外伝 第35話 益州という餌
許昌の祭が終わってから、数日が過ぎた。
街にはまだ祭の名残があった。
通りには色鮮やかな旗が残り、商人たちは祭で売れ残った品を安売りしている。酒場では祭の最中に起きた騒ぎが、尾ひれをつけて語られていた。
その騒ぎの中心にいた男――張燕、時雨はというと。
「……暇だ」
昼下がりの執務室。
時雨は机に突っ伏していた。
書類は積まれている。
しかも、かなりの量だ。
しかし本人は一枚も手をつけていない。
「暇だ暇だ暇だ。なんか面白ぇこと起きねぇかな」
「仕事をしなさい」
背後から冷たい声が飛んできた。
時雨は顔だけを横に向ける。
そこには曹操――華琳が立っていた。
「俺はな、仕事っていうのは暇人がやるもんだと思ってるんだ」
「意味が分からないわ」
「つまり俺は暇じゃねぇ。だから仕事はできねぇ」
「屁理屈にもなっていないわね」
華琳はため息をついた。
しかし、時雨はそんなことなど気にしない。
彼は以前とは違っていた。
魏に降伏したばかりの頃。
時雨は従順だった。
命令には逆らわず、余計なことを言わず、笑顔の裏に本心を隠していた。
だが――その仮面はもうない。
黒山賊の頭領だった頃の男。
人を騙し、敵を嵌め、必要ならば平然と汚い手を使う。
そんな盗賊の顔が、完全に戻っていた。
ただし、以前と違うことが一つある。
その力を振るう相手が、魏ではないということだ。
「で?」
時雨は机に頬杖をついた。
「劉備から返事は来たか?」
華琳の眉がわずかに動いた。
「まだよ」
「へぇ」
「あなた、また何かしたの?」
「何かって?」
「あなたが劉備へ送った手紙よ」
「いやいや、俺はただの挨拶をしただけだぜ」
「……」
華琳は黙った。
時雨が以前送った手紙を思い出したからだ。
『劉備さんへ。
益州って景色綺麗だよな。
俺、今度遊びに行くわ。
土産はもらっていくからよろしく。
張燕』
どう考えても挨拶ではない。
宣戦布告に近い。
しかも、その後に送った二通目には、
『蜀って国名、悪くねぇな。
でも魏がもらったらもっと格好いい名前考えてやるよ』
と書いてあった。
三通目など、
『北郷にもよろしく。
益州の地図、ちゃんと用意しとけよ』
だった。
華琳は額を押さえた。
「あなた、本当に性格が悪いわね」
「褒め言葉か?」
「褒めていないわ」
「じゃあ聞き流す」
「……」
華琳は深く息を吐いた。
だが、その表情から笑みが消える。
「それより、時雨」
「ん?」
「益州の話よ」
その瞬間。
時雨の目が変わった。
さっきまでの眠そうな顔。
ふざけた笑み。
だらしなく椅子に座る姿。
それらが、一瞬だけ消えた。
「……劉章か」
「ええ」
華琳は机の上に地図を広げた。
そこには益州が描かれている。
広大な土地。
豊かな農地。
険しい山々。
そして長江へ繋がる水運。
「現在、益州を治めているのは劉章。劉備ではない」
「知ってる」
時雨は地図を眺めた。
「劉備は荊州だ。益州は劉章の領地」
「その通りよ」
華琳は指を益州へ置いた。
「だからこそ問題なの」
「問題?」
「劉備と北郷一刀が益州へ手を伸ばす可能性が高い」
時雨は口元を歪めた。
「へぇ……」
「劉備は荊州を手に入れた。そしてその隣には、天の御使い――北郷一刀がいる」
「悪鬼様ってわけか」
時雨は鼻で笑った。
「祭の時も随分と偉そうだったな、あいつ」
「北郷一刀は危険よ」
華琳の声には明確な警戒があった。
「兵力だけではない。あの男には、人を惹きつける力がある。劉備の理想と組み合わされば、益州を取り込む可能性は十分にある」
「なら先に取ればいい」
時雨はあっさりと言った。
華琳は目を細める。
「誰が?」
「俺」
即答だった。
「俺が益州に行って、劉章から取り上げる」
「簡単に言うわね」
「簡単だろ?」
時雨は地図を指で叩く。
「劉章は益州の地元勢力に支えられてる。だったら、その支えをぶっ壊せばいい」
「具体的には?」
時雨は笑った。
盗賊の頭領らしい。
嫌な笑いだった。
「まず劉章の家臣同士で喧嘩させる」
「……」
「次に商人に噂を流す。『劉章は魏に降伏する』ってな」
「民心を混乱させるつもり?」
「もちろん」
「さらに?」
「劉章が疑心暗鬼になったところで、忠臣を疑わせる」
「外道ね」
「知ってる」
「そして?」
時雨は地図の上を指でなぞった。
「魏軍は、その混乱を見てから動く」
「あなた自身は?」
「俺は先に入る」
華琳の目が鋭くなった。
「単独で?」
「黒山の時代に比べりゃ、楽勝だ」
「あなたは本当に……」
華琳は呆れながらも、笑みを浮かべた。
「盗賊ね」
「元、だけどな」
「いいえ」
華琳は静かに言った。
「今のあなたも十分、盗賊よ」
「そりゃ嬉しい」
時雨は笑った。
その時だった。
扉が開く。
「失礼します、華琳様」
入ってきたのは柳琳だった。
虎豹騎を率いる彼女は、普段の柔らかな雰囲気とは違い、軍装を身に纏っている。
「時雨もいたのね」
「おう、柳琳」
「また華琳様に怒られているの?」
「怒られてねぇ。仕事を押し付けられてる」
「それを怒られていると言うのよ」
「細けぇな」
柳琳は苦笑した。
そして地図を見る。
「益州……ですか?」
「ええ」
華琳が答える。
「劉章が治める益州を、魏の次なる目標とする」
柳琳の表情が引き締まった。
「劉備と北郷一刀が動く前に?」
「そういうことよ」
時雨は椅子から立ち上がった。
「なら決まりだな」
「何が?」
「俺が益州を引っ掻き回す」
柳琳が少し困った顔になる。
「……引っ掻き回すだけ?」
「もちろん」
時雨は悪戯っぽく笑った。
「ぐちゃぐちゃにしてやる」
「時雨……」
「大丈夫だって」
彼は肩をすくめる。
「殺し合いを始めるのは簡単だ。だけど俺がやりたいのは、もっと楽しいことだ」
「楽しいこと?」
「敵が敵を疑うところを見る」
時雨の目が細くなる。
「それが一番面白ぇんだよ」
柳琳は何も言えなかった。
華琳も黙っていた。
時雨の戦い方を知っているからだ。
彼は正面から敵を倒す男ではない。
敵の弱点を探す。
心の隙間を見つける。
そして――そこへ刃物を突き込む。
戦場だけではない。
人間関係。
信頼。
誇り。
恐怖。
そのすべてを武器にする。
それが黒山の頭領、張燕だった。
「時雨」
華琳が呼ぶ。
「はいはい」
「一つだけ約束しなさい」
「なんだ?」
「魏の利益を損なうことはしないこと」
時雨は一瞬だけ考えた。
そして笑った。
「分かった」
「本当に?」
「俺は魏を裏切る気はねぇよ」
それは珍しく、真面目な声だった。
「俺を拾ったのは曹操だ。だったら俺は、曹操の国をでかくする」
華琳は少しだけ目を見開いた。
時雨は照れ臭そうに頭を掻く。
「……まあ、その代わり好き勝手やらせてもらうけどな」
「そこは譲らないのね」
「当然」
華琳は小さく笑った。
「分かったわ」
その夜。
許昌の城壁の上。
時雨は一人、遠くを見ていた。
益州。
そのさらに先には、劉備。
そして――北郷一刀。
「北郷」
時雨は小さく呟く。
「お前、昔から真っ直ぐすぎんだよ」
風が吹く。
黒い髪が揺れる。
「だから嫌いじゃねぇ」
口元に笑みが浮かぶ。
「でもな」
時雨は夜空を見上げた。
「益州は魏がもらう」
その言葉には、冗談めいた響きがなかった。
「劉章が治めてるなら、劉章から奪う」
そして、もう一度笑う。
「さあて……どんな悪さしてやろうかね」
その頃。
益州、成都。
劉章のもとにも、許昌から一通の情報が届いていた。
魏が益州に関心を示している。
そして――魏には、かつて百万の黒山賊を率いた男がいる。
張燕。
今は時雨と名乗る、その男が。
「……張燕だと?」
劉章は報告書を握り締めた。
まだ戦は始まっていない。
だが、益州を巡る戦いの火種は、すでに生まれていた。
そしてその火種を楽しそうに眺めている男が、許昌にいる。
悪党は笑う。
戦が始まる前から。
すでに勝負は始まっているのだから。
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朱霊曹操ルート(ヒロイン華琳、柳琳)
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周倉関羽ルート(ヒロイン愛紗)
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孫瑜孫権ルート(ヒロイン蓮華、粋怜)