ストーカーしていたと思ったらストーカーされていたのは俺だった話 作:アロアロス
兄は、おそらく世界で一番説明のしやすい人間だ。
三月の半ばの家具量販店。平日昼間の広いフロアを、兄は私の隣について歩いている。
入り口には新生活応援フェアの幡がはためき、いたるところに桜のモチーフがちりばめられていた。私の新生活の、第一歩がここから始まろうとしていた。
荷物持ち要員として呼び出したのは私だが、そんな兄の顔は呼び出された側の顔ではない。普通妹の我儘を聞く兄というものは、もっと、少なくとも少しは迷惑そうにするものではないのか。
兄は迷惑そうにする代わりに、私がカタログとにらめっこを始めるたびに黙って棚の数値だの値札だのを確かめてくれる。そういう人だった。
地味で、無口で、優しさの出力方法がまるで間接照明の様。
友達に「お兄さんってどんな人?」と聞かれたら、「木彫りの熊から熊を引いたのが兄」と答えている。伝わったことは一度もない。これは私の友人らの感受性の問題なのだが。
その兄が、ここ最近、ひどくおかしい。
……具体的にはまともになった。
実家に顔を出す頻度が少し上がった。ぼそぼそ喋っていたのが、目を見て喋るようになった。この前など、母の誕生日に花を送っていた。花、あの兄が? 兄と植物はどうやっても結びつかなかった。
死んでもふきは食べないと豪語して母に打ちのめされていた幼い日の思い出だけが微かに浮かび上がる。
そんな兄が、わざわざ花屋で花束を注文したのだ。母は泣いて喜び、父は「何かの前触れじゃないか」と真顔で心配した。私は父に一票だった。
「兄さん。この棚とこの棚、どっちがいいと思う」
「……大きい方。教科書は思ったより増えるよ」
「経験者は語る、だ」
四月から、私は一人暮らしを始める。進学先が家から遠かったというだけの話だが、初めての一人暮らしというのは想像の三倍は買うものが多い。ベッド、棚、机、カーテン、細々とした台所用品。あれも欲しけりゃ袈裟まで欲しい。今日はその買い出しの第何陣かで、荷物持ちと経験者の意見という二つの役割を兄に求めて常々呼び出しているという次第だった。
私が困っている時には、いつの間にか隣に来て手伝ってくれている。こういうところは昔から信頼している。
しているのだが。
さっきから、変なのだ。
兄が、ではない。……いや、兄も変なのだが、それはいつもの話。それとは別の話で。
人がいる、尾行されている。
本人はうまく隠れているつもりだろうが、こと私に限ってはそうはいかない。かくれんぼで負けたことはない。おそらく目的は私ではなく、兄だ。
最初に気づいたのは寝具売り場だった。枕を握って硬さを確かめていたとき、ふと首の後ろで気配を感じた。振り返ると通路の先のカーテンの陳列がわずかに揺れていた。誰もいない筈もない。
次はダイニングセットの角。四人掛けの展示テーブルに置かれた食器の見本越しに、展示のソファの背もたれの向こうで何か銀色のものが、しゅっと沈んだ。見間違いではないだろう。
三度目は照明売り場で、天井から吊り下がったペンダントライトの、その傘と傘の隙間から、一瞬、目が合った。
目が、合った。
碧色の、宝石みたいな目と。
あまりに綺麗な色だったので、恐怖より先に感心してしまった。
「兄さん、少しいい?」
できるだけ声を抑えて、棚を見るふりをしたまま言った。
「どうした、改まって」
「私たち、つけられてる、よね?」
我ながら、われわれ兄妹の会話とは思えない台詞だった。兄は一瞬固まって、それから恐る恐る私の視線の先――照明売り場の方角を、追った。
そして完全に固まった。
石像になった兄の顔から、音もなく血の気が引いていく。
何かを確信した顔だった。心当たりしかない、という顔だ。こめかみを押さえている。
「に、兄さん? まさか借金? 取り立て?」
「違う」
「じゃあ、何」
兄は片手で顔を覆った。長い長い、魂ごと吐き出すようなため息をついた。
私たちの視線の先にいる彼女は、私たち二人が彼女に気づいたことに気づいたのだろう。陳列の隙間から、にこやかに微笑んで小さく手を振っている。
それから、兄は処刑台に上る人の様な顔で、言った。
「あの人は……俺の彼女だ」
「は?」
思わず素が出た。
「彼女って、何。誰が」
「俺の、だ」
「兄さんの」
「そうだ」
「彼女」
「……そうだ」
語彙も消える。
だって、兄だ。だってあの兄だぞ! 木彫りの熊から熊を引いた男だ。女の人とデートしているところどころか、女性の話をしているところすら見たことがない。その兄に、彼女。しかも今、家具屋で私たちを尾行しているあの美人が......?
情報の処理が終わらないうちに、兄は観念したように片手を上げて、照明売り場に向かって小さく振った。おいで、の合図らしかった。
ペンダントライトの森が、ゆれた。
そして、出てきた。
――なんだこの人、というのが第一印象だった。
背が高い。たぶん180は超えている。モデルみたいな長身に、黒のタートルネックと汚れ一つない綺麗なロングコート。もう三月だが暑くないのだろうか。歩き方だけでも育ちが分かる、背筋の通った歩様。さらりと流れた長い銀髪は緩く一まとめにされていて、黒の薄い眼鏡、その奥にさっきの碧眼。頭の上には、ぴんと立った狐の耳。コートの裾からは、ふさふさの大きな尻尾が一、二、三、四。
美人だった。
美人だとかいうレベルではなかった。売り場の照明を全部足しても勝てない発光量だ。現にフロアにいた客も店員もみんな彼女を見ている。芸能人の撮影か何かだと思うのだろう。私もそう思う。
それくらい、その人はこちら側の空間から浮いていた。
その浮世離れした美人が、まっすぐこちらへ歩いてきて、私たちの前で立ち止まり。
深々と、頭を下げた。
「……申し訳、ありませんでした」
「え、あ、はい」
「怪しい者では、ないんです。いえ、今の行動は怪しかったと思います。それは認めます。ですが誓って、怪しい者では」
「天音さん、それは怪しい者の台詞です」
兄は疲れた声で天音さん、と呼んだ。呼び慣れた発音だった。
へえ、と思った。
へえ、ほう、ふうん、と思った。
銀髪の美人は顔を上げ、居住まいを正すと、改めて名乗った。
「宮舞天音と申します。お兄さんと、その、お付き合いを、させていただいています」
「……
名乗り返しながら、頭の中はフル稼働していた。
みやまい、あまね。知らない名前だ。いや、待て。どこかで……ええと、確かに聞いたことがある。友達の華恋が騒いでいた。今すごい勢いで人気が出てるバンドがいて、ボーカルの姫凪なんとかかんとかっていう人の歌がすごい上手くて――そのバンドに、この人がいた、ようなはず。その程度の知識だ。
記憶は辛うじてつながったが、何故?という問いは変わらずだ。分かるのは、この人がとんでもない美人で、兄の彼女を名乗っていて、ついさっきまで私たちを尾行していたということだけだ。
整理しよう。
この美貌と所作。この、纏っている空気の価値は一体幾らだ?
対してこの兄。いつものセーター。猫背……は驚くことに少し前からマシになっている。だが熊抜きの……これももういい。
「兄さん、ちょっと」
私は兄の袖を引いて、二メートルほど距離を取った。彼女――宮舞さんは、その場で行儀よく待っている。四本の尻尾が、所在なさげに揺れていた。
「……ねえ、あれ、本当に兄さんの彼女?」
「本当だ」
「どこで知り合ったの」
「大学の……喫煙所?」
「馴れ初めが渋すぎる。……ねえ、正直に言って。いくら振り込んだの?」
「振り込んでない」
「じゃあ壺は? 絵は買ってない? 変な健康器具は?」
「買ってない」
「じゃあ美人局だ。この後怖い人が出てくるやつだ。示談金請求されるんだ」
「されない」
兄は否定した。否定したが、私は納得していなかった。
だって、どう考えてもおかしいのだ。釣り合いという言葉を辞書で引いたら「この二人の逆」と載っているレベルの組み合わせだ。
あんな人が一体何をどうしたらこの兄を選ぶ? しかも選んだ上で、なぜ尾行する?
恋人なら普通に堂々と、「私も行く」と言えばいいだけの話ではないのか。どこからどう考えても不審者だ。挙動不審、存在が全部不審だ。
ちらり、と宮舞さんを窺う。
宮舞さんは、じっとこちらを見ていた。正確には、私と兄が内緒話をしている、その距離の近さを見ているようだ。碧色の目が、なんというか――計測していた。
ぞわり、と首の後ろが冷えた、なんだこいつ。目が怖い。
「……とにかく、だ」
兄が頭を掻いた。
「紹介する機会を窺ってたのは、本当だ。順番はめちゃくちゃになったが……まあ、そういうことだから」
「そういうことって、どういうこと」
「彼女も今日、合流したいと言ってたんだけど……俺が、まだ早いと止めた。……止めたんだが」
兄はそこで、宮舞さんの方を見た。宮舞さんの尻尾が、びくっと跳ねて静止した。悪戯の見つかった犬……いや狐が、そこにいた。
「我慢、できませんでした」
美人が、蚊の鳴くような声で白状した。
成り行きで、三人で家具を見ることになった。
こうなると、事態は妙な方向に転がり始めた。
宮舞さんが実に有能なのだ。
「一人暮らしでしたら、これは避けた方がいいです。背板が薄いので、地震のとき歪みます」
「この地域は決して少なくはありませんから。同じ価格帯なら、あちらの列の三番目を」
「カーテンは遮光一級を。ベッドは配送日を先に確かめてください。三月末は繁忙期で入居に間に合わない可能性があります」
すごかった。私が三十分悩むような選択肢を三秒で斬り捨てる。しかもご丁寧に全部明確に理由つきで、的確で、否定の仕方に嫌味もない。店員より詳しく、カタログよりも詳しい。
「詳しいんですね……?」
「はい。勉強したので」
「勉強?」
「.........妹さんが、四月から一人暮らしを始めると伺ってから、家具と、防犯と、あとお料理の本も少し」
ひえ、と思う。言葉に詰まった。
……この人、会ったこともない他人の妹のために、そこまでしたのか。いや義妹になるのか?
重いのか健気なのかの判定に困っていると、隣で兄が「やりすぎでは」と言い、宮舞さんが「基本ですよ」と真顔で返した。これがこの二人の距離感らしい。
そこからは、変な時間だった。
変で、ちょっと、いやかなり面白い時間だった。
宮舞さんは口数の多い人ではないようで、こちらから話しかけない限りは基本的に一歩引いた位置に静かに立っている。なのに、私がカタログと現物を三往復して唸り始めると、すっと隣に現れる。
「迷っているのは、色ですか。大きさですか」
「……両方です」
「では大きさから決めましょう。色は最後でいいので」
そう言って、候補を二つまで絞ってくれる。迷いがない。そして私が「じゃあこっち」と決めると、
「いいと思います」
と短く肯定する。それだけの相槌なのに、なんだか安心してしまう。本当にいいと思ったときにだけ人が出す声だった。
おかげで私は、家具を選んでいるだけなのに、一択ごとに小さな花丸をもらっているような気分になっていた。買い物についてきてもらったというより、お姫様が侍女を連れて調度品を選んでいる図に近い。
だが侍女の顔がこの世で一番いい。
食器売り場では、私がふざけて変な柄のマグカップを持ち上げた。深海魚が正面からこちらを見ている、怖い柄だが瞳がチャーミング。
「見てこれ、ひどい顔」
「……ふふ。ひどい顔ですね」
笑ってくれた、と思った次の瞬間、彼女は棚から同じ柄の色違いを持ち上げた。
「お揃いに、しますか」
「……本気?」
「一緒に買うなら、私も愛用します」
冗談なのか本気なのか分からないでいたら、彼女の耳が嬉しそうにぴこぴこ動いた。ずるい。生き物として搭載している装備が違う。こちとら感情表現は顔と声だけでやりくりしているのに、向こうは耳と尻尾という追加のアンテナが常時稼働している。しかしそのアンテナ、どうやら口よりも正直だ。
そして、売り場を三つほど回る頃には、観察していて分かったことがある。
この人はこと兄に関する事象となると、どうやら挙動がおかしくなる。
たとえば兄が、「カラーボックスを見てくる」と言って売り場を離れる。
彼女の耳が、私と会話を続けたまま、くるりとそちらを向く。顔はこちら、耳は兄。器用な生き物だな。
兄が戻ってくる。すると尻尾が、床すれすれでゆらりと一往復する。本人は気づいていないらしいのが、また味わい深く愛おしい。
兄が「これ、どう思います」と一つを指す。彼女は答えるまでのあいだ、明らかに嬉しさを噛み殺した顔をする。意見を求められた、という事実をまず味わってから、冷静な審査結果だけを出力する。味わった事実は彼女の中ではなかったことになっている。いやなっていない、真横で見ていた私の中ではしっかり記録されている。
極めつけは、兄の離席中のときだった。
二人きりになった売り場で、彼女は私の相談に、それは丁寧に付き合ってくれた。落ち着いた声、ゆったりした相槌。これが本来の姿なのだろうか、と思った。
整った横顔は静かで、たとえるならば新雪とつららだ。しんと降り積もって、あたりの音を全部吸ってしまうような静けさ。その雪の上で、朗らかに語りかけてくる様には、実母に負けず劣らずの母性を感じた。
年上のお姉さんというよりも、もはや保護者の目線だった。私はこの人と今日会ったばかりのはずなのだが。
――で、兄が戻ってきた瞬間、彼女の明度と彩度が上がった。
照明は何も変わっていないのに、顔の発色が一段明るくなった。雪景色に日が差したとか、そういう上品な話ではなく、血みどろの特撮から女児向けアニメに切り替わったというレベルの変化だ。かかっているフィルターが違う。彩度が違う。BGMまで変わった気がした。真横に立っていると、その切り替わりが如実に分かる。
おそらく兄は分かっていないだろう。兄に見えているのは常時アニメ側の彼女だけで、こちら側の静かな雪は、兄の不在時にしか放送されていないのだから。
なんだこの人、と思いながら、私は確信を一つ積み上げていた。
少なくとも、美人局はこんな緩んだ顔をしない。
示談金目当ての人間は、標的の妹のカーテン選びに三十分付き合って、遮光等級と柄の兼ね合いに真剣に悩んだりしない。
ターゲットが三歩離れただけで耳が追尾したりしないし、意見を求められた数秒間幸せを噛み締めたりもしない。
この人の挙動は全部おかしいが、そのおかしさの矢印は一本残らず兄に向かって立っていた。
「あの、宮舞さん」
「天音で、いいですよ」
「じゃあ……天音さんは、その。兄の、どこがよかったんですか」
純粋な疑問だった。この際、失礼は承知だ。だって知りたい。世界の謎だ。
天音さんは、少し考えた。兄は少し離れた収納売り場で、私のカラーボックスを未だに真剣に品定めしている。カラーボックスなんてどれでもいいだろ、全く。その背中を見ながら、彼女は言った。
「……ずっと、見ていてくれたんです」
「見て?」
「私、少し前まで、自分に自信がなくて。周りがすごい人ばかりで、私だけ何もないような気がしていて」
この見た目で? という言葉は飲み込んだ。見た目の話ではないのだろうと、声の温度ですぐに分かったからだ。
「でも、あの人だけは、ずっと私を見ていてくれました。何も言わずに、何も求めずに、ただ、ずっと。……私が私を見限りそうなときも、あの人の目だけは、私を疑わなかったんです」
「…………」
「だから今度は、私が見る番だと思って」
そこで彼女は、はた、と我に返った顔をした。
「……今日のは、その……行き過ぎた、やつです」
「自覚はあるんだ」
「あります。反省も、しています。……しているのですが、たぶん、直りません」
開き直りとも誠実ともつかない返答に、こらえきれず吹き出した。天音さんは不思議そうに首を傾げ、それから、つられたように小さく笑った。笑うと、完璧な美人の顔が、年相応の女の人の顔になった。
ああ、と思った。
この人、ちゃんと変な人だ。
兄の隣に立つ人は、きっとこれくらい変じゃないと駄目なのだ。
帰り、駅前で天音さんと別れることになった。
三月の夕方の駅前は、送別会帰りらしい集団と、私たちと同じ新生活の買い出しらしい親子連れと、とにかく人で賑わっていた。西日がビルの間から斜めに差して、彼女の銀髪を薄い金色に染めている。
別れ際、彼女は足元の紙袋を持ち上げて、私に差し出した。……途中から、気づかないうちにずっと持っていたやけに大きなそれを、私は彼女の私物だと思っていた。
「これを、引っ越し祝いです」
「え……いいんですか。というか、これは?」
受け取った袋は、ずしりと重かった。覗き込むと、箱に印刷されたコーヒーメーカーの写真と目が合った。しかも見覚えがある。サイトで何度も眺めて、値段を見ては閉じ、また開いては閉じていた、あのメーカーのやつだ。
「ほら、ちょっと前に悩んでたから」
隣で兄が、事もなげに補足した。
……悩んでいた。確かに悩んでいた。一人暮らしをするならコーヒーくらい家で淹れたい、でも新生活の予算では優先順位が上げられない、と。ただそれは、実家の食卓でぼやいた程度の話だ。兄がいた日だったかどうかも、覚えていない。
覚えていないような愚痴を、兄は覚えていて。
――あ、と思った。繋がった。
あの、兄に起きていた天変地異の数々。原因はこれだ。この人だ。間違いない。
こんな尽くしたがりな彼女が隣にいたら、そりゃあ人間は多少まともになるのも無理はない。花の一つも贈るようになる。天変地異ではない。ただの影響だった。
「いや、でも、こんな高いもの、貰えないです」
「もう買ってしまったので」
「レシートとかで返品が」
「剥がしました」
「大きすぎです」
「それは……すみません」
しゅんと狐耳が垂れ下がる。
「でも、ほんとにいいんですか?」
天音さんは涼しい顔のまま、それから、ほんの少しだけ目元を緩めた。
「いいんです。……これから、長い間お世話になる予定ですから」
その言い回しの意味を理解するのに、一秒もかからなかった。
理解した瞬間、隣の兄が変な咳をした。
天音さんの耳が、澄ました顔の上で、正直にぴこぴこ動いていた。
……この人、こういうことを真顔で言うのか。
受け取るしかなかった。というより、この人相手に受け取らない、という選択肢を最後まで守り切れる人間が、この世にいる気がしなかった。兄が落ちたのも、分かる。
「……ありがとうございます。大事に使います」
「はい。フィルターの替えは、箱の中に一年分入れておきました」
「一年分……」
――思うに、この二人は本当に似た者同士だ、そして二人とも贈り物が下手すぎる。
確かにありがたいし嬉しいが、大きければいいというものじゃないぞ。兄の花束もそうだった。
しかし私から見てもこの二人は幸せそうだったので、幸せのおすそ分けと思うことにして、両手に箱を抱える帰り道を許すことにした。
まあ最終は兄に持たせればいい。
改札へ向かいかけて、天音さんは、ふと足を止めた。
こちらへ向き直る。何かを言いかけて、閉じる。西日の中で、コートの裾を指先が一度握って、離れた。それが彼女が言葉に詰まった時の、手の動きだった。
……なんだろう、と待つ。
彼女は一度だけ小さく息を吸って、吐いて、それから、言った。
「由紀、さん」
初めて、名前を呼ばれた。
思えば今日一日、この人は私を「妹さん」としか呼ばなかった。途中、何度か言いかけて引っ込めていた正体は、これだったらしい。たった二文字を、この人は夕方までかけて、ようやく口に出した。
「……また」
また。続きはなかった。会いましょう、なのか、今度こそちゃんと、なのか。言葉の在庫はそこで尽きたらしく、耳だけが緊張の名残でぴんと張り詰めている。
しかたないので、こちらから続きを埋めることにした。
「はい、天音さん。また」
瞬間。耳がぴこぴこの最大値を記録した。
尻尾が四本、ふわりと膨らんで、夕日を透かして金色に光った。本人の顔だけが必死に澄まそうとして、失敗して、崩れて、それはもう嬉しそうに笑った。
……ずるいなあ、この生き物。
天音さんは深くお辞儀をして、それから器用に手を大きく振りながら、改札の向こうへ去っていった。
彼女が人混みに消えるまで、兄はそちらを見ていた。
見送る横顔が、知らない表情をしていた。
「……ねえ、兄さん」
「なんだ」
「いい人だね」
「……ああ」
「でもすごい変な人」
「知ってる」
兄は短く答えて、荷物を持ち直した。その耳が少し赤いのは、三月の風のせいではないと思う。
引っ越しの段ボールが、まだ部屋の隅に三箱残っている。
配置された家具一式が、どれもあの日の助言の通りに揃えられた部屋で、ようやく迎えた一人暮らしの最初の朝だった。
目覚ましを止めて、起床後のルーティンをこなし、ようやくキッチンに立つ。
一番最初に開梱した家電が、そこにある。
豆はまだ挽いたものしか買えていないし、手順も昨日説明書で覚えたばかりだ。フィルターをセットして、粉を匙で二杯。水を注いで、スイッチを押す。こぽ、と小さな音がして、それから、部屋に匂いが広がり始めた。
段ボールの匂いしかしなかった部屋が、コーヒーの匂いになっていく。
それだけのことで、知らない部屋が、少しだけ自分の部屋になった。
マグカップに注ぐ。例の深海魚がこちらを見ている柄のやつだ。
結局あの日のうちに買った。彼女も本当に色違いを買っている。早速写真で送られてきたりした。連絡先はもう持っている。
一口飲む。美味いと思う。
正直なところ、正確な味の良し悪しはまだ分からない。でも温かくて、苦くて、新生活の味がした。
心細くなかった、と言えば嘘になる。初めての部屋、初めての朝、知らない場所ばかりの街。それでも湯気の向こうに見える窓の外が明るくて、手の中のカップが熱くて、フィルターの替えはあと一年分ある。
……長い間お世話になる予定、と彼女は言った。
兄さん、と胸の内で呼びかける。
あの人、逃がしちゃ駄目だからね。
まあ逃げられないのだろうが。
深海魚と目を合わせながら、二口目を飲んだ。
小噺になりますが、幾つか投稿予定です。