白い空に、艶かしいまでに黒く輝く鱗が翻る。
空間を割り砕いて降下してきた黒竜は、その巨大な体躯を静かに着地させた。
そして黄金の瞳が周囲を睥睨し────クロウを、見た。
「……っ」
反射的にクロウは身構えた。
本能が告げるのだ。目の前の存在が悪鬼と同じく……己を殺し得る存在である、ということを。
『……それで』
竜が口を開く。
そこから聞こえるのは、声というよりは音に近かった。付随する魔力が強すぎるためか、重低音の和音の連なりのように聞こえる。
『お前が、この檻の主か?』
「……喋れるのか」
『喋れぬ道理がどこにある』
黒竜に敵対する様子は無い。
クロウは無意識の警戒を解いた。
そういえば、とクロウは思い出した。
フィルバードは確か、黒竜と『交渉した』と言っていた。ならば、話せるに決まっているのだ。ただ、そのあまりの威容から、ヒトのように喋る存在だとは想像できないだけで。
『お前は……ええい、鬱陶しい』
だが黒竜自身も、あまりにスケールの違う体躯で話し合うことに煩わしさを感じたのだろうか。
舌打ち……というよりも大気が弾けるような轟音と共に、黒竜の肉体が解けていく。そして解けた黒竜の肉体は人型へと収斂し────一瞬後、そこには、長い黒髪と白い肌を黒い着物に包む、竜翼竜尾の女が立っていた。
「ふむ。悪くはないな」
その髪の色と同じく黒い振袖を持ち上げながら、黒竜が呟く。クロウは目を瞬かせながら聞いた。
「……おまえ、人間だったのか?」
「は? 何を言っておるか」
黒竜はその長身で、クロウを見下ろしながら言った。
「我は生まれながらにして純粋の竜よ。生前、こんな姿などとったことはない。この姿はむしろ、お前の記憶から────アルマの姿から写したもの。既に肉体無き身ゆえ、こういう遊びもできるというものよ」
「……そういうものなのか?」
「そういうものだ」
「そうか」
クロウはとりあえず聞いてみた。
「それで、何の用だ? おれは今、忙しいんだが」
「特段、用は無い」
黒竜はあっさりと答えた。
「ただ、眠りに着く前の暇潰しにと降りてきたまで。……敢えて言えば、お前は我の魂を眠らせる墓所の主。ならば挨拶も礼儀よな」
「む、そうだな。挨拶は大事だ」
「物分かりが良いな────して、なんだここは? 白いばかりで面白みもない場所だが」
「おれにもわからないな」
「フン、では何も分からんではないか」
黒竜はどかりとその場に腰を下ろし、寝そべった。
そしてこちらにひらひらと手を振ってくる。
「お前の用事を済ませるがいい。我も邪魔をしに来たわけではない。見物でもしていよう」
「そう────かっ!」
意識を悪鬼へと戻した瞬間、凄まじい速度で攻撃が叩き込まれた。かろうじてガードに成功するが、後方に吹き飛ばされる。そしてその背後には、既に悪鬼が回り込んでいた。
対応は全く間に合わず、悪鬼に背中を打たれた。
肺から息が全て吐き出され、地面に叩きつけられる。
「が……っ」
数秒、呼吸ができない。
それは十分すぎる隙だった。異常な速力で追随してきた悪鬼が、その速力をそのまま攻撃に転化して脚を振るう。
肉体が裂けたとすら錯覚する衝撃に、意識が暗転した。
「おいお前、全然敵わんではないか」
呆れた声とともに頬をぺちぺちと叩かれる。
ぼんやりとした視界に見えるのは、しゃがみ込んで覗き込んでくる黒竜だ。
クロウは浅い息を吐きながら答えた。
「……うむ。なかなか勝てない」
「あれはお前の影というか本能というか、知らぬが何かそういうものであろう? それに敵わんとは情けないことよな」
「そうだな。……だから、頼みがあるんだが」
「は?」
黒竜は嫌そうな表情でクロウを見た。
「加勢をしろと言うのか? やらんよ」
「それはいらない」
「……ほう」
少しだけ、黒竜が目を細める。
クロウはそれに気づかないまま、地面に這いつくばりながらも視線に悪鬼を捉え、頼んだ。
「もし、またおれが倒されたら……」
「『もし』? 次で勝てる気でいるのか?」
「……勝てるかもしれない。でも、もしまたおれが倒されたら、起こしてくれ」
そう言いながらクロウは、己の身体を強引に立たせた。
そして構え────挑み────当然の如く、敗北した。
「……何がしたいのだ、お前は」
「勝ちたいからな。だったら、戦うしかない」
叩きのめされたクロウを相変わらず呆れた様子で見る黒竜に、クロウは平坦な声で答えた。
「欲しいものは欲しがらないと、手に入らないんだ」
「その手段が、無策で叩きのめされることか?」
「今のところこれしか無いからな……」
「……」
黙り込んだ黒竜を尻目に、クロウは再び悪鬼へと挑み掛かる。カウンターが無理ならこちらから攻める。それも無理なら気配を消してみる。それも無理なら闇雲に手数を増やしてみる。それでも無理なら────。
無限に続く試行。
だが、動作速度の差というあまりにも明快なスペックの差を前にしては、小細工は意味を成さない。
敗北だけが積み重なっていく。
敗れ、叩きのめされ、地に転がり、這いつくばり、痛みに呻き、そして……立ち上がる。
敗色がいくら濃厚であろうとも。
「次、は────」
精神は無限ではない。
いくら強い渇望があろうとも、尽きせぬ欲望を持ったとしても、敗北という現実の前には擦り切れていく。
執念だけがクロウの身体を立ち上がらせる。
そうしてまた、立ち上がったクロウを敵意と見做し、悪鬼が迫り来る。息も絶え絶えのまま相対し────
「……っ?」
────その攻撃は、クロウには届かなかった。
目の前に、黒い壁のようなものが現れたのだ。
少し間を置き、それが竜の鱗であることに……女の肉体から伸びる、巨大な黒竜の腕であることに気付く。
竜の肉体が悪鬼の攻撃を阻んでいるのだ。
「……見ていられんのだが」
そう吐き捨てるように言う黒竜の表情は、どこか、苛立っているように見えた。
◇◇◇
「……おまえ、あいつより強いんだな」
「強い? これがか?」
胡座で座る黒竜は呆れたようにため息をつき、己の背後を指差した。
もはや壁のようにしか見えない巨大な黒竜の尾。その反対側からは金属の擦れるような不協和音が聞こえる。
「ただの相性だ。強さ弱さの問題ではない」
「相性?」
「奴は我の鱗を破壊し、突破することはできよう。だが巨大な肉の塊そのものを貫通することは容易ではない。体躯が違いすぎる。……逆も然りだな。我が奴を封じることは容易だが、滅ぼすことは不可能だろうよ」
「……同じくらいの強さってことか?」
「フン。決着のつきようが無いのでは、強さも弱さもあったものでは無い。……それで」
黒竜は黄金の瞳でクロウを睨め付けた。
「お前は何をやっている? お前も同じことだ。お前が負け続けたとしても、奴はお前の肉体を破壊する術を持たない。千日手だな。……そもそも戦わねば負けることも無かろう。お前はなぜ、奴に挑み掛かっている?」
「ふむ……?」
クロウは少し首を傾げて問いかけた。
「どうして知りたいんだ、そんなこと」
「……どうして、か」
黒竜は眉間に皺を寄せた。
「……我にも分からん。だが、解せない。お前が……お前のようなものが何故、こんなことをする?」
「……?」
本気で困惑するクロウに、黒竜は唸った。
「お前は……お前は我と、似たようなものだろう。生まれつき、力を持ち過ぎている。……ならば知っているはずだ。我らのようなものは、挑む必要など無い。もとより敵など、どこにも存在しないのだから」
「勝てない相手なんて、いくらでもいないか?」
「馬鹿を言え」
黒竜は嗤った。
「勝てないから、なんだ? あやつでも、我でも、誰でも良い。お前の『敵』が本当の意味でお前の生命を脅かしたことが、たったの一度でもあったか? ……無い。そうだな? ならば、放っておけば良かろう。お前は自分の意志で、戦いたいから戦っているだけだ」
クロウは少し考えて、頷いた。
「確かに、もしかしたらそうかもしれないな」
「だろう? 故に聞いている。何故、そんなことをする? ……確かに我には関係ない。だが、お前が……我と同じようなものが臆面もなく挑み続け、敗れ続けるのを見るのは……なんだろうな、これは。酷く……カンに障る」
クロウはちょっと黙った。
そして宙を視線に彷徨わせ、ぽつりと言った。
「そうか。お前、欲しがったことがないんだな」