学校も仕事もない、完全オフの土曜日だった。
朝、スマホを開くと梨夢からメッセージが来ていた。
[梨夢:バッサー! 今日暇? 動物園行かない? あーし一人だとさみしいんだよね~]
役作りで頭が埋まり始めていたところだった。
気分転換にはちょうどいい。
承諾の返信を送ると、すぐに既読がついてスタンプが飛んできた。
当日。
待ち合わせ場所の改札を抜けると、梨夢の弾んだ声が聞こえた。
「おまたせー! バッサ――」
その声が途中で途切れた。
人の流れの向こうで、梨夢の足がぴたりと止まる。
視線がまっすぐこちらに刺さって、そのまま動かない。
「誰ぇ……?」
「俺だ」
「バッサー、なの?」
戸惑いを含んだ呼び方だった。
距離を測りかねているのがわかる。
視線が上下に往復する。
肩口、腰、足元までなぞってから、もう一度顔に戻る。
「な、なんで、女の子なの?」
「対策だ。中途半端に変装するほうが目立つ」
「いや、理屈はわかるけど……」
言葉が続かないらしい。
梨夢の視線だけがまだ落ち着かない。
「なんかダメだったか?」
「ダメじゃない、けど」
言い切らないまま、唇を引き結ぶ。
小さく息を吸って、吐いた。
「あーしより、かわいい……」
「そうか?」
「そうだよ!」
声が跳ねて、すぐに抑え込まれる。
周囲に意識を向けて、肩をすくめた。
「うぅ……イケメンは女装したら美女確定じゃんか」
「メイクの技術もあるけどな」
梨夢はしばらく黙っていた。
視線が横に流れて、また戻ってくる。
それから声のトーンが微妙に落ちた。
「……今日、誘ったのは、ほら、最近バッサー忙しいじゃん? 気分転換なればいいなぁって思って、さ」
「だとしたら本当にちょうど良かったぞ。助かった」
少し間があった。
「……そっか」
口元がわずかに緩んでいた。
それから動物園の入口をくぐると、空気が変わった。
土と飼料の匂いが混じって、都会の匂いが薄まる。
「どこ行く?」
「梨夢が行きたいとこに付き合うよ」
「え、いいの?」
「誘ってもらった側だしな」
梨夢はしばらく迷ってから、小さく手を挙げた。
「じゃあ……フラミンゴ! なんか映えそうだから!」
「……そんなに映えるか、フラミンゴ?」
フラミンゴのエリアでは、梨夢がスマホを構えてあれこれ角度を試していた。
何枚か撮っては確認して、また構える。
その間、俺は柵の外から眺めていた。
フラミンゴは水の中に足を突っ込んで、ほとんど動かない。
たまに首を曲げて羽の中に顔を埋める。
見ていると妙に落ち着く動きだ。
「撮れた撮れた! めっちゃ映える!」
梨夢が嬉しそうに画面を見せてくる。
確かにいい角度で撮れていた。
そのまま二人でぶらぶらと園内を歩いた。
キリンのエリアで梨夢が写真を撮り、売店でソフトクリームを買い、トラの檻の前で立ち止まった。
頭の中は、ほとんど空になっていた。
役作りのことも、台本のことも、どこかに行っていた。
梨夢のペースで歩いているだけで、気持ちがリセットされていく。
園の中央に差し掛かったとき、ふと視界の端に岩場が映った。
「猿、か……」
猿山だった。
柵の向こう、堀で囲まれた空間に岩場が広がっていて、そこに散らばるようにニホンザルがいる。
自然に足が止まる。
「石から生まれた石猿……」
脳裏に、台本の一場面が浮かんだ。
石の中から生まれて、最初に世界を見たとき、孫悟空はどう動いていたんだろう。
生まれたばかりの悟空は、今目の前にいる猿たちと同じように動いていたんだろうか。
猿山の中に、立っている個体は少ない。
大半が四足か、岩に腰を落としている。
二足になる瞬間はあるが、すぐに前へ傾く。
背筋で支える立ち方ではなく、重さの置き方が違う。
岩をつかむとき、餌を拾うとき、指が大きく開く。
握り込むより、面で押さえる感じだ。
「なんか、お猿さん見てる顔が怖いよ、バッサー」
梨夢が柵に腕を預けながら言った。
「お猿さんって、あーしらと仲良くなる前のバッサーみたいだね」
その一言に、目が止まった。
「……その心は?」
「目の感じ。なんていうか、何も映してないみたいな」
梨夢はそれ以上続けなかった。
「何も、映していないか……」
もう一度、岩の上の個体を見る。
動物特有の無機質な目。
人と関わる前の悟空は、きっとこの目をしていた。
何も映さない目で、ただ世界を見ていた。
その悟空が、三蔵法師と出会って変わっていく。
「助かった」
「え? 何が?」
梨夢が首を傾げる。
心当たりがなさそうな顔だった。
もう一度だけ、猿山を見た。
さっきと同じ景色なのに、少し違って見えた。
三蔵法師と出会って、旅が始まる。
その積み重なりの中で、悟空の目に何かが宿っていく。
変化を外側から作れれば、三つの輪の重なりに近づけるはずだ。
そこまで考えて、胸の奥で何かがつっかえた。
わかっている、起点は掴めた。
外側から作るべき形も、見えてきた気がする。
それだけで孫悟空という役の重さに耐えられるのか。
主役として、顔合わせまで時間がない。
その焦りが、せっかく掴みかけた答えを手放させようとしていた。
「バッサー、どこ行くの?」
梨夢の声で我に返る。
いつの間にか、猿山から離れる方向に歩き出していたらしい。
「悪い。ぼーっとしてた」
「またお仕事のこと考えてた?」
「まあな」
「オフくらい頭空っぽにしなよー」
梨夢は膨れっ面をしてから、また歩き出した。
その背中を追いながら、さっきまで頭の中にあったものを取り戻そうとあがいた。