『攻撃できないキャスターで聖杯戦争を勝ち抜く方法』 作:牛☆大権現
亜種聖杯戦争は、勝者なしとして処理された。
公式な報告書には、そう書かれた。
願望機能、不成立。
勝者判定機構、消失。
儀式核、機能停止。
サーヴァント退去、完了。
観測塔、崩壊。
神秘漏洩、限定的。
一般社会への影響、隠蔽済み。
京都市内で発生した一連の異常は、地盤沈下、局地的な電波障害、文化財保護区域の緊急封鎖、山中の小規模崩落として処理された。
ニュースは数日で別の話題に移った。
街は、何事もなかったように動き出した。
それでよかった。
何事もなかったように朝が来ること。
それ自体が、誰かが持ち帰った結果だった。
ヴィクトール・シュタインベルクは、聖堂教会と時計塔双方の監視下に置かれた。
本人は最後まで不満を述べていた。
「私は協力者ではない。被害者でもない。魔術師だ」
ヘレナ・ヴァイスマンは、その診断書の端にこう書いた。
安静を要する。
本人に自覚なし。
非常に面倒。
ヴィクトールはそれを読んで、しばらく黙ったあと、
「医者という生物は、魔術師より横暴だな」
と言った。
ヘレナは返した。
「患者という生物は、だいたいそう言います」
クララ・ウィンチェスター=ベルは、家に戻る前に一発の空薬莢を銀の小箱へしまった。
家宝ではない。
呪弾でもない。
撃たなかった後に残ったもの。
彼女はそれを、誰にも説明しなかった。
ただ、銃を磨く時だけ、時折その小箱を開けた。
エイノ・ルーンベリは、鞍馬山の土を一握り持ち帰った。
シモのものではない。
観測塔のものでもない。
ただ、朝に戻った森の土だった。
その土の上に、彼は小さくルーンを刻んだ。
旅。
守り。
そして、消した。
守るものは、刻む前に見ろ。
その言葉だけが、彼の中に残った。
神代静馬は、帰還後しばらく身体神降ろしを使わなかった。
使えなかったのではない。
使わなかった。
朝、誰も見ていない場所で、左足を置く。
右足を寄せる。
肩を下げる。
手を添える。
抜かない。
ただ、抜く前の姿勢を取る。
一日一度。
最初の三日は、馬鹿らしいと思った。
四日目も思った。
十日目には、少しだけ腹が立った。
なぜ、こんなものが難しいのか。
真澄は、それを見て笑わなかった。
ただ、彼の横で札を一枚畳んだ。
火の札ではない。
土の札だった。
座っていられるように。
立ち急がないように。
そして。
アレクセイ・フォン・クロウリー=アッシュボーンは、時計塔へ戻った。
ロード・エルメロイⅡ世の執務室は、相変わらず煙草と紙と疲労の匂いがした。
机の上には報告書が積まれている。
事件資料。
隠蔽費用。
教会との照会文書。
協会側への言い訳。
京都市内の被害処理。
観測塔の残滓分析。
そして、アレクセイの報告書。
Ⅱ世はそれを最後まで読んだ。
黙っていた。
アレクセイは椅子の前に立っている。
足が少し痛い。
魔術回路もまだ完全には戻っていない。
だが、立っている。
見栄ではなく。
倒れない位置で。
やがて、Ⅱ世は報告書を置いた。
「ひどい内容だ」
「はい」
「聖杯は得られず、勝者判定も失われ、願望機能も不成立。観測塔の完全資料も焼失。魔術的成果としては、ほぼ何も残っていない」
「はい」
「さらに、各陣営のサーヴァントを撃破せず、参加者の多くを生還させた」
「はい」
「聖杯戦争の報告書としては、最低点だ」
アレクセイは、静かに頷いた。
以前なら、ここで言い訳をした。
観測塔が想定外だった。
敵が異常だった。
状況が悪かった。
自分は最善を尽くした。
そう言ったかもしれない。
だが、今は言わなかった。
「そう思います」
Ⅱ世は眉を動かした。
「認めるのか」
「はい」
「君にしては珍しい」
「悔しいです」
「だろうな」
「でも、後悔はしていません」
Ⅱ世は、しばらくアレクセイを見ていた。
その視線は鋭い。
嘘を見抜く視線。
誇張を嫌う視線。
魔術師の見栄を、何度も折ってきた教師の目。
アレクセイは逸らさなかった。
やがてⅡ世は、深いため息を吐いた。
「最悪の成績だな。魔術師としては」
「はい」
「だが」
一拍。
「生徒としては、悪くない」
アレクセイは、返事をしようとして、できなかった。
喉が詰まった。
それを誤魔化すために、少し頭を下げる。
「ありがとうございます」
Ⅱ世は煙草を探すように机の上を見て、結局手を止めた。
「それで」
「はい」
「観測者から受け取った帳面は?」
アレクセイは懐から、黒い稽古帳を取り出した。
机の上に置く。
薄い。
古びている。
白紙が多い。
完全記録ではない。
宝具波形もない。
英霊の複製式もない。
戦闘最適化の算法もない。
ただ、問いがある。
足の置き方。
呼吸。
礼。
なぜ、その型を選ぶのか。
Ⅱ世は手に取らなかった。
ただ、表紙を見た。
「封印指定に回せと言われたら?」
アレクセイは答えた。
「拒否します」
「協会の資料室に保管せよと言われたら?」
「拒否します」
「君の家が欲しがったら?」
「渡しません」
「では、どうする」
アレクセイは帳面を見た。
観測者の声が蘇る。
保存するな。
使え。
「使います」
Ⅱ世は目を細めた。
「誰が」
「僕が」
「それから?」
アレクセイは少しだけ考えた。
「たぶん、真澄が」
「それから?」
「静馬も。嫌がると思いますけど」
「それから?」
「必要になった人が」
Ⅱ世は、そこで初めて少しだけ表情を緩めた。
「論文には向かないな」
「はい」
「魔術成果にもならない」
「はい」
「保存価値は低い」
「はい」
「継承価値は?」
アレクセイは、帳面に触れた。
「使えば、少しは」
Ⅱ世は頷いた。
「なら、持っていけ」
アレクセイは顔を上げた。
「いいんですか」
「私は見ていない」
「先生」
「私は、その帳面が危険な魔術資料でないと判断した」
「でも」
「白紙だらけの稽古帳だろう」
Ⅱ世は書類へ視線を戻した。
「保管するほどのものではない」
アレクセイは、しばらく黙った。
それから、帳面を懐へ戻した。
「ありがとうございます」
「礼を言う相手を間違えるな」
「はい」
Ⅱ世は、もう一枚の紙を取った。
「それと」
「はい」
「しばらく実戦任務は禁止だ」
「え」
「魔術回路の損傷が残っている。身体も戻っていない。精神的疲労も大きい」
「でも」
「稽古は許可する」
アレクセイは口を閉じた。
Ⅱ世は冷たく言った。
「君の言う稽古が、また何かを爆発させる類のものなら即刻禁止する」
「足を置くだけです」
「それならいい」
「本当に?」
「本当にだ」
アレクセイは、少しだけ笑った。
「先生」
「何だ」
「俺、帰ってきました」
Ⅱ世のペンが止まった。
長い沈黙。
やがて彼は、書類を見たまま言った。
「ああ」
一拍。
「おかえり」
その言葉は、短かった。
あまりに短くて、素っ気なかった。
けれどアレクセイには、それで十分だった。
彼は深く頭を下げた。
執務室を出ると、廊下にフラットがいた。
「おかえりー! うわ、本当に生きてる! すごいね!」
「最初の一言がそれか」
「だって聖杯戦争だよ? 生きてるだけで偉業だよ?」
後ろからスヴィンが顔を出す。
「騒ぐな、フラット」
「でもアレクセイだよ?」
「だから騒ぐな」
グレイは少し離れた場所で、静かに頭を下げた。
「おかえりなさい」
アレクセイは、少しだけ照れた。
「ただいま」
ライネスは壁にもたれ、楽しそうにこちらを見ている。
「勝者なしの帰還者殿、気分はどうだい?」
「複雑です」
「正直でよろしい」
「からかわないでください」
「無理だね。これは一生使える」
アレクセイはため息を吐いた。
だが、不思議と嫌ではなかった。
カウレスが医療記録を持って近づいてくる。
「本当に無理しないでくださいよ。回路、かなり傷んでます」
「分かってる」
「分かってない人の返事ですね」
「最近そればかり言われる」
「言われる理由があるんですよ」
イヴェットが片目を輝かせながら寄ってくる。
「ねえねえ、その帯、何か曰くつき? ちょっと見せて」
「駄目だ」
「即答!」
「駄目だ」
白い帯は、まだ汚れている。
土も煤も落ちきっていない。
だが、洗う気にはなれなかった。
少なくとも、今は。
その日の夕方。
アレクセイは、エルメロイ教室の中庭にいた。
空は曇っている。
ロンドンらしい湿った風が吹いている。
京都の朝とは違う。
鞍馬山の土の匂いもない。
鳥居もない。
植芝盛平もいない。
それでも、地面はある。
足を置く場所はある。
アレクセイは、靴を脱いだ。
中庭の石畳は冷たい。
少し痛い。
懐から稽古帳を取り出す。
最初のページ。
何のために立つか。
帰るために。
その下に、まだ大きな余白がある。
彼は帳面を閉じ、石の上に置いた。
左足を置く。
右足を寄せる。
肩を下げる。
息を吐く。
中心を探す。
魔術は使わない。
護符も使わない。
血筋も、名門の看板も、聖杯も、英霊も。
ただ、立つ。
最初は、何も起きなかった。
当然だった。
地面は光らない。
術式も走らない。
誰も拍手しない。
勝敗もつかない。
けれど、足裏に重さが返ってくる。
自分の重さ。
帰ってきた身体の重さ。
「何してるの?」
声がした。
振り返ると、真澄が立っていた。
時計塔に来たばかりのせいか、少し落ち着かなそうに周囲を見ている。
それでも、アレクセイを見る目はいつも通りだった。
「稽古だ」
アレクセイは答えた。
真澄は眉を上げる。
「それ、植芝先生の真似?」
「真似になってる?」
「全然」
「厳しいな」
「でも」
真澄は近づいてきた。
石畳の上に立つ。
「私もやる」
アレクセイは少し驚いた。
「札は?」
「使わない」
「方位は?」
「見ない」
「いいのか」
「朝稽古って、そういうものでしょ」
アレクセイは笑った。
「たぶん」
「たぶん?」
「俺も稽古中だから」
「便利な言葉」
「だろ」
二人は並んで立った。
左足を置く。
右足を寄せる。
肩を下げる。
息を吐く。
中心を探す。
真澄はすぐに顔をしかめた。
「これ、地味」
「そうなんだよ」
「でも、難しい」
「そうなんだよ」
「なんか腹立つ」
「分かる」
少し離れた窓から、フラットが覗いていた。
「なにあれ、面白そう!」
スヴィンが横で言う。
「邪魔するな」
「でも地味だよ?」
「地味だから邪魔するな」
グレイも、少しだけ中庭を見ていた。
ライネスは紅茶を片手に笑っている。
Ⅱ世は窓辺に立たなかった。
だが、執務室のカーテンがわずかに揺れていた。
アレクセイは、それに気づいた。
気づいたが、見ないふりをした。
真澄が言う。
「ねえ」
「何」
「最初のページ、続き書いた?」
「まだ」
「書かないの?」
「今はまだ」
「先延ばし?」
「余白」
「ほんと便利」
真澄は笑った。
アレクセイも笑った。
それから、もう一度前を見る。
石畳。
曇り空。
湿った風。
遠い時計塔の鐘。
鞍馬山ではない。
聖杯戦争の戦場でもない。
観測塔でもない。
けれど、ここから始められる。
保存するのではなく。
飾るのでもなく。
使う。
間違える。
書き足す。
誰かに渡す。
失くさないようにではなく、失くしてもまた始められるように。
アレクセイは足を出した。
一歩。
何も起きない。
世界は変わらない。
聖杯も光らない。
英雄も現れない。
だが、真澄が隣で少し遅れて一歩を出した。
その足音が、石畳に重なる。
アレクセイは息を吐いた。
勝者なし。
願いなし。
けれど、帰ってきた。
帰った者には、次の朝がある。
次の一歩がある。
彼はもう一歩、足を置いた。
勝つためではなく。
認められるためでもなく。
誰かを壊すためでもなく。
帰るために。
最終回になります
読者の皆様、ありがとうございました。