屋敷での生活が始まってから二週間が経とうとしていた。
セリアの陰属性の適性――『重力操作』の暴走によるマナの枯渇も完全に回復し、彼女はエミリアの専属の侍女兼、良き話し相手としての地位を確立しつつあった。
ある日の午後、ロズワール邸の玄関口で、レムが大きな籠を手に持っていた。
「セリア様、エミリア様。これから麓のアーラム村へ、日用品の買い出しに向かいますが……お二方とも、ご一緒されますか?」
その言葉に、セリアの脳内の原作知識がピンと反応した。
(アーラム村……! 魔獣ウルガルムの事件が起こる場所だ)
スバルがいないこの世界線において、あの村の呪いと魔獣の脅威がどうなっているのか、セリアはずっと気になっていた。結界の破損や、魔女の残り香を持つ存在の有無。確認しておかなければ、いつエミリアに危険が及ぶか分からない。
「行くわ! 私、村の皆の様子も気になっていたし、セリアもずっとお屋敷にこもりきりだったもの。良い気分転換になるわよね?」
エミリアが弾んだ声でセリアの顔を覗き込む。
「うん、私もぜひ一緒に行きたいな。エミリアの行く場所なら、どこへでもついていくよ」
セリアが微笑むと、エミリアは嬉しそうにその手を握ってきた。最近では、移動する時に手を繋ぐのが二人の暗黙のルールのようになっていた。
レムはそんな二人を、前髪の隙間から静かに見つめていた。
「……承知いたしました。では、参りましょう。道中、森の近くを通りますので、レムの側を離れないようにお願いいたします」
ロズワール邸から、美しい木漏れ日の差し込む並木道を竜車に揺られること数十分。
見えてきたアーラム村は、のどかで平和な田舎村そのものだった。しかし、二人が村の入り口に足を踏み入れた瞬間、空気の色がわずかに変わるのをセリアは敏感に感じ取った。
農作業をしていた大人たちが、エミリアの姿を見るなり、ピタリと手を止め、怯えと嫌悪の入り混じった視線を向けてくる。
あからさまな無視。あるいは、子供を急いで家の中に引き込む親の姿。
エミリアは、繋いだセリアの手を少しだけ強く握りしめた。彼女の横顔には、寂しそうな、けれど「いつものこと」と諦めたような笑みが浮かんでいる。
(……やっぱり、これなんだ。エミリアがずっと耐えてきたのは、この冷たい視線なんだ)
前世で知識として知っているのと、目の前で大好きな少女が理不尽に傷つけられているのを見るのとでは、怒りの沸点がまるで違った。セリアは胸の奥が激しく燃え上がるのを感じたが、ここで自分が怒り狂えば、エミリアの立場をさらに悪くしてしまう。
「――あ! 綺麗なお姉ちゃんだ!」
その緊迫した空気を破ったのは、無邪気な子供たちの声だった。
村の広場で遊んでいた数人の子供たち――ペトラをはじめとする幼い少年少女たちが、エミリアの姿を見つけて駆け寄ってきたのだ。
「ペトラ、ダメよ! その人は……」
大人が止めようとするが、子供たちはそんな大人の事情などお構いなしだった。
「こんにちは、エミリアお姉ちゃん! 今日も髪の毛、すっごくキラキラしてるね!」
「こんにちは、みんな。今日も元気に遊んでいるのね」
子供たちの純粋な言葉に、エミリアの表情がパッと華やぐ。その笑顔を見た瞬間、セリアは「この笑顔を、村全体に広げたい」と強く思った。
「ねえ、お姉ちゃん。そっちの可愛いお姉ちゃんは誰?」
ペトラが、エミリアの隣にいるセリアを指差した。
セリアは子供たちの目線に合わせてしゃがみ込み、極上の笑みを浮かべた。
「初めまして。私はセリア。エミリアの一番近くで、彼女をお手伝いしているの。みんな、エミリアのことが大好きなんだね?」
「うん! エミリアお姉ちゃん、いつも優しくお話ししてくれるもん!」
「でも、村の大人たちはみんな、お姉ちゃんのこと悪い魔女様みたいに言うんだ。オイラ、そんなことないって思うのに……」
男の子の一人が、不満そうに口を尖らせた。
セリアは、その子の頭を優しく撫でながら、周りの大人たちにも聞こえるような、澄んだ声で言った。
「そうだね。エミリアは魔女なんかじゃないよ。王都市で私が行き倒れて、悪い人たちに囲まれていた時ね、自分の危険も顧みずに助けてくれた、誰よりも優しくて勇敢な、私にとっての『特別なお姫様』なんだ。だから、みんながエミリアと仲良くしてくれるの、私はすっごく嬉しいな」
セリアの言葉に、エミリアは胸を押さえて激しく動揺していた。
「せ、セリア……お姫様だなんて、そんな大げさな……っ」
「大げさじゃないよ。私の本当の気持ちだもん」
セリアがエミリアを見上げて悪戯っぽくウィンクすると、エミリアは耳まで真っ赤にして俯いてしまった。
子供たちは「ひゅーひゅー! お姉ちゃんたち、すっごく仲良しなんだね!」とはやし立て、大人たちの間にも、セリアの堂々とした態度と、エミリアのあまりにも人間らしい初心な反応を見て、わずかながらに困惑と、張り詰めた空気の弛緩が生まれていた。
買い出しの途中、セリアは子供たちにせがまれて、前世の知識である「簡単な手品」や、草の葉を使った「草笛」を教えてあげた。
エミリアもそれに加わり、子供たちと一緒に泥だらけになりながら、心の底から楽しそうに笑っていた。
その光景を遠くから見つめながら、レムがセリアの隣に歩み寄ってきた。
「……セリア様。あなたは、不思議な方ですね」
「え? 何がかな、レム」
「村の人間が、エミリア様に向ける視線……あれは、簡単には覆らない根深い恐怖です。ですが、セリア様のあの言葉と立ち振る舞いは、村の空気を確実に変えました。レムには、真似できないことです」
レムの言葉には、確かな敬意が含まれていた。スバルのいないこの世界において、セリアの存在は、ロズワール邸の面々にとっても「エミリアの心を救う救世主」として映り始めていた。
「私はただ、エミリアの笑った顔が世界で一番好きだから、それを見ていたいだけだよ」
セリアは遠くで子供たちとかくれんぼをしているエミリアを見つめながら、ぽつりと呟いた。その声には、一切の偽りのない、深い愛情が満ちていた。
しかし、そんな温かい時間の裏で、セリアの身体が、ある「異変」を感知していた。
村の周囲を取り囲む、魔獣除けの結界――張り巡らされた紐と輝石。
その近くを通りかかった瞬間、セリアの胸の奥にある、変質した陰属性のゲートが、ドクンと不気味な鼓動を打ったのだ。
(……何、この感覚。結界の向こうから、何か悍ましい『悪意』が流れ込んできているような……)
原作知識が警告を発する。
スバルがいない。それはつまり、犬の魔獣(ウルガルム)に噛まれて「呪い」を付与されるイベントが発生していないことを意味する。だが、それは同時に、魔獣の驚異そのものが去ったわけではないということだ。むしろ、スバルというイレギュラーがいない分、魔獣たちの動きがどう変化するか予測がつかない。
「セリア? どうしたの、そんな怖い顔して」
いつの間にか戻ってきたエミリアが、セリアの顔を覗き込んでいた。彼女の衣服には少し泥がついていたが、その表情は充実感に満ちている。
セリアは瞬時に表情を和らげ、エミリアの頬についた泥を、自分の指先で優しく拭ってあげた。
「ううん、なんでもないよ。ちょっと風が冷たくなってきたなと思って。……エミリア、今日もたくさん笑ってくれて、ありがとう」
「ふふ、私の方こそ。セリアのおかげで、今日、すごーく楽しかった。……ねえ、お屋敷に帰ったら、また私にお勉強、教えてね?」
「ええ、喜んで。私のお姫様」
「もう、そのお姫様っていうの、禁止なんだから……!」
赤くなるエミリアの手を再び引き、セリアは歩き出す。
迫り来る不穏な影から、この最愛の少女をどうやって守り抜くか。セリアの琥珀色の瞳の奥に、冷徹な計算と、それを遥かに凌駕する決意が、静かに、しかし絶対の炎となって灯っていた。