締切で月に吐いた嘘が、王国予算になりました ~三流記者の適当な新大陸予言を、月蝕の魔女だけが嘘だと知っている~   作:喧々鰐々

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第17話 王女の封蝋

王冠と百合の封蝋は、投書の山に混ざっていい封筒ではなかった。

薄桃色の求婚封筒、土のついた芋相談、帽子をかぶった煤の目撃談。その上に白と金の封書が置かれると、あまりの温度差で風邪をひきそうだ。

 

「開けよう」

バスティアンが言った。

 

セレスタンが眼鏡の位置を直した。

「宛名はユーリ・ミクラ殿。王冠と百合は王女殿下の私的書簡にも使われますが、書記局の正式封書にも使われます」

 

「どちらなら助かりますか」

 

「どちらも助かるとは限りません」

 

二つ選択肢を出すならせめて助かる選択肢を一つ添えてほしい。

モルガーヌは封書をつまみ上げ、蝋の面を光にかざした。黒い手袋の上で、金の縁取りが嫌に上品に光った。

 

「封蝋が壊れていないわ。途中で開けられたりしてないわ。残念ね」

 

「残念なんですか」

 

「誰かが先に開けていたら、差し替えたとかでその人のせいにできたでしょう」

 

「今から誰か壊して開けてくれませんか?」

 

バスティアンは封書を俺の前に置いた。

 

「筆者本人が開けるべきだ。歴史的瞬間だぞ」

 

「過去、やらかして編集長宛てに来たことないんですか?」

 

「ない」

 

なぜこんな編集長にはなくて、俺にあるのだ。

 

俺は封書を見た。

封蝋を破る。つまり、王宮からの正式な言葉を受け取る。受け取ったら、知らなかったとは言えない。

破らない。つまり、王宮からの正式な言葉を机の上で無視する。無視したら、たぶん次は封筒ではなく、近衛兵とかが来る。

 

「……開けます」

 

指先が少し震えた。

封蝋は硬かった。爪では無理で、バスティアンが差し出した紙切りナイフを使う。刃が蝋の端を割ると、乾いた小さな音がした。

 

中の紙は厚く、薄い香がした。文字は美しかった。美しい文字は、悪い知らせを丁寧に運ぶために発明されたのだと思う。

俺は一行目を読んで止まった。

 

「読め」

バスティアンが身を乗り出す。

 

「声に出す必要がありますか」

 

「ある。記録になる」

 

セレスタンが紙面を覗き込んだ。

 

「私が読みます。あなたは途中で倒れそうです」

 

そこまで顔色が悪かったらしい。

セレスタンは咳払いを一つした。

 

「『ユーリ・ミクラ殿。貴殿が《月桂冠通信》紙上に記した西海および月の民に関する記事につき、出所、根拠、ならびに民間における流布状況を確認したく、王宮書記局への出頭を求める』」

 

室内が静かになった。

印刷室の奥で活字棚がかすかに鳴った。誰かが手を止めたのだろう。

 

「続きがあります」

セレスタンが言った。

「『本件は、教会、学士院、商会より寄せられた照会と関連し、王国としての見解整理を要する。貴殿は関係する原稿、控え、投書、ならびに訂正案を持参すること』」

 

「訂正案」

俺は小さく言った。

 

そこだけ、少し息がしやすくなった。

王宮は俺を神託者として呼んでいるのではない。少なくとも文面上は、記事と投書と訂正案の確認だ。

 

バスティアンの顔だけが明るかった。

「王女殿下に記事が読まれたぞ」

 

「そこですか」

 

「昇進だ」

「王宮に呼ばれる筆者など、うちには初めてだ」

 

「俺にとっては初めての事故なんです」

 

バスティアンは親指を立てた。

「明日の一面はこれだな。『本紙筆者、王宮へ』」

 

「載せないでください」

 

「では二面」

 

「面の問題ではありません」

 

モルガーヌが手紙の下部を指で叩いた。

 

「まだ最後まで読んでいないわ。珍獣、喜ぶのは早い」

 

「誰も喜んでいません」

 

セレスタンが続きを読んだ。

「『なお、王女シャルロット・ド・フランシール殿下は、王都における過熱した解釈を憂慮されている。貴殿においては、本状受領後、王都を離れず、王宮からの次報を待つこと』」

 

王都を離れず。

その一文が、紙から立ち上がって俺の足首をつかんだ。

 

「離れず」

 

俺は復唱した。

 

バスティアンがうなずく。

 

「ありがたいな。迎えが来るまで待てばいい」

 

「ありがたいの意味を辞書で引き直してください」

 

セレスタンは手紙を机に置いた。

 

「拒否権はありませんね。ただ、文面は処罰ではなく説明要求です。そこは重要です」

 

「説明で済むんですか」

 

「説明で済ませるために、説明が必要です」

 

モルガーヌは封蝋の欠片を一つ拾った。

 

「優雅な脅しね」

 

「脅しですか」

 

「丁寧なお願いで、相手に拒否できないと悟らせる。宮廷の得意技よ」

 

「俺、宮廷作法に詳しくないんですが」

 

バスティアンは羊皮紙を引き寄せ、何かを書き始めた。

 

「持参物だ。原稿控え、掲載紙、読者投書、訂正案。投書は分類して束にしよう。目撃談、神学、商売、縁談、芋」

 

「王宮に芋を持っていくんですか」

 

セレスタンはすでに別紙を出していた。

 

「危険語の一覧を付けます。神託、公認、確定、聖なる。これらは民間投書に出ているが、貴殿の公式説明では使わない、と明記するべきです」

 

「貴殿の公式説明って、俺のことですか」

 

俺の言葉は、さっきまで薄給記者の言い訳だった。それが王宮の封書に触れた瞬間、公式説明という服を着せられる。サイズが合っていない。袖も裾も余っている。だが脱ぐと罪になる。

 

モルガーヌが俺を見る。

 

「逃げる顔をしているわ」

 

「していません」

 

「目が窓と財布を往復している」

 

なぜ分かる。

いや、実際に見た。窓。財布。裏口。机の下。人間は危機になると、逃走経路と所持金を同時に確認する。

 

「王都を離れるな、と書いてあります」

 

セレスタンが釘を刺した。

 

「読みました」

 

「なら、離れないでください」

 

「読むことと納得は別です」

 

バスティアンが笑った。

 

「逃げるなよ。逃げたら記事になる」

 

「捕まっても記事にするでしょう」

 

「もちろん」

 

味方の顔をした敵が多すぎる。

 

俺は手紙をもう一度見た。

シャルロット王女。王宮。出頭。訂正案。王都を離れず。

丁寧な文字が並ぶほど、そこにある命令は強かった。

この封書を書いた人間は、俺を怒鳴っていない。脅してもいない。ただ、俺が逃げる可能性まで先に紙へ封じている。

優雅で危険。

まだ会ってもいない王女の輪郭が、封蝋の欠片だけで十分に見えた。

 

「訂正案を書きます」

 

俺は言った。

 

セレスタンがうなずく。

 

「それがいい」

 

「神託ではない。月の民から聞いたのではない。西海について調べる価値があるかもしれない。読者投書は確認済み情報ではない」

 

「その四点を先に」

 

モルガーヌが封書を机に戻した。

 

「そして、王都を離れない」

 

「分かっています」

 

分かっている。

分かっているが、人間には分かった上で浅い計画を立てる自由がある。

 

夕方、編集室の窓が赤くなった。

投書の山は紐で束ねられ、王宮へ持参する資料になった。帽子をかぶった煤も、聖なる芋も、月の民への求婚も、全部が俺の説明責任という箱に押し込まれた。

俺は訂正案の一行目を書いた。

神託ではありません。

大きく書いた。

セレスタンが「正確に」と言ったので、少しだけ書き直した。

本紙記事は神託を主張するものではありません。

 

日が落ちるころ、俺は自分の下宿に戻った。

王都を離れるな。

その言葉を胸の中で三回読み返した。

 

それから、俺は鞄を開けた。

替えのシャツ。財布。干し肉。書きかけの原稿。それらを鞄に詰め込む。

 

 

南部へ逃げるか……

 

 

窓の外で、月が欠けかけていた。

俺はそれを見ないふりをして、鞄の口を閉めた。

 

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