1つの器と3つの魂 作:日三汐理
黒い水面は静まり返っていた。
つい先ほどまで幾重にも走っていた斬撃の余韻だけが、まだ薄く空間に残っている。砕けた骨の山は王の玉座としての形を失い、その残骸が水面のあちこちに散っていた。
だが、宿儺はそんなことを気にした様子もなく、その場に立っている。
もともと、この男にとって座っているかどうかなど大した問題ではないのだろう。椅子があろうがなかろうが、ここが宿儺の領域であることに変わりはない。
未来虎杖もまた、構えを完全には解いていなかった。
肩や腕に残る浅い傷は、反転術式でほとんど塞いである。宿儺の側も同じだ。互いに消耗していないわけではないが、戦闘不能には程遠い。少しでも気を抜けば、次の瞬間にはまた斬り合いが始まってもおかしくない。そんな距離感だった。
宿儺が、ふっと口元を歪める。
「邪魔者は消えたか」
未来虎杖は鼻で笑った。
「邪魔者って言い方はどうなんだよ。あれも俺だぞ」
「知ったことか。今の小僧はつまらん」
いかにも宿儺らしい返答だった。
未来虎杖はそれ以上言い返さず、ゆっくり息を吐いた。
戦いの熱を抜くためではない。これから口にする話の重さを、自分の中でもう一度測り直すような間だった。
宿儺は黙ってそれを見ている。
王の目は、獲物がどんな札を切るのか待つ獣の目に似ていた。急かしはしない。ただ、相手が何を差し出す気なのかではなく、どこまで自分を愉しませるつもりなのかを見定めている。
やがて未来虎杖が口を開いた。
「ここからが本題だ」
宿儺の笑みがわずかに深くなる。
「ようやくか」
「戦っておかないと、確認できねえことがあったからな」
「ほう?」
「今のお前が、どこまで乗る気があるのかだよ」
宿儺は喉の奥で低く笑った。
「その言い方だと、まるで俺が応じる前提のようではないか」
「応じるさ」
未来虎杖は即答した。
「お前は面白そうな相手との勝負を前にして引くやつじゃねえ」
未来虎杖は肩を竦める。
「さっきの測り合いで、俺を十分に愉しめる相手だと思ったろ?」
一瞬、宿儺の目が細くなった。
未来虎杖は、それを見ても表情を崩さない。
図星だった。
宿儺はゆっくりと水面を踏み、骨の残骸の中から比較的高い場所を選んで腰を下ろした。崩れた玉座の上に、新しい座をつくる。
壊されても、そのままでは終わらない。どんな場所だろうと、自分が座ればそこが王座になる。そんな男だった。
頬杖をつき、宿儺が言う。
「ならば聞こう。貴様は俺との戦いの果てに何を望む?」
未来虎杖はすぐには答えなかった。
視線だけを宿儺に向けたまま、ほんの少し目を細める。
「まず前提として、これは縛りだ」
宿儺はしばらく目の前の小僧を眺め、それから心底楽しそうに笑った。
「ほう。逃げ道を潰しにきたか」
「お前相手に口約束で済むわけねえだろ」
「それはそうだ。術師の基本と言っていい」
宿儺はあっさり認めた。
「で、その内容は?」
「細かい部分はこれから詰めていくが、近いうちにもう一度お前と戦う」
宿儺の目がわずかに細くなる。
「近いうち、か。随分と都合のいい言葉だ」
「何年も何十年も先じゃ意味がねえ。少なくとも、今の流れが切れないうちだ。もう少し具体的に言うなら、お前の指が二十本分揃ってからだ」
「揃わなければどうする? 俺の全ての指の在処まで知っているわけではあるまい」
「揃うさ。少なくとも今年の間に」
即答だった。場所もしくは持ち主が分かっているのだ。揃えるのは簡単だ。強いて言えば、最後の一本が少し手に入りずらいが。
宿儺が愉快そうに口元を歪める。
「言うではないか」
「再戦はその時だ。半端な状態のお前を倒しても意味がねえからな」
「貴様が勝ったところで、完全な俺でなければ価値がないと」
「そうだ」
「随分と舐められたものだな」
「違う」
未来虎杖の声が少しだけ低くなる。
「中途半端な状態で戦っても、お互い納得できねえだろ」
宿儺はそこで初めて、少しだけ興味の質を変えた。
「納得と来たか。確かに、貴様は俺が全力で潰すに能う」
「潰されるつもりはねえよ」
「続けろ」
未来虎杖は一拍置いた。
「次の戦いは、さっきみたいな測り合いじゃない。勝敗を決めるための戦いだ」
「当然だな」
「勝った方が、負けた方に命令を下す」
宿儺はすぐには答えなかった。
笑ってはいる。だが、その笑みはさっきまでよりずっと冷たい。
「命令、だと?」
「単純でいいだろ」
「単純すぎるな」
宿儺は頬杖をついたまま、未来虎杖を見下ろす。
「勝者が敗者に命令を下す。言葉だけ聞けば面白いが、中身が曖昧だ。命令の範囲はどこまでだ。自害しろと言えば従うのか。術式を捨てろと言えば捨てるのか。一生跪けと言えばそうするのか」
「揚げ足取りかよ」
「確認だ」
宿儺は笑う。
「貴様こそ、俺がどこまで要求するかわからぬまま口にしたわけではあるまい」
未来虎杖は数秒黙った。
その沈黙を、宿儺は逃さない。
「どうした。そこで詰まる程度の覚悟か?」
「いや」
未来虎杖は宿儺を見る。
「むしろ、お前がそこを突いてくるのは想定通りだ」
「ならば答えろ」
「命令は一つ。ただし、その場で実行可能なものに限る。時間のかかる支配はなしだ」
「ほう?」
「戦いの決着がついた、その場で果たせる命令だけ。長々と拘束する形は認めない」
宿儺は指先で頬を叩き、少し考えるような素振りを見せた。
「悪くない。だが、それでは面白みに欠けるな」
「お前の面白みのために、こっちが首輪つけられてたまるかよ」
「貴様のほうこそ、ずいぶん慎重ではないか」
「相手が相手だからな」
言いながら、未来虎杖は視線を逸らさない。
「で? まだ聞くか?」
「聞こう」
宿儺は笑う。
「貴様が何を欲しているのかをな」
未来虎杖の声が一段低くなった。
「俺が勝ったら、呪物のなり方を教えろ」
宿儺の笑みは消えない。
だが、その質だけが変わった。軽い面白がりではない。もっと深い、腹の内を裂いて確かめるような興味が宿る。
「やはりそれか」
「最初からそのつもりだ」
「人であることをやめ、呪物として残る術を欲するか」
宿儺はその言葉を転がすように繰り返した。
「自ら境界を越えたいと願うのか」
「願ってるんじゃねえ。必要なんだよ」
「何のために?」
未来虎杖は答えない。
その沈黙を、宿儺はしばし味わうように眺めたあと、薄く笑った。
「言えぬか」
「ああ。ここで余計な情報を渡す気はねえ」
「つれないな」
「お前にだけはな」
宿儺は喉の奥で笑った。
「いいだろう」
そこで、宿儺は少しだけ身を乗り出した。
「では貴様の未来での体験を余さず開示しろ」
未来虎杖はわずかに目を細めた。
「……やっぱりそこか」
予想はしていた。
今の自分と過去の自分の差。未来からここへ来た術理。そして六十八年後の宿儺がどうなったのか。
宿儺がそこに食いつかないはずがない。
ただ、読めていたことと、実際に口にされることは別だった。
六十八年という時間の重みだけは、どうしたって軽くならない。
宿儺の口元が、愉しげに歪む。
「理解が早くて助かるな」
「お前が欲しがるなら、そこしかねえと思ってたよ」
「当然だ」
宿儺は笑ったまま続ける。
「今の小僧と、貴様は違いすぎる。同じ魂、同じ器のはずでありながら、そこにあるものはまるで別物だ」
宿儺の目が細くなる。
「何を見ればそこまで変わるのか。何を積めばそこまで研がれるのか。まずそれが見たい」
未来虎杖は黙っている。
宿儺は構わず続けた。
「それに、貴様は未来からここへ来ている。時間を越えて過去へ至るなど、まともな術理ではあるまい」
その声には、抑えきれない興味が混じっていた。
「貴様のいた時代、呪術がどう変わったのか。何が失われ、何が生まれ、どこまで歪んだのか──それもまた、愉しませてもらおう」
一拍。
そして、宿儺は笑った。
「何より」
その一言だけで、空気がわずかに冷える。
「未来の俺がどうなったのか。そこに興味がないと思ったか?」
未来虎杖の目が、ほんのわずかに鋭くなる。
宿儺はそれを見て、ますます愉快そうに笑った。
「貴様が未来の小僧であるのなら、俺の器であった過去があるはず。だが、未来の俺は貴様と共にはいない。魂からそれは分かる」
「……」
「殺したのか。殺されたのか。封じたのか。あるいは、それより面白い結末か」
宿儺は頬杖をついたまま、未来虎杖を見下ろす。
「それを見ずにいられると思うなよ、小僧」
「相変わらず、最悪な好奇心してんな」
「今さらだろう」
宿儺は嗤った。
「喋って説明する程度じゃ納得しないんだろ?」
「無論だ。記憶ごと渡せ」
宿儺の声には、隠しようのない愉悦があった。
「断片ではつまらん。体験として寄越せ。言葉で薄めた残り滓ではなく、貴様が歩いた時間そのものをな」
未来虎杖はしばらく黙った。
この沈黙は迷いではなかった。覚悟は、最初からできている。未来で東堂が予見していた通りの展開だ。
ただ、実際に口にされた条件の重さを、もう一度だけ自分の内側で受け止めているだけだった。
宿儺はその顔を見て、ますます楽しそうに笑う。
「どうした、小僧。代価としては重すぎたか?」
「重いに決まってんだろ」
未来虎杖は低く吐き捨てた。
「六十八年だぞ」
「だからこそだ」
宿儺は愉快そうに言う。
「貴様が欲しているものもまた、そうでなくては釣り合わぬ」
未来虎杖はゆっくりと息を吐いた。
「分かった。俺が負けたら、お前に渡す。六十八年分の未来での体験を、記憶として全部だ」
宿儺は今度こそ、はっきりと愉しげに目を細める。
「良い」
その声音には、隠しようのない歓喜があった。
凡人の六十八年であれば、宿儺にとって交渉の土台にすらならなかっただろう。
だが、目の前の未来虎杖は違う。先ほどの戦いで見せた今の虎杖との明らかな差。その六十八年で何を見て、何を失い、どんな戦いを重ね、どうやって自分と決着をつけたのか──興味が尽きるはずもない。
同じ肉体を介した存在であるからこそ、言葉ではなく記憶そのものとして受け取ることもできる。
「それで、ようやく釣り合ったな」
宿儺が言う。
未来虎杖は眉をひそめた。
「相変わらず性格悪ぃな」
「それも今さらだろう」
宿儺は笑った。
「だが、まだ終わりではない」
そこで言葉を切る。
未来虎杖の目がわずかに細くなった。
「まだあるのかよ」
「当然だ。縛りには穴があってはならん」
宿儺はゆっくりと告げた。
「次の戦い、他の術師どもの手出しは一切なしだ。貴様と俺の一対一。横槍が入った時点で、その戦いも縛りも無効とする」
未来虎杖は少し考えた。
「一応、厄介なやつらは片付けてから決着をつけるつもりだ。だが……確かに、邪魔が入る可能性はあるか」
「生得領域での戦いだ。可能性は低いだろうが、万が一ということもある。興が削がれてしまう」
「わかった。それでいい」
「まだだ」
宿儺は笑う。
「勝者の命令は一つ。その場で実行可能なものに限る。これは先ほど貴様が言った通りでいい。だが、“不可能だからできない”などという抜け道は認めん」
「……つまり?」
「果たせる命令だけを下せ、ということだ。無理な命令を言った時点で敗者の不履行にはならん。命令した側の失策として終わる」
未来虎杖はそこで初めて、わずかに口元を緩めた。
「お前、思ったより慎重な奴なんだな」
二人の視線が、正面からぶつかる。
もはやただの応酬ではない。
互いに、相手の穴を探しながら条件を削り合っている。
先に逸らしたほうが負けるような沈黙だった。
やがて未来虎杖が口を開く。
「……いいぜ。近いうちに再戦する。時期は、お前の指が二十本揃ってから。戦いは一対一。勝者は、その場で実行可能な命令を一つだけ下せる。俺が勝てば、お前は呪物のなり方を知識も手順も原理も含めて全部教える」
そこで一度区切り、宿儺を睨む。
「お前が勝てば、俺は六十八年分の未来での体験を、記憶として全部開示する」
宿儺は愉快そうに笑った。
「良い」
未来虎杖はそこで終わらせず、さらに言葉を継いだ。
「あと一つ」
宿儺の眉がわずかに動く。
「ほう」
「この縛りを結んだ時点で、お互い、再戦までに相手の報酬そのものを奪うための抜け道を探るのはなしだ」
宿儺の目が細まる。
「……ほう?」
「例えば、お前が何かの方法で俺から未来の体験だけ先に抜き出すとか。逆に俺がお前から別の方法で呪物化の知識だけ掠め取るのもなしだ」
「それは、随分と俺を警戒しているな」
「してるに決まってんだろ。お前だぞ」
「貴様も大概だ」
「似たようなもんだろ、今は」
一拍。それから宿儺は、腹の底から愉快そうに笑った。
「いいだろう。そこまで含めて成立させてやる」
未来虎杖は目を逸らさない。
「……じゃあ、決まりだ」
宿儺がゆっくり笑う。
「では成立だ」
その瞬間、空気がわずかに変わった。
目に見える鎖が現れたわけではない。だが、今この場で交わされた言葉が、単なる挑発でも駆け引きでもなくなったことだけははっきりとわかる。
未来虎杖はそこでようやく、胸の奥に溜めていたものを吐き出すように息を抜いた。その顔を見て、宿儺がますます愉快そうに言う。
「いい顔だ」
「お前に褒められても嬉しくねえよ」
「だが、今の貴様は実にいい」
宿儺は頬杖をついたまま続ける。
「この賭けは味がある」
未来虎杖は目を細めた。
「勘違いするな。怖くねえわけじゃない。でも、引く気はねえ」
「わかっている。だからこそ面白い」
宿儺の声には、もう迷いがなかった。
次の戦いを本気で愉しみにしているのだろう。目の前の小僧がどこまで仕上げてくるのか。自分がそれをどう踏み潰すのか。あるいは、さらに面白いものを見せるのか。
未来虎杖はそんな宿儺を見据えたまま言う。
「次は、さっきみたいな確認じゃ終わらねえぞ」
「当然だ」
「勝ったら教えろよ」
「勝てばな」
「負けたら全部持ってけ」
「無論だ」
そのやり取りで、ようやく本当に話は終わったのだとわかった。
戦いのあとの静けさ。
契約のあとの沈黙。
宿儺の生得領域は、相変わらずどこまでも暗く、どこまでも閉じている。
だが、その閉じた世界の中で、二人のあいだには確かに次へ進むための線が引かれていた。
未来虎杖は、ゆっくりと宿儺に背を向ける。
その背中に向かって、宿儺が最後に声を投げた。
「逃げるなよ、小僧」
未来虎杖は振り返らないまま答える。
「わざわざ過去まで来て逃げる訳ねえだろ」
宿儺の笑い声が、黒い水面の上に低く響いた。
その音を背に受けながら、未来虎杖は生得領域の奥へ歩いていく。
次にこの場所で刃を交える時、勝った方がすべてを持っていく。その事実だけが、濃い闇の中で妙にはっきりと残っていた。