俺たちは恋人ではなかったし、彼女はそれを隠してはいなかった。ただ気軽に互いを泊めたり泊まったりできる仲と公言し、甘い空気や強烈な引力もないまま、安心して長い時間を共に過ごしていた。
卒業の日にこいつに振られたことは、誰にも広まらなかった。
俺たちはかつて毎日のように顔を突き合わせ毎月のように出かけ、共にいて飽きることはなかった。締め切り前には泊まり込みで家事手伝いもして、何かなくとも毎週互いの部屋で鍋や炒め物をつついていたが、それもぱったりと止んだ。
もう、半年が経つ。まだ、半年というべきか。


 本作品は「小説家になろう」にも投稿しています。

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「ありがとうございました-またお越しくださいませー。お次のお客様こちらのレジへどうぞー」

 

 カウンターの向こうにたたずむ若い女性をご案内すると、彼女は後ろの年配の男性に順番を譲った。彼のたばこを捌き終えると、先ほどの女性は飲料コーナーを見ていた。混雑のピークは落ち着いて、客はもう彼女1人だけになった。

 カウンターのこちら側で、隣にいた大学生の女子が俺に寄ってきて、飲料コーナーの女性を目で示す。

 

「あそこのお客さんすっごい美人」

 

 言われて改めて注目する。まだ夏の熱気も抜けきらない夜らしく、ペールトーンのシアーなラベンダーカラーの長袖トップスに、ネイビーの軽やかなロングスカートを合わせたコーディネートに身を包んだあちらのお客様は、艶のあるダークブラウンのロングヘアのインパクトと相まって、微かに見える横顔からでも確かに、人目を引く目鼻立ちをしているように見えた。

 

「……あぁ」

 

 天然水のボトルを一本取ってこちらに顔を向けた彼女から視線を離せないまま、俺は生返事をする。綺麗な人というのはどうしてああ、視線を集める引力があるのだろう。まるでどこかで会ったことでもあるような──彼女がカウンターに近づく。隣の女子大生が俺の代わりに接客の体制を整える。

 

「いらっしゃいませー」

「こんにちはっ」

 

 天然水のお客様は、俺の方へ来てそう挨拶してきた。

 

「…………いらっしゃいませ」

 

 声が妙な抑揚になる俺に、ふふふ、と彼女は含み笑いをして、真正面から目を見て微笑む。

 

「ちょっとお聞きしたいんですけど、今日のシフトは何時上がりですか?」

 

 俺が彼女を見つめて呆けていると、女子大生が横から口を挟む。

 

「……すみませぇん、お客様、店員とのそういった個人的なやりとりはご遠慮させていただいております」

 

 その声はただの事務的な厄介払いの対応とは別の、警戒と嫉妬か何かを取り繕うような雰囲気があった。お客様は笑顔でそちらに体を向け、ごめんなさいと一言詫びる。そしてまたすぐに俺に向き直った。

 

「じゃあ、一つだけ、今晩泊めてもらうことってできますか? それ次第で、今何を買うか決めるので」

「……は?」

 

 女子大生が店員らしからぬ声を上げる。俺は思わず口走る。

 

「いや、『は』は俺の台詞なんだが」

「お願いっ」

 

 お客様は、天然水のボトルのキャップを右手の薬指と小指で引っ掛けるように挟んだまま、両手を合わせる。その仕草にふと無数の記憶の残滓が重なり、お客様からますます目が離せなくなる。隣で女子大生が驚きと焦りの混じった声で困惑を示す。

 

「…………え、センパイ?」

 

 余計な誤解を招かぬよう、俺は端的に話す。

 

「大学の同期だよ…………。ちょうどあと10分で上がれる。泊めるのはいいが…………何も出せないぞ」

 

 俺の気安い口ぶりに目を疑うような視線を隣から感じていると、カウンターの向こうでお客様は笑顔になる。

 

「ありがとう、よかった…………あ、こっちでいろいろ買ってくから、お構いなく」

「着の身着のままじゃそりゃ困る」

 

 俺が軽口を叩くと、彼女はひらひらと空いた手を振った。

 

「それじゃ、また後で」

 

 そう言ってレジ横からバスケットを出して提げ、肌着類のコーナーへ向かう。

 彼女が品定めをしている最中、カウンターのこちら側で女子大生が探るような視線を向けてくる。

 

「随分と簡単に言いなりになるじゃないですか」

「言いなりってなんだよ。唯々諾々と言え」

「ダサッ」

 

 俺は店員にあるまじき暴言を無視した。この子は今日、シフト編成の都合でこれから30分ほどワンオペになると言っていた。大方、この前のように暇潰しに俺を居座らせようとしていたのがご破算になって、気が立っているのだろう。相手してやれなくて悪いな、とこちらからわざわざ言うほど慕われてはいないので何も言わなかった。現に向こうも、わざわざそのことには触れなかった。所詮は暇潰しで、どうせこの時間はもうあまり人は来ない。

 お客様は手首の内側に何度も目をやりながら、衛生用品コーナーを物色している。

 

「10分ずっといるつもりなんですかね。まーヒマだし邪魔にならなきゃいいんですけど……うわ」

 

 隣で女子大生が呟く。その視線を辿り、俺は言葉を失う。避妊具コーナーの前でいくつかパッケージを手に取り、何やら表示を見比べているようだった。

 

「センパイ彼女いないって言ってませんでしたっけ。だからってこれは……不潔」

「セクハラやめろ」

 

 横から話しかけられて俺は、あいつあんなもんに興味あったのか、という独り言を呑み込む。俺とあいつはそういう仲ではなかったし、あいつは誰ともそういう仲にならない言い訳に俺を使っていた。今更俺相手にあんなもんを使う理由があるとも思えなかったので、見栄だな、と結論づける。多分いたのが俺一人なら、わざわざ買わなかっただろう。

 何しろ俺は、あいつに振られているのだから、

 そんなことをぼやぼやと考えるほどには暇で、あいつはずっとあそこに屈み込んでいた。

 

「ていうか悩み過ぎじゃないですか? いや、買ったことないんでわかんないんですけど」

 

 俺もねぇよ、と言い返しかけて、今後いじり倒されるのも御免なので無難に応じることにした。

 

「シンプルとかジェル付きとか女性人気とか、色々あったしな」

「よく覚えてますね。きも」

「そっちがあの辺の商品整理さぼるからだろ」

「…………ほんとにただの同期なんですか?」

 

 お客様に聞こえないように声のボリュームを絞ったそれは、やけに切実な声だった。

 

「だって、久々に会った友達が一晩泊めてって言ってきてああいうの選んでたら、驚きません? 元々ああなんですか?」

 

 ただ茶化すのとは何か違うトーンの声を聞くともなく聞いてはいたものの、俺はその手の話題を誰かと語り合う気にはなれなかった。恋愛だの性愛だのの話に持っていきたいのだろうが、そういうものはパターンはあっても決定的な“普通”が存在しない。個人差の問題が大きすぎる以上、結局は人間性と価値観の開示にしかならない。そして、人は得てして自分の歩んできた人生を否定できない。自己正当化せずにいられないなら、それは喧嘩の元だ。

 俺は過去も今も否定せずに済むよう、一般論でお茶を濁す。

 

「……コンビニの時間潰しで人格をどうこうってのもな」

「の割にはさっき一瞬、あんなの買う子じゃなかったのに、みたいなカオしてませんでした?」

 

 今度は一転して俺を弄ぶような、余裕綽々の声になる。否定しても無駄らしいので、適当に流すことにした。

 

「…………半年もあれば人なんて変わるだろ」

「半年ぶりなんだ…………。誰に変えられちゃったんでしょうねぇ」

 

 その口ぶりは、想像しろ、と言外に押しつけがましかった。

 ふと、まったく関係のない、高校の文芸部での出来事を思い出す。ドロドロ恋愛小説を書いていた女子が、同じような台詞を書いたことがあった。

 あれは、休み明けにイメチェンした恋敵を見たヒロインが、本命の男子に向かって、あの子クリスマスパーティー抜け出して誰と会ってたんだろうね、だの、強烈な体験をすると人は自分をごまかすために、普段しないことしがちって言うよね、例えばイメチェンとか、だの、嫌な想像を煽る言葉を並べていた。先越されちゃったねぇ、だの、相当楽しんだんだろうね、だの、あくまで台詞でも地の文でも何をとは言わないまま伝えきる言葉選びに感心しながら、このキャラはこんなに陰湿だっただろうかと疑問を抱いたのをよく覚えている。

 俺は、楽しみに読んでいたあの小説のその台詞の数々を読んで不快感を覚え、結末が不愉快で作者にキレた。なんで知りもせずに恋敵を貶めたんだよ、結果的に合ってたら何だってんだよ、なんでそんな奴が反省もなく幸せになるんだよ、と憤り、作者は泣いた。それ以来、女所帯でそれなりに上手く楽しくやっていたつもりだった俺は、文芸部に居場所を失った。

 物思いにふけっている俺の沈黙をどう受け取ったのか、隣の女子大生は意地の悪い笑みを浮かべた。

 

「あれだけ美人なひとがカレシいないわけないですもんね。さぞお金持ちのイケメンなんでしょうねぇ」

 

 ニタニタと、俺の反応を窺う眼差しを感じる。俺は不機嫌の表明として口を閉じていたが、どうやら効いていると思われたらしかった。

 

「あーでも、センパイ相手にそういうことするってことは、カレシはいなくて一人にこだわらないタイプなんですかね」

「お前もう黙れよ」

 

 俺は短く制した。放っておけばどこまでも悪し様に言うつもりだったのだろうか。女子大生は俺の反応に虚を突かれたような眼をした。

 

「……怒りました?」

「怒ってはいない。今度からお前のいない時間にシフトずらしてもらうだけだ」

「はぁ!?」

 

 大声が店内に響く。お客様がこちらを見て呆然としている。俺は気にするなと顔の横で手を振った。

 お客様の不安げな視線がこちらから離れると、隣の女子大生は改めて詰め寄ってくる。

 

「ちょっとからかったぐらいで大人げなくないですか」

 

 言い過ぎたとも思っていないらしい。やはりこいつにも、言葉は通らないのだろうか。

 

「単純に人として失礼なんだよお前。俺の知り合いなら何言ってもいいとでも思ってんのか?」

 

 あるいは、美人と見ればすぐ整形だの遊んでそうだのと偏見を垂れ流すことにためらいがないのか。この手の女子にこういう説教しても意味ないんだよな、と思いながら、俺は呆れを抑えて言った。この子を文芸部のあいつの同類扱いしたくなってしまうのは、俺自身の偏見だろう。

 女子大生は泣かなかった。そっちが勝手に誤解しただけ、とも言わなかった。ただ、言い返そうとしたような表情を一瞬だけ見せて、口を閉ざして数歩離れた。それでいい、と俺は思った。

 それにしても実際、そんな理由でシフト変更が通るだろうか。喧嘩を売られたから捨て値で買ったが、そこまで我を通すつもりはない。嫌なやつから距離を置き続けても、出来上がるのは引きこもりだけだ。なので一応、買った喧嘩を処分することにした。

 

「怒ってはいない。本当だ。シフトに関してどうせ権限もないし、そっちがこの件に関して二度と蒸し返さないでくれればそれでいい」

 

 俺が絶交宣言を翻すガキみたいな譲歩をすると、女子大生は悄然として店内に体を向け、横顔のまま呟いた。

 

「すみませんでした。言い過ぎました」

「本当にそう思ってくれてると、許しやすくていいんだけどな」

 

 女子大生は今度こそ言葉を詰まらせ、視線を落として口を閉じた。目元を拭い始めたのを見るとさすがに、こちらの方こそ言い過ぎただろうか、と思ってしまう。過ちを指摘するときは誰しも尊大になってしまいがちだ、と本で読んだ覚えがある。だが、俺をナメているせいで調子に乗ったなら、ここで謝るのはまた調子に乗らせるだけにも感じた。とりあえず、他のバイトの女子から評判が下がるかどうかで、その辺りを見極めさせてもらうとしよう。

 店員同士の気詰まりな沈黙を見せられながら、お客様は天然水と簡単な夜食、肌着と歯磨きセット、浴用セットとジェル付き避妊具をレジまで持ってきた。俺が打っている最中、小声で聞かれた。

 

「仲直りした方がいいんじゃない?」

「気にすんな。年上面して説教して嫌われただけだ」

「嫌ってはない!」

 

 横から大きな声が割って入ってきた。とっさに視線が集まり、お会計が止まる。

 女子大生は、自分の口をついた言葉に驚いて焦っているように口元を抑えた。顔をうっすら赤らめているようにも見えたのは、怒りで興奮しているせいなのだろう。

 

「ただ……いきなりうちのいない時間にシフトずらすとかいきなり言うから…………」

 

 女子大生の弁明を聞いたお客様は、納得したように目を細めてこちらを見た。

 

「キミがそこまで言うってことは、私のために怒ってくれたのかな」

 

 鋭いのか自分を共通の敵にして和解させたいのか、突っ込み待ちのような気軽な口調で言う。だがあまり褒められたことではない。

 

「そうやってわざわざ言い当てるのも失礼だぞ。俺はともかくこの子は初対面だろ」

 

 俺が注意することも掌の上なのだろう。お客様は神妙な表情で女子大生に頭を下げた。

 

「そうだね。初対面なのに、決めつけてしまってごめんなさい」

「う……あ……」

 

 女子大生は動揺してうめき声をあげる。自分が初対面なのに決めつけてけなした目の前の女性は、自分と違ってあっさり非礼を詫びている。その対比はさすがに効いたらしく、お客様が頭を上げると、今度は女子大生が謝罪する番だった。

 

「こ、こちらこそ、大変失礼いたしました。誠に申し訳ございませんでした」

 

 女子大生が深々と頭を下げると、お客様は寂しそうに微笑んだ。どうせここまで織り込み済みのパフォーマンスなのだろうが、意地が悪いとは思わなかった。お客様は、結局いつもこうだねとでも言いたげな苦笑を一度俺に向け、女子大生に頭を上げるように促す。そして、改めて視線をこちらに向けた。

 

「でも、よかった。キミがどっちも注意してくれて」

 

 お客様は、俺に向かって人を惹きつける笑みを浮かべる。

 

「変わってないね、そういうとこ」

 

 俺はしばし見惚れ、返事をできなかった。

 

「そういうところが好きなんだよね、昔から」

 

 その言い添えた口ぶりから、これは見栄か本音か、と判断を保留する。嫉妬や反感で気軽に陰口を叩かれることも珍しくないこいつは、妙な立ち回りで自分の器を見せつけることがしばしばあった。俺が贔屓で怒ったわけではないとフォローまでしてくださる、実にスマートな盤面のコントロールだ。最後の一言は、俺への和解のアピールなのか、あるいは。

 お会計が終わり、お客様が袋を受け取る。こいつの処世術をどう受け取ったのか、女子大生は沈んだ表情を浮かべていた。俺は責番を抜いて女子大生に一言、お疲れ、と静かに呟いて裏に戻った。

 制服を脱いでハンガーにかけるまでの短い間、2人の声は聞こえなかった。俺が店員から個人になって売り場に出ると、女子大生と見つめ合っていたお客様はこちらに笑顔を向けた。その一連の動作に、変わってないな、と言いかけてやめた。彼女は出口に顔を向ける。

 

「それじゃあ、行こう」

「おう」

 

 振り返らない彼女に俺は頷く。

 並んで店を出るまで、女子大生は、何も言わずに俺たちを目で追っていたのが夜のガラスの反射で見えた。今日くらい一人にしてもバチは当たらないはずだ。謝らざるを得ない状況にされたと恨み言を吐かれても癪だし、反省しているなら気を静める時間が欲しいだろう。どうせもう、暇になるだけの時間だ。

 残念だ、と思ったのは、あの子個人に対してではなく、そこから連想した高校時代の思い出に対してだった。

 俺は、俺には書けない恋の駆け引きの物語の行く末を本当に楽しみにしていた。だからあの場面でヒロインが、思わせぶりな恋敵を印象操作で本命の男子から遠ざけたことに、そしてそれを見る目があったかのように書いて俺の感想を待っていたあの作者に、急に裏切られたように感じたのだった──こんな惨めな恋の実り方があるかよ、と。

 駆け引きの決め手は自分の魅力を伝えることでも相手の心を掴むことでもなく、ライバルの悪印象を植え付けること。俺はそれが心底がっかりだったし、原因が作劇能力の未熟さか作者の倫理観か単なる嗜好かさえ知りたくなかった。それでも、一言向こうから、そういうジャンルだとかそういう結ばれ方を書きたかったと言い返されていれば、余計な口出しして悪かったと謝るつもりはあった。不倫ドラマや不良漫画のような主役の非道徳を愉しむ作風自体はいくらでもあるし、一々苦情を言うほど頑迷ではないつもりだったが、急にそちらに方針転換して開き直ったように思えたのが腹立たしかったのだ。誰とくっつこうが、過程さえ納得できるならそれでよかったのに。

 結局向こうはどう誤解だったか説明しなかった以上、考えても仕方ない話ではある。いずれにせよ、誰かの落ち度でヒロインの勝利が舗装された消去法の恋を、自信満々に描いていたあの作者にとって、俺のスタンスは、全否定に等しかった。俺は自分がそれ以降文芸部で受けた扱いを不当だとは思わないが、泣けば正当化される彼女たちのルールは気に食わなかった。作品への文句を作者への人格攻撃、ひいては女への攻撃と論理をすり替え、それに誰も疑義を挟まず俺を非難するなら、それこそ女を攻撃する口実を自ら与えただけだ。

 そんな俺の嘆きと憤りを、あの女子大生が知る由もないし、あえて伝える義理もない。実際、現実なんてそんなものだというのは真理なのかもしれない。俺がただの節穴でない証拠はどこにもない。全部作者の勝手で、創作に善悪や正誤を見出だすなと言われればそれまでだ。

 ただ一つ確かなのは、俺が高校時代に途中まで楽しんでいたあの作品を、今はもう読み返したくもないということだった。

 ただただ俺は、残念だ、と思っていた。

 

 

 

 

 コンビニを出ると元お客様は、俺の借りている部屋のある方へ迷わず歩き出す。大学時代から俺の行動パターンが変わっていないことを、すっかり読まれてしまっているらしい。俺も強いて言及せず、数歩の遅れを大股で取り戻し始める。

 2人の間に横たわる沈黙を先に埋めたのは、向こうだった。

 

「元気そうで安心したかも」

 

 半年(振られる)前と何一つ変わっていない、気安く温かい調子だった。

 

「そりゃあ健康そのものだが……かもって何だよ」

「生存報告はこまめに欲しかった、かも」

 

 軽い口調に反して、視線はじっとりと重く俺に絡みついてくる。以前俺の入院中に連絡を完全遮断したことを根に持っているのだろう。

 

「…………そうだな」

「心配で心配で、毎晩一人で枕を濡らして、さみしかった、って言ったら、信じてくれる?」

 

 よよよ、と呟く声に苦笑し、俺もつられて、気が緩み始める。

 

「気ぃ遣ったつもりだったんだけどな。そっちだって忙しいだろうし」

「…………まぁね」

 

 含みのある声だった。隠し事はあっても裏はないその反応に、申し訳なくなる。

 

「俺の方は労働三昧だよ」

「夜に働くの好きだよねー」

「深夜料金はデカいからな。まぁ最近は現役の大学生に譲ることが増えて」

「世代交代だねー」

 

 あえて間延びしたその言い方は、いかにも俺の警戒と緊張を解くための誘いだとわかっていた。あえて雑談にまで気を張る意味もなく、俺は気遣いに甘える。

 

「店長からも、ベテランがピークタイムにいると助かるけど、固定で働かないのかってせっつかれた」

「夜に働くとモテなくなるって前に言われてたの気にしてる?」

 

 何の気無しの質問だったその一言は、とっさに自分で聞いたはずの彼女の柔和な笑みを曇らせる。

 

「あ……その、ううん。なんだろう」

 

 露骨に視線を逸らしたこいつの横顔を目で追いかけて、俺は自己嫌悪に陥る。

 

「……そういうのじゃねえよ」

 

 端的に否定し、話を逸らす。

 

「そっちはどうなんだよ。新作の一冊ぐらい書けた頃か」

 

 こいつは顔も逸らし、俯き目を伏せる。また、沈黙が訪れる。俺がいなくても平気だと言われなかったことを、安堵するべきか憂慮するべきか、自分でもわからなかった。

 俺たちを分かった半年間は、互いをまだそこまで引き離してはいないらしい。

 彼女は俺が出会った頃には既にプロだった。情熱的な少年と無感動な美女の二人旅シリーズは映画にもなった大ヒット作だったし、別の短編やノンシリーズでもどれも一定の評価を得ていた。人を愛せない美女とそれに寄り添う何か、というモチーフを繰り返し描いていて、その透徹した目線と文体は彼女のペンネームで呼ばれていた。

 俺が彼女とその作家が同一人物と知ったのは、文芸サークルで話をするようになってからずいぶん後のことだった。俺はこいつをただ、たまたま学科とサークルが一緒になっただけの、舞台好きのモテる文章家だと思っていたし、本人から作家業だと名乗られたことはなかった。俺がその手の話をしたのも確認するときの一度きりで、詳しいことは何も聞かなかった。担当編集さんに言われたように、俺も気鋭の覆面作家の繊細さという魅力を揺るがす真似はしたくなかったし、自分から言わなかったなら問い詰めたくはなかったからだった。

 こいつの書く美女はどれも個性的で、明るいお人よしもいれば人嫌いの魔女もいて、人体実験を繰り返す科学者もいたし政略結婚した姫様もいた。自分の内面を思い悩む以外に共通点はないぐらいで、その全員をモノローグの文体ごと描き分け切れるこいつ自身は、普通だった。

 人に溶け込み誰かの面倒を見ていたら、自分が変だと気付かれることはない。こいつはそう言っていた。そして、1人でいても人といても苦にしないこいつにとって、面倒を見るべき変な奴は、いつも俺だった。

 俺はこいつに振り回されて舞台や映画、博物館に美術館、時には日帰り旅行にも行ったし、古本屋巡りや資料集めにもしばしば奔走したが、噂になることはなかった。俺たちは恋人ではなかったし、彼女はそれを隠してはいなかった。ただ気軽に互いを泊めたり泊まったりできる仲と公言し、甘い空気や強烈な引力もないまま、安心して長い時間を共に過ごしていた。俺は読書感想文だけが取り柄の学生だったので、こいつの男除けとしてはあまりに弱々しく、世話焼き気質をただ際立たせる引き立て役か便利屋として見られていた。こいつは俺のことを周りに、着眼点が面白いと評していたが、それに同意する人はいなかった。

 こいつがいい意味で普通なら、俺は悪い意味で没個性だった。だから気が合うのだろうとゼミの後輩に言われたとき、こいつは笑っていた。

 卒業の日にこいつに振られたことは、誰にも広まらなかった。そのことで俺を馬鹿にするやつはいなかったし、慰めるやつもいなかった。俺が学業やファッションでどれだけこいつに世話になったか、俺が日頃何を好み考えたか、触れ回ろうと思えばいくらでもできただろうに、こいつはただ黙っていた。

 俺たちはかつて毎日のように顔を突き合わせ毎月のように出かけ、共にいて飽きることはなかった。締め切り前には泊まり込みで家事手伝いもして、何かなくとも毎週互いの部屋で鍋や炒め物をつついていたが、それもぱったりと止んだ。

 もう、半年が経つ。まだ、半年というべきか。

 人が変わるには十分すぎる出会いと解放の季節を隔ててなお、それぞれに大きな変化はないらしい、それがどの程度喜ばしいことか俺には何とも言えず、話はどこまでも逸れてゆく。

 

「そういや明日の朝飯帰りに買うんだった。……今から戻りたくねえな」

 

 俺が愚痴ると、糸口を手繰り寄せるように会話は再開される。

 

「スーパー閉まってるもんね。私も、ごめん、今から軽く食べる分しか……」

「まぁいいさ。スパキャベ炒めとインスタントスープくらい出せる」

「私、何時頃退散したらいいかな」

「急ぎでなきゃ朝食ってからでいい。具は足りる」

「ごめんね押しかけて。気の利いた朝ご飯作れたらいいんだけど」

「そうやって張り切って買い置き使い尽くされちゃ困る」

「あったね。あの時は食べきれてよかった」

 

 途中で微笑みを浮かべた美女は、顔を上げて空を見遣る。つられて俺も見上げると、南南西の空に夏の大三角が目に入った。東の空にはもうオリオン座が上ろうとしている。こいつは儚げに笑った。

 

「あれからまだ一年も経ってないんだね」

「もう半年は過ぎたけどな」

「そうだね。またそろそろ、白の秋と玄の冬になる」

 

 青春も朱夏も過ぎたなら、収穫と眠りの季節が訪れる。俺が昔サークルで書いた短編を、まだ覚えていたらしい。俺は目を伏せた。

 

「俺の人生はまだ梅雨くらいだといいんだけどな」

「しゃっきりしなって」

 

 背中を叩かれた。驚いて背を反らしてしまうが、この感触も、今は懐かしく心地良い。美女の笑顔は、花が開くようだった。

 

「確かに人生のゴールデンウイークはとっくだけどさ。折り返し過ぎるほど老いちゃだめでしょ?」

「…………ああ」

 

 元気づけられてしまった自分に呆れながら、俺はこの不用意な再会をありがたいと思った。いい加減、独りで立ち直らなきゃいけないとわかっていながら。

 俺が言葉を探して無言になったのを気にしてか、また話題が変わる。

 

「そういえば、サークルのみんなと連絡取ってる?」

「いや……会長以外とそんなに交流なかったしな。あいつらだいたいお前目当てで、活動も…………」

 

 俺はまた余計なことを口走り、言葉を切る。自分の表情が強張っていくのがわかった。少し目を離すと男が寄ってくるこいつは、親しい女友達を作るのに難儀していた。だから俺を盾にしたのに、と四年前と半年前の記憶が同時に蘇り、自省と自責の念に襲われた。

 

「……女子とはあまり関わりたくなかったしな」

 

 間の抜けた強がりでお茶を濁すと、彼女は不出来な生徒を見つめる教師のように優しい表情を見せた。

 

「そっかぁ。私と一緒かぁ」

 

 わかりきっていたことを確かめるように呟いて、それからアパートまでの4分間、俺たちは無言で歩いた。

 別に気まずさはもうない、というよりも、最大の難関はコンビニで言葉を交わした瞬間に超えてしまっていた。後はもう距離感の再調整で、俺の方は油断すると失言が続くと見越して、自分を抑えるためにも黙っていた。半歩遅れて歩くこいつもこいつで、特にもう一度口火を切りはしなかった。俺たちは元々、2人でいる時の無言を気まずく思ったことがないので、すぐに警戒も緊張も解けてしまい、あの頃と何も変わらないような気がした。

 2人でアパートの階段を昇り始めると、下の階のドアが勢い良く開くのが聞こえた。振り向くと、大家さんが木刀とスマホを持って俺たちの様子を窺っていた。

 なるほど、1人用アパートに無言で2人分の足音、しかも夜中。

 俺は頭を掻き、首を下げて同伴者を手で示す。大家さんは途端に相好を崩した。

 

「あんたたち仲直りできたの。久しぶり、いらっしゃい」

「ご無沙汰してます、夜分失礼します」

「いいよ。ゆっくりしてきなさい」

「いや俺が住んでる部屋……まあ借りてる身だけど」

 

 連れの控えめな一礼に満足したのか、大家さんは俺の背中をどついて笑顔で戻っていった。俺は眉をひそめたが、強いて抵抗はせずに部屋の鍵を取り出した。

 

 

 

 

 大学時代、俺たちは互いの住処によく行き来していた。荷物持ちとして分厚い本や生鮮食品を抱えて、大学生女子1人に不相応な高層マンションの一室までお供したこともあれば、試験明けや締め切り明けにこいつが俺の部屋に転がり込んできて、2人して惰眠を貪ったこともあった。食材費は出すから何か作ってと帰りに呼ばれることは珍しくもなかったし、お腹が空いてつい来ちゃったと俺の部屋の前で手土産片手に言い放たれたこともあった。いつの間にかそれぞれの部屋に相手の箸やらタンブラーやらがあるのが当たり前になり、大きめに買ったはずの2人用の鍋やフライパンもすっかり物足りなくなって、さらに大きなものを使うことに慣れてしまっていた。

 俺はいつも料理係で、こいつの好みの味付けをすっかり覚えてしまった。

 そんなことを、コンビニおにぎりを頬張るこいつの姿を見て、思い出してしまう。

 食後の一服を終えて湯呑みが空になり、こいつは大きく息をついた。

 

「私の湯呑み、まだ持ってたんだね」

「やるよ」

「持ってて」

 

 距離感を測りかねて、今度は俺がため息をつく番だった。自分の家みたいにリラックスして、柔らかい表情浮かべやがって。

 

「…………いつもそんなメシなのか」

「実家」

 

 どことなく優しい声だった。腹が膨れて満たされたのだろう、続く声は次第に元気になる。

 

「専属シェフ兼雑務くんがいないと好きなメニューも思い出せなくて」

「…………バランスよく食ってるなら何よりだ」

「食事はね」

 

 静かで含みのある物言いだった。聞いてほしそうに俺を見てくる目を、見つめ返す。カラーコンタクトもつけまつげもない、ありのまま大きな黒目と長く反った睫毛。

 いつの間にか見入ってしまったらしく、向こうが手で顔を覆った。

 

「まだ本調子じゃないから、そんなに見ないで」

 

 柔らかで穏やかな声だった。俺は少し視線を外す。

 

「……体調崩したのか」

 

 まぁ、半年もあれば一度くらいあるか、と思いながら尋ねると、首を横に振られた。

 

「…………病気でも見つかったのか」

 

 まだ本調子じゃないという言い方は、すぐ見つかって治ったんだよな、と恐る恐る尋ねると、これも違うらしい。

 

「…………じゃあ」

 

 俺の視線を受け止め、こいつは手を下ろして目を伏せ、恥ずかしそうに笑った。

 

「精神的にね」

 

 俺たちは黙って、卓袱台を挟んで相対していた。向こうは不調についてもう語るつもりはないらしく、俺も強いて追及するつもりはなかった。今度は彼女が問う。

 

「キミの方は、ちょっとテキトーご飯寄りだね」

 

 言われて俺も、卓袱台の上に視線が流れる。空の食器にさっきまで盛られていたのは、冷凍してあった白飯に朝の残りのハムエッグと豆腐の味噌汁、乾燥わかめのパックに出来合いのミックスサラダ、そしてプチトマト。

 予定通りの献立、計画通りの食糧消費。

 

「男の1人暮らしでこれならまぁまぁマシな部類だろ」

「まぁ、グラノーラどーんとかオムライスどーんとかカルボナーラどーんとかよりは」

「時間と手間と金額と分量を考えると、その方が楽ではあるからな」

「栄養バランス優先でえらいと思う」

 

 こいつは小学生を扱うような口調で俺を褒め、微笑をこちらに向けてくる。その眼には、労わりや懐かしみや哀愁が混じり合っているように思えた。

 習慣で見つめ返してしまい、記憶と何か違うな、と無意識に照らし合わせてしまう。髪……? と、肌か? 記憶を美化してしまうほど時間が経っただろうか、と思った瞬間、先ほどのやりとりを思い出してまた目を逸らした。本調子じゃないと言うのに、俺は。

 視界の端で、こいつが身を固くするのが見える。

 

「そういえばさ」

 

 珍しく緊張した様子でこいつは、コンビニで買った商品を卓袱台に広げた。

 

「使い捨ての下着はあったけど、バスタオルなかったんだった」

「あるの適当に使ってくれ。ついでに置きっぱの春物の予備も回収してくれると助かる」

「ありがとう。もう秋だけどいっか。あと、歯磨き用のコップ」

「出しといたから使えよ」

「ありがとう。それと…………その」

 

 口ごもったこいつは視線を落とした。その先にあったのは、さっきコンビニで選んでいた男性用避妊具──パッケージには『ジェル付き』と『0.02mm』の文字が強調されていた。

 向こうの表情を窺うと、ちょうど目が合った。静電気のような何かを感じて目を逸らし、今目に映った緊張の表情を反芻する。俺は多分、間抜けで胡乱な顔をしていたと思う。

 

「どうしろってんだよ……」

 

 俺はお前に振られただろという自戒と、ここでは見栄なんて張るなという慰労が同時にこぼれる。どちらにしても、期待なんかなかった。元々気の迷いだったのだ。

 向こうは緊張をごまかすように、えへへ、と笑った。

 

「流れで使えよって言われたらどうしようかと思っちゃった」

「…………言わねぇよ」

 

 吐き捨てるように口をついてしまう。別に、拗ねているわけでもないのに。

 あいつは湯呑みを手に取って、両手で撫でさすり出す。沈黙はいつの間にか、安心感に変わっていく。俺はこの居心地の良さに甘え過ぎてしまっていた、と反省していると、独り言のような声が投げかけられた。

 

「この湯呑み、使ってなかったでしょ」

「…………だから洗って拭いて出しただろ」

「そうじゃなくてさ」

 

 独り言はいつの間にか、対話に変わっていく。

 

「なんで捨ててなかったの?」

 

 さっきの物言いもそうだったが、こいつの中では俺がとっくに捨てた前提らしかった。そりゃ、あれからメッセージに何の返信もなければ、遠回しな絶縁通告だと思ってもおかしくはない。

 俺は、大学卒業のあの頃、自分がわからなくなっていた。将来も恩も命も友情も愛情も、一度そこから離れて自分を冷静に俯瞰したかった。だから、積極的に捨てるつもりなんかさらさらなかった。……ただ、こいつが自分の人生を歩み出して俺を過去にする日を、遠くで見守ろうとしていただけで。

 

「…………思い出になるのを待ってたんだよ」

 

 本音が引きずり出されるのが、苦ではなかった。俺は自分から捨てるほど、覚悟はなかった。……いや、夏に入って歯ブラシだけは衛生的に気になって処分させてもらったが、その他は全部、汚れないように大きな袋に入れて、ずっと置いてある。

 こいつはなぜか、微笑を浮かべた。

 

「じゃあまだ私は、過去の女じゃないんだ」

「……残酷だぞ」

 

 俺は非難めいた視線を返し、結局何を言っても負け惜しみだと気付いて口を閉じる。流石に専業作家に言葉では敵わない。ついでに目を伏せた俺をどう受け取ったのか、こいつは流れに不似合いな明るい声を出した。

 

「また2人でどこかに行かない?」

「…………出し抜けに何を」

「私やっと出歩けるようになったからさ」

 

 その口ぶりからは、カンヅメ明けの作家が羽を伸ばしたがっているのか、病み上がりの女が快気祝いをねだっているのか、判断がつかなかった。そして、言葉の裏を読ませたがる時のこいつの目線の癖を、思い出す。

 俺に充分理解と想像の時間を与えた後、その事実を改めて染み込ませるようにこいつは呟く。

 

「一番先に会いたかったの」

 

 照れてはいなかった。切実さをはっきり訴えられて、俺は黙りこくる。 

 …………なんだよ、今更。

 俺は拗ねているわけではなかった。嫌だとも思わなかった。ただ、踏み込まれることを拒んだこいつが、今になってこうして言い出した理由が思い当たらなかった。

 元の関係に戻れないことくらい、わからないはずがないだろうに。

 俺はさらに考えを巡らせる。

 まだ本調子じゃない。精神的に。やっと出歩けるようになった。こいつの発言をまとめると、そういうことになる。こうも言っていた。食事は実家。メニューは思い出せない。

 …………まずいことを言っただろうか。

 

「……親御さん、何かあったのか」

「えっ!?」

 

 深刻な問いは素っ頓狂な反応で打ち消された。彼女は慌てて口を押えて辺りを見回す。

 

「ごめん夜中に、大きな声出して」

「多少防音はしてるとはいえ……そっちのマンションじゃないんだし気を付けてくれよな」

「うん……。それで、実家は何ともないよ。安心安泰」

「そりゃ何よりだ」

 

 ため息をつく俺を、こいつは上目遣いで見つめる。

 

「……もう聞かないの?」

「答えねぇだろ」

「聞いてもらえないからね。聞いてくれたら口を滑らせるかも」

 

 彼女は珍しく、甘えるように笑った。俺は黙って、その笑顔に見惚れていた。

 

 

 

 

 俺たちの出会いに、ドラマティックなところは何一つなかった。

 同じ学科でサークルが一緒になり、ただ疎遠な知り合いとしてしばらく過ごした。向こうは顔立ちも人当たりもよく、常に人に囲まれていて、俺はいつも視界の片隅のその光景を特にどうとも感じていなかった。面識はあったはずだが、彼女の方で俺を個人として認識する機会はなかったと思う。仮にあったとすれば、たまに顔を出すサークルの集まりの時くらいだっただろう。

 俺は彼女が最初に書いてきた掌編を読んで、当たり障りのない題材を読ませる丁寧な文章と魅力的な人物描写に感嘆した。言葉選びの一つ一つが読者の意識を誘導する、極めて精緻で磨き抜かれた表現力に、こんな逸材が在野にいたものかと世界の広さに脱帽したものだ。だがそれはそれとして、過去の苦い経験から、感想を本人に直接語ろうとお近づきになるのは避け、ただ独りで読み返して、技術やセンスの分析と言語化を続けていた。

 ちょうど今頃の季節、サークルの飲み会で男に囲まれていた彼女をよそに、俺は会長と文体の書き分けについて議論していた。俺は「日本語の一人称視点切り替え群像劇を英語に翻訳してから、元の日本語に適切に再翻訳するために何が必要か」という論題に夢中で、会長は大真面目に話に乗ってくれていた。その会長が途中で、酒を何度も勧められて断りづらそうにしている美人の後輩に気が付き、話は中断した。

 他の男がアルハラは良くないと割って入っていたので俺はただ静観していたが、会長は、酒を勧める先輩には前科があるからとわざわざ席を交換し、飲まない人に飲ませるくらいなら自分に酒をくれ、ただし今手に持っている分は他人には飲ませず一人で処理するように、と言い出した。期せずして隣に来た彼女に、俺は一言簡単に同情心を示したが、意識は彼女の代わりにジョッキも杯も干していく会長のザルっぷりに向いていた。

 彼女は、みんながはしゃいでる空気は好きだけど、私がいるとああいう雰囲気にならなくて残念、と呟いた。俺は大真面目に、会長を崇め奉れ、と応え、彼女は突拍子もなく大笑いした。その後あいつは普通に女子連中と話し始め、俺はうすぼんやりと辺りを見守っていた。酒を勧めていた先輩は、後輩に飲ませるはずだった分を自分で飲んだ後、暑い暑いと繰り返して上を脱いでいき、酔いを冷ましてくると言って外に出て数十分ほど戻ってこなかった。

 その間、男が何人か入れ代わり立ち代わり、場所を代わってくれと俺に言ってきたが、その視線はいずれもちらちら隣の美女を見ていた。俺は枝豆を食ってる最中だから他の誰かに言ってくれとやり過ごし続け、何人目かを突っぱねた後、彼女が俺に小声で礼を言った。当時の俺は、酒を勧めた先輩の手口と食い逃げ疑惑の方が気になっていたので、会長に対してならともかく俺の何に対する礼なのか心当たりがなかった。よくわからないままスルーした俺は、続けて何か話しかけられそうな気配に先回りして、そんなことよりつまみを減らすの手伝ってくれ、多分このままだと残るぞ、と追加注文された刺身の盛り合わせやら鶏軟骨の梅水晶やらを指差した。彼女と話していた女子連中や酔いの浅い男連中も加わって、俺たちはしばらく飲み食いを優先し、酒飲み共のバカ騒ぎを眺めながらぽつぽつ話をした。周りが益体もないことを話す中、彼女は控えめに相槌を繰り返していて、俺は黙って耳を傾けていた。

 お開きとなり、俺が二次会を断って立ち去ろうとすると、引っ張りだこになっていたあいつがみんなを振り切り、俺に送ってもらうと言い出した。会計後の清算に辛うじて間に合った酒の先輩は、彼女と会長に平謝りした。その彼女が会長に深々と頭を下げて礼を伝えるのを見届けて、俺は道すがら、会長としていた話の続きを彼女とひたすら言い合って、高層マンションの前で別れた。

 それが、きっかけだった。

 夜中のシャワーの水音に混じって、女の鼻歌らしき音が届く。

 風呂場で熱唱しても大丈夫が大家さんの自慢だったのを思い出したのか、ご機嫌なメロディが部屋に流れ続けている。目を閉じてこの音に耳を傾けていると、意識が去年のあいつのマンションに引き戻される。よく、あの一室ではこの音が聞こえていた。

 俺たちは互いの家に食料を手土産にして行き、昼飯やら夕飯やらをよく食った。午後からあいつにノートを借りて復習することもあれば、ぶらぶらとその辺を散歩したり、買い物の荷物係や、一緒に見た映画や舞台の感想戦をしたこともあった。夕飯を相手の家で食べた日にはほとんど決まって、そちらの家でシャワーを借りてそのまま寝た。俺たちの部屋には常に互いの着替えや寝袋があったし、自分の使わない歯ブラシやシャンプーを置いていた。それが世間一般に何を意味するかには興味がなかったし、関係ないと思っていた。

 俺があいつに異性としての感情を抱かないことが、あいつにとっては必要だった。実際、その一点だけが俺たちの心を繋ぎ留め、また戒めていた。

 互いの家に泊まることがどれだけ増えても、俺たちは友人として弁えるべき最低限の礼節と恥じらいは忘れることはなかった。入れ違いで風呂やシャワーを使う時は必ず脱衣かごの中身を別にしていたし、肌を晒した姿で出てくることはなかった。同じ布団で寝ることもなかったし、相手の家では座布団やマットを敷いて寝袋に入ることを苦痛に感じたこともなかった。締め切り前やあいつが体調不良の時には、食事係の他に簡単な看病や洗濯ごみ捨てその他雑用を俺が任されることも稀にあったが、日常的には相手に友人の程度の超えた甘えを抱かないことが俺たちの暗黙のルールだった。

 俺たちは男と女ではあったが、性質としては親しい姉弟のような付き合いだった。俺は高校以来女の恋の情熱の気配を感じるたびに怯えていたし、あいつは自分に近づく男どもの下心を苦々しく思っていた。だからこそ俺たちは噛み合い、必要として求め合い、安心していたのだろう。

 そして確かに、楽しんでいた。

 俺が、ちっぽけなプライドのせいでぶち壊してしまった、あの安寧の時間を。

 自己嫌悪と自蔑が憎悪に変わりかけたその時、鼻歌が止んでいることに気が付いた。いつの間にか厚手のタオルが立てるバタバタという音だけになっている。ミニドライヤーの音が数度勢いを変えて響いた後、リズミカルな歯ブラシの音がくぐもって聞こえてくる。

 自分が台無しにしてしまったものに改めて思いを馳せていると、ユニットバスの戸が開いた。

 

「お先でしたーっ」

 

 語尾に8分音符の記号でも付きそうなほど陽気な声で出てきた彼女は、俺のスカイブルーのブラウスの前をいくらか開けていた。

 

「……おう」

 

 すぐに視線を外す。どういうつもりなのか、俺が貸すと言ったインナーを着ていないらしく、ブラウス1枚の下に女性的な膨らみや輪郭が強調されている。下半身はパレオのように乾いたタオルを腰に巻いていたが、ロングスカートに隠されていた部分が一気に室内照明に晒され、湯上がりの滑らかな肌がやけに目についた。

 とっさに、やめてくれよ、と口走りそうになって自分を抑える。

 一瞬ざわついた心は、記憶に沈んで虚無に呑まれる。本能に学習が勝り、自分への憎悪が理性を立て直す。

 

「…………じゃあ、俺も入ってくるわ」

「……うん」

 

 彼女の声もつられて、ずいぶん落ち着きを取り戻した。

 

「ねぇ。やっぱり、下に何か着た方がいい、よね」

 

 明らかに、最後の2音は俺の顔色を窺って付け足されていた。俺は平静に、彼女の緊張をほぐすように肩をすくめた。

 

「風邪引かないようにだけ気をつけろよな」

「ありがと」

 

 強張った声が和らぐのを聞き届けて、俺も風呂場に向かった。

 さすがに中では異変も違和感もなく、体を洗う間に久々に湯を張って、泡を流してゆったり浸かる。キャンピングマットと着る毛布寝袋は出しておいたし、炊飯器も仕掛けておいた。タイマーのセット時刻を聞いた時あいつは、2人とも休みなら夜更かしできちゃうね、と笑っていた。生活リズムを厳守していたかつての彼女を思い出し、何がどこまで本心なんだか、と考えずにいられなくなる。そして、俺が出るまでに寝てくれていればいいと安易に願いながら、直前に見たあいつの格好を思い返してしまう。

 俺は正直なところ、あいつの身体的な側面に関してはあまり知らなかった。大きな怪我や病気の経験がないとかアレルギーがないとか寝つきや寝相がいいとか、外出時は夏でも長袖と日傘必須とか、その程度がせいぜいで、なんとなくスリムな気がするという印象以外はなかった。それさえ顔と腕が細いことから推論づけた程度のもので、家でも外でも体型の出ないゆったりした服を好んでいた彼女のボディスタイルは、気にしたこともなかった。それは、彼女の俺に対する配慮だったのだろうし、おかげさまで特に意識せずに済んでいた。

 背中や腰の簡単なマッサージを頼まれて、服の上からやったことは何度かあったものの、凝ってるという印象が強すぎて色気のある雰囲気にはならなかった。今思えば、あいつはマッサージの最中に気持ちよくてよだれが垂れたと口走るほど素直で無防備だったし、俺は早く拭けと呆れてあしらうほど無反応で何も考えていなかった。きっとあれは、何の他意もないようにという、あいつの細心の注意と言葉選びの賜物だったのだろう。

 彼女は、表情や声の雰囲気、視線の動きや仕草や所作、言外の意図など、些細な挙措動作で場を掌握するのが恐ろしく巧みで、日常的には奥ゆかしい意思表示を好んでいた。それが逆に、物分かりの悪い相手や押しつけがましい連中への気苦労に繋がることもあったが、たいていは美貌故の気品と人当たりの良さによって誰かしらに助けられ、あるいは意識的に周囲の目を惹きつけて助けたくなるように仕向け、切り抜けていた。そういった、コミュニケーションに関する天性の才覚が、小説における緻密な文章構成や巧妙な会話の組み立てに活かされている、と気付くのにそう時間はかからなかったし、それ故に映画化作品の原作者と知っても驚くにはあたらなかった。

 それが今や、あの格好だ。しかも、あんなものを買った上で。

 物書きや読み巧者は、高校の文芸部でもサークルでも、人物は台詞より行動に表れる、と口々に言っていた。あの恋愛小説の作者も、会長も、そしてあいつも。

 言葉には常に真意があり、行動はそれを如実に物語る。話しかけてほしいから隣に座って黙る。口喧嘩を繰り返しながら楽しそうに笑う。言葉では謝りながら声で嘲笑う。暴力反対と泣きながら暴力を振るう。無論、現実には整合性など必要ないが、それでも指標としては充分有意だろう。

 俺は、意識を逸らそうとさらに記憶を蘇らせる。

 彼女に関して、俺は何を知っていると言えるか。

 あいつは、大学構内で話す知人友人こそ多けれど、プライベートで他の女子と集まってどうこうとはあまり言わなかった。同じ舞台好きでも、脚本構成目当てと役者や芝居目当てとでは話の勘所が合わないらしかったし、SNSやグループチャットにも反応が薄い方だった。金はあるので俺のようにバイトする必要もなく、執筆活動にのめり込んでいる時が一番生き生きとしているやつだったし、長期休暇では実習や課題がなければひたすら引きこもって通販で済ませ、たまに次回作の打ち合わせで喫茶店に行ったり、俺のアパートに遊びに来て俺を買い物なり劇場なり美術館なりに連れ出すような生活だと苦笑していた。1人で出かける行動力は持ち合わせていても、サービスされやすいのもなかなか楽じゃないんだよ、と述懐していたので、開き直れない美人は得ばかりでもなかったのだろう。

 俺も彼女も元々サークルに入り浸るタイプではなかったとはいえ、片や美貌でも文章でも雑談でも大歓迎される輪の中心の人気者、片やその美人になぜか目をかけられている片隅の面白みのないやつ、という扱いは引退まで変わらず、飲み会以外ではサークルで話らしい話をしたことはついぞなかった。

 彼女はサークルや講義の時は女子グループに交ざりたがっていたが、どうしても男子が寄ってきて男女混合になると嘆いたり、周りの男子が自分たちに対して露骨に他の女子グループ相手と態度が違うことを気まずそうにしていた。俺はその辺りの女子同士の水面下の事情は知らなかったが、男除けがいるという評判を得てからの方が話せる女友達が増えた、とあいつは笑っていた。それらは後々、彼女の男除けとしての俺に話しかけてくる女子の台詞の端々から、窺い知ることができた。アイドルやオタクでもないのに恋人の影がない美人の人気者はヤバそうで近づけない、と言われるとわからなくもない話だが、モテすぎるから逆にうんざりして全部シャットアウトしちゃう、という本人の言葉もまた、ある種の真理に思えた。

 お互い、同じ学科よりも違う学科の方に気性が近い友人が多いらしく、俺が女っ気のない男連中と鉱物の写真写りやレトロウイルスについて話している時、向こうが柔和で優しそうな女子グループとアニマルセラピーや童謡の地域性の話をしているのを見かけるようなことが、たびたびあった。そういう場合、多くはただの近い友人程度の距離感を保ち、その場では必要以上に親密さをアピールはしなかった。だがどちらかが異性と2人で話をしているような場合は、主に向こうが俺を呼んだり話に入ってきたりして、周囲に牽制していた。あいつは恋愛感情や下心に対して男連れアピールのためによく俺を利用したが、別に俺である必然性や妥当性はないように思えた。そして、多分こうして舞い上がらないからこそ都合がいいのだろうと思いつつ、すぐ傍で妖精がひらひらと舞う様に目を奪われていた。

 あいつはよく公園を歩きたがり、季節の草花や道行く人々を眺めて楽しんでいた。大学の庭のベンチでぼーっとしたいけど独りだとすぐ声をかけられるから、と俺を同伴させたり、少し離れた市街地の図書館近くの公園をのんびり散歩し、遊んでいる子供たちやベビーカーを押す木陰の主婦たち、キャッチボールをする父子や兄弟、ペット連れや年配の夫婦、若いカップルなど、その土地に生きる人たちの営為を観察し、桜や銀杏の樹を見上げ、花壇の紫陽花やパンジーの前でしゃがみ込んでいた。大人になってもこういうことを独りでしてると変な人だと思われちゃうから、と照れていたかと思えば、ませた女の子に声をかけられて恋愛相談に乗ったり、すれ違う赤子に手を振りペットに猫なで声で話しかけたりしていた。俺もそのお仲間として、恋愛相談に巻き込まれて男目線で意見を言ったり、転がってきたサッカーボールを蹴り返したり絆創膏をたかられたり腕相撲を挑まれて返り討ちにしたり、安全な人間の一員として扱われていくようになった。

 彼女は他人の恋の悩みに対しては無難に応答していて、恋愛を厭う普段の姿とはまた違う趣きを漂わせていた。モテる女になりたいと意気込む中学生の女子には、姿勢と表情と心構え、と説いて解説しながら復唱させたり、恥ずかしくて話せないと口ごもる小学校低学年辺りの女子には、おはようとまたねからちょっとずつ挑戦していこう、と単純接触効果の紹介をしていた。高校生らしき女子から彼氏をベッドに連れ込む流れを聞かれた時には一瞬真顔になったが、そもそも相手がしたいと思ってるかきちんと確かめないとね、と前置きした上で、ヒントとか前振りを仕込んで相手をその気にさせてあげておいたらどうかな、と許容範囲の提示作戦を立案した。一週間後にその高校生から成功の報告を受け、表面上は祝福していたが、後で2人の時にため息をついて、簡単にさせちゃうと見くびられちゃう気がするんだけど、できないと捨てられたりしちゃうのかな、と夕日に呟いていた。そういう話よく聞くよね、と話を振られた俺は、男向けのラブコメはくっついたら完結するからその先は知らん、と正直に答え、後は男女の身体的役割分担によって規定されるエンタメのジェンダー論についてあーだこーだ分析し、その日は最終的に女がなぜ元カレの悪口を言いたがるか考察して解散した。

 彼女は連れ立って歩く老夫婦を見ると、ちゃんとあのお歳まで仲良しってえらいよね、とたびたび感心していた。俺にはそれらが見た目通り相性の賜物なのか、はたまた忍耐の仮面を被った冷淡の虚飾なのか知れなかったが、えらいのは確かだ、と同意しておいた。

 久々の湯舟にぼんやりとしていると、風呂か、と思考が展開する。

 あいつは向こうのマンションでは長風呂だったが、こちらのアパートでは程々に済ませていた。最初にあいつの部屋に泊まった時は、朝に顔を洗おうと思ったら、髪の湯洗いで洗面所が塞がっていて手間取ったのを思い出す。入念を通り越して執拗なスキンケアやヘアケアとは反対に、メイクはほんの簡単なもので、必要なのか疑ったものだった。

 化粧水だ乳液だといった類のものや化粧品・美容品は一揃いあるようだったが、俺はあまり見ないようにしていたので、向こうの家の風呂場や洗面所で見かけるものや、俺の部屋に持ち込むポーチの中身を、銘柄や名称だけ知っているくらいだった。美人は金がかかって仕方ねえなと嘆息したが、本人に言わせれば、本当はさらに食事制限や運動・ストレッチ・マッサージももっとしっかりやった方がいいとのことで、苦労はしようと思えばいくらでもできるらしかった。

 俺は冬場に化粧水の世話になることがある程度だったので、あいつはそういうものの買い物に俺を付き合わせることはほとんどなく、俺と買い物をするときはもっぱら服飾方面、さらに言えば、俺にもっとお洒落になれとファッションコーディネートをしたがることの方が多かった。ブルベ同士なのでさほどアドバイスに悩みもしていないようだったし、彼女の見立てに店員さんも異論はないようだったので、俺の分は比較的早く片付くことが多かった。時間がかかるのは向こうの方で、俺の時とあからさまに目の色が違う店員さんにあれもこれもと勧められて、女同士で友人のように盛り上がって時間が過ぎていった。あいつ自身は流行より定番を好み、来年再来年のことを考えて選んでいたので、合わせにくいような流行りのものはよく断っていた。

 そういえば、あいつは白いシュシュや紺のリボンを好んでよく着けていた。今日は、ただのストレートだったはずだ。だからコンビニで、気が付かなかったのだろうか。印象深い出来事こそあれど、別に、トレードマークというわけでもなかったのに。

 そこにどういうメッセージがあるのか考えるのを止め、都合よく明朝の献立のことを思い出した。一応客が来るのに、葉物野菜の残りと缶詰肉を炒めてフリーズドライにお湯を注ぐだけでは手抜き過ぎるだろうかと迷い、どうせなら避難用の保存食も使っちまうかと思い立つ。手間をかければいいというものでもないし無い物はどうしようもないので、あいつも表面上気にはしないだろうが、せっかく半年ぶりに来たのに歓迎されていないと思わせてしまうのは、さすがに申し訳ない。

 俺はあいつを、追い払いたいわけではないのだから。

 つらつらと考えながら無意識に歯を磨き、夏用の寝間着で部屋に出る。なるべく体を直視しないように顔を上げると、あいつの姿はなかった。

 玄関に履物があるのを確かめ、クローゼットの取っ手に手をかける。

 同時に、ベッドの方からくぐもった声が聞こえる。

 

「ここ、ここ」

「…………小学生かよ」

 

 ひとの布団に頭まで潜っていた。俺が近づくと、夏用の薄手の掛け布団から顔だけが出てくる。こちらを向いてはいなかった。

 

「風邪引かないように気をつけてみました」

「ヤドカリか亀かよ」

「あのやりとりの後で、改めて顔見るの恥ずかしくなって」

「…………別にいいけどよ」

 

 お望み通り俺は目を逸らしながら答えた。空色の掛け布団の下から突き出た脚がやけに綺麗だった。こいつは声だけで、それも裏声で言う。

 

「お布団の妖精です、あっためておきました」

「テンションおかしいだろ……」

 

 脱稿直後みたいなノリしやがって、と思いながら、布団を見下ろす。顔を向けないほど恥ずかしがる癖して、裏声ではしゃぐほど高揚している。しかも心なしか、髪の間から見え隠れしている耳が赤い。

 

「イラッシャーイ」

「え、同じ布団で寝る気かよ」

 

 相手の布団で仮眠は今までに何回かあったが、同衾はなかった。彼女は布団の中に首元をまた潜らせながら言う。

 

「たまにはいいじゃん」

「たまにはって」

 

 最初で最後にするつもりはない、とでも言うような口ぶりだ。俺は呆れを込めたため息で時間を稼ぎながら、恋人でもねぇくせに、という考えを振り払う。

 

「本当に本調子じゃねえんだな」

 

 人の温もりが恋しくなる季節には、早すぎる。秋はこれからだ。

 返ってきたのは、緊張感のある声音だった。

 

「…………だったら、弱ってる人に優しくすべきだと思わない?」

 

 まるで、俺が拒絶することを恐れでもするかのように。

 逆だろ。

 

「専属シェフ兼雑務くんとしてか」

 

 俺は静かに問いかける。今までの関係を、やり直すつもりかと。

 答えは、震える声だった。

 

「…………私が言わなきゃダメだよね」

「言いたくなきゃ黙ってろよ。後でセクハラで社会的に破滅させられなきゃいい」

 

 冗談めかして、抵抗はあっても隔意はないと示す。

 ただ、向こうにはそう聞こえなかったらしい。

 

「…………私そんなに信用ない?」

 

 それは怒りと呼ぶには穏やかで、動揺と呼ぶには興奮した声だった。憤りとも嘆きともつかない声が、絞り出されるのが聞こえる。

 

「そんなことするためにこんな……」

 

 ほとんど涙声に感じた。

 俺は意を決して掛け布団を引き剥がし、隠れている彼女の素顔を暴く。自分の薄着を抱きしめるように丸くなっているこいつは、とっさにこちらを見た。

 潤んだ瞳は、光を溜め込むように輝いている。

 目が合ったのを確かめて俺は告げる。

 

「遊びに来たのか弄びに来たのかはっきりしろよ」

 

 彼女の目が見開いた。俺は布団を床に置き、彼女を見下ろす。

 

「しつこい男は嫌いだって、さんざん愚痴ってたのはそっちだろ」

 

 

 

 

 大学時代、こいつはよくモテていた。

 遠くから視界に入るのを気に留めていなかった頃は、美人だもんな、としか考えていなかった。だが距離が近づき、毎日のように話す機会が増えてくると、穏やかな知性が安心感を与えるのだと気が付いた。そして、俺が彼女の男除けとして女子に認識されるようになり、そのつもりで話しかけてくる他の女子と比べると、一々相手のスタンスに口出しせず、素直で悪口を言わない奴だと改めて思い返す。彼女は自身の言動をよく理解し振る舞っていた。

 機嫌のいい女という最大の美質が、いつしか俺の中で彼女を特別なものにしていた。

 男が機嫌を取るまでもなく笑っている美人は、虫が寄ってくる花に似ている。悪い噂のあるサークルだのミスコンのスカウトだの大手企業の採用担当だの見に行った舞台の俳優だの、枚挙にいとまがないしネタに事欠かないほどだが、こいつは作家としても個人としても、恋愛や性愛から距離を置くスタンスを取っていた。少なくとも俺の知る限りは、親しくなろうとする男どもは誰だろうとかわし続け、相手によっては女子さえ遠ざけていた。俺はあくまで恋愛感情のない男友達として、モテる女の贅沢な悩みを聞き流すともなく話に付き合い、特に彼氏面するわけではないがよくお互いの家に泊まる謎の関係として周囲にアピールされた。

 俺自身は特に苦にもせず誇りもせず、一友人として覆面作家の小旅行や観劇に同行していたものの、周りからは時に頑張れと適当に応援され、時に安全だもんなと雑に憐れまれ、良かれ悪しかれ俺の内心を決めつけてかかられることが少なくなかった。こいつの男除けである手前、ごちゃごちゃ言われても強く否定できない立場にいたが、仮に俺が最初からそういう理由でこいつと接していたなら、きっと見返りを求めずにいられなくなるか思い上がって、半年ももたなかったように思う。

 俺は、彼女の傍でそういう役回りとして扱われることに対して、美人は大変だな、という感想しか持たなかった。俺がこいつとよく話すようになると、俺に近づいてくる男女が増えた。俺と連絡先を交換する男子も急激に増えたが、案の定彼女とお近づきになりたいという趣旨が7割で、残りはどうやってあの天衣無縫の美人に気に入られたのかという追及だった。大半は表面上穏当だったが、俺という仮想敵が明確に現れたことによって抜け駆けに気が急いていたように見え、彼女の苦労を増やしているだけなのではとも思った。落ち着いたら落ち着いたで今度は、フリーより彼氏持ちの方が落としやすいだの、愚痴聞き役に徹して喧嘩して心が離れた瞬間を食えばいいだの、ドロドロ恋愛小説で得た知見そのままにチャンスを待ち構えている男どもを実際にこの目で見ると、なんだかんだで高校の文芸部で過ごしたあの時間は糧になっていると思わずにいられなかった。彼女はそれすら見越してか、俺がいかに愚痴をよく聞き流してくれるか、噂好きの女友達に惚気じみたアピールをして、色恋沙汰に巻き込まれるつもりはないと暗に保身の先手を打っていた。

 彼らは自分がいかに親切で俺より魅力的な優れた雄かをこいつの前でアピールしたが、彼女はそもそもそういうのが嫌で俺とつるむようになっていたので、むしろ逆効果のようだった。体の関係を持つまでは女に、持ってからは男に選ぶ権利がある、という番い決めの原則は彼女も心得ているようだったし、だからこそ手を出してこない俺を重宝していたように見えた。十人が十人俺よりそいつを選ぶだろうと思われる料理自慢で医学部の長身美形な先輩に対して、距離感を選ばせてくれる人といたい、とこいつが答えた出来事が、彼女の男女観を明確に物語っていた。俺の新しい友人という建前で接触しようとする男子に対しても、彼女が気分一つで、今の生活が楽しいとか住所は内緒とか、かわしてごまかすことが多かった。断られないようになのか本気なのか、人脈作りという名目でこいつが連絡先を受け取る姿もしばしば見かけたが、俺や身近な女子がそいつから連絡先を教わっていないと知ると、その人脈の集まりにお呼ばれしても丁重に断っていた。曰く、不自然に仲良くなろうとしてくるひとたちは、その場では引くふりしてても長期的にはブレーキかけてくれないから困っちゃうね、とのことだった。

 俺に対する女子の反応はもう少しばらけていて、つるむにはいいけど恋愛対象としては見られてなさそう、と小馬鹿にする奴もいれば、彼女が気に入るくらいだからきっと見所があるのだろう、と買い被る奴もいた。彼女がこれ以上他の男子にモテると私の恋が成就しないから、と俺たちをくっつけたがる奴もいれば、わたしの友達なんだから取らないで、と涙目で俺を追い払う奴もいたし、あんな外面だけいい子に騙されていいように使われてかわいそう、と俺をこいつから寝取ろうと企む奴もいた。はっきり言って押しつけがましいのは勘弁してほしかったし、人として失礼なのも御免だった。

 不能呼ばわりやゲイ疑惑を持ち出す馬鹿共にはさすがに黙っていられず、俺を見下すために特定の属性を引き合いに出すのはやめろ、いずれ本物から怒りを買うぞ、と注意したこともあった。そこで素直に謝れるやつもいれば、そんなんだから童貞なんだよ、とレッテル張りを重ねるやつもいた。俺はその手の安易な人格攻撃に煽られるほど文芸部で幸せな時間を過ごしてこなかったので、聞こえなかったから大きな声で言ってくれよ、と催促した。俺の挑発も、周りの目を利用したある種の印象操作ではあったが、向こうが自分から再度再三にわたって愚かしさを晒したがっているなら、こちらでそれ以上止める義理もなかった。

 幸いなことに、俺といることでこいつが評判を落とすようなことは特になかった。当時から近くのコンビニバイトとして俺を知っている学生はそれなりに多く、それを踏まえると、少なくとも俺の勤務態度は悪くなかったのだろうと思う。

 こいつとよく話している心理・教育・看護辺りの女子グループからは、躾の行き届いた弟みたいでかわいいね、と微笑みかけられたが、こいつ自身は適当に調子よく、育成向け男子だよーあげないよー、と俺を所有物扱いした。かと思えば、同じ学科の女子から、お洒落になったし結構お似合いかもね、と言われると、まだ誰かのものになる心の準備はできてないかな、とシリアスぶってスルーしたりした。こいつをライバル視するミスコン優勝女子から、ずっとお預けなんてかわいそうじゃない? と俺の前で色気アピールをされた時はやけにムキになって、体で手に入る人は体で取られちゃうでしょ、と不満げに指摘していた。俺のあずかり知らぬところではそいつらの一部とこいつとで、性体験の有無と性的魅力と人格の優劣を巡って言い争いが勃発していたらしいが、こいつは俺といる時には一切その話に触れなかった。雑談の途中、そういうことがしたいと思うことがあるか、と話の流れで聞かれることはあったが、好きでもない奴とそういうことをしたら多分一生しなくなると思う、と俺が答えると、こいつは笑みを隠せない様子でそっかそっかと頷いていた。

 こいつは俺が女子から何を言われたかよく聞きたがったが、恋愛トラブル絡みの話題が多すぎてそのうち聞かなくなった。代わりに、そういうことがあった日に不機嫌になりがちな俺の帰りを引き留めたり、長く話をしたがった。こいつのゆったりとした雰囲気や笑顔に心の棘と毒を抜かれながら俺は、どっちが盾なんだかわからないなと苦笑して、こいつの厚意に甘えていた。

 度を越えた美しさはそれだけで人を惹きつけ、振り回し、狂わせる。巨大な引力のもたらすものを見続けた俺はある日ふと、多分この宇宙の星系や銀河群もそうやってできていったんだ、と思ったのをよく覚えている。

 俺自身は、最初に話したときに議論が盛り上がって意気投合し、ある時ただ性別が違うだけの知己を得たと思うに至った。彼女の容姿が優れていようと文才がずば抜けていようと、人間であることには変わりなく、どうでもいい話題を起点に大真面目な話をできるのが楽しかったし、ノートの貸し借りや試験対策の情報を提供してくれるのはありがたかったし、他人のために料理を作るのは発見が数多くあった。彼女の印象操作に巻き込まれることに関しても、内心舌を巻いて学びを得ることこそあれ、本気で叱ったり怒りを向ける機会はなかった。それは、彼女自身は誰かを馬鹿にしていないからだった。

 俺は、他人が無責任に憶測で人を貶めたり身勝手に傷つけることが嫌いだっただけで、本人が自ら情報をコントロールする分には、別にどうでもよかった。自分がどう見えるかの印象操作なんて多かれ少なかれ、誰しもやっていることだ。ただ、それは単に美貌に目が曇っているだけの、栄光浴由来の贔屓目ではないか、と自己懐疑に陥ったことがある。だがいくらなんでもさすがに、こいつが誰かをせせら笑ったりあることないこと吹聴したりするようなら、俺は怒ってシャットアウトしていただろうと思う。そういう点では、彼女の自由を俺が侵さなかったのと同様、彼女も俺のルールを犯さなかった。

 俺たちは傍目にも恋愛関係や偽装恋愛ですらない、ただの男女の友人だった。部屋の中でリラックスした姿を晒し合ったり、たまの外食やスイーツショップで料理やデザートを一口交換ぐらいはしたが、控えめに見ても甘い空気は微塵もなかったし、話題もムードとは程遠い、背伸びした大学生同士のそれだった。お互い孤独を苦にしない性質もあってか、人恋しさに襲われることはなく、触れ合う機会もさほどなかった。俺がこいつに触れるのは、原稿明けの肩叩きや背中・腰、掌などのマッサージを頼まれた時くらいのものだったし、彼女が俺に触れるのは、背筋を伸ばせと背中を叩く時か、男から逃げる時が主だった。

 こいつと話すようになってすぐの時期は、しょっちゅう横槍が入っていた。そのせいもあってか、穏やかに受け流すことの上手いこいつは、露骨なアプローチや下心の気配を感じると、決まって俺に手を振ったり傍に寄ってきて、嬉しそうな様子で話しかけてきた。時には周りに見せつけるためにわざとこちらの腕を取ることさえあった。俺が何事かと剥がそうとするのを承知で、外ではやめとくねと周りに聞かせながら詫びて、離れてみせたりもした。俺はそれら全てを対外的パフォーマンスだとわかっていたし、勘違いしようとも思わなかった。だが周囲にとっては外から見えるものが全てであり、淡い好意や気まぐれな下心を弾くには充分だったらしい。こいつ本人は、俺が嫌がりも嬉しがりもせず当然のように対応するからこそ効いた、と言っていたので、俺の分析的視点は多少なりともいい方に働いていたようだった。

 一度だけ、よほど腹に据えかねたのか、彼女が男の目の前で俺と指を絡めて、翌日の朝食の相談をしてきたこともあった。彼女は朝の対価に夜はどうこうと意味深にささやいて色っぽく笑い、男が自発的に去るよう仕向けた。何をされてそこまでしようと思ったかはあえて聞かなかったが、男を徹底的に意識から外して俺との関係の深さを示唆する言葉を並べたことと、こいつのマンションの近くで何度かその男を目撃していたことから、危ない橋を渡ったらしいことは理解した。顔と態度のいい女にはそういうこともあるのだろうと思い、俺は彼女の役に立てたことを嬉しく思いながら、事態が悪化せずに済んで安堵した。

 そんな彼女が数少ない愚痴を吐く機会は、ほとんど決まって、男にアプローチされた時だった。

 そういうことがある時、彼女は部屋でため息をつき、俺に軽く礼を言って詫びた後、潔くなれない男の人は嫌、と愚痴るのが常だった。隠してるつもりでも下心はわかるし回りくどいのは嫌、しつこい男の人は嫌い、と定型文のように口走っては、酒の代わりに炭酸ジュースをがぶ飲みした。

 何度愚痴られたかわからないその言葉の数々は、俺の記憶に深くこびりついて消えなかった。

 

「しつこい男は嫌いだって、さんざん愚痴ってたのはそっちだろ」

 

 彼女の潜っていた布団を剥いだ俺は、その思い出を念頭に一言でまとめた。俺はお前に愚痴らせるような真似はしたくない、だから振られて潔く去ったのだと。

 彼女は理解できていないのか、別の解釈を組み上げている最中なのか、俺のベッドの上で自分を抱き締めるように丸くなりながら、薄着を寒がるように腕をさすった。俺は慌てて、剥がして床に置いた掛け布団を抱える。

 

「悪い、寒いよなそりゃ、急に」

 

 彼女の上に空色の布団を広げて被せると、今度は布団に潜らずに弱々しくこちらに目を向けてくる。

 

「あったかい」

「夏用だけどな」

 

 彼女の足先に布団を広げながら応えると、彼女は目を伏せた。

 

「さっきまでの私たちみたい」

 

 その呟きが何を意味するのか、分からないほど付き合いは短くも浅くもない。

 

「俺は夏用布団も兼任してたのか」

「知らなかったの?」

 

 彼女は通じたのが嬉しかったのか、ふふふ、と笑みをこぼした。

 

「あったかいなー。気持ちいいなー」

「……………………そうか」

 

 俺は毒気を抜かれ、そう返すのが精一杯だった。彼女は布団に頬を擦り付け、枕に顔を埋める。

 

「このにおい安心する」

「…………そうなのか」

「好き」

「……持って帰っていいぞ」

「洗ったら消えちゃうからやだ」

「そば殻は洗わねえだろ」

「カバーは洗うじゃん」

「なんで使用中の枕カバーごと持ってく前提なんだよ……」

「だってぇ、ふふ」

 

 他愛ないやりとりで、もはや溝は埋まりきり、壁は崩れ去っていた。こいつは緩み切った表情で、言うなればにへ~っと、無邪気に笑った。

 

「一緒に寝よ?」

「……………………いや、いいけどよ」

 

 もはやどういうつもりか問いただすのも面倒になり、唯々諾々とまで言わないが頷く。俺の返答に目を細める彼女は、そのまま目を閉じて今という一瞬を味わっているように見えた。

 それが答えか。

 俺はベッドを改めて見下ろし、現実的に考える。

 

「2人とも仰向けになったら俺落ちるよな」

 

 俺の大真面目な声に、ふにゃふにゃと力の抜けた声が返事をする。

 

「なぁに? 私にぎゅってしてほしいの?」

「するのか?」

「したら安心し過ぎて溶けちゃうかも」

 

 初めて聞くとろけた声と甘えた調子のおかげで、脱力と困惑が襲い掛かる。

 

「もうほぼ溶けてるだろ」

「…………こういうのキライ?」

 

 ほとんど幼児退行でも起こしたような、素直な問いだった。俺はため息をつく。

 

「俺の記憶から原型を留めてなくて人違いを疑ってるだけだ」

「ピロートークっていうんだっけ、こういうの」

「枕ぶん投げるぞ」

「枕持って帰るよ」

「……なんで急に態度変わったんだよ」

 

 夏用布団のたった一言で、ここまで急激に。アルコールに縁のない彼女はにっこりと笑みを浮かべた。

 

「真面目に言うの恥ずかしいから」

「そうか」

 

 俺は素っ気なく応じ、電灯のスイッチまで数歩移動する。

 

「とりあえず明るい方消すぞ」

「あ、うん。お願いします」

 

 急にかしこまったこいつを呆れ混じりに見下ろしながら消灯し、こいつがいつも泊まりに来る時のように、常夜灯に切り替える。

 暗闇に目が慣れず、ふと妙な緊張感を覚えた。

 俺は自分をごまかすように布団を少しめくる。

 

「入るぞ」

「来て」

 

 承諾を得てベッドに乗り込むと、人肌特有の温もりに迎えられた。こいつの際どい部分に触れないようにと寝返りを打つ間もなく。すぐに両腕と両脚が俺に絡みつく。

 

「…………なんで俺拘束されてんだよ」

 

 正面から抱き着かれる形になり、互いの耳と口元がすぐそばまで近づいた。

 

「逃げられないように」

 

 魅惑的な囁きと吐息が耳をくすぐり、俺は身をよじる。

 

「別に逃げやしねーよ」

 

 俺の声も彼女の耳元で囁く形になる。こいつは一瞬反射的に背筋を震わせたが、それを開き直るかのように何事もなく話を再開した。

 

「顔見られるのも恥ずかしい」

「じゃあ背中向きにしてくれ」

「……………………そういう気分には、ならない?」

 

 緊張感漂う声音と共に、胸も腹も押し付けられる。両脚で正面から腰を密着させられた状態で、耳元では震える呼吸が温かい湿り気と共に伝わってくる。どういう、と聞き返すのは野暮だった。

 

「なっても今日はしない」

「…………そっか」

 

 耳元のその返事は、納得なのか諦めなのか、安堵なのか落胆なのか、俺にはわからなかった。そもそも何のつもりで来たのかも結局うやむやになった今、この一言が決定的な未来の分岐点のような気がした。

 そういえば、大学の学食かどこかで、マッチングアプリにハマっていた奴のやりとりが聞こえたことがあった。女性には、付き合ってもいないのに触れられたくない人もいれば、手出しせずにいると自分に興味がないと早合点して見切りをつける人もいるという。その説に則るならこいつは前者だと思っていたし、俺自身は今でもそのつもりで接しているが、本当にそうかはわからなかった。

 何しろ、半年もあれば人は変わる。

 でなくとも、期待外れなら冷めるものだ。ただでさえ女性は若い時間を無駄にしたくはないはずで、オスとしての本懐を果たさない男を生理的に嫌悪するきらいがある。絶好の機会をみすみす捨てるならば、悪罵も社会的抹殺も当然とばかりに。こいつがそこまで本能的に判断しているかはともかく、価値観が合わなければ一緒にいても仕方がない。

 

「今日しないならさよならってんなら、それはそれでいいさ」

 

 女に恥をかかせた男の居場所がなくなるのは、多分どこへ行っても同じだ。あの高校の文芸部だけのはずがない。

 言いたい放題押し付けて、人の気なんか知りもしねえ。

 こいつだって、不都合ならとっとと敵性排除してきたのだ。やんわりと、しかし絶対的に。俺をも排除して、何が悪い?

 俺が自嘲気味に意見を変えないと示すと、こいつの腕と脚の力が強くなった。

 

「それでも逃がさないから。絶対」

 

 やけに力強い断言だった。

 

「絶対」

「…………繰り返すほどか」

 

 嬉しさはあった。だがそれ以上に、会わない間に何を思いその結論に至ったのか、それを考え出すともの悲しさがあった。

 俺が半年間逃げ続けている間に、こいつは心の整理と決着の覚悟を決めてここに臨んだらしい。

 

「だからこれが、仲直りのしるし」

 

 

 

 

 俺が振られた原因は、数え上げれば片手で足りないかもしれない。

 まずこいつは、恋愛を疎んじていた。自分の顔に寄ってくる下心全般を遠ざけていたし、それは大学生活中変わることはなかった。

 次に、それ自体を小説の題材として繰り返し取り扱っていた。登場する彼女たちは恋人より理解者を求め、時には孤独を愛してすらいた。そういう作家が恋人を得ることは、作品にとってもファンにとっても作家自身にとっても、望まない結末を迎えるだろう。一読者として、その点はよく理解していたつもりだった。

 さらに言えば、そのことについて担当編集さんからも忠告されていた。作品はクリエイターの精神状態がダイレクトに反映されやすく、特に女性作者の場合顕著である、だから慎重に見守ってくれると嬉しい、と。

 こいつの親御さんと初めて会った時には、別の観点から小言を言われたこともあった。娘の交友関係に極力口出ししたくはないが、男が年若い女と家に泊めつ泊まりつを続けるなら、ただの友人に責任を取れとは言わない代わりに、せめて娘を悲しませることにならないように大事にしてほしい、と。

 俺はどれも言われるまでもないと思っていたし、そういう関係を望んだことはなかった。抱き締めて口づけることも裸で求め合うことも、トラウマの壁を隔てたただの憧れで、いつかはとは望んでも相手がこいつであればとは考えなかった。恋愛感情はエゴと性欲だけで出来ている気がして恐ろしかったし、愚痴を聞くたびに、甘く愛をささやくより固い信頼関係を結ぶ方が素敵だと思っていた。だから俺は、外では世話を焼かれ内では世話を焼く、あの自然な役割分担そのままの日々に満足していた。

 もし明確な転機があるとしたら、俺が入院した一連の出来事だろう。

 地元の公務員試験の二次試験当日、適性検査のマークシートの真っ最中に手が痺れ始め、鉛筆を取り落とした。拾ってもらおうと手を挙げたが、ろれつが回らなくなっていた。俺は自身の変調に困惑したまま頭痛で倒れ込み、救急車に乗せられて意識を失った。

 病院で目が覚めた時、脳卒中の前兆だったと言われた。生活習慣病患者に多いが、健康的な生活をする若者でも、偏頭痛で脳の血管が高血圧になることがあるらしい。大事な大学生活最後の年の、年度後半に差し掛かる二次試験ともなれば、集中と緊張が高まりすぎてもおかしくはない、とフォローされたが、正直実感はなかった。

 退院したのは経過観察を兼ねて、一週間後だった。見舞いやら精密検査やらお祈りやらいろいろあったが、こいつは締切間近で執筆に専念していた。元々冗談半分とはいえ、実家に長居するかもしれないから今回は俺を頼りにはしないでほしい、と話しておいたし、後遺症も残らないのにあえて心配をかけることもないだろうと、何も伝えなかったからだ。予定より一週間長く空けていたアパートに帰って来た時、寂しそうな微笑と温かい食事を用意してくれたこいつが、不自然に白く厚塗りされた目元を隠すようにしながら、おかえり、と儚げな声を発したことがずっと心に残っている。彼女は何も言わなかったが、受けた市役所から大学に話が行って、彼女の方にも伝わったらしい。

 俺は、彼女の集中が必要な時期に生活上の雑事全般を請け負うことを、すっかり自分の役割と自認していたし、教養試験も面接対策も世話になりっぱなしだった。断りを入れておいた前者はまだしも、後者が全て無駄になったことに申し訳なさと後ろめたさを感じ続け、彼女と友人でいることが苦痛になっていった。

 こんなことなら進級や就職に必要ない科目にハマったり、格好つけて難関資格に挑戦したりして応募先を絞らずに、もっとエントリーしておくべきだったのだろうか? 今から改めてゼロから始めたとして、俺はこの、自分の実力で落ちることすらできなかった宙ぶらりんな現実を受け入れて、そこで働き続けられるのか? こんなはずじゃなかったのにと馬鹿みたいな後悔を抱えずに、そこで為すべきことを為せるのか? 今から新しく就職試験を受けられても、焦れば焦るほど同じことが起きるだけじゃないのか? このまま卒業して、返せない借りを抱えたままこいつと友達面していられるのか? そもそも卒業した後、こいつが俺と関わる理由があるのか?

 そんな疑問と混乱が、押し迫る別れの時への焦りと重なって、その頃の記憶は断片的にしか残っていない。はっきり覚えているのは、こいつが就職相談室に俺を連れて行ってくれた時の心配そうな横顔、バイトを続けることを決めたと電話した時の両親のため息、知らない間に完成していた卒論、そして夢の中でこいつにペットとして飼われ、違う、俺は人間だと叫び続ける自分の声だった。

 こいつは当時も夢でも今も、俺を心から歓迎してくれた。だがその根底にあるのは、無害なぬいぐるみへの愛情に似た無防備さだった。俺は自分を許せなくなっていたし、こいつから受ける無償の優しさが怖くなっていた。恋人なら対等でいられるのだろうか、それともいっそ何もかも終わらせてしまおうかと、脈絡のないプライドを自分に振りかざしては結論を先延ばした。

 彼女は俺の就職活動について何も聞いてこなくなった。俺も自分から言い出しはしなかったし、紳士服店に見学についてきた彼女の記憶ごと、スーツをクローゼットの奥にしまい込んだ。

 彼女は元々大学入学以前から小説家として収入を得ていて、実家が裕福らしいことも手伝って、将来の展望に関してずいぶん呑気だった。大学は勉強する場所であって就職予備校じゃないもんなどと大学生らしからぬ物言いをして、同期や後輩の就職活動を横目に、履修登録していない講義に潜り込んだり、美術展の図録や映画のパンフレットを収穫物として俺に見せてニヤニヤしていた。受けるわけでもない資格や試験のテキストを何冊か買って周囲の目線からカモフラージュしてはいたが、趣味兼小説のネタ探し以上の真剣味は見られなかった。それでも彼女は簡単な資格をあっさり取ってみせる程度には要領が良かったし、きっと専念すれば士業の資格も俺より余裕を持って一発合格するだろうと思われた。彼女も本来なら就職すべきだと担当編集さんに忠告されていたようだが、既に出版社をまたいで多数のシリーズを抱えていたので、書けるだけ書いてみることにする、と言っていた、らしい。俺の前で言わなかったのは配慮なのだろう。

 彼女が自身の小説について語ったことはほぼなかったが、小説家としての気構えに関してはたびたび話をしていた。自作の商業性と自身の芸術的良心とがあまり乖離していないことに安堵してはいたものの、職業としてはリスキーであることをとにかく強調していた。嘘で身を立てるって博打打ちだよねとか、自分は一歩間違えば詐欺師で本質的にはアウトローだとか、普段ならまず言わない自虐的辛辣さが印象深かった。こいつはこいつで、小説家として天与の才に恵まれてしまったことに何かしらのコンプレックスを抱いていたらしいが、俺はそれに深入りせず、自虐がしたいなら他人を巻き込まないようになと忠告するに留めた。かろうじてわかるのは、俺がインターンシップや説明会の話をするとつまらなそうに唇を尖らせていたことと、執筆に没頭している最中の横顔は真剣で美しく神々しいこと、それと、俺が退院後にまた観覧や観劇に付き合うようになると子供のように嬉しそうに笑っていたことくらいだった。

 卒業式の後、こいつは俺に、また来年も公務員試験を受けるのかと聞いた。俺は否定し、自立するだけで精いっぱいだと答えた。そして、恋人が欲しくはないか、とどうでもいい話題を振るときのように尋ねた。こいつは、そんなの要らないよ、と冗談のように笑い、2人だけの打ち上げの相談を始めた。俺は行かないことを伝え、俺と付き合う気はあるかと改めて尋ねた。こいつは笑って、今更必要ないでしょ、と流し、二、三やりとりをした後、俺の方から辞去した。

 それ以来、コンビニで再会するまで顔を合わせていない。

 最初の数日はメッセージの大半は無視したし、いやなこと聞いて悪かった、しばらく独りにしてほしいと返信して、それ以降はこいつに着信連打を食らうまで生存報告もしなかった。俺がオートロックの高層マンションに行く理由はもうなくなっていたし、彼女は理由をつけて呼びつけるほどデリカシーのない人間ではなかった。向こうは俺の部屋の合鍵は持っていたが、俺に遠慮して無理やり押しかけはしなかった。時折向こうから、作家業に専念していること、1人だと話し相手がいなくてつまらないこと、最近寝つきが悪いこと、どれだけ寝てもまだ眠いことなど、日記のように報告があった。着信連打はこちらのバイトの最中で、直接通話しそこなってしまったが、俺が死んだ夢を見て不安になったと文字に残されるとさすがに、週に1度既読だけでもつけざるを得なくなった。

 空いている時間なら出られたかと自問すると自信はなかったし、こちらからかけ直す決心はなおさらつかなかった。さらに報告は続き、しばらく実家に帰るが部屋は借りたままでいること、俺が持ち込んだものは全部そのままにしてあること、遊びに来るなら2日前には連絡してほしいことなど、俺が返事をできないままただ目を通して放置していると、頻度は少しずつ落ち、最後の報告は三週間前になっていた。そのうちまた顔を見に行ってもいいかというメッセージに、俺は何も答えが浮かばなかった。その数日後に俺がようやく、誕生日おめでとうと素っ気ないメッセージを送った時、こいつからはいくつかのハートマークだけがすぐに返ってきた。

 それきり連絡は途絶え、俺の心には虚しさと侘びしさが残った。最後のばかでかいハートマークを何度も見返しては、そこにどんな意味があったか考えないようにしながら。

 そして、かつて恋人は不要だと俺を振った彼女は今、俺のベッドで俺を抱き締め、五体を密着させている。

 これが恋人にする行いじゃないなら、果たして俺たちは何なのだろうか。

 その疑問に答えるように、彼女は再び俺の耳元で囁き始めた。

 

「こうやって抱き締められるの、苦しい?」

「…………力加減のことなら、少し」

「そっか」

 

 俺を雁字搦めにする手足が離れていき、腕一本だけを残して向き合う。睫毛や鼻先がほとんどこすれるような、吐息がぶつかり合う近さだった。

 

「腕枕ならどう?」

「…………無理しなくていいんだぞ」

「ちょっと恥ずかしいだけだから、大丈夫だよ」

「ちょっとでも恥ずかしいならやめろ」

 

 俺が冷ややかに言い放つと、彼女は固まった。しばらく見つめ合っていると、表情が動き出す。

 

「……………………じゃあ、私にどうしてほしい?」

 

 優しい母か姉のような声音で、そっと問いかけてくる。俺は目を閉じた。耳元で自分以外の腕が脈打っている、不思議な感覚を覚えた。

 

「そっちこそ、何か要求があって来たんだろ」

「…………最後に話したときにさ。俺と付き合う気はあるか、って聞いてきたでしょ」

「ああ」

「もう会わなくなりそうで不安だったのかと思って笑っちゃったけど、言葉通りに聞いてたなら、悪いことしたなって思って」

 

 見透かされていた、と前半の言葉に傷つく間もなく、意識は後半に向けられる。

 

「そうじゃねえよ……。仮にそうだとして、だからってなんでそっちが下手に出るんだよ。別にそんなの、嫌なら仕方ないだろ」

 

 生理的に無理とまで言わなくとも、こいつが燃えるようなロマンスにも肉体的な欲望にも頓着しない性質なのはわかっていた。わかっていてそれでも聞いてきたのだから罪は重く、他の連中より一層嫌悪が激しいだろうことは覚悟していた。俺は実際に肉体的な親密さを伴う関係を期待していたわけではなかったが、こいつの言う通り、大学卒業の節目をいい機会に交流が途切れることを恐れていた。それで自滅を選んだのだから、笑われて当然だった。

 彼女は額同士を当て、熱と共に考えを伝えるかのように擦り付けてくる。その声は笑ってはいなかった。

 

「私がそういうの興味ないから、逆に振られたみたいになっちゃったから。会える準備ができたら、キミがいる日にコンビニであれ買って、一緒に使ってみようかなって」

 

 すっかり忘れかけていた。確かに買ってはいたが。

 俺はとっさに目を開け、こいつの上目遣いの眼差しと対峙する。

 

「嘘だろ? なんでそうなるんだよ」

「…………退院した日の時点ではそんな素振りなかったから。今までずっと一緒にいて、ほとんど気にしてこなかった身体性に、改めて向き合うようになって、学生生活最後の最後に初めて思ったなら、本気なんだろうなって。そこまで考えずに冗談だと思ったから、それで、人として失礼だって愛想尽かされちゃったんだったら、やだなって」

 

 たどたどしくも理路整然とした、不思議な説明だった。

 こちらがさらなる反論に出る前に、こいつは空いている手で俺の顎に手を添え、自分の方に顔を向けさせる。まるで、私から目を逸らすなと、私から目を離すなと言わんばかりに。

 

「私はキミのこと、好きだから」

 

 

 

 

 こいつの小説全てに通底しているのは、恋愛感情とは別の男女の形だった。

 口数少ない美女をフォローする少年もいれば、いい子過ぎて危なっかしいと世話を焼く兄貴分もいた。厭世家の魔女を和ませる弟子もいたが、多分一番顕著なのは、政略結婚のために姫様が嫁いだ家で、実の家族よりも愛してくれた夫一家だろう。

 俺が初めてその作者の作品を手に取ったのは高校に上がってからのことで、デビュー作の映画化が発表された時だった。店頭に並ぶ刊行された書籍を眺めながら、ジャンルが一貫しないなと陳腐な感想を抱き、美女が押し出されるなんて商業的に当然のことだしなとスルーしていた。だが文章表現と雰囲気に惹かれて作者買いし、一通り読んでみると、その美女が恋愛関係や性愛を遠ざけていることが作者のこだわりなのではと思うに至った。彼女たちは時にコミカルに、時にシリアスに、ゲストキャラの求愛やラブレターを突っぱねていたし、後々作者があとがきで『竹取物語』について熱弁していたことも裏付けとなった。

 様々な貴族たちの求婚を難題ではねのけ、帝の妻となるという、当時の女性にとっての最大の栄誉をも拒むこと。即ち、地上の価値観の全否定。

 俺はそれを読んで、理想主義とロックは紙一重だなと思い、きっといつの世もピュアで無邪気な夢想は反秩序に通じているのだろうという学びを得た。男性にありがちな典型的な処女信仰だの、所詮現実はこうはいかないだのという野次を見ると、つくづく実感してしまう。

 こいつ自身は、不自由なく愛を注がれて育ったと言っていたし、実際そういう幸せで恵まれた人間らしい振る舞いをしていた。他人からの承認や愛情に飢えることもなければ、衝動的に感情を晒すことも人を悪し様に罵って喜ぶこともなかった。同級生として安定感があったし、人として安心感があった。

 こいつがサークルで出した掌編は、文体こそ商業名義作品と違えど、一つ一つの言葉選びが非常に細やかで丁寧だった。何気ない一言にやたらと実感がこもっているように感じさせたり、台詞だけ拾い読んでも少し喋っただけで人物像がありありと浮かんでくるような、台詞やモノローグのキレがずば抜けていた。地の文も台詞回しも単品で売りになる仕上がりだが、商業名義で特筆すべきは構成で、中長編で主題と副題を並行して走らせ、クライマックスでがっちり合流させる演出力とストーリーテリングの手並みが鮮やかだった。

 骨組みは実にロジカルな一方で、肉付けや装飾は文芸的センスを遺憾なく発揮していた。

 感動や感傷を頭の中から取り出して物語に組み立て、暗喩やアナロジーを巧妙に駆使して一つを全てに敷衍し、あらゆる感慨や感性を読み手に重ねさせる──それがこいつの作家性の核だった。社会性を持つヒトが抱かずにいられない普遍的な感情や場面を澄んだ文体で描き、悪意や憎しみさえ慈しみ愛すべきものと思わせてしまうような、逆に善意や信頼さえ滑稽で憐れに思わせることも時にはあるような、懐の広さと器の大きさがあった。

 初めて読んだ時、これを書けるならきっとそいつは人間を超越した神か何かだろうと思った。さらに読むにつれ、この作者は何でも書けるのではないかと思った。既刊を読み切って、自分の得意な作風を掴みきっているこの作家はこれから先どう深化していくのだろうと思った。

 そして作者の素顔を知り、人柄を知り、価値観を知り、体温を知った。

 彼女は覆面作家として活動し、そこにどんな人物がいるのか秘密を貫いていた。素顔を晒せばサイン会で大行列を作れること請け合いの容姿を特に活かそうとはせず、作品のみの価値判断を読者に委ねていた。それはプライベートでも同様に、自身が作家であることをちらつかせようともせず、ただ文章力のある明るく面倒見のいいお嬢さんとして扱われたがった。商業名義を俺に知られてしまった時には戦々恐々としていたが、俺が変わらず踏み込まず聞かずを通しているうちに、彼女は安心して俺が部屋にいる時でも執筆活動にのめり込むようになった。

 俺の読みが正しければ、こいつのアイデンティティは、飛び抜けた美貌でも売れっ子小説家であることでもなく、絶群のコミュニケーション能力にあった。そして、彼女自身は、その才覚を持て余すことなく適切に注ぎ込もうと空の器を探し求める、おねえさんぶった子供だった。

 彼女は同期として、友人として、語り始めた。

 

「…………私はね。私のことを好きにならないでいてくれるから、キミといて楽しかったんだよ。ずっとそう思ってた」

「人としてはずっと好きだったさ」

「それは私もそうだけど、ね。そういうことしようとしてこなかったでしょ。あんなにチャンスあったのに」

「今もそうだろ」

 

 腕を少し動かせば、胸でも尻でも触れる距離にいる。そう混ぜっ返すと、こいつは俺の瞳を覗き込んでくる。

 

「それってそうなのかな。……今、キミ、どきどきしてる?」

「しないようにしてる」

「意識してコントロールできるの?」

 

 急に素に戻った彼女のその問いは、異性の感覚に対する純朴な疑問のようで、俺が彼女に性的魅力を感じているかという核心に踏み込むようでもあった。俺はあくまで俺自身のスタンスだけを述べる。

 

「人として失礼な真似はしたくない。付き合ってない相手に手を出す気はない。女性作家は特にデリケートだから俺のせいで続きが変な方に進むと困る」

 

 3つ目はもう遅い話だった。俺は彼女から今更何をと一笑に付されることを観念していたが、こいつはどこまでも優しい笑みを浮かべる。

 

「最後のは、性差別だーとか、あんまり見くびらないでもらいたいな、って言いたいところだけど、書けなくなっちゃったからなー。……あ、別に謝ってほしいんじゃないよ。心当たりがあるからあんまり強く言い返しづらいってだけ」

「俺は謝らせてももらえないのか」

「せっかくこんな格好してまで同じベッドにいるのに、キミの反省に私を付き合わせてほしくはないかな、って答えは、意地悪?」

 

 彼女は俺の腕を探すように布団の中で脚を動かし、こちらの掌に自分の肌を触れさせてくる。俺が思うより遥かに心を許していると、スキンシップで示すかのように。

 

「……ごもっともだ」

 

 謝るよりは、素直に彼女の寛大さに感謝しておくのが筋だった。俺が手で膝を押し戻すと、こいつがにっこりと表情を変えたのが暗がりでもわかった。

 

「話戻すね。じゃあコントロールできなくなったのは、最後に会った日だけ?」

 

 いざそう問われてしまうと、何も言えなかった。自分でもよくわからなくなっていた、というのが実態に一番近い表現だろう。せっかくの協力を全てフイにして、結局就職活動よりこいつと過ごす最後の大学生活を優先してしまった。俺はこいつから用済みだと宣告されることが恐ろしかったし、同時に心のどこかで宣告されることを望んでいた。

 俺は結局、こいつの一番の弱みである恋人という言葉を自分のために持ち出してしまったのだ。それが彼女にとって、どれほど不要な存在か知り尽くしていたから。

 懊悩する俺を柔らかく包み込むように、こいつは俺の頬を撫でる。

 

「責めてないよ。私の意思を尊重してくれてたってわかったから」

 

 また、フォローさせることしかできない。

 俺がついに放心状態に陥りかけたその時、彼女は語りかけた。

 

「なんであの日キミが、あんなこと言い出したのかってずっと考えてて。仮説、聞いてくれる?」

「…………どうぞ」

 

 俺が促すと、こいつはどこから話したものかとばかりに微かに唇を尖らせた。

 

「……退院してからのキミ、結構ボロボロだったの、気付いてた?」

「…………そうなんじゃないかとは」

 

 俺の精神状態が一番危うかった時期は、間違いなくそこだった。楽しく充実していた日々の全てが重荷に変わり、思い出も信頼も裏切ってしまった自分への嫌悪と憎悪が抑えきれなくなっていたし、余裕がなさ過ぎて取り繕うことで精いっぱいだった。それすら、取り繕えていたつもりでしかなかったと聞かされ、自分の愚かしさにいっそ憐憫を抱いてしまう。

 それでもこいつは、優しく続ける。

 

「それでさ。私を見る目が時々すごいことになっててね。お見舞い行かなかったこと根に持ってるのかなぁとか、就活フイにしちゃって追い込まれてるのかなぁとか、当時色々私なりに気にしてて。就職相談室に案内したり、気分転換に遊びに誘ったりしたけど、自分は就活しなくていいからって、って恨まれちゃうかなぁとかね。私のマネージャーとして公式に雇えないかなって考えたりもしたんだけど、君のプライドとか人生設計とか、傷つけるのも怖くて」

「退院した時点でどっちもズタボロだったろ」

「そうなんだけどさ。今まで対等だったのに、上下とか主従みたいになるのって何か、息苦しいじゃない?」

「……まぁ、な」

 

 でなければ、あんな夢は見ない。

 

「キミもそういう意味では同じこと考えてたのかな。恋人なら対等でいられるって」

「お前には必要なかったけどな」

「恋人はね」

 

 含みのある言い方で訂正したこいつは、一度目を閉じ、俺に額を合わせるかのように頭を近づける。

 

「でもさ。追い詰められてたキミが生きるよすがにするには、恋とか性欲は本能的に必要だったんじゃないかって、後で気付いて」

 

 こいつは大真面目に、真剣な声でそう考察していた。俺が応じる声は反対に、力なく虚ろになる。

 

「そうだろうか」

「愛されること、愛することっていうのは、本質的で手っ取り早い自己肯定の手段でしょ?」

 

 その一言で、以前こいつと議論した時のことを思い出す。高校倫理や心理学などに出てくる、欲求階層説。マズロー自身の原著では有名なピラミッド図は出てこない、という雑学から始まり、人間の本能や情熱、生の衝動に駆り立てる原動力は何か、という話をした。俺はまず資源と縄張りの確保・拡充を挙げ、こいつは三大欲求を挙げた。話は本能の源泉に向かって進み、生と死の意味は社会学も生物学も超え、量子力学にまで還元されていった。

 その話の中で印象に残ったフレーズの一つが、愛情は生命としての勝利である、というものだった。

 次代の担い手を得ること、あるいは弱者が生き長らえることは、その集団にとってこの上なく幸福である。なぜならその生命は祝福されているから。

 そして、その過程である結婚や恋の成就、愛のある性体験や、食事の提供や保育、治療や看護などもまた、この上なく尊い。

 俺たちはそういう話をたまに熱心にしていた。ともすればセクハラになりかねない話題もただ他人事として議論の俎上に載せ、いわゆる脱童貞や脱処女が急にいきがるのも自己肯定感の一つの帰結だろうと分析していた。こいつは特に羨望するでも冷笑するでもなく、好きな人から好きって言われたら大喜びできるかもしれないけど、好きじゃない人たちから好きって言われてもね、と物憂げに口にしていた。反対に、ファンレターをくれる人たちの存在や感想には素直に喜んでいるようだった。

 愛情にもいろいろある。

 精神的や社会的な愛もあれば、肉体的や個人的な愛もある。

 私はそういうのはいいかな、と苦笑していたこいつは、いつも通りだった。

 その面影と目の前の表情が二重映しになる。こいつは俺を通じて、物理法則に縛られる人の営みと運命に向き合っているかのようだった。

 

「だから恋にまつわるお話は消えない。原始的で生命の本能そのものだから」

「…………あぁ」

 

 俺はそう返すのがやっとだった。俺は今誤解されながらようやく、自己分析が進みつつある。俺の考えた恋人は、こいつが思うような性欲や承認への飢えではなく、対等への執着だったと。

 負い目をも構わず愛されてしまえば、一生俺はペットから抜け出せないだろう。それだけは御免だった。

 こいつは俺に構わず、持論の展開を続ける。

 

「反対に言えば、失恋とか好きな人取られたりって、自分の生命としての価値の全否定そのものじゃない。幸せな時間が全部裏返っちゃうのはつらいし、淘汰する側とされる側って」

 

 その話題もいつかしたことがあった。横恋慕して失恋を苦に自殺というニュースからゲーテを引っ張り出し、女性向け恋愛ものの不貞ジャンルの豊富さを延々と聞かされた後、カッコウの托卵と動物の生存競争の話に発展した。裏切られて裏切る側に回れば、それ以上傷つけられることはない。だが学習性無力感にも似た刹那主義から逃れられなくなる。

 歴史を葬ることは罪悪であり、起源を偽ることは邪悪である。なぜなら葬られた側、偽られた側の歴史が途絶えるから。

 あなたの血や言葉は未来に遺すに値しないという宣告は確かに、生命の敗北、呪いと呼べてしまうのだろう。その解呪は別の祝福か、復讐によってしか成しえない。

 

「どっかのマッドサイエンティストもそんなこと言ってたな」

「あの子の話書くために集めた資料とか本を読み返してね。やっぱり思ったの。他人の恋なんて関わらないに越したことないって」

「だろうさ」

 

 馬に蹴られて死ぬのは誰だって御免だ。

 

「でもこうも思ったの。私が家族の次に大切に思ってる人が、私と付き合いたいって言ってきて、そんなことしなくてもちゃんと一緒にいるって言いたかったのに縁を切られて。それって寂しくて悲しいことだなって」

 

 そう言ってじっと俺の目を見つめてくる。その眼差しは、相手が自分に何を求めているのか見定めようとする強さと、別れ話を切り出されて恋人を体で繋ぎ留める女のような弱さが混じり合っていた。俺はそんな目をしてほしくはなかったし、最初からそんなものに興味はなかった。

 俺はただ、劣等感に押し潰されずにいたかっただけなのに。

 

「だからってお前が妥協する必要ないだろ。俺が自分の命を人質にしたとでも思ってんのか?」

「思ってないよ。妥協だとも思わない。ただ……」

 

 こいつは瞼を閉じて即答した。俺は、振られたから死んでやると叫ぶような奴だと思われてはいなかったらしい。そのことに少しだけ安心し、当たり前だろと思い直しながら続きを聴く。こいつは俺の目を見据えた。

 

「キミが他の女の子と幸せになるくらいなら、私がそこにいたいと思っただけ」

「…………俺はそんな大層な人間じゃない」

 

 意表を突かれて動揺し、とっさに否定する。

 大学時代に何度か、美人に好かれた男は図に乗って浮気しがち、という話を女子から振られていた。それは、モテる女を射止めた男は評価が上がってモテるという経験則に基づいていて、事実、こいつとつるむようになってから女子から話しかけられる回数は格段に増えた。美人のお気に入りを一目見てやろうという女子たちも、美人をフリーにして恋敵にしたくない女子たちも、美人のお気に入りを横取りなり味見なりしてやろうという女子たちも、美人に追われる男は気が大きくなると言った。

 その言葉は、しょっちゅうこいつと一緒にいる俺に対する褒め言葉のために引き合いに出される時もあれば、他の女に目移りする性欲がない男は人格否定されるべきという論調で用いられる時もあった。逆に、浮気をちらつかせる甲斐性もない男は浮気されるぞと男子に脅されたり、何なら既にされてるんじゃないかと疑心暗鬼を煽られることもあった。どれも意味合いとしては同様で、有性生物はより確実に子孫を残すために、性的誘引力と性的積極性を兼ね備えた異性と子を成したい、という本能に従っていることの自己紹介でしかなかった。

 俺を侮辱することでこいつをも侮辱しようとするのも、俺とこいつを引き離すことで自分が入り込もうとするのも、自分の子にモテてほしい個体の生殖至上主義的な繁殖戦略だとわかりきっていた。俺はそういったある種の動物的価値観を押し付けたがる奴らは苦手だったし、いずれにせよ人として失礼だなと距離を置いていた。

 俺たちは互いに異性としてではなく、人としてずっと接していたから。

 だから今、こいつの口から一般論や個人の見解以外で、そういう第三者が関わりうる話題が出てきたことに驚きを隠せなかった。その手の話題は、対外的にはこいつに聞けとお任せしきっていた。どう見られたいかはこいつの意思一つだったし、俺は自分の日常が侵されないなら肩書きはどうでもよかった。俺自身は美人に浮かれるにはあまりにトラウマをこじらせていたし、天才小説家に媚びるには批評的になり過ぎていたから。

 こいつは軽い調子を装うように唇を尖らせた。

 

「コンビニにいたあの子、キミのこと気に入ってたでしょ」

「あいつが? ……まさか」

「あの流れで『嫌ってはない』なんて言える子、よっぽど好きじゃないとおかしいよ」

 

 そう言われると、確かに意外な反応ではあった。……だとすれば、こいつを貶めたのは、ただの俺への売り言葉ではなかったことになる。

 

「……それがそっちの仮説の傍証になるとでも?」

「私は今まで男の人を拒んできたけど、キミは女の子を拒んできたわけじゃないから」

 

 そう言われてしまうと、返す言葉もなかった。俺は失礼な相手なら多数拒んできた実績はあるが、寛容な誠実さと興味本位の好意で近づかれた時、線引きをして弾いたのはいつもこいつだった。それはあくまで、自分の男除けが他の女に取られないようにという嫉妬風パフォーマンスだと思っていたが、実際のところは、俺の方こそ守られていたのだ。

 こいつは、そこのところをよくわかってね、と念を押すようにこちらをじっと見据え、視線を外した。

 

「キミは私じゃなくても幸せになれる余地があるけど、私はそうじゃない」

 

 吐露されたのは、モテるからこその孤独。それは、理解こそできるが共感はできる気がしなかった。女友達でも作れよと言おうか一瞬考えたが、多分それでは意味がないのだろう。彼女は励ますように上目遣いになる。

 

「私がキミのこと好きって言ってるんだから、もっと堂々と嬉しそうにしてよ」

 

 そう言われたところで、結局実感なんてないのだ。

 この体温も、吐息も、俺の存在を祝福するわけではなく、ただの現象なのだから。

 

 

 

 

 自分を愛せない者は他人を愛するべきではない。

 こいつはかつてそう言い放ったことがあった。自分に自信がない相手から告白されて、思わずそう叱ってしまったと言っていた。私を好きになった相手が卑屈なら、私への恋心をも自分で逃げ腰で侮辱しているのと変わらない、と。それは同時に彼女自身の、振るなら堂々と振るべきだ、ただし失礼のないように、という心構えにも繋がっているらしかった。

 俺は彼女に目と鼻の先で見つめられ、吐息と体温で意識を揺さぶられながら、その一言を持ち出そうとして言い留まった。こいつの眼は、俺の返事を期待するようにじっと見つめていたが、一方で返事を半ば恐れるかのようでもあった。

 自分を愛せないのは、果たして俺だけか。

 しばらくお互い何も言わずにいると、互いの吐息が混じり合って熱気と湿り気が2人の顔を透明に覆っているのがやけに気にかかった。視線を遮るものは何もないが、見つめ合ってすら、思いが通じ合うとは限らない。

 結局こいつの言うことは、俺がいいわけじゃない。俺でいいだけだ。俺と同じことをできるやつが他に見つからないはずもないし、きっと消去法で愛されても惨めにしかなれないだろうと自分でもわかっていた。かつて文芸部で憤慨した俺はまだ、自分の時だけ見逃せるほど恥知らずになるつもりはなかった。

 それに、個人的なだけのプライドを抜きにしても、こいつには感傷に流されてほしくはなかったし、俺なんかのためにこんな和解のやり方をしてほしくはなかった。

 向こうからこうして会いに来てくれただけ、感謝してもし足りないほどなのに。

 ベッドに入ってからの、逃げる逃がさないという問答を思い返してふと、閃くことがあった。

 俺は何を考えていたんだ。

 俺の思う対等がギブ&テイクのことなら、俺はあの時返せない借りを逃げて踏み倒そうとした卑怯者なのだ。

 だとしたらこの再会は、取り立て。

 

「…………俺は馬鹿だ」

 

 膨れ上がった利子まで全部、耳を揃えて支払うべきだ。

 俺の声の調子に何を感じ取ったのか、彼女は薄闇の中で目を見開いた。その瞳に映る俺は、恐怖とも絶望ともつかない惨めな顔をしていた。瞳の主は形のいい眉を歪めて、声を震わせながら問うた。

 

「なんで好きって言われて死にたそうな顔するの?」

 

 それは、彼女にとって尤もな一言だった。3年半かけて育んだ信頼ゆえの好意を半年で心変わりされれば、プライドをひどく傷つけられるだろう。一世一代の好意の告白の答えが自蔑と希死念慮なら、侮辱も甚だしい。それがどれほど失礼なことか考えるまでもなかったし、自分がどれほど厄介か俺自身よくわかっていた。

 

「俺はお前に借りが多すぎるから、だろうな」

 

 言葉にするのは、簡単だった。空疎な声は、彼女の目の前でいともやすやすと響いてしまう。

 

「自分で思ってたより頼り甲斐がないなら、これ以上借りは作れない」

「…………私、だって」

 

 返ってくる声は途切れ、一呼吸置いて続く。

 

「私の方こそ、ずっと付き合わせてばっかりで、やっと頼られる番になったと思ったのに、あんな……」

 

 震える声で聞こえてきたのは、思ってもみない一言だった。俺は首を動かす代わりに声を出す。

 

「付き合わせてって、そっちは別に、友達なんだしよかっただろ。俺が勉強どれだけ」

「友達だから甘えたくなかったの。……ノートとかは、充分過ぎるくらいご飯で返してもらってたし」

 

 俺の言葉を遮ったそれは、結局は友達でいることに甘えてしまった、という後悔にも聞こえた。

 最初に映画を見に誘われた時、こいつは、前に見たいって言ってたよね、荷物持ちのお礼であってデートとかじゃないから、勘違いしなくていいからね、と念を押していた。その言い回しは金を出す側としての気遣いにも男への忌避感にも聞こえ、そのおかげで俺は彼女に深入りすることなく、友人として親しくなることができた。こいつの線引きは、買った食材の荷物持ちついでに俺が夕飯を作るために何度か招かれたり、反対に向こうが食べに訪ねて来たりした時も似たようなものだったし、初めてこいつの部屋に泊めてもらった時も、防犯意識や翌朝の食事の二度手間を強調し、あくまで友人への気遣いであって他意はないと言外に示していた。俺はその扱いに、そこまで丁重に扱ってもらって悪いなとしか思わず、二つ返事で唯々諾々と従っていた。その過程は今思うと、下心なしに話や遊び、生活の雑用にまで付き合ってくれる男に対する負い目の積み重ねでもあったのだろう。

 こいつもまた、他人の好意や恋愛感情に認知を歪まされていたから。

 こいつはその美貌と愛嬌で、割引券を特別にもらったりサービスされたり知らない人におごられたり、得はした分気兼ねしてきたと言っていた。下心のないただの親切にすら疑心暗鬼になってしまうならば、一期一会の施しでもおひねりでもない、一向に下心をちらつかせない弟じみた無償の服従は、さぞ奇怪に感じたことだろう。

 俺はただ、恋愛にも性愛にも振り回されない関係を築ける善良な女がこの世に存在する、その事実だけで救われていた。だから、損得抜きでこいつにはいつまでもいいやつでいてほしいと思っていたし、友人らしい距離感で支え続けていたかった。それが、逆に相手を追い詰めることもあるとは思わずに。

 

「…………つまり俺たちは、同じことを考えてるわけか」

 

 俺が沈んだ口調で俯瞰すると、彼女は重々しく頷いた。

 

「そうだね。……だったら、ねぇ」

 

 そこで止まった言葉は、また途切れ途切れになる。

 

「なら、もう、さ。貸しとか借りとか、置いといて、その」

 

 互いの額が再び触れ合った。

 

「一緒にいたいだけじゃ、ダメかな?」

 

 彼女の手が俺の頬を撫でるように動き、憂鬱な記憶を懐かしむように語り出す。

 

「キミと連絡取れなくなって三日経ってね。私吐いたの」

 

 ショッキングな発言に思わずのけぞった。だが俺の顎に添えられた手に入る力が強まり、視線は逸らせないまま続く。

 

「二人分買っておいて食べきれなくて悪くした魚をね。でもそれは一番の原因じゃないんだ、って」

 

 俺は、何も口を挟まなかった。こいつの語り口は懺悔で、これは彼女の告白だった。

 

「私、泣かなかったの。気が付く前に、吐いちゃったから」

 

 思い出したくないことを吐き出して忘れたがるかのように、彼女は空元気を振り絞る。

 

「しばらく独りにって来た時ね、就職活動改めてがんばるのかなって内心応援してたんだけど、キミがどこかに就職したら、そのまま遠くに行っちゃうんじゃないかなって、さみしくなっちゃったんだよね。二週間会わないだけで、集中力が落ちてぼんやりしちゃって。一か月過ぎたら食欲もなくなっちゃった。ちょうどその頃、夢でキミが、私の好物ばっかり作ってくれたんだよね。いっぱい食べなって、にこにこしながら見守ってくれて。起きてから、全部……」

 

 微かに声が震えるのを自制するように、言葉が止まる。俺は頷く代わりに額を押し付けてこすり合わせた。大丈夫、全て聞いていると伝えるために。また再開する。

 

「……音沙汰がないまま時間ばっかり過ぎて、6月は元気なくて寝てばっかりっていうか、半分近く寝たきりで、両親にも心配されちゃって。寝てても夢でキミが、朝ご飯作って行ってきますって家を出て、そのまま帰ってこなかったり、楽しく話してて、幸せに浸ってる瞬間に急に、倒れて」

 

 彼女の呼吸は次第に浅く、早くなっていた。俺は黙って、自分の頬に伸びる彼女の手に自分の手を重ね、ゆっくり撫でる。彼女はこわばった顔にどうにか微笑を作り、少しずつ深い呼吸を取り戻していった。

 

「……だから、電話したでしょ? バイト中だからか、出なかったけど……用がなくてもいいし、何も言わなくてもいいから、せめて生きてるって教えて、って。……それでやっと既読に安心して、夏に入ってから実家に帰って、生活変えて少しずつリハビリしてって……キミの夢ばっかり見てた」

 

 こいつは、他にどんな夢を見たか言おうか言うまいか迷ったように言葉を探して、思い出すうちに感情がぶり返したのか、動揺し始めた。

 

「私、きちんと向き合ってたつもりだった。特別扱いし過ぎて、思い至らなかった」

 

 少しずつ声に涙が混じり始める。

 わずかに息を吸う無言の後、俺を見る彼女の表情が力強くなった。

 

「……絶交されるとまで思わなかった!!!」

 

 こいつは顔を伏せ、しゃくりあげながら言葉を紡ぐ。

 

「……あんなに毎日一緒にいたのに、ある日突然…………」

 

 俺は黙って、彼女の脇腹と背中をゆったりとさする。こいつは一瞬身をよじらせ、くすぐったい、と呟いた。俺が手を止めると、止めないで、とわがままなリクエストが届く。間を取って脇腹に手を置いて少し待ってみると、シリアスになりきらないまま彼女は呼吸を整え、再開する。

 

「話は変わるんだけどね。私今スランプっていうか、5か月くらい何も書けてないの」

 

 唐突な告白に、俺はまたのけぞる。彼女は自分の脇腹に乗った俺の手に手を重ね、少しずつ落ち着きと笑みを取り戻していく。

 

「なんでか当ててみて」

 

 そういう挑戦をされるのは、おそらく7か月ぶりだった。

 こういう聞き方をするからには多分、俺がいなくなったから、というだけでは不正解なのだろう。話の流れでそれはわかりきっていて、問われているのは彼女が俺に何を求めていたのかだった。

 彼女は俺を専属シェフ兼雑務くんと呼び表した。つまりそれが、以前の彼女にとっての俺の意味だったのだろう。

 今まで俺は小説家としての彼女に干渉することはなかったし、ないように努めていた。くだらない雑談や生活上の雑事を任せる相手がいなくなって、孤独がストレスになったとは考えられる。だが実家に帰れば親御さんが迎えてくれるだろうし、久々の娘の帰省を歓迎しないわけがない。それでも、俺の夢を見たと言った。

 相手の一方的な都合で友人を失った理不尽な悪夢と、相手に非すらない不幸な悪夢。そして何より、ただ幸せなだけの、思い出に似た夢。

 だとしたら論点は、小説へのスタンスの迷いだろうか。

 

「……………俺が、男女の友情を裏切ったからか」

 

 自分の理想の関係を裏切られてしまえば、相手がそのままいてもいなくなっても、筆も重く鈍ってしまうだろう。

 どちらかが異性として意識してしまえば、どうあがいても元通りには戻らないから。それはそのまま、彼女の作風への全否定でもあるから。

 一読者からすれば、恋愛という手軽で爆発力満載の題材を封印してあそこまで書ければ作家冥利に尽きるだろうと思う。だが、作者にしてみれば常に挑戦に縛りが課せられているのと同じだ。特に、恋愛を疎んじた結果として俺に興味を持った、彼女にとっては。

 しかし、そういう話ではなかったらしい。

 

「私が書く主人公たちは、独りじゃいつか孤立しちゃうから」

 

 確かに、彼女たちはみな知的好奇心旺盛で美しく、それ故どこかしら浮いていて、単独行動を苦にしない性質だった。その内面を鮮やかに描き出せる作者は寂しそうに笑って、脇腹の上の俺の手を握った。

 

「誰かがいつも傍にいてくれないと、話にならないの」

 

 話にならない、か。

 俺は感極まりかけて、その信頼を裏切ったのがまさに俺だと思い知って一気に醒めてしまう。

 こいつはそれすら悪夢と共に赦し、俺に会いに訪れた。和解のメッセージのためだけに、あんなものを買ってまで。

 俺は心の底から自分が憎かったし、恥じ入ってしまった。

 このシリアスな空気を壊したくて、こいつに俺を殴らせる提案を探してしまう。

 

「……たまには自立した女性でも書いてみたらどうだよ。理解ある彼くんに頼ってばっかりじゃ、主体性が失せるぞ」

「主体性はみんなあるよ。必要なのは、ブレーキ兼ウィンカーくん」

 

 彼女はそれ以上何も言わず、額を擦り付ける。

 ……参ったなこりゃ。

 俺は黙ってこいつの脇腹と背中をさすり続ける。しばらくしてこいつが呟いた。

 

「…………理解ある彼くんかぁ」

 

 それは、その言葉と目の前の人物を引き比べて、値踏みでもするかのように俺の耳に響いた。自分の言葉の浅はかさを呪うには充分だった。

 

「俺は彼くんでもないし結局無理解だったな」

 

 俺の懺悔は一瞬で、酷く低い無気力な声だった。多分これから死ぬ声に聞こえたのだろう、こいつが俺の胸に耳を当てようと体ごと転がってくる。

 

「おい、危ない」

「あぶなくないっ」

 

 子供じみた言い合いはすぐ止み、彼女の長い髪が俺の胸の上に流れるように垂れ落ちていく。

 覆いかぶさってくる生身の熱と重さを幻覚か何かのように感じていると、人の体の上に跨ったこいつは誇らしげに胸を張った。

 彼女の爛々とした瞳には、自分がどんな夢を見たか勢いで洗いざらい話してやりたいという衝動と、自分の胸に留めておいていつか書く小説のために大切に取っておきたいという乙女心が葛藤している様がありありと映った。

 俺は聞かず、目を逸らさず、ただ初めて見る彼女の情熱的な生気に見入っていた。

 こいつはそっと胸を倒して頭を落とし、再び髪を垂らして俺の心臓に耳を押し付ける。

 そのまま呼吸を5回する間、彼女は黙っていた。俺も黙って、その上から布団をかけ直す。やがて胸の上で安堵のため息がこぼれた。

 

「ちゃんと生きてる」

 

 こいつは聴き入るように頭を乗せ、感慨に浸っているかのようだった。

 

「嬉しい」

 

 俺は、彼女の心の底から出た温かい声を聴いてもなお、醒めて沈んだ気分から完全には抜け出せなかった。自分にそれだけの価値があるとは思えなかったし、彼女を裏切った俺を彼女自身が全肯定する現状を許容できなかった。

 それとも、死んでいてくれた方が良かったのに、と言われたかったのだろうか。

 そう自問すると、心の天秤は否に傾きつつあった。彼女にそんなことを言わせたくはなかったし、彼女の喜びに水を差したくもなかった。だから俺はせめて、表向きこれ以上自分を否定しないでおいた。彼女の体温はまだ、俺の自分への憎しみを溶かすほど深く届いてはいなかった。今の俺にとっては、それが救いに思えた。

 

 

 

 

 俺の心臓の音に満足したのか、掛け布団をかぶったまま頭を起こしたこいつはふと口走る。

 

「理解ある彼くんを理解できるのは誰か?」

 

 すっと顔を上げたその眼にはもう、怜悧で芯の強い輝きが見えていた。

 

「決めた。今後のテーマは、『理解ある彼くんを理解できるのは誰か?』」

 

 繰り返されたフレーズは、宣言に変わる。

 

「それなら、ファンもスムーズに受け入れてくれるし、私も無理なく書ける」

 

 彼女はずり落ちそうな掛け布団を握り、こちらを見下ろした。

 

「キミは、どう思う?」

「読者に聞くな。担当編集さんに聞け」

「ひとまずは、私がキミを理解できるまで、今度こそ一緒にいてくれる?」

 

 こいつの顔つきはもう、完全に復活していた。

 何がひとまずだよ。

 

「…………俺の底の浅さなんてわかりきってんだろ」

「決まりっ」

 

 こいつは重心を横にずらして、滑るように俺の上からベッドへ倒れ込んだ。俺の自虐を聞いてるのか無視したのか、爽やかそうな声が隣で躍る。

 

「やっぱり話してみるものだよねー。すらすら解決しちゃう。5か月は何だったのって感じ」

「なんで俺がいなくなった途端……」

「たわいない雑談できる相手って、大事じゃない?」

 

 憑き物が落ちたような彼女の晴れやかな表情から、そうか、と今更腑に落ちる。

 こいつも、呪われていたのだ。俺のせいで。俺が去ったせいで。

 大仕事が終わったようなテンションでこいつは、ねぇ、と俺の名前を呼んだ。

 

「私が今日会いに来なかったら、いつかキミの方から来てくれた?」

 

 一通り燃え上がった後の余韻を残したような声色で聞かれ、俺は戸惑う。

 

「……いや……」

 

 ほとんど事後のような、満たされたテンションのこいつに、率直に答えていいものか迷う。彼女の表情を見て、聞きたい答えではなく、俺自身の言葉が欲しいのだと受け取った。俺はしみじみと呟く。

 

「しばらく距離を置くつもりだった。今更恋人ごっこなんか必要ないって言われたらな。『踏み込むな』にせよ『用済みだ』にせよ、結局俺もだめだったんだなと」

 

 薄々想定していたという表情で聞いていた目の前の美人は、後半で表情が消え失せた。

 実際、俺にはそういう意味にしか受け取れなかった。こいつにとって俺は都合のいい男除けで、あくまで友人でしかないのだから勘違いするなと暗に言われてしまえばそれまでだ。ただでさえ俺は、こいつの期待も応援も裏切った。体よく見限られても、調子に乗って踏み込んだ罰として切り捨てられても、残念に思いこそすれ、せめて潔く気持ちを汲んでやるのが友情への手向けだと思っていた。

 次に会う時には、こいつの隣にはもっと相応しい誰かがいるのだろうと思っていた。人生を踏み外した俺よりももっと生きるのが上手で、こいつが心を許すほど誠実で聡明な、成功者が。むしろ、あれだけ男に言い寄られるこいつが在学中にそうならなかったのが奇跡なのだと思っていた。女は残酷なまでにドライで、誰かが言ったように俺は王子様が現れるまでの繋ぎに過ぎなかったと。大学を卒業するその機会に俺をお役御免とするのは、自然な流れなのだとすら思っていた。向こうからメッセージが何度来ても、友情の証なのかお情けなのか区別がつかなかった。

 結局俺はこの半年、ただ一言こいつに、言い出せなかっただけなのだ──。

 俺が思索に潜るのを遮るように、こいつは呆れたように深く、長いため息をついた。心なしか、鼻声に聞こえた。

 

「ねぇ……。今もまだそんなこと思ってないよね?」

 

 冷ややかに震える、しかし怒りより哀しみのこもった声だった。当然だ。

 

「流石にここまでされてそれは、失礼どころじゃないだろ……。……しかし、申し訳ないやら情けないやらで…………」

 

 俺は苦々しく言い返す。伝わったといえば伝わったが、正直なところまだ半信半疑ではあった。

 俺は最初から大した男ではなかったし、だからこそこいつの中の女が目覚めずに済んでいるのだと思っていた。俺が男をちらつかせればこいつは無機質に、そんな人じゃないと思ってたのに、と言って他の誰かを探すのが目に見えていた。特に、就職活動を諦めたと聞けば失望なり落胆なり、期待外れだと態度で示すだろうと覚悟していた。競争社会から逃げ出した男に、女は無慈悲で容赦ない侮蔑と嘲弄を厭わない。それなのに何事もなく打ち上げの相談をし出したのは、最初から俺に何一つ期待していなかったことの証明に他ならなかった。その反応が、彼女が女の競争の最上位に位置するからこその達観なのか、ただの友人としての面倒見の良さと気配りなのか、この半年間ずっと考えないようにしてきた。

 だがこいつは、俺が自分に呪われたのではなく、自分が俺に呪われたと受け止めて解きに来た。

 その認識の相違自体は、ようやく知ることができた。それでもまだ、その根本的な理解をすり合わせないことには、俺はこいつの覚悟に向き合える気がしなかった。

 

「よかった……」

 

 こいつは寝返りを打って傍に来て、また俺の耳元にささやきかける。

 

「…………今までの私の作品全部に通じるテーマ、わかる?」

 

 男女の非恋愛、だけではないことはわかっていた。

 作者のあとがきで熱っぽく語られた、かぐや姫が何を象徴するか。

 圧倒的存在故の孤独。性嫌悪、あるいは性忌避。もっとマイルドに、シンデレラ・コンプレックスへのアンチテーゼ。さらに分解するならば、王子様の不要性。上昇婚とは別の価値基準。女性主人公の主体性と自主性。積極的選択・能動的行動という点では、いつかのこいつの、距離感を選ばせてくれる人といたい、という発言と合致する。

 こいつは俺の読者としての習性をよく理解し、たっぷり考えろとばかりに微笑んだ。

 

「それがわかったら、どうして私がここに来たのか理解してもらえると思うよ」

 

 まるで、それがわかればもう我慢なんかする必要はないと言わんばかりに。

 実際、人となりをよく知る作者直々に挑戦されるなら、これ以上に読み解きがいのある題材はそうない。

 俺との交流を踏まえて、まず何が本質から遠いか外していこうと考え出すと、性嫌悪や性忌避ではない、とは思い難かった。何しろ、あれだけ愚痴られたからこそ俺はこいつから遠ざかろうとしていたのだ。とはいえ、アルハラやストーカーまがいに腹が立つのは人として当然だとも思うし、常識的な範囲でのアプローチや穏便なナンパに対してはあっさりと断っていて、嫌悪や忌避というほど強い拒絶とも思われなかった。政略結婚で幸せになる女性を描いたり、老夫婦を憧憬の眼差しで見ていたところを鑑みても、結婚や夫婦円満に対して祝福と敬愛の念があったことは間違いない。

 あえて言うならこいつは、書くのが楽しいしそのためのインプットも楽しい、恋愛どころじゃない、という精神性をサークルで存分に発揮していた。暇さえあれば小説ばかり書いていた生活が、俺と2人で話したり何か観に行ったり泊まったりするようになっていったが、傍から見ていて肉体的な欲望があるようにも思えなかったし、俺の知らないところでそれを埋める誰かがいる気配もなかった。彼女の友人への俺の扱いであったり、その友人の俺への扱いを鑑みても、こいつはプロとして危うきに近寄らずを徹底しているがために、俺を安全地帯として例外扱いしてくれているだけ、というのが素直な見解だった。

 あるいはシンプルに、それなのだろうか。

 何故例外になったのか。特別な存在になっていく過程。

 

「…………誰でもいいわけじゃない、だとテーマとしては変か」

「かなりいい線来たね」

 

 いきなり高評価で、よしよしと内心安堵する。

 もう少し自然に、あくまでも小説のテーマとして言語化・出力されるなら、相性とか凸凹の対比とか、おそらくそれが一番表面的に明快なコンセプトではある。では、それを以てして描きたいものは何か。

『誰でもいいわけじゃない』がかなりいい線で、俺といることが許容できるなら、かぐや姫の孤高はおそらく本質ではない。人との関わり方のスタンスがメインなのだろう。上昇婚とは別の価値基準、というキーワードにいつかの、育成向け男子だよーあげないよー、という言葉が蘇る。育成……。

 

「出会いと思い出を大切に?」

「うーん…………言い換えるならまぁ、それも正解かな?」

「何だよ……寝る前に気になる質問してきやがって」

 

 ならば、いい意味で不都合であることの楽しみ。あるいは、何だろうか。『理解ある彼くんを理解できるのは誰か?』というテーマとシームレスに接続する、おそらくはもっと本質的な下地。

 俺がさらに考察を深めようとするのを、こいつはやれやれと言いたげに見守っていた。俺が視線で不満があるのか問うと、こういうひとだしなぁと諦めたような苦笑が彼女から漏れた。

 

「最初のでほぼ合ってる。どうしても気になるならゆっくり考えていいよ。今日で最後じゃないんだから」

 

 最後の一言は、こいつが自分自身に言い聞かせたようにも聞こえた。そんな質問をさせた俺の自己否定感は彼女をよほど打ちのめしてしまったのか、彼女はこめかみに手を添えてため息をついた。

 

「……ごめん、ちょっとまだショック。言葉が出なくなってきた。もう寝ちゃおうかな」

「おう。起こしてて悪かったな。ゆっくり休んでくれ」

「…………一緒にしたいこととか、ない? もししたくなっちゃったら、朝まででも頑張って起きてるけど、どうする?」

 

 彼女は念を押すように自分の上半身を俺の腕に押し付け、そこに女性の体があることを思い出させてくる。だが俺は、寝かさないと言えるほど自棄にはなれなかったし、本調子でないこいつに無理をしてほしくもなかった。

 

「美容に悪いだろ。寝よう」

「…………やっぱり見てわかっちゃう?」

「自分で言ってたんだろ……」

「そうだけど、やっぱりまだ見たら気付くかぁ、って」

 

 こいつはまた仰向けに戻ると、肩の当たる距離でもぞもぞ動き、照れ隠しのように髪を手櫛でくしけずる。

 

「これでもずいぶんマシになってきたんだよー。一時期肌も髪もボロボロで、どれだけお風呂で手入れしてもひどくって。メイクしようにも乗りが悪すぎて、スクラブとかトリートメント使っても使っても果てしなくて、しばらく外にも出られなくてさ」

「寝たきりっつってたもんな……」

 

 先ほど記憶と照らし合わせて出た感想はそういうことだったか、と納得してしまう。女はメンタルとホルモンが密接に関係していて大変だな、と思ったが、それ以上の感想はセクハラになりそうなので黙っていた。

 

「セルフメンタルケアの効果かな」

 

 こいつは含みのある声音で呟いた。

 具体的に何をしたか、興味はあったが聞く気にはならなかった。何か非常にデリケートなことのような気がしたし、下手に知ってこいつを見る自分の目が変わってしまうのも怖かった。

 こいつは俺の顔色を窺うように少し黙って、俺の手をなぞるように撫でる。

 

「違うこと想像してない? ……一応言うけど、眠れない時にものすごくダークな推理小説とか、普段の名義で書けなさそうなアイディア練ってみただけだからね」

 

 キミは何考えちゃったのかなー、とばかりに彼女は俺の手をまさぐる。その感触に、まさに違うことに意識を誘導されそうになりながら、俺はこいつの掌をくすぐり返す。

 

「推理小説はいいな。構成力が活きるし、ラインを超えた愛憎のドラマだのサイコサスペンスだのグロだの、割と何でも受け入れてくれる」

 

 彼女はしばらくくすぐられるがままでいたが、俺が飽きるとまた手を重ねた。

 

「……こっそり体触ってもいいけど、まだ肌も髪も万全じゃないからね。がっかりしないでね」

「んなこと言われて触るわけないだろ……」

 

 そもそもそんな気もないが、女扱いされるつもりで来たなら気持ちぐらいは尊重しておきたかった。それに、単にスキンシップに飢えているのかもしれないので無下にもしたくはない。

 こいつは俺の返事に満足したのか、少しでも雰囲気を和らげようと声を明るくする。

 

「実を言うと、さっきあれ買ったのは、女性ホルモンどばどばでお肌つやつやっていうの試してみたくて。ちょっと興味あったけど……ほら、キミがそういうことしたくて私にああ言ったんだったら、断ったまま一緒にいるわけにもいかないかな、って」

 

 そこまで言われてようやく、こいつが大胆な格好や接触をしてきた真意を思い出す。俺が望むと思って、わざわざそうしたのだろう。そして、こいつ自身も、そこに言い訳を求めていた。たとえ小説家としての才覚と精神性がそこに起因するとはいえ、交際も結婚も考えずにあくまで俺を友人として扱っておきながら、よその女に惹かれることは嫌がり、いつまでも自分だけの都合がいい男除けでいてほしいという願望がどれほど身勝手か、突き付けられてしまったから。

 だからこそこいつは、こうすることでしか和解できないと思い詰めてしまったのだ。

 せめてもっと段階ぐらい、踏みながらでもいいだろうに。

 俺は、和解しないという考えが彼女の中になかったことを喜ぶよりも、なぜ自分が振られてそれきりで終われなかった場合を想像していなかったのか後悔し、ぞっとした。

 

「…………変に気ぃ遣わせて、本当にごめんな。今の言葉だけで充分だ」

「こっちこそ、本当に、そこまでひどい受け取られ方してると思ってなくて……てっきり、ただ単に、私とそういうことしたくなっただけかと……」

 

 こいつはまた泣きそうな声に戻って、十秒前と同じ内容を繰り返す。本当に混乱から立ち直れていないらしく、半分放心状態に聞こえた。

 

「私そのつもりで、今日のために心の準備とか、いろいろ……」

 

 こいつは布団の中で俺の腕を探し、掌を握って自分のブラウスの下に滑り込ませてきた。きめ細かい彼女の肌の感触に驚いて手を引き抜いた俺は、ちゃんと腹を隠せと外から撫でつける。

 

「別に、もういいんだ。気持ちは伝わった」

「ほんとに伝わってる?」

 

 彼女は俺に顔を近づけて、今にも俺に覆いかぶさりかねない勢いで問い詰める。そのまま彼女の唇が接触しないよう、俺は上を向いた。

 

「伝わってないかもって言ったら過剰表現するだろ。だから、伝わってるんだよ」

 

 誇張し過ぎた言葉は何も伝えない。現実のすぐそばにある言葉だけが、人の心を動かすのだ。

 これ以上言葉以外の方法で伝えようとされても、気持ちのオーバードーズで全部うっとうしくなってしまう。だから、もういいのだ。

 こいつは深く息を吐いて、ゆっくり俺の肩の上に頭を倒した。

 

「そっかぁ……つい浮かれて、そんなに信用ないとか当たっちゃったけど…………そっかぁ~…………」

「こっちこそ、何事もなかったみたいに接してくるから距離感に困ったが、納得した。本当に申し訳ない」

 

 そこまでわかれば、事態の要約は簡単だ。俺は自己肯定感不足から、対等でなくなろうとしている関係をどうにかしようと思い切って、こいつに振られたと解釈し、嫌がられないために距離を置いた。こいつは、見限るつもりはないから俺が卑屈になる必要はないと示すつもりでいたが、俺に絶交されてから誤解を与えた可能性に思い至った。こいつは自己肯定感充分であるが故に、単に自分への好意と性欲に俺の動機を還元し、そのつもりで自分と向き合って会いに来た。だからこいつは俺を信用しきって、コンビニであんなものを買い、今までと同じ調子で接してきて、シャワーの後には大胆な格好で、来るなら来いと行動で示した。自己肯定感不足の俺はその様子を見て、遊びに来たのか弄びに来たのか、警戒心を顕わにした。

 こいつは好意を言うまでもないものとして受け止め、そこに性欲が加わることを拒んでしまった、と後悔していた。だが俺は、好意の段階で駄目だと思っていた。だからすれ違い、その噛み合わなさに今の今まで、どちらも気が付かなかった。

 近くから見れば悲劇でも、遠くから見れば喜劇という言葉がある。やはり、こうして言葉にしてしまえば、ただの喜劇だ。

 それでも、重層的で誤解を招きうる短い一言で済ませるよりは、言葉を尽くして理解を深める方が俺好みではあった。俺は小説家ではなく、読書感想文だけが取り柄のただの読者なのだ。

 俺は、さっき何を考えかけてこいつに遮られたか、もう思い出せなかった。なんとなく、こいつが一番恐れていたことのように思えた。そして、今この瞬間に、思い出す必要はなくなった気がした。こいつの描いてきた主題にも、思い当たる節があった。

 彼女の頬を手の甲で撫で、俺の斜め上から緩やかに押し戻す。意味が伝わったのか、こいつはまた重心を移して横に転がり戻った。

 

「…………ほんとにそういうつもりじゃなかったなら、私もそれでいいんだよ。変に溜め込まれて、よその女の人にホイホイついて行っちゃうのが一番嫌だから」

「飴に釣られるガキかよ……」

「そっちは信じていいの?」

「俺の意見は変わらん」

 

 こいつはやっと、以前その話をした時のように笑みを隠せない様子で、そっかそっかとばかりに頷いた。

 お前の方こそ、と言おうか迷ったが、あえて問う必要はなかった。今ここまでしてくれるなら未来を案じる意味がないし、もしこいつがこの半年の間にどこぞの男に縋ったなら、今こうして俺のところへ来ているはずがないのだから。もしそんな機会があったら、俺なら絶対にこいつを逃がしはしないだろう。絶対に。

 だからあえてこちらから問うつもりもなかったし、こいつが小説を投げ出さないなら大丈夫な気がした。

 

「うん……。じゃあ、また今度にしとこっか。サイズ適当に選んじゃったから、合わないと困るもんね」

「使うのは前提なのかよ」

「初めてで無しはさすがにちょっと怖いし……」

 

 腰が引けた様子でどこか面白そうに笑うこいつに、言い知れぬ感覚を覚える。何かさっきよりもデリケートな一言が聞こえた気がしてならなかったが、気のせいだと思うことにした。意識させられたくなかったし、こいつの口からその手のことを聞く心の準備を一切していなかった。彼女は俺の反応を面白がっているのか、耳元で囁きかけてくる。

 

「無視しないでほしいなー」

 

 耳の奥に反響する生ぬるさに不意を突かれて動揺してしまい、つい妙に偉そうな物言いになってしまう。

 

「そうじゃねぇよ……。とりあえず、今しなくてもいいなら、いいんだ。ちゃんと付き合ってもない相手とそういうことをするのは嫌だからな」

「うん。キミはそう言うだろうと思って、今回は意思表示に留めました。今回は」

 

 今回は、か。

 

「やっぱりけじめは大事だよねー」

 

 それは、俺の価値観の肯定とも、彼女への返事の催促とも受け取れる言い回しだった。

 あの時と同じことを聞けば、今度は違う答えが返ってくる。こいつの声からはその確信があったし、いかにも小説家の好きそうなシチュエーションだと思った。

 だが俺は、個人としてではなく読者として待ったをかける。

 

「そういうのは、現行のシリーズ一通り完結の目途が立ったらにしないか。作者の人生観が急激に変わって作品が歪むのは、一読者としては御免なんだ。俺の方からめちゃくちゃにしておいて、今更どの面下げてどの口でと思われて当然なんだが、形だけでも、な。本当に申し訳ない限りだが」

「…………はぁーい」

 

 案の定彼女は、ふてくされたように唇を尖らせる。だがその様子は甘えるようにかわいげたっぷりで、唇の形の良さと柔らかさをアピールしているかのようでもあった。

 俺が理由を言えば、こいつは素直に引いてくれる。どこか満足げな表情を見るに、多分行為は本質ではなく、こうやって言い合える関係性こそが彼女の望みだったのだろう。

 人を好きになっていくペースは、人それぞれだから。こいつ自身、骨身に染みているからこそ自分でも、無理やり押したり引っ張ったりはしない。あくまで柔らかく意思表示に留め、一切俺を責めず、抵抗しない。だから尚更、俺自身が戒めなければならない、と改めて自省すると、こいつは満面の笑みを浮かべた。

 

「そうだよねー。記念すべき一回目は、お互い心も体も万全の状態で、後顧の憂いなく思う存分、心置きなくノリノリで楽しみたいもんねぇ。んふふ」

 

 期待と惚気が混じり合ったような、幸せいっぱいの今と未来を一切疑っていない声音だった。

 やはりこの態度も、3年半一緒にいて一度も見たことがなかった。もう既にこいつは変わり果てていて、手遅れなのだろうか、と後ろ向きな感傷に浸ってしまう。他人事なら羨ましくも微笑ましいシチュエーションではあるが、自分を振った女友達、という認識がまだ抜けない状態の相手が、半年ぶりの再会で女をむき出しにして接してくると、ギャップで困惑の方が勝る。そのギャップを彼女は自ら埋めようと正直に語ってくれたし、俺はそれを疑うことはしない。だがそれでも、ギリギリついていけない程度には置いて行かれている気がした。それ以上に何より、申し訳なかった。

 結果的に俺は、自分が罪悪感から逃げるためにこいつに罪悪感を押し付けたのだ。そして、こんな風にしてしまった。俺が望んだのはこういうことだとこいつに身をもって突き付けられ、俺は思ったより傷ついているらしい。我ながら身勝手だ。だが、こいつもこいつで極端すぎる。

 俺たちは、エゴと思いやりのバランスを、改めてうまく調整し直せるのだろうか。いや、するしかないのだが、如何にして。

 俺がこいつから奪ってしまったものの重さに打ちひしがれそうになっていると、そんな俺の視線に何を感じ取ったのか、こいつは満面の笑みのまま落ち着いた声に戻る。

 

「……やっぱり今のうちにマーキングだけしてもいい?」

「お前テンションおかしいぞ。いい加減寝ろ」

 

 俺は慌てて制した。続きが読めないままと、待っていた続きじゃないのとなら、どちらがマシなのか、俺には何とも言えなかった。

 伝わっているのかいないのか、こいつは澄ました顔になって、はっきりと知性を声に乗せた。

 

「約束して」

 

 何を、とは問い返すまでもなかった。俺は端的に応える。

 

「今更必要ないだろ」

「……………………あー、うん」

 

 俺の半年ぶりの意趣返しに、落ち込んだのか恥ずかしくなったのか、こいつは黙り込んだ。そしてそのまま枕に頭を載せ、頬を両手で仰ぐ仕草の後、口元に手を当てて声にならない声で悶え始めた。

 そういうリアクションをされたせいで俺まで恥ずかしくなってきてしまったが、この薄闇で多分ばれてはいないだろう。

 

「……あれだ。どうしても我慢できないとか信頼関係の担保が欲しいとかになったら、その都度話し合おうぜ」

「話し合うだけじゃ済まないかもね」

「その辺も含めて、拗らせる前にな」

 

 そう応えはしたものの、俺は内心どこまで譲れるかわからなかった。好きだからと2人の内側でルールを踏み倒してしまえば、同じ理屈でいくらでも約束は外側へ破られる。なら、後出し自体歓迎できる行いではない。それでも、生きていれば考えや感性はいくらでも変わってしまう。

 大切なのは、ルールそのものではなく、ルールが何のためにあるかなのだ。

 こいつは自分で距離感を選びたがり、恋人ができる煩わしさより独りでのびのびと執筆できる小説を優先した。だから、その邪魔にならないという条件付きで俺は許されたらしい。

 では俺は、こいつに何を求めているのだろうか。

 振り返れば、俺が恋人という単語を持ち出したのも、完結の目途が立つまでと言い出したのも、自分がこれからぶち壊してしまうものから目を逸らしたいだけだった。それは関係性であり、小説の作風であり、そして何より、こいつに対するイメージだった。自分を憎むこともあるいは、ただの無責任な自己弁護の一つの形に過ぎなかったのかもしれない。

 結局のところ、節度と折り合いを探していくことに慣れていかなければ、長続きできない。今までではなく、今とこれからのこいつに向き合わなければ、一緒にいることなどできないのだ。嫌になったからさよならなんて、どちらも望んではいないのだから。

 そう決心した矢先、俺の苦悩を心配そうに見ているこいつの眼と目が合ってしまった。今夜の話のパターンを思い出し、今にも彼女から、今晩は約束無しで引き下がるから代わりにちょっとぐらい私の体を触ってから寝ろ、と要求されるような気がして、あまり気乗りしなかった。こいつからしてみれば、仲直りの姿勢を見せれば見せるほど疎まれるこの状況は心苦しいだろうし、他の男なら大喜びするはずのサービスに俺が拒絶反応を示すのは、信頼関係にも彼女のプライドにも悪影響を及ぼしてしまうだろう。それは俺も重々承知していたし、こいつは完全にそのつもりで来たとしても、という俺の迷いが顔に出ていたのか、彼女はふっと表情をやわらげた。

 

「わかった。今回は同じ過ちを繰り返さないためにも、手ぇ繋いで寝よ」

「……そのくらいなら助かる」

 

 上から目線で悪いな、という心の声が聞こえたかのように、こいつは大きく息を吐く。

 

「嫌がられると余計束縛したくなっちゃうって、傍から見てる分にはそういうの逆効果なのになぁって思えるのにね。焦っちゃってごめんね」

「嫌がってるわけじゃ…………いや…………同じことか」

「そこは否定してほしかったな~」

「わかってるだろうから否定しなくてもいいと思ったまでだ。もっと時間をかけて丁寧にきめ細やかに束縛される分には、さすがに嫌にはならない」

「そっか。そっかそっか」

「受け身で申し訳ないとは思っている」

「私への認識をきちんと改めてもらうのが優先だから、焦らなくていいよ」

「…………ありがとな」

「そう思うなら、キミの方からも、時間をかけて丁寧にきめ細やかに束縛してくれると嬉しいかな、なんて」

「まぁ、そのうちな」

 

 娘の成長を見守る父親のような気分で、布団の中で手を探り当てる手を迎えに行く。やめろ指を絡めるな、と無言で片手同士を争わせるが、結局俺の抵抗は虚しかった。

 こいつは満足げに、さっぱりと手の力を抜く。

 

「おやすみなさい。また明日」

「おやすみ。明日っていうかもう、また今日だな」

 

 幸せそうに目を閉じるこいつの安らかな笑顔は、見守るうちにやがて力が抜けて、無邪気で無防備な呼吸に変わっていった。

 俺も目を閉じ、眠気が訪れるまでほんの少し物思いにふける。

 こいつはさっき、特別扱いし過ぎて思い至らなかったと打ち明けた。俺はこいつの中で、特別な存在になれたのだろう。俺にとってこいつが、ただ視界に映るだけの雑踏に紛れる影から特別になっていったように。

 

「代替不能性か」

 

 それは恋よりも普遍的で、上辺の付き合いでは得難い。漫然と共に過ごしても、ただ体を重ねても、手に入るものではない。

 

「そりゃ、『今更必要ない』わけだ」

 

 理解しようとして無理解を思い知り、誤解はまたすれ違いを生み出すだけ。だからせめて、言葉を交わして。ただ言葉を重ねることだけで、かろうじて俺たちは互いにすり合わせていける。言葉を尽くしても伝えきれない思いや理想を、言葉にならない原始的なメッセージの中で確かめ合いながら。

 温かく柔らかい手を握りながら、俺も全身の力を抜いていった。

 

 

 

 

 目が覚めたのは、こいつの方が早かった。

 ぼんやりと夢の中で、何かとてもいいにおいがする、と感じていた。安心するような、おいしそうな、食べてしまいたくなるような──そう思って夢の中で口が開いた瞬間、現実でも口が開いた感覚で目が覚めた。

 目の前にはこいつの顔が俺を覗き込んでいる。自分の頬が寝ぼけた誰かのせいで今にも食われそうになっているのを、興味津々に観察しているように見えた。

 彼女は笑みを湛え、俺の口の中に響くように囁いた。

 

「おはよう」

 

 その声にも表情にも、満ち足りた者特有の安息と柔らかさが感じられた。俺は寝起きでまだぼんやりとしながら、とりあえず頭を引き、一度口を閉じて応じる。

 

「……おはよう」

「食べられちゃうかと思っちゃった」

 

 ……何を嬉しそうに。

 

「…………俺が悪かったのは大前提として、止めてくれよ。跡でも残ったらどうする」

「どうしたと思う?」

 

 寝ている俺に頬を食われかけた体験がよほど楽しかったのか、こいつは幸せそうに問い返してくる。本調子でないなら、肌に悪いことは、きちんと怒ってくれる方が助かるのだが。

 

「……皮膚科でいいのかね、歯型は」

「歯型かー。そっちまで考えなかったなー」

 

 …………そうかよ。

 俺が応えるより早く、こいつはまた俺を見つめる。

 

「早く起きて頭と顔洗ってから起こすつもりだったのに、久々でなんかつい見ちゃった」

 

 言い訳のつもりもなさそうに、さらっと言いやがって。

 

「見惚れるような顔でもねぇだろ」

 

 たった今自分が寝ながら何をしようとしていたか棚に上げて言うと、相手は含み笑いを始めて口元を手で隠した。

 

「いい寝顔だったよ。寝てるなーって思って。呼吸してるなーって」

「睡眠時無呼吸症候群じゃなさそうで何よりだ」

「呼吸と魂はかつて同じ意味だったんだなーって、よくわかる気がして」

「プシュケーか」

「うん」

 

 寝起きのトークは済んだようなので、掛け布団の上半分を剥いで体を起こし、伸びをして改めてこいつを見下ろす。

 夜中に見た時より肌つやが少しいいように見える。日差しの加減なのか、精神的なものなのか。同じく体を起こした彼女は、俺の視線に気づいて二つ瞬き、ごく自然にウィンクした。

 

「器用だな」

「でしょー。役者さんとかアイドルには敵わないけど」

「そりゃ、表情筋が商売道具だからな」

 

 いつか見た舞台の帰りに話していたことを思い出して応じた。

 にしても改めて見るとこいつの服装、大胆過ぎるな。上は3割くらい丸見えだし、脚どうなってんだよこれ。タオルどこ行った。

 俺の目線の先を追って彼女はぱっと手で遮り、軽く立てていた膝を倒した。

 

「朝は見ちゃだめ」

 

 …………はい。

 その言外の意図を深く考えないように、俺は視線を外す。

 

「……すまん」

「ほら、明るいところだと、良くも悪くも見え過ぎちゃうから」

 

 言い訳なのかフォローなのかよくわからない言い草に、どういう反応を期待しているのか迷ってしまう。

 

「気にするなら今度ストレッチとかマッサージでもしてみるか」

「うん。いいと思う、大事だもんね。もう運動する機会自分で作らないといけないし、ジョギングとかトレーニングもしないと」

「だな」

 

 とりあえず、小学校の体育の準備運動やラジオ体操辺りからでいいだろうか、とうろ覚えの記憶を辿っていると、彼女は隣で決心したように呟いた。

 

「……ちゃんと体力つけないとね」

「お互いにな……」

 

 座り仕事も立ち仕事も、結局は体が資本だ。健康なくして充実した生はない。

 こいつの視線からは別のニュアンスを感じたが、俺と目が合うと話を変えた。

 

「そういえば今日の予定って何か決まってる?」

「言った通り、ただ単に休みだよ。未定だ」

「そうなんだ」

「そっちこそ焦ってないみたいだが、いいのか」

「打ち合わせした分まではがんばって書いてから体調不良の連絡したから、ここ数か月は無職なの」

 

 えらくないことを堂々と言った彼女は、俺の返事がないので繰り返す。

 

「無職なの」

「聞こえてるって」

「フリーターより立場低いよ。無職だもん」

「仏の顔も三度なら凡人の俺も四度目は思う存分怒るからな」

 

 俺が呆れると、こいつはうふふふ、と口元を手で隠しながら笑い、それから胸の前で両手を合わせる。ちゃんと真面目な顔をしているのでその話はこれで打ち切った。

 それにしても、俺のコンプレックスを刺激するまいととことん気を遣われると、逆に落ち込んでしまう。俺の方こそ、こいつに見限られないうちに、また就活しないとな、と憂鬱な気分になってくる。お互い気軽に会いに行ける範囲となると限られてくるが、まぁ見繕っておいて損はないだろう。

 俺より先にベッドから出ようとしたこいつが、ひとの体の上でごろごろするという今までならあり得なかったスキンシップを経由して床に降り立ち、仕切り直すように伸びをした。

 

「朝ご飯どうしようか。材料言ってくれれば私作るよ。泊めてもらったお礼に」

「俺が作る気でいたんだが……」

「書けない作家は文字通り穀潰しなの」

「今までだって朝飯は俺が作ってたろ。朝の髪のお手入れしなさい」

「はーい。久々にお願いしちゃうね」

 

 彼女は素直に引いたので、俺もベッドから降り立つ。

 書いてくれよ、と俺がせっつくまでもなく、今夜にでもこいつはまた書き始められるだろう。書きたいことが見つかったなら、別名義で文体を変えながら勘を取り戻すのも悪くはないだろう。

 ふとサッシに目を向け、こいつの部屋のベランダと視界がオーバーラップする。

 

「家庭菜園でもして、第一次産業従事者の苦労のひとかけらでも味わってみるか?」

「残念。もう実家でそれやってます」

 

 土いじりは趣味ではなかったはずだが、と思ったが、それが夜中に言っていたメンタルケアなのだろうとすぐに想像がついた。観葉植物でもペットでも、何かを育てるのは精神の安定に効くという。季節の野菜なら成果が出るのも早く、育てた実感を得やすい。そして何より、食とは生の支えだ。

 こいつは思い出したように眉を寄せた。

 

「虫とか動物に横取りされると悔しいね。せっかく育てたのに」

「野生は食べ頃になったら早いもの勝ちだもんな」

「私は文明人でありたいのに」

 

 彼女は演技がかった口調で、いかにも自然から生まれ自然から切り離された傲慢で温室育ちの人類らしき物言いをした後、愁いを帯びた表情で俯いた。

 

「人間もそうなのかな」

 

 そういう話かよ。

 朝っぱらから何言ってんだよ、という突っ込みを呑み込んで、冷静に深呼吸する。

 性交渉はしばしば食事に例えられる。それは日本語圏に限らないらしいが、何も、飯の前にする話でもないだろうに。しかも、食べられちゃうかと思っちゃった、というやりとりの後に。

 

「娘がかわいいと親は心配だってか」

「うん。兄弟姉妹でもそうだけど」

「人間は植物じゃねえしな。警戒できるし回避も対策もできる」

「信用しなさすぎるのも駄目だし難しいよね」

 

 いつもならさらに話が長引くところだったが、俺がキッチンに視線を向けて返事を練っていたせいか、顔と頭洗ってくる、という言葉と共にこの話は放り投げられた。俺もついて行き、先に顔だけ洗わせてもらってから、朝食の支度に取り掛かる。

 炊飯器は正常に作動していた。昨夜考えておいた、ランチョンミートの缶詰とキャベツ、フリーズドライの野菜たっぷり味噌汁2パック、卵が残り1個、ついでにフルーツ缶を適当に見繕う。果物はどれが食いたいか、戻ってきたら相談して開けよう。

 お湯を沸かしながら、薄切りにした肉を表面がカリカリになる直前まで焼き色をつけ、別の皿に避けて肉の油でキャベツを炒めて水分を飛ばしていく。

 朝食を作りながら洗面所で聞こえる水の音に一瞬意識を持っていかれ、停まっていた時間が再開したような感覚を覚えた。

 文明的な距離感か。

 なるほど。

 ミニドライヤーの音が聞こえたので卵を投入し、かき混ぜながらニンジンかピーマンがあれば彩りがなぁとないものねだりをして肉を合流させる。

 

「あー、いいにおい!」

 

 戻ってきた彼女は後ろ頭をハーフアップにして、白いシュシュを巻いていた。髪形に気付いているか、このシュシュを覚えているかと二重に問いたげにこちらを見るこいつに、俺はあまり気の利いたことを言う気にならなかった。

 

「よく見つけたなそれ」

 

 俺はやかんとフライパンの火を止め、覚えてはいることを伝える。以前2人で買い物している最中に、こいつが自分で買っていたものだ。初めて俺の部屋に泊まりに来た日でもあるので、印象に残っている。その後しばらく使っていたが、店員さんに紺色と藤色のリボンを薦められて、どちらかなら買うと俺に選ばせ、紺を買ってから白いシュシュはすっかり見なくなっていた。てっきりマイブームが去って飽きたか趣味が変わって売ったかと思っていたが、物持ちはいいらしい。

 こいつは悪戯っぽく笑った。

 

「キミの部屋にずっとあったんだよ。私が前にしまった場所にそのままあったの」

「勝手に……」

 

 どこにしまっていたのやら。置き忘れでないならすぐには気付けない。普段使わない場所なら隠されても盗まれてもわからない。一歩間違えれば信頼関係を損ないかねないが、まぁ、先に自分の部屋に俺を招いたこいつが俺の部屋で何かやらかすとも思わない。

 ただ、俺の部屋には、俺自身も気づいていないうちにこいつが占有している場所がずっとあった、という事実が喜劇的で、俺はため息をついた。

 

「引越しの時に気付かなかったらどうすんだよ」

「それは大丈夫だよ。絶対新居でも一緒だから」

「それはそれで大丈夫じゃねえだろ……」

 

 たわいないやりとりをしながら、朝食を卓袱台に並べる。

 炊き立て白米、スパキャベ卵炒め、野菜味噌汁、桃とパインのフルーツミックス。牛乳と麦茶のどちらがいいか聞き、今日は2人とも麦茶を選んだ。

 いただきます、と手を合わせ、おいしいだのそりゃよかっただの、懐かしいやりとりをした後、しばらく箸を動かすことに集中する。4割ほど進んで落ち着いてくると、彼女は食卓に視線を落として言った。

 

「やっぱり同じもの一緒に食べるのっていいよね。昨日はキミと別々だったし」

「そりゃ、予定になかったからな」

「今後は準備よろしくね。私も用意しておくから」

「大人しく手土産持参のままにしとこうぜ。計画的な食糧消費って真面目に考えるとダルいぞ」

「えー。じゃあ当分は、はーい」

 

 なんだよ当分はって、と聞こうか迷ったがやめておいた。話の流れで同棲の提案でもされたら返事に困るだけだったし、まさにそのつもりで俺が指摘するのを待っているらしいこいつの様子見の表情もなんとなく気に入らなかった。

 俺の方こそ当分は、まだこの距離感でいいのだ。いきなり近づきすぎても、窮屈になるだけだ。

 味噌汁の椀に口をつけて沈黙をごまかすにも限界が来て、心のリハビリというフレーズが思い浮かんだ。

 

「前みたいに、何食いたいか事前に連絡してもらえれば、こっちで買ってから行くなり足りないものを伝えるなり、できるしな」

「ミートソース作るのにトマト缶がないみたいな?」

 

 口に物が入っているので、無言で頷く。

 

「そうだよね。その辺りはどっちにしてもそうだよね」

 

 その『どっちにしても』の『どっち』はおそらく、泊まりに行き来する前までの生活か、今後の同居生活かなのだろう。

 こいつはそれ以上その話題を広げるつもりもないのか、口を咀嚼するために動かし始める。先程の示唆は、話の流れで言質を取りたかったのではなく、あくまで俺に今後を意識させたかったのだろう。文脈さえあれば日常的な思考回路は、互いにトレースできてしまうから。

 そうやって信頼して省略し過ぎたせいで、危うく縁を切るところだったんだけどな、と俺が冷淡に自分を戒めていると、彼女は箸で切り取っていた肉の縁のカリカリ部分だけをしばらく楽しんで飲み込み、小さく唸る。

 

「お礼はどうしよっかな。今度私の部屋にご招待?」

「つまり今まで通りか」

「じゃあ私の実家に着いてくる? いいよ。食べたら行く?」

 

 こいつはカモンカモーンと陽気に手招きする。その様子を見ていると、あんまり浮かれるようじゃ何のために先延ばしにしたのかわからなくなってくるな、とつい気後れしてしまう。

 いつだったか、こいつの部屋で2人してダラダラしている最中に、ご両親が抜き打ちで訪れて、親しい友人として紹介されて挨拶したことがあった。あの時は、やましいことは一切なかったのでさほど肝は冷えなかったが、さすがに今日、娘を数か月寝込ませた男としてこのタイミングで挨拶しに行くのは御免こうむりたかった。少なくとも、再会して泊めた翌日に露骨にご機嫌のこいつと共に行くのは、完全に説教と責任追及コースだ。俺の自己否定感のせいで大切な娘さんをひどく傷つけてしまった以上、そこを叱られる分には仰る通りと土下座も辞さないが、ショットガンを突き付けられる覚えもなければ正式に付き合ってもいないのに外堀を埋められそうになるのは、釈然としない。いつかは行く機会があるとしても、少なくとも今日ではないだろう。

 

「今まで通りじゃねぇな。やっぱり、変わったな」

 

 自分が女であることを露骨にちらつかせるような真似、以前なら絶対にしなかった。それもこれも、俺が恋人なんて単語を持ち出して無意味に混乱させてしまったせいなのだろう。

 こいつはそれについて、もはやどうとも思っていないかのように自然な口調で答える。

 

「特別扱いなのは変わってないよ。特別の枠組みが変わっただけで」

 

 ……やはり、変な方に腹を括らせてしまったのは確かなようだった。俺はそれが申し訳なかったし、その覚悟にいつ応える決心がつくのか、自分では推し量れる気がしなかった。少なくとも、彼女のこの浮かれ気分が小説に反映されてシリーズ続編としての雰囲気が変わるようなら、俺は再び距離感を改めなければならない。あまり彼女を苦しめたくはないが、プロが信頼を失ったら終わりである以上、俺がどうにか納得させないわけにはいかない。

 自分を許すことと開き直ることの違いを考えていると、こいつは俺の背中を叩く直前のような眼をして、微かに唇を噛んだ。

 

「……ほら、友達のままじゃできないことってあるから」

 

 その意味深な表情に、俺は即座に答えあぐねる。

 朝飯の最中に急にしんみりしたかと思ったら何をこいつは、というこちらの思考を読んだのか、彼女は笑いをこらえて訂正する。

 

「別に、粘膜接触だけの話じゃないよ」

 

 その表現はそれはそれでやめろ、と視線で咎めると、こいつは笑いを引っ込めた。俺も、何を言いたいのかはわかっていた。

 

「約束とかだろ」

「うん」

 

 こいつは昨夜、俺が他の女になびくことをやけに恐れていた。俺にしてみれば杞憂ではあるが、友達のままでは引き留める権利がないと彼女が考えたとしたら、それはご尤もだ。嫉妬も独占も、友達でいる間は許されないのだから。

 

「そういう意味では、私の方こそ認識不足だったなって思ってね」

 

 反省している口ぶりだったが、俺は彼女の元々の認識を知らないので、何とも言い難かった。

 考えてみれば、女友達の前でわざわざあげないよーと冗談めかして言ったり、毎週どちらかの部屋にお泊まりしてるとアピールするのは、周囲への認識操作であって、俺たち二人の間で完結する関係性や互いの認識とは一切関係がない、と言えないこともなかった。付き合っていないだけでいずれ結婚するであろうカップルなのか、ただどちらかが恋愛や性愛に目覚めるまでの間共にいるだけの時限爆弾のような友情なのか、それは、原子崩壊を検知して作動する電流装置と放射性元素と一緒に箱に閉じ込められた猫の生死のように、蓋を開けてみるまではわからない。

 俺は最初からデートじゃないと念を押されていたし、こいつが俺を消去法で残しているだけとわかっていた。だからこの美人が飽きるまでの暇潰しなんだと思っていたし、いろいろ散歩したり作家だと知ったりしてからはなおさら、彼女を手に入れようと思えなかった。だがこいつにとっては、俺が一緒にいるうちにその気になってもアウト、他の誰かを好きになってもアウト、というダブルバインドに陥る。

 男と女が、誰とも恋に落ちず結婚もせず、いつまでも友人のまま一緒にいられるかという永遠の答えは、わかる気がしない。だがいつでも手を伸ばせば届く相手がいて、いつ誰が割り込んでくるかわからないなら、自分一人呪われたくないと思うのは、きっと本能だろう。

 大人しく身を引いたところで、泣いて死んで淘汰されて、100年後には誰の記憶にも痕跡にも残らずに、生まれて来なかったことになるだけだ。誰だってそんなのは御免だろう。いくら小説でミームを広く残せても、読み継がれなければおしまいだ。

 

「その辺は、俺が先にぶち壊そうとしちまったんだ。そっちが気に病む筋合いはない」

 

 俺の声は相当露骨に落ち込んだらしく、彼女ははっきり明るい声に戻って念を押してきた。

 

「ならキミも、これ以上この件は引きずらないこと。いい?」

 

 俺はためらいがちに頷く。

 

「……善処する」

「善処してね。これ以降引きずったらすごいちゅーするからね」

 

 こいつは半笑いで唇を尖らせた。俺は軽くむせて、タンブラーの麦茶を半分ほど呷って息を整える。

 

「…………すごいのはまだ困るな」

「んふふふ、そっか。まだ困っちゃうか。じゃあ切り替えてね。ずーっとむすっとしてさ~もう……」

 

 その屈託のない笑顔に、何というか本当に、頭が上がらないと思い知らされる。こうも完全に掌の上だと、こいつが心底善良でよかったと感謝せずにいられない。

 そういうところは、一切変わっていないようで安心した。

 

「…………とりあえず、今日はどうしようかね」

「いいよーお出かけでもゴロゴロでも。一緒だから」

 

 彼女は幸せそうに桃を口に入れ、俺の返事を待っている。俺は揃いの箸置きを見つめ、何も決めずに口を開く。言葉は自然と出てきた。

 

「んじゃ、ネタ探しにその辺散歩でもするか」

「わかった。……昨日と同じ服で外出ってちょっと懐かしい感じ」

「一旦部屋寄るか?」

「大丈夫。そうだ、服買いに行く? せっかくだしキミの分も」

「それはいいが、かさばるから散歩の後の方が助かるな」

「じゃあ決まりね」

 

 たわいないやりとりが落ち着き、まだ少し残っている料理を食べている最中ふと、寝る前にこいつが閃いた理由がわかった気がした。

 結局のところ、ただ頭で考えていても感情に結論は出ないのだろう。そこはただの出発点で、自分の外にある何かの刺激を絶えず受けて、考える方向性を変え続けることでしか、どこにも辿り着けない。独りで考えを深めても、同じところを回り続けていずれ力尽きる。

 俺がこいつをこうも変えてしまったように、こいつもいつか俺を変えてしまう。そんな予感にも確信にも似た気付きがあった。

 俺自身がそれを受け入れられるなら、きっとこいつとの関係は悪いようにはならないだろう。

 彼女はにやにやともにこにことも言い難い笑みを浮かべる。

 

「昨日から思ってたけどさ。ずっと私に見惚れてるでしょ、キミ」

「変わったものと変わらないものを見てた」

 

 肯定するのが癪で、俺は迂遠な返事をする。こいつは自分の頬を撫で、くにくにと皮膚を動かして見せた。

 

「そうだね。ハリとかツヤが戻っても、いつかはシミとかシワとかできちゃうんだよね。気をつけないと」

「今から気をつけておくのはいいことだ」

 

 こいつは返事の代わりに、口元を隠して含み笑いをした。今から老けた後のことを考えるのは、まぁ、髪と肌が荒れれば思うところも出てくるだろう。他意は今は気にしないことにした。

 ごちそうさまでした、と手を合わせて声を揃え、お粗末さまでした、と俺が続ける。なんとなくこの、呼吸を合わせたりフェイントを仕掛けたりしていた日々が帰ってきたことを実感してしまった。

 こいつは麦茶の瓶を冷蔵庫にしまった後、緩んだような甘えるような、気の抜けた声色で言い出した。

 

「ほんとはこうやって毎朝一緒に食べられたらなー」

 

 毎朝一緒ということは、毎晩一緒ということでもある。俺だって今更反対はしないが、精神的にも社会的にも、そしておそらく身体的にも、猶予が欲しいところだった。

 

「それは様々な今後の課題をクリアした後だな」

「たとえば」

「俺がちゃんと就職して生活リズムを安定させるとか」

「就職かぁ……私は家事やってほしいんだけど」

 

 気が早い、とはもはや言う必要もなくなっていた。同時に、こいつが俺の就職活動休止に何も言わなかった理由も腑に落ちる。

 俺が見限られる言質を取ることばかり考えている間に、こいつはどこまで考えていたのだろうか。

 主夫なんて考えてもみなかったし、こいつがそれでいいにしても、俺は自分の生活費ぐらいは稼いでおきたかった。

 

「金銭面だって、頼りにはしたいが甘えるわけにもいかないからな。最低限、2人分の食費と保険料と遊興費ぐらいは稼がないと俺の立場がない」

 

 家事と言われたので譲歩してはみせたが、プライド云々はさておき、印税なんていつ途切れるかわからない以上あまりあてにもできない。それは彼女も織り込み済みのようで、やけに嬉しそうに食器を流しに運んでいく。

 

「じゃあ、今後の課題だね。できればパートとか在宅とか、残業無しのところだとありがたいけど」

「俺の無駄に取った資格が活きる仕事があればな」

 

 俺も自分の使った食器を下げていく。就職活動したくねぇなぁ、というぼやきが伝わってしまったらしく、こいつは無言で俺の背中を優しく、ぽんぽんと叩き、反対の手で親指を立てて見せた。

 

「努力まで卑下しなくていいんだよ」

「……そうだな」

「ん。ネガティブに考えるとコンコルド効果だけど、ポジティブに考えると継続は力なりだからね」

「何に対する励ましなんだよ……うまいこと言おうとしてネガティブな言い換え挟んでるせいで論点わかりづらいぞ」

「えーそうかなー」

「わかるけど直感的ではないだろ……」

 

 せっかくのいい励ましがうやむやになってしまったが、これもこいつにとっては計算のうちなのかもしれなかった。

 何にせよ、いつまでも学生気分を引きずってはいられない。

 スポンジを取られてしまったので、洗い物を任せて卓袱台を脇に寄せ、ベッドにもたれかかる。

 ぼんやりと心を落ち着けていると、流しの方から水音と共に声が飛んでくる。

 

「今更だけどさ。卒業旅行のリベンジ、どこ行きたいか考えておいてね」

「行きたいところはいくつかあるけど、俺はそんなに金ないんだよ」

「ふ~ん。ちなみにどこ?」

「ルーブルと大英」

「おお~。パリとロンドンかぁ。どっちも数日がかりでじっくり見てみたいよね。パスポートの用意と予約しなきゃね」

「だからその辺も含めて、当分先だな」

「あんまり延ばすのはちょっとね……。国内ならどこ?」

「科博……は記念に行くには記憶に新しいしな……。雪の時期に銀山はどうだ」

「あ~、温泉ね。夜景がすごく綺麗なんだよね、あそこ。写真でしか見たことないから私も行ってみたい」

「まぁそれも冬だからかなり先にはなるんだが」

「そうだね……。そっちは予算とか予約待ちとか考えるといいタイミングかも」

「俺の希望はともかく、そっちは元々どこに行きたかったんだよ」

「願望だけで言うと自然遺産巡りかな。願望だけで言うと」

「おぉ……! スケールがでかいな」

「いいでしょー。……まぁお仕事優先なんだけど」

「待たれてるうちが花だからな。そりゃそうだ」

 

 話している間に洗い終わったらしく、彼女は手を拭きながら決意表明する。

 

「うん。ちゃんとファンの期待には応えるよ」

「えらい」

「えらいでしょ。崇め奉っていいよ」

「なむ」

 

 彼女の筆の速さが蘇ることを俺は心から祈った。

 それから着替えやら天気予報の確認やらトイレやら姿見確認やらを済ませ、玄関で合流する。

 手ぶらのこいつに忘れ物はないか問うと、ない、と返ってくる。そう言い張ってはいるが、さっきこいつが俺の枕の下に、昨夜買った小さな箱を隠したのを、ちゃんと知っている。大方、勢いで色々言って恥ずかしくなって、買ったことを意識したくないから持っててくれとか後で言い出す算段なのだろう。俺はそこまでわかった上で、気付かないふりをすることにした。どの道こいつが今書いているシリーズの完結が見えるまで、封を切る機会はないだろうから。

 

「それじゃあ行くか」

「行こう行こーう、れっつごー」

 

 やけにテンションの高いこいつは紺の落ち着いたミュールを履き、俺は紺のウォーキングシューズを引っ張り出した。

 そういえば今年は、こいつの誕生日をまだ2人で祝っていなかった。詫びの品も兼ねて、何か小物でも買って渡すか、と思いつく。多分それで、俺も少しは引きずらなくなるだろう。

 傾向で言えば、シュシュやリボンのような、身に着けられる輪っかが好きそうな気がした。ヘアアクセは既にあって、イヤリングやネックレスは実家に腐るほどあると言っていた。手首に着けるようなものは袖で隠れる上に、材質次第ではキーを打つ邪魔になるだろう。何ならいいかわからないが、予算を相談しながら本人にサイズやデザインを選んでもらえば間違いはないだろう。

 手と指に向かっていた視線に気づいたらしく、彼女は俺の名前を呼びかけ、履き終えた俺にその手を差し出してくる。

 

「泊めてくれてありがとね」

 

 俺はその手を握り、立ち上がって今度はこちらから指を絡める。彼女が笑顔で目を丸くするのを見て、自分でも驚くほど素直に笑えた。

 

「こちらこそ、来てくれてありがとな」


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