気がつくと、俺は暗闇の中にいた。
前世の記憶はある。ただのしがない事務職のサラリーマンだった。
「死んだのか…?」と思った瞬間、脳内に無機質な声が響き渡った。

【世界の声を感知しました。個体名:『──』の転生を構築します】
【世界の理を超える存在『魔神(デミ・ゴッド)』への進化が承認されました】
【固有スキル『神智之王(ソフィア)』『万物創造(ジェネシス)』を獲得】

「え? なにそれ怖い」

目を覚ますと、俺は禍々しくも美しい、漆黒と黄金のオーラを纏った超絶美形(自称)の魔神になっていた。
しかも、軽く腕を振っただけで、目の前の山が消し飛んだ。

「待って。これ、強すぎて絶対に目をつけられるやつだ。隠居しよう。絶対に目立たず、スローライフを送るんだ」

そう、俺は静かに暮らしたかった。……周囲がそれを許さないまでは。

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魔神様は静かにすごしたい

深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。手元にあるのは、白い陶器のマグカップ。注がれているのは、前世でよく見慣れた、しかしこの世界には存在しなかったはずの、淹れたてのブラックコーヒーだ。湯気と共に広がる香ばしい香りが、ささくれ立った俺の心をわずかに癒やしてくれる。

窓の外に目を向ければ、どこまでも続く深い緑。ここは世界の境界線、誰も立ち入ることのない未開のジュラの大森林の最奥も最奥、人跡未踏の秘境だ。そこにぽつんと佇む、近代的な2階建ての一軒家。それが俺の家であり、俺の帝国のすべてだった。

 

「……はぁ。今日も世界は平和だな。俺の周囲限定だけど」

 

独りごちて、コーヒーを一口すする。苦味とコクが五臓六腑に染み渡る。

俺の名前は──いや、前世の名前はもう意味をなさない。今の俺は、この世界のシステムから『魔神(デミ・ゴッド)』と呼ばれる、規格外のナニカだ。

前世の記憶ははっきりとある。日本のとある中小企業で、迫り来る納期と理不尽な上司の小言に耐え忍んでいた、しがない事務職のサラリーマンだった。デスマーチの果てに、確か三日三晩徹夜して書類を作り上げ、ようやく提出して自席に戻ったところで意識を失った。完全な過労死というやつだろう。

 

次に目が覚めたとき、俺は暗闇の中にいた。上下も左右もわからない、ただ圧倒的なエネルギーだけが渦巻く混沌の空間。そこで脳内に直接響いてきたのが、あの無機質でありながら、世界のルールそのもののような厳かさを持った『世界の声』だった。

 

『世界の声を感知しました。個体名:──の転生を構築します』

 

『世界の理を超える存在、神性への適応を確認。個体名:──を、完全上位者たる『魔神(デミ・ゴッド)』へと進化させます』

 

『それに伴い、固有スキル『神智之王(ソフィア)』および『万物創造(ジェネシス)』の獲得を承認しました』

 

何を言っているのかさっぱりわからなかった。事務職の脳みそでは処理しきれない単語のオンパレードに、俺が「え? なにそれ怖い」と怯えている間に、俺の身体は再構築されてしまった。

気がついたときには、見知らぬ森の中に立っていた。自分の手を見ると、透き通るように白い肌、そして指先から立ち上る、漆黒と黄金が混ざり合った禍々しくも神々しいオーラ。近くの川に映った自分の顔を見れば、前世の冴えない男の面影など微塵もない、冷徹さと美しさを極限まで煮詰めたような超絶美形がそこにあった。

 

試しに、身体が重苦しかったので、ストレッチのつもりで軽く右腕を振ってみた。本当に、ただ「ブン」と振っただけだ。

その瞬間、轟音と共に、視界の先に入っていた巨大な山が文字通り消し飛んだ。

山のあった場所には、綺麗なクレーターが出来上がっており、巻き上がった爆風が俺の髪を激しく揺らした。

 

・・・・・・(・_・;)

 

「……待って。これ、アカンやつだ」

 

冷や汗が背中を伝った。元サラリーマンの危機管理能力が、警報を大音量で鳴らし始める。こんな力、絶対に隠しておかなければならない。目立ったら最後、ろくなことにならない。どこかの国の王様に目をつけられて兵器として使われるか、あるいは最強の魔物として討伐対象になるか、どちらにせよ穏やかな生活など望むべくもない。

 

幸いなことに、俺には二つのチートスキルがあった。

 

一つは『神智之王(ソフィア)』。

これは俺の質問に対して、世界のあらゆる事象から最適解を導き出してくれる、最高峰のコンシェルジュのようなスキルだ。これのおかげで、自分が今、かつて読んだことのあるライトノベル『転生したらスライムだった件』の世界にいるのだと理解できた。

 

そしてもう一つが『万物創造(ジェネシス)』。

文字通り、俺の魔素とイメージ次第で、この世のあらゆる物質や概念を作り出すことができるという、狂ったスキルだった。

 

俺は即座に決断した。隠居しよう。絶対に目立たず、この森の奥でスローライフを送るんだ、と。

まずは『万物創造』を使って、前世で憧れていたマイホームを建てた。最新のシステムキッチン、ふかふかのベッド、お風呂には自動湯沸かし機能までつけた。さらに、家全体の周囲数キロメートルに、あらゆる気配、魔素、存在そのものを隠蔽する『絶対不可視の多重結界』を張った。神智之王(ソフィア)のサポートのおかげで、世界最高峰の魔王であっても絶対に気づけない完璧な引きこもりシェルターの完成だった。

 

それからというもの、俺は前世で味わえなかった「何もしない贅沢」を貪っていた。朝は好きな時間に起き、万物創造で作った珈琲を飲み、読みたい本を読み、飽きたら寝る。まさに天国だった。

だが、そんな俺の完璧な計画は、一匹の「トカゲ」を拾ったことで、じわじわと崩壊へと向かい始める。

 


 

あれは、結界を張ってから数ヶ月が経った頃のことだった。

いつものように庭のウッドデッキで日向ぼっこをしていた俺は、結界の境界線付近で、パキリと枝が折れる音を聞いた。基本的に、俺の結界は外からの侵入者を優しく弾くように設定してある。しかし、その時は何か、必死に命を繋ごうとする悲痛な気配が混ざっていた。

 

様子を見に行くと、そこには一匹の魔物が倒れていた。

大きさは、前世でいう大型犬ほど。全身の鱗はボロボロに剥がれ落ち、そこからドクドクと紫色の不気味な血が流れている。頭部には小さな角があり、見た目はトカゲ、というよりは小さな竜の幼体のように見えた。

 

「……おいおい、ひどい怪我だな」

 

放っておけば、あと数分で確実に死ぬ。前世の俺なら、野生の動物に関わるのは危険だと判断して避けたかもしれない。しかし、今の俺には圧倒的な余裕があった。何より、そのトカゲの必死に生きようとする目が、前世で飼っていたトカゲのペットにどこか似ていて、無性に情が移ってしまったのだ。

 

「よしよし、ちょっと待ってろよ」

 

俺は『万物創造』を使い、前世の知識にある「最高級の傷薬(ポーション)」をイメージして具現化した。中身は魔素の塊のような琥珀色の液体だ。それをトカゲの口元に垂らし、体中にかけてやる。

効果は劇的だった。傷口から煙が上がり、一瞬で新しい鱗が再生していく。死に体だったトカゲは、すぐにシャキッと起き上がり、金色に輝く目で俺を凝視した。その目は、恐怖ではなく、圧倒的な驚愕と畏怖に満ちていた。

 

「お、元気になったな。良かった良かった」

 

俺はほっとして、その頭を撫でてやった。トカゲは気持ちよさそうに目を細め、俺の手のひらに頭を擦り付けてくる。可愛い奴め。

 

「行き場がないなら、ここにいてもいいぞ。ただの庭だけどな。……そうだなぁ、ずっとトカゲって呼ぶのもアレだし、名前をつけてやるよ。全身が黒いし、黒曜石みたいだから──お前は『黒曜(コクヨウ)』だ」

 

軽い気持ちだった。本当に、ペットにポチと名付けるくらいの、極めてカジュアルなノリだった。

しかし、俺はその時、この世界の重要なルールを忘れていた。あるいは、知ってはいたが、自分が持つ魔素の量を甘く見積もりすぎていた。

 

名付け。それはこの世界において、上位者が下位者に魔素を分け与え、魂の系譜を繋ぐ聖なる儀式。そして、俺の魔素量は、世界の理を超える『魔神』のそれである。

 

『個体名:『黒曜』に名付けを確認。マスターより膨大な魔素の譲渡が開始されます……』

 

脳内でソフィアの声が響いた瞬間、俺の身体から、ドス黒いまでの黄金のオーラが津波のように溢れ出し、黒曜を包み込んだ。

 

「え!? ちょっと待って! 何これ!?」

 

黒曜の身体が、凄まじい光を放ちながら急速に巨大化していく。大型犬サイズだった身体は、またたく間に十メートル、二十メートル、五十メートルへと膨れ上がり、背中からは禍々しくも美しい漆黒の翼が生え出でた。周囲の空間が、その圧倒的な圧力だけでギチギチと悲鳴を上げている。

 

『成功しました。個体名:『黒曜』は、下位竜族から『黒曜竜王(エボニー・ドラゴン)』へと超絶進化を遂げました』

 

「ギャアアアアア!!? 何してくれてんの!?」

 

俺は自分のやらかしの大きさに頭を抱えて叫んだ。庭にいた可愛いトカゲが、一瞬で世界を滅ぼせそうな戦略兵器に変貌してしまったのだ。

 

巨大な漆黒の竜──黒曜竜王となった黒曜は、その巨大な質量を器用に収縮させると、眩い光と共に人間の姿へと擬態した。

現れたのは、漆黒の長い髪に、切れ上がった金の瞳を持つ、冷酷にして苛烈な印象を与える超絶イケメンだった。彼は衣服すらも自身の魔力で構築したらしく、豪奢な黒い外套を羽織っている。

そのイケメン──黒曜は、俺の前に音もなく膝を突くと、深く頭を垂れた。

 

「我が主、至高の魔神様。この黒曜、不滅の忠誠を誓います。名も無きトカゲに過ぎなかった私に、これほどまでの至高の力と、魂の拠り所を頂き、この恩情、万死をもっても返しきれません

 

「い、いや、頭を上げてくれ、黒曜。俺はただ、怪我を治して、名前を呼んだだけで……」

 

「お優しいお言葉、恐悦至極に存じます。……して、我が主。まずはこの私の最初の初陣として、主の清らかな安眠を妨げる、周辺の不届きな魔王どもを血祭りにあげてまいりましょうか? この力があれば、二、三人であれば同時に屠ることも容易かと」

 

「いや待て!! 行くな!! 誰も殺すな!!」

 

彼の目は完全に本気だった。ギラギラとした殺意と忠誠心が混ざり合い、今にも世界に戦争を仕掛けそうな勢いだ。俺は慌てて彼の肩を掴み、必死に引き留めた。

 

「いいか黒曜、俺は静かに暮らしたいんだ。戦いは嫌いだ。だから、お前への最初の命令は……そう、大人しくこの庭の草むしりをして、家を守ることだ。いいな?」

 

黒曜は一瞬、きょとんとした表情を浮かべたが、すぐに深く納得したように頷いた。

 

「なるほど……。主の深遠なる御心、理解いたしました。あえて牙を隠し、世界を静観されるのですね。そして、その至高の領域を守る大任を、この私に……。畏まりました。この庭、一民草たりとも主の不快を誘わぬよう、完璧に管理してみせます」

 

「うん、よろしく頼むよ(なんかめちゃくちゃ勘違いされてる気がするけど、暴れられるよりはマシか……)」

 

こうして、俺の平穏な引きこもり生活に、「絶対に怒らせてはいけない、世界滅亡クラスの最強の庭師」が加わることになったのだった。

 


 

それから数年の月日が流れた。

黒曜は実に優秀な庭師兼執事だった。俺の身の回りの世話を完璧にこなし、『万物創造』で作った料理のレシピを渡せば、前世の高級レストラン顔負けの三ツ星料理を再現してくれるようになった。彼が淹れるお茶は絶品で、俺の引きこもりライフの質は爆発的に向上した。

 

時折、彼が「主、結界の傍をうろついていた不敬な上位魔族がおりましたので、塵一つ残さず消滅させておきました」などと爽やかな笑顔で報告してくること以外は、至って平和だった。俺はその度に「あ、そう。お疲れ様」と引き攣った笑顔で返すしかなかったが。

 

そんなある日、俺はいつものように『万物創造』で作り出した遠隔監視用の水晶玉を眺めていた。この水晶玉は、ソフィアの能力と連動して、世界の主要なニュースを映像付きで流してくれる、いわば「世界のワイドショー」だ。

そこで流れてきたニュースに、俺は思わずコーヒーを吹き出しそうになった。

 

「ジュラの大森林の管理権を持つ、暴風竜ヴェルドラの消滅……だと?」

 

間違いない。物語が動き出したのだ。

原作の知識がある俺は、すぐに察した。あの愛すべきスライム、リムル=テンペストがこの世界に生まれ、ヴェルドラを胃袋に収納したのだ。

 

「ついに始まったか。がんばれリムルくん。君がこれから魔国連邦を作って、オークロードを倒して、魔王になっていくんだな」

 

俺は水晶玉の向こうの、まだ小さな青いスライムの奮闘を、完全に他人事として応援していた。

 

「君のような有能な主人公が表舞台で派手に暴れてくれれば、俺のような日陰者が注目されることはない。歴史の表舞台は君に任せた。俺はここで、黒曜の作ったクッキーを食べながら応援しているよ」

 

まさに特等席での観戦だった。リムルが着々と仲間を増やし、町を大きくし、猪頭族(オーク)の軍勢を退け、大災害の暴風大妖渦(カリュブディス)を撃破する姿を、俺はポップコーンを食べながら「おおー、やってるやってる」と楽しんでいた。

 

やがて、物語は進み、テンペストが他国の策略によって危機に陥り、リムルが仲間を蘇生させるために「魔王」へと覚醒するイベントが発生した。

水晶玉に映るリムルの神々しくも恐ろしい姿、そして新しく誕生した魔王を承認するための「魔王達の宴(ワルプルギス)」の開催決定の知らせ。

 

「いやぁ、怒涛の展開だねぇ。黒曜、このお煎餅美味しいよ」

 

「それは何よりです、主。主の御口に合うよう、米の乾燥度合いから拘りましたから」

 

黒曜にお茶を注いでもらいながら、俺はすっかりのんびりムードだった。魔王たちのパワーバランスがどうなろうと、俺の『絶対不可視の多重結界』がある限り、この家は見つからない。高みの見物を決め込む、それが一番賢い生き方だ。

……そう、思っていたのだ。あの男が、我が家の玄関前に現れるまでは。

 

 

「おい、黒曜。結界の外に、なんか凄まじいエネルギーの塊が二つ、佇んでるんだけど……気のせいか?」

 

ある日、ソファでゴロゴロしていた俺は、ソフィアからの警告を受けて跳び起きた。

 

『警告。結界外部に、個体名:『ギィ・クリムゾン』および『ヴェルザード』の接近を感知。結界の解析を試みています』

 

「はあああああ!? なんで!?」

 

俺の叫び声と同時に、ドォン!! という、結界が激しく干渉された音が響いた。

外の様子を水晶玉に映し出すと、そこには赤髪の美貌の青年──最古の魔王ギィ・クリムゾンが、退屈そうに浮遊していた。その後ろには、白い髪の妖艶な美女、白氷竜ヴェルザードが、珍しいものを見るような目で俺の結界を眺めている。

 

「ちっ、なんだこの結界は。俺の認識をすり抜ける細工がしてあるな。ヴェルダナーヴァの遺物か? それとも、新しい魔王の気取り屋か?」

 

ギィの声が、魔力を通して結界内に響いてくる。

俺は完全にパニックになった。なぜバレた。ソフィアの隠蔽は完璧だったはずだ。

 

『答。魔王ギィ・クリムゾンは、世界全土の魔素の揺らぎを常時観測しています。数年前、マスターが個体名:『黒曜』に名付けをした際の一瞬の魔素の流出、および、黒曜が周辺の魔物を処理した際の僅かな痕跡を逆算し、この座標を特定したと推測されます』

 

「黒曜のバカ野郎ーーー!!」

 

「はっ! 申し訳ありません、主! 私の不徳の致すところ! すぐさま外の赤髪の不届き者と、その連れのトカゲを塵にしてまいります!」

 

「いや無理だから! 相手ギィとヴェルザードだから! お前が塵にされるわ!」

 

黒曜はすぐにでも外に飛び出そうと剣の柄に手をかけているが、俺はそれを必死で止めた。どうする。居留守を使うか? いや、ギィの事だ、面白がって結界を力任せに破壊しにかかるに違いない。いくら絶対不壊に近い結界とはいえ、最古の魔王と竜種のコンビに本気で叩かれたら、俺の穏やかな引きこもりハウスが衝撃波で消し飛ぶ。

 

「……こうなったら、迎撃するしかない」

 

「おお! ついに主の御神威を世界に示す時が来ましたか!」

 

「違う。戦うんじゃない。……『おもてなし』するんだよ」

 

俺はサラリーマン時代に培った、最悪のクレーマーや理不尽な取引先を相手にしてきた「接待スキル」のすべてを呼び覚ました。戦ったら負けだ。世界が滅ぶ。なら、戦意を削ぐしかない。

 

「ソフィア、『万物創造』のフル稼働を準備。俺のイメージを完璧に固定しろ」

 

『了解しました。マスターの精神安定を最優先します』

 

俺は大きく深呼吸をし、漆黒と黄金のオーラを全身に纏わせた。一般人の心を最強の魔神の仮面で覆い隠す。

そして、結界の一部を解除し、彼らを招き入れた。

 

庭へと足を踏み入れたギィ・クリムゾンは、不敵な、しかしどこか警戒を孕んだ瞳で俺を見つめた。

 

「へえ……。隠れるのをやめたか。お前がこの妙な空間の主か」

 

ギィの一歩ごとに、周囲の大気がピリピリと震える。その背後のヴェルザードは、俺の隣に控える黒曜を見て、少し目を見張った。

 

「あら……あなた、ただの竜族じゃないわね。私に迫るほどの純度の魔素を感じるわ。誰に名付けられたのかしら?」

 

黒曜はピキピキと青筋を立てながら、ギィたちを睨みつけている。

 

「我が主の御前であるぞ。口を慎め、トカゲ風情が」

 

「なんだと?」

 

ヴェルザードの瞳に冷たい怒りが宿り、周囲の温度が一気に氷点下へと急降下する。庭の芝生が凍りついていくのを見て、俺は冷や汗が止まらなかった。やめて、俺の自慢の芝生が死んじゃう。

 

「そこまでにせよ、黒曜。……そして、遠方からの来客よ。我が庭を荒らすのは感心せんな」

 

俺はあえて、ドスの利いた、しかし静かで底の知れない声を意識して放った。前世で社長の機嫌を損ねないようにしつつ、威厳を保つ時の発声法だ。魔神としての肉体のおかげで、その声には空間を震わせるほどの覇気が勝手に混ざり合っていた。

ギィの目が細められる。

 

「おいおい、凄まじい神気じゃねえか。お前、魔王でもねえ、竜種でもねえな。……一体何者だ? ヴェルダナーヴァが隠していた隠し子とでも言う気か?」

 

「私はただの、静寂を愛する一般人に過ぎん。君たちのような世界の覇者に関わられるのは本意ではないのだ」

 

「一般人ねえ。その力でよく言うぜ」

 

ギィが好戦的な笑みを浮かべ、その手に禍々しい大剣を出現させた。

 

「俺は退屈してたんだよ。ヴェルドラが消え、新しいスライムの魔王が生まれたと思ったら、こんなところに未知の『化け物』が隠れてやがった。拒否権はねえぞ、お前がどれほどのものか、俺が試してやる!」

 

ギィが踏み込もうとした、その瞬間。

 

『神智之王(ソフィア)』、今だ! やれ!」

 

俺は心の中で絶叫した。戦ってたまるか!

 

『告。固有スキル『神智之王』により、対象の攻撃概念および戦闘意思の経路を一時的に阻害。さらに『万物創造』により、事象を固定します』

 

ギィが武器を振り下ろそうとしたその足元、そしてヴェルザードの足元に、突如として「それ」が出現した。

 

それは、前世の日本の冬の最終兵器。

茶色い木目調の天板、ふかふかの赤色の掛け布団。そして内部からじんわりと心地よい赤外線の熱を放つ、『絶対不壊のコタツ』である。

さらに天板の上には、これまた万物創造で生み出された、網籠に入ったツヤツヤの「最高級三ヶ日みかん」が鎮座していた。

 

「……は?」

 

ギィの動きが完全に止まった。大剣を構えたまま、足元に現れた未知の家具を凝視している。

 

「何かしら、これ……? すごく温かいのだけれど」

 

寒冷そのものであるヴェルザードが、コタツから漏れ出る、魔力によって最適化された究極の「ぬくもり」に、本能的に惹きつけられていた。

 

「……遠くからわざわざ足を運んでくれたのだ。戦うなど無粋なことはやめ、これに足を入れ、みかんでも食べながら話をしようじゃないか」

 

俺は優雅な仕草で、コタツの横に用意した座椅子(これまた極上の座り心地)を勧めた。

ギィは呆気にとられていたが、俺の(心臓バクバクの)泰然自若とした態度に気圧されたのか、あるいは未知の結界を張る存在への警戒からか、大剣を消し去った。

 

「ふん……。妙な術を使いやがる。いいだろう、そこまで言うなら乗ってやるぜ」

 

ギィが不機嫌そうにコタツに足を入れる。その瞬間、彼の表情が一変した。

 

「……っ!? なんだこれは、この心地よさは……。魔素の循環が完璧に安定しやがる。それに、この絶妙な温度はなんだ」

 

「あら、本当。私の氷の魔力すら優しく包み込むような、不思議な温かさね」

 

ヴェルザードも、誘われるようにコタツへと滑り込んだ。二人とも、完全にコタツの魔力(物理的な意味ではなく、純粋な快適さ)に囚われていた。

俺は内心でガッツポーズを崩さなかった。勝った。日本の家具職人と技術力の勝利だ。

 

「黒曜、お客様にお茶を。あと、前世の──いや、我が秘蔵の『テレビ』『録画魔石』を持ってこい」

 

「はっ、ただいま」

 

黒曜が困惑しつつも、手際よくお茶とお菓子を運んでくる。さらに、俺が『万物創造』で作った大画面の液晶テレビ風の魔導器を設置した。そこに流すのは、前世の日本のバラエティ番組や、お笑いコンテストの映像を魔力で再現したものだ。言語は世界の声の翻訳機能で自動的にこちら向けに変換されている。

 

「おい、この箱の中で人間が奇妙な動きをしているのは何だ?」

 

ギィがお茶をすすりながら、テレビの画面を凝視する。

 

「これは、異世界の文化を娯楽として再現した映像だ。まぁ、みかんでも剥きながら気楽に見てくれ」

 

俺がみかんの剥き方(和歌山剥き)を実演して見せると、ギィとヴェルザードも真似して剥き始めた。

 

「……美味いな、この果物。甘みと酸味のバランスが絶妙だ」

 

「ええ、本当に。この冷たいお茶ともよく合うわ」

 

 

数時間後。

そこには、コタツにすっぽりと首まで埋まり、みかんの皮の山を築き上げながら、テレビのお笑い番組を見て「クハハハハ! あの芸人、馬鹿すぎるだろ!」と大爆笑している最古の魔王の姿があった。

ヴェルザードに至っては、完全に骨抜きにされたような顔で、コタツの中でとろけている。

 

「おい、魔神。お前、本当に何者だ」

 

ギィがみかんを口に放り込みながら、真剣な、しかし完全にリラックスした目で俺を見た。

 

「俺はこれまでに、数多の強者や魔王を見てきた。だが、俺の戦意をこれほど完璧に、一枚の布と温かい机だけで無力化した奴は初めてだ。お前の力、世界を滅ぼすことすら容易いだろうに、なぜこんなところで燻っている?」

 

「言ったはずだ、ギィ。俺は静かに暮らしたいだけの一般人だと」

 

俺の言葉に、ギィはしばらく沈黙した後、腹を抱えて笑い出した。

 

「ククク、ハハハハハハ! 世界を手のひらで転がせるほどの力を持っていながら『一般人』か! お前、本当に最高の冗談を言うな! 気に入ったぜ!」

 

いや、冗談じゃないんだけどな、と俺は心の中で泣いたが、顔には深い笑みを浮かべておいた。

 

「なぁ、魔神よ。お前、魔王とかいう安い席に収まる気はないか? もし望むなら、俺が『魔王達の宴(ワルプルギス)』で、お前のための特別な席、いや、世界を統べる『神』の席でも作って承認させてやってもいいぞ?」

 

「絶対に嫌だ。そんな面倒な仕事、お断りだね」

 

「あっははは! 即答かよ! 本当に面白い奴だ」

 

こうして、ギィ・クリムゾンの中で、俺は『底の知れない、すべてを達観し、世界を裏から見つめる最凶の魔神』として、完全に誤解という名のロックをされてしまったのだった。彼らはそれから丸一日コタツを満喫した後、「また来るぜ」と言い残して満足そうに去っていった。

 

 

ギィたちが去った後、俺はしばらくの間、魂が抜けたようにソファに突っ伏していた。

 

「死ぬかと思った……本当に死ぬかと思った……」

 

「主、お見事な御手際でした。最古の魔王すらも、主の創造された聖なる結界(コタツ)の前にひれ伏すとは、さすがは我が主です」

 

黒曜がキラキラとした目で褒めてくれるが、俺のライフはもうゼロに近い。だが、これでギィからの襲撃という最大の危機は脱した。これからはまた、平和な日常に戻れるはずだ。

 

しかし、現実は非情だった。

ギィが我が家を訪れたという事実は、彼を通じて、ある人物へと伝わることになった。

そう、ジュラ・テンペスト連邦国の盟主、リムル=テンペストである。

 


 

数ヶ月後。魔王達の宴も終わり、名実ともに八星魔王(オクタグラム)の一柱となったリムルから、なんと我が家に公式の(しかし極めて隠密な)親書が届いたのだ。配達人は、なんとギィの配下のメイド(悪魔)だった。断れるはずがない。

 

親書の内容はこうだ。

 

『突然の手紙で失礼します。魔王ギィ・クリムゾンより、ジュラの大森林の最奥に、恐るべき力を持った『魔神』が住んでいると聞きました。また、その方が、こちらの世界にはないはずの『コタツ』や『みかん』、『テレビ』なるものをお持ちだとも。……もしよろしければ、一度、お話しさせていただけないでしょうか?』

 

手紙の端々から、リムルの「え、これ絶対に同郷(日本人)じゃね?」という強烈な動揺と期待が滲み出ていた。

 

「……あーあ。バレちゃったよ」

 

俺は観念した。リムルなら、話せばわかる相手だ。変に隠し通して、後からテンペストの調査団(ベニマルとかソウエイとか)に家の周りをうろつかれるよりは、最初から腹を割って話した方がいい。

 

俺は『万物創造』で最高級の懐紙を作り、そこに丁寧な日本語で返信を書いた。

 

『いいですよ。ただし、そちらの部下の方々には内密に。私も静かに暮らしたい一般人ですので、そちらの温泉にでも招待していただけると助かります』

 

そして指定された日。俺は黒曜を伴い、転移魔法(ソフィアが自動で構築してくれた安全なやつ)を使って、テンペストの最奥にある、リムル専用の最高級露天風呂へと直接赴いた。

 

 

貸し切られた露天風呂には、すでに青い髪の美しい少女の姿──人間の姿に擬態したリムル=テンペストが、湯船に浸かって待っていた。

 

「本当に、直接来た……。しかも、その纏ってるオーラ、ギィの言ってた通り、とんでもねえな……」

 

リムルは俺の姿を見て、一瞬、恐怖に身を硬くした。魔神としての俺の存在感は、それだけで魔王クラスのそれをも凌駕しているからだ。

しかし、俺は湯船に近づくと、ふっと肩の力を抜き、前世のサラリーマンのようにペコリと頭を下げた。

 

「初めまして、リムルくん。いや、リムル=テンペスト様、とお呼びするべきかな?」

 

その極めて「日本人らしい」丁寧なペコリとお辞儀を見て、リムルの目が点になった。

 

「あ、あんた……マジで日本人?」

 

「うん。元・事務職のサラリーマン。三日徹夜して死んだら、なぜかこんな化け物スペックの魔神になっちゃってさ」

 

俺が苦笑いしながら言うと、リムルの顔が一気に歓喜へと変わった。

 

「うわあああ! 本物だ! 本物の同郷の奴だーーー!!」

 

リムルは湯船から飛び出してくると、俺の手をがっしりと握りしめた。

 

「ちょっと待ってくれよ!『魔神』さん! あなたが裏でギィやヴェルザードをコタツで手懐けてるせいで、ギィの奴が『大森林の奥にいる魔神に、テンペストの美味い飯を持っていけ』とか、変な外交の圧力を俺のところにめちゃくちゃかけてくるんだけど!?」

 

「いや、俺だって被害者だよリムルくん! 俺はただ静かに暮らしたいだけなのに、ギィが勝手に俺の家を見つけて居座るしさぁ!」

 

俺たちは湯船に浸かりながら、まるで長年の友人のように、お互いの苦労をぶちまけ合った。

 

「だいたいさ、うちの庭師の黒曜の奴もさ、俺が『静かに暮らしたい』って言ったら勝手に勘違いして、こないだクレイマンの残党が結界の近くを通っただけで、塵一つ残さず消滅させちゃったりしてさぁ! 報連相が全然なってないんだよ!」

 

「あんたの部下も規格外すぎるだろ! 黒曜竜王って、それもう竜種に匹敵する天災級の魔物じゃねえか! そんな奴に草むしりさせてんじゃねえよ!」

 

「だってトカゲだと思って名付けたら、あんなんなっちゃったんだもん……」

 

「名付けの魔素量が異常なんだよ! あんた、自分がどれだけヤバい存在か自覚して!」

 

リムルのツッコミが冴え渡る。前世の共通の話題や、この世界での「強すぎて周囲に勘違いされる苦労」を共有できる相手ができたことが、お互いに本当に嬉しかったのだ。

 

「はぁ……。でもさ、あんたが味方(?)で良かったよ。ギィから聞いた時は、世界を滅ぼしに来た新しい天災かと思って、テンペスト全員で特攻する覚悟までしてたんだからな」

 

「勘弁してくれよ。俺は戦う気なんてゼロだから。ほら、これ手土産」

 

俺は『万物創造』を使い、湯船の横の岩場に、キンキンに冷えた最高級の日本酒(純米大吟醸)と、前世の居酒屋風のおつまみ(枝豆と塩キャベツ)を出現させた。

 

「うお、マジで!? 日本酒じゃん! しかもこれ、めちゃくちゃ良いやつだろ!」

 

「俺のスキル、イメージしたものは何でも作れるからね。今度、テンペストの技術開発部(クロベエのところとか)に、前世の便利グッズの設計図とか横流ししてあげるよ。その代わり、俺の家の存在は絶対に他国には秘密にしてね」

 

「乗った! 約諾だ! 頼むから今度、テンペストの祭りにもお忍びで遊びに来てよ。あんたのスキルがあれば、誰も気づかないだろ?」

 

「いいね、行く行く。あ、黒曜も連れて行っていい? 奴、家から出さないと、ストレスでまた周辺の魔物を絶滅させそうだから」

 

「丁重におもてなしする枠で席を用意しとくわ……」

 

温泉から上がった後、俺とリムルは固い握手を交わした。

表舞台で世界を導く、優しきスライムの魔王。

そして、世界の裏側(コタツの中)で、圧倒的な力を持て余しながらのんびりと暮らす、戦う気ゼロの最凶魔神。

二人の奇妙な協力関係が、ここに成立した瞬間だった。

 

 

その後、テンペストが巻き込まれる様々な大事件(東の帝国の侵略や、大天使長の侵攻など)の際にも、俺の住むエリアだけは完全に「絶対不可侵の聖域」として守られ、時にはギィやルミナスがコタツに入ってサボりに来る、世界の最高権力者たちの秘密の隠れ家(サロン)のようになっていくのだが……それはまた、別のお話。

 

今日も俺は、黒曜の淹れたお茶を飲みながら、世界の行く末をのんびりと見守っている。一般人としての平穏なスローライフは、案外、このままでも守れそうな気がしていた。




続かない?続く?続きません。

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