子供のころ、視界に浮いて見える黒い点や糸くずが何なのか、母親に聞いてみたことがあった。
後からそれが飛蚊症だと知ったが、要領得ない子供の話を母親はまともに取り合わず、いつしか僕もそれはそういうものだと受け入れて深く考えることを辞めてしまっていた。
だからピコンと鳴って現れるこの半透明の白い板のことも、僕が結構大きくなるまでは、全員に見えているものだと本気で思っていたし、僕にしか見えないと知った日にはそれはもう大いに驚くことになった。
とにかくそれは、すてーたす?というものらしかった。
◇
少し念じると、半透明に鈍く光った板が、何もない空間から迫り上がるようにして現れる。[0]とだけ書かれたそれは、どれだけ見つめても[0]のままで、
手を伸ばして[0]に触れてみれば、ちょうどゲームで見たことあるようなスキルツリーが展開される。その大きさは星空のように膨大で、その全てが[0]を中心に赤青緑の三つのグループに分かれて伸びていた。
しばらく触らないでぼーっと眺めていると、ウィンドウ(真斗はそう呼んでいる)は何もない空間に消えて行く。
それでようやく、真斗は周りの視線が自分に集まっていることに気がついた。片腕で頬杖をついて半目になった真斗の目線は、教卓に立つ西村先生と完全に交差していた。
ピコンと鳴って先生の頭上にポップアップが現れる。それはウィンドウと同じように半透明に鈍く光っていて、『西村京子』とだけ書かれてあった。
「わかっていますね」
教卓に置かれた分厚いファイルに何かしらを書き込むと、西村先生は何事もなかったかのように授業を再開した。わかっていますね、とはつまり後で職員室に叱られに来い、ということ。
甲高い声が教室の弛緩した空気を再び引き締める。
真斗は誰にいう訳でもなく「すいません」とひとり呟いた。
手元のノートには、報奨金付きで指名手配されている男たちの名前が羅列されてあった。さっきまで、たまたま遭遇した時のために名前を覚えようとしていたのだ。
アホらしくなって背もたれに腰をつけた。
隣のギャルが隠して聞いているイヤホンが、シャカシャカと煩わしい。聞き覚えのあるイントロは、ピロウズのファニーバニー? つい視線を向けてしまって、じろりと睨まれることになった。
このキツい目が怖くて、誰もギャルのことを注意できないのだ。
馬鹿そうに見えても、これがテストになれば真斗なんかよりよっぽど高い点数を取るのだから報われない。教室を見渡してみれば、誰もが真剣な顔で集中していて、背もたれに寄りかかってつまらなそうにしているのは真斗だけだった。
集中しようにも公式がどうの説明する西村先生の声は、遠い国の言葉のように聞こえてしまって、右から左に綺麗に抜けていく。
高校の授業は一度取り残されてしまうと、分かっていることが前提で授業が進むので、時間が経つほど手遅れになっていくのだ。それに市内の子供はみんな小学生の頃から塾に通っていると聞く。
クラスメイトのほとんどが、授業を先取りした勉強を塾で教えてもらっているのだろう。同い年の子供が三人しかいなかった真斗の地元には、駅前に塾どころか駅すらなかった。
市内でも進学校と呼ばれる高校に合格できたのは、あまり要領のよくない真斗に先生が付きっきりになって教えてくれたからだ。
分からないことがあれば分かるまで教えてもらう以外の勉強を真斗は知らなかった。
つくづく入る高校を間違えたと思う。
肌の色からして真斗は生まれながらのブルーカラーなのだ。情けなくなってノートに向かう。分からなくても、せめて黒板をノートに写すくらいはやることにした真斗の腕に、
にべもなくパンチと叩き潰す。
『テレレレッテッテッテ〜〜♪』
瞬間、真斗の脳内にけたたましいSEが鳴り響いた。間の抜けたレベルアップでもしたかのような音。目の前にウィンドウが現れると、ピコンという音と共に[0]の数字が[1]に変わった。
そう、変わった。
驚いてばかりの真斗をよそに、ウィンドウはスキルツリーを展開する。中心から波紋のように光が走ると、[1]から伸びる三つのスキルに鈍い光が灯った。
<ステータス>
<成長係数補正レベル>
<低域干渉>
ミミズのような文字で書かれていて、読めなかったスキルが読める。
おずおずと指先を出してみれば、赤色のスキル……<ステータス>に触れた途端、他のスキルは明度を損なって[1]の数字が[0]に戻ってしまった。
あんぐりと開けた真斗の口から、大きめの声で「は?」と漏れた。
痛恨だった。しまった、と思った。
再び[0]に戻ってしまったスキルツリーは、触れてみようが念じてみようが反応を示さない。少しずつ状況を飲み込むほどに全身の力が抜けていった。
まさか触れただけでスキルを取得してしまうとは……。
冷ややかな目線もチャイムの音も、今の真斗は気にならない。
液体のように背もたれに落ち込んだ真斗の口から、魂でも吐き出すかのような、ため息がひとつ。とりあえずスキルを使ってみることにして、ウィンドウを出すときと同じ要領で、<ステータス>と少し念じた。
使い方なら、指先でも動かすかのように知っているのが不思議だった。自己嫌悪で萎えた気分が少しだけ首をもたげる。
『高橋 真斗』
何もない空間からにゅっと新しいウィンドウが現れた。
ARのゲームがあったら、こんな感じに見えるんだろうか。厚みを全く感じさせない半透明の板には、『高橋真斗』と……それだけ。
……短い腕で黒板を消す西村先生の後ろ姿を見ていると、そのうちウィンドウは消えてしまった。
チャイムが鳴って堰を切ったように騒がしくなったクラスメイトが、早々に荷物をまとめて教室を後にする。
次は理科室。確か小テストがあったはず。黒板の半分も写せていないノートを閉じて、教科書や筆箱とまとめて机の中に放り込んだ。
スマホと財布だけを持って立ち上がる。
理科室のある旧校舎に向かう渡り廊下の逆へ。階段を降りて、靴箱がズラリと並んだ登下校用の玄関から外に出ると、少し肌寒い風が吹き抜けていった。
この時間は開かないようになっている扉をよそに、校門をよじ登って学校を後にする。徘徊するような足取りで帰路についた。家に帰れない真斗の足は自然と駅の方に向かう。
道すがら少しだけ迷ってから、真斗はスマホを取り出した。
宛先は地元に残って暮らしている父方の爺ちゃん。今日行くとだけ書いたメールを送ると、しばらくもしないうちに爺ちゃんから『わかった』と返信が来た。
今年で70になる爺ちゃんは、老人とは思えないほど携帯を自然に使う。
いちおう母親にも連絡を入れようかと思って、やめた。
どうせ爺ちゃんの方から連絡が行くだろうし、母親は爺ちゃんのことをあまり良く思っていない。横浜に住む母方の祖父母なんかより、よっぽど爺ちゃんの方に真斗が懐いているからだ。
それに最近の母親は、姉の千秋のことで随分とピリピリしている。
変に刺激して矛先がこっちに向くのはごめんだった。
いつもは行かない道を真斗はイヤホンで音楽を聞きながら歩く。プレイリストはもちろんピロウズ。学校から駅までだと、三曲も聞き終わらないうちに着いた。駅前の広場に設けれたロータリーの掲示板には、バスは1時間後に来るとあった。
半ばシャッター街になった広場に人影はない。真斗はベンチに腰掛けると、少し念じてウィンドウを展開させた。ここならじっと虚空を見つめていても、誰からも変なふうに思われない。
改めてスキルツリーを確かめると、<ステータス>を習得したからか、そこから伸びる二つのスキルが読めるようになっていることに気がついた。
<詳細表示>
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昨日までと比べれば確かな進歩である。が、真斗の気分はあまり上がらない。スキルが読めても、スキルポイント(そう呼ぶことにした)がなくては話にならないのだ。
いかにもゲーム的なあのSEからして、蚊を殺したことがきっかけでレベルアップ?したのは間違い。例えば経験値的な要素があったとして、生き物を殺すことで溜まっていくんだとすれば、とても厄介だった。
ここは異世界じゃない、現実にある日本国だ。
その辺の猫や鳥でさえ法律に守られていて、殺すことは許されない。第一そんな猟奇的なことが真斗にできるだろうか。
真斗は有線のイヤホンを手繰るようにしてポケットからスマホを取り出した。
フォルダの奥の方に見つけたのは、去年の年始に送られてきた爺ちゃんの年賀状。横たわって動かないツキノワグマの前で、仏頂面をカメラに向けている爺ちゃんがいた。両手でトロフィーでも掲げるように猟銃を抱えている。
あまりにも浮世離れした光景に尻込みしそうになって、真斗は考えるのをやめた。
このクソつまらん人生を変えてやるのだ。法律の範囲内で生き物をたくさん殺そうと持ったら、漁師か猟師くらいもの。紀伊半島の海岸線を眺めながら真斗はバスを待った。
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<ステータス>
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<成長係数補正レベル>
<低域干渉>
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わかりにくかったら申し訳ないです。
面白くても面白くなくても評価いただけると嬉しいです。