1891年、7月31日。ホグズミードの小さな「何でも屋」の一室に、深夜にも関わらず悲鳴が響き渡り、続いて咳き込む声が聞こえてきた。
「どうしたオマエ? 急に叫んだりして」
わざとらしく目を擦りながら壁をすり抜けて現れたファスティディオは、そこで口を閉じた。床に直に置いた薄いマットレスの上で、一人の子供が震えている。寒さからくる震えではない、抑えようのない震え。
「ペニー、こういう時はどうしたらいい?」
「ペニーは、チョコレートとホットミルクを摂るのがいいと思います。それに、ペニーはこちらをお持ちしました」
しゅぽん、といつもより控えめな音と現れた屋敷しもべ妖精は、ファスティディオの問いかけに答えた。その手には、青地に銀の刺繍が施されたマフラーが乗っている。
途端、子供はそのマフラーに縋りついた。
「せ、せんせ、ごめ……ごめんなさっ、ごめんなさい先生、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
とめどなく溢れる涙で、マットレスに、マフラーに、子供が着ているダルダルのパジャマに、点々とシミができていく。
夢を見た日。大好きな、大好きな先生の夢を見た日。英雄と謳われた魔女はただ一人の子供でしかいられない。
1年前、ホグワーツの地下でランロクを筆頭とするゴブリンの反乱を、なんとか最小限の被害で食い止めた「編入生」だが、彼女が失ったものは大きかった。あまりにも大きすぎた。
「何度も見てきたんだ。誰かが死ぬ瞬間は、何度も見てきたんだ。こんなに悲しくはなかった。そういう時は、私も死ぬかもしれなくて、ひりひりしていたから、きっとちゃんとは知らなかったんだ。……知りたくなかった……知りたくなかったよぉ」
縦も横も奥行きもめちゃくちゃな部屋で、当てのない慟哭は続く。
6年生となった彼女の同級生たちが最も苦労したのは、荒んだ友人をどうやって癒すかという事だった。5年生の時からそうだったが、彼女は授業に出席することが格段に減った。それどころか、ホグワーツ城で見かけること自体が減っていた。姿が変わるから一概には言えないが、「騒ぎの方向に向かえば大抵こいつかギャレスがいる」という共通認識ができるほどのトラブルメイカーだった魔女が、落ち着いていた。センスを疑うような趣味の悪い服装をしていたのに、目印はあの青いマフラーとこびりついて手の施しようがなくなった赤黒いシミのついたマントになった。
「ポピー、なんとかできないか」
「私? ……無理よセバスチャン、だって私たちがなんとかできることじゃないの。それはわかるでしょう?」
図書室の一角に、特に交流が深い8人が膝を寄せ合って話していた。グリフィンドールのナツァイとギャレス、ハッフルパフのポピーとサチャリッサ、レイブンクローのアミットとヘクター、そしてスリザリンのセバスチャンとオミニス。皆が、あの女生徒の友人だ。
「アミットが天体観測に誘う、とかは? ギャレスの調合には乗らなかったみたいだけど」
「それがね、ナティ、あの子は一人で観察するのが好きみたいで」
「ダメだったか。セバスチャンとオミニスは? よく一緒にいたみたいだし、何か心当たりはないか」
「ごめんヘクター、俺たちにもできることはなさそうだ。アイツが飼ってるアーシュレーシャーにも伝えたけれど、彼らにも難しいって」
「この前言ってたホーンド・サーペントの? アイツどこでそんなの捕まえてきたの?」
「密猟者の集団を殲滅したら、その基地で繋がれてたらしいよ。ダグウッド、興味があるのか?」
「ええ、自然に剥がれた鱗は魔法薬の原料になるのよ。……って、そんな話はしてないわ」
「『眠れるドラゴンをくすぐるべからず』。だけど、アイツは眠るどころか、足すら止めないつもりだろう。どうにかしないと」
ホグズミードからそう遠くない森で、今まさに密猟者の集団が必死で戦っていた。彼らは21人、対するのはたった一人の女生徒。しかし、力の差は歴然だった。
「ステューピファイ! ステューピファイッ! クソッ、クソ!!」
「おい下手に撃つなよ! 獲物に当たったらどうする!」
ただでさえなっていない連携を、杖の一振り、しかも盾の呪文だけであっという間に崩す。光線がぶつかる瞬間に展開したプロテゴによる壁に衝撃波が跳ね返り、周りにいた密猟者たちが吹っ飛んでいった。その隙を見逃さず、次々と呪文を飛ばしていく。
「アクシオ、インセンディオ、レビオーソ、デパルソ、ステューピファイ、グレイシアス、ボンバーダ……クルーシオ」
磔を当てた一人を数回基礎呪文で痛めつけ、最後にタメの姿勢に入る。
「アバダケダブラ!」
何でもないように緑の閃光を放ち、自分の何倍もの人数を一斉に沈めた。あっけなく、バタバタと連鎖的に密猟者たちは倒れた。主人を失った杖を、一本一本拾い上げる。密猟者たちの名前は知らないが、オリバンダーの人間に聞けば余すことなく答えてもらえる。何度か改良を重ねた「アロホモラ」を散らばっていたすべての檻に施し、魔法動物たちを解放する。
もはや正義とは何かわからなくなってきた彼女は、森の中でするりとその姿を変えた。変身術でもポリジュース薬でもなく、ただ自然な彼女の特性による変化。
「……いま一番見たくない色だっていうのに」
その強烈なくせがついた赤毛を、女生徒は杖を振って雑にひとまとめにする。赤毛の友人を思い出せば、その周りにいる他の友人も、教師も、一緒に思い出してしまう。視界の邪魔にならなければ、それでいい。
フィールドガイドの地図にバツをつけると、女生徒はどこからともなく呼び出したホウキにひょいとまたがり、次のキャンプを殲滅しに向かった。
「あ、帰ってきた。ちょっと、汚れたままじゃダメでしょう。ほら、そこに立ってちょうだい」
中庭にいた友人たちの元へ、女生徒はひょっこり戻ってきた。
「みんな、おはよう」
「おはようって言っても、もう昼だけどね。そういえば、あなたが預けてくれたニーズルの女の子、すっかり元気になったわよ」
「ありがとうポピー」
サチャリッサは2日前の姿とは似ても似つかない容姿の女生徒__今は日焼けしたそばかす顔の少年__の服についた泥や葉っぱ、なぜ付いたのかは考えたくないシミを一つ一つ丁寧に消していく。どの生徒と比べ物にならないくらいお洒落に気を使うサチャリッサなら、こんなに時間をかけるはずがない。実際、わざと時間をかけてサチャリッサは女生徒の服装を整えていたが、3秒とじっとしていられなかったはずの友人が、大人しく事が済むのを待っている。
「どうしたの、私、何かおかしい?」
あまりに見つめすぎたからか、女生徒は彼らを見つめ返した。その目は虚ろで、何かが映っているとは思えない。
「いいや……なにも。今、みんなでこれからの話をしてたんだ」
嘘ではない。これから、自分たちには何ができるのか。
「それは、将来の夢とか? ヘクターは魔法大臣にでもなってるよ。だってそういう顔してる」
「顔かぁ。じゃあ、ポピーは?」
「ポピーはね、魔法動物の研究で忙しくしてるから、たまに吠えメール送ってあげないとね」
「ちょっと! 吠えメールじゃなくて、普通の手紙でいいでしょ!」
「セバスチャンはね、セバスチャンは、闇祓いになってるよ。強いからね、私の次にね、強いんだもんね」
「闇祓い……か。なれるのかな、この僕でも。ギャレスとダグウッドは聞かなくてもわかりそうだな」
「ええもちろん、美しさのために突き進むわよ。……さあ、これでおしまい。綺麗になったわ」
ありがとう、と言った女生徒は、急にがくりと膝を折り、そのまま床に倒れ込んでしまった。
「おい! 大丈夫か⁉︎」
「どうしたのよ急に!」
すぐさま1番近くにいたサチャリッサとアミットが助け起こす。しかし、彼女の姿勢はグラグラとして安定しない。手早く呼吸の有無や反応を確認したギャレスが小さく息を吐いてから告げた。
「眠ってる。けど、ほとんど気絶みたいなものだ」
ほっとしたのも束の間、生徒たちはどうしたものかと顔を見合わせた。日焼けした肌のせいでわかりづらいが、女生徒は確かに濃い隈を作っていた。いくら体質で姿が変わるとはいえ、夏休み前と比べて明らかに覇気がない。
しっかりした受け答えが返ってくる爆音の寝言と、機嫌が最悪の時のドラゴンの如く暴れ回る寝相の悪さで、寝ている時でさえ存在感があったというのに、今はただ静かに寝息を立てているだけだ。
「いつから寝てないんだろう……」
突如、空中が火を吹き、それが収まると頭に真紅の美しい不死鳥をのせた大蛇が現れた。
「ほ、ホーンドサーペント……!」
「アーシュレーシャーよ。美人でしょう?」
何度か顔を合わせたことのあるポピーがナツァイに説明する。アーシュレーシャーはナツァイを鎌首をもたげて見やった。
『アーシュレーシャー、久しぶり』
『オミニスか、ではオマエに伝えるとしよう』
シュルシュルと先の別れた舌をちらつかせながら、アーシュレーシャーは言った。
『ふた月だ。ふた月もの間、コヤツは瞼を閉じることさえ拒んだ』
「……は?」
ホーンド・サーペントからの報告に、オミニスは絶句した。
「オミニス、アーシュレーシャーは何て言ってたんだ?」
並大抵の答えではないことを察しながらも、ヘクターは恐る恐る尋ねた。
「……二ヶ月。二ヶ月、眠るどころか目も閉じたがらなかったらしい」
『仕方なく締め上げて
そしてその旨を再びオミニスが伝えると、ギャレスとセバスチャンは、黙ってそのくたびれた体を丁寧に浮遊させた。だらりと垂れ下がった腕が、力無く揺れる。
「医務室に行って、診てもらおう。その方がいい」
チェスボードの上で、女生徒は必死に前方へ走ろうとしていた。だがポーンである彼女は、1マスずつしか進めない。前に相手が立ち塞ごうものなら、そこから一歩も動けない。相手のコマの隙間から覗く、あの青いマフラーを巻いた背中が遠い。他の白いコマはみんな砕かれてしまった。何もできずに、どうにか打開できないかと見回すが、ただ息苦しくなっていくだけである。
突然、影が辺りを覆った。見上げると、あの悪辣な顔をしたランロクが黒のコマを動かそうとしていた。
「やめろ……やめろやめろやめろやめろ!」
「チェック・メイトだ」
ガンッと置かれた黒のキングが、白のキングを粉々に砕いた。青いマフラーが、宙に舞った。
「ああああああああ!」
飛び上がって目を覚ました女生徒は、今自分がどこにいるのかを正しく認識するのに10秒以上を要した。ひどい咳き込みと冷や汗、耳鳴りがなかなか治らない。
「おはよう、ねぼすけさん」
「…………せ、セバッチャ、セバスチャン」
「うん。今起きてよかったね。あと3分眠ったままだったら百味ビーンズで胃袋パンパンにされるところだったよ」
「嘘つかないで。そんなことしないわよ。悪魔か何かの所業じゃない」
「うん、嘘。ポピー、みんなを呼んでくるから、見ていてくれ」
「分かったわ。あなた、急に倒れたと思ったら、丸3日眠ってたのよ」
「3日も……?」
「そうよ。本当に、本当に心配した」
ポピーは女生徒を優しく抱きしめ、背中をゆっくり撫でた。
「大丈夫、大丈夫。怖くないわ、私たちがいるもの」
「…………」
じわ、とまた涙が滲む。扉の開く音と、バタバタとした足音、ローブの裾が女生徒の視界に映った。
「起きたって本当!?」
「ナティ、気持ちは分かるけど静かにしなきゃダメよ」
「具合はもういいのかい?」
セバスチャンに連れられてやって来たのは、ナティとサチャリッサ、そしてオミニスだった。
「……うん」掠れた声で返事をすると、サチャリッサは女生徒をポピーから引き剥がし、頬をむんずと掴んで顔を覗き込んだ。
「隈がひどいわ! あとで消すからね! 髪もボサボサだし、服装もひどすぎるわよ!」
「しゃ、サヒャイッサ……イヒャイヨォ……」
「お黙りなさい! こんなになるまで放っておくなんて信じられないわ!」
「サチャリッサもうるさいじゃないの」
ナティとサチャリッサが女生徒にこれでもかと構う傍で、オミニスは静かに口を開いた。
「君、どうして眠らなかったんだい?」
「…………」
「普段の君はあんなに図太いのに。自分のベッドでも、ドラゴンの背でも、木の根っこでも眠れるのに、どうしてだい?」
「……眠くなかったんだもん」
「嘘を言わないで! 急にバッタリ倒れて、丸3日昏睡していて、そんな!」
「ナティ、今は俺に話をさせてくれないか」
「……分かった」
「ありがとう。ねえ、どうして、二ヶ月も眠ろうとしなかったんだい?」
「な、んでそれ……!」
「アーシュレーシャーから聞いたよ。目も閉じなかった。閉じようとしなかったともね」
「眠ることが、どうしても嫌だったのかい」
「……そう」
「悪い夢を、見たのかい」
「…………ちがう」
女生徒は少し言葉に詰まったあと、首を力無く横に振った。
「こわい、夢だった」
「そうだったのか」
オミニスは優しく微笑んで、女生徒の手を確かめるように握った。
「大丈夫だ。君には、俺たちがついてる。君は一人じゃない。決して君を一人にしない」
小さな震えと、水滴がオミニスの手に触れた。続けてぼたぼたと何度も水滴が落ち、ぐすぐすと鼻をすする音も聞こえてくる。
「でもっ……わっ、たし、わたし……ッヒグせんせ、は、私のせいで……っ!!」
「うん」
「フィグ、先生がっいなくなっ、いなくなっちゃったのに」
「うん」
「私、生きてていいのかなぁ……?」
「……もちろん。君と一緒にいてくれたフィグ先生を覚えていられるのは、君だけだ。君は生きて、覚えていなくちゃだめだ」
震える声で、彼女は叫んだ。
「会いたいよぉ、会いたい……! また、声が聞きたい……っ」
わあっと泣き出した女生徒を、五人は何も言わず、ただ優しく、しっかりと抱きしめた。
「私、もっと強くなりたい。もう誰もひとりぼっちにさせない為に、闇祓いなんて枠に収まらないくらい、強くなりたいんだ」
まっすぐに前を見つめながら彼女は友人たちに言った。
「それが君の夢?」
「うん。これが私の夢」
女生徒の首に巻かれた青いマフラーが風に揺れ、そっと彼女の頬を撫でた。
お久しぶりです。どうにかこの一話分の執筆が終わりました。
そろそろ執筆スピード戻したいなぁと思ってます。思ってはおりますのでどうか気長にお待ちください。