決勝のトラックは、予選のときより広く見えた。
白線は同じ幅で引かれている。マークの位置も変わらない。それなのに、スタート位置へ向かう千秋の背中も、二走の場所へ歩く真帆先輩も、アンカーゾーンへ進むひかり先輩も、少しずつ離れていくように思えた。
リレーなのに、始まる前は一人ずつになる。
私は三走の位置で足を止めた。
私の手はまだ空いている。
千秋から始まって、真帆先輩が運んで、私の右手に入る。
それを、私はアンカーへ渡す。
アンカーゾーンの先に、ひかり先輩の背中があった。
動画の中で何度も見た背中。
でも今は、一人でゴールへ向かう背中ではない。
私のバトンを受ける背中だ。
スタンド下のベンチに、茅野先輩がいた。右脚にはテーピング。隣には片桐先生が立っている。
茅野先輩の意識は、私ではなくアンカーゾーンに向いていた。
自分が走るはずだった場所に。
そこに立つひかり先輩に。
私は息を吸った。
迷ったら遅れる。
走りに見惚れるな。
アンカーへ渡す相手として見ろ。
そうだ。
今から私は、ひかり先輩の走りを見るために走るのではない。
ひかり先輩を走らせるために走る。
係員の声が響いた。
選手たちが、それぞれの位置につく。
千秋がスタートラインに立つ。
あれだけ喋っていたのに、スタート前の千秋はいつも黙る。
真帆先輩は二走のマークを確認している。
派手ではない。でも、あの人が乱れないから、私たちは次へ進める。
バトンを落とすことも、タイムが大きくブレることもない。
私は自分のマークを確かめた。
真帆先輩の声を聞いて出る場所。
そこから、ひかり先輩へ向かう。
アンカーゾーンで、ひかり先輩が一度だけ足元のマークを確かめた。
そのあと、顔を上げる。
後ろは見なかった。
前を向いてる。
そう言った通りに。
胸の奥が震えた。
スターターが立つ。
スタンドの音が、すっと遠くなった。
私は自分の呼吸を数える。
一つ。
二つ。
三つ。
位置について。
千秋が腰を下ろす。
用意。
空気が止まる。
号砲。
千秋の一歩目は低かった。
予選よりも、さらに迷いがない。
小さな身体が、レーンの中へ鋭く入っていく。並んだ他の選手の集団に一瞬その姿が遮られ、それから突き抜けるように飛び出してくる。
マークを踏む。バトンが渡る。タイムロスはほとんどない。
千秋の作った速度が、真帆先輩の右手に入る。
順位は3位か4位。それでも真帆先輩は慌てない。
速さを無理に増やすのではなく、落とさず運ぶ。
それだけで、私の出る場所がはっきりした。
私はマークの前で待つ。
待っているのに、身体の奥はもう走り出している。
真帆先輩が近づく。
マーク。
出る。
足がトラックを押す。
真帆先輩の声。
「はい!」
私は右手を出した。
手のひらにバトンが入る。
強い感触。
──熱い。
火傷しそうな程の熱を感じて、私はバトンを握りこんだ。
受け取って終わりではない。
次へ渡すまで終わらない。
私は前を向いた。タータンゴムにスパイクが食い込むほどに踏み込む。他校の選手が並び掛けてくる。数歩前に、先行しているチームがある。
アンカーゾーンに近づく。ひかり先輩の背中が見える。でも、河川敷の街灯の下で置いていかれた背中とは違う。
今のひかり先輩は、私を置いていくためにそこにいるのではない。
私が届けるのを待っている。
マークを踏む。それを見届けたひかり先輩が出る。少しだけ溜めがあった。バトンを受け取るための安定を選んだのだとわかった。
それでも、速い。
やっぱり速い。
最初の数歩だけで、空気が変わる。
見惚れそうになる。
駄目だ。
見るな。
渡せ。
私は腕を振った。
三歩目で落ちた日も、真似をして崩れた日も、茅野先輩の背中へ何本も走った日も、全部が足の裏にあった。
そのすべてを燃やして、私は前へ走る。
ひかり先輩は後ろを見ない。
肩も動かない。
左手だけが、少しずつ準備されている。
前を向いたまま。
私の声を待っている。
距離が詰まる。
でも、足りない気がした。
一瞬、喉の奥が焼ける。
いつもの声では届かない。
はい、では足りない。
名前が、喉まで上がってきた。それは、衝動だった。
レース前に飲み込んだ名前。
「ひかり!」
声が出た。
先輩をつけなかった。
レーンの上で、私は初めてその名前だけを呼んだ。
ひかり先輩の左手が、迷わず伸びる。
私はバトンを押し込んだ。
入った。
手のひらが閉じる。
バトンが、私の手から離れた。
──刹那、ひかり先輩の背中が前へほどけた。
細く華奢な背中が、翼でも広げたように風を纏う。
千秋の一歩目。
真帆先輩の二走。
私の声。
茅野先輩のアンカー。
それを全部、ひかり先輩の手の中のバトンが連れていく。
私は止まりきれずに数歩進み、振り返った。
バトンはもう私の手にない。
でも、まだ走っている。
ひかり先輩の手の中で。
他校のアンカーが隣にいる。けれど、もう、負けるとは思わなかった。
ひかり先輩が追う。
腕が振れる。脚が前へ出る。
百メートルの動画で見た、あの綺麗さがある。
無駄を切り落とされた、最も速く走るためのフォーム。風を纏い、音を置き去りに、光のように走る。
でも、今日は少し違う。孤独な線ではない。後ろに足音を連れている。
あの日私が届かなかった嫉妬も憧れも、私たちの想いも、すべて。
だからだろうか。乱れていないのに、余裕があるようには見えなかった。あの河川敷で、私は聞いた。
──先輩は、必死で走ったことがありますか。
その答えを、私は今、受け取っているのかもしれなかった。
直線で、ひかり先輩は二人をちぎった。
ゴール。歓声が上がる。ひかり先輩がラインを越えた。
競技場の音が戻ってくる。
千秋の声。
真帆先輩の声。
スタンドのどこかで誰かが叫ぶ声。
電光掲示板が切り替わるまで、私は声を出せなかった。
四十七秒六二。
その数字だけが、頭の中に残る。
そして、掲示板が光った。
四十七秒五八。
一瞬、誰も動かなかった。
次の瞬間、千秋が叫んだ。
「抜いた!」
真帆先輩が両手で口元を押さえた。
私は、数字から目を離せなかった。
四十七秒五八。
旧記録を、〇秒〇四。
たった〇秒〇四。
でも、確かに抜いた。
私たちは、四十七秒六二を超えた。
ひかり先輩が戻ってきた。
バトンを持ったまま。
息は上がっている。
でも、記録表の前で何かを持て余していた動画の横顔とは違っていた。
ひかり先輩はまっすぐ、茅野先輩の方へ歩いた。
千秋が駆け寄ろうとして、真帆先輩に肩を掴まれる。
私も動けなかった。
ひかり先輩は、ベンチに座る茅野先輩の前で止まった。
そして、バトンを差し出す。
「アンカー、返す」
茅野先輩はすぐには受け取らなかった。
掲示板の数字を確かめる。
四十七秒五八。
それから、ひかり先輩の手の中のバトンへ視線を落とした。
「一人で勝たなかった?」
声が少し掠れていた。
ひかり先輩は短く頷く。
「うん」
「後ろは?」
「見なかった」
「落とした?」
「落としてない」
「なら、よし」
茅野先輩はバトンを受け取った。
その瞬間、少しだけ顔を歪めた。
痛みのせいではないと思った。
「返されたら、また走りたくなるじゃん」
茅野先輩が言う。
ひかり先輩は少しだけ考えて、
「走れば」
と言った。
茅野先輩は泣きそうな顔で笑った。
「あんた、ほんとそういうところ」
真帆先輩が近づいて、茅野先輩の肩に手を置いた。
千秋はもう泣いていた。
「茅野先輩、四十七秒五八です」
「知ってる」
「抜きました」
「知ってる」
「すごいです」
「知ってるってば」
茅野先輩の声も少し震えていた。
片桐先生は少し離れたところで記録を確認していた。
そして、私たちの方へ来る。
「正式記録、四十七秒五八。学校新」
その言葉で、ようやく現実になった。
学校新。
過去から受け取ったものが、少しだけ先へ進んだ。
表彰や片付けや、先生への挨拶が終わるまで、私は何度も手のひらを開いた。
もうバトンはない。
それでも、入った瞬間の感触が残っている。
ひかり、と呼んだ声も。
ひかり先輩の背中も。
全部、手の奥に残っていた。
翌日の放課後、職員室前の掲示板に新しい記録用紙が貼られた。
片桐先生が画鋲を押し込む音が、廊下に小さく響く。
女子四×一〇〇メートルリレー。
四十七秒五八。
第一走者、宮野千秋。
第二走者、橘真帆。
第三走者、朝倉翠。
第四走者、鴻上ひかり。
その下に、秋の地区大会の日付。
同じ掲示板には、女子百メートルの学校記録もある。
十一秒六四。
鴻上ひかり。
同じ名前なのに、まったく違って見える。
百メートルの名前と、四継の名前。
一人で走った名前と、受け取って走った名前。
千秋が掲示板の前で跳ねる。
「私の名前ある」
「あるね」
真帆先輩が笑う。
「一走だから一番上だよ」
「やった」
「そこ?」
「そこも大事です」
千秋は本当に嬉しそうだった。
真帆先輩は新しい記録用紙の前で、少しだけ黙った。
「真帆先輩」
私が呼ぶと、真帆先輩はゆっくり息を吐いた。
「前の四十七秒六二のときも、私、二走だったんだよね」
「はい」
「今回も二走」
真帆先輩は、記録用紙の自分の名前へ目を落とした。
「やっと、途中を飛ばされなかった気がする」
私は頷いた。
茅野先輩は松葉杖を片方だけ使いながら、少し離れて掲示板の前にいた。
記録用紙に、茅野梨央の名前はない。
そのことに気づいて、胸が詰まった。
私は茅野先輩の隣に立つ。
「茅野先輩」
「何」
「この数字にいます」
私は四十七秒五八を指した。
「記録表にはないよ」
「でも、ここにいます」
私はもう一度、数字を見た。
「この四十七秒五八に、茅野先輩がいます」
茅野先輩は口を開きかけて、閉じた。
そして、小さく言う。
「そういうこと、真っ直ぐ言うのやめて」
「すみません」
「謝らないでいいって」
「はい」
茅野先輩は、記録用紙を見上げた。
「でも、まあ」
少しだけ笑う。
「そんなに悪くない」
その言葉で、私はやっと息を吐けた。
ひかり先輩は少し離れた場所に立っていた。
百メートルの記録表から目を逸らした、動画の中の横顔を思い出す。
でも今日は違った。
ひかり先輩は、四十七秒五八の紙の前に残っていた。
部活が解散になったあと、私は一人でグラウンドへ出た。
夕方のトラックは、昨日の競技場とはまったく違う静けさだった。
風が少し冷たい。
白線の上に、長い影が伸びている。
私はスパイクを履いたまま、スタートラインの近くに立った。
百メートルでは、まだ届いていない。
十一秒九一。
十一秒六四まで、〇秒二七。
その差は消えていない。
リレーで旧記録を抜いても、百メートルの記録が変わるわけではない。
でも、今日はその数字だけを相手にしているわけではなかった。
「走るの?」
声がして振り返る。
ひかり先輩がいた。
ユニフォームではなく、ジャージに着替えている。
髪は少し乱れていて、でも表情は穏やかだった。
「一本だけ、流そうかと思って」
「試合の次の日に?」
「先輩も来たじゃないですか」
「私は見に来ただけ」
「走らないんですか」
聞くと、ひかり先輩は少しだけ考えた。
「走る」
短い返事。
それだけで、私は笑いそうになった。
二人で並ぶ。
全力ではない。
ゆっくりした流し。
でも、ひかり先輩と同じトラックを走るのは、動画を見ていた頃には想像できなかった。
最初の一歩。
ひかり先輩はやっぱり綺麗だった。
でも、私はもうその形を真似しようとはしない。
自分の足で、少し後ろを走る。
少しだけ前に、ひかり先輩がいる。
その距離が、悔しい。
でも、苦しいだけではなかった。
ゴールラインを越えて、二人で歩く。
息はそれほど乱れていない。
ひかり先輩が不意に口を開いた。
「昨日」
「はい」
「バトンのとき、名前で呼んだよね」
心臓が跳ねた。
「……呼びました」
「先輩、なかった」
「ありませんでした」
「びっくりした」
「すみません」
「謝るところじゃないと思う」
ひかり先輩は、私の少し前で立ち止まった。
夕方の光が横から差している。
「もう一回」
「え」
「もう一回、呼んで」
息が止まった。
競技場では、名前が勝手に出た。
でも今は違う。
静かなグラウンドで、ひかり先輩が待っている。
私は喉の奥を確かめた。
先輩、とつける方が簡単だった。
いつもの呼び方に逃げる方が、ずっと楽だった。
でも、ひかり先輩は待っている。
前を向いたままではなく、今度は私を見て。
私は息を吸った。
「ひかり」
名前は、思ったより小さく出た。
ひかり先輩は少しだけ目を細める。
「聞こえた」
その一言で、昨日のレースの音が、全部静かになった気がした。
「次、百メートルでも追うんだよね」
ひかり先輩が言う。
「追います」
「たぶん、しばらく届かないよ」
「分かってます」
「本当に?」
「十一秒六四なので」
「うん。それに──私はもっと速くなる」
ひかり先輩は、少しだけ笑った。
「それでも来る?」
私は頷いた。
「行きます」
迷わなかった。
百メートルでは、まだ届かない。
たぶん何度も負ける。
十一秒六四は、四十七秒六二とは違う。
リレーのように四人で削れる数字ではない。
私一人の足で向かわなければならない。
それでも、もう怖さの形は変わっていた。
「じゃあ」
ひかり先輩は、トラックの先へ顔を向ける。
「聞こえるくらい近くまで来て」
胸の奥が、ゆっくり熱くなった。
私は頷く。
「行きます」
「二回言った」
「大事なので」
「変なの」
ひかり先輩はそう言って、少しだけ笑った。
初めて動画で見た日、私はひかりの走りに目を奪われた。
十一秒六四には、まだ届いていない。
それでも、バトンを渡した。名前を呼んだ。
ひかりは前を向いたまま、私の声を聞いてくれた。
ひかりより速くなりたかったはずなのに、今は、ひかりに聞こえる足音でいたかった。
たぶん、これからも度も届かない。
百メートルで負ける。
隣を走れば、少し前に行かれる。
きっとそのたびに悔しくなる。
それでも、私は走る。
夕方のグラウンドを、風が通った。
ひかりはまだ少し前にいる。
私は、その少し後ろで息を整える。
その距離が悔しくて、嬉しくて、どうしようもなく好きだと思った。