九月。
長く、そしてあまりにも濃密だった夏休みが終わり、今日からいよいよ二学期が始まる。
朝の涼しい風が窓から吹き込み、秋の訪れを感じさせる中、俺――天野景太は、真新しい気分でランドセルを背負った。
景「行ってきまーす!」
玄関先で靴を履き、いつも通りキッチンにいるお母さんと、新聞を読んでいるお父さんに向かって元気よく声をかける。
「いってらっしゃい、気をつけてね」というお母さんの温かい声に見送られながら、俺は家を飛び出した。
ドアを閉めると、朝の澄んだ空気が胸いっぱいに広がる。
通学路を歩きながら、俺はふと自分の左腕に視線を落とした。そこにはもう、ずっと身につけていたあの不思議な時計――悪魔ウォッチはない。
あのおおもり山での途方もない激闘と、桜舞い散る中での涙の別れから、すでに数週間の月日が流れていた。
あの日、アラスターたちを見送って家に帰った俺は、出迎えてくれたお父さんとお母さんに、どうしても説明しなければならないことがあった。
それは、俺たちの家にずっと居候していた赤いスーツの長身の男――アラスターの不在についてだ。
まさか「彼は地獄最強の悪魔で、世界の危機を救った後に魔界へ帰ってしまったんだ」なんて、馬鹿正直に言えるはずがない。言ったところで絶対に信じてもらえないだろうし、両親に余計な混乱と心配をかけるだけだ。
だから俺は、家へ向かう道中でフミちゃんと必死に考えた苦しい言い訳を口にした。
景「実はね、うちでホームステイしていたアラスターさんなんだけど……急に用事ができちゃって、自分の故郷に帰ることになったんだ」
突然の報告に、両親はとても驚いていた。いつも礼儀正しく(少しばかり奇抜ではあったが)、家事も完璧にこなし、楽しいお喋りと古いラジオのような声で家の中を明るくしてくれていた彼がいなくなってしまったことに、二人はあからさまに寂しそうな表情を浮かべていた。
アラスターの存在は、いつの間にか天野家にとって当たり前のものになっていたのだ。
けれど、アラスターはただ姿を消したわけではなかった。
彼はあのおおもり山での決戦へ向かう前、万が一のことを考えてか、あるいは自分の役割が終わることを予期してか、自室の机の上に一通の手紙を書き残していたのだ。
アンティーク調の封筒に、流れるような美しい達筆で書かれたその手紙。
お母さんがそれを開いて読み上げると、最初はしんみりしていた両親の顔に、次第にクスリとした笑みが広まっていった。
手紙の詳しい内容は教えてもらえなかったけれど、きっと彼らしい極上のユーモアと、俺の家族への心からの感謝、そして相変わらずのちょっとした皮肉やジョークが入り交じった、とても丁寧で温かいものだったのだろう。
景母「本当に、突然いなくなるなんて……でも、この手紙、アラスターさんらしいわね」
景父「ああ。風のように現れて、風のように去っていく。実に彼らしい立派な挨拶だ。またいつか、ひょっこり遊びに来てくれるといいな」
笑い合う両親を見て、俺は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
アラスターは恐ろしい悪魔だったけれど、俺の家族にとっても、間違いなくかけがえのない大切な「家族の一員」だったのだ。
そんな夏の日の思い出を振り返りながら歩いていると、いつもの交差点に差し掛かった。
澄み渡る秋空の下、そこにはすでに見慣れた少女の姿があった。
文「おはようケータくん」
景「おはようフミちゃん!」
今日からまたいつも通りの一日が始まる。
ーーー
―さくら第一小学校・五年二組―
九月のうだるような残暑がまだ少し残る中、校舎には、久しぶりに再会した児童たちの活気あふれる声が響き渡っていた。
五年二組の教室も例外ではない。日焼けした顔を見せ合い、夏休みの思い出話や、ギリギリまでかかった宿題の苦労話に花を咲かせるクラスメイトたち。そんな教室内の一角で、ひときわ大きなため息をつく少年がいた。
クマ「そうか…アラスターさん、故郷に帰っちまったのか……」
クマは肩をすっかり落として心底残念そうに呟いた。
カン「良い人だったよね…。町の人たちにとっても、頼れる相談役だったし」
カンチもアラスターの持つ独特のカリスマ性と知性には一目置いていたのだ。
クマ「話も面白かったよな! そんで、いつの間にかこのニュータウン一の人気者になってたよな!」
カン「そうそう! ネットの掲示板やSNSの噂だと、なんと私設のファンクラブまでできていたらしいよ。しかも彼が帰った今も、会員数が増え続けてるんだって!」
クラスメイトたちの会話を自分の席で聞いていた景太は、顔を引きつらせて盛大に苦笑いを浮かべていた。
景(ファンクラブって……!!)
まさか、自分の全く知らない所で、あの地獄最強の悪魔の人気がさくらニュータウン中で凄まじいことになっていたとは。
しかも、景太の脳裏にはこの夏休みの宿題を三日で終わらせたあの恐るべき記憶を思い出していた。
町中から慕われ、ファンクラブまで作られ、さらには小学生の宿題の面倒まで完璧にこなしていたラジオデーモン。そのあまりにも有能すぎる立ち回りに、景太は内心で(アラスター、人間界を満喫しすぎだろ……)とツッコミを入れずにはいられなかった。
そんな風に景太が一人で呆れ返っていると、ガラッと教室の前扉が開き、一人の少年が登校してきた。
マオ「おはよう」
涼やかな声で挨拶をしてきたのは、同級生のマオくんであった。
かつてはどこか近寄りがたい不思議な雰囲気を纏っていた彼だが、あの夏休みのおおもり山での激闘を共に乗り越えた今、景太たちを見るその瞳には確かな親愛の情が込められている。
景「おはよう。マオくん」
景太は、かつてないほどの自然な笑顔で振り返り、温かく挨拶を返した。
その声に反応するように、少し離れた席にいた文花も明るい声を上げる。
フミ「マオくん、おはよう」
マオ「フミちゃんもおはよう」
ごく自然に交わされる、三人の穏やかな朝の挨拶。
しかし、そのただならぬ親しげな空気を、長年景太とつるんできたクマとカンチが見逃すはずがなかった。
クマ「おいケータ。お前、いつの間にマオとあんなに仲良くなってたんだ?」
カン「それに、フミちゃんともなんか距離が縮まって、すごく仲良くなってるよね? やっぱり夏休み中に、何か特別なイベントでもあったの?」
クマが目を丸くして身を乗り出し、カンチが持ち前の分析力を働かせるように目を細めて追及してくる。
悪魔や妖怪たちと共闘し、世界を救う大決戦を繰り広げたなどと言えるはずもない。
景「ま、まぁ、そんなところかな……」
景太は冷や汗をかきながら、曖昧な笑みを浮かべて誤魔化すことしかできなかった。
一方、その頃。教室の反対側にある女子たちのグループでも、全く同じような追及が行われていた。
ターゲットにされているのは、もちろん文花である。
サト「ねえねえ今日、ケータくんと一緒に登校してきたけど、2人ともすっごく楽しそうにしてたよね!」
興奮気味に身を乗り出す親友のサトちゃん――林サトコと。
チヨ「それに、さっきの挨拶。明らかに前よりマオくんとも仲良くなってたみたいだし。やっぱりこの夏休みで、何か大きな進展があったの!?」
サトちゃんの隣で理知的な視線を向けてくるのは、もう一人の親友であるチヨちゃんこと鈴木チヨ。普段大人びているが、今回ばかりは親友の大きな変化に好奇心を隠しきれない様子だった。
二人の親友からキラキラとした期待の眼差しを向けられ、文花は景太と全く同じように、困ったような、けれどどこか嬉しそうな苦笑いを浮かべた。
文「ま、まぁ、そんなところかな……」
ーーー
さくら第一小学校での長い一日が終わり、茜色に染まる帰り道。
景太と文花は、少しだけ寂しさを紛らわせるように、ある想像話に花を咲かせながら帰路についていた。
景「もしもアラスターがうちの学校の先生になってたら、絶対誰も宿題忘れないよね」
文「ふふっ、確かに。それにウィスパーが学校に来たら、きっと校長先生の銅像のフリとかして遊びそう」
今はもういない異界の友人たちが、もし自分たちの日常に混ざっていたら。そんなあり得ない、けれど想像するだけで少し楽しくなるような「もしも」の話。
二人は「また明日」と笑顔で手を振り合い、それぞれの家へと別れた。
景太は自分の家の玄関のドアを開け、いつものように声を張った。
景「ただいまー」
すると、誰もいないはずのリビングの方から、甲高く聞き慣れた声が返ってきた。
ピク「おかえり。戸棚に菓子あったから先食べてるわよ」
景「あ、うん。……って、もう! そんなに食べたら太…る……」
言いかけながらリビングに入った景太は、足の裏に根が生えたようにその場でピタリと固まり、信じられないものを見たかのように目を大きく見開いた。
景太が即座に駆け寄った先。そこには、ローテーブルの上で器用に肘枕をつき、テレビのバラエティ番組を眺めながら、『チョコボー』をむしゃむしゃと頬張っている小さな妖精の姿があったのだ。
景「ピ、ピクシー!!?」
絶叫する景太に対し、ピクシーはチョコボーをかじる手を止め、心底呆れたような視線を向けてきた。
ピク「何よ。鳩が豆鉄砲食った様な顔して」
景「いやいやいやだって! あの時……え? だって、あんなに感動的なお別れをしたばっかりじゃん! なんでこんなに早く……!?」
頭を抱え、完全にパニックに陥って混乱する景太。
そんな彼の背後から、ノイズ混じりの、ひどく上機嫌な声が響き渡った。
「ピクシーだけではありませんよ」
景「ウォオ!!?」
景太は心臓が飛び出るかと思うほど驚き、勢いよく振り返った。
そこには、見間違えるはずもない人物が立っていた。特注の真っ赤なスーツに身を包み、赤と黒の混じったボブヘア、そして頭には小さな角を生やした長身の男。
間違いなく、地獄のラジオデーモン、アラスターその人であった。いつの間に景太の後ろに立っていたのか、全く気配を感じさせないまま、彼はステッキを片手にいつもの不敵な笑みを浮かべていた。
アラ「良い驚きっぷりですねぇ。少々芝居じみてはいますが。……ええ、言いたいことは分かりますよ。『あの時あんなに感動的な別れをして、当分会えないと思っていたのに、なぜ人間界にいるのか』でしょう?」
口をパクパクさせて固まっている景太の顔の前で、アラスターはパチンと指を鳴らして彼を正気に戻すと、芝居がかった身振り手振りで説明を始めた。
アラ「貴方は私と『魂の契約』をしたことは、当然覚えていますよね?」
景「う、うん……」
アラ「これで理由はもうお分かりでしょう。その契約が遂行されたのですよ。『貴方の大事なものは、この私が責任を持って守り抜く』とね」
景(そうか! あの魂の契約の効果が出たんだ!)
景太の胸に、すとんと腑に落ちる感覚があった。あの激闘の中で交わした絶対の契約が、次元の壁を越えて彼をこの場所に繋ぎ止めてくれたのだ。
アラ「とはいっても、そのせいでどうやら上の『神』に目をつけられてしまいましてね。ペナルティとして、私の力は半分ずつに分断されてしまいましたが」
景「えっ!? 力が半減したの!? 大丈夫なの、それ!?」
景太が慌てて心配すると、アラスターは愉快そうにカラカラと笑った。
アラ「ノープロブレム! 全く問題ありませんよ。これまでの人間界での激戦の連続で、私の力は本来の2倍近くにまで跳ね上がっていましたからね。
半分になったところで、ちょうど元の地獄での強さに戻っただけのこと。ですが、今までの戦いで得た貴重な経験と力は、しっかりとこちらの半身である『私』が持っていますがね。もう半身の方は、今頃どこかで地獄の町でもぶらついていることでしょう」
景「それじゃあ……これからも、アラスターと一緒に……」
アラ「はい。今後も、宜しくお願いしますよ。ケータくん」
呆然としていた景太の瞳から、大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちた。
二度と会えないかもしれないと思っていた最高の相棒が、再び自分の目の前にいて、これからも一緒にいてくれる。その喜びに耐えきれなくなった景太は、満面の、最高の笑顔を浮かべてアラスターに飛びつき、力いっぱい抱きしめようと腕を広げた。
アラ「おっと、適切な距離を」
スッ……。
だが、そんな感動の再会シーンは、アラスターの華麗なステップによってあっさりと避けられてしまった。景太は虚しく空を切って前のめりになる。
アラ「このお気に入りのスーツを、涙や鼻水で汚したくありませんので。あしからず」
景「ハハ……相変わらずだね、アラスター」
涙を指で拭いながら、景太は心の底から安堵の笑いを漏らした。この徹底したマイペースさと、絶対に自分のペースを崩さないところこそが、彼なのだ。
ステッキをクルリと回し、話を続けるアラスター。
アラ「さて、ここからが本題です。あのおおもり山での決戦の後、町が極大のマグネタイトに覆われ尽くした時、空から光が放たれ、全てを浄化しましたね。
実はあの光の原因は、天に坐す『神』とその関係者たちによる介入だったのですよ。
話しは此処からです。私達悪魔は今回、魔界議長イカカモネとその手下達と戦い、結果的にこの町を、そして人間界そのものを守るという形になりました。神は、その多大なる功績を認めた……。
その褒美として、何と我々悪魔達がマグネタイトを消費せずとも人間界に降り立ち、実体を維持できるように世界の理を書き換えてくれたそうなんですよ!」
景「神様に認められたの!?」
景太は驚愕した。マグネタイト無しで人間界にいられるようになったという事実も途方もないことだが、まさか悪魔の身でありながら、あの天国からの光の主である神に直接その行いを認められたなど、すごいとしか言いようがない。
景「それじゃ、アラスターもその褒美でここに!?」
アラ「いえいえ。同じ『悪魔』という括りではありますが、ピクシー達は『魔界』の出身であり、私は『地獄』の出身です。そもそも生まれ育った故郷の次元が違いますからね。私はあくまで、貴方との契約の力によるものです」
アラスターがそう補足すると、テーブルの上でチョコボーを完食したピクシーが、ふわりと宙に浮き上がって景太の目の前まで飛んできた。
ピク「ま、あんなお涙頂戴の別れ方しちゃった身でちょっと気まずいけど、私もまた人間界で遊べるようになったってわけ。改めて宜しくね、ケータ!」
ピクシーとの信じられない再会に驚き、アラスターの解説に納得したのも束の間、今度は静かだった家の玄関の方から、パタパタと慌ただしい足音と共に聞き慣れた少女の声が響いてきた。
文「ケータくん! ケータくん、いる!?」
フミちゃんの声だ。少し興奮したような、それでいてどこか弾んだその声に、景太はリビングを飛び出して急いで玄関へと向かった。
景「フミちゃん!? どうしたの、そんなに慌てて――」
景太が勢いよく玄関のドアを開け放った、その瞬間だった。
目の前に立っていたのは、期待通りに頬を少し紅潮させた文花。……しかし、景太の目はそのすぐ隣、宙にふわふわと浮いている「白い、見慣れた奇妙な物体」へと完全に釘付けになった。
ウィス「いやぁ〜〜! ケータくん! お久しぶりでうぃす!!」
景「う、ウィスパー!!!!?」
そこにいたのは、あの涙の別れを告げて妖魔界へと帰っていったはずの、自称・高貴な妖怪執事ウィスパーだった。いつものように妖怪パッドを小脇に抱え、大袈裟に手を振りながら、満面の笑みを浮かべて滞空している。
景「なんで、どうして!? ウィスパーまで戻ってこられたの!? 妖怪エレベーターは固く閉じちゃったんじゃ……」
混乱の極みに達した景太が頭を抱えると文花がクスッと嬉しそうに笑い、事の顛末を事細かに説明してくれた。
文「ふふっ、驚くのも無理ないよね。実はね、マオくんがすっごく頑張ってくれたの。あのおおもり山での事件の後、人間界と妖魔界の間に立って、妖怪たちと人間の仲を一生懸命に取り持ってくれたんだって。イカカモネの手下たちに襲われて怯えていた人間たちの誤解を解いて、妖怪のエレベーターの縛りを解くために、妖魔界の偉い人たちを説得してくれたらしいの。そのおかげで、またこうして妖怪たちも自由に人間界へ来られるようになったんだよ」
景「マオくんが……。そっか、裏で動いてくれてたんだ……」
景太は、あの物静かだけれど頼もしかった少年の顔を思い浮かべ、深い感謝の念を抱いた。彼が人間界と妖魔界の架け橋になってくれたからこそ、こうして再び奇跡が起きたのだ。
文「それにね、もう一つ凄く安心なニュースがあるの。空席になっていた妖魔界のトップ……次のエンマ大王の座には、マオくんのお父さんの孫が就任することが正式に決まったんだって。
文「由緒正しい偉大な血筋がしっかりと新しい王座を継ぐことになったから、これで妖魔界の未来も完全に安泰だろう」って、みんな大喜びしてるよ」
ウィス「そういうわけでうぃす! 妖魔界の混乱も完全に収まり、何の問題もなくなったということで、このウィスパー、再びケータくんの元へと馳せ参じた次第でぃす! さあケータくん、涙を拭いて私の広い胸に飛び込んでおいでなさい!」
景「誰も飛び込まないよ!……でも、本当に良かった。また会えて嬉しいよ、ウィスパー!」
景太が最高の笑顔を見せると、リビングの奥からアラスターが「おや、また一段と騒がしくなりそうですねぇ」と、ラジオノイズを伴った上機嫌な声を響かせながら顔を覗かせた。その後ろからは、ピクシーが「ちょっとジバニャン、あたしのチョコボー勝手に食べないでよ!」と早くも理不尽な怒声を上げている。
ジバニ「これでおあいこニャン」
と慌てるウィスパーの声が響き、天野家のリビングは一瞬にして、あの夏休みのような、あるいはそれ以上の賑やかさと混沌に包まれていった。
窓の外からは、心地よい秋の風が吹き抜け、さくらニュータウンの穏やかな街並みが夕日に照らされている。
大切な仲間たちと、かけがえのない絆。
数々の世界の危機を乗り越えた少年と少女の前に、またあの、騒がしくて、破天荒で、最高に愛おしい毎日が帰ってきた。
また何時もの毎日が始まった…。
ごく普通の…
ごく普通の毎日だ。
悪魔ウォッチ ー完ー
アラ「おっと待った! まだ終わりではありませんよ!」
バリバリバリッ!!!
突如として、現実の理を無視した激しいハウリング音と共に、アラスターの足元から太い影の触手が猛烈な勢いで飛び出した。そして、あろうことか空間に静止していた「悪魔ウォッチ ー完ー」という文字の塊を、力任せに木っ端微塵に吹き飛ばしてしまったのだ。
景「うわぁっ!? な、何するんだよアラスター! 文字がバラバラになっちゃったじゃん!」
ウィス「な、なんて罰当たりな真似を! 今まさに感動のフィナーレを迎えようとしていたところでうぃすよ!?」
景太とウィスパーが目を丸くして大声を上げる中、アラスターはステッキを優雅に指先で回転させ、いつもの怪しい笑みを限界まで吊り上げた。
アラ「ケータくん。先ほど私が言った『悪魔がマグネタイト無しでも人間界に滞在できるようになった』という意味の、真の恐ろしさと面白さを、貴方は本当に理解していますか?」
アラスターからの突然の、しかしどこか試すような質問。景太は驚いて目をパチクリとさせながら、人差し指を顎に当てて必死に頭を働かせた。
景「え!? えぇっと……マグネタイトがいらないってことは……これから悪魔が、人間界にたくさん来るようになる……ってこと?」
アラ「大正解! さすが私の契約者、察しが良い!」
アラスターはパチンと小気味よく指を鳴らし、大袈裟に拍手をして見せた。
アラ「そうなのですよ! 貴方がこれまでの冒険で友達になった悪魔なんて、広大な魔界や地獄の、ほんの一握り、ほんの一部に過ぎません!
今回の神の恩赦によって、これまで戦ってきた以上の、多種多様で、一癖も二癖もある強力な悪魔たちが、このさくらニュータウンへ、そしてこの人間界へ、こぞって押し寄せてくることは間違いありません!
……そして、悪魔と呼ばれる種族の中には、地獄の公爵や魔王だけでなく、畏れ多き『神』の名を冠する超常の存在すらも含まれていることを、どうぞお忘れなく……」
アラスターの声に混ざるノイズが一段と低く、重くなる。それは新たなる混沌と、それ以上に刺激的な日々が幕を開けるという予兆だった。
身震いする景太の前に、アラスターは恭しく右手を差し出した。その手のひらの上に載せられていたのは、光となって消えたはずの、しかし以前よりも禍々しく、そして神々しい輝きを放つ「悪魔ウォッチ」であった。
アラ「今回の一件で、貴方の名前と実力は魔界や地獄の住人たち、ひいては天界の神々にも一目置かれることとなりました。これほど素晴らしいアドバンテージを利用しない手はありません! この私もまた、貴方の傍らで一から自分を鍛え直すつもりです。
……さあ、ケータくん。行く行くは、この世界にやってくる全ての悪魔たちと『友達』になり、その頂点へと上り詰めようではありませんか!」
差し出された時計を見つめ、景太の胸に新たな闘志の炎が灯った。どんなに恐ろしい悪魔が来ようとも、自分にはアラスターが、ピクシーが、そしてたくさんの友達がいる。
景「――うん!」
景太は力強く頷くと、受け取った悪魔ウォッチを迷いのない動作で左手首にしっかりと巻き付けた。
その顔には、かつての頼りない少年の面影はなく、数々の修羅場を潜り抜けてきた男としての、決意のこもった不敵な笑みが浮かんでいた。
その様子を隣で見ていた文花も、自らの首にかけてある妖怪ウォッチの文字盤をそっと握りしめ、前を向いた。
文「私も負けてられないな。マオくんが作ってくれたこの平和な世界で、私もこれから、まだ見ぬたくさんの妖怪たちと出会って、全員と友達になることを目指してみるよ!」
二人の少年少女が、人間界に訪れる新たな運命に向かって、確かな決意を固めたその時。
空気を読まない足取りで、ピクシーがふわりと景太の顔のすぐ近くまで飛んできた。
ピク「そういえば、さぁ……ケータ?」
景「?」
首を傾げる景太に対し、ピクシーは顔を極限まで近づけ、これ以上ないほどの満面の「笑顔」を浮かべて問いかけてきた。だが、その笑顔の奥にある瞳は、全く笑っていない。
ピク「アンタ、さっきアタシが帰ってきた時、アタシに向かって『そんなに食べたら太る』って言ったわよね?」
景「え? あ、いや、それは……」
嫌な汗が景太の背中を伝う。時すでに遅し、ピクシーの額には青筋が浮かび上がっていた。
ピク「おのれぇ……
ピク「キィィィーッ!」と怒髪天を突いたピクシーは、景太の両頬を小さな手で思いっきり掴むと、力任せにぐにぐにと引っ張り始めた。
景「いひゃいいひゃい! おふぇんおふぇん! 離ひへぇぇー!!」
景太は涙目で必死に謝罪の言葉を述べるが、一度火がついた妖精の怒りはそう簡単には収まらなかった。
文「ふふっ、頑張ってね、ケータくん」
身悶えして助けを求める景太に救いの手を差し伸べるかと思いきや、文花は「自業自得だよ」と言いたげに、大人の笑顔でそれを見守るだけだった。女の子に体重の話をしてはいけないというのは、文花にとっても共通の絶対ルールなのだ。
ウィス「まったく、前途多難でうぃすねぇ……。新しい悪魔と友達になる前に、身近な悪魔に消し炭にされそうでぃす」
ウィスパーは呆れたように大きなため息をつき、その横ではジバニャンが「相変わらず平和ニャ〜」と、我関せずといった様子で新しいチョコボーの袋を破って口に放り込んでいた。
アラ「ニャーハハハハハハハ!! いやはや、これだから人間界の観察は止められない! 実に素晴らしい、最高の日常です!!」
アラスターのスピーカーから響き渡る、地獄を揺るがすような愉快な笑い声が、天野家のリビングに、そして夕暮れのさくらニュータウンの空へと広がっていく。
これからどんなに強大な悪魔や妖怪が押し寄せてこようとも、この賑やかで、ちょっとおかしな絆が切れることはない。
そんな、非日常がすっかり当たり前になった、彼らにとっての「普通の一日」が、今度こそ本当に始まったのであった。
第一部 ー完ー
ー幕間ー
深夜のさくらニュータウン。静寂が支配する空の下、天野家の屋根の上で、アラスターは一人、夜空を見上げていた。
月明かりが彼の赤いスーツを淡く照らしているが、その瞳は遥か彼方、遠い記憶の残滓を追っている。今、景太たちが平和な眠りについているこの屋根の上で、アラスターの意識は、あの日…あの、この世の全ての理を超越した不可思議な空間での対話を反芻していた。
ー回想ー
彼が足を踏み入れたのは、地獄の湿った闇や、人間界のノイズ混じりの日常とは対極にある、あまりにも眩しく、清廉で、広大な空間であった。床一面には鏡のような光沢を持つ白い石材が敷き詰められ、壁という壁は存在せず、ただ無限に続く純白の回廊が視界を埋め尽くしている。
アラ(なるほど。どうやらここは審議室のようですね……。それも、下級の天使がたむろするような場所ではない。天国の、最上層……)
アラスターはステッキを片手に、警戒を怠らず周囲を見渡した。そこには先ほどまで対峙していたはずの天使の姿はなく、ただ静寂だけが彼を包み込んでいた。
その時、空間が震えた。
天井のないはずの頭上から、一点の濁りもない真っ白な光の柱が、滝のように降り注いだ。光の粒子が渦を巻き、やがてその中から、巨大な影が浮かび上がる。それは六枚の壮大な翼を広げ、不死鳥を思わせる高貴な姿をしていた。纏う羽毛は白と金色に輝き、頭上には星々を集めたかのような黄金の光輪が、脈動するように明滅を繰り返している。
威圧感さえ覚えるその圧倒的な存在感の前で、アラスターは表情を崩さず、しかし微かに目を細めた。
「驚かせてしまってごめんなさい。私は『スピーカー』と申します」
「スピーカー」…神の代弁者。
その声は直接脳内に響くような、優しくも峻厳な響きを持っていた。
アラ「自己紹介どうも。ですが、これ以上の前置きは結構。そんな大それたお方が、なぜ地獄最強を自負するこの私を、わざわざこの神聖な天国へお招きになったのです?」
だが、アラスターは軽く肩をすくめ、いつものラジオノイズ混じりの声で、皮肉たっぷりに答えた。
しかし、スピーカーは穏やかな表情を崩さず、静かに歩み寄った。彼女の動き一つ一つが、空間全体の秩序を再定義するような重みを持っている。
スピ「アラスター。貴方は人間と妖怪、そして悪魔と共に力を合わせ、妖魔界を、人間界を、そして何より、多くの命を守りました」
スピーカーの言葉には、裁きではなく純粋な事実の確認が含まれていた。
「つきましては、悪魔達がマグネタイト無しでも人間界に来れるように、彼等に加護を授ける事になりました。その加護は直ぐに、彼らの力の一部となるでしょう」
その言葉に、アラスターは面白がるように笑った。
アラ「おやおや。そんな慈悲深いことをして良いのですか? 悪魔が跋扈し、人間界が瞬く間に滅亡して、もう一つの魔界になる未来が見え透いているようですが?」
スピ「当然、神と私達も責任者として見届けます。ですが、貴方方なら大丈夫だと私達はそう思っています」
スピーカーの瞳が、深く、優しく彼を見つめる。
スピ「少年。『天野景太』。あの子は妖怪と悪魔、そして人間を繋ぐ架け橋の一人になるでしょう。
だからこそ、あの子には貴方達が必要不可欠なのです」
アラ「信頼されてますね……」
アラスターは軽蔑を隠そうともせず、吐き捨てるように呟いた。神の意志などという甘美で胡散臭い言葉が、地獄の住人である自分にはどうにも馴染まない。
アラ「あの子は貴方と契約していますね。ですが、貴方は悪魔です。残念ですが、貴方を地獄に戻さねばなりません」
スピーカーは静かに宣告した。彼女の声は残酷なほどに淡々としている。しかし、彼女は続けた。
スピ「ですが、回避できる方法は二つあります」
アラスターは眉を上げた。地獄への帰還以外の道があるというのか。
スピ「一つは、貴方の魂を二つに分け、その半分を地獄に送る手段です。その結果、貴方の力は半減するでしょう。しかし、もう一つの手段はそれを回避できます。これは、これまでの貴方の行いによって掴むことのできたものです」
スピーカーは神聖な光を放つ両手で、アラスターの手をゆっくりと握りしめた。その瞬間、アラスターの全身を、地獄の炎とは対極にある、清浄なエネルギーが駆け巡った。
スピ「それは、天使になることです」
あまりの予想外の事にアラスターは目を見開いた。
スピ「貴方の功績を踏まえ、私達は貴方を天使に生まれ変わらせ、天国へ迎え入れます。その善行でどうか天国を導いてほしいと願っています。勿論。力を2つに分け、分けた魂を天国に連れて行くことも可能です。いかがでしょう」
その提案は地獄の業火で焼かれ、血塗られた殺戮と混沌の中に身を置く者にとってあまりにも甘美で、あまりにも異質な選択肢であった。
天国への昇華。神の傍らでの安息。それは地獄の最底辺に住まう悪魔が夢にすら見ない、至高の褒美であるはずだった。
だが、アラスターは違った。彼の矜持は、何者かに管理され、浄化されることを許容しない。
アラ「ニャハハハハハハハ!!!」
静寂の審議室に、ラジオ放送のハウリングのような不協和音が響き渡る。アラスターは腹を抱えて哄笑した。その笑い声は次第に歪み、耳をつんざくような激しいノイズへと変貌していく。
アラ「全く、笑えない冗談です!!」
次の瞬間、アラスターはスピーカーの手を荒々しく振り払った。その瞳から人間味のある虹彩が消え失せ、代わりにアナログラジオのVUメーターが、狂ったように針を激しく振っている。
アラ「天使! 冗談じゃありません! 誰がなるもんですか!! 誰がこの高潔な、血と混沌に彩られた悪魔の矜持を捨てて、神のパペットになどなるものですか!」
アラスターが叫ぶたびに、周囲の空間が物理的に歪んでいく。彼の周囲から溢れ出す負のオーラは、漆黒の泥となって床を這い回った。
アラ「私はこの悪魔の姿に、この地獄のラジオデーモンとしての生き様に誇りを持っているんです! 誰もが天国へ行きたがっていると思ったら大間違いですよ!」
床には緑色の不気味なブードゥー教の紋章が刻まれ、バチバチと電流が奔る。
彼の影が巨大化し、天井を覆い尽くす。首は常軌を逸した長さにまで伸び、関節は節足動物のように増殖を繰り返した。背中からは六本の黒い触手が蠢き、口からはどろりとした黒い液体が、まるで呪詛のように零れ落ちる。それはもはや、かつての紳士的な姿の面影など微塵も残さない、真なる悪魔の顕現であった。
アラ「いいか、よく聞け。……もう二度と、そんなふざけた提案を抜かすんじゃないぞ。ワカッタナ!!!」
振動で審議室そのものが軋みを上げる。まさに地獄の門を開いたかのような威圧感。
だが、その中心に立つスピーカーは、たった一人でその嵐の中に立っていた。
スピ「そうですか。……残念です」
彼女は、ただ微笑んでいた。
その表情に、恐れも怒りも、失望すらもなかった。ただ、一人の魂の選択を尊重する慈愛のみがそこに満ちていた。
あまりの動じなさに、暴走の頂点にあったアラスターは気勢を削がれ、拍子抜けしてしまった。
すうっと、黒い影が収束していく。長い首も触手も消失し、VUメーターの目も、いつものいたずらっぽい瞳に戻る。アラスターは気まずげにネクタイを整えた。
アラ「……話は決まったようなので、とっとと済ませちゃってください」
スピ「それでは、貴方の魂を2つに分けます。地獄に送るもう一つの魂は……少年、ケータ達との思い出を忘れることになります。それが、この理の代償です」
スピーカーが優しく手をかざすと、アラスターの胸から、赤く燃え盛る小さな光の球体がするりと抜け出した。それはかつての自分の記憶の断片であり、ケータと過ごした騒がしい日々を忘れ去る「半身」だった。
球体はスピーカーの手の中で震え、やがて消え入るように地獄へと落ちていった。
スピ「では、貴方を少年『天野景太』の元へお返しします」
光の柱がアラスターを包み込む。転送の直前、アラスターはふと、目の前の高貴な天使に皮肉を投げかけた。
アラ「しかし、わざわざそんな手を使ってまで私をあの子の元へ戻すなんて……貴方も、ケータくんのことがお好きなようで」
スピ「……はい。大好きです」
迷いのない、曇りのない返答だった。
その純粋すぎる愛の告白に、アラスターはあからさまに顔をしかめた。
アラ(……皮肉のつもりで言ったんですが、本当につまらない女だ……)
彼女の持つ圧倒的なまでの清廉さに、彼はどうしようもない居心地の悪さを感じたのだった。
ー回想終わりー
天野家の屋根の上。夜風がアラスターの赤い髪を揺らした。
アラ(ホント……人生、何が起こるかわかりませんね)
彼は空を見上げる。あの時、天使に対して抱いた嫌悪感すら、今となっては遠い昔の出来事のように思える。
天国に認められ、神の恩赦を得て、そして自分の一部を犠牲にしてまで選んだこの日常。
アラ(私の一部は地獄で何を思っているのか……。ケータくんとの記憶を失った私は、果たして私と呼べるのか……)
ふと、階下のリビングから聞こえる微かな寝息を想像する。守るべき対象、そして自分を「悪魔」として在り続けさせてくれる、最高の契約者。
アラスターはニヤリと口角を吊り上げ、ステッキをクルリと回した。
アラ(ま、考えても仕方ありません。ラジオデーモンに休息は不要。これから始まるであろう、騒がしくも愉快で、波乱万丈になるに違いない人生……いや、悪魔生。たっぷり楽しませていただきましょうか)
星空の下、彼は満足げに笑った。
明日の朝、どんなトラブルが待ち受けていようとも、自分は最高のエンターテイナーとして、この舞台で踊り続けるのだ。
きょうの悪魔大辞典。
アラ「ケータくん。今日の妖怪は?」
景「『アラスター』」
景「アラスターが紹介に出てくれて嬉しいよ。最初は拒否してたのにどうしたの?」
アラ「興味が出ただけですよ」
ピク「でも、アンタがいつの間にか町一番の人気ものになってたとはね…今でも信じらんないわ……」
アラ「私はただアドバイスをしたり、楽しく話をしただけですよ。特別な事はしてません」
景「余裕ぶっちゃって、あー羨ましい!」
だが、直ぐに景太は微笑む。
景「これからも宜しくねアラスター」
ピク「もしもの時は頼むわよ」
アラ「はい。勿論」