初雪が降った日の昼のことだった。
「邪魔するよ。」
盃と徳利を手に鬼が山へやってきた。まず訪問者を迎えるのは白狼天狗の仕事だが相手が自分たちよりも上位の存在であるためか、天魔が駆け付けた。
「これはこれは、勇儀様。ご壮健のようで何よりでございます。」
内心とうとう来てしまったかと苦々しく思っていたが、悟られないように笑みを浮かべて歓迎するそぶりを見せた。
「ハハ、久しいね。天魔。お前も少しは長としての貫禄がついてきたんじゃないか。」
「いえいえ、そんなことは。」
「謙遜するな。用事が済んだら、お前にも後で相手になってもらおうか。」
豪快に笑う鬼は上機嫌に見えた。ここで下手を打たなければ何事もなく済むかもしれない。そんな期待が天狗たちの胸にわいた。
「ハア、用事ですか。一体どのようなご用件でございましょう。」
「惚けなくていい。お前たち、最近人間を囲っているって話じゃないか。しかも、手習いや稽古までさせて玉のような扱いだと聞いたぞ。今日はその秘蔵っ子に会いに来たんだ。」
「ああ、人の子ですか。まあ、一人の酔狂な輩が暇つぶしに始めた道楽ですよ。勇儀様のお眼鏡にかなうものではありません。それより、私の屋敷で宴でもどうでしょう。丁度出来の良い酒が手に入ったところなのです。」
天魔は件の人の子を嘲笑い、身近にいることがさもさも嫌だ、というそぶりをみせて鬼の気を逸らそうとした。
「いいから会わせろ。」
先ほどまで楽し気に会話に興じていたというのに、本題に入った瞬間、場に緊迫感が漂った。天魔は無意識のうちに喉を鳴らした。
「それはお答えできません。」
「何故だ。」
「正直に申しますと貴女様ともあろう人がただ会うだけで満足するはずがございません。」
「バレてしまったか。そうだね、私はそいつと勝負がしたい。」
「やはり。ならここをお通しすることは出来ません。お引き取りください。」
天魔は刀を抜いて勇儀に向けた。
実は天魔はここ数百年、刃を鞘の外に出すことをしなかった。それがなぜか。古参の天狗と勇儀だけは知っていた。
「智で成り上がったお前が私に刃を向けるとは。お前に敬意を持っているからこそ忠告してやるが、病んだ身体で私を止められると思うなよ。」
「情けは無用です。」
「随分偉くなったもんだな。」
鬼が拳を握った次の瞬間には、もう天魔は地に伏すかと思われた、がその前に間に割り込んだツワモノがいた。大天狗だ。
「私では不足でしょうか。」
「大天狗か。まあ、いいだろう。」
勇儀の不遜な態度は強者の特権だ。普段は天狗も頭を下げてやり過ごすが今回ばかりはそうは言ってもいられない。ここに一歩も引けぬ天狗による下剋上が始まった。
「今、お前さんらの前にいるのがどういう存在か、もう一度刻み付けてやる。順番は逆になってしまったが肩慣らしだと思えば丁度いいだろう。何、命だけは助けてやるよ。」
腕を組んだ勇儀は悪鬼そのものに見えた。
「ちょっと待てぃ。大天狗様の前に我々と手合わせ願おう。」
「そうだ。我らを倒してからだ。」
白狼天狗の集団と若い鴉天狗たちが水を差すように名乗りを上げた。これは策の一つであった。本命の大天狗とあてる前に少しでも体力を奪う心づもりなのだ。
「い、いざ勝負。」
「ここから先は一歩も行かせぬ。」
弱る気持ちを奮い立たせて下っ端天狗たちは数で勝負だと切り込んでいった。
「足りないね。」
が、腕の一凪で吹っ飛ばされた。勇儀は盃を煽って取り囲む天狗たちの面を眺めていく。虎のような獰猛な目つきで面白そうな奴がいないか品定めをしているのだ。
「さあ、骨のあるやつはいないのかい。なら、勝ちはもらったよ。」
一方的な蹂躙が始まった。
「会って行かれないのですか。」
里の入り口で犬走は射命丸に問いかけた。もうすぐ、座敷牢に結界を張る。そうしたら戦いが終わるまで誰であっても丁の所へはいけないのだ。
「先日、頭を冷やすようにといったばかりですからね。日を置いたほうが良いでしょう。貴女も早く持ち場につきなさい。」
「しばらく会えませんよ。」
「私に同じことを言わせるつもりですか。」
射命丸は犬走にしっかり役目を果たすようにと厳命すると天魔たちがいる方向へ飛んで行った。犬走もそれに続いて自分の持ち場に駆けていった。
「白狼天狗は救護に回れ。鴉天狗は術を使って支援するのだ。」
鬼との戦いのは防戦一方だ。
敵は一人だけだというのに次々と投げ飛ばされる。
辺りに黒い羽根と白い毛が飛び散った。現場に駆け付けた射命丸も上空を漂いながら隙を狙っていた。
「おい、そこの天狗。高みの見物とは生意気だな、お前も降りてこい。」
倒す方法を思案していたら勇儀に目を付けられてしまったようだ。しかし、射命丸は降りるつもりはなかった。
彼女も腕っぷしにそれなりの自信はあるが鬼が相手となると上空という優位を簡単に捨てることは出来ない。
「お断りします。」
「そうか。」
射命丸は判断を間違えた。
「なら、こっちから行かせてもらう。」
鬼は飛ぶことは出来ないが、跳ぶことは出来るのだ。
あっけなくやられた。
「ああ、射命丸様が。」
天狗の中でも指折りの実力者である彼女が一撃で沈められ、場に危機感が増した。大天狗がいよいよ刀を構え始めたとき、一人が犬走に座敷牢の様子を千里眼で確認しろ、と命じた。言われるがままに能力を発揮させてみると入り口の白狼天狗が倒れている姿が浮かんだ。
「なっ。」
「どうした。」
「見張り役が倒れています!」
「何!鬼に気づかれないように今すぐ行け!」
返事をすると同時に犬走はその場を後にした。
「これは。」
犬走が駆け付けたところ、やはり見張り役の白狼天狗が気絶していた。混乱に乗じて他の妖怪が侵入したのかと急いで中に入る。
「丁、返事をしてください。」
もぬけの殻だった。
誰もいない座敷牢で犬走は嫌な予感がした。稽古で使っている木刀も見当たらないのだ。
「まさか、あの子。」
これほど当てが外れて欲しいと思ったことはなかった。
「ああ、無念。」
鬼の前では天狗は無力であった。あの大天狗でさえも敗れたとあっては勝ち目がほぼない。嵐が過ぎ去るのを待つように勇儀が満足するまで耐え忍ぶしかないのだ。
幸い術は完成した。後は鬼が諦めるまで生き延びればいいだけだ。
白と黒の斑の地面に叩き落とされた射命丸も、他の天狗と同じようにどう目を付けられないように立ち回るかと頭をまわし始めた時、鬼は天魔の首を絞めあげた。徐々に顔が真っ赤になっていく様子が遠目からも分かる。
「茶番は此処までだ。早く教えろ。」
「天魔様!」
悲鳴のような叫び声が上がった。
「待ってください。」
首が捻じり切られそうになったその間際、一人の少女が鬼の前に立ちはだかった。
「何だ、お前。」
鬼が少女に気づくと天狗たちは血の気の失った顔をさらに青白くさせた。
何故ここに居る、お前は座敷牢に閉じ込めておいたはず。
天狗たちが声にならないほど驚いている中、丁は静かに木刀を構えた。
「一対一の勝負をしてください。そして、私が勝ったら何もせず引いてください。」
やめろ、と誰かが声を上げるよりも先に鬼は口を開いた。
「そうか、お前が丁か。いい面構えだ、その気概は買ってやる。でも、そんな細腕でよく私に勝つなんて言えたな。天狗はお前が弱いから隠していたのではないか。」
獰猛な笑みをたたえて首を鳴らした。明らかな威嚇に丁は後ずさるどころか一歩踏み出した。そこにいたのはあの日天狗に拾われた今にも死にそうな赤子ではなかった。
「丁。やめてくれ。」
こんな非常時でさえなければ心から感動できただろう。ただ、子どもを鬼の前に出してしまった後では恥ずかしいだけだった。
「いいね。お前さん、鬼という種族は義に厚い種族なんだ。約束は守ろう。」
勇儀は先ほどの挑発じみた言葉ではなく、純粋な称賛を送った。
鬼は腰を落として拳を構えた。場に緊張が漂う。
「だが、手加減はしない。」
言うや否や勇儀の姿が揺らいだ。
カンカーンと木刀の乾いた音がする。瞬く間に丁と勇儀の立ち位置が変わった。
「上手く受け流したな。ただの棒っきれでよくやる。」
「木刀ですが真剣ですから。」
「そうか。なら、私は今の一撃で左手を失っていたな。」
手首が赤くなった左手をひらひらとさせている。丁は向かってくる拳をそらすと切り返して逆にその手を叩いたのだ。幼い頃、犬走に塞がれた小手先の技が今や鬼の手首を捕らえるほど昇華した。
「一度受けた勝負を投げ出すのは私の沽券にかかわるが、お前の剣をここで折るのは惜しい。なあ、ここは見逃すから数年後に改めて決着をつけるというのはどうだ。」
「他の方はどうなりますか。」
「そうだな。殺しはしないが落とし前を付けなければ気が済まない。まあ、鳥は羽を毟りとって犬は尻尾をもぐくらいで勘弁してやろう。」
命はとらないが天狗としての象徴を奪う。自尊心の高い天狗からすれば屈辱的な所業であった。だが、異を唱えられる者は鴉天狗にも白狼天狗のなかにもいなかった。
それでこの場が一時的にでも収まるのなら泥水をすする覚悟で差し出すつもりだった。命に代えられるものはこの世にないことを天狗たちはよく知っていた。少女は天狗達の胸に渦巻く感情に気づいていたが、無視した。
「やめなさい!今すぐ下がるんです。」
射命丸の顔はどのような感情のせいなのか青白かった。
「それはどういう意味だ。」
再び木刀を構えた丁を勇儀は大の男もすくみ上るような眼力で睨んだ。
「貴女の提案は受け入れられません。私は命を懸けて誇りを守る勝負を挑みます。」
「駄目です、丁。止しなさい。コレはお前が思うほど立派なものではないのですから。」
「射命丸様。」
目が合った射命丸は聞き入れてくれたと思った。
しかし、丁の答えは期待に反したものであった。
「貴女にとって羽根が大事であろうとなかろうと、それは今関係ありません。」
「え。」
天狗は傲慢な種族である。
「私が守りたいから守るんです。」
なら、天狗に育てられた人間も自然と傲慢になってしまうのも仕方がないことではないだろうか。
「この、身の程知らず!お前のような自惚れは知りません。とっととく、」
激高した射命丸は衝動のまま丁を罵ろうとした。だが、取り返しのつかない言葉を言いかけた辺りで我に返った。
「丁。今なら許してあげますから。早く、勇儀様に謝罪してこちらに来なさい。」
「嫌です。」
「そうですか。なら、もう知りません。」
もし、丁がこのとき振り返っていれば、自分を見つめる瞳の冷たさに考えを改めたかもしれない。しかし、未練を残すことはしなくなかったのか後ろを見ることはしなかった。
「いいのか。」
「私の望んだことです。」
言葉とは裏腹に丁は寂しそうに鬼に向かい合った。
「そうか。」
勇儀は慈情の念をはらんだ瞳で目の前の少女を見ていた。哀れに思わないでもないが、相手が勝負を望んでいるのに振り上げた拳を下ろすわけにはいかない。
「私はお前のような子は嫌いではないよ。お前を貶めた詫びと在りかたに敬意を表して天狗たちには一切手を出さないと約束しよう。」
だが、と区切ると履物を脱いで裸足になった。
「やるからには手を抜くつもりは毛頭ないぞ。」
丁の木刀を握る手が強くなる。
「私は山の四天王が一人。力の勇儀。人の子よ。名を何という。」
「私は丁。白狼天狗犬走師匠の一番弟子。」
それからお互いに口を開くことは無かった。決着は一撃でつく。初手が遅れた者の負けだ。
木枯らしに吹かれて一枚の枯れ葉が二人の間を通り過ぎたとき、湿った音が僅かにずれて二回辺りに響いた。
「私の負けだ。」
鬼の拳よりも丁の刀のほうが早かった。木刀は薄皮を切り裂き肉まで食い込んでいた。鬼の首から樫の木を伝った血が少女の手を赤く染めた。
「すまない。」
しかし、振りぬかれた勇儀のしなやかな逞しい手も腹をえぐり、少女の血で汚れていた。誰がどう見ても致命傷だった。
もしも、刀が本当の真剣であったならば鬼の拳は丁の身体に触れることさえできなかっただろう。勇儀が好む純粋な勝負とは、異なる要因が勝者に死をもたらし敗者を生き長らえさせた。
鬼は少女の耳に口を寄せると短く何かを囁いた。
少女は目を見開くと微かに微笑みを浮かべた。
やがて勇儀のほうにゆっくりともたれかかると垂れ下がった手から木刀が滑り落ち、二、三度跳ねて地面に転がった。
「丁。」
あっという間の出来事に、周囲の天狗は呆然とした。
鬼は穴を広げないように慎重に腕を引き抜くと優しく地面に寝かせた。乱れた襟を整えて側に転がった木刀を近くに置くと傍らにひざまずいた。それは勝者に送る無言の賛辞だった。
暫くして勇儀が立ち上がると射命丸はハッと我に返り、よろよろと丁に駆け寄った。辺りに漂う鉄臭い空気を羽ではらう。
「なんで。」
上着を脱いでまだ湯気の立つ穴に布を当てると瞬く間に真っ赤な布になった。
血がついた頬に手を当てて親指の腹でやさしく拭っても綺麗にならない。口角は微塵も動かず嬉しそうな照れた笑顔も浮かべない。
「なんで。」
覆いかぶさるように胸に顔を寄せてもあの心地よい鼓動が聞こえない。
「なんで逃げなかったの。」
悲鳴に近い声だった。五歩離れたところから勇儀は黙ってみていた。すすり泣く声がいたるところから聞こえてくる。
「応えてよ。」
やがて、他の場所で伏していた天狗や見張りのために散らばっていた天狗も集まってきた。そのうちの一人である犬走は目の前の光景をみて事の成り行きを悟った。
潤んだ視界の中、中心で丁に縋りつく射命丸に足を進める。
「丁、丁、起きて。」
髪を振り乱し、青白い顔で必死に肩ゆすって呼びかける様は目をそむけたくなるほど哀れだった。
「何で言う通りにしてくれなかったの。」
「射命丸様。」
「どうして私に逆らった!」
「射命丸様、もう」
止してください、とは言えなかった。自分の胸も痛いからだ。普段の傲岸不遜な振る舞いが嘘のような弱々しい姿に胸が詰まった。
「ごめん。」
自身も瀕死の状態であるにも関わらず亡骸に縋りついたまま離れようとしない射命丸の様子に危機感を抱いた数人の鴉天狗が、頭に鋭い一撃をくわえて医者のもとへ連れて行った。それはあの玩具屋の店主だった。
射命丸が仲間の鴉天狗に連れられて行ったあと、椛は徐々に冷えていく小さな手を両手で包み込んだ。
「強くなりましたね。」
自分よりもか弱い癖に一丁前に剣を握る小さくて硬い手だ。豆がつぶれるたびに痛いと泣いて、軟膏を塗ればしみると手を焼かされた手だ。
丁の泣き虫具合に嫌気がさして、もう稽古はつけないと脅せば健気にこらえたから結局認めざるを得なかった。
でも、こんなことになるなら許さなければよかった。
そうだ、あのとき認めなければよかった。問答無用で剣を取り上げてしまえばよかった。
大小さまざまな凸凹した傷跡を一つ一つ指先でなぞっていく。無数にあるその傷がいつできたものなのかすぐに思い出せるのは自分がずっと文句を言いながらも手当てしてきた証だ。
「お前が丁の師匠の犬走か。」
黙っていた勇儀が訊ねた。顔をあげるも冷たい手をさすりことは止めずに答える。犬走の心に勇儀を恨む気持ちはないが今は顔を合わせたくなかった。
「はい。私が剣の握り方から教えました。」
「そうか。いい腕前だった。」
勇儀はしみじみと感慨深げに呟いた。先程まで暴れていたのが嘘のような落ち着きぶりだった。
犬走には命知らずのことだが、どうしても聞きたいことがあった。
「その首の傷は丁がつけたのでしょうか。」
勇儀の首にはまだ血が滴っている、乾いていない真新しい傷があった。勇儀は愛おし気にその傷を撫でた。
「そうだ。私の首はあいつに奪われちまったよ。鬼退治の英雄が一人増えたな。」
「貴女様から見て丁はどうでしたか。」
「気持ちの良い人間だった。」
もはや涙はこらえきれなかった。控えめだが背中を震わせて蹲る犬走に、鬼は続けて話しかけた。
「私は決着がついた後、丁に言ったんだ。」
「なんと。」
嗚咽をこらえて聞き返した。
「お前を手に入れた天狗たちが羨ましいってね。」
「本人も喜んでいますよ。」
「そうだといいのだけどね。」鬼は立ち去った。
犬走の言葉通り、丁は死に際に鬼の言葉をちゃんと聞きとっていた。そして、その言葉は彼女の生涯において、この上ない賛辞だった。