「……参ったなこりゃ」
見慣れたワイシャツに何処かの学生ズボンではなく、甚平を身に纏った雪は、縁側から外をぼんやりと眺めながらボソリと呟いた。
参ったと言いつつも、手には湯呑みが。隣には饅頭が積まれた皿が置かれているという光景には真剣さが感じられなかったが。
「なあんと抜かしよんねん。お前の書うた絵の通りさね」
「いや、まあそうなんだけどさ、婆ちゃん。読み通りに進みすぎるのも困るってもんだよ」
饅頭を挟んで隣に腰をかけるお魎に視線を向けないまま、雪は呆れを隠さない態度のまま愚痴る。
「このままじゃ、今年も祟りが起きる。そうなったら今年こそは魅音と詩音を外に避難させざるを得ないよ」
「……お前はどうするっちゅうん」
「僕なりの責務ぐらいは果たすさね。元々そういう話だったしね」
饅頭を齧り、お茶で流し込む。
そんなあっけらかんとした様子の雪の言葉に、彼女は僅かな溜息だけを返すのだった。
「問題はその後、だよ」
「わぁっとる」
「ほんとかね。僕が婆ちゃんも母さんも信じてないことぐらいは分かってもらってるつもりだけど」
「………わぁっとる」
それは、しきたりを無視してでも詩音を生かしたお魎であったとしても、二人の入れ替わりを見抜けなかったから。
聞き飽きた言外の訴えに、わかったとしか戻ってこない返答。鳴らしかけた舌打ちを我慢するように湯呑みを口に運んだ雪は、庭に立つ黒いモヤをぼんやりと眺める。
「そん代わり、二人んこたぁ───」
「それこそ言われるまでもないよ。万が一の時の下準備は終わってるからね」
「ならええ」
雪にそっくりな造作で。いや、正確には雪がお魎にそっくりなのだろうが。さておき、湯呑みを口に運んだお魎はふぅ、と一息を吐く。
そしてこれまた雪と同じように整えられた庭を見渡す。御三家の会議やら役所との手続きでは見せない、寂しげな視線をほんの一瞬だけ向けられたと一方的に感じた
「飯、」
「たまにはこっちで食べてくよ。……詩音もいいよね?」
「言うとくわ」
これまた普段なら考えられない程短い時間で会話を終わらせたお魎は徐に立ち上がり、湯呑みを片手にフラフラと廊下の向こうへと歩いていってしまい。
一人縁側に残された少年は次の饅頭へと手を伸ばしながら、眉間に皺を寄せた。
「………人様の家庭を覗き見るなんて、いくら神様でも褒められたもんじゃないね」
案の定、返答は聞こえなかったらしく、特段の反応すら見せなかった雪は、ただ饅頭に齧り付く。
あれは園崎家に訪れる度に梨花に出されているものと同じだろうか、と。至極どうでもいいことを考える羽入は、大人しく少年の次の言葉を待ち。
「あれ、婆っちゃは?」
不意に訪れた詩音に、雪の返答は期待できなくなったのだった。
「鬼婆、だろ詩音」
「いいでしょ、どうせ雪のとこには誰も来ないんだし」
「ったく。僕は呼びやすくて助かるけど、僕がいると君達の気が抜けてこまるね」
詩音、改め。魅音は雪の言葉に何処と無く嬉しそうに微笑む。
「なんかあったら雪に助けてもらうからいいんだって」
「ああそうかい。あ、これは花の名前だからね」
「そんなん聞いてないけど……。ん、一個貰うね~」
「あっ、ちょっと…。もう口付けてるし…、僕が貰ったのに……」
止める間もなく、ハムスターのように頬を膨らませながら饅頭を頬張る魅音の姿に、雪は盛大な溜息を漏らす。
こういう気の抜けたところを圭一に見せればいいのに、と呟きかけた雪だったものの。無駄な喧嘩をする体力もないのか、もう一度溜息を零して終わらせるのだった。
「ング……。そんで、今日は大丈夫だった?」
「大丈夫だったって…。何が?」
「ほら、久しぶりに婆っちゃとサシだったでしょ?」
「多少のお小言は言われたよ。後は手ェ出してねえだろうなって」
「……下世話だね」
「顔を赤らめないでもらってもいいかなぁ!?このやり取り何回目だと思ってる!?」
「暫く会わない内に
無論、雪がその方面から遠ざけすぎてしまった、という可能性も捨てきれないが。
「とにかくいつも通りだってば。また今回も大石さんがうろちょろしそうだから釘を刺したんだから、僕にも余計なことすんなよだってさ」
「余計なことって…。何処までやったら余計な事なんだろうね?」
「祭具殿に忍び込んだりとか?」
「それをやらかしそうなのは雪じゃないでしょ~…?」
「僕に手網を握っておけってのもあるんでしょ。母さんにやらせろよなぁ…」
とはいえ、悟史は行方不明にならず。北条鉄平夫妻も存在しない。そんなカケラで詩音がわざわざ祭具殿に忍び込む理由があるのか、という話でもあるのだが。
今頃魅音になりすまして圭一を虐めているであろう姉の姿を想像し、思わず雪は苦笑いを浮かべる。
詩音の独壇場になっているか、レナのかぁいいモードが猛威を奮っているか。どちらにせよ、今日も圭一の勝ちの目はない事だろう、と。
「ああそうだ、夕飯こっちで食べてくことになったからね」
「お、雪が本家でご飯を食べるなんて珍しいねぇ。遂にあ~んされたくなった?」
「どうして本家でやるんだよ。ウチでやればいいでしょ、ウチで」
「雪ん家ならやってもいいってこと!?」
「揚げ足を取らないで貰ってもいいかなぁ!?ウチでも禁止だよ!!禁止!!」
声を張り上げたのも束の間。言っても無駄だということを改めて認識した雪は、盛大に項垂れ。地面を眺めながら、続けて口を開く。
「……魅音が帰ってくる前に風呂、済ませておけば。あれは長風呂だからさ」
「長風呂なのは雪の方でしょ~…。でも、ま、確かに先に入ってた方がいいかもしんないね。もうちょっとしたら帰ってくるだろうし」
「魅音が帰って来たらもっと姦しくなるのか…。いやいつも通りか……?」
「毎日騒がしいみたいな言い方しないでくれる?」
「事実だろ事実……。って、人の髪の毛で遊ばないでくれる!?禿げたらどうすんの!?」
「義郎おじさんから
「どう?じゃねーよっ!いいから早く風呂行け!僕が入る時間が遅くなるだろうが!」
逃げるように縁側から小走りで遠ざかる魅音の背をぼんやりと眺めていた雪はほんの一瞬だけ笑みを浮かべ。乱された髪を手櫛で整えながら、庭に立ったままの彼女へと視線を戻した。
しかして、羽入を見ているようでその実態は捉えられていないらしく。残念ながら羽入の目と雪の目が合うことは無かった。
「……随分と早い戻りだったみたいだね。僕としてはもう少しあの羽入を眺めていたかったんだけど」
そう言いながらも、彼の表情は残念がっているものには見えなかった。寧ろ今の状況を面白がっているかのような、そんな風にすら見えてしまう程度にはいい笑顔だった。
「
やはり横に居るナニカと喋る雪の姿に、羽入は目を僅かに細める。
彼女の存在自体は理解している。それに加え、何となしに原因は理解しているつもりだが、確証を得ることが出来ない現状に、彼女らしからぬ舌打ちを鳴らすのだった。まあ、その舌打ちが誰かに届くことも無かったのだったが。
「記録は残ってるだろうけど、古手は聖ルチーア学園に通う未来を知った。どうやら、我が身に
かつて、北条沙都子がエウアと名付けた自称神が起こした出来事。それを羽入は
知っていてなお、彼女はそれを梨花に話さないことを選んでいた。それはこの羽入が
「君が以前、僕を付け回していた頃…、いや今もか。兎に角、見たものを古手に伝えていないことがわかった。まあ、正確には伝えられないと言った方が正しそうだけど。それは古手自身の目で実際に見る必要がある、多分そんな所だろう」
梨花の死を見届けたことがあったとしても、それは梨花が知らないのだから、羽入には口外する権利も無い。
それはルールなのだ。かつて、そうであったように、羽入という
「だから、鷹野三四が犯人であることを伝える前に話を遮らせてもらった。君が古手に伝えることができないように、僕もそれに則った。後は、
湯呑を口に運び、中身が無いことに今更気が付いた雪は饅頭の乗っていた皿を空いた手に取るとゆっくりと立ち上がり、
「まぁ、うん。とてとて、こうは言ってる僕ではありますが。こないだ古手にも伝えたんだけども、ルールZの錠前が開くのはあまり嬉しくは無いんだよね。今の古手梨花がその錠前に手が届くかどうかすら分からないこの状況で、北条鉄平を生かしておく理由は僕にはないし、錠前が開いたその結末だけは、僕は見たくないからね。だから君がその立ち回りしかできないのは、僕にとっては喜ばしい事だよ。古手にとってみれば、裏切り者なんだろうけどね」
と、言い残し、彼もまた縁側から離れていくのだった。