【11月11日 午前1時過ぎ】
美甘井燈二の異常性を知れば知るほど、八幡の胸の内に小町への強烈な焦りが湧き上がってくる。
あんな人間の皮を被った怪物が、今もこの愛知コロニーのどこかを悠然と歩き回っているのだ。そして、この結界の外、東京の無機質なICUのベッドの上では、小町があの男の刻んだ呪印によって少しずつ確実に死へと近づいている。
八幡の表情から、先ほどまでの人間性と怪物の境界に関する深い苦悩の色がサッと消え失せ、代わりに鋭く冷たい氷のような殺意が張り付いた。
人間でいたい。人を殺すことになんて慣れたくない。自分がバケモノに成り下がるのは怖い。
それでも。
あいつだけは、美甘井燈二だけは、俺が絶対に殺す。その矛盾を抱えたまま、この泥沼を進むしかないのだ。
八幡はふと、ディスプレイを睨みつけていた視線を外し、牧野の方を見た。
「……待てよ」
「どうしました?」
「俺がこうして、コガネのシステムを使ってこいつの情報を見られるってことは……」
八幡は一拍の間を置き、自分の中で導き出した論理的な結論を口にした。
「こいつも、俺の情報を同じように見られるってことだよな」
牧野の表情が、ハッとして目に見えて硬くなった。
八幡の言う通りだ。総則9が追加された今この瞬間、美甘井燈二もまた、コガネに「比企谷八幡」と尋ねるだけで、俺の『35点』『愛知コロニー』『ルール追加0回』というステータスを即座に確認できる状態にある。
そして何より最悪なことに、燈二は俺の顔をすでに一度見ているのだ。あの千葉のモールで、小町を守ろうとして無様に這いつくばり、配下たちにボロボロに踏み躙られていた無力な男。そのただの一般人であったはずの男が、わずか数日後、この同じ愛知コロニーで35点ものポイントを持つ泳者へと変貌を遂げている。
「紙屋が突然消えた直後に、俺の得点が増加したんだ。多少頭の回る術師なら、紙屋を殺したのが俺だってことくらい、ほぼ確実に推測できるだろ」
八幡は、頭をガシガシと掻きむしった。
もう、ただ「俺が燈二の居場所を追っている」という非対称な一方通行の状況ではない。燈二から見ても、比企谷八幡という存在は、自分の配下を殺し、紙屋を沈めた「明確に面白い異物」として認識されたはずだ。
「……あの変態野郎の興味を引くとか、俺の人生の汚点ランキングでもかなり上位に入るぞ、これ」
八幡の口から、ようやく少しだけ彼らしい乾いた自虐的な軽口が漏れた。牧野はそれに安堵する余裕もなく、厳しい顔をしている。
だが、この最悪の状況変化は、八幡の思考を次のフェーズへと進化させた。
最初は、広大なコロニーの中から燈二の居場所を必死に探すことしか頭になかった。
でも、前提が変わった。相手もこちらを知り、間違いなくこちらに興味を持っている。だったら。
「……探す必要、なくねえか」
「え?」
「向こうが俺に興味を持って監視してるんなら、わざわざ探し回らなくても、来させりゃいいんだよ」
紙屋との戦いで、八幡は学んだのだ。ただ力任せに相手を直接倒しに行くのではなく、相手の性格や戦術的な性質を『利用する』という知恵を。紙屋は安全な場所へ逃げ込むという性格を利用して水攻めにした。
では、美甘井燈二はどうだ。他人が絶望し苦しむ姿を見るのが好きで、自分の理解を超えた面白い人間に興味を持つ男。自分に無様に逆らった八幡を覚えていて、その八幡が35点持ちになったことを知った。
なら、八幡自身を最高の『餌』として使うことができる。
「ですが、絶対に、この避難拠点でそれをやってはいけませんよ」
牧野が、八幡の考えを先回りして強く釘を刺した。ここには川崎も桂花も、病に侵された避難民たちもいる。そんな怪物をここへ引き寄せるのは、ただの虐殺を招くだけだ。
「分かってる。こんなとこにあのクソ野郎を呼ぶわけがねえだろ」
俺自身がこの拠点から離れ、別の場所でこれ見よがしに姿を晒し、燈二に存在を認識させて、俺が選んだ戦場へと引き込む。
八幡の次の戦術は、燈二を『探す作業』から、燈二を『釣る作業』へと完全に切り替わったのだ。