中等部に編入したものの病気で二年休学していた紗夜ちゃんに、瑠唯ちゃんは自分が信じていた現実と信条をぐちゃぐちゃにされてしまいました。かわいいね。

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縊鬼の傘

 感情よりも現実を優先する。

 

 感情を優先した先で、得られるものなど何も無い。得られるものがあったとしても、それは自分ならできるという自惚れと、結果が伴わない自己満足に他ならない。

 

 どちらも空虚だ。

 

 等しく───意味がないものだ。

 

 意味のないものに振り回されて疲弊するくらいなら、初めから適性のあるものだけに邁進した方がずっといい。

 

 それが中等部に上がった八潮瑠唯が、短い人生で得た教訓だった。

 

 瑠唯が見切りをつけたのは、バイオリンだ。

 

 幼少期からひたすらに弓を操り、弦を震わせ、音色を奏でた。遊ぶ時間があるならレッスンに費やし、脇目も振らず技術の向上を優先した。

 

 楽しくはあった。

 

 バイオリンの艶やかな音色を自分が奏でているのだと思うと高揚した。魂柱から広がる振動が肩や鎖骨を介して全身に伝わっていく感覚は、瑠唯自身の魂までも奮い起こされるようだった。

 

 けれどそれだけだ。

 

 どれだけの時間を捧げようと、瑠唯のバイオリンは実を結ぶことはなかった。

 

 一番好きなもので、一番になりたい。

 

 そんな子供染みた欲求を叶えるために瑠唯はバイオリンのコンクールに何度も出場し、終ぞ一度も金賞を取ることなく道を捨てた。

 

 ───あの子は。

 

 瑠唯の音が好きだと言ってくれたけれど。

 

 ピアノのコンクールで金賞の常連だったあの子でさえも、ピアノを弾くことをやめている。

 

 コンクールという舞台の上で、彼女の演奏は幾度も耳にした。他の金賞受賞者と比べても、あの子の演奏はいつも頭ひとつ飛び抜けていた。音が踊るというのはこういうことなのだと、頭ではなくもっと胸の深いところで理解できる、そんな演奏だった。

 

 そんな彼女でさえも、ピアノの道から退(しりぞ)いたのだ。

 

 なら、瑠唯がバイオリンに拘泥する理由は何なのだろうか。あの子よりも才能が無いのに、あの子よりも一時(いっとき)の栄光に執着して、芽は出ないと薄々察しながらも時間と労力を注ぎ込むことに意味はあるのだろうか。

 

 そんなものは───無い。

 

 意味なんて無いのだと、瑠唯は断じた。

 

 覚えている。

 

 瑠唯がエントリーした最後のコンクール。これで金賞が取れなければバイオリンはもうやめると母親と約束した。瑠唯には他にも得意なことがあるのだから、そっちを頑張ってみてもいいんじゃない? バイオリンだけにしがみつく必要はないと、母親から助け舟を出された末の約束だった。

 

 奏でたい、理想の音だけはあったのだ。

 

 たった一度だけ紡ぎ出せたあの音を。自らの手で生み出せてしまったあの音が。

 

 あのときの感覚が忘れられなくて。瑠唯の練習は、ただ一度だけあの子とともに奏でられた理想のあの音を、独りで再現するものへと変質した。

 

 息が詰まるような日々だった。

 

 どれだけバイオリンを掻き鳴らしても、理想からは程遠くて。一度はできたのだからという希望は砂糖をまぶした毒であり。未熟な演奏を繰り返す度、大切な思い出の音すらも歪めてしまいそうで。

 

 音を出すだけで楽しかったバイオリンの練習が、苦難に成り果てるまで、さして時間はかからなかった。

 

 苦難の連続は、容易く苦行へと化けた。

 

 練習を続けても、上手くなりたいと思うよりも、楽になりたいと思う方が多かった気がする。

 

 母の提案は、渡りに船ではあったのだ。

 

 最後のコンクール。受賞者の読み上げで自分の名前が呼ばれなかったとき、瑠唯は受賞者への嫉妬や羨望よりも先に───安堵の息を吐いたのだ。

 

 もう身を削るような思いで練習をしなくていいのだと、安心した。

 

 先が無いとわかりきっている道をもう走らなくていいのだと、胸を撫で下ろした。

 

 あの頃のことを思い返すと。本当に。

 

 馬鹿げていたと、瑠唯は自嘲する。

 

 感情を優先して、感情に振り回されるのは、馬鹿のすることだ。

 

 一番になりたいなんて欲に釣られた結果、瑠唯は一番好きだったものを失った。

 

 戒めだ。

 

 もう感情に翻弄されたりはしない。感情よりも現実を優先する。実を結ばないとわかりきったものに時間を割くのは無意味だ。無意味なものに固執したりはしない。努力に見合う成果が欲しければ、自分に適性のある分野でのみ研鑽を積む。

 

 だからもう、無意味なものに(かかずら)ったりは───しない。

 

 そう、決めたのだ。

 

「時間の無駄、ですか? 私と話をするのは」

 

「───、───」

 

 ペトリコール。

 

 雨の降り始めに香る匂いが、目前の女から漂ってくる。

 

 すぐに(かぶり)を振った。そんなわけがない。錯覚だ。秋雨前線が迷走しているせいか、最近はどんよりと重たい雲が天蓋を覆うばかりで、降るのか降らないのか煮え切らない天気が続いている。

 

 今日は。

 

 降るのだろう。

 

 ペトリコールが瑠唯の鼻奥を刺激した瞬間に、この女が現れただけの話だ。瑠唯が感じた匂いと女の登場に因果関係は無い。

 

 そうわかっているのに。どうしても、瑠唯には目前の女が昏い水底から現れた印象を受けた。忌まわしい水の匂いが纏わりついているのだと、無根拠に信じてしまいそうになる。

 

 ───あれは。

 

 ───井戸、だよ。

 

 ───ぽっかりと大口を開けた、底なしの井戸。

 

 こわい、ね……。と、頭の奥ですっかり古びてしまったあの子の声が木霊する。

 

 かつてあの子を慄かせた禍々しき古井戸の如き女の名を、氷川紗夜といった。

 

 何の因果か、その氷川紗夜に、瑠唯は学校の廊下でごきげんようと呼び止められた。

 

 病気で休学している先輩が居るというのは、閉鎖的な環境の中ではほどほどに有名な話だった。

 

 月ノ森に姉妹揃って通う生徒は少ないが、姉妹同然のように親しくなる先輩後輩はそれなりに居る。そのせいか、中等部と初等部で校舎が異なっていようと、先輩方の噂話は下の世代にも自然と漏れ聞こえるのが常だった。

 

 そして氷川紗夜は、進学の垣根を越えて初等部にまで伝わってくる名前であった。

 

 元々それなりに、知られていた名前ではあったのだろう。初等部では勉学とバイオリンにしか励まなかった瑠唯でさえも知っていた。氷川紗夜も、あの子と同じようにピアノのコンクールで金賞受賞の常連ではあったから。

 

 瑠唯は寡聞にして知らなかったが、絵画の方でもピアノと同じような経歴を持っているらしい。

 

 芸達者な人だと思う。

 

 大きな教室に通っていたためか、待合室などで直接話をしたことがある人は瑠唯の同級生にもちらほらと居た。月ノ森には幼い頃から何かしらの習い事をしている子が多い。

 

 紗夜は年齢を問わず分け隔てなく人と接するスタンスらしく、柔和な物腰で、よく話を聞いてくれて、顔と名前と話した内容を時間が経っても覚えていてくれるのだという。

 

 高校生や中学生のような遠い存在ではなく、けれど立ち振る舞いは大人とも遜色なく、会う場所が場所だから課題や芸術方面の話題になりがちだったが彼女は大抵の作品や作家には深い造詣を持っていて。

 

 普段は彼女の妹が他人が寄りつかないように徹底して紗夜をガードしているから、言葉を交わせた日はとても幸運だと運要素までもが絡んでくる。

 

 手が届く距離に居ようとおいそれとは声がかけられない、綺麗で、博識で、優しい人。

 

 稀少なチャンスを掴めたら、彼女の丁寧で細やかな心配りにもてなされる。年上への憧れと重なって、密かに慕う人は多いのだと。

 

 そんな風に話されているのを、瑠唯は耳にしたことがある。

 

 話を漏れ聞いて、驚いた覚えがある。何となく、人から好意を持たれるような人だとは思ってもみなかったから。

 

 あの子が瑠唯に語った印象とは、真逆と言っていい実態だ。

 

 紗夜()()()()が中等部に編入すると聞いたときは沸き立つ子が居たし、新学期早々欠席が続いていると聞いたときは心配し、休学になったと聞いたときは悲しむ子さえ居た。

 

 その当の本人は、瑠唯が中等部に進学したタイミングで復学し、今こうして瑠唯の目の前に立ちはだかっている。

 

 いや。

 

 立ちはだかるなんて所感も、瑠唯の偏った認識に過ぎない。ただ廊下を歩いていたところを呼び止められただけだ。

 

 紗夜について、悪い風聞は全く聞かない。

 

 むしろ二年休学していた分、普通の編入より大変だと思う。年齢だけ見れば、一年生のクラスに一人だけ三年生が混ざっている状態だ。それでも新年度から半年経って、孤立することもなく紗夜はクラスに溶け込んでいる───と聞こえてくる。

 

 すべて噂だ。瑠唯は紗夜と顔を合わせたこともなかった。

 

 紗夜に対する先入観があるとすれば、それはすべて噂話が元になっている。聞こえてくるのは良い噂ばかりだ。ならこちらもにこやかに応対すべきであろうに、彼女を前にすると自然と身が固くなる。

 

 井戸、だからか。

 

 ───井戸は、この世とあの世の、境い目だから……。

 

 あの子の声が、瑠唯の中で残響している。

 

 そのせいだろうか。紗夜に呼び止められても、逡巡ばかりが胸をよぎって、どう言葉を紡ぎ出せばいいのかわからなかった。

 

 そんな瑠唯を見かねてか、紗夜が口を開く。

 

「揺れ動いてしまいますか?」

 

「……何の話ですか?」

 

「瑠唯さんの感情ですよ」

 

「な、何を言って……」

 

「いえ。少し───動揺しているように見えたので」

 

 動揺というよりも萎縮でしょうか、と紗夜は言った。

 

 たおやかさを損なわないまま、紗夜の眦と口元が力なく緩められている。どうしようか迷っているかのような、曖昧で弱々しい笑み。事実、瑠唯の反応に困っているのだろう。

 

 けれど。

 

 彼女の目は───。

 

 一分の翳りもなく、透き通った眼差しで瑠唯を貫いている。

 

 ───見透かされる。

 

 反射的に生唾を呑む。つい、右手で左肘に触れていた。彼女の視線から身体を隠すように、無意識に手が動いていた。

 

 けれど見られているとしたら。紗夜の視線はそんな表面的な部分ではなく、もっと瑠唯の深い部分に焦点を当てている気がしてしまう。

 

 心の底まで、覗き込まれているような───。

 

 否。

 

 逆かもしれない。

 

 ───どうして私は。

 

 自分から紗夜と交わる視線を断ち切らないのだろう。紗夜の瞳を恐れているなら、目を伏せるなりするのが正しい反応ではないのか。

 

 まるでこれでは。

 

 紗夜に覗き込まれているのではなく、瑠唯自身が紗夜を覗き込もうとしているようではないか。

 

 あれは。

 

 ───井戸、だから。

 

 水の匂いが───漂ってくる。

 

「怖がられるようなことはしていないと思っているんですけどね」

 

「……紗夜さんを、怖がっているわけではないわ。それより、何か用があったのでは?」

 

「ええ、まあ。お願いしたいことが一つあったのだけれど……」

 

 そうね、と紗夜は思案するようにひとつ頷く。

 

「このあと急ぎの用事とかはあるかしら? なんだか誤解されてるみたいだし、十分くらい雑談しない?」

 

 そう言って、紗夜は廊下窓側の壁にもたれかかった。

 

 場所を移すつもりはなく、長話をするつもりもないという意思の表れなのだろう。

 

 瑠唯は、返答に少し悩んだ。

 

 たまたま日直の雑事を片付けたあとに、紗夜に呼び止められたのが今になる。雑事をこなした分いつもより少し遅いものの、あとは教室で鞄を拾って帰るだけ。何か用があるわけではない。

 

 かと言って、紗夜に付き合う義理もない。頼みがあると言うのであれば、話を聞くくらいはしよう。けれど本題と関係ない雑談に興じる意味は無い。

 

 そう。意味なんてないのだ。

 

 わざわざ紗夜と改まって話をすることに、意味なんてない───はずだ。

 

「お願いというのを伺います。私にできることなら助力しますし、紗夜さんの用事を片付けてしまうのが、お互いにとって建設的な時間の使い方ではありませんか?」

 

「なるほど。建設的ときましたか。たしかに瑠唯さんの言う通りではありますね」

 

 くすり、と紗夜は笑みをこぼした。そして、

 

「時間の無駄、ですか? 私と話をするのは」

 

 そう、問われたのだ。

 

「───、───」

 

 間違ったことは言っていない。自分が悪いとも思っていない。紗夜だって瑠唯の言い様を不快に思ったわけではなさそうだった。

 

 なのに、瑠唯の心臓はどきりと跳ねた。

 

 疾しさを咎められたのではなく、拙さを指摘されたときのような羞恥心が湧き上がる。

 

「いえ。紗夜さんとの話が、ではなく、誰が相手であっても雑談そのものに意味があるとは思えません。用があるなら、まずそちらを済ますべきではないですか?」

 

 そして目的を果たしたあとなら、話に花を咲かせる意味もないだろう、と瑠唯は思う。

 

「そうですか。あれこれ理由を付けて、避けられているのかと思いましたが」

 

「……たしかに、自分でも理由はわからないですが、私は紗夜さんに苦手意識を持っているようです。ですが、私で力になれるなら力になりたいと思っているのも事実です。苦手に思っているからといって、その感情に振り回されたりは」

 

 しないわ、と瑠唯は断言した。

 

「感情に振り回されない、ね。瑠唯さんは、普段から感情に依らない選択を心がけていると?」

 

「そうね。感情よりも現実を優先する。そう在りたいと思っているし、そうなるように行動しているつもりです」

 

 なるほど、と紗夜は相槌を打って、新即物主義を思い出しますね、と言った。

 

「は?」

 

「瑠唯さんならご存知でしょう? 近代音楽のジャンル、というか芸術運動ですかね。新古典主義の方が通りがいいのかしら」

 

 突然言われた単語が頭の中で意味を成して、瑠唯は記憶に仕舞われていた音楽史の年表を引っ張り出した。

 

「一九二〇年代から主流になった様式、だったわね。有名な作曲家はショスタコーヴィッチや晩年のドビュッシー。主な特徴は───」

 

 楽譜に忠実であること。

 

 ピッチや音程、リズムにテンポ。それらすべてを正確に、楽譜通りに再現する。

 

 演奏者の個性なんて必要ない。作曲家の意図こそが正義であり、楽譜こそが絶対だ。

 

 楽譜に目を通した個々人の解釈よりも、楽譜の記述そのものを優先する。

 

 解釈が感情で、楽譜を現実とするならば。

 

 たしかにそれは、感情よりも現実を優先すると断じた瑠唯の主義と似通っている。

 

「新即物主義は直前まで台頭していた表現主義へのアンチテーゼですからね。表現主義が持ち合わせていた過剰な感情表現や主観を排除した結果、簡素で明快な構成で客観性を重視するようになった。瑠唯さんも、そう在りたいと?」

 

「そう、ですね。改めて指摘されると、私が目指すものに近いと思います」

 

「随分ストイックなんですね。茨の道を歩きたいだなんて」

 

「茨の道? 困難な選択をしているつもりはありませんが」

 

 困難だと言うのなら、感情に従う方が余程困難な道のりになるだろうと瑠唯は思う。気持ちだけがどれだけ前を向いていても、現実として進むべき道が途絶えていればそれまでだ。崖の淵に立ってなお、一歩前へ進める人間は自殺志願者と変わりない。

 

 感情任せの行動は、いずれ破滅へとつながっている。

 

 現実を正しく見据えて行動すれば、そのどれもが回避できるはずの破滅だ。

 

 けれど氷川紗夜はそう思っていないらしい。

 

「主観を排して客観で視る。言うは易く行うは難しの険しい道のりだと思いますよ。瑠唯さんは、すでに袋小路に追い込まれてはいませんか?」

 

 瑠唯の眉間に皺が寄る。

 

「私は、何か間違ったことをしていますか?」

 

 もう二度と愚を犯さないよう合理的な判断をしてきた結果が今の瑠唯だ。その在り方を間違っているかのように評されるのは心外だった。

 

「あまりよろしくない振り切れ方をしてるんじゃないかな、と私は思うだけですよ。こうして老婆心ながらに口は挟んでしまいましたが、間違いかどうかを決めるのは───」

 

 瑠唯さん自身でしょう、と紗夜は言う。

 

 瑠唯は紗夜の隣を陣取るように、壁にもたれかかった。

 

 雑談なんかに意味はないと思っている。けれども実のある話をしてくれると言うのなら───。

 

「聞きましょう」

 

 告げられた紗夜は、たおやかな笑みを崩さない。

 

「先ほど瑠唯さんの指針を新即物主義に例えましたが、当時───一九二〇年代、つまり戦前の、ほぼ初めて西洋音楽に触れる日本人がその概念を理解できたと思いますか?」

 

「……難しい概念では無いと思いますが。簡素で明快な構成が主だと言ったのは紗夜さんでしょう。楽譜に忠実に演奏するのだから、入り口としては易しい方ではないですか?」

 

「そうですね。易しくて、わかりやすい。それは同時に、理解の落とし穴にもなっていませんか?」

 

「落とし穴?」

 

「新即物主義は表現主義のアンチテーゼです。ならまずは、演奏者による過剰な表現というものを遡って理解する必要があるとは思いませんか?」

 

 まあこれを言い出すと、中世・ルネサンス期からバロックを経由した最新音楽への変遷を順に追えという話なんですけどね、と紗夜は言う。

 

「戦前の人は、それができていなかったとお考えなんですか?」

 

「後世に生きる私がどんな書物を紐解いても、国中がドタバタしていたというのは十二分に伝わってきますからね。文明開花自体はもう少し前なので、第一次世界大戦前に留学されていた方も居ますが、そういう人はその頃設立された音楽取調掛(おんがくとりしらべがかり)に関わってますから」

 

「……その、音楽取調掛というのは?」

 

「この国で最初に創られた音楽専門の教育機関のことです」

 

「なら、その組織に居た最初期の人たちは、表現主義を肌で感じているはずではないですか? それを教え子に伝えなかったなんてことはないでしょう」

 

「発足当初は西洋音楽と雅楽の比較研究と、この二つを融合させた新しい曲作りがメインになってましたからね。副次的に雅楽の保存もやっていたようですが、西洋音楽そのものを掘り下げて研究するのとは、少し違っていたんですよ」

 

「融合ですか? それこそ、一足飛びに進め過ぎのような気がしますが。……現代でこんなことを言っても何の意味も無いのでしょうけど」

 

 瑠唯がそう言うと、紗夜は薄く笑みを浮かべた。

 

「疑問を持つのはいいことだと思いますよ。音楽そのものの融合というよりも、国内で連綿と伝えられてきた曲を、西洋の和音を楽譜に記す技術で五線譜に落とし込もうという試みですね。当時では五線譜自体が真新しいものなので、それと既存曲が融合する、と」

 

「つまり、翻訳のようなものですか? 日本語の文法を英語の文法に沿って直すような」

 

「翻訳というか、本当に一からの書き起こしですね。雅楽の中心に居たのは公家ですが、その下に公家が任命した検校(けんぎょう)───盲目の音楽家たちが近世邦楽を盛り立てていたようなものなので」

 

「盲目というと、琵琶法師のような人たちですか」

 

 ええ、と紗夜は頷いた。

 

 目が見えないのであれば、初めから楽譜が存在しないのも納得だ。当人たちが読めないものを作ったところで意味がない。

 

 楽曲を継承する方法は口伝に近かったのだろう。とにかく聞いて、自分で弾いて、指に覚え込ませる。

 

 それを五線譜の上に落とし込めば、曲の比較は容易になるだろうし、曲の保存にも一役買う。

 

 瑠唯の第一印象とは異なって、当時も合理的に物事が進められたのかもしれない。

 

「実際、和声進行の研究は進んだのでしょうね。西洋でも和声の発明によって、グレゴリオ聖歌のような旋法で作られた曲は下火になったでしょう。アフリカの民族音楽はジャズやブルースに発展し、ケルト音楽はロックへとつながった。この研究で、演歌の下地ができたのよ」

 

 まあ富国強兵をやっていた頃だし、実情は行進曲とか軍歌を作るのが急務だったんでしょうけど、と紗夜は言う。

 

「最初期はやることが多くて、とても過去を遡って分析する学習まで手が回らなかった。そしてその時代が、表現主義に触れられる最後のチャンスだった。批判対象を十全に理解しないまま学んだ新即物主義はどうしても片手落ちになる。紗夜さんはそう言いたいのね」

 

「ええ。そうしているとまた情勢が変わりますし。特別高等警察(とっこう)が設立されて、レコード検閲なんてものが始まりましたから。おかげで投書階級なんて暇を持て余した善良な一般市民が幅を利かせて、ますます深い研究をする機会は失われた」

 

 ああ、と瑠唯は納得の声を上げた。

 

 今で言うキャンセルカルチャーなのだろう。ただ現代とは違って、容疑をかけられるだけでも相当な重圧があったのだろうと想像できる。『蟹工船』の作者くらいは瑠唯も聞いた覚えがある。そんな情勢下では、のびのびと議論を交わす機会はまず減るだろう。

 

「戦後出版された井口版の楽譜を見れば、当時の人間のクラシック音楽に対する理解度がわかるでしょう。原典には無い指示記号が無数に増えて、なぜ増やしたか校訂に至った理由は未記載。もちろんその時代に輸入物ではない楽譜を国内に流通させた功績は大きいんでしょうけど」

 

 楽譜を忠実に演奏する流行だけが常識のように伝わって、肝心の楽譜から作曲家の意図が消えてしまっていたら、どれだけ忠実に演奏したところで、その演奏に意味はあるんでしょうか、と紗夜は言った。

 

 瑠唯はどう思うのか、その答えを紗夜の瞳が問うている。

 

 反射的に、意味は無いと瑠唯は感じた。

 

 楽曲において個性と呼べるものは、作曲家だけが発露を許されるものだ。演奏家の出しゃばりは嫌われる。

 

 少なくとも、新即物主義とはそういう理念から生まれた風潮だ。

 

 紗夜の言う通り、西洋音楽の浸透に貢献したという観点からすれば、大きな意味があったのだろう。けれど同時に、校訂作業自体はかなり杜撰に行われていたような口振りだ。校訂によって作曲者の意図が歪んでしまっているのなら───。

 

 やはり意味は。

 

「無い、のではないですか」

 

 そう答えると、瑠唯は紗夜から苦笑を向けられた。

 

「話の流れからすると、大体そういう風に感じてしまいますよね」

 

 誘導されたとまでは思わないけれど、同じテーマで話をしたら、同じ結論に達する人が多いとは思う。

 

 けれどそれ以上に、瑠唯は話の核心に入ってもらいたかった。

 

「……あの。日本の西洋音楽史の話はもう十分ではありませんか? 元々、私の考え方や判断基準が拙いという話だったはずです。そろそろ具体的な話をしていただけませんか」

 

 話を急かすと、申し訳なさそうに紗夜は謝罪を口にした。

 

「ああ……。すみません。妹にもよく言われるんですよ。お前の話は回りくどくて長ったらしいって。では例え話はここまでにして、本題というのは───」

 

 瑠唯さんの信条もまた、それと同じではありませんか? と氷川紗夜は口にした。

 

「同じ? 同じというのは、私が───」

 

 誤った先入観に囚われて、作曲家の意図が消えた楽譜を盲目的に追いかける演奏者だと。

 

 氷川紗夜は、そう言いたいのだろうか。

 

 解釈は感情で、楽譜は現実。

 

 これらの要素は、紗夜から新即物主義を持ち出されたとき、瑠唯自身が類似していると感じたことだ。

 

 現実(がくふ)を忠実に守ることこそが、より良い人生(えんそう)につながる道だと八潮瑠唯は信じている。

 

 だとするなら。

 

 誰かが注釈もなく勝手に指示記号を書き足した楽譜しか瑠唯が見ていないというのなら───。

 

「私は───誤った現実を見ているとでも?」

 

「瑠唯さんが、というより、誰しもが、でしょうね。当然私にだって見えていませんよ」

 

 正しい現実なんて、と紗夜は言う。

 

「納得できかねますね。現実に手を加えるなんてできません。現実に校訂者は存在しない。どんなに望んでも縋っても、成るように成らないから現実なんでしょう。現実は───」

 

 ひとつしかありません、と瑠唯は言い返した。

 

 現実に校訂者なんて居ない。夢じゃないんだ。太陽は西から昇ったりはしない。投げたリンゴが地面に落ちてこないなんてこともありえない。そして、八潮瑠唯があの音に届くことも───ないのだろう。それが揺らがない現実だ。

 

 神様なんて存在が居たとして、世界はソレが書いた自筆譜の通りにしか動かない。

 

 いや、クラシック音楽でも同じだろう。

 

「校訂者の仕事が信用できないのであれば、初めから原典版を使えばいいのでは。現代なら、自筆譜の写しだって入手しようと思えばできるでしょう。この学校にだって、ファクシミリ版は所蔵されていたはずです」

 

「自筆譜の通りに演奏すれば、それは作曲家が思い描いた音になりますか?」

 

「……何が言いたいんですか? なるに決まっているでしょう」

 

 なりますか、と紗夜は再び困り顔のまま薄い笑みを浮かべた。

 

「たとえば、現在でも使われる国際標準音としてラ音が四四〇ヘルツと定められたのは一九三九年のロンドン国際会議でした。その前だと一八八五年のウィーン会議で四三五ヘルツに決められていたとか。わかりますか?」

 

 ほんの五十年ほどで、基底となるべき音が半音もズレたんです、と紗夜は言う。

 

「一秒間に四四〇回振動する音は、千年前だろうが二千年前だろうが、一秒間に四四〇回振動する音ですよ。音自体は何も変わっていないのに、私たちが振動数以上の意味を与えてしまった。……常識が変わってしまったんですね」

 

 瑠唯自身も、バロック時代を中心に演奏するオーケストラは、当時の音に近づけるため、今でも四三五ヘルツに合わせているところもあると聞いたことがあった。

 

 けれど。

 

「標準音が無い時代、当時の作曲家が何ヘルツを基底にしていたかわからない。だから、自筆譜をそのまま現代の感覚で演奏しても、作曲家の意図には沿わないと言いたいの?」

 

「そうですね。勝手にピッチを変えているようなものですから。現代の感覚で演奏したところで、それだとやってることは井口版と同じでしょう」

 

 井口版は歴史的背景を鑑みずに、急ぎだからと行われたやっつけ仕事だと聞いたばかりだ。その楽譜の上では作曲者の意図は歪んでしまっていて、そこには───。

 

「意味はない、のですよね」

 

 確認するように、紗夜が訊ねる。そうだ。瑠唯は事前に、そう───答えた。

 

 氷川紗夜の瞳が、八潮瑠唯を見ている。

 

 紗夜の翳りのない透徹とした眼差しが、瑠唯を絡め取って離さない。

 

「あとは言った通りです。瑠唯さんの信条は新即物主義のようだと言いました。しかしここで言う新即物主義とは原義ではなく───」

 

 戦後誤った認識のまま常識となってしまった、日本独自の新即物主義ではないですか、と紗夜は言った。

 

 主観を排し、客観を重視するはずの手法が、歪んだ形で体現してしまっている。

 

 手法が歪んでいるから、それを通して見る現実だって歪んでいる。

 

 西洋音楽を好き勝手に校訂したように。作曲家の意図がまるで通じていないように。

 

 瑠唯もまた、自分に都合の良いように現実を解釈していると、氷川紗夜は言っている。

 

 ───わからない。

 

 ほんの百年にも満たない人たちが何を考えていたのかわからない。紗夜が語った通りなのか、別の意図に沿って音楽教育を拡げたかったのか、瑠唯には想像もできない。

 

 それを言うなら。

 

 四百年前の異国のバロック時代なんて、もっとわからない。

 

 標準音すら無かった時代。きっとモーツァルトも、バッハも、ヴィヴァルディも、瑠唯とは違った音を聞いて育ち、作曲をしたはずだ。

 

 彼らが遺した自筆譜こそが正しいのだと、そう思っていたけれど。

 

 正しいとは。現実とは。何なのだろう。 

 

 感情ではなく、現実を優先する。

 

 けれどその現実を、精査したことなど一度もなかった。

 

 現実はひとつしかない。

 

 そうでは───なかったのか。

 

「私の何が、間違っているのですか?」

 

「正しいとか間違っているとかではないんですよ。ただ、今のままでは()()()()()()()()()()、と私が感じただけで」

 

「だから、そのよろしくない部分を───」

 

 聞いているんです、と瑠唯はムッとした調子で声を上げた。

 

 ───危ない。

 

 心が───揺れ動いている。

 

 落ち着かない。きっとこの懊悩も、氷川紗夜には見透かされている。もうすでに、紗夜は瑠唯以上に八潮瑠唯について詳しくなってしまっているのかもしれない。

 

 そんな愚にもつかない妄想が、ますます瑠唯の動揺を強くする。

 

 動揺が瑠唯の内外を隔てる心理的な壁に亀裂を生む。その隙間からさらに感情が漏れ出ようとしている。

 

 感情に振り回されるような人間にはなりたくない。常々そう思っているはずなのに、そんな自分が、鎌首をもたげているのを感じてしまう。

 

 無性に奥歯を噛み締めたい。滲む動揺を噛み潰したい。けれどその衝動もまた、感情の発露には違いなくて。

 

 ここにはもう、感情しかない。

 

 ならば。

 

 ───優先すべき現実とは、一体どこにあるのだろうか。

 

 そして、瑠唯にとってのその答えを。

 

 瑠唯が半年近く信じてきた理想を、紗夜は彼女の言葉で形にする。

 

「瑠唯さんが優先しているのは現実ではなく、()()()()()()()という感情ではないでしょうか? 現実はこうだからと理由をつけて、その実ずっと瑠唯さんは感情に従っているのでは───」

 

 ありませんか? と紗夜は結んだ。

 

「私が、ずっと感情に従っていた───?」

 

 そんなわけは───ない。

 

 瑠唯は己を戒めたのだ。

 

 無為な行いに身を投じる苦痛を、八潮瑠唯は知っている。

 

 ───知っているからこそ。

 

 あの息の詰まるような日々を。重苦しい苦難の果てを。大好きという想いにヒビが入っていく有り様を。

 

 もう二度と繰り返さないように、瑠唯は己を律したのだ。

 

 そのために、意味を求めた。現実だけを───見ようとした。

 

 だけどそれは───。

 

「つらい経験をしたくないという、ただの───逃避なの?」

 

 やりたくない、逃げ出したいという弱音を、聞こえのいい言葉で装飾していただけ。

 

 主観を排し、客観に拠るのではなく。

 

 客観と偽って、主観で判断をしていた。

 

「主観を排した現実に、意味なんてありませんよ」

 

 そう紗夜は繰り返す。

 

「現実はただそこにあるだけです。音はただの空気の振動です。ただの振動に、善いも悪いもありません。現実に意味なんて───無いんですよ」

 

 紗夜は何度も言っている。一秒間に四四〇回振動する音は、一秒間に四四〇回振動する音でしかないと。ただの四四〇ヘルツでしかなかった音は、ある日突然標準音に制定され、ラ音という意味を持つようになった。

 

 意味とは、人間が現実に与えるものでしか───なかったのか。

 

 現実そのものに意味はない。

 

 ならば。

 

 ずっと現実の中に、自分が有意義だと思える意味を探してきた私は。

 

 ───現実を見ていなかったのか。

 

 その方が、わかりやすいから。

 

 だから。

 

 理解の落とし穴に───嵌るのだ。

 

 その落とし穴は、井戸の形をしているように瑠唯には感じられた。

 

 瑠唯を瑠唯として保っていた薄膜が破られて、蒙が啓かれたその先では、昏い井戸が大口を開けて待っていた。井戸の底に落ちていく。呑まれていく。

 

 否。

 

 瑠唯を呑み込んでいるのは───氷川紗夜だ。

 

 ───あれは。

 

 ───井戸、だよ。

 

 ───こわい、ね……。

 

 当時はあの子が何を言っているのかわからなかった。今まではただの単語の羅列に過ぎなかったのに、あの子が言っていた意味を瑠唯は今になって理解した。

 

 瑠唯の頭の中で意味を成した。

 

 現実的ではない比喩表現に、現実であるかのような意味が───生まれた。

 

 現実であるかのよう、というのは現実ではない。

 

 その線引きがずっと曖昧だったのだと、瑠唯はようやく理解した。

 

 理解はしたが───。

 

「私が未熟だったというのは、身に沁みて理解しました。けれどどうして、そんな話をほとんど初対面の私にしたんですか? 紗夜さんの意図が、わかりません」

 

 すると紗夜は苦笑をこぼして、私も瑠唯さんと同じだからでしょう、と答えた。

 

「私もずっと知りたいんです。現実というものを。私の主観から離れた世界で、私の身に何が起こっているのか。それをずっと───ずっと探しているんです。……頼みというのは他でもありません」

 

 白金燐子さんを紹介してはいただけませんか? と、氷川紗夜はようやく本題に入った。

 

「ど───」

 

 どうして、あの子の名前が出てくるのだ。

 

 狼狽えた。瑠唯自身が紗夜の言葉に揺さぶられるのとは別種の、不安を伴う困惑が瑠唯を襲う。

 

「なぜですか? り……白金さんに一体何の用事が、あるんですか」

 

「少し話を伺いたいだけよ。たぶん私の知り合いの中だと、彼女が一番私を客観視していたと思うから。所感をね、聞いてみたいの」

 

 瑠唯は反射的に「嫌です」と返していた。

 

 心の支えにしてきた信条が稚拙なものでしかなかったと気付かされた直後だったからか。

 

 瑠唯の根幹は───ぐらついている。

 

 感情に従うという忌避していたはずの行為が、今は前面に出てしまっている。

 

 ───よりにもよって。

 

 そう。よりにもよって、だ。

 

 氷川紗夜にだけは、そんな頼み事はされたくはなかった。

 

 もしも燐子がこのことを知れば、彼女は一体どう思うだろうか。氷川紗夜が会いたがっていると知って、彼女はどう反応するだろうか。

 

 恐れるだろうか。怯えるだろうか。あるいは───嬉しいと、笑うのだろうか。

 

 どのリアクションもありえそうで、瑠唯が想像だにしていない行動を起こしそうですらある。

 

 燐子の様子を夢想すると、ひどく胸がざわついた。

 

 意味が無いとは、思わない。

 

 思えない。

 

 紗夜と燐子が出会えば、きっとそこには、大きな意味が生まれるから。

 

 だから。

 

 瑠唯は紗夜を、燐子に会わせたくないのだ。

 

 あれだけ忌避していた衝動的な感情が、そのまま瑠唯の喉を震わせる。思ったままの、生の感情が、瑠唯の口から溢れ出た。

 

「あ、あなたが───」

 

 りんちゃんを殺したくせに───。

 

 

       ◇

 

 

 ───わたしの燐っていう字はね……死体から出る陰火(いんか)のことなんだ……。

 

 ───名は体を表すなら……わたしも、この世のものじゃないんだろうね……。

 

 あの人みたいに……、と喪服のような、真っ黒な衣装に身を包んで、燐子は言った。

 

 瑠唯が燐子と疎遠になる、直前の会話だった。

 

 あの人とは、氷川紗夜を指している。初めて会った日から、燐子は紗夜を化け物でも見たかのように震え、怯え、遠ざけていた。

 

 けれど紗夜の演奏を聴く内に、燐子は自身の恐懼を慣らし、少しずつ彼女へと傾倒していった。

 

 浮遊感。

 

 氷川紗夜の演奏にひっそりと付き纏っていた評価だ。

 

 燐子の演奏が聴衆の心を踊らせるように。燐子自身が楽しんでピアノを弾いていると伝わってくるように。氷川紗夜が奏でる音色は、聴く者に浮遊する感覚を与えていた。

 

 その音は誰しもに伝わっていたわけではない。

 

 瑠唯は綺麗な音だとしか感じなかった。曲のコンセプトを超えて、特定のイメージを抱いたことはない。

 

 けれど一部の審査員や、白金燐子のような一部の聴衆は、確かに共通の感想を浮かべていた。

 

 それが耳の良さなのか、感受性の高さなのか、はたまた全く別の要因によるものなのか、瑠唯には未だに判断できないけれど。

 

 伝わる人には、確かに伝わる印象があった。

 

 何かしらの素質を持った人にしか、伝わらない幻想があった。

 

 らしい。

 

 瑠唯には、伝聞でしかない。

 

 氷川紗夜の演奏を聞いて、そんな夢想を垣間見たことは一度としてない。

 

 ───夢心地って意味じゃないよ。

 

 空を飛んでいるみたいって言う人も居るけど、あれはたぶん───落ちてるだけなんだよ、とかつて燐子は言っていた。

 

 飛んでいるわけでも、漂っているわけでもない。

 

 地に足が着いていないのは同じだけれど。内臓が迫り上がる圧迫感や、一抹の恐怖を呑み込んだ高揚感から、不思議と抜け出せなくなってしまう。

 

 あとはもう重力に絡め取られるように、音の奔流に身を任せるしかない。

 

 その音の先には。

 

 落ちていった果てには。

 

 ───奈落が、待っているのかもね。

 

 だから。

 

 あれは。

 

 ───井戸、なんだよ。

 

 あの世へとつながっている、無間の(うろ)

 

 それが人の形をしているように───見えてしまう。

 

 そう言って、以前の燐子は震え上がっていたはずなのに。燐子を最後に見た瑠唯の記憶では、その在り様にこそ燐子は焦がれているように見えた。

 

 元々、瑠唯と燐子は母親同士が友人だったから繋がった縁に過ぎない。瑠唯の交友関係の中では親しい方だったけれど、深い仲にはならなかった。会う場所は決まってコンクールの会場だ。瑠唯も燐子も、それ以上の関係を持とうとはしなかった。

 

 燐子がピアノをやめた途端に、繋がりはぷつりと途切れてしまった。

 

 幼馴染と言えば幼馴染なのだろうが、子供の頃の知り合いと表現するのが的確な気がする。

 

 けれど、関係性を保とうと思えば保てたはずなのだ。

 

 音楽とは関係ない場所で会う約束を交わす。ただそれだけのことを一度でもしていれば、燐子とは今も親しい友人でいられた気がする。

 

 そうしなかったのは。

 

 燐子が遠い場所へ行ってしまったと、悟ったからか。瑠唯の手も声も届かない西の彼方へ旅立ったように、見えてしまったから。

 

 あるいは。

 

 瑠唯では身が竦んで動けなくなるほどの深みへ───井戸の底へ、落ちていったからなのだろう。

 

 燐子とはそれっきりだ。紹介を頼まれても、連絡先なんて知る由もない。母親を介せば連絡は取れるが、わざわざ氷川紗夜のためにそこまで骨を折ってやる気にはならなかった。

 

 他の頼み事なら手伝ったかもしれないけれど。

 

 氷川紗夜というピースは、瑠唯と燐子が疎遠になった遠因のひとつ。その紗夜を燐子と引き合わせるのは、瑠唯にとって非常に面白くなかった。

 

 はっきり言ってしまえば───嫌だ。会わせたくない。

 

「はぁ……」

 

 瑠唯は何度目かわからないため息を吐く。

 

 久しぶりに、感情に従った行動をしてしまった。自分らしくない、などとは思わない。

 

 感情よりも現実を優先するよう心がけてきたけれど。

 

 その新しい考え方と習慣が、自分に馴染みきっているとはまだ思えなかったから。

 

 馴染ませようと日頃から努力していたからこそ、瑠唯は今、後悔のような煩悶に身を苛まれている。

 

 紗夜とはすでに別れた。瑠唯が頼みを断ったら、紗夜は言い募ることもなくさっさと帰途に着いてしまった。

 

 本題の前に長広舌を振るっていたとは思えないほど、潔い退き際だった。

 

 翻って、瑠唯は───。

 

 まだうだうだと校舎の中を彷徨っている。

 

 教室に戻って、鞄を取って帰るだけ。他に用事があるわけでもない。紗夜のように早く帰路に着くのが合理的だろうに、瑠唯はわざわざ遠回りをして教室に戻るという無駄な行為に勤しんでいる。

 

 ───雑談とは。

 

 気楽に交わされる取り留めのない話を指すのではなかったのか。

 

 瑠唯の支柱を圧し折る芯を食った話題に、そんな怒りとも呼べないような、もやもやした憤りが胸の内に渦巻いている。

 

 あんな雑談にさえ乗らなければ。

 

 ドロドロと蟠る不快な感情の処理に困ることもなかった。

 

 紗夜だって。

 

 初めから用件だけ告げていれば、瑠唯はチクリと滲み出す感情に蓋をして、二人の橋渡し役を引き受けただろう。

 

 瑠唯が反感を剥き出しにしてしまったから、紗夜の頼みは失敗に終わった。

 

 互いに何の益も無い。時間を無駄にした分、損をしただけに思う。

 

 いや。

 

 損だの得だの、意味を見出そうとしている行為そのものが、無意味なのかもしれない。

 

 さっきからずっと、物事に意味を求めて、考え出した答えは自分に都合の良い想像なのではないかという疑念を、瑠唯は振り払うことができないでいる。

 

 どこまでが瑠唯の主観で、どこからが瑠唯の現実なのだろう。

 

 その線引きが、何だかあやふやにされてしまった。

 

 氷川紗夜の言葉だけが、呪いのように瑠唯の頭にこびりついている。

 

 結局思考を整理しきれないまま、瑠唯は自分の教室に戻ってきた。廊下を端から端まで歩き、階段の昇降を繰り返した挙句、まだ雑念に捕らわれている。

 

 放課後の校舎を歩き回った時間は無駄だったと言える。無駄だと───意味がなかったと、判じてしまっている。

 

 そうしてまた。

 

 ───意味に、固執している。

 

 意味とは、どこにあるのだろう。

 

 そして。

 

 優先すべき現実とは、一体何を指すのだろう。

 

 昨日までなら明確に答えられたはずのスタンスが、今は霧に覆われている。

 

 ドアを開けて教室に入ると、すぐさま「瑠唯さん」と声をかけられた。クラスメイトが数人残っており、談笑に興じていたようだ。瑠唯は「どうかしたの?」と彼女たちに応じた。

 

「少し前に紗夜さまがいらしてね。白金燐子さんについて尋ねられたのだけど」

 

「ぇ───」

 

 月ノ森には幼少期から習い事をしている子が多い。ピアノはその筆頭であり、中にはジュニアコンクールの参加者だっている。

 

 そういう子は、氷川紗夜も、白金燐子も、既知なのだ。

 

 紗夜は、燐子が通っていた小学校を覚えているか尋ねたらしい。もしも知っていれば今通っている中学校も教えてほしい、とも。

 

 瑠唯に話しかけてきた子の記憶は正しく、燐子が通っていた小学校は合っていたけれど。

 

「どこの中学校に進学したかまでは存じ上げなくて。瑠唯さんならご存知じゃないかとお答えしたのだけれど、紗夜さまとはお話になられた?」

 

「ええ。けど、私も白金さんとは疎遠になっていて、紗夜さんのお力にはなれなかったわ」

 

 なれなかったというか、ならなかったのだけれど、と瑠唯は内心で付け足した。

 

「……そう。じゃあ本当に探しに行かれたのかしら?」

 

「探しに?」

 

「ええ。私立に行ってない限り、学区によって進学する中学校は自然とわかるでしょう? 向こうの教師を捕まえて確認すれば済む話だと」

 

「……それは、答えてもらえるのかしら?」

 

「わからないけど、こういうときに月ノ森の制服が生み出す信頼性を使わないでどうするんだって笑ってらっしゃったわ。意外と、というか、びっくりするくらい行動派よね、紗夜さまって」

 

 ざわざわと心が波立つまま、瑠唯は彼女と別れて学校を後にした。

 

 ───人に紹介を頼んでいながら。

 

 共通の知り合いを経由した方がスムーズに話が進むというだけで、瑠唯の回答がどちらに転ぼうと紗夜には関係なかったのだ。

 

 頼みはすれど、頼りきりはしない。

 

 人には損得で物事を考えるのに現実を言い訳にするな、などと言っておいて。

 

 自分は初めから損をしない選択しかしていないではないか。

 

 正直言って反感を覚える。

 

 けれど、なんだかそれが、瑠唯と紗夜を分ける決定的な違いに感じられた。

 

 学校を出た瑠唯の足は、すでに自宅を目指していない。胸を破るような心臓の鼓動に従って、瑠唯は紗夜が辿ったであろう足跡を追いかけている。

 

 追いかけながら、こんなことをする意味はあるのだろうか、とこの期に及んで瑠唯は答えが出せないでいた。

 

 きっと瑠唯は、手段にまで意味を問うている。手段と目的を綯い交ぜにしている。だから手段に不利益が生じれば、目的ごと破棄してしまっている。

 

 逆に紗夜は、目的の設定が上手いのだろう。目的を達成できるのであれば手段は問わない。辿る道筋も一つに限らない。だから傍目には、どう転んでも上手くいっているように見える。無駄と思えるほどの手間暇をかけても、損をしているように感じない。

 

 それはある意味、瑠唯の理想を体現しているようだった。

 

 紗夜の方が余程、感情に囚われず現実に即して行動している。

 

 ───私は。

 

 どうしたいのだろう。

 

 どこに現実があって、何を目的としていて、そこにどんな意味を求めているのだろう。

 

 燐子と紗夜を会わせたくないとは思っているけれど、それは手段に過ぎないはずだ。なぜ会わせたくないのかという問いに、瑠唯は未だ答えられない。目先の損得に囚われているから現実を見失うのだ、という紗夜の言葉を強く実感する。

 

 降るのか降らないのかハッキリしない、今日の天蓋のような心模様。

 

 煮え切らない感情を抱いたまま電車を乗り継いで、瑠唯は久しぶりに燐子の住む街へと降り立った。そしてスマホで地図を確認しながら、近隣の中学校を目指す。

 

 うだうだと考え事をしていたせいで、先を行っているはずの紗夜とはかなりの距離が開いているに違いない。胸の奥で強く繰り返されるノックの音に急かされて、瑠唯は駆ける。

 

 不思議な心持ちだった。

 

 いま瑠唯は、白金燐子の生活圏を走っている。彼女の住む街は、ずっと遠い、瑠唯には辿り着けないような場所にある印象があった。けれど実態は、電車で三十分もかからない近場なのだ。

 

 二つの街を隔てているものなんて何もなかった。

 

 瑠唯はもう、燐子との縁を切れたものだと考えていたけれど。

 

 会おうと思えば、いつだって会いに来れたのだ。

 

 縁を繋ぐ努力をしなかったのは、そんな当たり前の現実から目を背けていたからではないのか。

 

 まただ。

 

 また、現実という言葉が瑠唯に迫る。

 

 こんな感傷めいた気持ちが次々に湧き上がるのは、すべて氷川紗夜のせいだ。

 

 そして。

 

 ペトリコールが───。

 

 見覚えのある、後ろ姿を見つけた。

 

 ───氷川紗夜だ。

 

 見慣れない制服の集団を避けながら、瑠唯はその背中に追い縋る。紗夜の肩を掴んで、彼女の正面に回り込んだ。気分はまさしく、紗夜の前に立ちはだかっているに等しい。

 

 肩を掴まれて身を固くした紗夜は、相手が瑠唯とわかって気を緩ませたようだった。

 

 そこに初めて、瑠唯は紗夜から年相応の反応を垣間見た気がした。

 

「ごきげんよう、瑠唯さん。驚きました。追いかけてこられたのですか?」

 

 そう言って、紗夜は柔らかく微笑んだ。

 

 きっと彼女の言葉の後ろには、どうして? と続いている。事実確認ではなく、その理由を笑顔の裏で問うている。

 

「その……」

 

 瑠唯は口ごもった。理由なんて、瑠唯自身にすらわからない。わからないままここまで走ってきたのだ。

 

「紗夜さんこそ、どうしてそこまでり……白金さんにこだわるのですか?」

 

 結局瑠唯は紗夜の問いかけに答えず、質問に質問を返す形を取る。

 

「別に白金さん個人にこだわってはいませんよ。言ったでしょう。伺いたいことがあるんです。私の質問に答えてくれるなら誰でもいいんですが、その答えを持っていそうな有力候補が、白金さんではないかと考えているだけで」

 

「そう───なのですか」

 

 ええ、と紗夜は頷いた。

 

「そんなにも気掛かりですか?」

 

 瑠唯は返事に窮する。気掛かり、ではあるのだろうが。

 

「瑠唯さんが言伝を預かって、私の代わりに返事を受け取ってくれても構いませんよ」

 

「紗夜さんの、代わりに……?」

 

「快く思っていないんでしょう? 私と白金さんが顔を合わせるのは」

 

「それは……」

 

 言葉に詰まって、瑠唯は紗夜から目を伏せてしまう。理由のわからない悪感情から目を逸らしたかったのかもしれない。その様子を見て、紗夜はからころと笑った。

 

「瑠唯さんは縁が切れたと過去の人のように扱いますが、私にはまだ白金さんを精神的支柱にしているように見えますよ。だから瑠唯さんの方が」

 

 白金さんにこだわっているのではありませんか、と紗夜は言った。

 

「こだわっているのは───」

 

 私の方なのか、と瑠唯は独りごちた。

 

 どう───なのだろう。

 

 瑠唯が固執しているのは、本当に白金燐子が相手なのだろうか。自分のことを、この世のものではないと見做すようになったあの少女に執着しているのだろうか。

 

 それとも。

 

 あの音か。

 

 瑠唯はもう諦めたと思っていたけれど、まだ諦め切れてはいないのか。

 

 あの音を奏でられるようになって、一番好きなもので一番になる他愛無い夢を、まだ心の底で願っているとでも言うのだろうか。

 

 それに、と紗夜は続ける。

 

「縁切りは存外難しいものですよ。袖擦り合うも多生の縁と言うでしょう。瑠唯さんはいくらか自分を変えようと努力したようですが、人生が変わっても縁は結びついたままです。たとえ死別しようとも、意外と過去は追いついてきますよ」

 

「死別しても……? なら、この世もあの世も」

 

 関係ないのか。

 

「こちらが忘れ去ったとしても、同様に向こうが忘れてくれているとは限りませんからね。その辺り、どう思われますか?」

 

 と、紗夜は瑠唯の肩越しに言葉を投げた。

 

 彼女の視線は瑠唯の背後を向いている。

 

「え───」

 

 紗夜の視線を辿るように、瑠唯は振り返った。

 

「るいちゃん……?」

 

 久しぶりに見る顔が、見慣れない制服を着て立っていた。

 

 懐かしいとは思わなかった。瑠唯は燐子との思い出を久遠の彼方に置き去りにしたような心持ちだったけれど。瑠唯が思っている以上に、再会までにかかった時間はわずかなものだったようだ。

 

 遠目にも手入れを欠かしていないとわかる艶やかで長い黒髪や、注目を浴びるのを厭う控え目で慎ましやかな気質が、立ち振る舞いだけで伝わってくる。

 

 それが、記憶の中の燐子と合致していて。

 

 見知った燐子と会えたことに、瑠唯は安堵の息を漏らした。

 

 そして次に燐子は───瞠目した。

 

 すでに燐子の視線は瑠唯から外れている。彼女が見ている先には───。

 

「氷川───さん」

 

 楚々とした、奥ゆかしい足取りで燐子が近づいてくる。

 

「どうか、されたのですか……?」

 

 そう問う燐子は、紗夜とも、瑠唯とも、目を合わせようとしない。人を見ないわけではないけれど、燐子の視線は瑠唯たちの首から下を彷徨っているように見える。それでも伏し目がちなまま、時折伺うようにして燐子は瑠唯を見上げた。

 

 会っていない期間は一年くらいだと思うけれど、それだけの時間で瑠唯は燐子の背を追い抜いていたらしい。最後に会ったときは、そう違いはなかったはずだ。

 

 そんな感傷は、氷川紗夜に打ち払われた。

 

「覚えていただけているようで光栄です。一応改めまして、氷川紗夜です。今日は白金さんに伺いたいことがあり、罷り越した次第です」

 

「私に、ですか……?」

 

 はい、と紗夜は頷いた。

 

「差し支えなければ、私に少し時間をいただけませんか? そう長くはかかりません」

 

「今から、ですか……?」

 

「急な話になってしまったのは申し訳なく思います。まさか私も、今日会えるとは思ってもみませんでしたから。もちろんご都合が悪ければ出直します」

 

 連絡先だけでも交換していただけると幸いですが、と畏まったまま紗夜は言った。

 

 ちら、と燐子が瑠唯を見遣る。

 

「るいちゃん、も……?」

 

「わ、私は、その……」

 

 成り行きで、と燐子に勝たず優らず、か細い声で瑠唯は答えた。燐子はそっかと言葉少なに納得したようだった。

 

「いい、ですよ。私も、一度あなたと、ちゃんと話してみたいと、思っていました。……ただ」

 

 少し着替えてきてもいいでしょうか、と燐子は言った。

 

 一瞬だけ、紗夜は瑠唯に視線を向けて、すぐ燐子に向き直った。

 

「私としてはむしろちょうどいいですね。私にとって今日の主目的はこの近くの和菓子屋に行くことだったんですよ。そこで落ち合いましょう。たぶん、座れると思うので」

 

 白金さん、スマホの機種は───ああ、同じですね。なら位置情報共有します。ではまた後ほど、と言うだけ言って、紗夜は離れてしまった。

 

 自然と後ろ姿を見送ってしまったけれど。

 

 身の置き場に、瑠唯は困ってしまう。

 

 究極的に、瑠唯はもう部外者なのだ。ここにいる必要もない。紗夜と燐子が顔を合わせてしまった時点で、瑠唯が留まる理由は消えてしまった。

 

 どうしようか、と思い悩むも、じゃあ帰るしかない、と答えはすぐに出た。

 

「白金さん、その……」

 

 話しかけたタイミングで、ついと瑠唯は燐子に手を取られた。

 

「じゃあ行こ?」

 

 燐子に手を引かれるままに、瑠唯は歩を進めてしまう。何か勘違いされているのはすぐに察した。察したまま、流されてしまう。きっと、瑠唯の軸がまだブレているせいだ。

 

 それに燐子と手を繋いで歩くのなんて、多分───初めてだ。

 

 繋がれた手に視線を落として、ぎょっと瑠唯は目を見開いた。

 

「爪が───」

 

 燐子の手指の先が、すべて光沢のある黒で覆われている。

 

「え? ああ。塗ってるの。マニキュア。……るいちゃんは月ノ森、だよね? やっぱり厳しいの? 校則とか」

 

「厳しいと思うほど息苦しさは感じませんが、制服を着崩したりする人は滅多に見ません。白金さんの学校は、目くじらを立てられないんですか?」

 

「ううん。化粧系は、ぜんぶダメだよ」

 

 あっさりと言い放つ燐子に、瑠唯は目をしばたたかせた。

 

「誰かに迷惑かけるわけじゃないし、見つかっても私一人が怒られれば済む話だから、別にいいかなって、思ってたんだけどね……。自己表現には、責任が伴うって、言うでしょ? でも、職員室に、ほとんど私専用の除光液が常備されちゃって……」

 

 だから今は、放課後になる度に塗ってるの、と燐子は言った。

 

「速乾性の物は、乾くのに五分もかからないから、便利だよ」

 

「私が使う機会はおそらく無いと思います。それにしても、なぜそこまでマニキュアにこだわられるのですか?」

 

「おまじない、かな」

 

「おまじない?」

 

 自分で言うのもなんだけど、と燐子は続ける。

 

「私に校則を破ってまで何かするってイメージは、無いでしょう?」

 

「それは……はい」

 

「だから、かな。爪を塗る。ただそれだけで、私は、私じゃない私に、成れるんだよ。指先なら、いつでも確認できるからね。でも結局、違う自分を求めているのは」

 

 自分に自信が無いだけ、なんだけどね、と燐子は言った。

 

 だから、黒を纏うのか。

 

 喪に服す色を身につけるのか。

 

 燐子という字は、死者から出る鬼火を指す。

 

 燐子の理想と違って、生きている身体そのものが不純物なのだろう。

 

 名は体を表すのであれば、不自然なのは生きている身体の方だ。よく生命の比喩として火が用いられるけれど、燐子が思う火とは、青白く、熱さが無いものなのだろう。生者には出せない火。そのままの燐子では扱えない火。

 

 彼女の情熱は、きっと死ななければ燃え上がらない。

 

 自信も何も、死者になってしまえば関係ない。

 

 そのための───おまじないか。

 

 直感的に、瑠唯はそう思った。

 

「それはやはり、紗夜さんの影響ですか?」

 

「そう、だね。そうなる、かな……」

 

 悲愴の音が、胸で鳴った。

 

 処理しきれない感情が、瑠唯の胸中に去来する。

 

「るいちゃんは、氷川さんと仲良いの?」

 

「いえ。紗夜さんと話したのは、今日が初めてです」

 

「そう、なんだ……。ちょっと意外、かな」

 

「そんなに親しく見えましたか?」

 

「ううん。次の、予定が、ね。てっきり、二人で和菓子屋さんに行く約束でもしてたのかと思ったから。るいちゃんは、ぜんざいとか、洋菓子よりも和菓子の方が好きだったよね?」

 

「はい。ですが───」

 

 好物の話なんて、氷川紗夜としたことはない。瑠唯の方は、紗夜の好きな食べ物なんて想像もできない。けれど、別に隠しているわけでもない。英語の授業の問題で書いた覚えはあるし、スピーキングの練習で隣の席の人と読み合った覚えもある。

 

 だからまあ、人伝てに聞いた可能性はゼロではない。

 

 そこまで考えて、ひょっとして、気を遣われたのかと思い至った。

 

 紗夜の話に割って入るつもりもない。瑠唯はもう居ても居なくてもどうでもいい存在なのだ。そこを瑠唯の好物を食べるという口実で、折角だから御相伴にどうぞと、同席する理由を作ってもらった気がする。

 

 考え過ぎか。そう思うと同時に、紗夜なら考えていそうだとも思う。

 

 彼女の為人(ひととなり)を瑠唯は知らない。そこまで付き合いがあるわけではないのだから当然だ。けれどこんな瑣末なやり取りから、底知れなさだけは感じてしまう。

 

 紗夜は───。

 

 考えても答えが出ない問いにまで意味を求めるのは、それこそ無意味だと言うのだろうか。

 

「それに、名前……」

 

「名前、ですか?」

 

「氷川さんとは、下の名前で呼び合ってるんだよね……?」

 

「そうですが───」

 

 それが親密さにどう関わるのか、瑠唯は一瞬理解ができなかった。

 

「───ああ。名前呼びは、月ノ森の風習のようなものです」

 

「風習?」

 

「はい。いつから続いているのか定かではありませんが、同級生や下級生には下の名前にさん付けで、上級生には下の名前にさま付けで呼ぶ。そういった習わしがあるんです」

 

 そう説明すると、内情を話された多くの人と同じように、燐子は目を丸くした。そして、顔を綻ばせる。

 

「へぇ……。あるところには、あるんだね」

 

 瑠唯が内部進学組で月ノ森のしきたりに染まりきっているせいもあるのだろう。

 

 他校とは勝手が違うらしいことを思い出すのは、外部生が編入してくる一年時の春先くらいのものだ。外部生たちが朱に交わったところで、意識の上からは消えてしまう程度のローカルルール。

 

 月ノ森生が相手のとき、瑠唯は相手の呼称にこだわったことなど一度もなかった。

 

 だから燐子が思っているよりも、瑠唯と紗夜の関係はずっと希薄だ。

 

 むしろ。

 

 瑠唯は燐子をどう呼んでいいのかにこそ、戸惑っている。

 

 燐子は昔と同じようにるいちゃんと呼んでくれているけれど、それこそ社会通念に照らし合わせれば、何の衒いもなく後輩を呼んでいるだけに過ぎない。

 

 対して瑠唯は、燐子との距離を測りあぐねている。

 

 居心地は───良いのだ。

 

 燐子と会えることを楽しみにしていた、燐子とたくさん話をしたがっていた、燐子のピアノを聴きたがっていた、バイオリンと共にあった頃の瑠唯が顔を覗かせている。

 

 気を抜けば、あの頃のようにりんちゃんと呼びかけそうになる。

 

「るいちゃんは、まだバイオリンを続けてるの……?」

 

「───いえ。進学を機に少し離れたら、まったく触らなくなってしまいました」

 

「そう、なんだ……」

 

 咄嗟に出た言葉が不思議だった。

 

 もうバイオリンを弾かなくなったことは事実だけど、その過程に───嘘が混じった。

 

 ある意味。

 

 瑠唯に引導を渡したのが、白金燐子のピアノなのだ。自分には燐子のような音は奏でられないと悟ったからこそ、瑠唯はバイオリンをやめた。

 

 その理由を、燐子本人には───知られたくないのか。

 

 まるで自分の心情を、口にした後で理解している。

 

 いや。

 

 まるででもなく、そうなのだろう。

 

「白金さんは、どうなんですか?」

 

「私も、あんまり、かな。ハノンの一番だけは、毎日やっちゃうんだけど、一番だけだから……。気が向いても十四番とか二十二番とか、たまに四十番と四十一番くらい」

 

「ハノン、ですか? ……すみません。ピアノ曲もそれなりには覚えているつもりなんですが、どんなメロディでしたか?」

 

「ああ。練習曲ではあるんだけど、実質指のトレーニング用で、音楽性はほとんど無い、かな。ピアニストの間では有名だけど、他楽器奏者には、マイナーかも……」

 

「なら、基礎練だけは欠かさずにしているわけですか」

 

「そう言うと、聞こえはいいけどね……。惰性だよ。真剣さを比べるなら、最近は洋裁とネトゲばっかりしてる、かな」

 

 それから瑠唯は、道中当たり障りのない返答をするに留まった。聞き役に徹して、燐子に会話の主導権を握らせ続けた。

 

 燐子はピアノと距離を置いてから、代わりの趣味に没頭していたようだ。型紙を作るところから始める本格的な衣装作り。MMOPRGというジャンルのネットゲーム。

 

 瑠唯が知らない世界を、燐子は満喫しているらしかった。

 

 離れていた時間が燐子の中でどのように積み重なっているのかわからない。

 

 だから、それを知りたいと今の瑠唯は望んでいる。

 

 ───元々自然消滅してしまう程度の間柄なのに。

 

 私はまだ。

 

 この人にだけは───嫌われたくないのか。

 

 嫌われることをしたくないから、相手の出方を伺うような、消極的なリスク回避に努めているのか。

 

 臆病が過ぎる慎重さに理由を見出した頃には、瑠唯は燐子の自宅へ到着していた。

 

「待ってて。すぐ、着替えてくるから」

 

 リビングに通されて、瑠唯は椅子に座るよう促された。そして促した当人は、すぐに自室へと引っ込んだ。

 

 燐子の家を訪れたのは一度きりのことではあったが、それでも間取りや調度品には見覚えがある。意外と覚えているものなのね、と瑠唯がぼんやりとしている間に、軽やかな足音が聞こえてきた。

 

 素直に、準備を終えるのが早いと思った。

 

 急かすつもりはなかったけれど、燐子は大急ぎで支度を整えたようだ。

 

 瑠唯は足音のする方へ視線をやった。

 

「───、───」

 

 するとそこには、黒い人影が立っている。

 

 黒。

 

 第一印象は、その一色に染められた。

 

 ゴシック風のワンピースドレス。シースルーの手袋やストッキングのせいで、肌すらも黒色に侵されているように見える。顔の上半分をヴェールで覆い、白い地肌が覗いているのは口元くらい。その唇も、グレーのリップで色調を落としている。

 

 夜を纏うような。

 

 あるいは。

 

 死に、纏わりつかれているような───。

 

 日の差さない井戸を覗き込んだような陰鬱さを、一目で瑠唯は感じ取った。

 

「お待たせ」

 

 人の形をした黒色が口を開く。声音は燐子そのもので。声量はか細いままなのに、どこか溌剌としていて、縫い針のような鋭利さがあった。

 

「し、白金さん───」

 

 否。

 

 これは。

 

 燐子であって、燐子ではない。

 

 自分でない自分に、今の燐子はなっている。

 

 爪を塗るなんて些細な変化ではなく、全身を陰火(いんか)の揺り籠に作り替えている。

 

 燐とは、死者から出る火のことだ。

 

 名が体を成すのであれば、きっと今の燐子は青く燃え盛っている。

 

 瑠唯の前に立つこの影は───死体だから。

 

 見せかけの彼女の内側で、彼女そのものが───燃えている。

 

「少しだけね、楽しみなの」

 

「何が、ですか?」

 

「以前の私は未知の恐怖に負けて逃げてしまったけれど、今の私はどれだけ彼女と向き合えるのかなって」

 

「ああ───」

 

 吐息に混じって、声がこぼれた。

 

 きっとそれが、瑠唯が燐子と紗夜を引き合わせることに抵抗を持っていた正体だ。

 

 井戸に鬼火が合わされば、それはもう───怪談の一説だ。

 

 この世の光景ではない。現実からは程遠い。そして彼岸で語られる言葉は、此岸に立つ瑠唯にはきっと理解ができない。

 

 コンクールで手痛い失敗をしたとき、ピアノを嫌いにならずに済んだのは、瑠唯がいたおかげだと燐子は言ってくれるけれど。

 

 瑠唯の音は、燐子の深くて柔らかいところにまでは届かなかったのだろう。

 

 燐子が覗き込む先に居るのは───氷川紗夜なのだ。

 

 ───あの音が。

 

 もしも瑠唯に才能と呼べるものがあって、あの音を自在に奏でることができれば、こんな打ち拉がれた思いはしなくて済んだのだろうか。

 

 ───私も。

 

 彼女たちと同じ領域に立ちたい。

 

 今ならば、彼岸に踏み入ることも厭わない。たとえそれが、片道切符であったとしても。

 

 疾うに諦めたはずの宿願が、ちろちろと胸の奥で燻っているのを瑠唯は感じた。

 

 紗幕の奥で、燐子の瞳が笑っている。

 

「行こう、るいちゃん。そろそろ氷川さんも、待ちくたびれているだろうし」

 

 玄関扉を開けると、小雨がぱらついていることに気がついた。

 

 降り出しそうな気配はずっとしていた。ようやく、雨粒がこぼれ始めたらしい。

 

 外の様子を見て、燐子はムと眉根を寄せた。

 

「傘までは、用意してなかったなぁ……」

 

 燐子は玄関脇の傘立てから、安っぽいビニール傘を抜く。燐子がビニール傘を開く姿は、衣装の持つ重厚さと比べてあまりにも不釣り合いだった。

 

「ごめんね、るいちゃん。私がるいちゃんと話したかったから付き合わせちゃったけど、これなら氷川さんと先に行ってた方が良かったかも」

 

 生地の薄い手袋に覆われた手が、瑠唯に向かって差し出される。

 

 鞄の中に折り畳み傘が入っていると告げることもできず、瑠唯は流されるままに燐子の手を取った。来るときと同じはずなのに、今の燐子の手は、ずっと冷えているように感じられた。

 

 瑠唯の頭上が、半透明の天蓋に覆われる。ここへ来るときよりも瑠唯は燐子と密着し───。

 

 ───雨の、匂いが。

 

 忌まわしい水の匂いが、白金燐子から漂っていた。

 

 

       ◇

 

 

「あらどうして? 積み重ねた時間で、あなたの魅力は陰りやしないでしょう」

 

 瑠唯と燐子が雨に打たれながら紹介された和菓子屋に辿り着くと、なぜだか紗夜が店員のおばあさんを口説いている場面に出くわした。

 

 本当に、どうしてと思う。

 

「こんなシワシワの婆に優しい言葉を投げかけるようなところまで、あの人に似なくていいんですよ。───あら。お連れ様じゃありませんか?」

 

 おばあさんに水を向けられて、紗夜が店の入り口へ振り返る。

 

 紗夜は燐子に目を向けて、少しだけ目を瞠ったようであった。

 

「厳かな出で立ちで驚きました。素敵ですね。ゴスファッションというものですか?」

 

 はい、と燐子は応じる。

 

「まずは注文をしましょうか。とりあえず家族用のお土産に吹き寄せを一箱と、私はこぼれ(はぎ)を」

 

 お二人は? と、紗夜に促されて、瑠唯と燐子はショーケースに歩み寄る。

 

 ケースの中には、一つの季節が溢れていた。

 

 菊や紅葉といった、鮮やかな秋の模様が並んでいる。

 

 職人の手によって作られた精巧な生菓子を前に、思わず瑠唯の口元は綻んだ。どれも華やかで、美味しそうだ。

 

「私は、この錦秋(きんしゅう)をいただきます、けど……」

 

 チラリと燐子が紗夜へ視線を投げる。

 

「どうかしましたか?」

 

「いえ。どれも美味しそうですが、るいちゃんを呼ぶんだから、てっきりぜんざいが有名なお店なのかなって勝手に思っていたので」

 

「お作りできますよ」

 

 にこにこと、カウンターの奥で燐子と紗夜のやり取りを耳にしていたおばあさんが口を挟む。

 

「頼めるのなら、お願いできますか」

 

 二つ返事で注文した紗夜とは対照的に、燐子は慌てた様子で紗幕の奥の顔色を変えた。

 

「ご、ごめんなさい。無理を言ったわけではなくて、ですね……」

 

「いいんですよ。口を出したのはこちらなんですし。それに作るのは修行中の若いのですから。売り物でないものでもよければ、こちらの修練にお付き合いいただけませんか?」

 

 小豆だけは一級品ですから、余程のことにはなりませんよ、と老婆は笑う。

 

 瑠唯は、燐子から困ったように目を向けられた。

 

「はい。ご厚意に甘えさせていただきます」

 

 瑠唯が答えると、瑠唯たちは店の奥へ通された。旅館の広縁(ひろえん)を思わせる、細長い一室だった。壁はなく、大きなガラス戸から小ぢんまりとした庭が覗ける。すぐ隣が外に通じているからか、狭さは然程感じない。庭へ降りるための廊下を、客室として扱っているような趣きだった。

 

 そこに四人掛けの机と椅子が一組だけポツンと置かれている。普段は店頭での販売だけで、店内飲食まではしていないのだと一目でわかった。

 

 ぜんざい然り。この部屋然り。ただの厚意ではないと、ひしひしと伝わってくる。瑠唯がこんな待遇を受けられるのも、一重に───氷川紗夜のおかげなのだろう。

 

「よく来られるんですか? このお店には」

 

 同じことを思っていたのか、席に着いて早々に燐子が紗夜へ問いかけた。

 

「いえ。来たのは今日が初めてね。ただ共通の知人がいて、その人の話題でかなり打ち解けただけよ」

 

「共通の……? あのおばあさんとですか?」

 

 まあね、と紗夜は笑った。

 

 彼女の交友関係を訝しんでいると、関係性の片端が顔を出した。おばあさんが手に持つお盆の上には、人数分の生菓子とぜんざい、それに湯呑みが載っている。

 

 さあどうぞ、と注文した品々とお茶がテーブルの上に並べられた。

 

 瑠唯は一人一品のつもりだったけれど、どうやら三人前ずつ注文していたことになっていたらしい。

 

 客と店員の間で意思疎通が取れていない。指摘するべきか、瑠唯は迷う。けれど、湯気を立てるぜんざいを見て、そんな気持ちは失せてしまった。

 

 おばあさんは修行中の方がいると仰られた。ならそれこそ練習のために、小豆の下処理をしていても不思議ではない。けれど、あまりにも準備が早すぎる。瑠唯が注文するよりも遥かに早く、話を通していたとしか思えない。

 

 これも氷川紗夜の周到さの表れなのだろうか。ここまでくると最早───。

 

「話が聞こえてしまって悪いけど、(アタシ)はまだ、化かされている気持ちですよ。本当に突然、昔々が目の前に出てきたんですもの」

 

 化かされているなら、品数を数え間違えてしまうこともあるでしょう、とおばあさんは笑った。

 

 サービスだと言うにしても、迂遠な言い方だと瑠唯は思う。まるで老女も、瑠唯と同じように過去に追いつかれた一人であるかのよう。

 

「私が狐狸の類なら、代金は葉っぱとどんぐりでもいいかしら?」

 

「明日の朝にお札と硬貨に変わっているならいいですとも」

 

 紗夜の口振りでは、二人は今日が初対面らしい。とてもそんな風には見えない気安いやり取りを見せて、おばあさんは店頭へ戻って行った。

 

 瑠唯の対面に座る紗夜は一度湯呑みに口をつけ、改めてお久しぶりです白金さん、と口にした。

 

「はい。お久しぶりです」

 

 瑠唯の隣に座る燐子は、おばあさんが立ち去った扉の奥へ視線をやった。

 

 そして、化かされていると思う気持ちもわからなくはないですね、と続けた。

 

「途切れてしまったと思っていた関係が、何の前触れもなく再び縁を結んだんですから」

 

「そうですね。白金さんにとっては、随分急な話だったと思います。にも関わらず、こうしてお付き合いいただけたことに、改めてお礼を言わせてください」

 

 言って、紗夜は燐子へ深々と頭を下げた。紗夜が顔を上げると同時に燐子が問う。

 

「それで。私に聞きたいことがあると、仰っていましたよね。何を、お聞きになりたいのですか?」

 

「ジュニアコンクールでの私の演奏を覚えていますか?」

 

「はい」

 

「その時の印象を、できる限り詳細に教えていただきたいのです」

 

 横で話を聞いているだけの瑠唯が、紗夜の言葉にひどく狼狽えてしまった。

 

 それは───井戸だ。

 

 そして。

 

 今の燐子───そのものだ。

 

「……こぼれ萩、という名前でしたね」

 

 柔らかな緑色をした求肥の上に、萩の花を模した紅白の小さな粒が散っている。菓子切を手にした燐子は、その上生菓子を小さく切り分ける。

 

「桜は散る。梅はこぼれる。萩もこぼれる。菊は舞って、牡丹は崩れ、椿は落ちる。では」

 

 氷川紗夜は?

 

 そして───。

 

 ───白金燐子は?

 

「氷川さんの演奏を聞いてから、そんなことばかり考えるようになりました」

 

「なるほど。連想したのは死に様だと? ちなみにですが。それに答えは出ましたか?」

 

()()()()()。今の私こそが、その体現です」

 

 弔われるべき黒い影が、自信に満ちた声を放った。

 

「それが白金さんの───信仰なのですね」

 

「……そんなことを言われたのは初めてです。これは、信仰───なのでしょうか?」

 

 肯定されるとは思っていなかったのか、燐子の声音が初めて揺れた。

 

「死を見つめるということは、逆説的に生に向き合わなければなりません。死は生き物に付き纏う影のようなものですから。影を語るには、光と、光を遮る物体がなくてはならないでしょう?」

 

「生に照らされて、初めて死は浮かび上がる、と?」

 

「いいえ。今の例なら、物体が生でしょう。生物と生そのものは不可分で、影はそこに根差しているのですから」

 

「なら、氷川さんは光に当たるものは何だと考えているのですか?」

 

「妥当なところで、恐怖を与える存在かと」

 

「恐怖、ですか?」

 

「暗闇だとか、空腹だとか、病気だとか、暴力だとか。あるいは───」

 

 氷川紗夜が奏でるピアノの音色だとか、と紗夜本人が口にした。

 

「生きるというのは存外つらくて苦しいことの連続ですよ。それが身に迫ったとき、人は死を意識するのではありませんか? そのつらく苦しいものに折り合いをつける作法を身につけ、実践しているのなら、それは十分信仰と呼べるものに値すると思いますよ」

 

「……少し、面映いです。私はこれが自分に自信を持てる最上の手段だと思っています。けれど同時に、これはただの変身願望の表れで、氷川さんの言う恐ろしいものと同化した気になることで、逃避しているだけに過ぎないとも、理解していますから」

 

「そうやって自分を正確に見つめようとする姿勢に何を言うことがありますか。まだ苛まれる要素があるのなら、もっと洗練させられる余地があるということでしょう」

 

「氷川さんは、私の在り方はまだ途上だと思いますか?」

 

「途上と言うより、完成がないのだと思いますけどね。それこそ───この錦秋」

 

 燐子が頼んだ上生菓子。それを紗夜は切り分けて、静かに口へ運んだ。

 

「秋の紅葉が錦織物のように移り変わる山を表した和菓子だそうですね。本もピアノも服装も、あなたは世界を黒白で固められているのかもしれませんが、色は───」

 

 移り変わるものですよ。

 

「……変わってしまいますか。変わるしか、ないのでしょうか?」

 

「変わらざるを得ませんよ。骨も臓器も、四年も経てばすべての細胞が入れ替わるんです。存在としては別物に成り果てているのに、四年前の道理が通じるわけもありません」

 

「少し意外です。信仰ですら、最終的には肉体に準拠すると、氷川さんは考えているのですか?」

 

「最終的に、というのは誤りですね。最初から最後まで、ですよ。生まれてから死ぬまで、私たちには肉体しかありません。まず身体ありき。そして身体を生存させて活動させるための、生活ありきです」

 

 他のものはすべて後からついてきます、と紗夜は言った。

 

 ああ、と腑に落ちたかのような声を燐子が出す。

 

「生きることは苦しいことだから。だから少しでも生活しやすくするために、人は信仰を───創るのですね」

 

 なら、と燐子は続ける。

 

「桜散り、梅はこぼれて、菊は舞う。では、氷川紗夜はどうなのですか?」

 

 無関係、と端的に紗夜は答えた。

 

「え……?」

 

「二年ほど封じられはしましたが、昔からその手のモノとは折り合いが悪くて。足元に立たれたことは何度かありますが、枕元に立たれたことは一度たりとも無いんですよ」

 

「自分には関係無いと、仰るんですか……?」

 

 はい、と紗夜は頷く。

 

「先ほどの例え通りなら、光が差しても、自分に影は生まれないと?」

 

「影ができない生物を見たから、あなたは信仰を創るほどの不安に駆られたのではありませんか?」

 

「───、───」

 

 息を呑む気配が、瑠唯の隣から伝わった。

 

「そうか……。そうだ。逆なんだ……」

 

 呆然と燐子は呟く。

 

「ずっと私は、氷川さんだけが持つ魅力を恐れて、それでもなお惹かれているのだと思っていました。けれど本当は、誰しもが抱えているものを、あなただけが持っていない。だからその欠落に、私は」

 

 吸い寄せられたんだ。

 

 底のない穴に落ちてしまったんだ。

 

「あなたと私の差異を。あなたにはなくて、私は持ってしまっている当たり前の存在を。自分自身の影を、強く意識してしまったんだ───」

 

 だから。

 

「あなたは───井戸なのか」

 

 燐子が紗夜に抱く具体的なイメージを聞いて、紗夜はふっと笑みをこぼした。

 

「そう聞くと、とてもタチの悪い存在ですね。まるで縊鬼(いつき)だわ」

 

「いつき……?」

 

「首を(くび)る鬼と書きます。くびれ鬼とも呼ばれるそうですね。取り憑いた相手を衝動的に首吊りへ誘う悪霊のようなものですよ」

 

「首吊り───」

 

 自然と、瑠唯の喉が震えていた。

 

 首に縄が食い込んで、宙ぶらりんになった誰かの姿を、瑠唯は思い描いた。

 

 そこで地に足は着いていない。吊り下げられた身体は、浮かんでいるようにも見える。

 

 浮遊感。

 

 そう感じてしまう人もいるというのが、氷川紗夜の演奏ではなかったか。

 

「有名なところだと、船幽霊もそうかしら。水死した人が亡霊となり、船を沈めて新しい水死体を作るのだから」

 

 水死───。

 

 水底から忌まわしい手を伸ばす妖怪。

 

 不吉な水の匂いが、瑠唯の鼻腔をくすぐった気がした。

 

「そういえば縊鬼の方でも、首吊りではなく入水をさせるバリエーションがあった気がしますね」

 

 瑠唯はひどく落ち着かなくなった。

 

 紗夜は妖怪譚を語っているだけなのに、語られる話はすべて紗夜自身を指しているように感じられる。

 

 瑠唯の目前で和菓子をいただいているこの女は、果たして何者なのだろうか。

 

 本当に。

 

 同じ人間なのか。

 

 人を死に誘う悪しきモノではないのか。

 

 現に。

 

 瑠唯の隣で、白金燐子は。

 

 ───影になっている。

 

「るいちゃん……?」

 

 ハッと、意識が現実に焦点を合わせる。

 

 隣では燐子が気遣わしげに、瑠唯の顔を覗き込んでいた。ヴェールで表情が見えづらくとも、燐子の雰囲気で察せられる。

 

「いえ。何でもありません」

 

「そう……?」

 

 瑠唯とは反対に、燐子は微塵も揺らいでいない。

 

 燐子は紗夜に向き直った。

 

「そういった妖物を、かつての私は氷川さんを通して見てしまったのでしょうね」

 

「狐狸にされたり死神にされたり、我ながら忙しない身の上ですね」

 

 ぜんざいに手をつけながら、紗夜は笑う。

 

「……不快でしたか?」

 

「いえ、別に。私を見て誰が何を思おうが、私には関係のない事柄ですから。逆に面白さは感じていますよ。こうして言葉にされなければ、私が自覚することはなかったでしょうし」

 

 白金さんはどうですか? と紗夜は言葉を投げかけた。

 

「自認と他者からの印象は、親しい間柄でも意外とギャップがあったりしますよ。白金さんは誰かにお尋ねになられた経験はございますか?」

 

 まさか、と燐子は首を横に振った。

 

「自分のことを誰かに聞くなんて、そんなこと一度だって───」

 

 言葉が切れる。

 

 唐突に、燐子は黙り込んでしまった。電池が切れたように俯いて、動かない。

 

 紗幕を透かして見る彼女の横顔は、慌ただしく思考を巡らせているようでもある。

 

 そしてまた唐突に、燐子は勢いよく顔を上げた。

 

「だから、るいちゃんを同席させてるんですか……?」

 

「え───」

 

 驚きの声が瑠唯の口からこぼれ落ちた。

 

 ここにきて名指しされるとは思ってもみなかった。

 

「ずっと不思議に思ってました。るいちゃんは氷川さんと親しいわけではないと言って、今日ここに来たのも成り行きだと。実際、るいちゃんはずっと横で話を聞いているだけで、本当に用は無いんでしょう」

 

 けれど氷川さんの、るいちゃんに対する態度は過剰です、と燐子は続ける。

 

「るいちゃんを帰らせるわけでもなく、むしろるいちゃんの好物をわざわざ周到に用意して、引き留めているようにも見える。その目的は、私の氷川さんに対する印象を聞かせることですか? そして」

 

 るいちゃんの口から、私に対する印象を私へ語らせることですか? と燐子は言った。

 

「それが白金さんの見た現実ですか。化かされているのかもしれませんよ」

 

「狐なら、むしろお仲間です。燐の字は、狐火でもあるんですから」

 

 対抗策は、こうでしたよね、と燐子は黒に侵された両手を上げる。

 

 そして燐子はその両手で、狐を表す形を作った。右手だけをくるりと返して、両の人差し指と小指を重ねたまま、残りの指をすべて開く。すると燐子の手の内に───覗き窓が生まれた。指でできた小さな窓を通して、燐子は紗夜を覗き込む。

 

 スゥ、と燐子が息を吸う音が瑠唯の耳に届いた。

 

 燐子が口を開く。

 

 けれど先に、氷川紗夜の発声が場に満ちた。

 

(おん)尸羅(しら)婆陀(ばった)尼黎(にり)(うん)娑婆訶(そわか)

 

 腹の底から震えるような、厳かで重厚な声音。威圧すら感じる普段とは一線を画す声の響きに、瑠唯は思わず背筋を正した。

 

 ───とでも唱えますか、と紗夜が微笑んだことで、張り詰めた空気は瞬く間に弛緩した。

 

 最早燐子の妖しげな所作に、魔力が宿っているとは思えない。

 

 紗夜は、燐子の窓越しの視線を、正面から見返した。

 

 影のない少女と、影そのものの少女が対峙する。

 

 ぶつかり合う視線。

 

 すでに瑠唯には、どちらが見て、どちらが見られているのかわからない。

 

 どちらが覗いて、どちらが覗かれているのだろう。

 

 その線引きが、あやふやになる。

 

 やがて。

 

「化けの皮は───見切れましたか?」

 

 と、紗夜が燐子に声をかけた。

 

 燐子はふるふると首を振って、窓を壊した。

 

「こんな手間暇と時間をかけて、氷川さんに何のメリットがあるのか考えましたが、やっぱり、皆目見当もつきません」

 

「まあ、お節介のようなものですよ。私だって誰彼構わず絡んでいるわけではありません。しかし流石に、私が発端となって、あなた方の行く末に影を差してしまったのなら、気遣いの一つや二つくらいはさせてもらいます」

 

「……信じていい言葉だとは思います。けれどそれは、私たちに届きやすいよう調律した言葉を使っていませんか? 氷川さん自身の言葉遣いなら、もっと違う印象になるのではありませんか?」

 

 燐子が問うと、紗夜は苦笑を返した。

 

「まあ実のところ、以前この手の話で妹が手酷い失敗をしていまして。お手本というか、当てつけというか。私もやってみたかったんですよ。左道」

 

「左道? 一応確認しますが、良からぬことでは、ありませんよね……?」

 

「アジャラカモクレンテケレッツのパ───というやつですよ。場合によっては、大罪であるのかもしれませんが」

 

 そう紗夜は笑って、席を立った。

 

「私はここで退散させてもらいますが、秋の日は釣瓶落としとも言いますし、あまり遅くならないようお気をつけて」

 

 そして紗夜は本当に帰ってしまった。たぶん、彼女の用はこれで完了したのだ。

 

 瑠唯は燐子と二人残される。隣を見ると、ヴェールを剥ぎ取った燐子が疲れ切ったような息を吐いていた。瑠唯の視線に気づくと、燐子は弱々しい笑みを浮かべた。

 

「もうすっかり、気力が尽きちゃったよ……」

 

 言って、燐子は目を伏せた。伏せるというよりも、テーブルの上に置いた瑠唯の手に焦点を合わせているようだった。そして思い出したかのように、視線を上げて瑠唯と目を合わせる。そういう所作を、燐子は繰り返した。

 

 とてもではないが、直前まで睨み合いをしていた人の振る舞いだとは思えない。

 

「その、大丈夫ですか?」

 

「うん……。結局、私が一人で気を張ってただけ、なんだよね……。私としては、氷川さんに挑むくらいの心積りだったけど、終わってみると、ぜんぶ私の独り相撲だ……」

 

 氷川さんの真言にだけは、本当にびっくりしたけど、と燐子は苦笑した。

 

「あの人は、一体何者なんでしょうか?」

 

「るいちゃんは、どう思う? ううん。氷川さんだけじゃなくて、再会した私のことを、どう思ってた、かな……?」

 

 瑠唯は二人に対して思っていた印象を、洗い浚い口にした。

 

 氷川紗夜はもう───化け物の類にしか思えない。

 

 そして白金燐子も、井戸に落ちて───死人になってしまった。

 

 どちらも等しく、彼岸の住人だ。

 

 瑠唯とはもう、共有する価値観が違っている。生きている世界が異なってしまっている。

 

 それが、瑠唯の偽らざる思いだ。

 

「そっか。なら、るいちゃんにとっての縊鬼は───私、だったんだね」

 

「白金さんが……?」

 

「るいちゃんに歪んだ価値観を植え付けてしまったのは、私だよ……。自己表現には責任が伴うって自分で言った傍から、歪みを助長しちゃったね……」

 

 私も氷川さんも言いたい放題化け物を主軸に話を進めちゃったけど、と燐子は言う。

 

「氷川さんは今日一日で、狐で、縊鬼で、船幽霊で、死神にまでなったけど、氷川さんは数年前に壇上でピアノを弾いただけなんだよ。現実に起こったことはただそれだけ。私もるいちゃんも氷川さんに何かされたわけじゃない。なのにそれだけだと思えないなら、私が」

 

 るいちゃんの現実を歪めたんだ。

 

「げ、現実は───歪むものですか? 現実は何も変わらない。人がどう足掻いたところで、変えられないものでは、ないのですか?」

 

「うん。そうだね。現実は変えられない、かな……。でも現実を見て、るいちゃんがどう思うかは、変えられる、よ……? 本来関係ないモノ同士を頭の中で結びつけて、新しい意味を、作り出したりね……」

 

「意味を───作る。ですが、現実は一つです。現実に付随してる意味だって───」

 

「現実に意味は無いよ……?」

 

 それは、氷川紗夜と同じ言葉だ。

 

「意味はあくまで、私たちが頭の中で作るものだから。現実と、関わりはないかな……」

 

 そうだ。学校の廊下でも聞いた。現実は、ただ在るだけだと。

 

 音は、ただの空気の振動だ。

 

 振動数によって、高低が生まれるだけ。

 

 四四〇ヘルツの音は、一秒間に四四〇回振動する音でしかない。

 

 ラ音や標準音といった意味を付け足すのは、瑠唯たちの頭の中の話なのだと。

 

 そして紗夜も燐子も、現実で起こっている四四〇ヘルツの音に、まったく関係ない意味を付与できると言っている。現実が歪んでいると錯覚してしまうほどの、支離滅裂な意味を。

 

 だから。

 

 その歪みから───化け物が顔を覗かせるのか。

 

「るいちゃんは、私の格好も、氷川さんの影響だと思ってる、よね……?」

 

「違うの、ですか?」

 

「切っ掛けは、確かにそうだけどね……もっと具体的な理由は、ゴシック小説にハマったからだよ。恐怖や超常的なものに立ち向かう勇気は私には無いものだったし、単純に、神秘的で、どこか病的で、暗い雰囲気を持つゴスが、好きになったの。だから氷川さんは、ほとんど関係ないんだよ」

 

 さっきも言ったけど、と燐子は続ける。

 

「この服はね、私を変えてくれる変身願望の表れで、逆に言うと、この服を着ないと一歩踏み出すことも難しい、弱さの象徴でもあるんだ。これがね、私が頭の中で解釈している、私の現実。どう、かな……?」

 

 るいちゃんの現実と、同じだった? と燐子は言った。

 

 その言葉に、瑠唯は首を横に振って答えた。

 

「やっと、わかった気がします。現実はひとつしかないけれど、それを見る私たちの頭の中にも、各々の現実があるんですね」

 

「そう、だね……。月はひとつしかないけれど、私たちは手で掬った水に反射する月しか見れないようなもの、かな。誰も、月そのものは見れないんだよ……」

 

「主観を排して客観で見る。私はこれを、できていると自惚れていました。けれど、頭で現実を理解して、頭で物事を考える以上、主観からは」

 

 逃れられないのですね、と瑠唯は呟く。

 

 燐子の本意を深掘りすることもなく、断片的でしかない情報をすべてだと誤解して、それを鵜呑みにしてしまった。

 

 誤った認識を、常識だと思い込んでしまった。

 

 まさしく、戦後流行った新即物主義と同様だ。

 

 自筆譜だと思っていたものは、どこかの誰かが書き加えた指示記号に塗れていた。

 

 否。

 

 どこかの誰か、ではない。

 

 瑠唯自身が、自分でも気づかない内に書き足してしまったものだ。瑠唯はそれをずっと、客観世界だと思い込んでいた。

 

 まさに、理解の落とし穴に嵌っていたのだろう。

 

 紗夜の意見が正しかったと、ようやく瑠唯は、彼女の言葉を呑み込めた気がした。

 

 けれどそれでは───。

 

「感情よりも現実を優先することはできるのでしょうか?」

 

「どういう、こと……?」

 

 そして瑠唯は、バイオリンをやめるに至った本当の挫折の理由を、燐子へ語った。

 

 燐子に引き上げられて奏でることができた、思い出のあの音を。

 

 一人では到達できないとわかっても、その事実から目を背けた。

 

 そして芽の出ることのない研鑽に、瑠唯は多くの時間を費やし、磨耗した。

 

 そんな後悔はもう二度としたくないから、感情は優先しないと決めたのだ。

 

「……るいちゃんは、そんなことを思ってたんだね」

 

「私はこの現実を、動かしようのない、私の頭の外にある現実という意味で使っていました。けれど実際には、私の都合によって左右される、私だけの現実に従っていた気がします。それは、感情に従っているのと、同じことです」

 

 冷静に筋道を立てて考えても、最後に正しいか判断を下すのは感情だったということだろう。

 

 いや。

 

 正しいだとか、間違っているだとか、そういった尺度も瑠唯の頭の中にしかないのだ。

 

 現実はただ、在るだけだから。

 

 ただそこに在るだけの存在は、はたして行動の指針になるのだろうか。

 

 袋小路から抜けた先で、別の袋小路に入り込んでしまった気がする。

 

「……るいちゃんに、かけたい言葉がある」

 

「何ですか?」

 

 けれど瑠唯が問いかけても、燐子は顔を伏せるばかりで、続く言葉を発さない。

 

 しばらくの間、二人の間に沈黙が横たわって。

 

「言葉はあるけど、今の私が言うのは卑怯な気がする……。思わせぶりなことを言って、ごめん。もう少し、待ってもらえないかな?」

 

 そう燐子は口にした。けれどすぐ、自分の言葉を否定するように、燐子は首を横に振った。

 

「……ううん。るいちゃんにとっては、待つ必要も、無いことだね」

 

「先に私が、答えを見つけるかもしれないからですか?」

 

「うん。むしろ、ここで私を待つようじゃ、ダメなんだろうね」

 

「なら、答えはあるんですね?」

 

「……私がるいちゃんに、かけたい言葉があるだけだから。答えがどうとかには、触れないでおくよ……」

 

 目を伏せてか細く呟く燐子の姿に、瑠唯は少しだけ落胆した。瑠唯が何を聞いても、燐子は何も答えてはくれないだろうから。

 

 外はもう夜の暗がりが広がっていて、庭の草花の輪郭すら判然としない。

 

 紗夜に忠告された通り、遅くならない内に瑠唯と燐子は帰ることにした。

 

 和菓子屋を出て、瑠唯は燐子と別れた。

 

 雨はすでに止んでいる。もう不吉な水の匂いはしない。嗅覚を刺激するのは、大地の匂いとほんの少しのカビ臭さだ。

 

 街灯でできた影を見ても、物理現象だとしか思えなかった。

 

 ただ少し、冷えるわね、と瑠唯は思った。

 

 

       ◇

 

 

 あの日交わした会話を、八潮瑠唯は何度も反芻することになった。

 

 思い返せば。

 

 廊下で紗夜と話したときには、彼女は必要な情報をすべて瑠唯に伝えていたのだ。

 

 ただ瑠唯が紗夜に反発して、彼女の言葉を素直に受け取らなかっただけで。

 

 だからだろうか。

 

 紗夜はもう一度、話の場を整えたのだ。今度は白金燐子も交えて。おそらく、瑠唯が一番抵抗なく受け入れられる人を、同席させた。

 

 和菓子屋では瑠唯が蚊帳の外に居ると思っていたけれど。

 

 話の中心に居たのは自分だったのだと、今ならば理解できる。

 

 一日の間でとんとん拍子に事態が進んでしまったのは、流石に運だと信じたいが。

 

 紗夜に対する反感も消えた今、再び彼女の言葉を咀嚼する。

 

 すると彼女にさえ、正しい現実は見えていないと言っていた。見えていないからこそ、見ようと努めているのだと。

 

 それは───瑠唯と同じだ。

 

 現実に意味はないと知った。それでも、感情に振り回されることを、瑠唯は良しとしない。したくない。瑠唯は───というか人は、感情から逃れられない生き物だとも理解した。その感情を排した先に現実があるのなら、現実を求めることは間違っていないと思う。

 

 そしてそれはきっと───茨の道だ。

 

 届かないものに手を伸ばし続ける険しい道のりだと、氷川紗夜も言っていた。けれど終ぞ、それが誤りだとは彼女も口にはしなかった。

 

 感情よりも現実を優先したい。

 

 瑠唯は今も、そう思っている。それを実現したくて、どうすればいいのかを考え続けている。考えている内に、数ヶ月の月日が経った。

 

「久しぶり、だね……」

 

 そして数ヶ月ぶりに、瑠唯は燐子と顔を合わせた。放課後に、月ノ森の校門前で会おうと示し合わせて。

 

 昨日になって突然、燐子からお互いの母親を経由して会いたいと連絡が来たのだ。驚きは無かった。前回の会話では、燐子自身の準備ができるまで待っていてと言っていた。だから、その準備が整ったのだろう。

 

 そして瑠唯の方も、明確な答えは見つけられていない。

 

 もうすっかり気温は落ち込んで、瑠唯も燐子も、制服の上からコートを羽織っている。

 

「その、今日は和菓子屋で交わした話の続きということでいいんでしょうか?」

 

「うん。私は、そのつもりで来たよ」

 

 歩きながら話そうか、と促されて、瑠唯は燐子に着いて行く。

 

「感情よりも現実を優先することはできるのか、だったよね。るいちゃんは、何か答えを見つけられた?」

 

「いえ。今は感情を排すために、規則やその場のルールに従って行動しています。けれど、紗夜さんや白金さんを見ていたら、このやり方も間違っていると感じています」

 

「るいちゃんは、どう間違ってると、思ってるの……?」

 

「おそらく、思考の深さです。私がやっていることは諾々と言いつけに従うだけで、誰にでもできることです。ですが、お二人なら、お二人にしか下せない判断基準によって、私よりも上手く行動するのではないかと、考えてしまいます」

 

「氷川さんならそうかもしれないけど、私の場合は、持ち上げ過ぎだよ」

 

 燐子は照れたようにはにかんだ。

 

「自分が至らないことはつくづく痛感しましたが、あのとき白金さんがすぐに答えを出さないでくれて良かったと、今は思っています」

 

「そう、なの……? あれは自分でも、ひどく中途半端なことをしちゃったなって、後悔してたことだけど……」

 

「おかげで、考える時間ができましたから。白金さんがゴスファッションを拠り所としていたように、私は白金さんを拠り所にしていたんです」

 

「え───」

 

 燐子は驚いたように、瑠唯に視線を向けた。

 

 ゴスという世界観を軸に、燐子は自分だけの信仰を創り上げた。そこまでは多分瑠唯も大差ない。瑠唯は戒めという戒律を、自分自身に課したのだ。

 

「厳密に言うと、私の中心にあったのは、白金さんとセッションをしたあの音です。だからあの音を引き出させてくれた白金さんを、私は特別な存在だと見做していたんです」

 

 ではどこで、瑠唯と燐子の間で差がついたのか。

 

 燐子は信仰を創ったあとも、己を見つめ続けたのだろう。ゴスという鎧を纏っただけで、それを着ている自分は何も変わっていない。弱いままだと、認識していた。

 

 一方で瑠唯は、新しいスタンスを定めたものの、そこで満足してしまった。実践しているつもりになって、何も掘り下げようとはしなかった。瑠唯自身は何も変わっていなかったのに。ただ歪んだ現実に、囚われていただけだ。

 

 現実はつらくて苦しいことの連続だと言われた。大きな障害は滅多に起こらないけれど。雨粒のような小さな不幸はずっと降り注いでいるのではないだろうか。

 

 そして雨に打たれてしとどになるのを嫌がって。

 

 瑠唯は。

 

 ───縊鬼の傘を差したのだ。

 

 たしかにそれは。

 

 ()()()()()()()()()()、と言われてしまっても仕方がないと思う。

 

 我思う故に我あり、なんて言葉があるけれど。

 

 我が一番───信用ならない。

 

 瑠唯は紗夜によって井戸の底に引き摺り込まれた気持ちでいたけれど、紗夜が何もせずとも瑠唯は初めから井戸の中に居た。

 

 瑠唯こそが、井の中の蛙だった。

 

 そんなことに気づけないほど、瑠唯の見識は狭かった。それに気づけただけでも、瑠唯にとっては大きな進歩だと思う。

 

 ところで、と瑠唯は話題を変える。

 

「行き先は決まっているんですか?」

 

「うん……。すぐ着くよ。見せたいものがあってね、それを見たら、あの日の続きを話そう……」

 

 燐子の足取りは月ノ森の外周をぐるりと回るように進んで行く。

 

 そして徐に、燐子は高等部用の校門を潜り抜けた。

 

「白金さん?」

 

「ふふっ。大丈夫。間違ってるわけじゃないよ」

 

 校舎前には、ちょうど受験の合格者を知らせる掲示物が貼られている。

 

 まさか、と瑠唯は思う。

 

 隣を歩く燐子がコートのポケットからスマートフォンを取り出して、画面に表示された番号を瑠唯に見せる。

 

「ほら、見て」

 

 燐子が掲示物を指差している。

 

 けれど瑠唯の視線は、スマートフォンを持った燐子の手に───彼女の爪に注がれていた。

 

「爪が───」

 

 いつかと同じような呟きが漏れる。

 

 記憶では黒く塗られていた爪が、今は健康的な本来の色を取り戻している。

 

「そうなの。生き返ったんだ」

 

 色は───移り変わるらしいから。

 

 そう言って、燐子は笑った。

 

「あのときね。るいちゃんは信じていたものがなくなって、どうすればいいのか分からずに困ってたよね。あそこで声をかけるのは簡単だったけど、自分に自信がないのを承知でゴス衣装に身を固めてた私が何か言うのは、卑怯だと思ったんだ」

 

 だからまず、一歩でいいから、踏み出せる自分になった上でるいちゃんと話したかったの、と燐子は言った。

 

「受験はまあ、そのための試金石みたいなものかな」

 

「それは───私のために、そんな選択をしたということですか?」

 

 まさか、と苦笑しながら燐子は首を横に振った。

 

「流石にそこまではしないよ。契機はたしかにるいちゃんだけどね……、受験に関しては、私は自分の人生しか考えなかったよ。るいちゃんのために志望校のランクを落としたり、逆に無理に上げたり、みたいなことはしてないから」

 

「……それを聞いて、安心しました」

 

 それで、あのときの続きなんだけど、と燐子は語り出した。

 

「私たちの縁は、一度途切れたよね……?」

 

 燐子の言葉に瑠唯は頷く。

 

 あの日紗夜に話しかけられなければ、こうして燐子と再び縁が交わったとは思えない。

 

「るいちゃんは今、自分のスタンスに悩んでる。私もね、ゴスファッションを脱いで、等身大の自分のまま、成りたい自分に成りたいんだ。お互い進むべき道がはっきりしないなら、私たちって、協力し合えるんじゃないかな?」

 

 燐子は意を決したように、もう片方のポケットから、瑠唯に向かって手を突き出す。その手には、シンプルなデザインのロザリオが載せられていた。

 

 そして、八潮瑠唯さん、と改まった呼び方をされる。

 

「ここから、私と新しい関係を築いてくれませんか……?」

 

 燐子の告白めいたセリフに、瑠唯は苦笑をこぼしてしまった。

 

「月ノ森に、そこまでの風習はありません。ウチはミッション系の学校ではありませんから」

 

「え……そう、なの……?」

 

 燐子の毅然とした態度はしなしなと崩れて、耳まで赤く染まってしまう。恥ずかしそうに俯く燐子に構わず、瑠唯は声をかける。

 

「はい。ですが、言葉の意味は、理解しているつもりです」

 

 瑠唯は少しだけ膝を曲げる。

 

「かけていただけませんか?」

 

 燐子の腕が、瑠唯の首の後ろに回る。そして燐子が離れたとき、瑠唯の胸元には彼女が選んでくれたロザリオが輝いていた。

 

 結局求めていた答えはわからないままだけれど。

 

 今はこれでいいのだと、瑠唯は素直に思うことができた。

 

 燐子も紗夜も、その一点だけは沈黙を守っている。瑠唯も薄々察している。きっと明瞭で不変の答えはない。生涯をかけて考え続けなければならない問いなのだ。答えを導けたと思っても、何度も問い直すことになるのだろう。

 

 燐子と再会する前ならば、そんな時間は無駄だと切り捨てていたと思う。

 

 けれど、それを燐子は実践している。一度は見つけた信仰を、また一から問い直している。

 

 季節の彩りと同じように、人の身体はどうしたって変わってしまうから。

 

 燐子の変節は瑠唯を慮った行為では断じてない。燐子本人がそう言っている。しかしそれでも、見習いたい規範として瑠唯の目には眩しく映った。

 

 少なくとも。

 

「ずっと悩んでいた問題がもう一つありましたが、たった今解決したようです」

 

「まだ他に、悩みがあったの……?」

 

 本当に些細な問題だったので気にしないでください、と瑠唯は燐子に柔らかく微笑みかけた。

 

 そして。

 

 瑠唯は曖昧模糊とした距離感から生まれた呼称の代わりに、新しい関係に相応しい、新しい呼び方を口にする。

 

「これからよろしくお願いします。───燐子お姉さま」

 

 

 了


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