あたしの名前は羽田朝香。
やっと、進むべき道を見つけた天才女優だ。
屋上へ続く階段を上りながら、心臓がずっと跳ね回っていた。
「ねぇ、屋上って施錠されてるんじゃないの」
「どうやら忍び込めるらしいぞ」
「見つかったら怒られるじゃない」
こんな悪戯めいた提案、翼にしては珍しい。
だからこそ、内心ワクワクもしていた。
扉が開くと、夕暮れの空が広がっていた。
オレンジと紫が混ざり合った空の下に、街が広がっている。
遠くのビルが、夕日を反射して光っていた。
「綺麗……」
こんなに綺麗な景色を、落ち着いた気持ちで見たのは久しぶりだった。
いつもは撮影の合間、忙しなく空を見上げる程度だったのに。
「さて、朝香の青春の総仕上げといくか」
「どういうこと?」
「演ろうぜ、ここで。俺たちが主演の演劇をさ」
その提案に、胸の奥が跳ねた。
芝居はあたしにとって、生きることそのものだ。
普通の青春を知りたいと願って、ここ最近は頑張ってきた。
だけど、あたしという人間は、結局のところ芝居にしか生きられない。
それを知っている翼が、この場所で、この提案をしてくれた。
「俺たちにセットは必要ない。身ひとつあれば十分だ」
「そうね。台本も頭にまるっと入ってるもの」
抑えきれない笑みが零れる。
「えっと……あっ、そうだ! それなら、師匠に成果報告したいから動画で撮ってもいい?」
咄嗟に、そんな言い訳が口から出た。
本当は、この瞬間を記録に残しておきたかっただけだ。
師匠への報告は後付けの理由だった。
「千三郎さんに、いい報告ができるといいな」
「そ、そうね!」
スマホをセットしながら、あたしは決めていた。
今日、この場所で翼に想いを伝える。
風が吹いて、髪が揺れた。
その瞬間、あたしは朝香から累へと切り替わる。
「帰還命令がくだったの」
手を夕焼けにかざす。
「任務は、もう終わり。ここでの生活も……」
翼が剛志として一歩踏み出してくる。
その気配だけで、体温が変わったのがわかった。
「なあ、累。本当に、それでいいのかよ」
「いいも悪いも、決められたことだから」
感情を殺した声を出しながら、あたしの中では別のことを考えていた。
このまま台本通りに進めば、累は剛志と恋仲にはならず、千代を交えた友情物語で終わる。
いや、本来はそうであるべきだ。
だけど、今日は少しだけ
「わたしは、任務のために来た。それ以上でも、それ以下でもない」
「じゃあ、聞くけどさ」
翼が目の前に立つ。
「お前が本当にここにいたい理由、まだ一回も言ってねぇじゃんか」
心臓が、また跳ねる。
この人は、いつだって、あたしが一番欲しい言葉をくれる。
「……理由なんて、感情の話でしょう。感情は、解析できない」
目を逸らそうとしても、逸らせなかった。
「解析できなくてもいいだろ」
翼があたしの手を取った。
自分の指先が震えているのが、わかってしまった。
「わかんないまま、隣にいたいって思うことだって、あるだろ」
沈黙が落ちる。
風が、二人の間を通り抜けていく。
ここだ。
あたしは、決めていた台詞の続きを、頭の中でもう一度なぞる。
台本にはなかった言葉を、ここで足す。
累としてではなく、田中朝香として、伝える。
「わたしは……」
声が、自然と揺れた。
演技のための揺れなのか、本物の揺れなのか、自分でも区別がつかなかった。
「わたしは、ずっと、あなたの隣にいたかった」
言葉が堰を切ったように出てくる。
「任務のためじゃない。報告のためでもない。ただ、あなたの隣で、あなたが笑うのを見ていたかった。それだけだった」
これは、あたしの本心だ。
累の台詞を借りて、あたしは今、翼に本物の感情を伝えている。
「理解できなくてもいい。感情の名前がわからなくてもいい」
翼の目を、まっすぐ見据えた。
「ただ、これだけは、わかる」
風が止んだ。
夕焼けの色が、二人を橙に染めている。
「これが、あたしの気持ちだから」
あたしは背伸びをして翼の唇に、そっと自分の唇を重ねた。
これは、台本にはなかった行動。
あたしが、今この瞬間に付け足したアレンジ。
田中朝香としての、精一杯のアドリブだった。
唇を離すと、顔が熱くなっていくのがわかった。
どんな顔をしていいかわからない。
だけど、これであたしの気持ちは伝わったはずだ。
「……さすが、朝香だな」
その声に、心臓が跳ねた。
翼が、この気持ちを、受け取ってくれた。
「演技には妥協しないのは相変わらずだ」
「んん?」
想定外の言葉に、変な声が漏れた。
「見てもない初期の台本通り、ちゃんとキスシーンまでやるとは思わなかった。やっぱり、朝香の背中はまだ遠いな」
元の、台本、通り。
カットされる前の台本には、ラストにキスシーンがあったって……こと?
丸代ぉぉぉぉぉぉ! 何してくれてんのぉぉぉぉぉぉ!
というか、同級生にキスシーンやらせようとするとかイカレてんのか!
しかも、あの子は翼を好きなはずなのに、自ら脳破壊されに行くとかバカじゃないの!?
とにもかくにも、翼は元の台本を知っていた。
だから今のキスを、あたしのアドリブではなく、丸ごと台本通りの演技だと思っている。
伝わっていない。
あたしの気持ちが、まったく伝わっていない。
「み゛!?」