▽前回のあらすじ
花梨は、自室のクローゼットでも祖母の深い愛を感じつつ、不要になった遺書のデータを消去して前を向く。ヒロの家に持っていく荷物として、リビングに持ってきたものは……。
第245話
証とは。
花梨が抱えて持ってきたのは、真っ白で大きな、ウサギのぬいぐるみだった。
「あ、もういいのか、い…………くっ!」
自室のドアからトテトテと現れた花梨を見た瞬間、ヒロの思考が強制終了した。心の底から「可愛い……!」という叫びが漏れそうになり、それを必死に噛み殺す。
「これだけでいいよ。抱き枕なんだ~……って、ヒロお兄ちゃん、どうしたの?」
「いやっ……可愛い子が可愛いものを持つと、こんな破壊力になるのかと驚いただけだよ」
あまりの“可愛さの暴力”に、ヒロは本気で顔を青ざめさせた。
(ここに来るまでの道中、やけに周囲の視線を集めるなとは思っていたけれど……花梨ちゃん。君、こんなに可愛いんじゃ、とてもじゃないが一人で街を歩かせられないな……)
過去に彼女が経験した数々の誘拐事件が、ヒロの脳裏をよぎる。白神子としての能力や血筋を抜きにしても、この容姿だけで悪い大人が寄ってくるのではないかと、公安としての危機管理能力が全力で警報を鳴らしていた。
黙っていれば、繊細なガラス細工かビスクドールのような儚い美しさ。
けれど実際は表情がくるくると豊かに変わり、よく動き、ひまわりのように笑う。
その魅力に、本人だけがこれっぽっちも自覚がないのが、一番の困りものである。
「……困ったなぁ……」
「なにが?」
「……ねえ、花梨ちゃん。少し顔を隠すために、帽子を被っていこうか。お部屋に帽子はあるかな?」
「帽子? うん、いくつかあるよ。取ってくるね!」
「うん、待ってるよ」
花梨は再び自室へ走り、クローゼットから帽子を持ち出して頭に乗せた。
だが、それは十六歳の花梨に合わせたサイズ。
「ちょっと、大きいけど……」
つばが完全に下がってしまい、花梨の綺麗な金色の瞳がすっぽりと隠れてしまう。顔が半分も見えない状態だ。
「……うん、帰りに帽子屋に寄っていこう。あと、船上パーティーに着ていくドレスも買わないとね」
「はーい!」
花梨とヒロは名残惜しそうに一度部屋を振り返ると、今度こそマンションを後にした。
身体が小さくなった花梨に合わせるように、歩幅を狭めて歩くヒロ。二人はそのまま電車に揺られ、華やかなデパートへと向かう。
……二人がマンションを後にした、わずか三十分後のことだった。
◇
「……花梨……。帰って来てねぇか……」
放課後のチャイムが鳴ると同時に江古田高校を飛び出し、一目散に花梨のマンションへとやって来た快斗は、主を失ったままの七階の部屋を見上げて、ぽつりとため息をついた。
(この前、ベランダから覗いたときは……特に変わった様子はなかった。今日も、変わんねぇのかな……)
地上から見上げるだけでは、当然ながら室内の微細な様子まではわからない。
快斗は周囲を油断なく見回すと、防犯カメラの死角となるマンションの影へと滑り込んだ。一瞬にしてキッドの姿へと変わり、音もなく屋上へと侵入する。
「真っ昼間に忍び込むっつーのも、我ながら大胆だな……よっ、と」
夏の風を捕らえ、花梨の部屋のベランダへと音もなく降り立つ。
「下からは見えねえけど、カーテン開けっ放しなんて、不用心だよなぁ……。あいつ、本当、危なっかしくて放っておけねえわ……フッ。まあ、おかげで部屋の中の様子がわかるからありがてぇけどさ……」
本当なら、今すぐにでも鍵を破って中に飛び込み、彼女の手がかりを隅々まで調べ上げたい。
けれど、この高級マンションはセキュリティの塊だ。万が一にも警報が鳴り響けば厄介なことになる。
(それに……鍵なんか壊して、戻って来た花梨を困らせたくねぇしな……)
いつだって最優先されるのは、彼女の平穏だ。快斗はガラス窓に顔を近づけ、リビングの様子を注意深く覗き込んだ。
「……ん?」
静まり返ったリビング。誰もいない空間は、確かに前回来たときと何一つ変わっていないように見える。
見える、はずなのに。
「なんだ……? 気のせいか……? ……いや、とりあえず写真に撮っとくか」
胸の奥に引っかかる妙な違和感。すぐには正体を見抜けないまま、それでも己の直感を信じ、快斗は懐から小型カメラを取り出すと、ガラス越しに室内の写真を何枚か収めた。後で家でじっくり確認するつもりだった。
「花梨の部屋はどうかな……」
次はリビングの隣にある、花梨のプライベートルームだ。快斗はベランダをすっと横に移動し、彼女の自室の窓を覗き込む。
「やっぱ、いねーか。いつも通り…………っ!!?」
その瞬間、快斗は息を呑み、ブルーグレーの瞳を見開いた。頭の中を、花梨と交わしたやり取りの記憶が駆け巡る。
……あれは、何度目かの家デートでのことだった。
『……なあ、花梨。お前の部屋ってぬいぐるみ、いっぱいあるよな~』
『うん。ぬいぐるみ、好きなんだ~。好きなもの、少しずつ増やしてたらこんなにいっぱいになっちゃった』
ベッドの上で寝転がりながら、快斗は棚の上に並べられた動物の大小さまざまなぬいぐるみを見つめていた。いくつあるのだろうか……数えてみると、六つあった。ベッドの上にも大きなウサギのぬいぐるみが一つ。
花梨の好きなものは“ぬいぐるみ”……。
ふむふむ、と彼女の好みを一つ知れた快斗の唇の端が、嬉しそうに上がっていた。
『そっか。好きなものが増えてくのって嬉しいよな』
『うんっ。でも、置く場所がどんどんなくなってくから、最近買うのやめたの』
……今度小さいぬいぐるみでも贈ろうか、なんて考えた快斗だったが、花梨の一言でそれが叶わなくなってしまった。
『えー、いいじゃん、まだ七つだろ?』
プレゼントしてやりたいんだけど――と、頬杖をつきながら唇を尖らせると、花梨はベッドの端に置いてあったウサギのぬいぐるみを手にして「はい」と快斗に手渡した。
『このウサギのぬいぐるみ……でかいよな』
……実は、ずっと気になってたんだよな――と、快斗はぬいぐるみを抱きしめる。
それは大きく、ふわふわと柔らかい。匂いを嗅ぐと、花梨のいい香りがした。
『ふふっ♡ 抱き枕だよ。ウサちゃんを抱っこしてると、ぐっすり眠れるんだ~』
『……ホントだ! このウサギのぬいぐるみ、めちゃくちゃ肌触りいいな!』
滑らかな肌触りのそれ。しかも花梨の匂いがして、抱き心地がいい。
これがあれば、花梨のいない夜もぐっすり眠れる気がする。
運動後の疲れもあってか、快斗の瞼が閉じかけると、花梨がにこにこと微笑みかけた。
『でしょ♪ 快斗が欲しいならあげるよ?』
『……は? いや、別にいらねぇよ? 花梨のお気に入りなんだろ?』
『うん。でも、快斗が気に入ったんだったら、あげようかなって思って……』
なぜ、急に譲ろうとしたのだろうか。快斗には花梨が何を考えて言っているのか、わからなかった。
もともと、物に執着しない彼女だ。今にして思えば、彼女は、自分が行方不明になることを知っていたからなのかもしれない。
『ばーろっ、オレが抱き枕抱いて寝てたらおかしいだろうが! っつーか、お前抱いて寝るから、オレにウサちゃんは要らねえの!』
『っ、も~! 快斗ってば、そんなことばっかり言って~』
快斗はウサギのぬいぐるみを元の位置へ戻し、頬を赤く染めて、困ったように眉を下げる花梨を抱きしめたのだった。
(あの、ウサギのぬいぐるみがねえ……)
いつもベッドの上に鎮座していたはずの、あの大きな白ウサギのぬいぐるみが、影も形もなく消え失せている。
「花梨っ!?」
ダンッ! と、堪らず拳で窓を叩いた。
だが、部屋の中に彼女の姿がないのは一目瞭然だ。
(待て、落ち着け……!)
荒くなる呼吸を必死に整え、快斗は先ほど手元のカメラで撮影したリビングの画像を表示させた。液晶画面を限界まで拡大し、じっと凝視する。
(……カウンターの椅子の位置がズレてる。それだけじゃねぇ……カウンターの端にぽつんと置かれてた、鈴木園子からの封筒がなくなってやがる……!)
快斗は弾かれたように再びリビング側の窓へと移動し、懐から双眼鏡を取り出してガラス越しにカウンターを凝視した。
……園子からの封筒。
それは、差出人の名前が書かれた裏面がこちらを向いていたからこそ、鮮明に記憶に残っていたのだ。でかでかと力強い筆跡で書かれた『待ってるわよ!』の一言と、『鈴木園子♡』の署名。この時期に園子が花梨に送る手紙――となれば、それはつまり、明日開催される鈴木財閥の船上パーティーへの招待状に違いない。
じっとレンズを覗き込むが、やはりカウンターテーブルの上からあの封筒は消え去っている。
それどころか、わずかではあるが、前回見たときとは明らかに椅子の配置が変わっていた。ついさっきまで、誰かがそこに座っていたかのように――。
「花梨……か? いや、あいつは今、囚われの身のはず……。けど、ひょっとしたら……明日……」
明日になれば、何か動きがあって花梨に会えるかもしれない。
五月の末に自分の目の前から突然消え去ってしまった、世界で一番愛おしい恋人――。
冷静に考えれば、花梨は今もどこかに監禁されたままで、花梨ではない『他の誰か』が荷物を取りに来たという可能性だって十分にある。罠かもしれないし、最悪の事態の裏返しかもしれない。
それでも――。
「……花梨。明日、会えるって、思っていいか……?」
夏の暑さで温くなったガラス窓にそっと掌を当て、そのまま縋り付くように額をくっつける。ほんの少し前まで、大好きなアイスを食べて無邪気に笑っていた、愛しい人の気配を必死に探すように。
「会いたい……」
薄い唇から零れ落ちた、祈るような、掠れた呟き。
けれど、その恋い焦がれるような痛切な声は、遥か地上から湧き上がるように響く激しい蝉時雨にかき消されて、誰の耳に届くこともなく消えていった。