退潮の瀬戸内は、一望の乾いた焦燥を孕んで底をさらけ出す。香川県観音寺、有明浜。古来よりの白砂青松は、ひとたび海が退けば、数里におよぶ灰黒色の粘土層へと姿を変える。肌を灼く夏の陽光が、泥に混じる生臭い藻の香りを強烈に蒸せ上げていた。
一歩踏み出すたびに、きめの細かい砂泥が足の指の間へむにゅりと絡みつき、重く足首を緊縛する。ワイのふくらはぎは、すでに泥の粘り気に抗うだけで鉛のような疲労を溜め込んでいた。ずぶずぶと地中に引きずり込まれる足元に、呼吸が浅くなる。感覚が泥の冷たさに侵食される最中、指先が勝手に微動した。理由なき前進への渇望が、肉体の最奥で強制的な前進を命令している。神経の先端が地殻の襞へと潜り込み、湿った泥の粒子ひとつひとつを自らの組織として同化していくような、悍ましくも静かな全能感が脳髄の底で蠢いていた。有明浜の広大な干潟は、ただの風景ではない。己という存在の境界を拡張するための、巨大な肉の揺り籠に他ならなかった。
そのひび割れた世界の中央に、猫又おかゆが立っていた。
衣服は、照り返しの強い光をすべて吸い込むような、深い濃紫のセーラー服。極端に短いその裾からは、陽光に炙られて汗の粒を浮かべた腹部が容赦なく晒されている。胸元の太い白いリボンだけが、生々しい暴風に煽られて激しく羽ばたいていた。
下衣は、仕立ての硬い白いショートパンツ。その裾を走る紫の線が、泥にまみれた茶褐色の世界の中で、それ自体が異物であるかのように鋭く浮き上がっている。
無調法に長い袖口は、白地に並ぶボタンのカフスを泥のなかに重そうに引きずっていた。彼女が腕を動かすたび、湿った風をはらんだ長袖がぼってりと揺れる。黒いニーハイソックスは泥の跳ね返りで斑に汚れ、その先の紫色のキャンバススニーカーは、すでに湿った砂に半分ほど没していた。
風が乱暴に髪をなびかせる。その髪は、有明浜の濡れた干潟が放つ、底暗い濡れた砂の陰りそのものであった。細められた双眸もまた、その深い光を宿し、どこか遠くの水平線を睨みつけている。不意に頭上の猫耳が前後にピクリと激しく互い違いに動き、尾の先が不機嫌そうに小さく跳ねた。遠くの波音を拾ったのだろう。
「ふふ、やっと着いたね。ここが有明浜かぁ。本当に広いねぇ」
声は低く、鼻腔に抜けるような独特の甘さを含んでいた。語尾が緩やかに伸び、周囲の重苦しい潮の香りを溶かしていく。
「おにぎりゃー、そんなに急がなくても、海は逃げないよ。ほら、足元を見てごらんよ」
おかゆの視線が、波の刻んだ細かな砂の畝に向けられる。等間隔に並ぶ砂の起伏は、まるで行列を作る虫の這い跡のようであり、干上がったばかりの海の底が、未だ生きて呼吸している証拠でもあった。
ワイの視界は、限界を超えて歪んでいた。何が野球の実況スレだ、何が煽り合いだ。二次元のモニターを眺めていたはずのワイというネットの矮小な有象無象の意識は、いまやこの広大な塩泥のなかで肥大し、神経の触手を四方八方へと伸ばしている。なんJの画面に塗れていた歪んだ自我が、本物の異形となって泥の底を這いずり回る。おかゆという絶対的な太陽を前にして、ワイの肉体は単なる人型の殻を維持することをやめ、泥の底で無数に蠢くゴカイやカニの死骸の数里に及ぶ、塩泥そのものを己の新たな手足として拡張していく感覚に酔いしれていた。ネットの底で歪みきったワイの自意識が、有明浜の広大な干潟のすべてを呑み込み、泥の巨腕となって大地そのものを掌握していくような錯覚。それすらも、おかゆの前に伏すための器官に過ぎない。
彼女は一歩、足を前に進めた。膝を僅かに内側に沈め、足裏全体で泥の抵抗を逃がすように歩く。泥が足首を掴んで離さない。しかし、その上半身は驚くほど揺れなかった。尾骨から頭頂にかけて一本の芯が通っているかのような、妙に安定した歩度であった。細い尻尾が、歩調に合わせて左右に小さく、ゆったりと弧を描いている。
「よし、じゃあ早速始めようか。今日のお昼ご飯は、僕たちがどれだけ頑張るかにかかっているからね」
おかゆは腰を落とした。長い袖が泥に触れるのを嫌うように、両肘を軽く外側へ張り出し、手首を内側に巻き込む。白いスカーフが風に煽られて顔に張り付く。それを片手で乱暴に払いのけ、手にした熊手を思い切り砂へ突き立てた。
ざく、と金属が湿った砂を噛む音が響く。
有明浜の泥は、見た目以上に重い。一掻きするごとに、手首にずっしりとした手応えが返ってくる。砂の表面には、針で突いたような小さな穴が無数に開いており、そこから時折、濁った水がプツプツと湧き出していた。ワイの視界は、その水滴の爆ぜる軌跡さえも細胞の伸縮として感知し、世界のすべてを自らの不可分の肢体として再構築せんとする衝動に支配されつつあった。
「ん、ここ、怪しいね……」
おかゆは手首のスナップだけで、一気に砂を反転させた。
粘土質の泥が跳ね、そこから丸みを帯びた塊が転がり出る。
「あ、ほら、いたよ。アサリだ。結構大きいねぇ」
底の割れない玻璃のような瞳が、獲物を捉えたように鋭く細められた。拾い上げた貝は、白と黒、そして茶色の斑模様が、濡れた陽光を浴びて蒔絵のように鈍く光っている。指先に残る泥を気にする風もなく、彼女はその貝の感触を確かめるように親指でなぞった。耳が嬉しそうにピンと直立する。
「おにぎりゃーのバケツに入れておいて。まだまだたくさんいそうな予感がするな。僕の直感がそう言っているよ」
再び、熊手が砂を削る音が連続して響き渡る。
おかゆの表情から、先ほどまでの穏やかさが消えていた。唇は真一文字に結ばれ、視線はひたすら泥の表面を這っている。時折、小さなコメツキガニが砂の上を素早く横這いに駆けていくが、彼女はそれを一瞥しただけで、すぐに次の泥を掘り返した。カニが吐き出した小さな砂の団子が、彼女の膝のすぐ傍で崩れていく。
西日が長く伸びている。海岸の縁に群生するハマヒルガオの淡いピンクが、強い陽光に灼かれて色褪せて見えた。浅瀬では、一本足で立った白サギが、首を鋭く動かして泥の中の小魚を突き刺している。
風がにわかに強くなった。瀬戸内特有の、生暖かい突風が干潟を吹き抜ける。
セーラー服の短い裾が大きく捲れ上がり、引き締まった脇腹が白く露出した。おかゆは一度手を止め、立ち上がった。
「ふふ……結構、腰にくるね」
右腕の甲で、額に浮いた汗を拭う。長い袖口が顔全体を覆い隠し、彼女の表情を一時的に遮断した。袖を引いたとき、その顔には再び、あの底の知れない薄笑いが戻っていた。
「おにぎりゃーは大丈夫? 無理しちゃ駄目だよ。疲れたら、僕の隣で休んでていいんだからね」
言葉の端々に、
相手を観察し、その反応を測るような響きがある。彼女の視線は、こちらの泥まみれになった手元をじっと追っていた。その目は、こちらの疲労の度合いを見極めようとするかのように、冷徹なほど静かである。ワイの五感は、外界の熱気とは裏腹に、徐々にその無機質な世界の法則へと神経を伸ばし、おかゆの輪郭だけを正確に捉え始めていた。ワイの肉体はすでに単なる人間としての形状を維持することに倦み、指先の皮膚が微かに波打ちながら、周囲の湿った砂と同化し、地中を這うすべての因果を直接掌へと吸い上げようと変貌しつつあった。人間をやめるってのはこういう感覚なんか、と崩壊する脳髄の片隅で冷ややかに自嘲する。だが、その異形への変態すら、おかゆの前に伏すための器官に過ぎない。
おかゆは再び泥に這いつくばるようにして、今度はさらに深く熊手を突き入れた。表面の細砂の下にある、より粘り気の強い暗灰色の粘土層が姿を現す。
「お、今度は手応えが違うぞ……。これは、大物の予感だねぇ」
ざり、と硬い感触が熊手を伝って彼女の腕に響いた。
おかゆは袖を肘の上まで乱暴に手繰り寄せ、泥まみれになるのも構わずに、細い指先をそのまま粘土の奥深くへと突っ込んだ。肉厚な指が泥を掻き分け、やがて掌の中に、ずっしりとした重量感のある塊を捉える。
引きずり出されたのは、彼女の拳ほどもある、巨大なハマグリであった。殻は滑らかで、泥を洗い落とすと、夕暮れ近い光を受けて妖しく艶めいた。尻尾が嬉しさを隠しきれず、パタパタと砂を叩く。
「やったぁ、見てよこれ! 大きいでしょう」
おかゆはそれを顔の横に掲げ、首を少し傾けた。瞳が、まっすぐにこちらの目を射抜く。形を失い、泥へ還りつつあるこちらの無機質な相好を、彼女はすべて見通しているかのように、ただ獲物を仕留めた喜びと、それを見せつける無邪気な優越感に満ちていた。その冷徹なまでの観察眼は、ワイの肉体がどれほど異形へ変貌しようとも、最初から織り込み済みであると言わんばかりだった。風に揺れる髪が、彼女の頬に暗い影を落とす。頭の上の耳が、微かな達成感を示すように外側へと寝かされた。
「おにぎりゃー、これは焼き蛤に決定だね。醤油をちょっと垂らしてさ……想像しただけでお腹が鳴っちゃいそう」
喉の奥で、クスクスと押し殺したような笑いが漏れる。その笑いに合わせて、彼女の細い肩が小刻みに揺れた。
瀬戸内の穏やかな海面が、昼の青を失い、どろりとした黄金色へと染まっていく。それに伴い、一面の干潟もまた、光と影の境界線を失い、深い黄昏の闇へと沈み込もうとしていた。
おかゆの纏うセーラー服が、夕日を浴びて、まるで血のような赤みを帯び始める。
「楽しい時間は、あっという間だね。おにぎりゃーのバケツも、僕のバケツも、もういっぱいで重いくらいだ」
彼女はゆっくりと立ち上がった。泥と汗に汚れた白いショートパンツが、夕闇の中で妙に白く浮き立っている。ニーハイソックスの黒は、すでに乾いた泥で灰色に変色していた。
「今日のご飯は、きっと格別だよ。僕が腕によりをかけて、美味しいお味噌汁と、焼き蛤を作ってあげるからね。だから……」
おかゆは一歩、足を進めた。泥を吸うスニーカーの音が、重く響く。
彼女は、こちらの直前で足を止めた。瞳が、至近距離からその顔を凝視する。息のかかるほどの距離の中で、彼女の長い尻尾がこちらの脚に、まるでおねだりをするように、なめらかに、すっと絡みついた。毛並みを通じて伝わる彼女の体温に、ワイの心臓がどくりと大きく跳ねる。それと同時に、ワイの右手が自らの意思を離れ、まるで神経の束が世界そのものを掌握しようとするかのように、狂おしく痙攣した。なんJの底で肥大したワイの怪物の自認は、彼女の絶対的な支配力によって完全に肯定され、肉体の末端が個としての形を融解させ、彼女の存在を、その血肉のすべてを内側へ引きずり込もうと無意識の触手を伸ばす。彼女は泥に汚れた長袖の手を伸ばし、こちらの服の裾を、指先で強く、拒絶を許さない力で掴み取った。
「これからも、僕の隣にいてよね。おにぎりゃー」
その声は、引き波が立てる遠い潮騒の中に、低く、そして確実に沈み込んでいった。ワイの神経網は有明浜の泥の底へと完全に根を張り、彼女の言葉の残響を、永遠の帰属の合図として体内に深く刻みつけた。