西遊記の原作を全て読み終わった。
上中下三冊を読み切るのに時間はかからなかった。
台本を開いて、もう一度最初から追う。
脚本家が何を残して、何を変えたのか。
原作と並べてみると、その選択がはっきりしてくる。
三蔵法師は、トラブルメーカーという点を変えず、受動的なトラブルメーカーから能動的なトラブルメーカーへと変わった印象だ。
妖怪に狙われてトラブルが舞い込んでくるのではなく、人を助けようと厄介事に首を突っ込む形だ。
猪八戒は、原作から大きく印象が変わる。
原作では、悟空の弟分で食欲と色欲に正直。
要所で弱音を吐くが憎めないというキャラクターだ。
今回は悟空の兄弟子であり、喧嘩ばかりの悟空と三蔵法師の間に入って宥める保護者のような立ち位置だ。
原作と共通する点があるとするならば、その強さだろう。
原作の猪八戒は悟空の陰に隠れがちだが、実はかなり強い描写がされている。
物語後半では、八戒一人で敵を倒す描写も多く存在する。
今回のドラマでは、圧倒的な強者でありながら穏やかな妖怪というギャップを見せていくスタイルなのだろう。
沙悟浄は、原作では最も影が薄い。
三蔵法師一行の調整役という役回りがほとんどで、個性らしい個性がない。
このドラマでの沙悟浄が女性キャラとして肉付けされているのは、理にかなっている。
素体が薄い分、いくらでも設定を盛れる。
問題は孫悟空だ。
台本の悟空は、原作の悟空と根っこは同じだ。
粗暴で合理的で、義理に厚い。
それは変わっていない。
ただ、一箇所だけ引っかかる部分がある。
原作の悟空は、あまり感情を抑えない。
怒ればすぐ暴れ、笑えばすぐ笑う。
それに比べて、台本の悟空はかなり理性的だ。
強者で兄弟子である八戒には、敬意を払って接している。
その代わり、三蔵法師に対してだけ舐めた態度で接しているのだ。
「うーん、イメージ的にはジムバッジが足りなくて言うこと聞かない高レベルモンスターってところか?」
どうして悟空が天竺の旅に同行しているかは、台本を読んだため理解はできる。
問題は視聴者に内心を悟らせないようにしつつ、過去が明かされた際に納得できる感情演技をしなければいけないということだ。
演技プランは聞いているものの、それはそれとして実際に演じるのは俺だ。
そのまま演じると、パブリックイメージの悟空から外れすぎて、視聴者が置いていかれるのは免れないだろう。
さらに言えば、悟空は他のキャラとは立場が違う。
猪八戒や沙悟浄にオリジナル要素が乗っていても、視聴者は受け入れやすい。
元々の印象が薄い分、許容の幅が広い。
だが、悟空は違う。
子供から大人まで、誰もが〝孫悟空とはこういうものだ〟というイメージをすでに持っている。
そこから大きく外れると、ドラマそのものへの評価になって返ってくる。
つまり、悟空だけは原作とパブリックイメージと台本、三つを同時に抱えて立つ必要がある。
ノートに整理してみると、三つの輪が重なる部分は意外と狭い。
「……どこで折り合いをつけるか、だな」
独り言が漏れる。
台本を閉じて、天井を一度見た。
原作の悟空の動きは、理屈より先に身体が動く。
感情がそのまま行動になる。
台本の悟空の動きは、感情と行動の間に理性のクッションがある。
その説得力を出せれば、三つの輪の重なりに近づけるはずだ。
試しに、台本の一節を声に出してみる。
「……師に向かって、その態度はなんですか」
三蔵法師の台詞だ。
相手役の声を頭に置いて、悟空として返す。
「これはこれは、失礼いたしました……三蔵法師様?」
声に出してみて、すぐにわかった。
形としては悪くない。
台詞の重さも、含みのある敬語の使い方も、俺が分析した悟空の輪郭に沿っている。
何かが足りないと感じたので、もう一度やってみる。
今度は姿勢から変えて、重心を前に置いて。
「これはこれは、失礼いたしました……三蔵法師様?」
やっぱり違う。
外側の形を積み上げるほど、その中身の空洞がはっきりしてくる。
プライベート・AIのときは違った。
下村翼という役は、俺自身の痛みと地続きだった。
感情が先にあって、技術がそれを形にした。
だから、あの演技ができた。
孫悟空は違う。
五百年、岩の中に封じられた石猿。
人間の倫理観すら持たない妖怪。
俺の経験のどこを掘っても、そんな感情は出てこない。
外側から積み上げるだけでは、内側が空洞になるだけだった。