若葉睦幼馴染ギター少年概念

1 / 1
 むつモー生存if


遺骸

 

 窓越しの日差しがやけに眩しくて、目蓋が勝手にシャッターを閉めかけた。月ノ森は教室に備えられている窓ガラスさえも高級志向らしい。広い教室の一角、複層ガラスが作る日向は微睡みを誘うように暖かい。春が息を始めたのだろうか。

 高校一年生も大部分が過ぎ去って、新鮮だったはずのホームルーム風景でさえ日常に様変わりした。耳を通る教師の声。窓を通過して聞こえてくる鳥の囀り。春風が木の葉を揺らす音。葉の擦れる音を幻聴して、伸ばした背中が丸まりかける。

 膝上に乗せた手を握って感覚を刺激した。ちくりとした痛みに、ぼんやりとしていた意識が浮上して──少し遅かったらしい。ホームルームはもう終わっていて、教壇に立っていた教師が礼をして教室から出ていけば、高校生らしく教室の喧騒が戻ってきた。後ろの席から近くのカフェに行こうとはしゃぐ声。教壇の目の前の席では、ライブハウスの話。一番奥の廊下側の子は口元をきゅっと締めて、何か目元に力を入れたままこちらに歩いてくる。

 

「あ、あの、若葉さん!」

「……どうしたの?」

「この後のMorfonicaのライブ観に行きませんか? 今日は新曲が出るかもって噂になってて……!」

 

 肺が表面から冷え切って硬くなる。世界が分かたれて五感が少しだけ鈍くなって、表情筋が弛緩して、肩の力が抜けた。

 ……この子は、私の前の席の子だ。祥と一緒にMorfonicaのライブを観に行った中等部で、私たちの隣に座っていた子。春で同じクラスになった時に、その事を教えてもらったっけ。

 

「ごめん。今日は予定があるから、観れない」

「そう、ですか……あの、また機会があったら誘わせて頂いてもいいですか?」

「……うん、大丈夫」

 

 あとそんなに畏まらなくていい、と結ぶ。抑揚がわずかな無愛想な返答だったと自覚しているけれど、何も問題なかったらしい。何が嬉しいのか、私の言葉に明るい破顔で返事をしてから、彼女は別のクラスメイトのところへ歩いて行った。

 

「ごきげんよう、若葉さん」

 

 入れ替わるようにして、今度は違う席の子が話しかけてくる。……どうも、珍しい。放課後はバンドの練習がある日が殆どで、すぐに教室を出ていたからだろうか。クラスメイトからすればいまだに席から動かない私の方こそ物珍しいのかもしれない。

 

「ごきげんよう」

「今度、お誘いしたい場所があるんです。近くの駅に出来た美味しい喫茶店なのですけれど」

「ありがとう。でも、今日は」

「いえ、本日は結構です。その……」

 

 ちらり、とすぐ脇の壁に立てかけられたギターケースを彼女は一瞥する。確か実家がバイオリンメーカーの子だったか。

 

「Ave Mujicaとしての活動もあるでしょうし、どこかで皆様と一緒に是非」

「うん。みんなにも伝えておく」

「ありがとうございます、是非」

「……それと」

「はい?」

「……今度私のギター、見る?」

「……は、はい、是非! 弦楽器には目がないものですから」

 

 若葉さんの弾いている姿も目の前で見てみたいです、まで言われるとどうもむず痒い。また今度、と言えば彼女は教室を出る直前にもまた一礼をしてきた。ごきげんよう、なんて廊下に響くやけに明るい声。

 

「睦ちゃん、結構人たらしだよねー」

「言われた事、ない」

「そう? ……ううん。始めの頃から結構変わったかも。もともとの素質かな」

「……そよだって、変わった」

「それ、最近立希ちゃんにも言われた」

 

 拗ねたように口をすぼめながらも、目尻の端が緩やかに弧を描く。愛想笑いを作る機能はもうとっくに無いけれど、自分の実情をある程度把握しているそよとの会話は、僅かに肺の奥が軽かった。

 

「だって睦ちゃん、ギター見せるなんて提案今までしなかったでしょ?」

「……うん」

「人たらしって言ったのは、それが意外だったから」

「意外だったのは、私も」

「なあに、それ」

 

 どこか遠慮がちで、距離を探り合う会話。友達というにはぎこちない時間だって、かつてと比べればずっと良い。

 

「モーティスちゃんは元気?」

「……今は、寝てる」

「あれから、すっかり慣れちゃったね」

「うん」

 

 Ave Mujicaが再結成してしばらく経つけれど、ようやく慣れたという言葉にしっくりと来た。三日三晩付き添って彼女と向き合ってくれた感謝を、彼女は柔く微笑んで受け入れてくれたのも記憶に新しい。

 

「……本当は、燈ちゃんたちと買い物に行く予定だったから」

 

 相変わらず、上手だ。

 瞬きもしないで、口元の弧はごく自然。足を閉じて長い髪を揺らす。……残念ながら、指先がかすかに揺れていることは誤魔化せないが。

 

「用事があるんだっけ?」

「うん。今日は人と出かける約束」

「──誰と?」

 

 その声に、心なしか疑念があったのは気のせいではないと思う。CRYCHICが終わってしばらく経つけれど、意外と律儀で過保護な印象は拭えない。呆れることはあれど疎ましいとは思わなかった。

 

「変な人じゃない? 大丈夫?」

「私の──」

 

 いや、これは、その、正確じゃない。

 

「私と祥の、幼馴染」

「幼馴染って……あの幼馴染の男の子? モーティスちゃんに会いに来た」

「そう」

「……そっか」

 

 眉尻が下がって、心なしか雰囲気が柔らかくなる。そよも彼とは何度か会ったことがあるからか、問題ないと判断されたらしかった。

 

「それで、何しに行くの?」

「──その」

「睦ちゃん?」

「…………」

 

 言葉が続かない。視線が揺れる。ちくりと胸元を刺されたようなわずかな逡巡。教室の角を見上げて、窓の外の自分を一瞥して、結局そよの首元あたりを見て。ええと、こういう時は。

 

「で」

「で?」

「デート」

「え?」

 

 ぽかんと口を半開き。聞こえていないのだろう、今度はしっかりと目を見て。

 

「だから、デート」

 

 椅子から立ち上がってギターケースを担いだ。そよが小さく悲鳴をあげた。

 

 

 

『睦ちゃんってキレイだよね』

『ほんと? ありがとう!』

 

 両親同士が学生時代からの友人だったことを知ったのは、確か小学生の頃だった。隣の家に住んでいて、やけに広い会場を貸し切ったパーティか何かでも一緒にいたことを考えると、彼とはそれより前からの長い付き合いということになる。

 

『キレイって、具体的にどこ?』

『え、えっと、目が大きいところ、とか』

『あとは?』

『顎が細いところ、とか』

『ふーん、あとは?』

『……髪の毛、とか』

 

 そんな茶番劇をしたこともあった。両親たちが豊川家に招かれてパーティに参加することになって、互いの両親の話から幼稚な演劇をすることにつながって。有名な俳優だった彼の父親が作った即興の脚本で、二人で演劇をした。今思えば息子と友人の娘を茶化すための舞台だったのだろうけど。それにしたって、彼にとっては恥ずかしい脚本だったろうに。

 

『……長い方が好き?』

『……うん、僕は、そう』

 

 当時の私は考える余地もなく、ごく自然にただ役を羽織るだけの機構にすり替わったと思う。淡々と、的確に、脚本家の意図を汲み取って演技をして、だけど子どもらしくやや稚拙に見えるように台詞を述べるだけ。

 

『嘘、そういうこと誰にでも言ってるんでしょ?』

『そ……そんなことないよ!』

 

 対して彼は演劇があまり得意じゃなかったから、大人には微笑ましい子供のままごとに見えただろうけど。

 

『睦ちゃんの髪、キレイで好きだよ』

 

 茜色の庭で、小さな手をそっと引いて。彼が照れ臭くそう笑った時の胸の痛みは、どうしてか刺さったままだった。精巧に作られた人形の糸が、ほんの少しだけ弛んだような不純。すぐに切り捨てるべきはずのそれを、どうしても捨てられないままでいた。

 今なら分かる。演じた言葉ではなかったからこそ、演じるだけの若葉睦はその言葉を大事にしていた。ずっと、大切に、最後まで抱えていた。

 

 ……そう。二年ほど前の最期まで、(かのじょ)はぬくもりに縋るように、そっと胸のほつれを抱きしめていた。

 

 

 

「ご、ごきげんよう」

「こんにちは」

 

 見事に構えられた月ノ森の校門を抜けた先で彼を見かけた。女子校だからか、校門を先に抜けた生徒が物珍しそうにちらりと視線を向けてお辞儀している。顔色一つ変えずに笑顔で応じているのが彼らしい。

 

「睦、こっち」

「……待った?」

「いや、ちょうどさっき来たとこ」

 

 街中でよく見かける近くの共学高校のブレザー制服。肩から掛けた暗い浅葱色のショルダーバッグと黒いギターケース。ほんの少し上を見上げれば柔和な笑み。瞳の中の自分を視認したあたりで、細いまなじりがそっと丸まった。

 

「何かいいことあった?」

「そんなこと、ない……と思う」

「いやほら、目が合うまで早かった気がして」

「……気のせい」

「えー」

 

 おどけて腕を差し出してくる。……いつも通り、ギターを手渡せということだろうか。予定調和であるはずのその動作が、今日は──なぜかどうも、胸に痛い。

 ギターの代わりに手で触れて、無理矢理手を引っ張ってやる。同じくらいの大きさだった手はとっくに大きくなって、しなやかな指先は中性的。短く切り揃えた爪を少し撫でれば、頭上から微かに漏れる声。くすぐったいらしい。

 

「手、また荒れてる」

「ん? あー、昨日も結構練習してたから」

「……隈、ある」

「え、うそ」

「夜遅いと、みなみちゃんに怒られる」

「睦だって夜遅いって、家令さん言ってたけど」

「……家政婦」

「同じようなもんですー」

 

 口を小さく尖らせたって困る。この辺りで家令なんてものは彼の家と祥の家くらいにしかいないだろうに。そもそもからして、夜遅いことについては……私だって、気にしていないわけじゃない。今の私に上手く言葉にすることは、できないけれど。

 

「……なんで、そんなに」

「ん?」

「バンド、やってないのに」

 

 記憶が正しければ、近くのライブハウスで講師役としてバイトをするだけ。わざわざ夜遅くまで練習を続ける必要は、ないはずだけれど。

 

「えー、いや」

「教えて」

「……ちょっと」

「どうして」

 

 歯切れが悪い。視線を適当に投げ出して、返す言葉を探しているような。「えっと、睦?」戸惑う声には無言を貫くと、ややあって、苦笑いをしながら小さく両手を上げる。

 

「言わなきゃダメ?」

「うん」

「えー」

「……」

「えと、いや、だからその……ほら、睦と弾けるくらいにはなりたいから」

「────」

「だから、うまくならないと」

「必要ない」

 

 公共バスに乗ったような酩酊感にくらりとしかけて、奥歯をぎり、と噛み締めた。違う、と言うべきだったのに。彼の前でギターを弾けないのは私の所為だから。なんて、言いかけた言葉がぐっと喉に詰まる。

 肩をすくめて「俺の勝手だから」……そうやって眉を下げて笑いかけられると弱い。軽い嘆息が口の端から漏れ出る。

 

「で、睦」

「?」

「持つよ。今日は結構歩くだろ」

「別に、いい」

「めずらしい」

 

 一瞬だけ目を丸くする。当然だろう。ギターを持ち歩く機会が増えてからというもの、こうして放課後に出かけるときはギターを持ってもらっていたから。

 

「疲れたら遠慮なく言ってくれる?」

「……うん」

「怪しい間だ」

 

 くすりとこぼれた笑みに、知らず眉を顰めた。子ども扱いをしているわけではない、だろうけど。バンドの練習だって最近は詰めているから、体力だってそれなりについてきたというのに。背中を向けて歩き出して、ニ、三歩軽やかに進んだあたりで振り返った。

 

「ほら、平気」

「……まあ、確かに」

「歯切れ悪い」

「いや、髪が」

「?」

 

 「ちょっとごめんな」と一言。そっと髪が掬いあげられる感触。どうやら振り返った拍子にギターケースのストラップに引っかかっていたらしい。大人しく身を任せて、目を閉じる。頬を撫でる温かな風。鼻腔を通るのは桜の花の匂い。木々の葉が風に揺られて擦られる音。目蓋の裏に、いつかの記憶が描かれそうになって──視界の端に、見覚えのある櫛を扱う手が映りこむ。あれはたしか、ずっと昔に二人お揃いで買ったものだった。やけに手慣れた手つきで、毛先まで丁寧に梳かれる。

 どこか懐かしい、私ではない若葉睦の既視感。

 

「髪、結ばないんだな」

「……このままでいい」

「まあ俺も結ばないのが好きだけど……邪魔になったりしないのか。切ったりとかは」

「しない」

「一考の余地すらないのね、睦」

 

 幼少期から髪型は大きく変わっていないはずだ。最近はAve Mujicaに熱中している自覚がある分、言われてようやく重さを意識した気がする。

 

「よし、いい感じ」

「……ありがとう」

「じゃ、そろそろ行こうか。ショッピングモールまでだろ?」

「うん」

 

 祥に言わせれば愛想のない返答でも、彼にとっては問題ないようだった。肩に掛けたギターケースが静かに揺れる。

 薄く皺の寄ったシャツの襟首を見て、ふと思う。ギターケースを担いだ彼と初めて歩いたのは、私ではない若葉睦だった。

 

 

 

『ギター始めたんだ』

 

 彼がそう教えてくれたのは、私たちが中学生になって半年ほど経った時だった。家族ぐるみの付き合いが長かったおかげで、共学の中高一貫校に行った彼との交流が途切れなかったのは幸運だった。

 

『まだまだ全然弾けないんだけど、結構楽しいんだよ』

『そうなんだ。……でも、どうして?』

『暇だったから。父さんも母さんも忙しくて家に居ないし』

 

 どちらから提案したのかは覚えていない。

 普段一緒に遊んでいた祥は予定があったから、その日のうちに近くのカラオケに二人で行って、試しに弾いてみることになって。最近流行ってる歌でも弾いてみようか、なんて彼が言いだした。結局その日カラオケの一室で聴いたのは、お世辞にも上手とは言えないギターで。自信ない、なんて彼の言葉が謙遜でも何でもなかったのがおかしかった。

 

『へたくそだった』

 

 祥子にはとても見せられないな。そんなことを言って、彼が揶揄うように笑ったから。私も、倣って変だったねと笑った。

 

『睦って優しいよな』

『急に、どうしたの?』

『だって、ほんとはもっと上手く歌えたでしょ。みんなでカラオケ行ったときとかすごい上手だったし』

『──そんなこと、ないよ』

 

 絞り出した返答は、何に対する否定だったのか。

 優しかったわけでもなかった。気遣いなんて高尚なことをしたわけでもない。

 そのときの(あのこ)は歌が上手くなかった。親の希望に応える若葉睦ではなかった。友人とカラオケに行く若葉睦でもなかった。ただ、中等部で浮かれた生徒を静かに嗜める優等生のままだったというだけ。彼の言う美徳とは、きっとそれだけの話。

 

『練習してきた曲あるんだ。途中の公園寄ってもいい?』

『いいけど、上手なの?』

『今度は平気! リベンジさせてよ』

 

 木漏れ日の下でギターを聞いた。

 秋風に吹かれて木漏れ日を浴びた。

 マシにはなったけど、あの自信が何だったのかと思うほど全然まともにならなくて、二人して笑った。

 

 どうしようもなく幼稚で、どうしようもなく無価値な、そんな記憶。

 だけど。

 

『あー、おかしかった』

『うん』

『睦は楽しかった?』

『ちょっとだけ、ね』

 

 嘘。目元を赤くして、(あのこ)はほんの少しだけ笑っていた。すごい笑うじゃん、と彼が頬を赤くして拗ねていた。あの日の秋風は普段よりも暖かくて、青空はやけに高くて、眩し過ぎて痛かった。

 今でも分からない。演じるだけだった若葉睦が、どうして演じずに笑顔を浮かべていたのか。あの日の彼の体温に、どこか気恥ずかしさを覚えた理由さえも。

 

 ……結局。その答えを聞き出す前に、(あのこ)はいなくなってしまった。浮かべた笑顔の記憶を、大切に胸の中に仕舞ったまま。

 

 

 

 行くことにしたのは、いくつか電車を乗り継いだ先のショッピングモールだった。

 

「それで、何を買いたいのか聞いてないんだけど」

「……考えてる」

「決まってないなら、一旦館内マップでも見に行こう。多分ここ広いし色々あるから」

「そうする」

 

 平日といえど夕方も近いからか、ショッピングモールは意外にも賑わっていた。母親の手をぐいぐいと先導して玩具コーナーに行く小さい男の子とか、手を繋いでエスカレーターを登っていく年上らしいカップルとか、様々なタイプの人が目の前を通り過ぎていく。放課後だからだろうけれど、あまり見慣れない制服がちらほらと散見される。

 壁際に寄って二人して館内マップを見つめていれば、なんとなく視線を感じ始める。……親の七光りでテレビに出ていたのは、もうずっと前のはずだけど。

 

「……行こうか、睦?」

「平気。慣れてる」

「いや、行こ。俺があんま嬉しくない」

「なに──」

 

 それ、と言葉を続ける前にぐいと手を引かれる。何を買うかなんて決めていないけれど、ある程度当てはあるらしかった。人に見られながら、館内をゆるりと歩き始める。……無理矢理進むなら、もっと早く歩けば良いのに。

 

「上のフロアに雑貨屋があるって。そこ行こう」

「強引」

「はいはい、そうですか」

 

 襟足をじっと見つめて抗議すれば、眉尻を下げた彼が振り向く。「……ごめん」繋いだ手が弛緩して、手が滑り落ちそうになった。「別に、怒ってない」今度はこちらから力を入れて、指先だけが支えになる。何度も豆ができたであろう固い肌は自分より温かい。なんて心許ない拠り所。少し力を抜けば離れ離れになってしまいそう。第一関節が触れ合うだけの些細な接触に、胸がちくりと痛んだ。

 

 こうして手を引かれるようになったのはいつからだっただろう。今の私には、初めて行った場所というものが存在しない。祥や彼にずっと手を引かれている。いつだって誰かの足跡を辿るように世界を見ている。……私でない若葉睦なら、きっと逆に手を引っ張って先導していただろうけど。それはもう、夢想する価値もないもしもだ。

 

「睦?」

 

 白昼夢が、腕を軽く引かれる感覚で寸断された。視界が滲んでLEDの照明がブレる。視界を照らす照明が眩しくて思わず顔を顰めて、彩度に慣れた虹彩がシックな雰囲気の雑貨屋を映した。自然音とミックスされたJPOPのオルゴールアレンジを聞き取り始める。BGMの背後には川のせせらぎ、鼻にはわざとらしい消毒剤の香り。

 

「睦、大丈夫か? 無理させた?」

「……大丈夫。ぼうっとしてた」

「なら、いいけど」

 

 ショッピングモールがそもそも大規模なのもあるけれど、一フロアを満たす雑貨屋はかなり広かった。店内に入って、棚に近寄ってつぶさに観察してみる。他の場所よりも彩度が明るい一角は化粧品コーナーだろうか。

 

「……睦、このハンドクリーム」

 

 ふと立ち止まって、彼はそこで言葉を切った。視線を逸らして、唇の端を軽く噛んだ顔。片手には柑橘系の香りがするクリーム。何年か前の冬の日、乾燥しそうだからと一緒に選んだものと同じブランド。

 

「ごめん。なんでも──」

「それ、買う」

「え」

 

 彼が棚に戻そうとしたハンドクリームを奪い取り、買い物かごに滑り込ませる。彼は一瞬目を瞬かせて──それだけで伝わったらしい。伝わってしまった、らしい。

 

「かご持つよ、ギター重いだろ」

「……うん」

「で、次は何を──」

「……これ」

「ああ、懐かしいな。マグカップ、お揃いのやつ買ったっけ」

 

 わざわざお揃いにして買って、祥が後から寂しそうにしていたから結局三人で違うもので買い揃えたモノトーン。祥が紅茶をマグカップで淹れてもらえないと拗ねていたのを彼も思い出したのか、くすりと声が漏れる。

 

「また買うか? 二人分」

「……いい。私の分だけ」

 

 えー、なんて残念そうに間延びした声を置いてけぼりにして、食器コーナーを後にする。雑貨屋の上に備え付けられた案内板を頼りにして──今度はインテリアコーナーらしい。正面の大がかりな棚には、動物を象ったインテリアグッズが規則正しく並べられていた。

 

「このテーブルランプ、一緒に選んだのに似てるかも」

「これはウサギ」

「結構可愛いな」

「……うん」

 

 以前選んだものはリスだったはずだ。とはいえ木目調の柔らかな雰囲気はかなり似ている。当時の私なら迷うことなく購入していただろうと当たりをつけて、買い物かごに仲間入りさせていく。

 

「……万年筆」

「懐かしい。母さんがお揃いねって睦と俺に渡したやつ」

「高級品」

「あの人そういう人だから……」

 

 いつかの記憶を手繰って、いつかの思い出を拾う。

 それを、何度も繰り返していた。

 

 私と彼が覚えているだけの好きだった欠片を、呼吸するように蒐集する作業。

 

「睦は、どこまで覚えてる?」

「全部は覚えてない」

「ま、それをいうと俺もなんだけど」

 

 今度は小さなアロマキャンドル。いつだったか、誕生日プレゼントに選んでくれたもの。

 ハンドクリーム。マグカップ。動物を模したテーブルランプ。香水。観葉植物の苗。小さなバスケット。ブランケット。万年筆。手鏡。私の知らない、私が好きだったもの。雑多に詰め込まれた買い物かごは、言うなれば棺だろうか。

 

「知らないもの?」

「うん。今の私は、二年前くらいから」

「……じゃあ、それまでの睦は?」

「……いない」

 

 自分にしては珍しい、自己満足だという自覚はある。これはただ不要だからと、そんな理由でいなくなってしまった誰かへの手向け。

 

「知ってるものもあるだろ?」

「……けど、それは違う私の記憶」

「睦自身、じゃなくて?」

「私じゃ、ない」

 

 眉が下がって、浅い息。ぎこちなく弧を描いた口元に、目を合わせることはできなかった。

 いつだっただろうか。今の私がこの表情を見たのは。私が一人ではないと、彼に伝えたのは。

 

「だってとっくの昔に、いなくなってる」

 

 頭上の店内BGMが様相を変える。川のせせらぎから変化した雨音に手を引かれるように、鼻腔が疼く。鼻先を掠める、雨の匂いを思い出した。

 

 

 

『私は、一人じゃない』

 

 ひどい雨の日だった。

 窓に打ち付けられる雨音が耳元で反響して、そのまま鼓動も吞み込んでしまいそうな、そんなひどい天気。凍死してしまいそうな寒さだけが全てで、ざあざあと、ノイズめいた音だけが外界を辿る糸だった。

 

『私は、おかしい』

 

 きっかけはギターだった。

 祥に勧められて、家でギターを弾いてみることにして──窓に打ち付ける雨音を全部無視して鼓動を揺らす弦音が、どうしようもなく心地よかったから。

 私の中に穴が開いていることに、まるで気が付かなかった。

 

『だから、来ないで』

 

 数時間足らずで、私が演じていた自分の半分以上は息を止めていて。窓に映る自分の顔が歪な他人に見えて逃げ出したかった。吐き気はあるのに胃液しか出なくて、ただ息をしたくて、家政婦の制止を振り切って外に出たことを覚えている。

 

『お願い、来ないで』

 

 家政婦の話を聞いたのか、彼は近くの公園に逃げ込んだ私を探しに来た。息を切らして大きな傘を持った彼を、だけどあの日の私は拒絶した。

 今考えても支離滅裂で、子供みたいな泣き言だった。無表情のまま喚き散らした私を、彼がどう思ったのかは分からない。

 なんて自分勝手。

 ただ、あなたや祥が私を見る目と向き合うのが恐ろしかった。子供じみたどうしようもない逃避。そんな独善的な告白を前にして、彼は目を丸くして。

 

『そんなの、ぜんぜん、関係ない』

 

 なにを思い詰めてるのか、とほのかに笑ってくれた。

 

 

 

 無機質なエレベーターの到着音に意識が引き戻される。ショッピングモールの屋上には展望台を兼用した屋上庭園があるんだって。彼のそんな提案に手を引かれるまま歩いて、肌寒い風にぴくりと身を震わせた。大理石の展望台の一角。並んで設けられた円形の椅子にそれぞれ座って、手持無沙汰に晴れやかな西日を見る。片手には缶のブラックコーヒー。私の手にも同じもの。いつだったか、きりりとした苦味に眉を顰めていたのが懐かしい。二人で飲めるようになりたいね。そんなことを、どこかで言っていた記憶がある。

 

 屋上庭園と銘打っているだけあって、備えられた花壇は花でいっぱいだった。目の前に広がる薄い青は勿忘草だろうか。花壇の奥、高所から俯瞰する景色に少し酔った心地。視線の先に沈丁花が見えて、鼻腔を緩やかに撫でる。春風はまだ本領を発揮していないらしく、耳元を涼風が通って視界が狭まる。

 

「寒い?」

「平気」

「そ」

 

 肩に軽い重み。視線を隣に移しても、澄ました顔で山の向こうに沈もうとしている日を見つめているだけ。人の体温で温もりを帯びた彼の薄手のコート。何を言っても無駄だろうと思いなおして、深くコートに包まれることにする。昔と比べて背丈も口調も変わったけど、こういうところは変わらない。

 ……そう、昔から変わっていない。

 早起きと虫が苦手なところ。ギターが好きなところ。私を見るまなじりが、薄く丸まるところも。

 

『気づくだろ、普通に。昔から一緒にいるんだから。口調も雰囲気もたまに変わってたし。もしかしたら、とは思ってた』

 

 中学生だった彼の姿を幻視する。

 あの雨の日、彼はそう続けた。突き放そうとした私に傘を片手に手を伸ばして、それでも手を取らない私と一緒にわざわざ雨宿りをした熱を覚えている。公園のベンチに座り込んだ私に傘を差しだして、穏やかに手を差し出してくれたことも。

 

『俺は睦のこと嫌いになんてならないよ』

『──どうして』

『優しいから』

 

 その柔い言葉に、虚を突かれたのだって覚えている。根拠なんて一縷もない言葉に、息が詰まった苦しさだって。

 ……胸の中からこみ上げる、静かなほつれがあったことだって覚えている。

 

「……睦」

 

 曇天の幻影を胸の奥にしまって、こちらを見ている、大人びた彼の方を向く。視線が合って、まっすぐな目がこちらを射抜いているような気がした。

 

「うん」

「俺が言いたいこと、分かる?」

「……わかってる」

 

 怒って当たり前だろう、と思いながらも悪い気はしない。胸の奥を這うそんな矛盾に顔を顰めかけて、閉て切った胸がほつれる。

 

「ごめん。……何も言わないで連れてきたから」

「や、それは良い」

 

 そっちじゃなくて。まなじりの先がわずかに丸まって、ふっと軽い息を吐いて。

 

「今朝起きたら、放課後付き合ってなんて言われてびっくりした」

「……うん」

「隣の家にいるんだから、少なくとも前日までに言うこと。分かった?」

「……分かった」

「ならオッケー」

 

 無防備に口を半開きにした、そんな自覚があった。この幼馴染は、一体、何を、言っているんだろう。

 笑いを噛み殺すように動く口元。血色が良い口の端からくすりとした息。

 

「それ、だけ?」

「うん、それだけ」

「何も?」

「何って」

「この買い物」

「ああ、これ?」

 

 大きな紙袋は結局彼が持つことにしたらしい。……こういうところは、ずっと頑固なまま。

 

「睦の部屋に飾りにいかないとな。一人だとモーティスがまた散らかすかもだし」

「……今、すごい怒ってる」

「やば。今度喋るとき謝っとかないと」 

 

 揶揄うような顔に、鼓動がやけに反響して──代わって睦ちゃん一言言ってあげるからこのバカ幼馴染に──モーティス、うるさい。今日は私だけが出るっていう約束のはず。

 

「……なんとなく、分かってたから。受け入れる準備くらいはしとこうって。こればっかりは祥子とも相談できないし」

「……必要なかった」

「いーの。俺の自己満足ってことにしといてくれ。で、なんで今日だったんだ」

「買い物?」

「……その、昔の睦との思い出をちゃんと整理する。やって来なかったけど、いつかはやらなきゃいけないことだった」

 

 無感情に努めようとした抑揚に、少し違うとは返せなかった。整理なんて大したものじゃない。ただ彼との記憶だけを大切にしていた若葉睦に別れを告げたい、なんて。そんな自己満足が糸になって、なんでもない人形を動かしているだけ。

 

「……ムジカ周りのことが落ち着いたから?」

「……それも、ある」

「じゃ、何」

「……ちょうど、二年」

「え?」

 

 空を仰いでも、あの二年前とはまるで違う。雨雲は一切なくて、ノイズめいた音は無くて、あれだけ凍えていた体も温もりに包まれている。

 缶コーヒーをそっと呷る。するりと体を通る酸味。鼓動がほんの少し早まる感覚。鋭い風味に身を震わせて、傾けた缶からもう雫が落ちないことに気が付いた。喉に詰まりかけた言葉をコーヒーで飲み干すには、足りない。

 

「私のことを、優しいって言った」

「──ああ」

 

 覚えてるよ、と宙に言葉が漏れ出た。

 

 

 

『子供の頃ってさ、何も知らないだろ。会う人全部、世界の全てが無条件で自分を愛してくれると思ってる。人のことを疑うなんてしない』

 

 気取ってるだけかもしれないけど。彼はそう前置きして、私に薄く笑いかけてきた。

 

『けどたぶん、無知でいることは必要だ。勘違いだとしても愛されているという経験があって人は初めて誰かに優しくあれる。人は、自分が持っている感情しか知らないんだから』

 

 あの日も、理解はできた。私には経験が無かったというだけで。

 だから言葉を返すことができなかったのだと思う。彼の目尻が薄く下がっているのが苦しくて、俯いたままで、世界を見ることから逃げていて。だというのに。

 

『睦は違った。他の人格があるなら、それは他人のことを知るってことだ。自分以外がものを考えていて、無条件で自分を愛してくれるワケじゃないって知ってる。なのに睦は──』

 

 ずっと、優しかった。彼はそう笑ってくれた。

 

『そんなこと、ない』

『いや、ある。いつだって睦は周りの人のことを考えてた』

『……それは』

『俺は、優しいってことだと思う』

『……でも、根拠がない』

 

 このときだ。語気を静かに強めた私に彼は困って、寂し気な微笑を浮かべて言った。

 

『根拠なら、一緒に探すから』

『────』

 

 それが、とどめになったのだと思う。

 彼にとってなんでもないこの言葉は、若葉睦という私にとって小さな幸福であり、防ぎようのない破壊だった。

 

『一人にならなくたっていい』

 

 だって、それは淋しいから。言って、彼はそっと傘を差して世界を暖かく遮断した。

 

『悩んだっていいんだよ、睦だって』

 

 だって、それは大切なことだから。続けて冷え切った手を握った彼は、一瞬顔を顰めた。

 

『普通の人と何も変わらないんだ。これからも一緒に下校して、放課後にくだらない話をしたりして』

 

 だから、ほら。眉尻を下げた彼がきゅっと手を握ったから、麻痺しかけていた指先にそっと力を入れた。

 

『傘、入ろう。濡れたままだと風邪引くから』

 

 そんなことを言われて、手を引かれるまま傘の下に入って。その日は、肩を触れ合わせて帰路についた。

 いつだってこうして、同じ場所にいられるよ。

 俯いたままの私に、彼はそう笑った。そんなことを、今の私は思い出している。

 ギターを本格的に始めて他の私が居なくなる、三日前のこと。

 

『ほら、帰ろう睦。今日は家で夕飯一緒に食べるって約束だろ』

 

 ふと思う。私は居場所を作るために役を演じる人形に過ぎない。それだけの機構だった。それしかない人間だった。

 それが正しいのだとしたら、どうして。

 

『……きゅうり、ある?』

『うん、ちゃんと作るよ』

 

 どうして私は、彼といるための人格を作らなかったのだろう。

 

 

 

「ギター、出しても良いか?」

「急。……どうして?」

「なんとなく」

 

 コーヒー缶を捨てて来たかと思えば、開口一番にそんな提案。珍しい。歯切れは悪かったが、誤魔化しているわけではなさそうだった。微かに頷けば、色の落ちたギターケースが口を開く。青色の六弦エレキ。レモングラスのワックスの香りが春風に乗る。

 

「下手くそなギターからマシにはなったところ、見せようかなって」

「……そう」

「他人事だなあ……睦に追い抜かされないように頑張ったのに」

「すごい」

「どうも」

 

 彼はそう言うけれど、ライブハウスで講師のバイトが出来るならギター歴に対して腕前は十分すぎるくらいだろう。それが若葉睦のためという事実は、正面から受容できないが。

 

「ほら」

 

 視界の端で浅い空色のギターピックが煌めく。アルペジオで弾くカノン進行。随所に見えるアレンジはテンションコード。

 弦の空を掻く小鳥、鋭く柔く表情を変える音色。生音の静けさが眼下に広がる街の隙間に染みていく。以前ライブハウスを覗いた時は、もう少し粗が残っていた気がするけれど。

 

「……上手」

「だろ?」

「久しぶりに聴いた」

「だろうな……でも、ちょっとは見直したでしょ」

 

 思えば畏まってギターを聞いたのはあの木漏れ日の下が最後で、一緒に弾いてみようなんて誘いを私は何度も断っている。暫くはしつこかった彼もギターの話をすることは少なくなって久しい。

 

「結構練習したから」

「分かってる」

「だから、さ」

「?」

 

 その、とか、あー、とか声にならないうめき声。なんどか口を開閉させて、視線を宙に彷徨わせて、咳払い。

 

「えーと……睦も、一緒にどう?」

「……突然すぎる」

「まあ、思いつきだし」

 

 頬を掻いて、視線を逸らす。期待するように虹彩をこちらに向けて、私が無言を続ければ目を伏せる。……彼のこんな表情は久々に見た。小動物みたいでどこか不自然。横に振りかけていた首が、無意識のうちに止まる。

 

「……分かった」

「え」

 

 肯首は予想外だったらしい。ギターケースに手を伸ばしてみせても、彼は口を半開きにして呆然としたまま。年相応に間抜けな顔に、頬がやや火照るよう。

 心臓の鼓動が早鐘を打つ。花壇の縁に立てかけていたギターケースを開けて、指先にアルダーボディの感触がする。慣れた重みに座り直せば、膝裏に椅子の縁が擦れてひんやりとした。

 クリアピンクに差した七弦の銀に指を構える。何も恐れることはない。もとより私はギターを弾く若葉睦だ。そのまま目を閉じて、いつも通りAve Mujicaのモーティスであろうとして。

 

「──あ」

 

 弦に添えた指先から急速に温度が消えていく。舌が乾いて、口が勝手に冷気を食む。息ができなくて、視線が覚束ない。鼓膜を心拍だけが叩いているというのに、身体中へと熱が回らない。酸素が足りなくて、座っていることさえ苦痛にさせた。

 

「……睦?」

 

 遠い。彼の声が、遠い異国の言葉に聞こえる。ついさっきまで聞いていた声のはずなのに、今はなんて──遠くにある声なんだろう。耳元をノイズだけが反響して、心臓がせりあがって喉に詰まってしまいそう。

 

 無理だ。ギターを構えても、彼の隣では人形は動かない。私は、彼を想う自分を殺したこの楽器を、彼の前だけでは鳴らせない。こんな自己満足に意味はなかった。思い出を辿るために彼を連れ出した遺骸拾いは、終始どこまでも無価値なまま。

 

 ──私は私自身を、きっと一生、許せない。

 

「ちょっと、睦──」

「……弾けない」

 

 肩に痛いくらいの重力を感じて、自分の腕に力が入らないことに気がついた。筋肉は弛緩しきって木屑。言うことを聞かない手足は球体関節。視界が滲んだ薄明に染まって、嗅覚は仕事をしてくれない。聞こえるのは彼の声だけで、確かなものは背中を抱える体温だけ。……モーティス、うるさい。今日は、私。

 息が苦しくて──彼の顔を見ないようにして──俯いたまま、ただ水を吐きだすように呼吸をする。膝の重みが消えて、ギターを彼が抱え込んでくれたのだと当たりをつければ、心なしか口元が軽くなった。

 

「……私は、あなたの知ってる私じゃない」

「……そんなことないよ」

 

 息を飲んでから、一言。眼下の道路を忙しなく車が走り抜けている。

 

「……私には、ギターしかない。それだけ」

「……俺はそう思わない」

 

 震える声で、続ける。遠くで、妙に大きな室外機が低く唸っている。

 

「……私の今までは、演技でしかない」

「……そうだったのかもしれない」

 

 一呼吸。

 

「だけど、嘘じゃなかったって信じてる」

「……そんなの」

 

 まるで子供だ。何を言ったって、強がりで、首を横に振るだけの子供。

 

「……もう、平気」

「ほんとかよ」

「ほんと」

「えー」

 

 ゆっくりと背中をさする手は、止まらない。視線で抗議を続けて、しばらくして私の勝利で終わった。彼が眉を下げてへにゃりと笑って、熱源が遠ざかる。

 

「伝わってなかったの、意外とショック」

「……何が?」

「俺が睦のことを……その、ちゃんと見てない、みたいな」

「ちゃんと、見る?」

「うまくは、言えないんだけど」

「……うん」

「ギター弾くだけとか、そんなの関係なくて」

 

 声に迷いが見えた。どうにか相応しい言葉を探して、私に伝えられるだろうかと手探りで──まるで、迷子みたいな。 

 柔らかく見つめられる。薄くはにかんでくる。手元には数分前に選んだフローラルの香水。

 

「これ、いつだったか覚えてる? 近所のおじいさんの荷物運び手伝って、お礼をほんの少し貰って」

「……小学五年生」 

「そう。初めて背伸びして買ったんだけど。あの時の睦はこの匂いちょっと苦手で」

「落ち込んでた」

「……まあ、かなり」

「でも、今は好き」

「昔だって、好きになるって言って大切にしてくれた」

「……初めてだったから」

「それだけで、なんだか嬉しかった」

 

 鼻腔を通る沈丁花の鋭い匂い。ギターケースに付けたお揃いのストラップが風に揺られて、鈴音じみた軽い音がする。

 ……目の前の空は、茜色に染まろうとしている。

 思えばなんでもないことが、私にとっては喜ばしいことだった。

 

 ──たとえば夕暮れ。

   広い庭で、あなたに手を引かれて笑い合った。

 

 彼がくすりと笑ったから、呼吸が軽くなった感覚があった。

 どんな時だって、あなたは微笑んで私を見てくれた。

 それが途方もなく眩しくて、泣いてしまうほど嬉しかった。

 (かのじょ)にとっては、どんなものでも大切だった。

 

「このテーブルランプ、前買ったのはリスのやつ。バイト始めたばっかのとき」

「……私が、買いたかったから」

「そ、珍しく夢中になってたから衝動買いしたら思ってたより大きくて」

「飾る場所、困った」

「結局二人で部屋のレイアウトまで変えたよな」

 

 ──たとえば木漏れ日。

   二人で公園に行って、風に乗るギターを聞いた。

 

 人を突き放すような子だった。

 あなたのことだって少し呆れて見ていて、拙いギターに顔を顰めてばかりで。

 でもたまには笑い合えたことだってあったと思う。

 (あのこ)はきっと、あなたのことが好きだったから。

 

「ハンドクリーム、最初は睦がくれたんだった」

「うん」

「あんまりこだわってなかったけど、それからも個人的に色々買ってて」

「……そしたら同じ匂いだった」

「知らない間にお揃いになってて、そんなことあるかって笑ったっけ」

 

 ──たとえば雨の日。

   傘の下、あなたに手を引かれて家に帰った。

 

 春風に髪が揺れて、呼吸だけが耳を満たす。近すぎる吐息が混ざり合ってしまうみたい。

 あの日だって吐息が全て。凍えそうな吐息だけが熱を帯びて、お互い切れそうな呼吸をみてた。

 そんな冷たさの中だって、(わたし)は温かかった。

 

「どんな睦だって、俺は一緒に笑いたかった」

「……たぶん、笑えてた」

「なら、よかったかな」

 

 勿忘草の花畑に薄くはにかむ。 長いまなじりが弧を描いて、背後の花が騒めく。

 

 ──あなたがいて、笑っているだけで、幸せだった。

 

「いろんなところ行った」

「ああ、確かに。カラオケだろ、映画館、遊園地……あとは」

「水族館」

「ああ、イルカショーでびしょ濡れになったやつ」

「……すごくさむかった」

 

 懐かしさに眩むように目を細める。茜色が薄青を上書きして、世界の彩度が一段階下がる。

 

 ──あなたがいて、歩いているだけで、嬉しかった。

 

「キレイだって、ずっとそう思ってた」

「……いつも言ってた」

「正直者だろ?」

 

 呼吸はいまだに落ち着かない。脱力した身体だって治らない。

 だっていうのに、私は彼と話すのをやめない。

 

 ──ほんのひととき。二人きりの傘が名残惜しくて立ち止まっただけ。

 

 だって、温かかったから。わたしを普通に扱ってくれるあなたの隣が。

 悩んだっていいんだよ、なんてことを真剣に話してくれるから、胸が軽かった。

 口にすることは出来ないけれど。私にしてみれば、あなたの方がずっと奇跡みたいにキレイだった。

 

 ──いつまでだって、同じ場所にいられるよとあなたは言った。その言葉を、ずっと、誰かに言って欲しかった。

 

「実をいうと」

「うん」

「あの時、やっぱり根拠なんてなかったんだ」

「じゃあ、どうして」

「俺が睦のことを、信じたかっただけ。俺の幼馴染はそんな子じゃないって」

 

 ──なんて単純。人形はきっと、それだけで壊れてしまった。

 

 たった十四年間の昔と、たった二年間の今まで。

 駆け抜ける時間は速くて、掴み取ることができないものだってたくさんあって。その後悔が、呼吸器官の熱源になっている。失った日々を、それでも必死に抱えている。

 そんな簡単な事実に、今になって気が付いた。

 

 ──それはほんとうに。

   月が翳った夜に見る、夢のような、日々だった。

 

「ギター、弾こう?」

「え?」

「セッションしたいから……私が」

 

 深呼吸。ギターを持って、いつもの姿勢へ。左手は和音の形。右手は、弦の少し上に。座り直して、隣の幼馴染の目を見つめる。眉が下がった不安そうな視線。あなたはいつもそうやって、私のことを見てくれていた。

 

「いや、だってさっき──」

「大丈夫」

 

 人形は命を持たない。過去の自分の遺骸を蒐集したって、生を得られるわけではない。けれど──信じていたかった、なんて。そんなたった一つの言葉が、脳みそを揺らしてリフレインする。動かないはずの心臓が騒がしくなって、無音のはずの喉がぴくりと震えた。

 切れ長のまなじりが、私の目の前に。

 察しの悪い私でも、心配ながら委ねられていることはわかる。

 それすら嬉しかった。どこまでいっても私は──人形でしかない私だって、彼の隣で嘘みたいに幸せだっただろうから。

 

「……大丈夫、だから」

 

 肺が初めての冷気に喜んで稼働を始める。強張っていた人形の残骸は消え去って、残っているのは自分自身とモーティスだけ。再認識したその事実でさえ、自分の呼吸を乱さない。

 二人で息をして、二人で座って瞳を見る。いつも通りの私で、いつもと違う気持ちでギターを弾ける。私は今なら、前を見ることは出来なくても、俯くだけではないと信じられる。人形でしかない自分を、きっと少しは肯定できる。

 躊躇いと後悔だけが、左心房から出て行って。胸に残る、暖かな記憶の残滓だけは信じられた。

 

「信じられない?」

「……まさか」

 

 一瞬息を呑んで、意地悪く眉尻が上がる。浅い息。この世界に初めて生まれたみたいな呼吸音。肺が縮こまってすこしひんやりとする。

 弦を押さえつける指先が熱い。電気が流れているように体中が痺れて、腕の重みまで振動する。鼓動がテンポを上げる。視界が晴れやかになって、ノイズがわずかに遠くなった。

 

「じゃあ、睦?」

「うん──」

 

 ほんの少しの緊張感。私の言葉は、この熱を伝えられるだろうか。あるいは、ギターなら。

 

「弾くね」

 

 大理石の丸椅子が揺れる──いや、揺れているのは私の方だ。ふたりぼっちの屋上。観客のいない生音のセッション。ライブというにはあまりに陳腐だけれど、何故だか楽しい。音はできる限り感情を抑えて。走る彼の音を私が諌めて、掛け合いをこちらから仕掛ける。互いの呼吸の輪郭を、ギターピックでなぞる。

 不思議。産声のように乱雑な音が、こんなにも──悪くないなんて。

 

 風が吹いて、鳥が飛んで、沈丁花が揺れて、鼻がツンとして、ギターを弾いて、彼が笑って、雲が靡いて。

 空の茜色が、荼毘の炎に見えた。

 

「楽しい?」

「……うん」

「なら、良かった」

「知ってる」

「なんだ、それ」

 

 ふっと息を吐いて、口元が緩やかに弧を描く。隣に笑みを返してギターを弾いて、終止和音。

 ようやく、息ができた。

 


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。