南クリスタニアが朝焼けの薄明に包まれる頃、国境沿いの街の通りはまだ深い静寂の中にあった。
宴の熱気が嘘のように冷え切った宿の一室から、フィランヌは誰にも気づかれないよう、音もなく抜け出した。背負った旅人の荷嚢は、昨日までの大迷宮の探索に比べればひどく軽い。
彼女の外套の懐には、昨日グラントから手渡された「10万ゴールド分の為替手形」が収まっている。
10万ゴールドは、テューレという男の命をこの世に繋ぎ止めるために彼女が背負わせた、いわば二人の絆の証明――不自由な鎖そのものだった。それが昨夜、完全に清算されたのだ。
フィランヌは街の門をくぐり、地平線まで続く広大な荒野へと一歩を踏み出す。乾いた朝の風が、彼女の金の巻毛を優しく揺らした。
(これで、ようやく本来の目的に戻れるのね……)
フィランヌは自分に言い聞かせるように、一歩、また一歩と砂埃の舞う道を歩んだ。
彼女には果たすべき使命がある。帝国の苛烈な支配から解放された蟻人たちの移住地を探すという、孤独で過酷な旅路だ。知識神の神官として、また彼らを導く聖女として、彼女は再び荒野を行かねばならない。
だが、歩みを進めるほどに、あの大迷宮の深淵で、冷酷な笑みを浮かべたサリナが遺した毒のような言葉が、呪いのように耳の奥に蘇ってくる。
『貴女が彼に授けた借金という名の枷……それは彼にとって一生逃れられぬ重荷でしかない。そして、テューレ様が貴女という
(……ええ、そうよ。サリナ、あんたの言う通りだったのかもしれないわね)
フィランヌは自嘲気味に唇を噛んだ。
あの日、冷たくなったテューレを抱きしめ、法外な蘇生費用をふっかけてでも現世に引き留めたのは、自分のエゴだった。借金という鎖があったからこそ、あの情けない男は前を向き、戦士として、六人のリーダーとして必死に立ち上がることができた。
けれど、その鎖が消えた今、彼を縛るものは何もない。彼は自由になったのだ。自分を見上げる必要もなければ、窮屈な義務に付き合う必要もない。彼は、彼を心から慕うラトーナと共に、ふさわしい光の中へ進めばいい。
(これでよかったのよ。これが、一番正しい結末なんだから)
胸の中で何度も何度もその言葉を繰り返す。自分は聖女だ。他者の幸福を願い、自らの使命に生きる身だ。寂しさなど、最初から荒野に捨ててきたはずだった。
しかし――。
ふと足を止め、どこまでも平坦に続く地平線を見渡したとき、フィランヌは唐突に気づいてしまった。
見渡す限りの赤茶けた大地。遮るもののない広い空。その広大な世界の真ん中で、今、自分の周りには「本当に誰もいない」という冷厳な事実に。
つい昨日まで、隣には理不尽な借金に「ひえぇぇ!」と情けない悲鳴を上げる男がいた。さらにその隣には、彼を甘やかす美しい娘がいて、不器用な剣士がいて、お節介な精霊使いがいて、気障な蟻人がいた。怒号と笑い声が絶えなかったあの賑やかな旅路が、一瞬にして消え去り、耳が痛くなるほどの静寂だけが残されていた。
そう自覚した瞬間、フィランヌの胸の奥の防波堤が、音を立てて崩壊した。
今まで知識神の神官として、そして「冷徹な債権者」として必死に堰き止めていた底知れない寂しさと、彼らへの愛おしさが、制御不能な濁流となって溢れ出した。
「う……っ、あ、ああ……」
視界が激しく歪む。フィランヌは膝の力を失い、その場にへたり込んだ。砂埃まみれの地面に両手をつき、聖女としての外聞もプライドも、すべてをかなぐり捨て、まるで迷子になった子供のように、声を上げて大泣きし始めた。
「なによ……何なのよ、これ……ッ! 寂しいじゃないのよ……ッ!!」
涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、彼女は懐からあの10万ゴールドの手形を引っ張り出した。これさえあれば何でもできる、これこそが旅の成果だと誇っていたはずの紙切れが、今はただの忌々しい決別の証にしか見えなかった。
「こんなもの……! こんなもののために、あたしは……っ! あんなバカ、もう知らないわよぅ!!」
激しい感情のままに、フィランヌは10万ゴールドの為替手形を、荒野の地面へと叩きつけるように投げ捨てた。手形は乾いた風に煽られ、カサリと音を立てて砂の上を滑っていく。
――その時だった。
風に舞う手形を、上からすっと押さえる「手」が現れた。
その手は大きく引き締まり、幾多の死線を越えてきた戦士特有のタコが刻まれていた。そしてフィランヌの背後から呆れたような、けれどひどく優しく、聞き間違えるはずのない声を発した。
「あーあ、もったいない。あれほど厳しく取り立てておいて、捨てる時はあっさりしてるんだから」
フィランヌの心臓が跳ね上がり、嗚咽がピタリと止まった。ゆっくりと、恐る恐る涙に濡れた顔を持ち上げ、振り返る。
朝日の逆光を背負って立っていたのは――テューレだった。
そしてその背後には、ラトーナ、レオン、ミーア、ドルドムントが、当然のような顔をして勢揃いしている。
「あんたら……っ、 何なのよ......! なんで、ここに……!」
涙を拭うことも忘れ、唖然とするフィランヌの前で、テューレが一歩前に出た。その顔には、いつも自分に怯えていた情けないマスコットの面影はなかった。背筋を真っ直ぐに伸ばし、大迷宮の深淵で仲間を率いたリーダーとしての、誇り高い一本の芯が通っていた。
テューレは拾い上げた手形をフィランヌに見せると、いつものトホホな口調を完全に捨て去り、一人称を「私」に変え、まるで高潔な騎士のような凛とした声音で語りかけた。
「フィランヌ。借金という鎖がなくなった今、私はもう、あなたを見上げるだけの債務者ではありません。これからは私自身の意志で、あなたの崇高な目的――蟻人の移住地を探す旅を助けるために、共に冒険を続けたいのです」
「テューレ……あんた……」
フィランヌは唖然として彼を見上げた。金で繋がっていた不自由な関係は終わった。だからこそ、今度は自分の足で、自分の意志で彼女の隣に並び立つ。その真っ直ぐな決意の光が、テューレの瞳の奥で力強く輝いていた。
唖然とするフィランヌの傍らへ、今度はラトーナが歩み寄った。彼女はいつもの新妻のような朗らかな微笑みを湛えながらも、その美しい瞳には揺るぎない確信と自立の光が宿っていた。
「フィランヌ様、そのうちにまた、アンバースさんたち本来の仲間とも合流するのでしょう? だったら、フィランヌ様をリーダーとするパーティと、テューレ様をリーダーとする私たちのパーティ、この二組で探索すれば、効率も二倍になりますからね」
ラトーナはそう言って、テューレの背中を愛おしそうに見つめた。サリナはかつて、フィランヌという光がある限りラトーナの恋心は報われないと断言した。
確かに客観的に見れば、今のテューレはフィランヌのことばかりを追いかけていて、自分の存在など完全に無視されているようにも映るだろう。けれど、ラトーナの胸にあるのはそんな焦りではなかった。今はどれほど遠回りをしたとしても、最終的には絶対にあこがれの人の隣を勝ち取って、共に黄金峡に帰ってみせる――そんな揺るぎない強さと誇りをもって、彼女はサリナの呪いを完全に笑い飛ばしてみせたのだ。
「素晴らしい」
ドルドムントが、優雅にシルクハットに手を当てて触角を揺らした。
「噂に聞く、私と同じ神獣の部族でありながらスカウトに弟子入りしたというアンバース殿……ぜひ、どちらの探索技術が上か、ウデマエ比べをしたいものですな」
「まったく、置いていこうだなんて水臭いわよ、フィランヌ」
ミーアが腰に手を当てて歩み出て、悪戯っぽくウィンクを飛ばした。
「また二人っきりになった時に、楽しいお話をするんじゃなかったの? あたし、まだまだ話し足りないことがたくさんあるんだからね」
最後に控えていたレオンが、魔剣の柄に手をかけ、生真面目な表情を崩さないまま、不敵な笑みを浮かべる。
「俺はあの時、大迷宮で
仲間たちの口から次々と紡がれる言葉が、荒野の冷たい風をまたたく間に熱く塗り替えていく。独りぼっちの寂しさなど、最初からこの場所には存在しなかったのだと、彼らの笑顔が証明していた。
フィランヌはあきれ顔をした後、ふっと鼻で笑った。
両手の平で、ゴシゴシと乱暴に涙と鼻水を拭い去る。顔を真っ赤に腫らしたまま、けれどその瞳には、誰よりも頼もしく、誰よりも不敵な「彼女本来の輝き」が完璧に戻っていた。
「……フン、あんたたち全員、あたしがいないと何もできないただのバカなんだから! 泣きつかれたら断れないじゃないのよ!」
フィランヌは勢いよく立ち上がると、金髪をさらりと翻し、地平線の先にある未知の荒野へと右腕を突き上げた。
「ようし! じゃあ……出発よ!!」
朝焼けの空に、彼女の力強い号令が響き渡る。ラトーナが嬉そうに頷き、レオンとミーアが顔を見合わせ、ドルドムントが歩き出す。誰もがその背中に続く中――。
力強く先頭を歩くフィランヌの後ろ姿を見ながら、テューレがいつもの「トホホ」とした表情に戻り、おどけた素の口調で頭を抱えた。
「あれ? 対等になったんじゃなかったっけ? なんかまたフィランヌにリーダーの座を奪われてる気がするんだけど……?」
テューレの情けない悲鳴に、仲間たちの抑えきれない笑い声が重なる。
迷宮の伝説は消え去り、不自由な鎖ももうない。あるのは、自分たちの意志で選び取った、新たな未来への足跡だけだ。
国境の荒野を、六人の勇者たちの賑やかな足音が、力強く踏みしめていった。
彼らの旅はこれからも続いていく。しかし、固い絆で結ばれた彼ら六人の『迷宮伝説』は、ここで確かに完結したのだった。
「黄金伝説クリスタニア」のあとがきより、少々長いのですが引用します。
『黄金伝説クリスタニア』は終わりますが、クリスタニアは終わりはしません。たとえば、この事件が解決したあとも、テューレの冒険はまだまだ続いているのです。
仲間たちはいちおう解散しました。
メモリーは牙の部族に帰り、望みどおり怠けていることでしょう(彼女がいつもそうしていられる世界でありますように!)。
グラントは古の神の教団に戻り、そして教団の方針に従って、ダナーンの地にはじめて建てられた古の神々を祭る神殿の司祭となりました(すべては求めるからこそ、かなえられるものなのです)。
残る三人――冒険を求めてやまぬミーアさんと、義賊(ぎぞく)にして蟻族(ぎぞく)のドルドムントは、テューレと一緒に南へ旅立ちます(あくまで、仮のリーダーです)。あ、そうそう、彼らの一行に、ひとりの女性ソーサラーが加わったことも報告しておきましょう。
彼らの旅の目的? そうですね、今度こそテューレの「借金」を返すためだと言っておきましょうか(リーダーの頭についていた仮の文字は結局、返上できませんでしたけどね)。
この冒険の模様は、残念ながらお伝えできません。でも、ボクたちはこの世界で遊び続けます。その理由はたったひとつ。ボクたちはクリスタニアが、RPGが大好きだからです。皆さんも、この素晴らしい世界と末永くお付き合いください。
美辞麗句に満ちてはいますが、「この冒険の模様は、残念ながらお伝えできません。」というのが全てでしょう。つまり、この後どうなったか、誰も書く気がないのです。
そこで、「誰も書かないんだったら、俺が書いてやる!」と思ったのが、この「迷宮伝説クリスタニア」を書こうと思ったきっかけです。そのため、クリスタニア正史としても通用するようなお話を目指したつもりです。
その目的が達成されたかどうかは、疑わしいかもしれませんが――少なくともボクは、今後も「この素晴らしい世界と末永くお付き合い」していくつもりです。
それでは皆様、縁がありましたら次回作「天峡伝説クリスタニア」でお会いしましょう。長らくのご愛読、ありがとうございました!