カオルからのメッセージは、ひどく簡素だった。
『話がある。二十時。ここに来てくれ』
本文はそれだけ。
あとは店の位置情報だけが、無機質に添えられている。
それを受け取った瞬間、それぞれが少しずつ違う顔をした。
◇
ユアンは、端末の画面を見たまま舌打ちした。
「なんだよ、急に」
独り言のつもりだった。
だが、言葉の端には苛立ちよりも戸惑いの方が強かった。
昨日の今日だ。
しかも送り主はカオル。
あいつの方から、こんなふうに“話があるから来てくれ”などと送ってくるのは珍しい。
いや、珍しいどころか、ほとんど初めてかもしれない。
ユアンはベッドへ端末を放り投げ、天井を見上げた。
「何の話だよ……」
謝罪か。
説教か。
それとも、“やっぱりチームは解散だ”という話か。
どれもあり得る。
どれも、昨日の空気なら十分あり得た。
だが、端末を見つめ直したユアンは、短く息を吐いてから起き上がった。
「……行くしかねえだろ」
行かなければ、たぶん気になる。
行って嫌な話をされる可能性はある。
でも行かなければ、もっと嫌な想像だけが膨らむ。
ユアンは髪をかき上げ、上着を掴んだ。
◇
ナミは宇宙管理局の端末室から出たところで、そのメッセージを受け取った。
端末に表示された短い文面を見て、足が止まる。
「……カオルから」
周囲に人がいないことを確認してから、もう一度読み直す。
誤読の余地はない。
話がある。来てくれ。
簡潔すぎる。
それが余計に緊張を誘った。
ナミは、その場で端末を閉じようとして、やめた。
また開く。
地図を見る。
店の位置を確認する。
会社から少し離れた、古い居酒屋だった。
「……何を言われるんだろ」
昨日、あれだけ感情をぶつけた。
降りる、とまで口にした。
ククルにも言われた。
クリスタルからも話を聞いた。
だから、ある意味では昨日より落ち着いている。
でも、だからといって平然と行けるほど整理しきれてもいない。
ナミは端末を胸の前で持ち、しばらく考えてから小さく呟いた。
「逃げないで行くって決めたんだから」
それは誰かに言うためではなく、自分へ言い聞かせる声だった。
◇
シンゴは、工具箱の中身を整理している時にメッセージを受け取った。
「え、カオルから?」
目を丸くしたまま、すぐに読み返す。
そして次の瞬間には、妙に慌て始めた。
「話って何だろ……え、いや、待って、今の状態で話って重いやつかな。いやでもご飯屋さんだし……ご飯屋さんで解散話ってするかな……でもカオルならするのかな……」
独りで勝手に考えて、独りで勝手に沈みかける。
それがシンゴらしい。
だが結局、工具箱の蓋を閉めた時には、もう行く気になっていた。
「……ちゃんと聞こう」
逃げたいわけじゃない。
むしろ昨日のあと、自分から話さなきゃいけないことが山ほどあると分かっていた。
だから、こうして場を作ってくれたのなら、行くしかない。
シンゴはいつもより少しだけきちんと髪を整え、それから工具油の匂いがついた手を念入りに洗った。
◇
キャットは、メッセージを見るなり笑った。
「へえ」
それだけ言って、ソファに深く座ったままもう一度読み返す。
「話がある、ねえ」
短い文面の中に、妙に不器用な誠実さがにじんでいた。
あの男らしい、と言えばらしい。
昨日、最後に見たカオルの顔を思い出す。
険しくて、でもどこか、思っていたよりちゃんと傷ついていた顔。
キャットは片足を組み替えながら、小さく笑った。
「逃げないのは嫌いじゃないわ」
誰に聞かせるでもない独り言。
それから立ち上がり、鏡の前で髪を軽く整える。
大げさに着飾るつもりはない。
けれど“ただ呼ばれたから行く”ではない顔はしておきたかった。
◇
カイエは、メッセージを見た時、すぐには動けなかった。
端末を持ったまま、しばらく呼吸が止まる。
「……カオル」
その名前を、小さく口にする。
昨日、公園でルナと話したことなど、カイエは当然知らない。
知るはずもない。
だから、今このメッセージだけが、カイエにとっては答えだった。
カオルは逃げなかった。
少なくとも、昨日のあの空気を無かったことにはしないつもりなのだ。
その事実に、胸がじんと熱くなる。
カイエはゆっくり目を閉じてから、短く息を吐いた。
「……よし」
それだけで、迷いは少し消えた。
昨日、自分は“嫌がらせだと思う”と言った。
ククルを怒らせた。
チームを整えるどころか、自分が一緒に空気をこじらせた。
なら、今日行くべきだ。
話があるなら、ちゃんと受ける。
自分も話す。
カイエは鏡の前で髪を結び直し、真っ直ぐ立った。
◇
店は、コロニーロカA2の外縁寄り、会社街の賑わいが少し落ち着いた区画にあった。
大きすぎず、小さすぎず。
木の看板と暖簾のある、昔ながらの居酒屋だ。
店先には白い提灯が下がっていて、外から見えるカウンターの奥で湯気が立っている。
最初に来たのはユアンだった。
「……早すぎたか」
腕時計を見る。
約束の十五分前。
入るか迷って店先で立ち止まっていると、後ろから足音がした。
「ユアン」
振り返るとナミがいた。
「あ」
ユアンが言う。
「……おう」
「こんばんは」
ナミは一応そう言ったが、どこか歯切れが悪い。
「……こんばんは」
互いに、昨日のことを思い出しているのが分かる。
挨拶はした。
でもそこから何を続けていいか分からない。
気まずい沈黙の中で、二人とも店先の提灯を見た。
「入る?」
ナミが言う。
「まあ……来たしな」
先に暖簾をくぐったのはユアンだった。
後ろからナミが続く。
個室ではなく、小上がりの座敷席が一つ、予約札付きで取られていた。
六人くらいが余裕で座れる大きさだ。
二人は向かい合わないように少し斜めに座った。
「何頼む?」
ユアンが手元のメニューを見ながら言う。
「全員揃ってからでいいんじゃない」
ナミが答える。
「……そうだな」
また沈黙。
店員が水だけ置いて去っていく。
そのタイミングでシンゴが駆け込んできた。
「ご、ごめん、遅れて――って、あ、まだだった」
「遅れてない」
ナミが言う。
「まだ時間前」
「そ、そう?」
シンゴは少しほっとした顔で座る。
「よかった……」
その数分後にキャットが来た。
「早いわね、みんな」
声はいつも通り、どこかのんびりしている。
けれど、その“いつも通り”に少し救われる空気があった。
「まあ」
ユアンが言う。
「呼び出し食らったみたいなもんだしな」
「そういう言い方」
ナミがぴしゃりと言う。
「本当だろ」
「まあまあ」
キャットが笑う。
「まだ始まってないんだから、噛まないの」
シンゴが、そこで小さく笑った。
ほんの少しだけ、空気が動く。
最後にカイエが来た。
「ごめん、待たせた?」
「いや」
ユアンが言う。
「ちょうど今」
「そっか」
カイエが座る。
視線が一度、全員を回る。
昨日と違って、誰も今は戦闘態勢ではない。
でも安心しきってもいない。
その微妙な硬さが、そのまま座敷の空気になっていた。
誰かが何かを話し出せば、たぶん普通に会話はできる。
でも最初の一言が見つからない。
「……」
「……」
水を飲む音だけがやけに大きい。
「カオル、遅いね」
シンゴがぽつりと言った。
「わざとじゃない?」
キャットが言う。
「先に全員座らせてから来るつもりとか」
「ありそう」
ナミが言った。
「ありそうだな」
ユアンも小さく同意した。
その時、暖簾の向こうで人影が止まった。
次の瞬間、カオルが入ってくる。
いつものように無駄のない足取り。
けれど、今日は少しだけ違った。
ただ歩いてくるだけなのに、“ちゃんと話しに来た”という気配があった。
「悪い、待たせた」
「いや」
カイエが言う。
「今来たところ」
カオルは席についた。
全員を一度ずつ見る。
その視線は短いが、逃げていない。
そして、最初に口を開いた。
「サヴァイヴにいた時、よく揉めたりすると、皆んなで飯を食ってから話をしてた。今日はそれに習ってみた」
その一言で、全員の顔に少しだけ驚きが浮かんだ。
ユアンが先に反応する。
「……飯?」
「ああ」
カオルは頷いた。
「空腹だと、言葉が尖る。腹に入れてからの方が、少しはまともに話せる」
キャットがふっと笑う。
「へえ〜案外、そういうの覚えてるのね」
「覚えてる」
カオルは短く返した。
「実際、あのやり方で救われたことも多い」
それから、手元のメニューを少しだけ押しやる。
「だから先に頼もう。今日は俺が払う」
「は?」
ユアンが思わず顔を上げる。
「なんで」
「呼んだのは俺だからだ」
「いや、そこは割り勘で――」
ナミが言いかける。
「今日は俺が払う」
カオルはもう一度言った。
「その代わり、遠慮なく食え」
その言い方に、ユアンが一瞬だけ目を細めた。
強引だが、妙に嫌ではない。
「じゃあ」
キャットが先にメニューを開いた。
「そういうことなら、遠慮しないわ」
「お前は本当にそうだろうな」
ユアンが呆れたように言う。
「失礼ね」
少しだけ笑いが起きる。
それだけで、さっきまでの座敷の重さが少しやわらいだ。
◇
注文は、最初こそ遠慮がちだった。
枝豆。
だし巻き卵。
焼き鳥盛り合わせ。
唐揚げ。
刺身。
ポテトフライ。
茶碗蒸し。
だが、キャットが「鍋もいいんじゃない?」と言い出し、シンゴが「揚げ出し豆腐も食べたい」と小さく乗っかり、結局テーブルの上はしばらくして皿で埋まり始めた。
湯気が立つ。
醤油の匂い。
焼き鳥の焦げた香ばしさ。
揚げ物の熱。
不思議なもので、料理が並ぶだけで、少し人は現実へ戻る。
最初に箸をつけたのはカオルだった。
「食え」
短く言う。
「だから、命令形なのよ」
ナミが呆れたように言った。
「じゃあ、どう言えばいい」
「“食べてくれ”とかあるでしょう」
「食べてくれ」
「今のはただ言い換えただけ」
「難しいな」
そう言ったカオルに、今度はシンゴが本当に笑った。
小さかったが、確かな笑いだった。
誰かが食べ始めると、他も続く。
「……うま」
ユアンが、焼き鳥を一口食べて呟く。
「本当だ」
シンゴが頷く。
「塩ちょうどいい」
「この店、前に一回来たことある」
カイエが言った。
「煮物が美味しいんだよね」
「じゃあ追加」
キャットがすぐ言う。
「早い」
ナミが突っ込む。
それでも、また少し笑いが起きる。
完全に元通りではない。
でも、“もう二度と同じ卓につかない”みたいな最悪の空気ではなくなっていた。
料理が少し行き渡った頃、カオルが箸を置いた。
その動きだけで、他も自然と手を止める。
「……昨日は悪かった」
カオルは真っ直ぐに言った。
「俺が切りすぎた。短くすることと、渡すことを同じだと思ってた。お前らに仕事を渡すんじゃなく、“これで分かれ”って投げてた」
静かな声だった。
大きくないのに、座敷の空気を正面から変える声だった。
ユアンが、少しだけ顔をしかめる。
「お前だけじゃない」
「分かってる」
カオルは頷いた。
「でも、まずは俺から言う」
そこから、少しだけ間が空く。
カオルは、テーブルの上ではなく、その先のどこかを見るように話し始めた。
「もう昔だが、俺はアストロノーツ養成学校にいた時、同じ学年で俺より上をいく奴が二人いた」
その言葉に、誰も口を挟まない。
「操縦から座学、人間性、全部完璧だった。本当に腹が立った。いつか超えてやるって、ずっと思ってた」
ユアンが、小さく眉を上げる。
ナミも視線を動かす。
カオルが、ここまで自分の“悔しさ”を口にするのは珍しかった。
「でも俺は失敗して、一度宙から離れた」
カオルは淡々と言う。
「離れた時間、ずっと止まっていた。だが、サヴァイヴで俺はもう一度、宙に戻ると決めた。そこからずっと考えてた。何が足りなかったのか、何を失って、何をまだ持ってるのか」
湯気の立つ鍋の向こうで、カオルの横顔はいつもより少しだけ硬かった。
「そして、こうしてまた宙に戻った。戻った時、俺はもう一度誓ったんだ。そいつを追い越すって」
カイエが、そこで小さく息を呑む。
「一人は、今もS級パイロットだ。もう一人は、もういない。」
短いその言葉が、座敷へ重く落ちた。
シンゴが、そっと箸を置き直す。
キャットも、今は茶化さない。
ナミは真っ直ぐカオルを見ていた。
「今回の探索シミュレーションで、俺はS級パイロットより上の実力を示したいと思ってる」
カオルが言う。
「だが今のS級パイロット達は全員、怪物だ。俺一人じゃ、太刀打ちできない」
そこで、一度だけテーブルの全員を見る。
「それでも勝ちたい。勝つには、ここにいるメンバーの力を借りるしかない。だから改めて、俺に力を貸してほしい」
言い切ってから、カオルは座ったまま深く頭を下げた。
誰も、すぐには言葉を返せなかった。
カオルが頭を下げる。
それだけで十分すぎるほどの重さがある。
しばらくして、最初に動いたのはユアンだった。
「……やめろよ、そういうの」
ぶっきらぼうな声だった。
けれど、そこにさっきまでの刺はない。
「お前が頭下げると、こっちが余計に言いづらくなる」
カオルは頭を上げる。
ユアンは、少しだけ視線を逸らしてから言った。
「昨日は悪かった。俺、張り合いすぎてた。お前に食ってかかること自体が、半分癖みたいになってた。副操縦士として噛まなきゃいけない場面もあったと思う。でも、あれは違った。“俺が認めてない”って意地の方が前に出てた」
そこまで言ってから、ユアンは軽く舌打ちした。
「……ダサいよな」
「ダサくない」
カオルがすぐ返す。
「いやダサいだろ」
ユアンが睨む。
「でも、認める。俺はお前に張り合ってた。お前が前にいるのがムカつく時もあった。でも同時に、あの映像見せられて一番思ったのは、“俺たち、このままじゃ負ける”だった」
その“負ける”という言葉に、カオルの目がほんのわずかに細まる。
「だから」
ユアンは言う。
「力は貸す。ただし遠慮はしない。お前が変な切り方したら、今度はちゃんと噛む」
「それでいい」
カオルが言った。
「それに」
ユアンが少しだけ笑う。
「S級に勝つとか、面白そうだしな」
その言葉で、場に少し熱が戻る。
次に口を開いたのはナミだった。
「私も、謝ります」
言葉は整っていた。
でも、声の奥は少しだけ硬い。
それがかえって、今の彼女の本音らしかった。
「私は“正しい順番”を守ろうとしすぎた。その順番から外れるものを、全部直さなきゃいけないと思ってた。だから、人の言葉の温度まで管理しようとした、それが必要な時もあるけど、少なくとも昨日の私は違った。私はもう、“整える”じゃなくて“押しつける”に近かったと思う」
ナミは、そこで少しだけ目を伏せる。
「それに……自分でも分かってた、余裕がなくなってるって。でも、その余裕のなさを認めたくなかった。認めたら、自分が一番ダメになる気がして」
「ナミ」
シンゴが小さく名前を呼ぶ。
ナミは首を振った。
「でも、違った。認めない方が、もっとダメだった。だから……もう一回やらせてほしい。今度は、“正しいこと”だけじゃなくて、“どう渡すか”も含めてやる」
カオルが短く頷く。
「ああ」
シンゴは、二人を見てから、自分の膝の上で握った手をほどいた。
「僕も……僕も、ごめん」
声は小さい。
でも、逃げていなかった。
「僕、気を遣いすぎてた。間違えたくないって思いすぎて、出すべき時に出せなかった。メカニックとして、見えてることはあったのに、“これ言ったら邪魔かな”とか、“今じゃないかな”とか考えて、遅れた。それって結局、チームを助けてるんじゃなくて、自分を守ってただけだったかもしれない」
シンゴは、そこで少しだけ笑った。
自嘲気味の笑いだ。
「僕、機械は好きだけど、人に言葉を投げるのはまだ苦手なんだと思う。でも、探索って、機械だけ見てればいいわけじゃない。だから逃げない。必要な時は、もっと先に出す。そのかわり……」
少しだけ困ったように視線を揺らす。
「言い方、変だったら教えて」
「それは俺が言う」
ユアンが即答した。
「いや、ユアンだとちょっと怖い」
「失礼だな」
小さく笑いが起きる。
キャットは、そのやり取りを見ながらグラスの水を一口飲んだ。
「じゃあ、私も言う番ね」
全員の視線が向く。
「昨日、“降りる”って言ったのは本心半分、試し半分」
キャットはあっさり言った。
「このチームが、本当にそこで切れるのか見たかった。止める人がいるのか、止められないまま壊れるのか……悪趣味よね」
「自覚あるんだ」
ナミが言う。
「あるわよ」
キャットは肩をすくめる。
「ただ、私は私で、“軽い方が全体のバランスが取れる”って思いすぎてた。実際は違った。軽く見えることと、軽くしてあげることは別だった。私はそこを履き違えた」
そして、ほんの少しだけ目を細める。
「でも収穫もあった。カオルはちゃんと降りなかった。ナミはちゃんと怒った。ユアンは意地を剥き出しにした。シンゴは最後まで残った。カイエは逃げなかった。ククルは本気で叱った。悪くないわ」
「最後だけ褒め言葉っぽくするな」
ユアンが言う。
「だって事実だもの」
キャットが笑う。
そこで、最後にカイエが口を開いた。
他の四人が順に反省や謝罪を言うのを、ずっと静かに聞いていた。
だがその目は、さっきまでの迷いだけではなかった。
「私は」
カイエが言う。
「反省なんてしなくていいと思う」
その一言に、全員が少しだけ驚いた顔をした。
カイエは、真っ直ぐに続ける。
「いや、悪かったことはあるよ。昨日のことを無かったことにするつもりもない。でも、今みんなが言ったことって、結局は“それぞれの強さ”でもあるでしょう?」
ナミが、わずかに眉を上げる。
「ユアンは噛める。ナミは順番を見られる。シンゴはちゃんと深く見る。キャットは一歩引いたところから全体の歪みを見つけられる。カオルは前で決められる」
カイエは、一人ずつを見る。
「今のままでいい、その尖りを消したら、たぶん弱くなる」
そして、自分の胸へ軽く手を当てた。
「それを私が整える。皆んなの持っている力を最大限に活かして、皆んなに渡すために、コックピットコンディションがいるんだもの」
その言葉は、宣言だった。
昨日のカイエなら、ここまで言い切れなかったかもしれない。
でも今は、もう少しだけ違っていた。
「私、ずっと勘違いしてた。コックピットコンディションって、全部拾って、全部繋ぐ役だと思ってた。でも違う。ずれた温度を戻して、必要な相手に必要なものを渡す役なんだと思う。だから、みんなは今のままでいい、その代わり、私ももっとちゃんと見る。誰が今、どこで詰まってるのか、どの言葉を、どの相手に、どう渡せば流れるのか、そこは私がやる」
カオルは、その言葉をじっと聞いていた。
そして、静かに頷く。
「よろしく頼む」
カイエはまっすぐ見返して答えた。
「うん。任せて」
その時だった。
暖簾の向こうから、ばたばたと慌ただしい足音が近づいてきた。
次の瞬間、
「ごめん! 遅れちゃった!!」
勢いよく入ってきたのはククルだった。
髪が少し乱れている。
肩で息をしている。
しかも、片手にはまだ端末を持ったままだった。
座敷の全員が、一瞬だけ呆気に取られて、それからほとんど同時に息を吐いた。
「……お前、ほんとにそういうタイミングだな」
ユアンが言う。
「ご、ごめん!」
ククルが頭を下げる。
「映像見てたらつい!」
「つい、で時間溶かすのはククルくらいだよ」
シンゴが苦笑する。
ククルは、へへ、と気まずそうに笑ってから、空いている席を見た。
「えっと……座っていい?」
「丁度いいところに来たな」
カオルが言った。
ククルが、ぴたりと止まる。
「え?」
カオルは、ククルを真っ直ぐ見た。
「追加メンバーはククルに頼みたい」
その言葉に、ククルは目を丸くした。
「……は?」
「この中で、未探索領域を経験してるのはククルだけだ」
カオルが言う。
「実地の空気を知ってる。未知の場所で、人がどう硬くなるかも、逆にどうやって動き出すかも、少なくとも俺たちより分かってる。力を貸してくれ」
ククルは、完全に固まっていた。
昨日まで、こんなことを言われるとは思ってもみなかったのだろう。
驚きがそのまま顔に出ている。
「で、でも……」
ククルが言う。
「私、今のメンバーより全然……だって、操縦もシステムもメカも――」
「そういう話じゃない」
ナミが、今度は真っ直ぐに言った。
「あなたにしか見えないものがある」
ククルがそちらを見る。
「私達、昨日そこを見落としてた」
ナミは言う。
「未探索領域の“情報”じゃなくて、“空気”。人がどう縮むか、どう怖がるか、どう戻るか、それを経験で知ってるのは、あなた」
「うん」
シンゴも頷く。
「機械の数値とか航路の話だけじゃなくて、そこで人がどうなるかって、すごく大きいと思う」
「それに」
ユアンが少しだけ気まずそうに言う。
「昨日、あれだけ啖呵切っといて、今さら外から見てるだけってのもなしだろ」
「ちょっとそれ言い方」
ナミが言う。
「でも本音だ」
ユアンが返す。
「ククル、お前があそこまで言ったなら、俺は一緒にやりたい」
キャットも、口元を少し上げた。
「未探索領域経験者って肩書きだけじゃないわ。あなた、空気が死んだ時に一番先に分かるタイプでしょう?そういう人、追加一名としてはかなり貴重よ」
カイエは、最後に柔らかく言った。
「ククル、私は、いてほしい。みんなの間を走り回れるのも、空気が変わった時にすぐ顔に出るのも、今のチームには必要だと思う」
ククルは、言葉を失っていた。
嬉しい。
でも怖い。
その両方が、分かりやすいくらい顔に出ている。
「でも……」
ククルはもう一度言った。
「私、また失敗したら……」
それは、十班応援の時のことを言っていた。
誰もその単語を出さなかったのに、全員に分かった。
カオルは、その言葉に少しだけ表情をやわらげた。
「失敗しても、今度は一人にしない」
短い。
でも、強かった。
「俺たちはチームだ。一人で抱えさせない。だから来てくれ」
しばらくの沈黙。
ククルの目が、順番に皆を見た。
ユアン。
ナミ。
シンゴ。
キャット。
カイエ。
そしてカオル。
誰も、目を逸らさなかった。
ククルの胸が、きゅっと熱くなる。
嬉しい。
怖い。
でも、やりたい。
その全部を抱えたまま、ククルはぎゅっと拳を握った。
「……分かった!」
顔を上げる。
「やる!」
その瞬間、座敷の空気がぱっと明るくなった。
シンゴが「よしっ」と小さく拳を握り、ユアンは「そうこなくちゃな」と笑う。
ナミも、ほんの少しだけ口元を緩めた。
キャットは肩をすくめる。
カイエは、心からほっとしたように息を吐いた。
カオルも、短く頷く。
「ありがとう」
「う、うん!」
ククルは慌てて座りながら言う。
「でも、お腹空いた!走ってきたから!」
「そこは通常運転だな」
ユアンが言う。
「ククル、何食べる?」
カイエがメニューを差し出す。
「えっと、唐揚げ! だし巻き! あと鍋まだある!?」
「あるわよ」
キャットが笑う。
「さっき追加したもの」
「さすがキャットさん!」
「褒めても何も出ない」
「じゃあ後で褒める!」
「意味が分からないわね」
また笑いが起きる。
それは、昨日までのぎこちない笑いではなかった。
まだ全部が元通りではない。
でも、少なくとも同じ方向を見て笑える空気だった。
◇
料理がさらに追加され、ククルが本気で食べ始める頃には、卓の空気はだいぶ変わっていた。
「で、ククル」
ナミが言う。
「映像、どこまで見てたの」
「え?」
ククルが唐揚げを頬張ったまま顔を上げる。
「三回くらい最初から最後まで!」
「見すぎ」
ユアンが言う。
「だって意味あると思ったんだもん!」
「そこは、お前の勝ちだな」
キャットが言う。
「勝ち負けじゃないよぉ」
ククルがむっとする。
その顔に、ナミが小さく笑う。
「で、何が一番気になった?」
そう聞かれたククルは、途端に真面目な顔になった。
「エリンさん!エリンさんが、誰か一人の横にずっといないところ」
その答えに、カイエの目が少しだけ細くなる。
「ずっと誰かを助けるんじゃなくて、今ここが詰まってる、ってところにだけ一瞬入って、すぐ次を見るの。でも、放ってる感じじゃなくて、ちゃんとみんな見えてる。それがすごかった」
「うん」
カイエが静かに頷く。
「あとね」
ククルは続ける。
「みんな、自分の担当がなくなると焦るんじゃなくて、“空いた”って分かったら自然に入ってた。マリさんとかサツキさんとか、ペルシアさんが仮に負傷した時も、“えっどうしよう”ってならなかったじゃん。ちゃんと怖かったはずなのに、止まらなかった」
シンゴがそれを聞いて、小さく頷いた。
「うん……僕そこだった。止まらないんだよね。しかも無理してる感じじゃなくて」
「たぶん」
ナミが言う。
「“次に誰が入るか”のイメージがみんなの中にあるからだと思う。役割表じゃなくて、流れとして持ってる」
「それ、明日やろう」
カイエが言った。
「役割表を増やすんじゃなくて、“誰が抜けた時、誰がどこまで入るか”をみんなで作る」
「いい」
カオルが頷く。
「最初にそこを決める。その上で回す」
「だったら」
ユアンが言う。
「俺は副操縦士として“操縦の補助”だけじゃなくて、一時的にシステム側へどこまで目を伸ばせるか整理する」
「私は」
ナミがすぐ続ける。
「システムエンジニアとして、順番を守るだけじゃなくて、誰が受けやすいかも含めて渡し方を調整する。あと、通信寄りの補助フローも作る」
「僕は」
シンゴが言う。
「メカの仮説を出す時に、時間と優先度を一緒に出すようにする。待てる形で出したい」
「私は」
キャットが箸を置いて言う。
「医療と現場対応の線引きをもう少し明確にする。兼任した時、どこから誰に渡せるか、整理する」
「私はコックピットコンディションとして」
カイエが言う。
「流れの詰まりを見つけて、一拍早く戻す。“抱えないで整える”」
最後に、全員の視線がククルへ向く。
「わ、私!?」
ククルが驚く。
「追加メンバーなんだから当然でしょ」
ナミが言う。
「え、えっと……」
ククルは少し考えてから言った。
「私は、未探索領域で人がどう固まるかを見てる。それと、視野が狭くなってる人を見つける。たぶん、そこなら出来ると思う」
「十分だ」
カオルが言う。
その一言に、ククルは照れくさそうに笑った。
◇
夜は更けていった。
鍋の汁が少なくなり、空いた皿が積み上がり、最初の気まずさはもうどこにもなかった。
とはいえ、全部が解決したわけではない。
明日になればまたぶつかるかもしれない。
シミュレーションを回せば、今日整理したものでは足りない穴も見つかるだろう。
それでも今は、ちゃんと同じ卓を囲んでいる。
同じものを食べ、同じ目線で先を見ようとしている。
それだけで十分大きかった。
「そういえば」
ナミがふと思い出したように言う。
「サヴァイヴの時って、揉めた後ほんとにこうやってご飯食べてたの?」
「ああ」
カオルが言う。
「誰が一番食べてたの?」
ククルが聞く。
「ハワード」
カオルが即答した。
「想像つく!」
ククルが笑う。
「あとチャコも」
カオルが続ける。
「緊張すると、食う量が増えた」
「猫型ロボット?」
キャットが聞く。
「ああ」
カオルが少しだけ懐かしそうに言う。
「うるさくて、よく喋って、でも頭が切れた」
「なんか会ってみたいかも」
キャットが言う。
「俺は遠慮したい」
ユアンが言う。
「絶対うるさいだろ」
「うるさい」
カオルが言った。
「でも、助かったことは多い」
「……そういう仲間、いいね」
ククルがぽつりと言う。
その言葉に、カオルはほんの少しだけ目を細めた。
「今は、ここがそうなればいいと思ってる」
その一言は、大きくなかった。
けれど、誰の胸にも静かに届いた。
カイエが、やわらかく笑う。
「なれるよ」
「うん」
シンゴも頷く。
「まずはちゃんと回してからね」
ナミが現実的に言う。
「その後、勝つ」
ユアンが言った。
「勝つ、か」
キャットが笑う。
「嫌いじゃない響きね」
ククルは、そんな皆を見てにこっと笑った。
「じゃあ明日から、ちゃんと勝ちにいこう!」
勢いのあるその声に、店の奥の客が少しだけこちらを見た。
ククルは「あ、ごめんなさい」と慌てて口を押さえる。
それがまたおかしくて、全員が笑った。
カオルは、その笑いの中で静かに息を吐く。
昨日までとは違う。
まだ完成には遠い。
でも、ここからなら行ける。
S級の怪物に勝つ。
あの頃追い越せなかった背中を、今度こそ越える。
そのために必要なのは、もう“自分一人で飛ぶこと”ではない。
ここにいる全員の力を、繋げて、渡して、前へ出すことだ。
「明日、九時」
カオルが言う。
「シミュレーションルーム集合。映像の分解から始める。そのあと、役割の仮組み。昼から一本目を回す」
「了解」
ナミ。
「分かった」
ユアン。
「うん」
シンゴ。
「はいはい」
キャット。
「任せて」
カイエ。
「はーい!」
ククル。
返事は揃わない。
でも、それが今のこのチームらしかった。
そして、その揃わなささえ、どこか心地よく感じられる夜だった。