『第一課題:スペシャルな鶏の唐揚げ』
『第二課題:シャア専用鍋』
『第三課題:熟成肉とほうれん草のソース煮込み』

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第1話

 特別棟の体育館に集められた時点で、綾小路清隆はいつもの特別試験だと思っていた。

 無人島に行くのか、筆記で削られるのか、クラス内の人間関係を試されるのか。

 高度育成高校のやることは面倒だが、少なくとも試験としての体裁はある。

 だが、壇上の大型モニターに表示された文字を見た瞬間、その前提は少し揺らいだ。

『食卓適応能力特別試験』

 試験名だけなら、まだ家庭科の延長に見えなくもない。

 問題は、その下に表示された課題料理だった。

『第一課題:スペシャルな鶏の唐揚げ』

『第二課題:シャア専用鍋』

『第三課題:熟成肉とほうれん草のソース煮込み』

 料理名そのものは、普通寄りだった。

 むしろ、タイトルだけなら腹が減っている時に見かけてもおかしくない。

 だからこそ、その料理がどう作られるのかを知っている者だけが、先に絶望した。

 茶柱佐枝は手元の資料を確認し、いつも通り淡々と説明を始めた。

 

「今回の試験では、各班に配布される料理を制限時間内に完食してもらう。

 なお、未成年者にアルコールを摂取させることはない。

 ジョッキの中身はハイボール風ノンアルコール飲料だ」

 

 そこだけはまともだった。

 法律は守る。

 ただし、常識までは守らない。

 茶柱がリモコンを操作すると、大型モニターにYouTubeの再生画面が映し出された。

 料理名の文字だけなら、そこまで異常ではない。

 ただ、サムネイルに映る年季の入ったゴザと、やたら存在感のあるジョッキと、床の上で完結している食事空間が、普通の料理動画とは明らかに違っていた。

 池寛治が椅子の上で固まった。

 石崎大地も遠くの卓で顔を引きつらせている。

 橋本正義は一瞬だけ笑おうとして、動画が再生された瞬間に笑みを引っ込めた。

 知っている者は、タイトルではなく工程を知っている。

 そして、知らない者も今から知ることになる。

 

「……あ、これ知ってるやつだ。

 いや、学校で流していい動画なのかよ」

 

 池の声は乾いていた。

 映像の中では、巨大なジョッキに氷が入れられる。

 そこへ注がれるハイボールは、一般的な比率から明らかに外れていた。

 炭酸で割るというより、濃い液体に炭酸が申し訳程度に参加している。

 未成年の生徒たちに出されるのはノンアルコール仕様とはいえ、元ネタの異常な濃度は映像だけで十分に伝わった。

 堀北鈴音はモニターを見たまま、眉間に皺を寄せる。

 

「……あれは飲み物という分類でいいの?」

 

「少なくとも、一般的なハイボールとは別物だろうな」

 

 綾小路が答えると、堀北は深く息を吐いた。

 画面の中では、ジョッキがカラカラ鳴っている。

 その音がやけに体育館に響いた。

 茶柱はさらに説明を続ける。

 

「各料理の前には、該当する調理過程を映像で確認してもらう。

 そのうえで実食し、完食後は各班代表者がジョッキを左右に揺らして氷を鳴らしながら、指定の台詞を発すること」

 

 モニターに指定台詞が表示された。

『お゛い゛じ゛い゛が゛も゛~』

 体育館の沈黙が深くなった。

 誰も笑わなかった。

 笑うには、これから自分たちがやらされることが具体的すぎた。

 坂柳有栖は少し離れた卓で、その文字を眺めていた。

 いつもの余裕は崩れていない。

 ただ、目だけがわずかに細くなる。

 

「なるほど。

 料理の完食だけでなく、発声まで含めて再現するのですね」

 

「坂柳。

 そこ、冷静に受け入れるところ?」

 

 神室真澄は自分の前に置かれたジョッキを見て、露骨に嫌そうな顔をした。

 坂柳は答えず、再生中の映像へ視線を戻した。

 第一課題の調理工程が始まる。

 スペシャルな鶏の唐揚げ。

 映像の中では、まずゴザの上に調理器具が並べられていた。

 台所ではない。

 床に敷かれた、妙に生活感のあるゴザの上である。

 食べる場所と調理する場所の境界が、最初から存在していなかった。

 そのゴザの上にキャンプ用バーナーが置かれ、その上へ油のなみなみ入った鍋が乗せられる。

 火。

 油。

 ゴザ。

 三つの単語が並んだ時点で、家庭科の先生なら即座に動画を止める構成だった。

 体育館の何人かが、無言で姿勢を正した。

 料理動画を見ているはずなのに、火災訓練の映像を見せられている気分になっていた。

 

「……あれ、安全面はどうなっているの?」

 

 堀北が低い声で言った。

 綾小路は画面を見たまま答えた。

 

「少なくとも、教科書には載らないやり方だろうな」

 

 画面の中で、鶏肉が油に投入される。

 油は十分すぎるほど深い。

 というより、鍋の縁までかなり近い。

 さらにバーナーの火が下から煽っているため、見ているだけで落ち着かない。

 そして、衣も普通ではなかった。

 味の素のみ。

 一味唐辛子のみ。

 わさび粉末のみ。

 小麦粉や片栗粉で包むのではなく、調味料そのものを衣として成立させようとしている。

 料理動画のはずなのに、見れば見るほど腹ではなく鼻の奥が身構えていく。

 まだ匂いすら届いていない。

 それでも、人間の想像力だけで喉が反応しそうだった。

 しかも、揚げ上がったスペシャルな鶏の唐揚げは、一般的な唐揚げの色を明らかに通り越していた。

 こんがりではない。

 きつね色でもない。

 黒い。

 味の素だけをまとった黒い唐揚げ。

 一味唐辛子だけをまとった黒い唐揚げ。

 わさび粉末だけをまとった黒い唐揚げ。

 それが三種類並んだ時点で、体育館の空気は静かに終わった。

 しかも、逃げ道になるはずの飲み物は水ではない。

 各卓に置かれているのは、ハイボール風ノンアルコール飲料だけだった。

 アルコールは入っていない。

 だが、濃さだけは異様に再現されている。

 ウイスキー風の香り、苦味、燻したような重さ、炭酸の刺さり方。

 それらが薄まる気配もなくジョッキの中に詰まっていて、飲み物というより、ハイボールの概念を濃縮した液体に見えた。

 口直しの役割を期待するには、あまりにも主張が強すぎる。

 唐揚げが攻撃なら、ジョッキは退路に置かれた別の攻撃だった。

 櫛田桔梗は、にこにことした笑顔のまま固まっていた。

 

「みんなで分ければ、何とかなる……のかな」

 

 声の最後が、少しだけ揺れた。

 櫛田桔梗の営業用笑顔にも、ゴザの上で揚がる黒い唐揚げ三種盛りは効くらしい。

 龍園翔はモニターを見上げ、喉の奥で笑おうとしていた。

 だが、ゴザの上に置かれたキャンプ用バーナー、その上の油がなみなみ入った鍋、そこから出てくる黒い唐揚げを見て、さすがに一拍だけ黙った。

 相手が人間なら威圧できる。

 相手が試験なら壊せる。

 だが、画面の中の調理工程は、威圧する前に危険予知の方が先に来る種類のものだった。

 龍園はわずかに眉を寄せた。

 

「……料理のくせに、こっちを困らせに来やがる」

 

 石崎は青ざめた顔で、何も言えずにモニターを見ていた。

 知っている側の余裕などない。

 むしろ、知っているからこそ最初から逃げ場がなかった。

 龍園はすぐに口元を歪めた。

 困惑をそのまま認める気はないらしい。

 

「上等だ。

 黒かろうが、味の素だろうが、一味だろうが、わさびだろうが、俺の前に出された以上は潰す」

 

 石崎は何か言いかけて、やめた。

 料理を潰すという表現はおかしい。

 しかし、今の映像を見る限り、唐揚げ側も普通に食べられる気はなさそうだった。

 第一課題の唐揚げが配膳された。

 映像で見たものが、そのまま目の前に置かれる。

 揚げ物の香ばしさの奥から、わさび粉末と一味唐辛子の気配がする。

 衣には赤と白と妙な緑が絡み、唐揚げというより唐揚げの形をした試練だった。

 堀北は皿を見下ろし、すぐに切り分け始めた。

 

「三種類あるわ。

 味の素、一味唐辛子、わさび粉末。

 刺激の強いものを一人に集中させないで」

 

 綾小路は唐揚げを見た。

 料理を前にした指示としてはかなり戦闘寄りだが、今回は相手が戦闘寄りだった。

 堀北は真面目だった。

 唐揚げを相手に本気で作戦を立てている。

 その判断は正しい。

 正しいが、正しい判断を要求してくる唐揚げがおかしい。

 須藤健が先に一味唐辛子の唐揚げを一口食べた。

 噛んだ瞬間、目を見開く。

 彼はすぐに飲み込まず、数秒間じっと耐えた。

 

「……これ、うめえっちゃうめえけど、辛さが衣の顔してねえ。

 舌に直接来る」

 

 堀北は少しだけ驚いた顔をする。

 須藤にしては、かなり分かりやすい報告だった。

 

「その調子で、無理せず食べて。

 今の情報は使えるわ」

 

「褒められてる気はしねえけど、今はそれどころじゃねえな」

 

 須藤は真剣だった。

 唐揚げの前では、普段の反発も少し薄れるらしい。

 綾小路もわさび粉末の唐揚げを一口食べる。

 表情は変わらない。

 だが、鼻に抜ける刺激が想像より速かった。

 衣として成立しているかどうか以前に、わさび粉末が喉の奥へ一直線に来る。

 耐えられないほどではない。

 だが、喉だけが反射で裏切った。

 

「……ンッ、ゴホッ」

 

 堀北がすぐにこちらを見る。

 綾小路の顔はいつも通りだった。

 ただし、今の咳は明らかに作戦でも演技でもない。

 

「綾小路くん。

 今、むせたわよね」

 

「反射だ。

 問題はない」

 

 問題はない。

 そう言いながら、綾小路はジョッキに手を伸ばした。

 ただ、そこにあるのは水ではない。

 ハイボール風ノンアルコール飲料である。

 一口飲んだ直後、濃い香りと苦味が喉の奥にずしりと残った。

 唐揚げの刺激を流すつもりだったのに、流れない。

 むしろ、別の濃さが口内に居座った。

 

「これは、水の代わりにはならないな」

 

「でしょうね。

 口直しではなく、別の課題が追加されただけだわ」

 

 堀北はジョッキを見下ろし、明らかに嫌そうな顔をした。

 炭酸の刺激はある。

 しかし爽やかさはない。

 濃いハイボール風味が、唐揚げの余韻に重なって、逃げ場を塞いでいる。

 龍園は唐揚げを箸でつまむこともせず、指で持ち上げた。

 石崎が慌てる。

 

「龍園さん、まず小さくいった方がいいっす。

 いや、いけるかどうかは別として、せめて──」

 

「テメェは黙って見てろ」

 

 龍園は一味唐辛子の唐揚げを丸ごと口に放り込んだ。

 噛む。

 一拍。

 眉がわずかに動く。

 辛味が衣ではなく本体として舌に刺さり、揚げすぎた苦味が後から追いついてくる。

 龍園の喉から、短く濁った音が漏れた。

 

「ン゛ッ」

 

 石崎が絶望した顔をした。

 龍園が料理相手に、確かに妙な音を出した。

 だが、龍園は飲み込んだ。

 そして、口元を拭いながら笑う。

 

「いいじゃねえか。

 唐揚げのくせに、こっちの鼻っ柱を折りに来やがる」

 

「唐揚げに鼻っ柱はないっす!」

 

 石崎は反射で突っ込んだあと、すぐにしまったという顔をした。

 龍園の笑みが深くなる。

 

「なら俺が作って折る」

 

 石崎はそれ以上何も言わなかった。

 言えば自分の皿に追加されると察したらしい。

 その察しは正しい。

 龍園はわさび粉末の唐揚げを取り、石崎の皿に置いた。

 石崎はそれを見て、顔を引きつらせる。

 

「食え。

 知ってるなら覚悟もできてるだろ」

 

「知ってるから覚悟が壊れてるんすよ!」

 

 石崎は半泣きで唐揚げを口に入れた。

 直後に鼻を押さえる。

 横で伊吹澪が嫌そうに一口かじり、眉を寄せた。

 

「……うざ。

 衣が衣の仕事してないんだけど」

 

 龍園が笑う。

 伊吹は龍園を睨んだが、反論の代わりに次の一口を食べた。

 龍園に従っているのではない。

 龍園に負けるのが嫌だから食べている。

 どちらにせよ、結果として皿は減っていた。

 坂柳は唐揚げを小さく切り、優雅に口へ運んだ。

 選んだのは、よりによってわさび粉末の唐揚げだった。

 一口目。

 姿勢は崩れない。

 二秒後。

 まつ毛がわずかに揺れた。

 三秒後。

 彼女はハンカチで口元を押さえた。

 

「ゲホッ! ン゛ッ、ゴホッ……!」

 

 勢いよく濁った。

 小さく抑え込もうとしているのに、わさび粉末の刺激が喉の奥で暴れている。

 神室真澄も自分の皿を前にしていたため、笑う余裕はなかった。

 ただ、坂柳がここまで明確にむせた事実には、さすがに目を向けざるを得なかった。

 

「坂柳。

 今の、普通に効いてるでしょ」

 

 坂柳は目元だけで神室を見た。

 まだ口元を押さえている。

 頬にうっすら赤みが差していた。

 

「……認めたくはありませんが、想定より主張が強いですね」

 

 言い方だけは冷静だった。

 だが、ジョッキに手を伸ばす速度が、いつもの坂柳より少しだけ早い。

 それが何よりの答えだった。

 坂柳はジョッキに口をつけた。

 一口だけ飲み、静かにジョッキを下ろす。

 その直後、笑顔を作ろうとしたが、濃い香りと苦味が舌の奥に貼りつき、炭酸がそれを喉へ押し込んでくる。

 唐揚げの刺激を流すはずが、別の濃さが上から乗ってきた。

 坂柳は笑顔を作れないまま、ほんの少し渋い顔をした。

 

「これは、口内を整える飲み物ではありませんね」

 

 神室も自分のジョッキに少しだけ口をつけ、すぐに顔をしかめた。

 彼女も笑っていない。

 むしろ、坂柳に構う余裕がない程度には同じ被害を受けていた。

 

「……分かる。

 逃げ道じゃないね、これ」

 

 唐揚げを完食した班から、儀式が始まる。

 代表者はジョッキを飲み干し、氷だけが残った状態で左右に揺らす。

 カラカラ。

 カラカラ。

 体育館に、妙に軽い音だけが響く。

 最初に龍園クラスの番が来た。

 代表者は当然のように龍園だった。

 石崎は視線を逸らしている。

 伊吹は見ている。

 というより、見届けている。

 龍園は濃いノンアルハイボール風飲料を一気に飲み干した。

 むせはしない。

 だが、飲み込んだ直後、眉間にわずかに皺が寄る。

 喉の奥に残った重さを、明らかに認識していた。

 氷が残ったジョッキを左右に振る。

 カラカラ。

 音だけは妙に陽気だった。

 龍園は低い声で、指定台詞を吐いた。

 

「お゛い゛じ゛い゛が゛も゛~」

 

 陽気さが一切なかった。

 完全に脅しだった。

 おいしいかもしれない、ではない。

 おいしいと言え、と相手に命じる声だった。

 茶柱がほんの一瞬だけ目を伏せた。

 採点は通ったらしい。

 石崎が小さく拳を握る。

 

「龍園さん、怖すぎるっす。

 おいしいって言葉で人を殴れるんすね」

 

「次はテメェに言わせるぞ」

 

 石崎は全身で首を振りかけたが、龍園の目を見てすぐに姿勢を正した。

 生き残る力だけは高い。

 

「今のは最高においしそうだったっす!」

 

 続いて第二課題の前に、シャア専用鍋の調理過程が流された。

 今度は鍋という名前だったが、使われているのは炊飯器だった。

 ゴザの上に置かれた炊飯器へ具材が入れられていく。

 白菜、豆腐、肉。

 普通なら安心できる材料のはずだった。

 だが、そこへ七味唐辛子が常識の範囲を超えて投入される。

 炊飯器の中が赤くなっていく。

 鍋というより、炊飯器が何か別の使命を背負わされているようだった。

 画面越しなのに、体育館の何人かが鼻を押さえた。

 実際には匂いなど届いていない。

 だが、人間の想像力は時に鼻腔を攻撃する。

 池が小さく呻いた。

 

「あれ、鍋っていうか炊飯器じゃん。

 いや、炊飯器で鍋やるのはまだ分かるけど、赤さの理由が怖いじゃん」

 

 誰も突っ込まなかった。

 だいたい正しいからだ。

 配られたシャア専用鍋は、予想通り赤かった。

 白菜、豆腐、肉。

 普通なら安心する具材たちが、赤い汁の中で戦闘態勢を取っている。

 そしてここでも、味の素の量は異常だった。

 旨味の補助ではない。

 辛味を乗せる土台として、かなりの量が投入されている。

 龍園は鍋を見下ろして笑った。

 

「赤けりゃ強いってか。

 分かりやすくていいじゃねえか」

 

 坂柳が少し離れた卓から声をかける。

 

「龍園くんには、確かにお似合いの色ですね」

 

 龍園の笑みが深くなる。

 今度は完全に人間同士の空気になった。

 

「テメェの方こそ、さっきみてぇに上品にむせて終わるなよ」

 

 坂柳は微笑んだ。

 ただし、目は少しだけ笑っていない。

 

「あら。

 勝負はまだ始まったばかりですよ」

 

 神室が隣で小さく呟く。

 

「さっきの時点でだいぶ削れてるけどね」

 

 坂柳は聞こえないふりをした。

 鍋の攻略は、唐揚げよりも消耗戦だった。

 熱い。

 辛い。

 うま味が強い。

 そして、食べても食べても赤さが減った気がしない。

 堀北は汁を最小限にし、具材だけを引き上げる方針を立てた。

 須藤は肉を担当し、綾小路は辛味の濃い豆腐を処理する。

 櫛田は笑顔で白菜を取り分けていたが、箸の動きだけはいつもより慎重だった。

 龍園は最初から汁ごといった。

 石崎が止める間もなかった。

 

「ン゛ッ……!」

 

 さっきより濁った音だった。

 鍋の熱と七味の刺激が、龍園の喉を正面から殴ったらしい。

 だが、龍園は椀を置かない。

 

「ハッ。

 いい度胸だ。

 鍋の分際で、俺に汗をかかせようってか」

 

「龍園さん、もう額に汗出てるっす」

 

 石崎が言った瞬間、龍園の視線が飛んだ。

 石崎はすぐに背筋を伸ばす。

 

「いや、鍋の湯気っす。

 湯気が龍園さんの額に先回りしただけっす」

 

「雑な言い訳してんじゃねえ」

 

 制裁として、石崎の椀に赤い白菜が追加された。

 石崎は泣きそうな顔でそれを見た。

 伊吹は横で淡々と食べていた。

 ただし、目つきは普段以上に悪い。

 

「これ、普通に腹立つ。

 辛いのに箸が止まらないのが余計腹立つ」

 

 龍園は鼻で笑った。

 止めたら俺が入れるぞ、とでも言いたげな顔だった。

 伊吹はその顔を見て、さらに不機嫌そうに次の一口を食べる。

 龍園クラスの協調性は、やはりだいぶ歪んでいた。

 第二課題の儀式も当然あった。

 完食した龍園はまたジョッキを鳴らす。

 カラカラ。

 赤い鍋を制した直後のせいで、声にはさらに妙な迫力があった。

 

「お゛い゛じ゛い゛が゛も゛~」

 

 体育館の端で、誰かが小さく息を呑んだ。

 もはや台詞ではない。

 勝利宣言だった。

 坂柳も完食後、ジョッキを手にした。

 飲み干した瞬間、濃い風味が喉に残る。

 むせるのではなく、重い。

 飲み物のはずなのに、胃の入口に座り込むような存在感があった。

 それでも坂柳はジョッキを鳴らす。

 カラカラ。

 華奢な手元から、妙に乾いた音が響く。

 

「お゛い゛じ゛い゛が゛も゛~」

 

 可憐さと濁音が正面衝突した。

 神室は笑わなかった。

 笑う余裕がなかった。

 自分の喉にも、さっき飲んだ濃いハイボール風味がまだ残っている。

 ただ、坂柳が濁音で言い切った事実だけは、疲れた頭にも妙にはっきり刻まれた。

 

「坂柳。

 今の、忘れろって言われても無理だから」

 

 坂柳は静かにジョッキを置いた。

 その微笑みはいつも通りに戻っている。

 戻っているが、少しだけ疲れていた。

 

「では、覚えている代償については、後で相談しましょうか」

 

「今それ言う元気あるの、すごいね」

 

 神室はそう返したが、いつもの切れ味は足りなかった。

 坂柳も神室も、すでにかなり削られていた。

 第三課題の前に、熟成肉とほうれん草のソース煮込みの調理工程が映された。

 これも炊飯器だった。

 体育館の空気が、唐揚げや鍋の時とは違う方向に重くなる。

 料理名には熟成肉とある。

 だが、映像に出てきたものは、上品な熟成とはまったく違った。

 二年前の豚ロース。

 三年前の鳥ひき肉。

 三年前のほうれん草。

 一年経っていないくらいの串カツソース。

 そして、異常な量の味の素。

 それらが炊飯器の中へ入れられていく。

 炊飯器は米を炊くための道具のはずだった。

 少なくとも、三年前のほうれん草と二年前の豚ロースを受け止めるために作られた道具ではない。

 熟成という言葉が、体育館の中で静かに死んだ。

 ただ賞味期限を越えただけの肉を、熟成と呼んでいいのか。

 生徒たちはほぼ同時に同じ疑問へたどり着いた。

 だが、茶柱佐枝は何の補足もしなかった。

 安全基準。

 代替品。

 衛生管理。

 そういう優しい単語は、一つも出てこない。

 映像で見せたものを、そのまま試験として出す。

 この学校は、少なくとも今回に限ってはそういう顔をしていた。

 堀北鈴音が低い声で言った。

 

「……それは熟成ではなく、管理の失敗ではないの?」

 

 綾小路は答えなかった。

 たぶん正しい。

 だが、正しいからといって皿が消えるわけではない。

 運ばれてきた煮込みは、黒っぽいソースに沈んでいた。

 肉の形はある。

 ほうれん草もある。

 串カツソースの甘辛い匂いが濃く、そこへ味の素の旨味が過剰に重なっている。

 食べられるかどうか以前に、調理工程を見た記憶が邪魔だった。

 龍園は皿を見下ろし、さすがに少しだけ眉を動かした。

 

「……今度は時間で殴ってくる気か」

 

 石崎はもう祈るような顔をしていた。

 二年前、三年前という数字が、彼の頭の中でずっと点滅しているらしい。

 龍園はそんな石崎を横目で見て、鼻で笑った。

 

「ビビってんじゃねえ。

 今ここにあるのは皿だ。

 皿なら空にすりゃ終わりだろ」

 

 その理屈は強引だった。

 だが、強引でなければこの第三課題の前には立てない。

 少なくとも、まともな理屈は調理工程の時点で賞味期限を迎えていた。

 煮込みを一口食べる。

 唐揚げのような刺激はない。

 シャア専用鍋のような熱さもない。

 だが、濃い。

 串カツソースの甘辛さ、肉の重さ、ほうれん草の沈んだ風味、そして味の素の過剰な旨味。

 全部が皿の中で長期滞在を決め込んでいる。

 綾小路は表情を変えないまま飲み込んだ。

 だが、脳内では三年前のほうれん草という情報がずっと点滅していた。

 実際に腹を壊すかどうかではない。

 映像を見せられた後に食べるという行為そのものが、もう試験だった。

 堀北は冷静に皿を見ている。

 見ているが、箸の動きは明らかに慎重だった。

 

「これは急がない方がいいわ。

 味が濃いから、一気に行くと後半で受け付けなくなる」

 

 綾小路は小さく頷いた。

 堀北の判断は、食事というより山岳救助に近かった。

 遭難地点が皿の上になっただけで、やっていることは危険地帯の分担だった。

 櫛田は笑顔で取り分けていたが、その笑顔には疲れが滲んでいた。

 営業用の明るさを保っているだけでも大したものだ。

 ただ、彼女の箸がソースの濃い部分を避けているあたり、本能は正直だった。

 

「みんな、あと少しだから頑張ろうね。

 無理はしないで、少しずつね」

 

 その言葉は優しかった。

 優しかったが、無理をしないと終わらない料理を前にしているため、空気はあまり軽くならなかった。

 坂柳は煮込みを見下ろし、さすがに一拍置いた。

 

「これは、名前の付け方で印象を操作していますね」

 

 神室が横から言う。

 

「熟成じゃなくて期限切れって言われたら、誰も食べたくないしね」

 

「ええ。

 言葉は盤面を変えます。

 ただし、胃は言葉では騙せません」

 

 坂柳はそう言って、一口食べた。

 数秒後、彼女は静かに目を閉じた。

 唐揚げの刺激とも鍋の辛味とも違う。

 濃いソースと旨味が、後からゆっくり押し寄せる。

 坂柳はジョッキを手に取った。

 飲む。

 濃いハイボール風味が、さらに喉の奥へ重く残る。

 彼女は飲み物に助けを求めたはずなのに、別方向の濃さが追加されたことを理解して、ほんの少しだけ沈黙した。

 

「……これは、救援ではありませんね」

 

「分かる。

 もう濃い、ただ濃い」

 

 神室の声にも疲れがあった。

 唐揚げの時のように坂柳へ突っ込む余裕は薄い。

 坂柳も神室も、すでにかなり削られていた。

 龍園は煮込みを口に入れ、ゆっくり噛んだ。

 今回はすぐに飲み込まない。

 味を確かめている。

 いや、相手の出方を見ているようだった。

 

「なるほどな。

 派手に殴るんじゃねえ。

 胃袋に居座って、こっちの動きを鈍らせるタイプか」

 

 石崎は皿を見て、もう半分魂が抜けている。

 龍園の分析が料理相手なのに妙に当たっているのが、さらに嫌だった。

 

「料理を全部敵みたいに見るのやめてほしいっす。

 でも、今回だけは分かるっす」

 

 龍園は薄く笑い、さらに食べた。

 意地だった。

 料理に勝つというより、調理工程を見せられた自分の中の嫌悪感ごとねじ伏せている。

 石崎も泣きそうになりながら食べる。

 伊吹は黙って食べる。

 アルベルトは無言で食べ続ける。

 龍園クラスの食卓は、ほとんど討伐戦だった。

 最後の皿が空になる頃には、体育館全体が妙に静かになっていた。

 勝ったというより、生き残ったという感覚の方が近い。

 そして、最後の儀式が始まる。

 各クラスの代表者たちは、三品目を完食した胃袋に、濃いノンアルハイボール風飲料を流し込まなければならない。

 氷が残る。

 ジョッキを揺らす。

 カラカラ。

 この音を聞くたび、生徒たちの目から少しずつ光が失われていく。

 龍園は三度目のジョッキを掲げた。

 飲み干す。

 濃い風味が喉と胃の境目に重く残る。

 それでも彼は笑っていた。

 

「お゛い゛じ゛い゛が゛も゛~」

 

 低く濁った声が体育館に響いた。

 それは料理への評価ではない。

 自分はまだ折れていないという宣言だった。

 石崎は拍手しかけて、龍園の目を見てやめた。

 拍手すると次の何かを食わされそうだったからだ。

 坂柳は最後のジョッキを手にした。

 飲む前から、神室が横で見ている。

 坂柳はその視線を無視し、ゆっくり飲み干した。

 濃い風味が残り、胃の中に今日食べた三品の記憶がまとめて押し戻される。

 坂柳は一瞬だけ沈黙したあと、ジョッキを左右に揺らした。

 カラカラ。

 白い指先と氷の音が、妙に噛み合っていなかった。

 

「お゛い゛じ゛い゛が゛も゛~」

 

 言い切った。

 言い切ったが、体育館全体がほんの少しざわついた。

 坂柳有栖が、濁音でむせて、濁音で締めた。

 この事実だけで、今回の特別試験は後世に語り継がれる可能性があった。

 神室は疲れた顔で息を吐く。

 

「坂柳。

 今日のこと、忘れろって言われても無理だから」

 

 坂柳は微笑んだ。

 とても静かな微笑みだった。

 

「では、覚えている代償について、後で少しお話ししましょうか」

 

「今それ言う元気あるの、すごいね」

 

 神室はそう返したが、声にはいつもの切れ味が足りなかった。

 濁音でむせても、坂柳有栖は坂柳有栖だった。

 堀北クラスの代表は、結局堀北だった。

 リーダーとして逃げない。

 逃げないが、納得している顔ではない。

 彼女はジョッキを飲み干し、氷を鳴らした。

 カラカラ。

 その音を聞きながら、綾小路は思った。

 今回の試験で測られているものは、協調性や忍耐力だけではない。

 調理過程を見せられても、料理名の響きに騙されず、なお完食できるか。

 濃い飲み物と濃い台詞を前にしても、人間としての何かを保てるか。

 それは教育なのか。

 少なくとも、普通の教育ではない。

 堀北は正面を向き、覚悟を決めた声で言った。

 

「お゛い゛じ゛い゛が゛も゛~」

 

 須藤が感動したような顔になった。

 池は目を逸らした。

 櫛田は笑顔で拍手したが、その笑顔には疲労が滲んでいた。

 堀北はジョッキを置き、深く息を吐く。

 

「……全部が全部、人間の食べ物では無かったわ……」

 

 綾小路は空になった皿を見た。

 唐揚げも、鍋も、煮込みも、もう残っていない。

 残っているのは濃い後味と、氷のカラカラという音だけだった。

 

「だが、これを最初に作った人間は好き好んで作って食べていた」

 

 綾小路が発したとの一言に、堀北はわずかに目を見開き、疲れたように目を伏せた。

 

「試験内容より、その事実が一番怖いわよ……」

 

 誰も反論しなかった。

 高度育成高校の特別試験は、今回も一応終わった。

 ただし、しばらくの間、校内熟成という言葉の信頼度が少しだけ下がった。

 


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