▽前回のあらすじ
屋上を包囲されたキッドは、閃光弾と共に煙のように姿を消す。コナンは残された次なる予告状を手に打倒を誓うが、キッドの正体は警官にすり替わった快斗自身だった。コナンのブレない真実の目を見た快斗は、彼が世界の闇を暴く器か試すべく、丸い月に花梨への誓いを立てる。
第235話
ヒロの作ったビーフシチューが食べたいです。
◇
時は、七月前半――。
コナンとキッドが初めて対峙し、鈴木財閥六十周年記念船上パーティーに予告状が出されたのは、つい最近のことだ。
そんなことを知らない花梨は、ここ数日、考えてきたことをヒロに話すことにした。
「ねえ、ヒロお兄ちゃん」
「うん?」
「この間、元の姿に戻ったじゃない?」
「……そうだね。突然でびっくりしたよ……」
(本当、心臓に悪かったよね、あれは……花梨ちゃん、綺麗すぎて……。いや、もちろん今の小さい花梨も可愛いんだけど……)
少しだけ、ドキリとして、ヒロは夕食を作る手を止めた。
今日は花梨や快斗に好評だった、得意料理のビーフシチューだ。
隣でギプスをはめているというのに、ビニール手袋をして、ニンジンの皮をピーラーでむく花梨を見下ろし、目元を緩める。
「あのね、実は私、ジンさんのところでも一時的に元の姿に戻ったことがあるかもしれないの……」
「え……!?」
「あのときは、意識が朦朧としてて、あんまり覚えていないんだけど……ちょっと戻ってすぐ、またこうなっちゃった気がする……」
猫模様のエプロンを身に着けた、三角巾姿の花梨。今度はジャガイモの皮むきに取りかかっている。
「……それはつまり、何か法則があって、体が戻るということかな……?」
「……わからない。でも、もしかしたらそうなのかも。それで、ね」
「うん」
花梨は手を止めて、小さく息をついてから告げた。
「……お友達に会いに行こうかなって思って」
「友達に……? それは誰、かな?」
易々と花梨を誰かに会わせるわけにはいかない。
稀華の脅威は去り、今のところ問題ないはずだが、花梨は組織にいた。どこに組織の目があるかわからないのだから。
「あ、今の私と同じくらいの男の子だよ。江戸川コナンくんっていうの。帝丹小学校の一年生」
「江戸川コナン? ああ……ひょっとして、眼鏡をかけた利発そうな子? ほら、蝶ネクタイをした」
(ゴルフボール事件のとき……米花公園で見かけた少年かな……?)
花梨が襲われた米花公園で、見かけた小さな男の子。
ヒロはあの日、ポアロで快斗と別れたあと、セーフハウスに戻る予定だった。だが、伊達から連絡が入り、花梨についていた権堂が警察へ事情説明に向かうことを知ると、ヒロは自然と花梨の警護についた。
公園にやってきたヒロが見たのは、真っ青な顔をした花梨と、隣に寄り添う快斗、そして、公園から出ようとする探偵の毛利小五郎、その横を歩く少年――コナンの姿だった。
「ヒロお兄ちゃん、コナンくんのこと知ってるの? 私のこと気に入ってくれて、懐いてくれた男の子なの。その子ね、すっごく頭がよくって。新ちゃんとも仲が良いんだって。新ちゃん、今忙しくて連絡が取れないんだけど、コナンくんとはたまに連絡取り合ってるみたい。だから彼経由で新ちゃんと繋がれたら、何か気づいてもらえるかなって思って」
本当は、同じ立場だから、何か知っているのではと思っただけなのだが、新一の正体を、無断でヒロにばらすわけにはいかない。
花梨は、工藤新一と繋げる媒介として、コナンの名を口にしたのだった。
(新ちゃんから許可をもらったら、ヒロお兄ちゃんに話すね……!)
……だから、今は心苦しいけれど黙っていることを許して欲しい。
話し終えると花梨は皮むきを再開する。
「なるほど……工藤新一君ね。日本警察の救世主……か。そういや幼なじみだって言ってたね」
「うん。私と新ちゃん、生まれた病院が一緒なの。あ、お誕生日は全然違うんだけどね。私のお母さんと、新ちゃんのお母さんが仲が良くて」
「そうか……長い付き合いなんだね」
「あ、んーと、そうでもないかなぁ。私、五歳から引っ越してばっかりだったから、中学三年生でこっちに戻るまで、新ちゃんとは会ってなかったよ」
花梨は、母が亡くなって四十九日を終え、父とともに米花町を離れた。
妻の四十九日を終えるまで、仕事が忙しく、さらに実家とも疎遠だった朔太郎は、幼い花梨の預け先に困り、有希子の厚意で工藤家に預けられることになった。そのとき新一と寝食をともにし、仲良くなった。
だが、別れは突然やってきて、悲しかったことをまだ覚えている。
中三で再会したときの、新一のあの驚いた顔も、忘れられない思い出だ。
「ああ……そういえばそうだったね……花梨ちゃんのお母さんもだけど……朔太郎さんは……残念だったね……」
(亡くなったとき、まだ三十一だったって聞いて、娘さんもいるのにって……辛かったな……)
花梨の父もすでに他界――。
工藤家に花梨を預けていた間に、朔太郎は警視庁から警察庁へ異動し、その後も転属願いを繰り返して全国を渡り歩き、ついには警察を辞めて私立探偵になった。
私立探偵では、稼ぎもそう多くなく、警察学校の食堂で一時期アルバイトをしていた。
そのときヒロたち同期組は朔太郎と会っているのだ。
「うん……あれ? ヒロお兄ちゃん、お父さんのこと知ってるの?」
「ん? あ、ああ。朔太郎さんは、警察学校の食堂でアルバイトをしていたからね。そのときに少し話したことがあるよ。気さくな人で、花梨ちゃんの話をよくしていたよ。よくできた娘だって」
見せてもらった写真の花梨は今とは違い黒髪で、少し痩せすぎな気もしたが、愛らしかった。
ヒロは朔太郎の葬式にも降谷たちと参列し、そのとき、黒い髪の花梨の姿を遠目に見ていた。
「へ……? お、お父さんが娘自慢? うそ……」
「嘘じゃないよ。スマホの待ち受けに君の写真を設定していたし、『少しでも多く稼いで、仕送りしてやらないと』って言ってたよ」
「そんな……」
「不器用な人だったけど、君の話をするときの朔太郎さんは、本当に優しい父親の目をしていたんだ。だから、自分を責める必要なんてないんだよ」
(だって、お父さん、私のこと恨んでたんじゃ……?)
ヒロの言葉に花梨の手が震える。
父が、そんなことを言っていたなんて、初耳だ。
「花梨ちゃん……?」
「…………私、お父さんには愛されてないと思ってました。お母さんが亡くなったとき、近くにいたくせに何もできなかったから仕方ないって……はっきりは覚えてないけど……」
当時、雪音の死を目撃したらしい花梨に朔太郎は迫り、何があったか問い詰めてきた。肩に食い込む大きな手、激しく前後に脳を揺さぶられる感覚。父の必死な形相が今でも目に焼き付いている。
けれど花梨は、雪音の死の瞬間を何も覚えていない……。
医者が言うにはショックで一時的な記憶障害だと診断され、戻るとも、戻らないとも言われていた。
現在も思い出せていないが、遺体を見ると反応するということは、そこに何か、自分でも思い出せないほどの傷が残っているのだろうとは感じている。
そうして、雪音が亡くなってからというもの、朔太郎は花梨に対して冷たくなった。
そっけない態度で、いつもどこか距離を置くように接していて、留守が多く、幼い花梨は日中一人で過ごすことが多かった。
だから、愛されていないのだと思っていた。
「花梨……」
「でも……全部違った」
「……違った?」
「お父さんも、お母さんも、私が白神子にならないようにって、隠してくれてたんです……。男の子の格好をさせたのも、白河を欺くための……策だった。お父さんが私を伯母さんに預けたまま、あまり帰って来なかったのも、たぶん、それも理由の一つだったんだと思う……。私、両親にちゃんと愛されてたんですね……」
確かに父はいつもそばにいなくて、話す機会は少なかったと思う。
「男の子の格好は続けなさい」とは言っていたけれど、それも途中から言わなくなった。
今思い返してみると、久しぶりに会ったとき父は、いつもお土産を持参してきて、一緒に食事を摂ってくれたり、できる限りのことはしてくれたような気がする。
『花梨……そばにいてやれなくてごめんな』
一度だけ言われたことがあった。申し訳なさそうに父は笑っていた。
仕事が忙しいのだからしょうがない。愛されていないのだからしょうがない。お父さんが元気ならそれでいい。そう思っていた。
だが、実際は違ったのかもしれない。
組織で聞いた話が本当なら、父が自分のそばにいることで、“白河”の追っ手に見つかってしまうと思ったから離れていた――のかもしれない。
「…………ああ」
「……っ、でもっ、私が望んだのは、そばにいてくれること……それだけ……親子なんだもの、一緒に過ごしてほしかった……」
「そう……だね。花梨ちゃんからしたら、そうだよ」
素直な気持ちを吐露する花梨に、ヒロは優しく頭を撫でる。
「……ぅぅ……。今度、お墓参りに行ったら、文句を言おうと思います。『どうして教えてくれなかったの?』って」
花梨は瞳に涙を溜め、ぷぅっと頬を膨らませた。
「ふふ、いいと思うよ。君は、朔太郎さんの子どもなのだから。言いたいことは言わないとね。口に出さないと伝わらないこともあるから」
「うん……。私は……その、悪いことは言えないんだけどね……」
口に出す言葉はきちんと選ばないと、災いとなってしまうこともある。
……母の声が、今でも耳の奥に残っている。
生前の母が、『何か視えても決して口にしちゃいけないのよ。それがこの世の理だから』と口酸っぱく言っていたのは、自分が“白神子”で、口にした言葉が、現実を変えてしまうことがあるから。
花梨が俯くと、ヒロが心配そうな顔でしゃがみ込み、視線を合わせた。
ヒロは花梨が“言霊”という異能を扱うことを知らなかった。
「悪いこと? どうしてだい? 愚痴くらい、俺聞くよ?」
花梨の愚痴くらい、喜んで聞くよ。
そう言わんばかりに、ヒロの瞳は優しかった。
「ありがとう……ヒロお兄ちゃん。でも、私はね、普通の人とは違うんだ」
その一言が、ヒロの胸に重く響いた。
“言霊”という能力を知らなくても、花梨に助けられたヒロにはわかるのだ。
……黙り込んでしまった。
「…………」
「……私が言ったことは、神さまに届きやすいみたい。だから、いいことしか言わないようにしてるの」
「神様に届きやすい……? どういうこと……? あ、話してくれるなら、聞く。けど、無理に話さなくてもいいよ」
無理には訊かない。
ヒロにとって花梨は、誰よりも尊い“女神”だ。
彼女を悩ませることなどしたくはない。
「うん……じゃあ、またいつか話すね。そのときは、聞いてくれる?」
「ああ、君が話してくれるときを待つよ。じゃあ、コナン君だっけ? 明日、彼に会いに行ってみようか」
「うんっ!」
二人は調理を再開し、かつて快斗も絶賛した美味しいビーフシチューを囲んで、穏やかな時間を過ごした。
明日は、新一に会いに行く――。
花梨は少しだけ緊張して、ドキドキしながら、その日は、久しぶりに快斗を想って涙を流すことなく眠りについた。