銀河英雄伝説 〜無能なる俗物が勘違いで英雄に祭り上げられ、気づけば貴族連合盟主としてラインハルトと雌雄を決する件について〜 作:斉宮 柴野
彼の一日は、恋人との穏やかな朝から始まり、総統府の調整、軍部との会話、そして共和国を揺るがす不穏分子への対処へと続いていく。
ヤン総統の理想を守るため、ユリアンは今日も静かに闇を処理する。
自由惑星共和国の最高権力者は誰か。
ヤン・ウェンリー総統は権力の行使を躊躇い、ヨブ・トリューニヒト高等参事官の権限は限定的であり、アレックス・キャゼルヌ後方勤務司令官に野心は存在しない。
現在の共和国で最も強い権勢を持つのは、特別高等警察局長ユリアン・ミンツ大佐である。
ヤン総統の庇護下にありながら閣僚や元帥からの信頼を集め、対立する派閥の者たちすら彼には好意的な態度を示すからだ。
これは、彼の一日の記録である。
【高級将校居住区】
微睡みの名残が漂う寝室。
視界の端でシーツが微かに擦れる音がする。
「おはよう、ユリアン。……おはようのキスは?」
気怠げな声音が、朝の静寂に溶けていく。
特高局長の副官であり、結婚を前提に付き合っているカリンだった。
「うん、おはよう。カリン」
肌に触れる指先の温もりが、現実の朝を実感させる。
二人の唇が触れ合い、互いの体温を確かめる。
「ん……。もう朝か。全然寝足りないわね。最近、特高の仕事が激務すぎるんじゃないの?」
「仕方ないよ。新体制になってから、内部の不満分子を監視しつつ、外部からのスパイ活動にも目を光らせないといけないからね。それに、ヤン提督……じゃなかった、総統閣下が相変わらず書類仕事から逃亡しようとするから、それを捕獲する業務も特高の裏任務になっているんだ」
「本当に総統の自覚あるのかしら。昨日なんて、私が執務室に報告書を持っていったら、机の下に隠れて居留守を使おうとしたのよ。はみ出た足の先を踏みつけてやったわ」
「あはは……。カリンは容赦ないね。でも、総統閣下も急に国家元首なんて立場に押し上げられて、ストレスが溜まっているんだと思うよ。本人は退役して年金暮らしをして、歴史の研究だけをしていたいってずっと言っていたからね」
「そんな甘ったれたこと言ってる場合じゃないでしょ。これだけの人間の命と生活が懸かっているんだから。そもそも、ユリアンが甘やかしすぎるのよ。私が特高局長だったら、毎朝五時に叩き起こして、ランニングさせてから書類の山に埋めてやるわ」
容赦のない提案に、思考の端が緩む。
「それじゃ総統閣下が過労で倒れちゃうよ。ただでさえ、フレデリカさんの手前、堂々とお酒が飲めなくてストレスなんだから」
「自業自得よ。フレデリカさんももうすぐお母さんになるんだから、あの不良中年も少しは父親としての自覚を持つべきね。うちの不良親父だって、最近は少し丸くなったっていうのに」
「シェーンコップ大将のこと? 確かに、最近はあまり無茶な夜遊びの話は聞かないね」
「年齢のせいよ。単に体力が落ちてるだけだわ。それに、私の前ではいい父親ぶろうとしてるのが見え見えで、余計に腹が立つというか、気持ち悪いというか……。この前なんて、急に『娘のウエディングドレス姿を見るのが父親の夢だ』なんて言い出して、寒気がしたわ」
「それは……大将なりの愛情表現なんじゃないかな。僕としては、認めてもらえるならありがたいんだけど。結婚については、僕も真剣に考えているし」
「えっ……。そ、そう。ユリアンがそう言うなら、まあ、考えてあげなくもないけど……」
「照れてるカリンも可愛いよ」
「ちょっと、からかわないでよ。もう一回キスして」
甘やかな空気が、再び二人の間を満たしていく。
◇
【総統府・執務室前】
午前八時。
制服に着替え、意識を職務へと切り替える。
執務室の前では、身重のフレデリカが出迎えてくれた。
「おはようございます、大佐。ヤン総統は?」
「先ほどお目覚めよ、ユリアン。今日の決済書類のほうは私の方で確認済みよ。ユリアンの方のスケジュールで、追加事項はある?」
「はい。本日は人的資源委員のホアン・ルイ委員長と会食予定でしたが、向こうの都合によりキャンセルとなりました。代わりに、最近の軍の働きを労う意味も兼ねて、ロボス元帥、ホーランド元帥、アッテンボロー元帥、グリーンヒル元帥、キャゼルヌ元帥との会食に変更いたしました。他の高級士官についても、逐次案内予定です。総統が孤立しないよう、軍部とのパイプを強固にします」
「完璧な手配ね。わかったわ。ホアン委員長も忙しい方だから仕方ないけれど、いきなりのスケジュール変更にもすぐ対応できるなんて、さすがは特高局長ね」
「恐縮です。元帥の皆様にも、日頃のストレスを発散していただこうと思いまして。ただ、顔ぶれを見ると、かなり賑やかというか、混沌とした会食になりそうですが」
「ふふっ、目に浮かぶようね。ロボス元帥はお肉の焼き加減に文句を言いそうだし、ホーランド元帥は自分の武勇伝をひたすら語り続けるでしょうし、アッテンボロー元帥はそれを面白がって煽るわね。お父様は苦笑いしながら相槌を打って、キャゼルヌ元帥は予算の愚痴をこぼす。いつもの風景ね」
「ええ。そのいつもの風景を維持することが、今の我々にとって一番の安全保障ですから。特高としても、酒の席での本音を聞き出すいい機会になります」
「ユリアンもすっかり政治家ね。頼もしいわ。……あ、それと、夕食時のブランデーは抑えるように、ユリアンからも言ってくれない? あの人ったら、私の言うこと聞かないの」
「わかりました。あの人も、もうすぐ『お父さん』になるんですから、ご自身の身体に気をつけていただかないと。僕からもきつく言っておきます」
「本当にね。ガツンと言ってちょうだい。最近、私が紅茶を淹れると、こっそりポケットからスキットルを出して注ごうとするのよ。そのたびに没収しているんだけど、どこからあんなに隠し玉を調達してくるのかしら。諜報網を使って、あの人の隠し酒のルートを洗い出してほしいくらいだわ」
「それは……シェーンコップ大将か、アッテンボロー元帥あたりが怪しいですね。今度、特高の査察を入れておきます」
「お願いね。もう、子供が生まれるっていうのに、ちっとも父親になる自覚がないんだから。名前だって、私がいくつか候補を考えて見せているのに、『うーん、ユリアンに似た賢い子になるといいなぁ』なんて言って、真面目に考えようとしないのよ」
「総統閣下らしいですね。でも、きっと心の底ではすごく楽しみにしているはずですよ。照れ隠しだと思います」
「そうだといいけど。ユリアン、もし男の子だったら、ユリアンみたいにしっかりした子になるように教育してね。間違っても、あの人みたいな面倒くさがり屋にはならないように」
「責任重大ですね。僕にできることがあれば、なんでもしますよ。カリンにも手伝ってもらいます」
「カリンちゃんも、いいお母さんになりそうね。あなたたちも、そろそろ身を固める時期じゃない?」
「は、はい。そのあたりも、前向きに検討しています。ただ、今は国の基盤を固めるのが最優先ですから」
「真面目ね。でも、あまり無理はしないでね。あなたがいなくなったら、あの人は本当に何もできなくなっちゃうんだから」
「肝に銘じておきます」
◇
外交・貿易委員長であるルビンスキーの頭部にあった包帯は、いつの間にか外されていた。
「おお、ユリアン。良いところに」
「ルビンスキーさん。もう体調はよろしいんですか?」
「おかげさまでな。君のおかげで命拾いした。この通り、頭の傷も塞がって元の輝きを取り戻したよ。ドクターには毛根まで復活するかもしれないなんて冗談を言われたが、生憎と私はこのスタイルが気に入っているんでね」
「それは何よりです。フェザーン時代からのトレードマークですからね。それで、何か急ぎの用件ですか?」
「それよりも、これを見てくれ。帝国と公国の動向だが、やはり向こうは、表面上は政治的な正統性についてあやふやなまま進めるようだ。皇帝がアルブレヒトとサビーネの二人いるという矛盾を、明確には言及しないらしい」
「なるほど……。双頭の鷲、というわけですか。しかし、一つの国家に主権者が二人いる状態というのは、歴史的に見ても必ず内部闘争に発展しますよね。帝国側は、それを力業で押さえ込んでいる状態ですか」
「その通りだ。帝国の中枢も一枚岩ではない。アルブレヒトを戴く旧貴族派と、サビーネを推す新興官僚派。表面上は協力関係にあるように見せかけているが、水面下では激しい主導権争いが行われているはずだ。オーベルシュタインあたりは、この状況を利用して公国の地盤を盤石にしようと企んでいるに違いない」
「オーベルシュタイン元帥なら、やりかねませんね。彼は常に国家の理を優先する人物だと聞いています。個人の感情や正統性よりも、公国の存続と効率を最優先するでしょうから」
「ああ。だが、それゆえに反発も多い。我々はここから、どう動けばいいと思う?」
「これは外交的には強力なカードになると思います。しかし、今はまだ微妙な位置にありますね。アルブレヒトが正式に皇帝になった以上、揺らすのにも限度があります」
「その通りだ。今すぐこちらからつついたところで、内政干渉だと撥ね付けられるのがオチだ。むしろ、帝国側を団結させる口実を与えかねない。だが、公国の方が内政的に不安定になった時……このカードを切って、あちらの将兵の独立機運、あるいは帝国への戦争機運を煽ることは出来るかもしれん。切り時を見極めることだ」
「公国内部の不満分子に接触し、サビーネ女帝の正統性を主張させる、あるいは逆にアルブレヒト皇帝の威光を利用して公国政府を揺さぶる、というわけですね。特高の工作員を使って、情報操作や資金援助を行う準備はしておきます」
「頼もしいな。局長の権限をフルに活用してくれ。情報戦において、我々が後れを取るわけにはいかないからな」
「勉強になります。総統閣下にも伝えておきます」
「ああ。それと、トリューニヒト高等参事官にもだ。あの男は食えないが、このあたりの嗅覚は鋭い。大衆扇動の天才だからな。公国の民衆の不満を煽るようなプロパガンダを打たせたら、右に出る者はいないだろう。我々の味方は多いほうが良いからな」
「トリューニヒト参事官ですか。確かに、彼の演説は良くも悪くも人心を動かします。しかし、彼にあまり情報を与えすぎると、寝首を掻かれませんか?」
「そこは君の出番だろう。彼の手足を縛りつつ、口だけを利用する。美味しいところだけ吸い上げて、危険な部分は切り捨てる。それが政治というものだ。君なら、あの古狸を上手く飼い慣らせるはずだ」
「買い被りすぎですよ。でも、やるしかありませんね。共和国の未来のためにも」
「うむ。期待しているぞ、若き特高局長殿。私はこれから、フェザーン商人たちとの秘密裏の会合がある。経済的な面からも、帝国と公国に揺さぶりをかける準備を進めておくよ」
「よろしくお願いします。あまり無茶はしないでくださいね」
「心配無用だ。私のこの頭は、伊達に光っているわけではないからな」
遠ざかる足音を聞きながら、肺の底に溜まっていた空気を静かに押し出す。
特高局長の職務は、軍部や政治家の調整、外国への謀略など、心休まる瞬間が存在しない。
誰か代わってくれないだろうかという思いが、頭の片隅をよぎる。
◇◇
【軍令部・廊下】
書類を抱えた士官たちとすれ違う。
そのたびに敬礼が向けられるが、威厳が崩れる瞬間は思いがけない方向からやってきた。
「よぉ、ユリアン」
特高局長に対してこのような態度をとる人間は、共和国の中でも限られている。
「シェーンコップ大将……お疲れ様です」
「大将はやめろといつも言っているだろう。水臭いじゃないか。俺とお前の仲だ、もっと親しげな呼び方があるはずだぞ」
「親しげな呼び方と言われましても、公的な場ですから。それに、一応僕は局長という立場もありますし」
「公私混同を恐れるのは小役人のやることだぞ。俺としては、いつお前が俺のことを『父上』、あるいは『お義父さん』と呼んでくれるか、首を長くして楽しみにしてるんだがね?」
「なっ……」
想定外の単語に、思考が一瞬停止する。周囲を歩く士官たちの視線が痛い。
「そんな大声で言わないでくださいよ。それに、それは……いずれ平和が訪れれば、きちんと段階を踏んでからということで……」
「いずれ平和が訪れれば、か。模範的な優等生の回答だな。ヤン提督の悪い影響をモロに受けている。あの人も、そういう大事な決断を先延ばしにする悪癖があるからな。だが、俺は違うぞ。善は急げ、思い立ったが吉日だ」
「だからって、廊下の立ち話で済ませるような話題じゃないでしょう」
「まあ良い。焦らすのも恋愛の醍醐味だからな。だがな、ユリアン。これだけは言っておく」
声のトーンが変わり、真剣な響きを帯びる。
「俺は、三十代で『爺さん』になるつもりは微塵もないからな」
「……はい?」
「だ・か・ら。結婚するのはいくらでも勝手にやってくれていいが、子供を作るのは俺が四十路を過ぎてからにしてくれという話だ。わかるか? 俺みたいな現役バリバリのいい男が、若い娘を口説いている最中に『あれ? あの方、もうお孫さんがいらっしゃるのよ』なんて噂を流された日には、目も当てられない悲劇だ。俺のアイデンティティの崩壊だぞ」
「あの……シェーンコップ大将。今、三十五ですよね? 四十路なんてすぐそこじゃないですか」
「その数年が致命的なんだよ! 三十代のお祖父ちゃんと、四十代のお祖父ちゃんでは、世間の風当たりが全く違うんだ。三十代で孫がいるとなれば、ちょっとしたニュースになる。だが四十代なら、まあそういうこともあるかという範疇に収まる。この微妙なニュアンスが、お前のような朴念仁にはわからないのか」
「そもそも、そんな心配をする前に、もう少し落ち着いた生活を送ってはどうですか。カリンも、お父さんがいつまでも若い女の子に鼻の下を伸ばしているのを呆れていますよ」
「カリンの奴め、父親の甲斐性を理解できないとは嘆かわしい。いいか、男の魅力というのは生涯現役でい続けることで磨かれるんだ。それを放棄した途端、ヤン提督やキャゼルヌのような、枯れた中年になってしまうんだぞ。お前もそうなりたいか?」
「僕は、愛する人が一人いればそれで十分です」
「つまらん。実に模範的すぎてあくびが出る。まあいい、お前がカリン一筋なのは認めてやろう。だが、順番は守れよ。俺が四十歳の誕生日を迎えるまでは、夜の営みには厳重な注意を払うように。場合によっては、親衛隊の権限を使ってお前たち二人の寝室を監視してもいいんだぞ。父親の愛としてな」
「職権乱用も甚だしいですよ! それに、そんなこと絶対にさせませんからね!」
顔に熱が集まるのを感じる。
「わかればいい。若いからといって、勢いに任せて暴走するんじゃないぞ。俺の若い頃のように……とは言わんがな。あの頃の俺は、まさに野を駆ける獣だった。思い出すだけで血が騒ぐ」
「自慢気に過去の武勇伝を語らないでください。わかってます! ちゃんと節度は守りますから! それより、親衛隊の訓練の件についてですが、少しスケジュールを見直したい箇所がありまして……」
「ちっ、照れ隠しか。可愛げのない奴め。親衛隊の訓練の話なら、あとで俺の執務室にでも来い。どうせカリンとのデートの時間を作るために、訓練の時間を削りたいとかそういう甘い相談だろう」
「違いますよ! もっと実践的な市街地戦闘のプログラムを組み込みたいという、真面目な提案です!」
「はいはい、わかったわかった。じゃあ後でな。未来の息子殿」
疲労感がずしりと肩にのしかかる。国を動かす重圧とは別の負担がここにはある。
◇◇
【士官食堂】
合成肉のハンバーグが乗ったトレイを持ち、空席を探す。
「おいユリアン! こっちだこっち!」
視界に飛び込んできたのは、ポプラン中将だった。
無視するわけにもいかず、向かいの席に腰を下ろす。
「お疲れ様です、ポプラン中将」
「堅苦しい挨拶は抜きにしようぜ。ところでユリアン、そろそろ恋人の一ダースでもできたか!?」
「いきなり何を言い出すんですか。できるわけないでしょう」
「なんだと? お前、今や泣く子も黙る局長様だろ? 権力と若さとそこそこのルックスが揃っているんだ。その気になれば、総統府の受付嬢から軍の女性オペレーターまで、選び放題じゃないか。それなのに恋人が一ダースもいないなんて、権力の宝の持ち腐れだぞ」
「僕は別に、権力を使って女性を口説きたいわけじゃありません。そんなことをしたら、それこそ汚職として弾劾されますよ」
「甘いな。権力ってのはな、美女をはべらせるために存在するものなんだ。歴史上の偉大な王や皇帝を見てみろ。みんな後宮を作って、何十人、何百人という愛人を抱えていたじゃないか。それが男のロマンってやつだ」
「時代錯誤も甚だしいですよ。いずれ僕が総統になれば何ダースでも作りますが、今は一人で手一杯ですよ」
適当に話を合わせるつもりが、相手の勢いを増長させてしまった。
「おっ、言ったな? よし、その言葉、空戦隊の公式記録として録音しておこう。お前が総統になった暁には、俺が『愛人省』の初代大臣に就任して、国中から美女を選りすぐってやるからな。任せておけ」
「冗談ですよ! 本気にしないでください。カリンに殺されます」
「あいつは確かにいい女になりそうだが、あのシェーンコップの血を引いていると思うと、どうも俺には手が出しづらい。それに、お前みたいに大人しいタイプは、あいつみたいな気の強い女に一生尻に敷かれる運命だぞ」
「尻に敷かれるつもりはありません。お互いに尊重し合っているんです」
「不肖の弟子め。一人だけなんて、お前もヤン提督に似て堅物だなあ。青春の無駄遣いだぞ! ヤン提督を見てみろ。あんなに頭が切れて、奇跡のヤンとまで呼ばれているのに、女性関係となるとからきしだ。ヤン婦人という素晴らしい奥さんをもらったのは奇跡に近いが、それまでの人生はまさに砂漠のような枯れた日々だったじゃないか。お前はあんな風になりたいのか?」
「総統閣下の名誉のために言っておきますが、閣下はただ単に恋愛に対して不器用なだけで、枯れているわけじゃありません」
「不器用と枯れているのは同義語だ。いいかユリアン、男の器ってのは、どれだけ多くの女性を幸せにできるかで決まるんだ。一人の女しか愛せないなんて、器が小さすぎる。もっとこう、銀河のように広大な愛を持て!」
「それは単なる浮気性の正当化ですよね。ポプラン中将の広大な愛のせいで、泣いている女性がどれだけいると思っているんですか」
「俺の愛はみんなを幸せにするんだよ。別れる時も綺麗に別れる。これがポプラン流の美学さ。お前も、カリンちゃん一筋なんて窮屈な生き方はやめて、ちょっとは羽を伸ばしてみろ。俺が今夜、最高のクラブを紹介してやる。お忍び視察ってことで、経費で落とせるだろ?」
「絶対に落とせませんし、行きません。予算は、そんな不純な目的のためにあるんじゃないんです」
拒絶を示すと、あからさまにつまらなそうな空気が伝わってくる。
「真面目腐った奴め。これじゃあ、総統府の未来は暗いな。トップが書類仕事から逃げることしか考えていないで、その右腕が女の口説き方も知らない堅物の若造じゃ、この国はあっという間に色気がなくなって干からびちまうぞ」
「色気なんて国政に必要ありません。必要なのは、国民の生活を守るための堅実な政策と、外敵から国を守るための確固たる防衛力です」
「はいはい、教科書通りの回答ご苦労さん。まあ、お前がその若さでそんなに老け込んでいるなら、俺がお前たちの分までせいぜい青春を謳歌してやるさ。恋人二ダースを目標にな」
「勝手にしてください。ただし、軍務に支障をきたさない範囲でお願いしますね。もし女性関係のトラブルで軍の規律を乱すようなことがあれば、容赦無く査察を入れますから」
「へいへい、怖い怖い。権力を手にした若者は恐ろしいねえ。じゃあ、俺は午後のパトロールの前に、ちょっと通信室のあの子をデートに誘ってくるから。あばよ、堅物局長殿」
軽口を残して立ち去る姿を見送る。
食事の味は、さらに薄く感じられた。
◇◇
【会議室】
軍の重鎮たちが顔を揃える空間。
議題は、来年度の軍事費に関する予算編成である。
「ユリアン。今年の軍事費が増額されるとの話を聞いた。本当か?」
ホーランド元帥からの問いかけだった。
「ええ。ヤン総統の決裁が下りました。現状の防衛体制を維持しつつ、各種装備の更新を図るための必要な増額と認められました。喜んでいただけましたか? ホーランド元帥。これで、最前線の兵士たちの待遇も改善できるはずです」
軍の士気を高める決定だと信じていた。
しかし、返ってきた反応は予想とは異なるものだった。
「……いや。一人の軍人としては喜ばしいが、国家戦略としては頂けないな」
「えっ?」
「どういうことでしょうか? 装備の更新や兵士の待遇改善は、軍の士気を高め、防衛力を強化するために不可欠だと思うのですが」
「確かにその通りだ。新しい兵器を手にするのは痛快だし、部下たちが美味い飯を食えるようになるのは司令官として嬉しい。単なる軍人としてなら、諸手を挙げて賛成し、その予算で最新鋭の戦艦を百隻ばかり建造して、帝国領に突撃をかまそうと提案しただろう」
「……それはそれで非常に困るのですが」
「わかっている。軍全体を見渡す宇宙艦隊司令長官の立場にある。その視点から見ると、今のこの予算増額は、いささかバランスを欠いていると言わざるを得ない」
その言葉に、意外な感銘を受ける。
「なるほど。具体的には、どのような点が問題だと?」
「ロボス元帥のほうが詳しいさ。聞いてみろ」
視線の先には、静かに目を閉じているロボス元帥の姿があった。
「ロボス元帥。起きていらっしゃいますか?」
「ん……おお、ユリアン君か。いや、少し瞑想をしていたのだ。国の未来について深く思考を巡らせるには、目を閉じて外部の刺激を遮断するのが一番だからな」
「そうですか。それで、ホーランド元帥から、今回の軍事費増額についてロボス元帥のご意見を伺うようにと言われたのですが」
「うむ。そもそもだ、現在我々は首都を失ったとはいえ主力艦隊として元帥の直衛艦隊も含めれば十二個艦隊を擁している。この戦力がある限り、帝国軍も容易には手を出せない。つまり、軍事的な優位性と防御力は、現状で十分に保たれていると言える」
「はい、おっしゃる通りです」
「であるからして、大規模な遠征、すなわち帝国領への侵攻作戦がないのならば、予算は既存の艦隊の整備、訓練、補修に回すくらいで十分なのだ。無駄に新しい兵器を開発したり、艦隊の規模を拡大したりする必要はない。それは現状の補給線を無視した行いであり、国庫を圧迫するだけだ」
「では、余った予算はどうすべきだとお考えですか?」
「余った予算は、辺境星系の開発や、資源の加工ラインの確立といった国家の基礎体力、すなわち内政に使うべきだ。軍隊というのは、莫大なエネルギーを消費するだけの存在だ。彼らを養うためには、豊かな国力が必要不可欠だ。兵士に美味い飯を食わせるには、まず農地を開拓し、食料の生産体制を整えなければならない。兵器を整備するには、資源を採掘し、工業力を高めなければならない。すべては内政という土台の上に成り立っているのだ」
兵站と後方支援の重要性を熟知する者ならではの意見だった。
「いくら現在がヤン総統に権力が集中している状態とはいえ、剣を磨くばかりでは国は滅ぶ。立派な剣を持っていても、それを振るう腕が栄養失調でやせ細っていては意味がないだろう。バランスを考えるよう、ヤン総統に言ってくれたまえ。私は、美味しい食事が安定して供給される平和な国づくりを望んでいるのだ」
「なるほど……。お二方とも、見事な見識です。僕のような若輩者には思いもよらない、大局的な視点からのご意見、確かに承りました。必ず総統に伝えます」
「うむ。頼んだぞ。ヤン総統も、歴史の教訓としてそういうことは理解しているはずだが、いかんせんあの男は政治家としては素人だからな。周りがしっかり支えてやらねばならん。さあ、重要な意見も言ったことだし、私はもう一眠りさせてもらうとしよう。あとは若い君たちでよろしくやってくれ」
「そういうことだ、ユリアン。俺たちは軍人だが、ただ戦うだけの機械じゃない。国を守るということは、国民の生活を守るということでもあるんだ。そのことを忘れないでくれよ」
「はい。肝に銘じます。ホーランド元帥、ロボス元帥、本日はありがとうございました」
軍の上層部への認識が改まる。国を憂い、冷静な判断を下せる大人たちの存在が、心強かった。
◇
【キャゼルヌの執務室】
書類の山と格闘するキャゼルヌ元帥に、先ほどの会議の内容を報告する。
「お疲れ様です、キャゼルヌ元帥」
「おお、ユリアンか。ご苦労。そこらへんに適当に座ってくれ」
「先ほどの軍事費に関する会議ですが、ヤン総統の決裁が下りた予算増額案に対して、ホーランド元帥とロボス元帥から意外な意見が出まして」
「意外な意見? あの連中が、予算が増えることに文句でも言ったのか?」
「文句というわけではないのですが。現状では、軍事費の拡大よりも、辺境星系の開発や資源加工ラインの確立といった内政に予算を回すべきだ、という意見です。国家の基礎体力を向上させなければ、バランスを欠いて国が滅ぶと」
「ほう。あの猪と昼寝卿が、そんなことを?」
「はい。てっきり軍部には喜ばれるかと思っていたのですが。お二人とも、大局的な国家戦略を見据えておられて、僕は深く感銘を受けました。軍の重鎮があそこまで国の未来を考えているとは」
「感銘を受けるのは勝手だが、額面通りに受け取るのは青いぞ、ユリアン。ロボス元帥もホーランド元帥も、本質的には軍政が得意な官僚肌だからな」
「官僚肌、ですか?」
「そうだ。ホーランド元帥は実戦も派手で好きだし、猪突猛進なイメージが定着しているが、そもそも彼は軍内の政治バランスと派閥力学をうまく利用して昇進した人でもあるんだ。ただの暴れん坊なら、とっくに最前線で散っている。彼は国力というものをよく理解しているのさ。自分の艦隊を動かすために、どれだけの物資と金が必要か、骨の髄まで知っている。だからこそ、無理な軍拡が最終的に首を絞めることを分かっているんだ」
「ロボス元帥にしてもそうだ。彼は常に昼寝ばかりしているように見えるが、あの男の頭の中には、全体の兵站と物資の流通網が完璧にインプットされている。内政に予算を回せというのは、要するに後方支援のインフラを整えろということだ。美味しいご飯を食べるためには農地が必要、という彼独特の言い回しだが、本質はそこにある」
「なるほど……。単なる軍人としての勘ではなく、実務経験に基づいた計算された意見だったのですね」
「そういうことだ。彼らは彼らなりに、この国をどうやって回していくか、真剣に考えているんだからな」
「勉強になりました。総統閣下にも、お二人の真意を含めて、予算編成の再考を進言してみます」
「ああ、そうしてくれ。内政に金が回れば、俺のところの後方勤務の予算も少しは潤うからな。最近は備品のトイレットペーパーの質まで落とさなきゃいけないくらい、カツカツなんだぞ。兵士の士気は、生活の質に直結するんだ。頼むぞ、若き権力者殿」
真面目な助言が唐突に途切れ、室内の空気が一変した。
「それにしてもだ、ユリアン」
「はい。キャゼルヌ元帥。なんでしょうか」
「お前、うちのシャルロットを振って、シェーンコップのじゃじゃ馬娘とよろしくやっているそうだが……どういう了見だ?」
「えっ……!?」
「い、いや、振ったなんてとんでもない! シャルロットはまだ子供じゃないですか! 妹みたいなものです!」
「妹だと? あの愛らしい天使のようなシャルロットを、ただの妹扱いするとは何事だ。あの子がお前のことをどれだけ慕っていたと思っているんだ。お前が前線に行く時も、泣いて引き止めたじゃないか。それなのに、シェーンコップの不良DNAを受け継いだ娘とくっついているとは。お前の目には節穴でも空いているのか?」
「節穴って……カリンだって素晴らしい女性ですよ! それに、シャルロットが僕を慕ってくれているのは、ただの兄に対するような感情で……」
「黙れ! 父親の俺にはわかるんだ。あの子の目は、初恋の相手を見る目だった。それを、あんなチンピラ中年の娘に奪われるなんて……。俺は夜な夜な枕を濡らしているんだぞ。シェーンコップめ、あいつは昔から俺の神経を逆撫でする天才だが、娘の代になっても俺の可愛いシャルロットの邪魔をするとは」
「元帥、それはちょっと逆恨みが過ぎるんじゃ……」
「逆恨みだと? 局長の権限で、俺を逮捕でもしてみるか? 親バカ罪で。やってみろ、俺が逮捕されたら、明日の朝から共和国軍の朝食は全部、味のしないオートミールと泥水みたいなコーヒーになるぞ。俺は後方勤務の神だぞ!」
危機感が全身を駆け巡る。ここで対応を間違えれば、国家の兵站が私怨で崩壊しかねない。
「キャ、キャゼルヌ元帥! 落ち着いてください! 僕はシャルロットのことを本当に大切に思っています。将来、彼女が素敵なレディに成長したら、僕の局の士官として迎え入れたいと思っているくらいです。だから、そんな悲観しないでください!」
思いついた限りの言葉を並べる。
「……士官として、俺の娘を特高に?」
「は、はい。彼女の聡明さは、キャゼルヌ元帥の血を受け継いでいる証拠ですから。情報分析官として、必ずや素晴らしい才能を発揮するはずです」
「ふむ……。特高局のエリート士官か。有意義な響きだ。いや、むしろあの子の才能なら、将来的には局長の座を奪うことも可能かもしれん。お前を蹴落としてな」
「それはそれで怖いんですが……」
「まあいいだろう。お前がそこまで言うなら、今回の件は不問に付してやろう。うちの娘を振った罪は重いが、将来の就職先を斡旋したことでチャラにしてやる」
「冗談だよ、ユリアン。お前が誰と付き合おうが、お前の自由だ。ただ、シャルロットが少し寂しそうにしていたから、つい父親として文句を言いたくなっただけだ。忘れてくれ」
「冗談……ですか」
全身の力が抜けそうになる。
「だが、予算の件は冗談じゃないぞ。予算編成が修正されて、内政や後方支援の枠が広がったら、真っ先に俺に教えてくれ。いいな?」
「わかりました。確定次第、すぐにご報告します」
「よし。俺も他省庁との予算の分捕り合戦に向けて、理論武装と根回しをしておかないとな。情報網を使って、他の連中の弱みでも握っておいてくれると助かるんだが」
「それは職権乱用なのでお断りします」
「ちっ、堅物め。まあいい、お前はお前の仕事をしろ。俺は俺の仕事をする。それがこの国を支えるってことだ」
◇◇
【特別高等警察 本部】
報告に訪れたバグダッシュ大佐の様子は険しい。
「局長。お疲れのところ申し訳ないんですがね、また面倒な案件が持ち上がりましたよ。不穏分子についてですが……」
手元の書類から視線を外す。心の中にあった柔和な感情が、音を立てずに消え去っていく。
「何かありましたか? バグダッシュ中佐。貴方の様子から察するに、単なる酔っ払いの政府批判や、給料への不満を喚き散らす程度のデモではないようですね」
「ええ、全く違いますよ。むしろ醜悪の極みです。どうやら、あの第二の長征一万光年について、トリューニヒトの演説を真っ向から否定し、結局はただの敗走じゃないかと並べ立てて、市民の不安を煽っている団体がいます」
「ただの敗走……ですか」
「我々がどれほどの絶望的な状況からヤン総統の奇跡的な采配によってこのイゼルローンにたどり着いたか。それをただの敗走と呼ぶのですね。トリューニヒト高等参事官の演説は、確かに大衆扇動の側面が強いですが、それでも国民の心を繋ぎ止めるための重要な国家戦略です。それを根底から否定するとは、ずいぶんと度胸のある連中だ」
「全くですよ。自分たちは安全な後方にいて、前線の地獄を一つも見ていないくせに、いっちょ前に評論家気取りですからね。しかも奴ら、ただの言論活動にとどまっていればまだ行き過ぎた思想の自由として監視対象で済んだんですが、一線を越えました」
「一線を越えた、とは?」
「集会の求心力を高めるために、どうやら麻薬を配っているらしいんですよ。参加者に無料で配って、トリップ状態にさせてから反政府的なアジテーションを行っている。古典的ですが、一番タチの悪い洗脳の手法です」
「麻薬?」
「サイオキシンです。いったいどこから入手したんだか……。ご存知の通り、あれは一度手を出せば脳の神経細胞を不可逆的に破壊し、最終的には廃人になる劇薬中の劇薬です。帝国でも同盟でも、製造から所持まで厳罰に処されている代物ですよ。そんなものを、イゼルローンでばら撒かれたらどうなるか」
「……想像に難くありませんね。最初は現実逃避を求める一部の市民から始まり、やがては兵士たちへと汚染が拡大する。放っておけば、軍の末端にも広がります。軍の規律が崩壊すれば、帝国軍が攻めてくる前にこの国は内部から自滅する」
「その通りです。連中は真実を知るための覚醒剤だとかいう、吐き気を催すようなキャッチコピーで若者を中心に信者を増やしています。現在、確認されているだけでも数百人規模の集会が、歓楽街の地下にある廃棄された倉庫で定期的に開かれています。資金源も出所も不明」
思考が冷たく澄んでいく。
「……放置はできないですね。絶対に。ヤン総統は、ご自身の休息の時間を削ってまで、この自由惑星共和国の民主主義の火を絶やさないために、慣れない政務に身を削っておられます。その総統が作り上げたこの国に、泥を塗る行為だ。断じて許すわけにはいきません。特高の存在意義にかけて、彼らを一人残らず排除します」
「バグダッシュ大佐。特高の武装兵を直ちに集めてください。完全武装で、一切の容赦は不要と伝達を」
「了解しました。しかし局長、今から人員をかき集めて作戦立案となると、実行は明日以降になりますか? 奴らの次回の集会は明後日の予定ですが」
「何を言っているんですか。聞く暇があるなら動いてください」
「えっ、今日ですか? いや、もう夜の十八時ですよ? 特高の隊員たちも、そろそろシフトの交代時間で、シャワーを浴びて一杯やろうかという時間帯なんですが。それに、大規模な制圧作戦となると、事前の令状の申請手続きとか、管轄の治安警察との調整とか、色々と面倒な書類仕事が……」
「今夜です」
「令状など事後承諾で構いません。警察の介入も不要です。これは通常の犯罪捜査ではなく、国家反逆罪およびサイオキシン麻薬テロに対する国家保安行動です。ヤン総統の威信を傷つける害虫を、明日まで野放しにしておくなどあり得ない。今夜中に、彼らのアジトを物理的に制圧し、指導部を拘束、麻薬の供給ルートを完全に絶ちます」
「は、はい! 直ちに武装兵三個中隊を編成します! シェーンコップ大尉にも出動の要請を出しておきます!」
「お願いします。僕も直接現場に出向きます。総統の顔に泥を塗る輩がどんな顔をしているのか、僕自身の目で確認しておきたいので」
「局長自らですか? 危険ですよ、相手はサイオキシンでラリっている連中です。どんな予測不能な抵抗をしてくるか」
「心配無用です。僕が遅れをとるようなら、特高局長の座などとうに降りていますよ。さあ、時間がない。行動を開始してください」
「了解です! まったく、うちの局長はヤン総統のこととなると、本当にスイッチが入っちまうんだから……。残業代はたっぷり請求させてもらいますよ!」
室内に一人残り、デスクからブラスターを取り出す。
「ただの敗走、か……。何を知った気になっているのか知らないが、その浅薄な知識とサイオキシンの幻覚ごと、永遠の暗闇に葬り去ってあげましょう」
◇◇
【歓楽街地下 廃棄倉庫】
狂乱の宴は、物理的な破壊によって断ち切られた。
鉄扉が指向性爆薬によって吹き飛び、黒衣の特高武装兵たちが雪崩れ込む。
「な、なんだ!? 何事だ!」
「動くな! 特別高等警察である! 全員、その場で両手を頭の上に組んで伏せろ! 少しでも不審な動きを見せた者は、容赦なく射殺する!」
サイオキシンの酩酊から覚めやらぬ者たちが次々と制圧されていく。
「バカな!! なぜここが見つかる!? 我々の通信網は最新の暗号化処理を施し、集会の場所も直前まで偽装していたはずだ!」
演説を行っていた男の前に、カリンが銃口を突きつける。
「私達、特高を舐めないことね。共和国内で私達の知らないことはないわ。あなたたちの安っぽい暗号なんて、うちの暗号解読班が朝飯前のお遊びで解いているのよ。それに、サイオキシンなんていう分かりやすい匂いを撒き散らしていれば、警察犬だって見つけられるわ。無駄な抵抗はやめて観念しなさい」
「おのれ……! 特高の犬め! 敗北を覆い隠す、卑劣な独裁者の手先が! お前たちは真実から目を背け、市民を欺いているんだ! イゼルローンへの逃亡劇を、長征などという馬鹿げた美辞麗句で飾って、自分たちの権力を維持しているだけの寄生虫どもめ!」
「あら、ずいぶんと威勢がいいのね。サイオキシンの効果かしら? それとも生まれつきの馬鹿なのかしら。どちらにせよ、その減らず口を叩けるのも今のうちよ」
「………それは、僕のことかな?」
男の敵意が、こちらに向けられる。
「ユリアン・ミンツ!! ヤンの飼い犬、秘密警察の猟犬め! まだこんな小僧のくせに、特高局長などという大層な椅子に座って、裏で市民を弾圧するなんて恥を知れ! お前の手はすでに血で汚れているぞ!」
「恥、ですか。僕が恥じるべきことがあるとすれば、貴方たちのような社会の不要物を、今日まで見逃してしまっていたという職務怠慢についてだけです」
「君たちには黙秘権がある。そして弁護士を呼ぶ権利もある。武器を捨て、裁判を受け、法の裁きを受けてください。サイオキシン麻薬の密売は、自由惑星共和国の法律においても極刑に値する重罪です。今すぐ降伏すれば、少なくとも正式な法の手続きに乗せることだけは約束しましょう」
「くっ! ふざけるな! 法の裁きだと? お前たちの都合の良いように作られた法律が何になる! ヤン・ウェンリーも、結局はただの権力亡者の俗物だ!」
男の口から発せられた言葉が、空間の認識を歪ませる。
「自分は綺麗な顔をして、民主主義の守護者ぶっているが、裏ではお前のような子供に汚い権力を渡して、反対派を力でねじ伏せているじゃないか! あの男の器も、たかが知れるな!! 結局はルドルフと同じ、いや、それ以下の卑怯な偽善者だ!!」
「あ………」
カリンの微かな声が耳に届く。
「バカ野郎が……」
バグダッシュの呟きも聞こえる。
「やめときゃ生き残れたのに……。よりによって、宇宙で一番踏んじゃいけない虎の尾を、軍靴で全力で踏み抜きやがった。あーあ、こりゃもうどうにもならんぞ」
「……なんと言った?」
「聞こえなかったか! ヤン・ウェンリーは偽善者だと言ったんだ! 自分の手を汚さずに、お前たちを都合よく使っているだけの、卑怯な独裁者だとな!!」
視界に映る対象が、もはや人としての意味を喪失する。
「……君は、根本的な勘違いをしている」
「ヤン総統は、特別高等警察、すなわち僕たちが行っている仕事については、一切ご存じない。総統の耳に、このような情報は絶対に入れないように僕がコントロールしている。総統は、徹頭徹尾、清廉潔白である。総統の存在こそが、この国の民主主義の光であり、希望なのだ」
「な、何を言っている……!」
「しかし。貴様は今、その清らかなる総統を暴言で貶め、根拠のない中傷で総統の威信を傷つけた。……これは、単なる麻薬密売やデモ活動を超えた、国家反逆罪に類するものである」
「何を!! 民主主義、いや共和国において、言論の自由! 思想の自由は保障されているではないか!! 俺には権力者を批判する権利がある!」
「我々秘密警察に、そのような甘い理屈は通用しない。言論の自由は、健全な精神と法を遵守する市民にのみ与えられる特権だ。サイオキシンで認識を歪ませ、総統を愚弄する存在に与える自由など、この宇宙のどこにも存在しない」
銃口が、対象の眉間を捉える。
「総統の平和な午睡を妨げる者は、僕がすべて排除する」
引き金を引く。
光条が放たれ、対象の動きが永遠に停止する。
「ひぃぃっ!?」
「リーダーが撃たれた!!」
恐慌状態に陥る声が響く中、意識は冷たく澄み切っていた。
「カリン。逮捕者は何名ですか?」
「……男女合わせて、百五十名よ」
「そうか。百五十名か」
「悲しいことだ。……彼らは、自分たちの罪の重さに耐えかねたのだろう。特高に囲まれ、逃げ場がないと悟った彼らは、絶望のあまり自ら隠し持っていた武器を手に取り、集団自決した。僕たちが止める間もなかった。……そうだな?」
「ええ、そうね。悲しいことね。彼らも自らの信念を貫いて、全員で手を取り合って死んだのだと思うわ。報告書には、全員がサイオキシンの過剰摂取と自己破壊衝動による同時多発的な自殺と記載しておくわ。……総員、撃て。慈悲は無用よ」
光と音が空間を埋め尽くす。
「そうだね。全員が自決した。これは疑いようのない事実だ」
事後処理をバグダッシュに命じる。
「……バグダッシュ大佐。後処理と、麻薬の完全な焼却は頼みます。明日の朝刊には、歓楽街の地下で大規模なガス爆発事故が発生し、身元不明の浮浪者多数が死亡したと発表させます。メディアへの根回しも抜かりなく」
「了解しました!! すべて不慮の事故として完璧に処理しますよ。清掃業者や報告書の処理、マスコミへの工作など、予算をフル活用させていただきますからね。あーあ、今夜は徹夜で書類仕事だ。局長、特別ボーナスは期待してますよ」
「成果に応じた評価はします。総統の威信を守るためなら、いくらでも予算は確保しますから」
◇◇
【ユリアンの私室】
熱い湯が、肌に染み付いた数時間前の記憶を洗い流していく。
静寂に包まれた部屋で、バスローブを纏って腰を下ろす。
傍らには、濡れた髪を拭うカリンの姿があった。
「ふう……。ひどい一日だったわ。あんな大量の処理の書類仕事まで手伝わされるなんて。バグダッシュ大佐が泣きながらキーボードを叩いてたわよ」
「ごめんね、カリン。君にまで嫌な思いをさせてしまって。でも、あの連中を放置するわけにはいかなかった。あのまま放っておけば、いつか必ず総統に危害が及んでいたはずだ」
「わかっているわ。ユリアンの総統に対する並々ならぬ執着は、今に始まったことじゃないしね。でも、あそこまで綺麗にキレるユリアンを見るのは久しぶりだったから、ちょっとゾッとしたわ。あのリーダーの男、本当に馬鹿よね。よりによってヤン提督の悪口を言うなんて。自殺志願者としか思えないわ」
「彼らは自決したんだ。報告書にもそう書いてある」
「はいはい、そういうことにしておくわ」
肩を寄せ合う温もりが、張り詰めていた神経を解きほぐしていく。
「カリン……」
「なに……?」
「愛してる」
血に塗れた日常の中で、この温もりだけが確かなものだった。
「……知ってるわ。私もよ」
穏やかな時間が流れる。
「……結婚しよう?」
「いいの? こんな時に。国はまだ不安定だし、仕事だって山のようにあるのに。それに、今日みたいな事件の後で、そんなロマンチックな言葉が出てくるなんて思わなかったわ」
「こんな時だからこそ、だよ。いつ何が起こるかわからない。今日のように、突然命のやり取りをすることになるかもしれない。だからこそ、確かな繋がりが欲しいんだ。僕が、君と結婚したいんだ」
「ユリアン……」
潤みを帯びた視線が向けられる。
「……それにね」
「それに?」
「お義父さん、いや、シェーンコップ大将がね、今日言っていたんだ。俺は三十代で爺さんになるつもりはないって」
「はあ? うちの不良親父がそんなこと言ってたの? 相変わらず自分の若作りとモテることしか考えてないのね」
「そうなんだ。だから、どうしても三十代のうちに子供を作って、あの人にお祖父様って呼ばせてあげたいしね。現役の伊達男を気取っているお義父さんが、若い女の子の前で孫の話を振られて絶望する顔を見てみたくない?」
「ふふっ! あははは! 何それ、最高じゃない! 良いわね、それ。あのお父様の嫌がる顔が目に浮かぶわ。きっと顔を引きつらせて、俺はまだお祖父ちゃんと呼ばれるような歳じゃない!って喚くわね」
「でしょ? お義父さんの合コンの席に潜入して、『お孫さん、お元気ですか?』って工作員に言わせるのも面白いかもしれないね」
「そこまでやったらただの嫌がらせよ! でも、あの親父のプライドを打ち砕くには、それくらいがちょうどいいかもね。わかったわ、ユリアン。その企み、乗ったわ」
「本当?」
「ええ。ヤン提督の平和を守るためにも、うちの不良親父の目を覚まさせるためにも、私たちが幸せになるのが一番手っ取り早いものね。よろしく頼むわよ、未来の旦那様」
「こちらこそ。一生大切にするよ」
重なる唇が、静かな夜に確かな約束を刻み込んでいった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
今回はユリアン特高局長の一日と、共和国の裏側を描きました。
ユリアンとカリンの関係、共和国特高の怖さ、シェーンコップへの嫌がらせ婚約について、感想をいただけると嬉しいです。