『陥陣営戦記 ~恋こそ至高!龍牙、乱世を穿つ~』 作:パスカルDX
第二十三話「呂布、兗州の主になる!? 本人だけ聞いてない!」
濮陽に朝を告げる鐘が鳴った。
城門がゆっくりと開き、城外で夜を明かしていた商人たちが荷車を引いて町へ入ってくる。市場では店主たちが軒先に商品を並べ、炊事場からは朝餉を作る煙が立ち上っていた。
曹操軍の主力が徐州へ出撃しているとはいえ、濮陽で暮らす民にとって一日はいつも通り始まる。
少なくとも、表向きは。
その裏側では、兗州の行く末を左右する話が恐ろしい勢いで進んでいた。
張邈と陳宮。
二人が密かに進めていた計画――。
天下無双・呂布を、新たな兗州の主へ迎える。
その話は濮陽周辺の豪族や有力者へ徐々に伝わり、賛同する者が増え始めていた。
曹操の急激な勢力拡大に不安を抱く者。
徐州遠征に反発する者。
新たな主を求める者。
理由はそれぞれ違う。
だが彼らが注目した人物は同じだった。
呂布。
河北で公孫瓚軍や黒山賊を相手に圧倒的な武を見せつけた天下無双。
そして、その傍らには張遼、陳宮――さらには「陥陣営」として名を上げつつある高順までいる。
戦乱の世において、これほど頼もしい武力はない。
問題があるとすれば。
「……おかわり。」
当の本人が、何一つ知らないことだった。
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宿の食堂。
恋は朝餉を食べていた。
目の前には粥、焼いた魚、漬物、そして蒸した饅頭。
すでに空になった椀が三つ積まれている。
「はい、恋様!」
龍牙は嬉々として四杯目を差し出した。
「どうぞ!」
「ありがとう。」
恋は両手で椀を受け取る。
「おいしい。」
「何よりです!」
龍牙の顔が輝いた。
向かい側では霞が呆れた顔で二人を眺めている。
「ほんまよう食うなぁ。」
「恋様は昨日も町を歩かれました。」
龍牙は真剣に答えた。
「体力を消耗しております。十分な栄養補給は必要不可欠です。」
「散歩しただけやろ。」
「恋様にとっては重要な散歩です。」
「何が違うん?」
「恋様がお歩きになるという点です。」
「分からんわ!」
霞の声が食堂に響いた。
恋は粥を食べながら、くすくす笑っている。
龍牙はその笑顔を見た。
「……。」
ぴたり。
動きが止まる。
霞の頬が引きつった。
「龍牙。」
「はい。」
「今、何考えた?」
「恋様の笑顔が至高だと。」
「やっぱりな!」
その時。
「…………。」
音々音は少し離れた席で、朝食にも手を付けず座っていた。
顔が硬い。
額には汗。
膝の上では拳を握り締めている。
昨日。
張邈と共に大きな決断を下した。
兗州を恋のものにする。
しかも霞には話した。
さらに最悪なことに龍牙にも聞かれた。
残る問題は一つ。
恋本人へどう説明するか。
「……。」
音々音はちらりと恋を見る。
「?」
恋が気付いた。
「音々音。」
「は、はいなのです!」
「食べないの?」
「あとで食べるのです!」
「冷めるよ?」
「大丈夫なのです!」
恋は少し心配そうに首を傾げた。
「おなか痛い?」
「違うのです!」
純粋に心配されるほど罪悪感が増していく。
(言いづらいのです……!)
(非常に言いづらいのです!)
(『恋様、知らない間に兗州の主になる話が進んでいます』などと、どう説明すればいいのです!?)
霞は茶を飲みながら横目で音々音を見る。
そして小声で。
「今日言うんやろ?」
「ぶっ!」
音々音が茶を吹いた。
「汚っ!」
「霞殿!」
「何や。」
「いきなり言わないでほしいのです!」
龍牙が振り返った。
「何のお話です?」
霞と音々音が固まる。
龍牙は数秒考え――。
「ああ。」
満面の笑み。
「恋様が兗州の王となられるお話ですね。」
「龍牙殿ォォォォォ!!」
音々音が立ち上がった。
恋が箸を止めた。
「……王?」
沈黙。
霞は天井を見る。
音々音は頭を抱える。
龍牙だけは爽やかだった。
「はい!」
「恋様が兗州の主となられるお話です!」
「全部言うたぁぁぁ!」
霞の絶叫が響いた。
恋はしばらく瞬きをする。
そして。
「……なんで?」
音々音が机へ突っ伏した。
「やっぱり言ったのですぅぅぅ……!」
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朝餉どころではなくなった。
一行は宿の部屋へ移動した。
恋が中央。
正面に音々音。
その左右に霞と龍牙。
妙に緊張感のある配置だった。
恋は相変わらずきょとんとしている。
「音々音。」
「はい。」
「わたし、王になるの?」
「……。」
音々音は一度深呼吸した。
ここまで来た以上、隠しても仕方ない。
「正確には。」
姿勢を正す。
「恋様を兗州の新たな主として迎えたい、という話が進んでいるのです。」
「誰が?」
「張邈殿です。」
「どうして?」
「それは……。」
音々音は言葉を選んだ。
「曹操軍が徐州へ向かっている今、兗州には大きな空白が生まれています。」
「曹操殿の治世に不満を持つ者もおります。」
「そして、新しい主を望んでいる者たちも。」
恋は静かに聞いている。
「そこで張邈殿は――」
音々音は恋を真っ直ぐ見つめた。
「恋様こそ、兗州を治めるに相応しいと考えました。」
「……。」
「そして。」
音々音は拳を握った。
「私も、そう思っています。」
霞の表情から笑みが消えた。
龍牙も黙って音々音を見る。
ここからは冗談ではない。
音々音は続けた。
「恋様。」
「私は以前から考えていました。」
「天下を統一し、この乱世を終わらせるのに最も相応しいのは誰なのか。」
「武だけなら強い者はおります。」
「知略に優れた者も。」
「領土を持つ者も。」
「ですが――」
音々音の声が柔らかくなる。
「恋様ほど、人を大切にできるお方を私は知りません。」
恋の瞳がわずかに揺れた。
「龍牙殿がなぜ恋様へ忠誠を捧げるのか。」
「霞殿がなぜ共に歩くのか。」
「私がなぜ恋様についてきたのか。」
「全部、恋様だからなのです。」
「……音々音。」
「私は。」
音々音は深く頭を下げた。
「恋様に、天下を取っていただきたいのです。」
部屋が静まり返った。
窓の外から、町の喧騒だけが聞こえる。
恋は何も言わない。
音々音も頭を下げたまま動かなかった。
やがて。
「……天下。」
恋が呟いた。
「はい。」
「取ったら。」
「はい。」
「みんな、戦わなくていい?」
音々音は顔を上げた。
恋はいつものぼんやりした顔ではなかった。
真っ直ぐだった。
「戦が終わる?」
音々音はすぐには答えなかった。
嘘をつきたくなかったからだ。
「すぐには終わらないと思います。」
恋は黙っている。
「むしろ。」
「恋様が兗州の主となれば、曹操殿とは敵対する可能性が高いのです。」
「戦は増えるかもしれません。」
「多くの敵が現れるでしょう。」
「ですが。」
音々音は恋の瞳を見つめる。
「最後まで勝ち抜けば。」
「乱世そのものを終わらせることができます。」
恋は俯いた。
「……。」
霞が静かに口を開く。
「恋。」
「?」
「無理せんでええで。」
霞は笑った。
「音々音の考えも分かる。」
「張邈のおっちゃんの言いたいことも分かる。」
「せやけど。」
飛龍偃月刀を壁へ預けながら、恋を見る。
「最後に決めるんは恋や。」
「嫌なら嫌でええ。」
「うちは、それでもついてく。」
恋は霞を見つめた。
「霞……。」
続いて龍牙が立ち上がる。
「恋様。」
片膝をついた。
「龍牙?」
「私も同じです。」
いつもの大声ではない。
静かで、真っ直ぐな声。
「王になられようと。」
「再び旅を続けられようと。」
「恋様がどの道を選ばれても。」
龍牙は頭を下げる。
「私は生涯、恋様にお仕えします。」
恋の目が少しだけ大きくなる。
「私にとって重要なのは領土ではありません。」
「地位でもありません。」
「恋様です。」
「……。」
「あなたがおられる場所こそ。」
龍牙は顔を上げた。
「私の帰る場所です。」
霞が少し驚いた顔になる。
音々音も目を丸くしていた。
恋はじっと龍牙を見る。
そして。
ほんの少し頬を赤くして。
「……ありがとう。」
微笑んだ。
龍牙も柔らかく笑う。
「はい。」
数秒。
「そして恋様の可愛さが至高です。」
「台無しやぁぁぁぁ!」
霞が龍牙の後頭部を叩いた。
「なぜです!?」
「ええ話やったのに最後まで我慢できんかったんか!」
「重要なことです!」
「今ちゃう!」
恋は楽しそうに笑った。
音々音もつられて笑う。
張り詰めていた空気が、一気に消えていった。
---
午後。
四人は張邈の屋敷へ向かった。
張邈は広間で待っていた。
恋が入ってきた瞬間、彼は立ち上がる。
「呂布殿。」
「話を……聞きましたか。」
恋は頷く。
「うん。」
張邈は音々音を見る。
音々音も頷いた。
すべて話した。
そういう意味だった。
「そうですか。」
張邈は恋へ深く頭を下げる。
「まずは、お詫びしなければなりません。」
「?」
「あなたの許可を得る前に、話を進めました。」
「これは私の独断。」
「責められて当然のことです。」
恋は張邈を見つめる。
「どうして?」
「……。」
「どうして、わたし?」
張邈はゆっくり頭を上げた。
「私は長く乱世を見てきました。」
「多くの者が天下を語ります。」
「しかし、その多くは天下を自分のものにしたいだけ。」
「民のためではない。」
張邈は続ける。
「あなたには野心がない。」
「だからこそ、私はあなたを選びました。」
恋は首を傾げる。
「野心ないのに?」
「皮肉な話です。」
張邈は苦笑した。
「王になりたがる者より、王になりたがらぬ者のほうが王に相応しいこともある。」
恋は少し考えた。
「……難しい。」
「でしょうな。」
霞が吹き出した。
「本人に伝わっとらんやん!」
張邈も笑った。
「では簡単に申しましょう。」
恋を見る。
「私はあなたならば、民を見捨てないと思いました。」
「……。」
「だから。」
張邈は再び頭を下げる。
「兗州を、あなたに託したい。」
恋は窓の外を見る。
そこには濮陽の町があった。
市場。
家々。
子どもたち。
老人。
旅人。
商人。
ここへ来てから出会った人々。
焼き菓子をくれた店主。
道を教えてくれた老人。
笑いかけてきた子ども。
恋はしばらく町を見ていた。
やがて。
「みんな。」
「はい?」
「守れる?」
張邈の目が大きくなる。
「わたしが主になったら。」
恋は振り返る。
「この町のみんな。」
「守れる?」
張邈は即答した。
「はい。」
「少なくとも、守るための力を持つことができます。」
「……。」
「もちろん責任も伴います。」
「戦わねばならぬ時も来るでしょう。」
「それでも。」
恋は自分の手を見る。
その手は方天画戟を握るための手だった。
これまで何度も戦ってきた。
誰かを倒したいからではない。
仲間を守るため。
生きるため。
そして。
困っている者を守るため。
「……分かった。」
音々音が息を呑んだ。
霞も恋を見る。
龍牙の目が輝く。
張邈が尋ねた。
「それは……。」
恋は小さく頷いた。
「やる。」
「恋様!」
音々音が思わず叫ぶ。
「でも。」
恋が続ける。
「音々音。」
「はい!」
「難しいこと、お願い。」
「もちろんです!」
「霞。」
「おう!」
「軍のこと、お願い。」
霞は飛龍偃月刀を肩に担ぐ。
「任せとき!」
そして。
「龍牙。」
「はい、恋様!」
「……。」
恋は少し考える。
龍牙は期待に満ちた目で待つ。
「龍牙は……。」
「はい!」
「いつも通り。」
「承知いたしました!」
霞が腹を抱えて笑った。
「仕事の説明それだけ!?」
音々音も笑いをこらえられない。
「でも一番分かりやすいのです!」
龍牙だけは誇らしげだった。
「恋様の御側を守る!」
龍眼斬を握る。
「敵が現れれば――」
大きく息を吸った。
音々音が嫌な予感に顔を引きつらせる。
「ちょっ――」
「チェストォォォォォーーーーッ!!!」
屋敷が震えた。
庭の鳥が一斉に飛び立った。
使用人たちが驚いて廊下から顔を出す。
霞が耳を押さえる。
「屋内で叫ぶな言うとるやろ!」
「申し訳ありません!」
「毎回謝るくらいなら学習せぇ!」
恋は笑っていた。
「ふふ。」
その笑顔を見て。
張邈は確信した。
自分の選択は間違っていない。
---
その日の夕刻。
濮陽の城門。
兵たちが整列した。
張邈の呼びかけに応じた者たち。
そして、町の人々。
何が始まるのかと大勢が集まっている。
城壁の上へ、恋が姿を現した。
その後ろには龍牙、霞、音々音。
張邈が一歩前へ出る。
「濮陽の皆よ!」
声が響く。
「曹操軍は今、徐州にある!」
「兗州の未来は大きな岐路へ立たされている!」
ざわめきが起こる。
「我らには、この地を守る新たな力が必要だ!」
張邈は恋を示した。
「天下無双――呂布!」
民衆がどよめく。
「呂布!?」
「あの呂布か!」
「河北で公孫瓚軍と戦った……!」
「黒山賊を追い払ったっていう?」
恋は少し居心地悪そうにしていた。
大勢から見られることには慣れていない。
龍牙が小声で囁く。
「恋様。」
「?」
「堂々となさってください。」
「……うん。」
恋は少しだけ胸を張った。
その瞬間。
龍牙が鼻を押さえた。
霞が睨む。
「何しとん?」
「いえ。」
「恋様があまりにも凛々しく……。」
「耐えろ。」
「はい。」
張邈の声が続く。
「私は!」
「この方を、新たな兗州の主として迎えたい!」
大きなどよめき。
しかし。
やがて一人の兵士が槍を掲げた。
「呂布様!」
続いて別の者。
「呂布様!」
声が増えていく。
「呂布様!」
「呂布様!」
やがて濮陽を揺らすほどの大歓声となった。
恋は驚いていた。
これまで戦場で名を呼ばれたことはある。
だが、これは違う。
敵を倒せという声ではない。
自分たちを守ってほしいという声。
恋は静かに方天画戟を掲げた。
歓声が止まる。
「……わたし。」
恋の声が響く。
「難しいこと、分からない。」
霞が小声で。
「正直やな。」
音々音が慌てる。
「静かにするのです!」
恋は続ける。
「王とか。」
「天下とか。」
「まだ、よく分からない。」
民衆は黙って聞いている。
「でも。」
恋の瞳が真っ直ぐ前を向く。
「みんなが困ってるなら。」
「守る。」
短い言葉だった。
華麗な演説ではない。
覇気に満ちた宣言でもない。
ただ。
呂布という少女らしい言葉。
「わたしが。」
「守る。」
一瞬の静寂。
次の瞬間。
「うおおおおおおおおっ!!」
歓声が爆発した。
「呂布様!」
「新しい主だ!」
「濮陽を頼みます!」
音々音は涙を浮かべていた。
「恋様……!」
霞も嬉しそうに笑う。
「ええやん。」
龍牙は震えていた。
「恋様……。」
霞が横を見る。
「龍牙?」
「私は……。」
龍牙は龍眼斬を掲げる。
「今!」
「この瞬間を見るために生まれてきたのかもしれません!」
「大げさや!」
「恋様が王!」
「龍牙!」
「天下無双にして天下至高!」
「やめろ!」
「恋様の可愛さが至高ォォォォォーーーーッ!!」
「チェストちゃうんかい!」
濮陽の城壁に霞の突っ込みが響き。
恋は声を上げて笑った。
こうして。
徐州へ曹操軍が向かった、その空白を突き。
張邈と陳宮の決断によって。
天下無双・呂布は――
兗州の新たな主として立った。
そして同時に。
天下の覇権を巡る、新たな勢力が誕生したのである。
遠く徐州。
まだ曹操は知らない。
自らの背後で。
兗州の大地に、新たな旗が掲げられたことを。
その旗の中心にいるのが。
かつて虎牢関で天下へ武名を轟かせた――
呂布であることを。
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