後編です
「……やはり天才か」
魔力制限について得意げに講釈を垂れていた相手が、自分よりも遥かに洗練された技術を既に身につけていた。しかも、その理想とも呼ぶべき高みへ至った技術を、一目で見破った人間までいるという。
滝のようにフリーレン達へ浴びせられていたヴォネの猛攻が、フリーレンの端的な告白によって停止した。
嘘だと疑う余地はない。それが事実であることは、誰よりヴォネ自身が理解している。
まさしく、フリーレンの狙い通りだった。
ヴォネと路地裏で邂逅してから今に至るまで、その振る舞いには魔族特有の驕りが不気味なほど感じ取れなかった。
だが、所詮は魔族だ。
どれだけ異端であっても、どれだけ取り繕うのが巧みでも、根底には捕食者としての驕りが潜んでいないはずがない。
事実として、自身には魔法の才が無いと宣いながらも、寿命という才と、そこから得られる時間を拠り所として、その言葉の端々には高い自己への肯定が滲み出ていた。
そもそもこの一方的な喋り倒し具合も、自身の都合を押し付ける傲慢な魔族のものだ。
だから一度、その鼻っ柱を叩き折った。
魔力制限の遥か先を既に人類が先回りしていること、最後に無才であることを突き付けたことは、決して単なる事実確認でも、断じてフリーレンの私怨でもない。
そして実際にヴォネは言葉を失った。
私怨ではないが、それはそれとして少しばかり、フリーレンの溜飲が下がりはした。
「天才なのじゃな。わしを阻み、挫き、淵へと突き落とすのは」
突きつけられた事実を咀嚼するように独り言を零す。
そのまま改めてヴォネは俯いた姿勢のまま動かなくなった。
ただ、一つだけ。
フリーレンの胸中には、嫌な予感が過っていた。
——やっぱ人間こわ~。
ヴォネがポツリと口にした言葉。
それ自体は間の抜けた響きだったが、その中に混じっていた“やっぱ”という僅かな一言。
まさか——今味わった衝撃も絶望も、既に何度も経験してきたものだとしたら。
こうして打ちのめされていることさえ、ヴォネにとって想定の内なのだとしたら。
「これは尚更……いや、絶対に語らねばならなくなったのぅ。わしが直面した二つ目の問題にして、きっかけを」
顔を上げたヴォネの双眸には、これまで以上のやる気が満ち満ちていた。
嫌な予感は見事に的中した。というより、やらかした。
本日二度目のフェルンとシュタルクの冷たい眼差しがフリーレンに突き刺さる。
「……私のせいなの?」
「今ので完全に火がついたよな」
「そうですね」
つくづく、魔族についての経験則は外れるのに、葬送としての勘だけは当たる魔族だった。
「わしの才は寿命と言うたが、正確にはそれによって齎される時間じゃ。多くの同族達には持ち得られぬほどの時間を、手にすることができたのじゃ」
どれほど歩みが遅くとも、道が途切れないのであれば、いつかは先へ進める。
少なくとも、寿命に志を断たれることだけはない。
心が折れさえしなければ。
「じゃが時間が流れておるのは何もわしだけではない。そして時間は、わしの……わしだけの味方でもない」
瞳を煌々と輝かせ、ヴォネは続ける。
「天才というのは恐ろしい。とりわけ、人間の天才はな」
三人へ一瞥を送りながら静かに告げる。
「何が恐ろしいかって、天才というのはわしの与り知らぬところで突然生まれ、今この瞬間にも成長と研鑽を積み重ねておることじゃ。その中でも特に短命種は抜きん出すぎておる。良いか? おぬしらは寿命が短い代わりに成長が著し過ぎるのじゃ。わしにとっての百年と、短命種にとっての百年はまるで意味が違う。これヤバいと思わんか? 流れている時間そのものは同じなのじゃぞ?」
それは長命種が——ましてや魔族が、人間に向けて持っていてはならない視点だった。
「そうなれば、いざ出会った時には、わしをぶっ殺すことなど些事に過ぎぬほど強くなっておっても、なんら不思議ではない」
言葉とは裏腹に、ヴォネはニヤリと薄い笑みを浮かべる。
「事実として、フェルン、それにシュタルクよ。状況によってはおぬしらに殺されるイメージが、わしは余裕でできる。フリーレンはともかくとして、まだ齢二十前後に過ぎぬおぬしらにじゃ」
ヴォネは視線だけを動かし、二人を交互に見やった。
その眼差しには恐怖だけでなく、どこか期待にも似た熱が宿っていた。自身の命を脅かしかねない相手に向けるものとして、ひどくちぐはぐだった。
だが、フリーレンに眼を戻した瞬間、ヴォネの顔から一気に血の気が引いた。
「あ、今の『フリーレンはともかく』というのはな? 決しておぬしを年寄り扱いしたわけではなくてな? かつて魔王を倒した勇者一行の魔法使いであり、葬送の名を冠するおぬしを敬った上での発言だったのじゃ。じゃから、先ほど若人として扱わなんだことも決して貶す意図があったわけではなくてな? 短命種にとって千年は果てしない時間で、それを越しておる者が、わしの眼に若く映らんというだけで——」
「私、何も言ってないんだけど」
もはや風物詩となりつつある大仰な身振り手振りを交え、ヴォネは勝手に弁明を続ける。
そもそもフリーレンは最初から一切気にしていなかった。それなのに、早口で捲し立てて弁明を重ねるのは一体なにごとか。
なんなら最後の蒸し返しに関しては、もはや弁明にすらなっていない。
「無論、種族の異なるおぬしへ、そのまま当て嵌めるのは乱暴かもしれん。じゃが——わしらは同じ魔法使いじゃ」
フリーレンの内心で淡々と進んでいた怒りのカウントが、最後の一言でひとまず止まった。
「ならば、同じ視点に立たねばなるまいと、わしはそう思う。じゃなければ、待っているのは時代による轢殺じゃ」
——あぁ。
やはり、この魔族は確実に殺さなければならない。
「それでもな、魔法使いの天才はまだ納得できるんじゃ」
急速に冷え切っていくフリーレンの内心を知ってか知らずか、ヴォネは続ける。
「納得ですか? 理解ではなくて?」
「うむ、納得じゃ。卓越した魔力操作、術式を読み解き構築するセンス、イメージという曖昧なものを現実へと変える柔軟な発想、理論によって術式へと落とし込む思考回路。どれもわしになく、持ち得ぬ。時には何が起きているのか、理解が及ばぬこともざらにある」
それでも、ヴォネは愉しそうに眼を細める。
「じゃが、理解できずとも
思い浮かべているのは果たして誰か。いつか視たという神話の時代のエルフか、目の前にいるフリーレンか、殺されるイメージができると断言したフェルンか。
変わらず薄く細められたヴォネの瞳には、憧憬と畏怖が区別なく溶け合っていた。
「じゃがのぅ……戦士だけは違う」
「……なんで俺を見るんだよ」
「おぬし、戦士と名乗っていたじゃろう?」
「そうだけど」
シュタルクの返事を受け、ヴォネは頬杖をついた。露骨な嫌悪が滲み出す。
「シュタルクよ。わしはな、戦士が嫌いじゃ。大嫌いじゃ。大っっっ嫌いじゃ」
恨めしげに、まるで呪詛のような言葉をぶつぶつと零し始める。
「この! 世で! いち! ばん! 嫌いじゃ!」
「……そこまで言わなくてもいいだろ」
「いーや、悪いが言わせてもらう」
これまで纏っていた胡散臭いほど友好的な態度を崩す。苛立っているのか、卓上を人差し指で叩き始めた。
「魔法使いの技は魔法として現れる。魔力を操り、術式を構築し、イメージを現実へと描き出す。どれほど理解できずとも、そこには確かな理屈があるのじゃ。しかしな、おぬしら戦士ときたらどうじゃ? 目立った魔力の流れも、術式の気配も見せず、一瞬で間合いを詰め、大地を踏み抜き、得物を振るう。相手は死ぬ」
一拍置いて。
「ふざけておるのか?」
心の奥底からの嘆きだった。
「至って真面目だけど……」
「だーかーら問題なのじゃ! そう思うじゃろう、フリーレン!?」
「私に同意を求めるな」
「じゃって、おぬし勇者一行で旅をしておったのじゃろう? 身に覚えがないとは言わせんぞ。勇者ヒンメルに、戦士アイゼン。人づての話でしか聞いたことはないが、どうせふぃじかるお化けじゃったのだろう」
「……ヒンメルは勇者だよ」
「剣を持っておる時点で、わしにとっては同類じゃ!」
随分と乱暴な分類だった。ヒンメルが聞いていたなら、きっと不満そうに訂正しただろう。
しかしフリーレンの脳裏には、魔法が完成するよりも先に敵陣へ斬り込んでいたヒンメルと、普通なら致命傷になりかねない攻撃を受けても立ち上がっていたアイゼンの姿が過る。
「……まぁ否定はしない」
「ほれ見ろ!」
葬送のフリーレンからの思わぬお墨付きを得たヴォネはますます勢いづく。
「それに戦士にだって技術はあるぞ」
「知っておるわ! じゃが魔法使いのわしにはまるで分からんのじゃ!」
「それはアンタの都合だろ?」
「そうじゃ、だから嫌いじゃ」
「開き直った……」
「ならば言わせてもらうが、おぬしらは傷を負っても立ち上がり、骨が折れておろうが翌日には鍛錬を始めやがるじゃろ!? これの一体どこに技術があるんじゃ!? 理屈はどこへ飛んで行った!?」
「翌日はまだ早いんじゃないか?」
「つまり二、三日経てば出来るということじゃな!? 何も変わらんではないか! これだから戦士は嫌いなんじゃ!」
ヴォネは憤然と、再び同意を求めるようにフリーレンを見る。
「……アイゼンも怪我が治りきる前から動いていたね」
「やっぱりな!」
思い返すまでもなかった。
もはや半分は被害妄想である。
ただし、フリーレンとフェルンがこれまで出会ってきた戦士達を思えば、残り半分までは否定できなかった。
「……随分と実感が籠もっていますね」
「そりゃあもう、何度も酷い目に遭ったし、他の者が遭わされるところも見てきたからのぅ……おまけに一度だけ、正真正銘マジでやべぇ理不尽の化身のような奴と遭遇したことがある」
不満を垂れ流していたヴォネの声が不意に低くなった。
忙しなく叩いていた指も止まり、視線だけが遠い過去に向けられていた。
「……そいつと戦ったのか?」
「いんや、戦いはせんかった。出会い頭に『これ死んだか』とは思ったが」
冗談めかした言葉とは裏腹に、ヴォネは笑っていなかった。
「そのまま死んでいればよかったのに」
「ぶっちゃけわし自身が今もこうして生きておるのが奇跡じゃと思っておる」
これまで幾度か浮かべていた、過去を懐かしむ表情とは違う。思い出すだけで背筋を撫でられたような、心底嫌そうな表情だった。
「まぁ、あやつの話はよい。今でも思い出すだけで気分が悪い」
ヴォネは忌々しそうに首を振り、遠い過去から意識を引き戻した。
そして改めて、向かいに座るシュタルクへ目を向ける。
「……そういえばシュタルクよ。どうせ、おぬしにも師がおるのじゃろう?」
「どうせってなんだよ……もちろん居るよ」
「……まさかアイゼンじゃなかろうな」
「アイゼンだけど」
ヴォネはしばし黙り込み、ゆっくりと目を閉じた。
「…………はぁ~」
やがて肺の中身を全て吐き出すような、深く長い溜息をつく。
「なんだよ、その反応」
「いや……そうか、やはりな」
「なにが?」
「見事に懸念が的中してもうたと思ってな。なんならおぬしに関してはもっと最悪じゃあ……」
饒舌、憤怒、諦念と続き、最後のヴォネの表情は涙目だった。
「俺が泣かせたみたいになってるんだけど!?」
シュタルクが不満を口にしても、ヴォネの耳には入っていないのか、沈痛な面持ちのままだった。
「実際、おぬしはわし泣かせにもほどがある。よく聞くのじゃ、これがまたもや直面、いや直撃を喰らった三つ目のきっかけにして問題」
これまで二度、その“きっかけ”とやらからヴォネの饒舌は始まった。
今回の火付け役はシュタルクだった。
「シュタルク様、なにをしているんですか」
「俺のせいなの!?」
「これで仲間だね」
フェルンのお説教仲間に加わったことをフリーレンはひどく歓迎した。やはり旅は道連れに限る。
「おぬし達、これを最初に考えた人間が誰か分かるか?」
ヴォネの指先には、一本のフライドポテトが摘ままれていた。
「……今度はなんだよ」
「なんだも何も、見ての通りじゃ。芋を切り、油で揚げ、塩を振る。単純でありながら、一つの頂きに達した料理、フライドポテトじゃよ」
「もう食べたし、それは分かるけど……」
「うむ。それで、知っておるか?」
話を聞いているのか、いないのか。
先ほどまでの戦士の話から、今度は揚げ芋。三人の警戒に、困惑が混じる。
しかし、ヴォネの沈痛な面持ちは変わらなかった。どうやら本人の中では繋がっているらしい。指先の芋だけが、返答を催促するように揺れていた。
「俺は知らない」
「私も知りません」
「……私が知るはずないだろ」
「わしは知っておる」
謎の展開に付き合っていたら、いつの間にか謎のマウントを取られていた。
「聞いて驚くなかれ。この料理は、わしが昔通っておった食堂の主人が考えたものじゃ」
ふふん、と鼻を鳴らし、ヴォネは胸を張る。
三人から返事はなかった。驚けと言うものだから、てっきり自分で考案したとでも言い出すのかと思えば、もっぱら他人の功績を自慢しているだけだった。
「この街で生まれた料理なんですか?」
「いんや。今の帝国領で言えば、この街からはずっと離れた場所じゃ」
遠い土地の食堂を思い浮かべるように、ヴォネは僅かに目を細めた。
「そもそもの始まりは、余った大量の芋をどう捌くか、というだけの話でな。凝った料理を増やそうにも手間も材料もかかる。そうして頭を捻っておるうちに、一つの単純な結論に辿り着いた。切って揚げる。ただそれだけじゃ」
摘まみ上げた芋に目を落とす。表面に散った塩の粒が、灯りを受けて白く輝いていた。
ヴォネはそれを、宝石でも検分するかのように眺める。
「ぶっちゃけ、最初は微妙じゃった。じゃが、切り方を揃え、油の温度を変え、味付けを工夫してな。少しずつ、美味くなっていったのじゃ」
芋が時計の振り子のように、ゆっくりと左右へ揺れる。
「それを見ておる時、ふと思ったんじゃよ。料理人というのは、魔法使いに似ておるとな。魔力を食材に見立て、術式をレシピとする。素材の質だけでは決まらん。組み合わせ、分量、手順——どんなものを作りたいか思い描き、実現する方法を探る。そこにはイメージと理屈、その両方が要るじゃろう?」
ぴたりと止めた芋を、瞬きの間に人差し指と中指の間へ持ち替える。そして今度は、くるりと回し始めた。
「そうした試行錯誤の果てに、一皿の料理が完成する。それが、わしには一つの魔法を作り上げておるように見えたのじゃ」
変わった見方だったが、言わんとすることは分かる。
分からないのは、なぜシュタルクの師匠からそんな話になったのか、ということだった。
「じゃが、問題はここからじゃ。その主人は歳を取り、厨房を退いた……じゃがの、その息子が店を継いだんじゃ」
「……それはよくある話じゃないか?」
「うむ。実にありふれた話じゃ」
まるで一大事を打ち明けるような溜めは、なんだったのか。
シュタルクの指摘を、ヴォネはあっさりと肯定する。
「ごくごく、ありふれた、な」
もう一度呟き、ようやく手遊びをやめる。指先の芋を、小皿に用意された赤いソースへ軽く浸した。
「店を継ぐとは、建物を貰い受けるだけではない。その店で出しておった料理も、作り方と共に受け継ぐ。親父の、そのまた親父から伝わったものも、もちろん親父が考えたフライドポテトもな」
ヴォネは空いている方の手を開いた。
「芋の切り方。油の温度。揚げる時間。味付け」
一つ挙げるごとに、指を折る。
「息子は、それを何も知らぬところから探し直す必要がなかった。しかも親父は厨房を退いただけで、別に死んではおらん。うまくいかぬなら訊けばよい。手元を見てもらうことも、実際にやってもらうこともできた」
「……教わる相手がいたってことか」
「そうじゃ。そうして同じものを作れるようになったら、今度は息子が試し始めた。芋の種類を変え、揚げる時間を変え、二度揚げなんぞも試しておった。手間を減らそうと、専用の器具まで拵えての」
折った指を、今度は一本ずつ戻していく。
「しかもな? 始まりは在庫の処分に過ぎなかったものが、添え物として人気を得て、ついにはそれだけを目当てに客が来る一品になった。そうなると、今度はこれに合う料理を作り始めよったのじゃ」
その指が、卓上に残る一品を示す。
旅の途中でも何度か口にしてきた、ハンバーガーだった。
「……ハンバーガーの方を、ポテトに合わせたんですか」
「あの店ではな。肉の味付けも、パンの加減も、随分と試しておったわ」
フェルンは皿を見下ろした。
見慣れたハンバーガーの添え物だと思って、何気なく口に運んだ芋。先ほど驚かされたのは、その組み合わせの美味さだった。
どちらに合わせて、どちらが作られたのか。考えたこともなかった。
「最終的にはポテトに限らず、わしは息子の作るものの方が美味いと感じるようになったぞ」
「それって、親父さんはどんな反応だったんだ?」
「誇らしげじゃったよ。祖父の代から築いてきた、この店の先は安泰じゃとな」
軽く笑って語る横顔には、どこか懐かしむような色があった。
「まぁ、かつての戦争で、あの土地には人が住めんようになってしもうたがな」
一瞬だけ、その横顔に翳が差す。
シュタルクが何かを言おうとするより早く、ヴォネは顔を上げた。
「じゃがの。面白いのは、ここからじゃ」
今しがた差した翳りは、もう霧散していた。
「店はない。あの親父も、息子も、とうにおらん。場所だってこれほど離れておる。それなのに料理はここにある。ハンバーガーと一緒にな」
指先の芋を、三人に示す。
先端を染めた赤いソースが、小さな松明の火のように見えた。
「ここの主人にも訊いてみたが、切り方も揚げ方も、あの息子が工夫しておったものがちゃんと残っておる。使う器具もよく似ておった。じゃが、あの食堂の名は知らんかった」
ヴォネの眼に、少しずつ熱が灯る。
「それでいて、このトマトを使ったケチャップというソースは、親父の頃にも、息子の頃にもなかった。息子が添えておったのは、卵と油で作るマヨネーズじゃ。どこかで誰かが、別の組み合わせを試したんじゃろうな」
赤くなった芋の先を、フェルンへ向ける。
「これが何を意味するか、おぬし達なら分かるじゃろう?」
「……受け継がれる間にも、改良されてきたということですか」
「ご名答じゃ」
空いた手で、ぱちんと指を鳴らす。
「作った者の名を知らずとも、そやつの残したものを使える。遠く離れた土地へも、血の繋がらぬ者へも——人から人へ、連綿と渡していける」
黒い双眸の奥で、灯っていた熱が金色に燃え上がる。
「そうして今もここに並んでおるのじゃが……これはあまりにも恐ろしく、そして素晴らしいものじゃと思わんか?」
料理を褒めているだけではない。
フリーレンは、ようやく話の行き先を見定めた。
「本人が、本人達がもう生きておらずとも、積み上げたものは消えぬ。受け取る者がおり、更にその先へ進んでいく」
人類が知識を共有し、魔法を発展させること。
その脅威は、あの無名の大魔族も理解していた。
やはりと言うべきか、目の前の異端も同じことに気付いていたらしい。
「シュタルクよ。おぬしも師であるアイゼンから教わり、学び、心得たのじゃろう? 戦士としての技術を、心構えを」
「……まぁ、な」
「フェルン、おぬしも同様じゃ。今もフリーレンから、様々なことを学んでおるのじゃろう?」
「…………」
フェルンは答えなかった。
師の教えを、この魔族に語って聞かせる気はない。しかし、その沈黙で否定できる話でもなかった。
「エルフにドワーフ。人間同士どころか、長寿の種が培ったものまで、その短い一生へ取り込んでおる」
ヴォネは思いきり背もたれへ身体を預けた。
「はぁ~、嫌じゃ嫌じゃ。ホント勘弁してほしいものじゃ」
「別に、教わったこと全部ができるわけじゃないぞ。師匠みたいにはいかないし」
その言葉に、ヴォネが跳ねるように身を起こす。
「当たり前じゃろう。レシピを読んだだけで料理上手になれるか。息子だって、最初は芋を焦がしておったわ」
「……じゃあ」
「じゃが、うまくできぬときに、何を確かめればよいかは教わっておった。おぬしもそうではないか?」
シュタルクが口を閉じる。
「身体の動かし方がおかしい。力を込める場所が違う。そう指摘してくれる者がおれば、ただ闇雲に斧を振り続けずに済むじゃろう。その指摘一つをするために、師がどれほどの失敗をしてきたか。おぬしは、全部を同じようにやり直す必要がない」
師との鍛錬を思い返したのか、シュタルクは僅かに目を伏せた。
ヴォネはそれを見届けてから、深々と息を吐く。
「わしは昔、人間の恐ろしさとは、突如生まれる天才のことじゃと思うておった。わしが一つの魔法に手間取っておる間に、生まれ、育ち、追い越していく。じゃが、そやつとてやがては老いて朽ちてゆく」
食器の触れ合う音が、隣の卓から響いた。
「ところがじゃ、ようやく一人いなくなったと思えば、次の者がそやつの残した技を使っておる。しかも、それを土台に、自分でも何かを積み重ねておるのじゃ」
「……戦士が引退しても、戦い方までなくなるわけじゃないってことか」
「そうじゃ。しかもおぬしの師はアイゼンじゃぞ。理不尽に後継ぎがおったと聞いて、どうして喜べようか」
「会ってもない師匠を理不尽って呼ぶなよ……」
抗議には、先ほどまでの困惑がなかった。
今となっては、あの溜息の意味だけは分かってしまう。
「人間は短命じゃ。じゃが、人間の積み重ねまで短命とは限らん。わしが百年研究しておる間に、百年分を捨ててやり直してくれるわけではなかったのじゃ」
ヴォネはようやく、長らく摘まんでいた芋を口へ運び、投げ込んだ。
「……冷めてしまったのぅ」
「それだけ喋っていれば、当然ですよ」
「じゃが美味い。これも改良の末じゃ」
指摘を意に介さず、残りも口へ放り込む。
「最初の頃は、冷めるともっと油が気になっての。今食べたものは、あの親父一人では作れんかった味じゃ。生み出した者が知ることもなかった味を、こうしてわしが食っておる」
指先を布で拭い、赤いソースの残る小皿へ目を落とした。
「……料理人を魔法使いに見立てたなら、そこも同じではないかと思ったのか」
フリーレンが言うと、ヴォネは嬉しそうに頷いた。
「その通り。料理を作るところまで重ねておいて、その後だけ別物とする理由はないじゃろう? レシピが残り、教わる者が工夫を加える。ならば、魔法にも同じことが起こるのではないかと踏んだのじゃ」
料理人の覚え書きを、魔導書に。
厨房で交わされる助言を、魔法の教えに。
「一人の魔法使いが生涯をかけて生み出した術を、次の者は学ぶところから始められる。もちろん、わしのように習得だけでえらく手間取る者もおる。じゃが、それでも、生み出した者と全く同じ苦労を繰り返す必要はない」
「……理論が残れば、誰にでも扱えるようになるわけではありません。魔法によっては、同じように習得すること自体が難しいと思います」
「もちろんじゃ。じゃが、扱えぬからといって、何も学べぬとは限らんじゃろう。自分にも使えるよう改良してもよい。仕組みの一部を、別の魔法と組み合わせてもよい。生みの親が思いもせんかった使い道を見つけてもよいのじゃ」
ヴォネは、小皿とハンバーガーを順に指した。
さっきまで別々の話に思えたものが、卓の上で一つに繋がっていく。
「ただ、あの頃はまだ予感に過ぎんかった。魔法を学べる者は少なく、人間の間では表立って研究することさえ、憚られておった時代じゃったからの。料理のように広まり、多くの者が工夫を持ち寄るなど、随分と遠い話に思えたものじゃ」
そこで、一度言葉を切る。
「その景色が変わり始めたのが、千年前じゃよ」
ヴォネの笑みが深まる。
フリーレンは黙って、続きを待った。
「フランメという一人の人間が、皇帝に魔法研究を認めさせ、宮廷で魔法使いを育て始めた。自ら研究するだけではなく、学び、研究する者そのものを増やしていったのじゃ」
聞きかじった英雄譚の登場人物でも、おとぎ話の魔法使いでもない。
目の前の魔族は、フランメを自分が生きた時代の人間として語っていた。
「無論、一晩で何もかも変わったわけではない。じゃが、学べる者が増え、研究が残り、その研究を使う者が現れた。フランメが死んだ後も、それは続いた」
先ほどまで頻繁に動いていた両手が、卓上で静かに重なる。
「あやつの理論を学んだ者が、あやつの知らぬ魔法を生み出した。さらにその魔法を、別の者が学び始めた。その流れを見て、ようやく確信したのじゃ」
組んだ両手の上へ顎を乗せる。
「あの食堂で見たことが……やはり、魔法でも起こっておる、と」
その声音は、ひどく満ち足りていた。
「嬉しかったぞ。魔法のことでは見当違いばかりしてきたわしの予感が、そんなところで当たったんじゃ。しかも、当たった先にあるのは、まだ見ぬ沢山の魔法たちじゃぞ?」
フリーレンの脳裏に、年老いた師の姿が過る。
短い生涯で何を残せるのかと、かつて自分も問うた。その答えは、千年経った今も受け取っている。
まさか、よりにもよってこんな魔族まで喜ばせているとは、さすがの
「そしてな、受け継ぐ者は一人だけとも限らんのじゃ」
重なっていた手がほどけた。
「同じ理論を学んでも、使う者の欲しいものは違う。より遠くへ届かせたい者もおれば、少ない魔力で済ませたい者もおる。効率を多少下げてでも威力を増したい者、弱くとも長く保たせたい者だっておるじゃろう」
ヴォネの指先が、右へ、左へと宙を辿る。
「戦場で使っておった仕組みを、暮らしに持ち込む者もおる。逆も然りじゃ。別々に研究しておったものを繋いで、どちらとも違う魔法を作る者もおる。同じ幹から、幾つもの枝が伸びていくのじゃ。もちろん、そこから離れた場所で、まったく新しい魔法を生み出す者もな」
「……さっきの、芋に合わせて別の料理を作るみたいな?」
「いぇす。あれも、芋の揚げ方を変えるだけでは生まれんかった工夫じゃろう?」
シュタルクの返答に満足したらしく、ヴォネの指が更に忙しくなる。
「しかも、全員が天才である必要すらない。ある者が一箇所を直し、別の者が手順を減らす。大発明でなくとも、それを教わった者は、少しだけ先から始められる。そうした者が、同じ時代のあちこちにおるんじゃぞ」
ヴォネが一つの魔法を覚える間に、人間達は別々の場所で試し、失敗し、それぞれの成果を残していく。
「一冊をようやく読み解いたと思えば、そこから枝分かれした魔導書が何冊も見つかる。そちらを学んでおるうちに、前の術式を改良したものまで出てくる。戻って読み直してみれば、今度は別の理論と繋がっておる。いやはや、参った。とても追いつかん」
「……困っているようには見えませんが」
「困っておるぞ。どれから学ぶか決められん」
フェルンが口を噤む。
確かに困ってはいるらしかった。想像したものとは、随分と種類が違ったが。
「全部が残るわけじゃないよ。忘れられて、失われてしまう魔法もある」
フリーレンの口から、ふと言葉が零れた。
長い旅の中で、拾い上げられたものもあれば、間に合わなかったものもある。
ヴォネの指の動きが止まった。
「そうじゃのぅ……今はあまりにも移り変わりが激しい。おまけに、戦争だの紛争だの、諍いも絶えん。全く、生を途中で摘む行為なぞ、愚の骨頂じゃよ。どれほどの才と魔法が潰えてしもうたか」
心底呆れたように、首を振る。
言葉だけなら、それこそ人類の守護者のようにさえ聞こえた。
「じゃが、全ては残らぬからといって、残ったものまでなくなるわけではあるまい。まして、わしが立ち止まっておっても、世の中は待ってくれん」
再び、黒の奥で金色が揺れる。
「幾千年も学んできて、何度も挫かれてはやり直してきた。じゃが、この千年は格別じゃ。振り返る度に、あの食堂で想像したよりも先へ進んでおる。あのフランメ一人の生涯にさえ、まだ追いつけておらんのじゃよ。死んだ後まで、学ぶものが増え続けるのじゃからな」
困り果てたように首を傾げる。その口元は、少しも隠す気なく綻んでいた。
「まこと、最高の時代になったものじゃ」
「お前を殺せる魔法も増えているけどね」
弾む声に、フリーレンが冷や水をかける。
「
フェルンは否定しなかった。
ヴォネもまた、うむうむと頷いていた。
「そりゃあ、そうじゃろうな」
返事が軽い。
指摘に驚いた様子もなければ、気まずそうに笑みを引っ込めることもなかった。
「わしにとって都合のよい魔法だけが増えるはずもなかろう。人類の魔法が発展するというのは、つまりはそういうことじゃ。じゃから最初から、恐ろしいと言っておる」
「……自分が殺されるかもしれないって、分かってるんだよな?」
改めてシュタルクが確かめると、ヴォネは怪訝そうに眉を寄せた。
「当たり前じゃ。むしろ、なぜ分かっておらんと思った?」
「ずっと嬉しそうだからだよ」
「嬉しいからの」
「そこなんだけど!?」
話が一周した。
「怖くないんですか」
「怖いに決まっておるじゃろうが。わしは死にたくないぞ? めちゃくちゃ死にたくない」
今度は即答だった。
フェルンへ向き直った顔は、真剣そのものだ。
「……なら、もう少し嫌そうにしてもよくないか?」
「さっきから何度もしておるじゃろ。おぬしの師がアイゼンじゃと聞いたときなど、ちゃんと絶望して溜息までついたぞ」
「あれ、そのまま受け取ってよかったのか……」
恐怖を笑い飛ばしているのでも、死を覚悟しているのでもない。
嫌なものは嫌で、怖いものは怖い。
それでも、知らない魔法が増えることが、どうしようもなく嬉しいらしかった。
「先ほど言うたように、築き上げておる最中を潰してしまえば、わしが学ぶものまで減るではないか。せっかく誰ぞが思い付くはずの、わしには思い付きもせん魔法を、わし自身がなくしてどうする」
「出来上がったら、お前に使われるかもしれないよ」
「それは当然、承知の上じゃ」
ヴォネは大真面目に胸を張った。
「天才は瞬く間にわしを追い抜き、人間の群はわし一人では追いきれぬ広がりを見せる。時代はいつだってわしに襲い掛かる。じゃが、わしはそれを望んだのじゃ。意地でも食らいつく。地を這ってでも、先へ進むとな」
「……そんな必死になってまで、あなたは未知の魔法を見たいのですか」
「見たいだけではないぞ。きちんと理解して、わしも使えるようになりたいのじゃ」
そこは譲れないらしく、きっちりと訂正が入った。
「それに、ようやく覚えた魔法が、百年後には別の姿になっておるかもしれん。そのときには、もう一度学びたい。そこから更に何が生まれるかも知りたい。じゃから、死んでしまっては困る」
未来を語っているのに、どこまでも自分の話だった。
その先にある魔法を、自分が欲しい。そのために、自分が生きていたい。
「のぅ、フリーレン。おぬしなら、分かるじゃろう?」
フリーレンは、僅かに目を細めた。
未来の魔法を楽しみにすること。その一点まで否定する言葉は出てこなかった。
昔、同じような警告を受けた自分も、随分と呑気な返事をした覚えがある。
「……知らない魔法が増えるのは、私も嬉しいよ」
「じゃろう!」
「でも、お前を生かしておく理由にはならない」
「むぅ……まぁ、そうか」
ヴォネは不服そうに口を曲げたが、それ以上は言わなかった。
魔法の好みが似ているからといって、自分が見逃されるとは思っていないらしい。フリーレンの冷たい判断に、自分だけの例外を求める気もないようだった。
「フリーレン様。理解できるんですか」
「魔法の話だけならね」
「……そうですか」
フェルンは二人を見比べた。
その視線の意味に気付いて、フリーレンが眉を顰める。
「一緒にしないで」
「まだ何も言っていません」
シュタルクも何かを言いかけたが、口を閉じた。
ここで加わると、今日の話だけでは済まなくなる。旅の途中でも蒸し返されるのだ。あのゆっくりとしたカウントダウン付きで。
「しかし、このままでは、わしの夢はいつ叶うんじゃろうなぁ」
一方、生かしておけないと言われた当人は、呑気に頬杖をついていた。
「一つ覚えれば、その先が三つ見つかる。三つとも覚えた頃には、また増えておる。ただでさえ習得が人よりずっと遅いというのにのぅ……」
「……全部覚えたいんだろ。増え続けたら、いつまで経っても終わらなくないか?」
シュタルクの指摘に、ヴォネはしばし目を瞬かせた。
「……そうじゃな」
そして、ひどく嬉しそうに笑った。
「まだまだ、長生きせねばならんのぅ」
「だから、そこは困れよ……」
結局、今の指摘も長生きしたい理由を一つ増やしただけだった。
フリーレンは小さく息を吐く。
魔法が増えることを喜ぶ気持ちは分かる。だからこそ、始末が悪い。
この魔族が話し終えるまでの時間も、一向に減る気がしなかった。
実際、話はそこから、もう一段先へ進んだ。
料理を見て抱いた予感は、フランメ以降の人類の歩みによって裏付けられた。では、魔族の魔法も、いつかその積み重ねに加わるのではないか。
術者自身の感覚に深く根差し、人類には理解できなかった魔法。それを解き明かし、理論として残し、別の者が使い、改良する。
今やフェルンも使いこなす一般攻撃魔法——ゾルトラークこそが、その予感への答えだった。
「成り下がったのではない。一般攻撃魔法へと昇華したのじゃよ」
クヴァールという一人の魔族が生み出した術を、人類が受け継ぎ、自らの魔法として発展させた。
生み出した者にも、解き明かした者達にも、ヴォネは惜しみなく賛辞を送った。
灰色の前髪を揺らし、卓へ身を乗り出して語る。その勢いは、周囲の喧騒に少しも負けていなかった。
フリーレンは、長く息を吐いた。
その横顔に疲労が滲んでも、目の前の魔族から視線を外すことはなかった。
人類の進歩を喜び、人間の死を惜しむ。
魔族を殺す術まで褒め称えながら、共存を説くわけでも、自分を見逃すよう訴えるわけでもない。
これだけ聞けば、少なくとも人間に害をなす理由などないように思える。
だが、フリーレンは知っていた。
この魔族が、かつて何に手を伸ばしていたのかを。
「……ところでさ、あの結界は何だったの」
「結界?」
「五十年くらい前。黄金郷のマハトを閉じ込めていた大結界に、お前は外から魔力を流していたよね。何をしていたの?」
ヴォネの口が止まった。
片手を宙に浮かせたまま、目を瞬かせる。
「…………え、待て。なぜ、おぬしがそれを知っておる?」
素に戻ったような、間の抜けた声だった。
大仰な身振りも、わざとらしい溜めもない。初めて聞かされた事実を確かめるための、短い問い。
「おぬし、あそこにおったのか?」
「私が見たのは、マハトの記憶だよ。その中に、お前がいた」
ヴォネは動かなかった。
今の言葉を一つずつ咀嚼するように、口を開きかけ、閉じる。
「…………ん? あやつの記憶を読み取ったのか? おぬしが?」
「読み取ったのは人間の魔法使いだよ。私は、渡された記憶を解析しただけ」
エーデルが命懸けで持ち帰った記憶。
マハトの魔法を解き明かすために辿った膨大な年月の中に、この奇妙な訪問者の姿も残っていた。
「は? 人間が? 魔族の精神に? ……ヤバすぎじゃろ。やはり一級魔法使いは化け物しかおらんのじゃな」
「彼女は二級だけどね。でも、優秀で勇敢な魔法使いなのは間違いない」
「いや、どう考えても一級じゃろ。それで二級はおかしいじゃろ」
「話を戻すから」
「えぇ……」
人間とは異なる魔族の精神に潜り、記憶を持ち帰る。それだけでも途方もない。その相手がマハトで、実行したのは二級魔法使いだという。
おまけにフリーレンは、その記憶から、半世紀近く前の些細な一幕まで拾い上げていた。
何から驚けばよいのか、順番が決まらない。
だが徐々にその偉業を理解していき......またもや心が折れ、絶望し、やがて歓喜する。これまで何度も繰り返してきたサイクル。
しかし、詳しく訊く暇は与えられなかった。
「お前は、マハトを解放しようとしていたの?」
「……いや。別にあやつに用はなかった。人間があのマハトを閉じ込めたと聞いての。どのような結界か、一度見てみたかったのじゃ」
「見に行っただけじゃない。何か細工を施していただろ。まさか、解除しようとしていたとか言わないよね」
「うむ。解除を試みた」
そのまさかだと、あっさり頷いた。
「実に見事なものじゃったぞ。外から眺めるだけでも、幾つもの工夫が見て取れた。古今東西から集められた叡智の結晶じゃったな、あれは。古い術式も、新しい工夫も、複雑に組み合わされておる。最新最先端の技術で成り立っているあれは、どこがどう繋がり、何によって保たれておるのか。ほんの少し分かると、その先も知りたくなる。ならば、どこから手を付ければ解けるのかと、色々試してみたのじゃ。ああ、あれは美しかったのぅ……」
卓から持ち上がった指が、宙に見えない線を辿る。
先ほど、魔法の枝分かれを語っていた時と、よく似た動きだった。
「ほれ、難解なパズルを前にすると、挑戦したくなるものじゃろう? あれと同じじゃよ」
「解いていたら、マハトが出てきたんだよ」
「そうじゃな」
「また人間が黄金に変えられたかもしれない。それは考えなかったの?」
ヴォネは少しだけ首を傾げた。
「…………ああ、その後のことか。そこまでは考えておらんかった」
隣の卓で、誰かが笑った。
給仕が空の皿を抱えて通り過ぎ、厨房へ追加の注文を伝える。
四人の間に落ちた沈黙など知らずに、酒場は相変わらず賑やかだった。
「……危ないと思ったから、やめたんじゃないのか」
シュタルクの問いに、ヴォネは首を横へ振る。
「いんや、わしの手に余ったのじゃ。あれを解くには、どう見積もっても二百年以上はかかりそうでのぅ。数週間ほど試して、諦めた」
「二百年……」
「流石に長すぎるじゃろ。解いてはみたかったが、あの結界ばかりにかかりきりになるわけにはいかんのでの」
それにしても美しかった、と独りごち、残念そうに肩を落とす。
その残念さが何に向けられたものなのか、今度は三人とも間違えなかった。
「仮にだけど、もっと簡単に解けそうだったら?」
「そりゃあ、解いてみたじゃろうな」
フリーレンの問いに、返事はすぐに返ってきた。
人間に被害が出るから、手を引いたのではない。
自分の時間をそれだけ費やすつもりがなかったからだ。
「…………」
目の前の魔族は、先ほど人間の生を途中で摘む行為を愚かだと言った。
人が生きれば、知識が残る。後へ繋がる。まだ見ぬ魔法が生まれる。だから生きていてほしい。おそらく、その考え自体は偽りではない。
しかし、ひとたび見事な結界が目の前に現れれば、それを解いた後の人間のことなど思考から抜け落ちる。
結局のところ、ヴォネは人間を通して、その先にある魔法を見ているのだ。
人間を守るために、自分の好奇心へ歯止めをかけることなど決してない。
自らの無才を認め、他者の才能には敬意を払う。
それでも、自分の望みを他者の安全より優先する傲慢さは、何一つ変わっていない。
思えばこの長広舌も、こちらの都合より、自分の欲求を優先したものだった。
こいつに人間を殺すつもりがあるかどうかなど、やはり当てにはならない。
二千年以上人を殺していないという言葉が事実であったところで、結界に手を伸ばした事実も消えない。
やはり、こいつを生かしておくわけにはいかない。
「やっぱりお前は魔族だ」
「……そりゃ、そうじゃろう。最初からそう言うておるではないか」
何を今更、とでも言いたげだった。
相変わらず、人間と同じものとして扱われないことへの不満は見えない。
「だけど、分からないな」
「何がじゃ?」
「お前が、私に正体を明かした理由だよ」
ヴォネの目が、僅かに開いた。
「路地裏で訊いたこと、まだ答えていない」
「……おぬしと話がしたいと、言うたではないか。現にこうして——」
「それだけなら、魔族だと名乗る必要はなかった」
フリーレンは、ヴォネの紺色のスカーフへ目を向けた。
その下にあるものを知っていても、こうして座っている姿は、やはり人間の少女と少しも変わらない。
「腹立たしいけど、お前の人間の振りはよくできているよ。怖気がするほど巧い。正直、マハトの記憶でお前を見ていなかったら、あの店では気付けなかった」
魔力制限が粗いことと、魔族だと断定できることは別だ。
半世紀前の姿を知らなければ、少し変わった人間の魔法使いとして、すれ違っていただろう。
「そうか。それで、あの時……」
記憶を見られたと知り、こちらの動きを探りに来た。その可能性も、先ほどの反応を見る限りは低い。
それでも、この魔族は自ら正体を明かした。
「私達が疑っていると気付いた後も、人混みに紛れることはできた。お前は、私達が街の人を巻き込めないと分かっていたからね」
それを承知の上で、路地裏へ誘い込んだ。
自ら魔族だと名乗り、こちらの反応まで見越したような返事を繰り返してきた。
今日のこの会話が、即興で考えたものばかりとは思えなかった。
「お前は死ぬのが怖いんだろう。戦士をあれだけ恐れて、魔力を隠して、人間の振りをして。目立たないように生きてきたのに、私には自分から正体を見せた」
魔法を学ぶために、神話の時代から生き延びてきたという魔族。
自分より優れた者がいることを知り、その相手に殺される可能性まで、嫌というほど考えている。
話し相手が欲しかったというだけでは、その慎重さと噛み合わない。
「私がお前を殺そうとすることも、最初から分かっていた。そして、考えを変えさせようともしていない」
ヴォネは、相手がフリーレンだと知っていた。
“葬送”の異名が何を意味するかも、承知していたはずだ。
フェルンが、静かにヴォネを見据えた。シュタルクも椅子に預けていた背を離す。
フリーレンは声を荒らげず、最後の問いを置いた。
「話をしたいのは嘘じゃない。でも、まだ何かあるだろ」
返事はなかった。
ヴォネは俯き、卓上へ視線を落としていた。
先ほど、記憶の件を知らされた時の沈黙とは違う。灰色の前髪に隠れた顔の下で、口元がゆっくりと動いた。
「…………ふ、ふふ」
押し殺しきれなかった笑いが零れる。
路地裏で見せた、あの反応だった。
顔が上がる。
光の乏しい黒の奥に、金色が揺れていた。口の端が吊り上がり、人間の少女の笑みから僅かに牙が覗く。
何かを心待ちにしていたような無邪気さが、かえって底を知れなくしていた。
「表に出ようか、フリーレン」
フリーレンは目を逸らさなかった。
場所を変えられるならこちらにも都合がいい。この店で決着をつけるわけにはいかない。
「……いいよ」
フリーレンの椅子が引かれる。
同時にヴォネが立ち上がるのに合わせ、フェルンとシュタルクも腰を上げた。
そして三人はその小さな背を追った。
と、その前に。
ヴォネがぽんと手を打った。
「おっと、先に勘定じゃな。よし、ここは約束通り、わしが——」
「お前の汚い金で奢られるなんて反吐が出る」
財布を取り出した姿勢のまま、ヴォネが固まる。
さっきまでの不気味な笑みはどこかへ行っていた。
「……これは、魔物討伐の報酬じゃぞ。普通に働いて得た金なんじゃが」
「どうしてその言葉を信用できる?」
「…………」
魔族の言葉を信用してはならない。
その正論に今日何度も頷いてきたのは、他の誰でもないヴォネ自身だった。
「い、いや、じゃが、誘ったのはわしで……」
「私が払う。もういいから黙ってて」
取り合わず、フリーレンは給仕を呼んだ。
渡された勘定書きに目を落とし、その動きが止まる。
四人分の代金。そのおよそ七割が、ヴォネが個人的に注文したものだった。
「……お前、あれだけ喋っていて、いつこんなに食ったんだ」
「喋っておらん時じゃが」
「その時間、ほとんどなかっただろ」
シュタルクが空の皿を見た。
魔法の才能はないらしいが、こちらの手際には疑いを差し挟む余地がなかった。
「せめて、わしの分だけでも出させてくれんか。年上としての面目と、誘った者としての——」
「…………」
フリーレンと目が合った瞬間、ヴォネは黙り込んだ。
「……ご馳走になるのじゃ」
あれだけ止まらなかった口が、ようやく閉じる。
そのために払う額としては、あまりにも高いものだった。
支払いを済ませ、給仕が離れたところで、シュタルクが小声で言った。
「……なぁこれって、俺達が魔族に奢ったことにならないか?」
「言わないで」
「ヴォネの分は、フリーレン様のお小遣いから引いておきますね」
「……七割を?」
「ご自分で払うと仰いましたので」
今度はフリーレンが黙った。
ヴォネは既に、顔馴染みらしい店主へ片手を上げていた。
「馳走になった。また来るぞ」
ごく自然な挨拶だった。
店主も、いつもの客を送り出す顔で頷いている。
いつか人類に災厄を招きかねない魔族が、顔馴染みの客として送り出されていた。
その小さな背を追って、フリーレン達も店を出た。
扉が閉まり、賑やかな声が遠ざかる。
「アイツは絶対に殺さないとダメだ」
先を行く背中を見据え、フリーレンは低く呟いた。
結界の話を聞いたことで、改めて決心が定まったことだ。
「……それ、結界の話だよな?」
「当たり前でしょ」
「では、その勘定書きはもうしまってください」
「…………」
言われて初めて、フリーレンは手の中の紙へ目を落とす。
これ以上ないくらいに皺まみれの勘定書きが、そこにはあった。
後編で完結の予定だったんですが、想定以上にヴォネが喋りました。
長くなってしまったため、もう一話だけ続きます。
次回、完結編です。