嘘で日本がアメリカになる――誰も偽物と断言しなかった1944年の偽造暗号   作:あまね みかん

53 / 53
第53話 弾丸の終わり、資本の始まり

1944年十一月三十日 正午

帝都・東京 日比谷・第一生命館(東部軍管区司令部)

 

曇天の空から、冷たいみぞれが音もなくアスファルトを濡らしていた。

 

参謀本部第一課の執務室。

 

部屋の隅に置かれた木箱のラジオから、日本放送協会の男性アナウンサーによる、ひどく抑揚のない平坦な声が流れ続けている。

 

政府と情報局が用意した、長々とした声明の代読だった。

 

『……以上ノ如キ条件ヲ以テ、帝国政府ハ、米英両国ニ対スル無条件降伏ヲ受諾スルノ、止ムナキニ至リタルトコロデアリマス。』

 

打ち合わせで集まっていた作戦課の真木少佐、憲兵隊の須藤大尉、そして辻村中尉の三人は、無言のままその声を聞いていた。

 

アナウンサーの声が一度途切れ、ラジオから「サーッ」という微かな真空管の雑音だけが数秒間流れた。

 

やがて、わずかに声のトーンを変えたアナウンサーが、国民向けの原稿を読み上げ始めた。

 

『……続イテ、情報局ヨリ、臣民並ビニ前線ノ将兵ニ告グ、ヲ朗読致シマス。

 

大東亜ノ聖戦勃発以来三箇年、皇軍将兵ハ各戦野ニ於テ真ニ克ク健闘シ、銃後ノ臣民モ亦、一死奉公ノ誠ヲ尽クシテ参リマシタ。

 

然レドモ戦局必ズシモ我ニ好転セズ、此処ニ帝国ハ、平和ヲ克復(こくふく)シ、鉾(ほこ)ヲ収メルコトト相成リマシタ。』

 

僅かに紙をめくる音がした。

 

『今ハ唯、大任ヲ果タサレタ将兵ノ皆様ヲ、静カニ故郷ヘ迎エ入レヨウデハアリマセンカ。

 

兵器ヲ置キ、故郷ノ土ヲ踏ム父ニ、兄ニ、深イ感謝ヲ捧ゲマショウ。

 

御父様、有難ウ御座イマシタ。兵隊サン、ドウゾ御気ヲ付ケテ御帰リ下サイ。

 

我々ハ涙ヲ拭イ、新タナル建設ノ道ヘ邁進シテ……』

 

カチッ。

 

須藤大尉がラジオの電源を切った。

 

「……これで終わりなのか」

 

須藤が、ひどく平坦な声で言った。

 

軍服の背中は丸まり、憑き物が落ちたように両肩が力なく下がっている。

 

「……そのようです」

 

辻村中尉が手元の野帳に視線を落としたまま、淡々と応じた。

 

「……そうか」

 

真木少佐が、窓ガラスの水滴をぼんやりと見つめながら短く息を吐いた。

 

『お父様、ありがとうございました』という情報局の書き割りのような原稿で、帝国は負けた。

 

「……市ヶ谷(陸軍省)や三宅坂(参謀本部)は、どう動く」

 

須藤が、手巻きの煙草を取り出しながら事務的な口調で問うた。

 

「今のところ、完全に沈黙しています。部隊移動の兆候は一切ありません」

 

辻村が答える。

 

「そうか……そうだよな……」

 

須藤が燐寸を擦り、紫煙を細く吐き出した。

 

     *

 

同時刻。

 

帝都の街角でも、配給所の前や隣組のラジオから流れる放送を、大勢の市民が立ち止まって聞いていた。

 

『……兵器ヲ置キ、故郷ノ土ヲ踏ム父ニ、兄ニ、深イ感謝ヲ捧ゲマショウ。御父様、有難ウ御座イマシタ。兵隊サン、ドウゾ御気ヲ付ケテ御帰リ下サイ……』

 

放送が終わっても、誰も声を上げなかった。

 

人々は顔を見合わせ、ただ呆然と立ち尽くしている。

 

「……負けたのか」

 

背広の男が、ぽつりとこぼした。

 

「あ、ああ。降伏したそうだ」

 

隣の老人が、抑揚のない声で答える。

 

「……そうか」

 

男はそれだけ言って肩を落とし、駅の方角へ歩き出した。

 

巨大な風船から一瞬で空気が抜けたような、激しい「拍子抜け」の感覚だけが、市民たちの体を重くしていた。

 

「……終わったんだねえ」

 

割烹着姿の女が、空を見上げて呟いた。

 

「ああ。……兵隊さん、帰ってくるそうだ」

 

「……」

 

みぞれ雪の降る冷たい帝都の空の下、人々はただ無言で、それぞれの家へと帰っていった。

 

     *

 

1944年十二月某日 夜

 

帝都・東京 銀座・裏路地のバー

 

重い木製の扉の向こうは、街の寒々しい空気から切り離されたような、紫煙と微かなアルコールの匂いが漂う薄暗い空間だった。

 

蓄音機からは、いつの時代のものか分からない、擦り切れたレコード針のチリチリというノイズ混じりのクラシックが低く流れている。

 

カウンターの隅に並んで腰掛けた辻村中尉と漆原少尉は、軍服ではなく目立たない背広姿だった。

 

出征兵士の歓送迎で賑わっていた頃の面影はなく、蝶ネクタイを締めた無口なマスターが、カウンターの奥で黙々とグラスを磨いている。

 

「ここにまだ、こんな上質の酒が残っているなんて……」

 

漆原が、グラスの中で溶けかけた氷をカランと鳴らしながら、ひそやかな声で言った。

 

「君の実家には、これより上等な洋酒がいくらでも隠してあるだろう」

 

辻村は手元のグラスを見つめたまま、淡々と応じた。

 

「司令部の張り詰めた空気から逃れて、こういう静かな場所で傾ける一杯は、また味が違うものです」

 

漆原は苦笑交じりに肩をすくめ、ふと真顔に戻った。

 

「……中尉。いまだに現実感が湧きません。軍の上層部が、最終的に一枚の紙切れであっさりと『無条件降伏』を呑んだことが」

 

「名目はカイロ宣言の都合上無条件だが、裏ではスイスのダレス機関を通じて『陛下の御身の保証』や『防共の協定』など、周到な密約が交わされているはずだ……」

 

辻村は短くなった手巻きの煙草に火をつけた。

 

「アメリカにとっても、この降伏は好都合でしたからね。ルーズベルトの『クリスマス前には兵士を帰す』という公約と、見事に一致した」

 

漆原が複雑な表情で呟く。

 

「それだけではないさ」

 

辻村はグラスの縁を指でなぞり、暗い瞳の奥に冷たい光を宿した。

 

「無傷のインフラ、勤勉な労働力、そして極東における絶好の地理的条件。……大陸での権益を睨むウォール街の資本家たちにとって、日本列島は必須の兵站基地だ。彼らにとっては最高の買い物だろう」

 

漆原は小さく息を呑んだ。

 

「……我々は、買われたのですか」

 

「まぁな……。そして、その『売り渡し』のきっかけとなったのが例の暗号だ」

 

辻村はグラスの氷を揺らした。

 

「……特高が傍受したという、あの『ソ連対日参戦』の暗号文書ですか」

 

漆原の問いに、辻村は薄く笑った。

 

「発端は通信兵が手柄欲しさに、見たかった物を見ただけだ……だが、その結果はこれだ」

 

「……あの暗号は、偽物だったのですか?」

 

漆原が震える声で尋ねた。

 

「今となっては、あの暗号自体が本物か偽物かなんてどうでもいいことだ……中身は概ね間違っていなかっただろうからな」

 

辻村は、残っていた琥珀色の液体を飲み干した。

 

「ラジオ放送じゃ、ああ言ってるがな、現実はそうはいかん。満洲国境の連中が、そうすぐに武装解除できるわけがないんだ。あそこには常にソ連の脅威がある。……もし、来年まであの茶番を引き延ばしていれば、スターリンは必ず南下してきただろう。そうなれば国体の護持どころの話ではすまん」

 

辻村は、空になったグラスの底を見つめた。

 

「正直、これから先どうなるかはわからん。すべては新しい支配者の匙加減次第だ。……だが、最悪の事態だけは免れたと言える」

 

一拍置いて、続ける。

 

「確かなのは、官僚たちが自らの責任から逃れるために転がした鉛筆が、帝国をアメリカの資本に売り渡す白紙委任状にサインをした……その事実だけだ」

 

「……」

 

漆原は絶句した。

 

「ひとまず、弾丸と砲弾の戦争は終わったな」

 

辻村は十圓をカウンターに置き、立ち上がった。

 

「だが、明日からはもっと残酷な戦争が始まる」

 

重い木製の扉を開けると、灯火管制の解かれた銀座の通りに、冬の冷たい風が吹き込んだ。

 

「帰ろう、漆原。私は日陰、君は日向を歩く人間だ。だが、次の時代のルールにいち早く適応しなければ、お互い生き残れん」

 

「……はい」

 

革靴の足音が、濡れたアスファルトに響く。

 

みぞれに濡れる帝都。

 

この街並みは、近日中に巨大な「現物資産」として新しい支配者へ譲渡される。

 

「帝国」という名の経営母体の生殺与奪は、巨大な米国資本に握られることとなる。

 

【第一章・帝都崩壊編 了】

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。