夏の山は、うるさいくらいに生きている。
むせ返る緑の匂い。足元で鳴く名も知らぬ虫。頭上のどこか遠くで、ひぐらしが一匹、糸を引くように鳴いている。その声だけが、なぜだかいやに澄んで聞こえた。
生い茂る夏のただ中に。
その建物は、周りの緑をぜんぶ拒むみたいに、ぽつんと建っていた。
灰色の鉄筋コンクリートを、ただ四角く積み上げただけの箱。窓は申し訳程度に小さく、鉄格子が嵌まっている。人を入れるためというより、閉じ込めるために造られたんだと、ひと目で分かる無骨さだ。敷地を囲っていたらしい有刺鉄線は、ところどころ垂れ下がって錆に食われ、正面の鉄扉は片方が蝶番から外れかけて、ぽっかりと口を開けていた。
俺と詩音は、少し離れたところから、その箱をぼんやりと見上げていた。
「なんか……辛気くさい所だな」
「悪の本拠地にしては、随分肩透かしな絵面ですねぇ」
詩音が、開きっぱなしの鉄扉のあたりに目をやったまま言う。
「もっとこう、神殿みたいなのを想像してたんですけど」
「この前やったドラ●ンクエストみたいにか?」
「あれ面白かったですよね、ゲーム機をくれた義郎おじさんに感謝しないと」
……我ながら、なんて間の抜けたやり取りだろうか。だが仕方がない。こんなボロボロの箱の中に、あの女がいると言われても、どう反応していいのか分からないのが現状だ。
鷹野三四。
俺たちの村を、レナを、魅音を、沙都子を、梨花ちゃんを……皆をこの世から消し去った張本人。己の歪んだ自己顕示欲のためだけに、数えきれない人間の未来を奪い去った怪物。そいつの行き着いた先が、この山奥の、崩れかけた鉄屑みたいな箱の中とは……
湧いてくるはずの憎しみが、うまく形にならなかった。怒りたいのに、目の前のこれがあんまりにも呆気なく、拍子抜けするくらいに物悲しい。呆れているような、困っているような、いっそ哀れんでいるような。名前のつかない何かが、腹の底でとぐろを巻いているだけだった。
隣の詩音も、似たような顔をしている。眉を寄せて、鉄扉の奥の暗がりを見つめたまま、動かない。
「……行くか」
俺が言うと、詩音は小さく頷いた。
少し先で、赤坂さんが黙って俺たちを待ってくれている。
「鷹野三四は生きている」
俺たちの前に再び現れたこの人の口から、それが語られたのはつい、数日前。
それはじっとりと蒸し暑い、午後だった。
居間の卓を挟んで、向かい合っていた赤坂さんの表情には、まだ迷いのような色が残っていたように思う。
つい数日前に会ったとき、赤坂さんは俺たちにこう言い残していた。今日の話のさらに先に、二人の人生を変える事実がある。進む覚悟があるなら教えてほしい——そう言い残して。
俺たち次第だ。一週間、俺と詩音は何度も話し合って、最後は俺の方から伝えた。進む、と。だから赤坂さんは、こうしてもう一度、来てくれた。けれど、
「……本当に、いいんだね」
念を押すような、けれど押しつけがましくない声。この人が、ここまで躊躇うというのは……これから言おうとしていることは、本当に俺たちの人生に大きな影響を与えてしまいかねない事なのだろう。
けど……もう俺は、俺たちは逃げたりはしないと決めたんだ。俺は頷いた。隣の詩音も、小さく。
赤坂さんは一度目を伏せ、それから、まっすぐに俺を見て言った。
「……鷹野三四は、生きている」
不思議なもんだ。静寂の居間に響いたその言葉に、俺が感じ取ったのは驚きでも、怒りでも、悲しみでもなくて──納得だった。
やっぱりか、と。そう思ってしまったのだ。
根拠なんて何もない。理屈も、何ひとつ持ち合わせちゃいない。なのに、鷹野が生きていると聞かされて、俺の腹の底は不気味なくらい静かに、その事実を受け入れていた。まるで、とうに知っていたことを、ただ念押しされただけみたいに。
そのことに、かえって俺は寒気を覚えた。
どうして俺は、驚かないんだ?
隣の詩音は、はっきりと息を呑んでいた。目を見開いて、赤坂さんを見つめている。当たり前だ。死んだと思い込んでいた人間が生きていたんだから、そっちが普通の反応だ。なのに俺だけが、まるで得心するみたいに、その言葉を飲み下してしまっている。
……いや。本当は、分かっている気もした。
あの夜。土砂降りの、あの悪夢みたいな雨の中。俺と鷹野は、二人きりだった。血の匂いと、湿った土の匂いと、そこらじゅうに死が満ちていた、あの車の中で。あの女の底の知れない目を間近に覗き込んだとき、俺は理屈も何もなく、ただ直感したんだ。
この人は、怪物だ。
そして怪物ってやつは……きっと、そう簡単にはくたばらない。
あのとき肌で感じ取った得体の知れなさが、今になって、俺の内側で妙な確信に変わっていた。あんな女が、大人しく死んでいるはずがない。心のどこかが、ずっとそう思っていたのかもしれない。
「鷹野を生かしているのは、派閥の論理だよ」
赤坂さんは、俺の顔色をうかがうように、話を続けてくれた。
なぜ、あの女が生きているのか。その理由は、あの女が何者であるかと、分かちがたく結びついていた。
鷹野は、大災害の何もかもを知る人間だ。あれが天災でも事故でもなく、東京という組織の内側で仕組まれた人災だということを、その一部始終を、いちばん近くで見てきた。実行犯であると同時に、生きた証人でもある。
大災害のあと、事態を収拾し、火山ガスの事故として蓋をした連中がいる。その手から逃れて、散り散りに潜り込んだ旧い派閥の残党たちがいた。追われる立場に堕ちた彼らが欲しがったのは、追手に突きつけるための切り札だ。うかつに自分たちを消せば、何もかもを表沙汰にするぞ、と脅すための札。
その札が、鷹野三四だった。
あの女が村を焼いた。その事実そのものが、あの女を、けっして消せない証人に変えてしまった。だから残党は、用済みとして始末されかけていた鷹野を拾い上げ、匿ったというのだ。
なんとも、皮肉な話だ。
俺はずっと、あの女は口を封じられて、とっくに消されたものだと思い込んでいた。皆を焼いた罪で、どこかで野垂れ死んだのだと。だが逆だ。皆を焼いたというその一点が、今度はあの女自身を守る楯になっていたというのだ。
皆の死が。レナや、魅音や、沙都子や、梨花ちゃんの死が。あの女を、生かしている。
その捻れた理屈は、腹の底に、ねっとりと苦いものを残した。何がどうあんまりなのか、うまく言葉にはできない。ただ、皆の命が、あの女にとっては命綱の代わりになっているという、その一事だけが、やけに重く沈んでいった。
隣で、詩音がぽつりと零した。
「……悪運の強い人ですね」
いつもの、甘くて棘のある声じゃなかった。ただ、疲れたみたいに、平たい声だった。
赤坂さんは、静かに首を振った。
「悪運と呼べるのかどうか、怪しいところだけどね」
その残党も、もう長くはないのだという。鷹野を匿ってきた中心の男は、今や病の床に伏せて、余命いくばくもない。他の残党も似たようなものだという。かつてこの国を裏側から動かしていた連中が、落ちぶれ果て、ひとり、またひとりと朽ちかけている。鷹野を切り札として使う力も、守り抜く力も、とうに残っちゃいない。
鷹野は実質ほぼ放置状態で、誰にも見つけられずにただ時代に置き去りにされているのだという。
「鷹野三四自身も、もう……まともに口を聞くことすら難しいようだ」
「……」
長く飼い殺しにされるうちに、心のほうが、壊れてしまったのか。会えたとしても、まともに言葉が通じる保証はない——赤坂さんは、そう言い添えた。
国家を揺るがすような、大それた悪の。その成れの果てが、これだ。
誰も彼もが、みっともなく、みすぼらしく、山の奥で錆びついていく。勝者も敗者もありゃしない。ただ、朽ちていくだけ。そう思うと、憎しみよりも先に、うすら寒いものが背筋を這った。
「その、鷹野がいる場所を」赤坂さんは、湯呑みに落としていた視線を上げた。「私は、突き止めた」
山の奥深く。かつて、あの症候群の研究に使われていたという、古い施設。そこに、鷹野は匿われている。
そして——死にかけたその残党の男と話をつけて、ほんのわずかな間だけ、鷹野に会える段取りを整えることができる、と赤坂さんは言った。どうやって話をつけるのか、そこはあの人は多くを語らなかったし、俺も、なぜだか訊く気にはなれなかった。
「会って、どうするかは」
赤坂さんは、まっすぐに俺を見た。急かすでも、諭すでもない、ただ静かな目だった。
「私が決めることじゃない。君たちが、決めることだ」
俺は、詩音と目を合わせた。数日かけて、もう何度も話し合ったことだ。ここまで来て、目を逸らす道なんて、俺たちにはもう残っていない。
「……行きます」
外れかけた鉄扉に手をかけると、思ったより重たい軋みを上げて、それは開いた。
中へ足を踏み入れた途端、空気が変わる。外にあれだけ満ちていた夏が、嘘みたいに遠のいていった。むせ返る緑の匂いも、虫の声も、ぱたりと途切れて。代わりに鼻をつくのは、黴と埃と、錆の匂い。淀んで冷えて、時間そのものが止まったような雰囲気だった。
日の光は小さな鉄格子の窓からわずかに差し込むだけで、廊下の奥は溶けるような闇に沈んでいる。
歩くたびに、三人の足音だけが、やけに大きく反響する。そんな不気味な雰囲気だというのに、軽い足取りで進んでいた詩音は、ふと思い出したみたいに口を開いた。
「あ、そうだ。赤坂さん」
「ん?」
「鷹野を匿ってた連中って、もう力もほとんどないんですよね。こんな、鍵ひとつでどうにでもなりそうな所に放り込んでるくらいだし」
「……そうだね」
「じゃあ、なんで誰も始末しに来ないんです?あの人が生きてちゃ困る連中は、他にもいるでしょうに。こんな無防備なら、消すのなんて簡単そうなものですけど」
言われてみれば、確かにそうだ。証人が野ざらしで放置されているなんて、間尺に合わない。
赤坂さんは、少し歩調を緩めて答えた。
「消すに値しないから」
その声には、憐れむような響きが、かすかに混じっていた。
「いや、これは私の推測でしかないけれど……連中にとって鷹野三四は、始末するために人を動かす——その手間すら、惜しいと思われる程度の存在に成り下がっているんじゃないかな」
「なり下がってるって……」
「今の鷹野三四が、なにかを告発したところで……誰も本気にしないだろう。後ろ盾すら失って、精神的にもまともに扱う方が難しいような状態だ」
その惨めな有様を並べて見せられれば、鷹野の証言なんぞ、三流のゴシップ記事にも劣る与太話にしかならない、というわけだ。狂った女のうわ言。そう片付けられて、それで終いだ。
文字通り、もう価値すら、ない。
千二百人を焼き、この国の裏側を引っ掻き回した女が。神にでもなろうとするみたいに、大それた何かを成し遂げようとした女が。今や、殺す手間さえかけてもらえないほど、どうでもいい存在になり果てている。
憎しみをぶつけるべき相手が、こうも徹底して無価値だと突きつけられると……
廊下の突き当たりに、ひときわ古びた鉄の扉が見えてきた。
何の根拠もなく直感した。あの向こうに、奴がいる。
鉄の扉の前で、俺たちは足を止めた。
塗装の剥げた、分厚い扉。ところどころ赤茶けた錆が浮いて、把手のあたりだけが、幾人もの手で撫でられたみたいに鈍く光っている。この一枚の向こうに……
誰が入るのか。口に出すまでもなく、その問いが、三人の間に転がっていた。
「……あのですね、圭ちゃん」
沈黙を破ったのは、詩音だった。
「私、正直に言うと、自信がないんですよ。あの女の顔を間近で見て、大人しくしていられる自信が」
肩をすくめて、詩音は薄く笑う。
「なにせ、園崎の女ですからねぇ。うっかり手が出て、圭ちゃんの出番を横取りしちゃうかもしれない。それじゃあ、なんだか格好がつかないでしょう?」
冗談めかした言い草だった。だが、それが冗談だけじゃないことくらい、俺には分かる。
俺に委ねているんだ。
あの女をどうするか。全部お前が決めていい——そう言っている。“どんな形”になろうとも、どんな道を選ぼうとも。
「まあ、ぶっちゃけ」
詩音は、ふっと笑みの質を変えた。おどけた皮を、一枚だけ脱ぐみたいに。
「一番しんどいところを、圭ちゃんに押し付けてる、ってだけかもしれません。私はここで、待ってるだけ。……ずるいですよね、我ながら」
「……いや」
そういうことを隠さずに言う、そんな彼女にこれまで何度も救われてきた。そもそもにして、詩音に掬い上げてもらったことが全ての始まりなんだ。
故に——押し付けられた、とは思わなかった。
これは、たぶん、俺の役目だ。理屈じゃない。あの夜のことが、腹の底にわだかまっている。土砂降りの中、あの女と二人きりで向かい合った。皆を失った痛みは、詩音と変わらない。だけど、あの女と一対一で対峙した記憶だけは、俺だけのものだ。
だから、これは俺が閉じなきゃならない。
俺は、赤坂さんを見た。
言葉にする前に、あの人は静かに頷いていた。
「……止めないよ」
低い声だった。
「私はもう……この件を追う立場にない。情けない話だけれど、ここが潮時なんだと思う。だから今日ここへは、警視庁としてじゃない。ただの、赤坂衛個人として来ている」
あの人の目が、まっすぐに俺を捉えた。柳みたいに何でも受け流すいつもの飄々とした光は、そこになかった。
「この扉の向こうで、君が何を選ぼうと。……私は、君を止められない。止めるつもりもない」
それが、どういう意味か。俺にだって分かる。たとえ俺が、この手であの女を——そうしたとしても、この人は個人として、それを呑み込むつもりでいる。
とんでもない覚悟を、こうもあっさり口にする人だ。
「外で待っている」と、赤坂さんは続けた。
「なに、こんな辛気くさい所だ。万一、招かれざる客でも来たら、追い返すくらいの役には立つさ」
「……はは。じゃあ、詩音のことも、お願いします」
「ちょっとちょっと、私だって守られてるだけじゃあないですよ。いざとなったら相手の眼球片っ端から焼くくらいには役に立ちますって」
「警察としてはそれは止めたいところだけど」
おどけて胸を叩く詩音に、赤坂さんが何ともいえない表情を返す。
俺は、もう一度だけ、詩音のほうを振り返った。
こいつは、何も言わなかった。ただ、いつも通りの顔で、小さく顎をしゃくった。行ってこい、とでも言うみたいに。
それだけで、十分だ。
俺は把手に手をかけ、力を込めた。錆びついた蝶番が、悲鳴みたいな音を立てて軋む。
鉄の扉が、ゆっくりと、内側へ開いていった。
色々立て込んでいて、少し間が空いてしまいました。もうあと数話で完結です。もう少しだけ、よろしくお願いします!