締切で月に吐いた嘘が、王国予算になりました ~三流記者の適当な新大陸予言を、月蝕の魔女だけが嘘だと知っている~ 作:喧々鰐々
王冠と百合の封蝋は、投書の山に混ざっていい封筒ではなかった。
薄桃色の求婚封筒、土のついた芋相談、帽子をかぶった煤の目撃談。その上に白と金の封書が置かれると、あまりの温度差で風邪をひきそうだ。
「開けよう」
バスティアンが言った。
セレスタンが眼鏡の位置を直した。
「宛名はユーリ・ミクラ殿。王冠と百合は王女殿下の私的書簡にも使われますが、書記局の正式封書にも使われます」
「どちらなら助かりますか」
「どちらも助かるとは限りません」
二つ選択肢を出すならせめて助かる選択肢を一つ添えてほしい。
モルガーヌは封書をつまみ上げ、蝋の面を光にかざした。黒い手袋の上で、金の縁取りが嫌に上品に光った。
「封蝋が壊れていないわ。途中で開けられたりしてないわ。残念ね」
「残念なんですか」
「誰かが先に開けていたら、差し替えたとかでその人のせいにできたでしょう」
「今から誰か壊して開けてくれませんか?」
バスティアンは封書を俺の前に置いた。
「筆者本人が開けるべきだ。歴史的瞬間だぞ」
「過去、やらかして編集長宛てに来たことないんですか?」
「ない」
なぜこんな編集長にはなくて、俺にあるのだ。
俺は封書を見た。
封蝋を破る。つまり、王宮からの正式な言葉を受け取る。受け取ったら、知らなかったとは言えない。
破らない。つまり、王宮からの正式な言葉を机の上で無視する。無視したら、たぶん次は封筒ではなく、近衛兵とかが来る。
「……開けます」
指先が少し震えた。
封蝋は硬かった。爪では無理で、バスティアンが差し出した紙切りナイフを使う。刃が蝋の端を割ると、乾いた小さな音がした。
中の紙は厚く、薄い香がした。文字は美しかった。美しい文字は、悪い知らせを丁寧に運ぶために発明されたのだと思う。
俺は一行目を読んで止まった。
「読め」
バスティアンが身を乗り出す。
「声に出す必要がありますか」
「ある。記録になる」
セレスタンが紙面を覗き込んだ。
「私が読みます。あなたは途中で倒れそうです」
そこまで顔色が悪かったらしい。
セレスタンは咳払いを一つした。
「『ユーリ・ミクラ殿。貴殿が《月桂冠通信》紙上に記した西海および月の民に関する記事につき、出所、根拠、ならびに民間における流布状況を確認したく、王宮書記局への出頭を求める』」
室内が静かになった。
印刷室の奥で活字棚がかすかに鳴った。誰かが手を止めたのだろう。
「続きがあります」
セレスタンが言った。
「『本件は、教会、学士院、商会より寄せられた照会と関連し、王国としての見解整理を要する。貴殿は関係する原稿、控え、投書、ならびに訂正案を持参すること』」
「訂正案」
俺は小さく言った。
そこだけ、少し息がしやすくなった。
王宮は俺を神託者として呼んでいるのではない。少なくとも文面上は、記事と投書と訂正案の確認だ。
バスティアンの顔だけが明るかった。
「王女殿下に記事が読まれたぞ」
「そこですか」
「昇進だ」
「王宮に呼ばれる筆者など、うちには初めてだ」
「俺にとっては初めての事故なんです」
バスティアンは親指を立てた。
「明日の一面はこれだな。『本紙筆者、王宮へ』」
「載せないでください」
「では二面」
「面の問題ではありません」
モルガーヌが手紙の下部を指で叩いた。
「まだ最後まで読んでいないわ。珍獣、喜ぶのは早い」
「誰も喜んでいません」
セレスタンが続きを読んだ。
「『なお、王女シャルロット・ド・フランシール殿下は、王都における過熱した解釈を憂慮されている。貴殿においては、本状受領後、王都を離れず、王宮からの次報を待つこと』」
王都を離れず。
その一文が、紙から立ち上がって俺の足首をつかんだ。
「離れず」
俺は復唱した。
バスティアンがうなずく。
「ありがたいな。迎えが来るまで待てばいい」
「ありがたいの意味を辞書で引き直してください」
セレスタンは手紙を机に置いた。
「拒否権はありませんね。ただ、文面は処罰ではなく説明要求です。そこは重要です」
「説明で済むんですか」
「説明で済ませるために、説明が必要です」
モルガーヌは封蝋の欠片を一つ拾った。
「優雅な脅しね」
「脅しですか」
「丁寧なお願いで、相手に拒否できないと悟らせる。宮廷の得意技よ」
「俺、宮廷作法に詳しくないんですが」
バスティアンは羊皮紙を引き寄せ、何かを書き始めた。
「持参物だ。原稿控え、掲載紙、読者投書、訂正案。投書は分類して束にしよう。目撃談、神学、商売、縁談、芋」
「王宮に芋を持っていくんですか」
セレスタンはすでに別紙を出していた。
「危険語の一覧を付けます。神託、公認、確定、聖なる。これらは民間投書に出ているが、貴殿の公式説明では使わない、と明記するべきです」
「貴殿の公式説明って、俺のことですか」
俺の言葉は、さっきまで薄給記者の言い訳だった。それが王宮の封書に触れた瞬間、公式説明という服を着せられる。サイズが合っていない。袖も裾も余っている。だが脱ぐと罪になる。
モルガーヌが俺を見る。
「逃げる顔をしているわ」
「していません」
「目が窓と財布を往復している」
なぜ分かる。
いや、実際に見た。窓。財布。裏口。机の下。人間は危機になると、逃走経路と所持金を同時に確認する。
「王都を離れるな、と書いてあります」
セレスタンが釘を刺した。
「読みました」
「なら、離れないでください」
「読むことと納得は別です」
バスティアンが笑った。
「逃げるなよ。逃げたら記事になる」
「捕まっても記事にするでしょう」
「もちろん」
味方の顔をした敵が多すぎる。
俺は手紙をもう一度見た。
シャルロット王女。王宮。出頭。訂正案。王都を離れず。
丁寧な文字が並ぶほど、そこにある命令は強かった。
この封書を書いた人間は、俺を怒鳴っていない。脅してもいない。ただ、俺が逃げる可能性まで先に紙へ封じている。
優雅で危険。
まだ会ってもいない王女の輪郭が、封蝋の欠片だけで十分に見えた。
「訂正案を書きます」
俺は言った。
セレスタンがうなずく。
「それがいい」
「神託ではない。月の民から聞いたのではない。西海について調べる価値があるかもしれない。読者投書は確認済み情報ではない」
「その四点を先に」
モルガーヌが封書を机に戻した。
「そして、王都を離れない」
「分かっています」
分かっている。
分かっているが、人間には分かった上で浅い計画を立てる自由がある。
夕方、編集室の窓が赤くなった。
投書の山は紐で束ねられ、王宮へ持参する資料になった。帽子をかぶった煤も、聖なる芋も、月の民への求婚も、全部が俺の説明責任という箱に押し込まれた。
俺は訂正案の一行目を書いた。
神託ではありません。
大きく書いた。
セレスタンが「正確に」と言ったので、少しだけ書き直した。
本紙記事は神託を主張するものではありません。
日が落ちるころ、俺は自分の下宿に戻った。
王都を離れるな。
その言葉を胸の中で三回読み返した。
それから、俺は鞄を開けた。
替えのシャツ。財布。干し肉。書きかけの原稿。それらを鞄に詰め込む。
南部へ逃げるか……
窓の外で、月が欠けかけていた。
俺はそれを見ないふりをして、鞄の口を閉めた。