお祝いにって、デメテル様が作ってくれたの!」
蓋の開かれた大箱の中に鎮座するのは、二段重ねの真っ白なケーキ。
「なるほど……」
「ベルでも食べられるよう甘さ控えめにしてくれているそうですよ!」
「ほんとに? 嬉しいなあ……!」
「明日にでもお礼を伝えに行きましょうね」
「うん!」
セルティとリューに言葉を返す頃には、頬の強張りは溶け落ちていた。
「さて。少し遅くなってしまったけれど、先ずはみんなでご飯をいただきましょうか」
アストレアの言葉に意を唱える子供は、一人もいなかった。
「『
「もっと可愛い名前がいいのに」
と、何処かの美の女神様が頬を膨らませてぶーたれていたとかなんとかあるものの。
遅刻にも程があるダンジョンデビューを果たした冒険者の二つ名が、ようやく決まった。
『
まだ未熟で、それでも確かな蓄積を備えているもので、良くも悪くも底の見えない、未知なる新人冒険者。
なんだかんだと、彼にはよく似合う二つ名であろう。
「ルーキーなんて余計な一文がさっさと消せるような活躍をしなくちゃなあ、チコク・ルーキーくん?」
「あ! それいいー!」
「五年も待たせたんだから遅刻も遅刻、大遅刻のルーキーだもんねー!」
「わたしたちだけはこっちで呼んじゃおっか!」
ギャーギャー喧しい団欒の時間に帰って来られた。
その嬉しさ。喜び。
これから何度だって危険な冒険をしても、必ずここへ帰ってくる。
この当たり前の時間を守れるように。
もっと強くなる。
頼れる家族。仲間。相棒と共に。
兎にも角にも。
「ダメだからね! 嫌だからね! そんなこと言う人はご飯抜きだからね!」
冒険者らしい名刺をようやく手にすることを許された十四歳の新人の冒険が、本当の意味で、ようやく始まった。