長江の古狼 ―― 孫呉異聞 作:無いなら作ればええねん
百本目の場所を決めるのに、三月かかった。九十九本まで来たのが、その年の春だった。そこから先が進まなかった。理由は単純で、条件の揃う村が残っていなかったからだ。
番人になれる者が三人いること。薪の林が近いこと。水が近いこと。隣の村と仲がいいこと。逃げ込む山があること。五つのうち三つ揃えば置く、と決めていた。残った村は、どこも二つしか揃わない。
俺は舟で上流を回り、下流を回り、それでも決まらなかった。三月目に、亞莎が口を挟んだ。この娘は、俺の帳面の写しを取る仕事のかたわら、九十九本の記録を全部頭に入れていた。
「隊長。一つ、気になっていることがあります」
「言え」
「九十九本のうち、番人が三人いない村が、十一あります」
俺はその指摘に、しばらく黙った。黙ってから、帳面を繰った。繰って、確かめた。確かに十一ある。
「……置いたときは、三人いた」
「はい。ですが、今はいません。死んだか、里へ移ったかです」
亞莎はそう答えて、自分の写しをめくった。
「一番少ないところは、一人です。……上流の、七十三本目の村です」
俺はその村を思い出した。二年前に置いた。丘の見通しがよくて、薪の林が近かった。番人になれる年寄りが三人いると聞いて、そこに決めた。
「……その一人は、いくつだ」
「六十四です」
俺はその数を聞いて、少し息を詰めた。六十四で一人だ。病めば消える。
「――置く場所を探すのをやめる」
「え?」
「百本目は、あとでいい。……先に、減っているところを直す」
俺は帳面を閉じた。
「増やすことばかり考えていた。……減っていることを、俺は数えていなかった」
十一の村を回るのに、二月かかった。回ってみて、事情はさまざまだった。番人が死んで、代わりがいない村。若い者が城下へ働きに出て、年寄りしか残っていない村。隣の村と揉めて、火を上げても誰も来なくなった村。
一番厄介だったのは、番人が三人いるのに、三人とも「もうやりたくない」と言った村だった。理由を聞くのに、丸一日かかった。飯を食って、去年何が穫れたかを聞いて、それから聞いた。返ってきた答えは、こうだった。
「……去年、火を上げた。二度上げた。二度とも、賊ではなかった」
「――間違えたか」
「間違えた。一度目は、山火事の煙を見間違えた。二度目は、夜に舟の灯りを見間違えた」
年寄りはそう答えて、少し目を伏せた。
「二度とも、下の村から人が来た。舟が三艘来た。……来て、何もなかった」
俺はその話を聞いて、腹の底が少し重くなった。
「……それで、責められたか」
「責められとらん」
年寄りは首を振った。
「誰も責めん。来た連中は、笑って帰った。『間違いなら、それが一番いい』と言うとった」
「では、なぜやめる」
「笑われるほうが、こたえるんじゃ」
俺はその答えに、返す言葉を持たなかった。持たないまま、しばらく黙っていた。黙ってから、こう聞いた。
「……三度目を、上げられんか」
「上げられん」
「なぜだ」
「三度目も間違えたら、次は誰も来んからじゃ」
年寄りはそう答えて、手元を見た。
「わしが間違えたせいで、本当に賊が来たときに誰も来んようになったら、それは、わしが村を殺したことになる」
俺はその理屈を、しばらく考えていた。考えて、こう答えた。
「――間違えていい」
「……なんじゃと」
「間違えていい。……というより、間違えるようにできている」
俺は帳面を開いた。十二年分の記録がある。
「二十三本あった頃、一年に十七度火が上がった。そのうち、本当に賊が来たのは六度だ。……十一度は間違いだった」
年寄りが顔を上げた。
「……そんなに間違えとったのか」
「間違えていた。……今でも同じだ。去年、九十九本で七十三度上がった。賊が来たのは二十一度だ」
俺はその頁を指した。
「五十二度、間違えている」
年寄りは、その数字をしばらく見ていた。読めるかどうかはわからない。だが、数字の並びは見ていた。
「……みんな、間違えとるんじゃな」
「間違えている」
「……そうか」
この人はそう言って、少し肩の力を抜いた。
「わしは、うちだけかと思うとった」
俺はその一言で、自分の落ち度に気づいた。十二年間、俺は間違いの数を数えていた。数えていたが、誰にも言っていなかった。
言っていなかったので、この村は自分だけが間違えていると思っていた。
「……すまん」
「なぜ謝る」
「数えていて、言わなかった」
俺は帳面を閉じた。
「今年から、間違いの数も配る。……どの村が何度間違えたかではなく、全部でいくつ間違えたかを配る」
その手は、思ったより効いた。十一の村を回りながら、俺は同じ話をした。全部で五十二度間違えている、と。どの村もみな間違えている、と。
三つの村で、やめると言っていた番人が続けると言い直した。
残り八つは、人が足りない。そこは、うちから出すことにした。名簿から、村の出身者を拾って、番人として戻す。軍籍は残したまま出す。
出した者には、一つだけ言った。
「間違えていい。……間違えた数は、俺が数える」
十一の村を直し終わって江東へ戻ると、公瑾どのが妙な顔をした。
「……二月で十一ですか」
「十一だ」
「百本目は」
「まだ決めていない」
この人は湯呑みを回して、しばらく黙っていた。
「楚航どの。あなた、百本を諦めましたか」
「諦めていない」
「では、なぜ後回しに」
「増やしても、後ろから減るからだ」
俺は帳面を開いた。
「九十九本のうち十一が弱っていた。直すのに二月かかった。……放っておけば、来年は十五になる。増やす速さより、減る速さのほうが速い」
公瑾どのは、その説明を聞いて湯呑みを置いた。
「……それ、軍でも同じですね」
「同じだ」
「兵を集めることばかり考えて、いる兵を数えていない。……よくあることです」
この人はそう言って、少し目を細めた。
「では、百本目はいつ立てますか」
「わからん」
「わからん、では困ります」
「――なぜだ」
「雪蓮が待っているからです」
俺はその答えに、少し驚いた。
「……待っているのか」
「待っています。三月前から、毎日聞かれます。『今日は何本になった』と」
公瑾どのは、そこで少し笑った。
「九十九で止まっているのが、あの子には堪えるようですよ」
百本目の場所が決まったのは、その年の秋だった。決めたのは、俺ではない。上流の外れに、四十戸ほどの小さな村がある。人が少なすぎるので、ずっと後回しにしていた場所だ。
その村から、使いが来た。年寄りが二人、歩いてきた。三日かかったという。
「……烽火を、置いてもらえんか」
俺はその申し出に、少し面食らった。
「――こちらから頼むものだと思っていた」
「頼まれるのを待っとったんじゃ」
年寄りの一人がそう答えて、少し笑った。
「じゃが、いつまでも来ん。……こちらから来た」
「あんたの村は、四十戸だろう。番人が三人おるか」
「おる」
「薪は」
「ある。林が裏じゃ」
「水は」
「ある」
「隣の村とは」
「仲がよい。……去年、水争いで一度揉めたが、話をつけた」
俺はその答えを、一つずつ帳面に書いた。書きながら、五つ揃っているのに気づいた。
「……逃げ込む山は」
「ある。裏の林の奥じゃ」
五つ揃っていた。俺は帳面を閉じて、この二人を見た。
「――なぜ、今来た」
「去年から話しとった」
年寄りはそう答えた。
「村で話しとった。烽火を置いてもらおうか、と。……じゃが、うちは四十戸しかない。百本近くあるのに、うちみたいな小さい村に置いてくれるかどうか、わからんかった」
「それで、待っていたのか」
「待っとった。……じゃが、今年、うちの下の村に置かれたじゃろう。あそこは三十二戸じゃ。うちより小さい」
この人はそう言って、少し胸を張った。
「うちより小さい村に置いたなら、うちにも置けるはずじゃ。……そう思うて、来た」
俺はその理屈に、思わず笑った。笑ってから、こう答えた。
「――置く」
「よいのか」
「置く。……ただし、一つ言っておく」
俺は指を一本立てた。
「あんたの村が百本目だ」
年寄り二人は、その言葉の意味を、しばらく飲み込めなかったらしい。顔を見合わせて、それからもう一度俺を見た。
「……百本目」
「百本目だ。十二年かけて、九十九本まで来た。……あんたの村で、百になる」
この二人は、そこでしばらく何も言わなかった。言わないまま、また顔を見合わせた。それから、片方がぽつりと言った。
「……えらいことになったのう」
百本目に火を入れる日は、半月後と決まった。薪を積むのに十日かかるからだ。積むのは、俺の隊がやることになっていた。だが、その話を聞いた小蓮さまが、自分も行くと言い出した。言い出したら、なぜか全員が行くことになった。
当日、その村に着いたとき、俺は少し困った。四十戸の村に、こちらが五十人近く押しかけている。雪蓮さま、蓮華さま、小蓮さま、公瑾どの、祭どの、思春、明命、穏どの、亞莎。それに隊の者が四十人。
村の者が、明らかに萎縮していた。
「……薪を積むだけだぞ」
俺がそう言うと、小蓮さまが平然と答えた。
「積むだけだから、来たんだよ」
「五十人も要らん」
「多いほうが早いでしょ」
確かに早かった。半日で積み終わった。十日かかると言われていたものが、半日で終わった。
終わってから、全員で高さを測った。測ったのは蓮華さまだ。この人は、背の高さを基準にして、自分の背の何倍かで測っていた。
「……私の一・八倍です」
「足りるか」
「足ります。九十九本目と同じ高さです」
「よく覚えているな」
「覚えています。全部の高さを書いてありますから」
俺はその答えに、少し呆れた。呆れていると、祭どのが薪の山を蹴った。蹴って、崩れないのを確かめてから、こう言った。
「……若い者は積み方が雑じゃ」
「崩れんだろう」
「崩れん。じゃが、風が入っとらん。……これでは、煙の出が悪い」
この人はそう言って、山の下のほうから何本か引き抜いた。引き抜いて、隙間を作った。
「火は、下から空気が入らんと燃えん。……湿った薪を混ぜるなら、なおさらじゃ」
俺はその手つきを見ていて、一つ気づいた。
「……祭どの。あんた、烽火を積んだことがあるのか」
「あるとも」
この人はあっさり答えた。
「長沙でな。文台さまの代じゃ。……あんたが来る前から、あそこには烽火があった」
「――知らなかった」
「知らんじゃろう。あんたが来たときには、もう使うとらんかったからな」
祭どのはそう言って、手についた木屑を払った。
「廃れたんじゃ。……番人がおらんようになって、誰も直さんかった」
俺はその話に、しばらく黙っていた。黙ってから、こう聞いた。
「……何本あった」
「十四本じゃ」
「いつ廃れた」
「わしが二十五、六の頃じゃな。……三十年前か」
この人はそう答えて、薪の山を見上げた。
「三十年で、十四が百になったわけじゃ。……あんたのおかげではないぞ。時代が変わっただけじゃ」
「そうか」
「そうじゃ。……じゃが、まあ」
祭どのはそこで少し言葉を切った。
「十四を百にしたのは、あんたじゃな」
火を入れたのは、日が傾いてからだった。俺は、村の年寄りに火を渡そうとした。だが、その年寄りは首を振った。
「あんたが焚きなされ」
「――俺は、この村の者ではない」
「知っとる。じゃが、百本目じゃろう。うちの村は、たまたま百本目じゃっただけじゃ」
この人はそう言って、笑った。
「わしらの火は、明日から焚く。今日はあんたの日じゃ」
俺はしばらく突っ立っていた。突っ立ってから、火を受け取った。薪に火を入れると、白い煙が上がった。湿った薪を混ぜてあるので、煙がよく出る。十二年前、俺が最初に覚えた工夫だ。
煙は、真っ直ぐ上がった。しばらくすると、下流の村から煙が上がった。その次からも上がった。
俺たちは、村の外れの高いところに立って、それを見ていた。九十九、九十八、九十七――と、下流へ向かって順に消えていく数を、小蓮さまが数えていた。
「……ぜんぶ、ついた」
この子は、途中から声が小さくなっていた。
「そこう。ぜんぶ、ついたよ」
「ついたな」
「……ひゃっぽん」
「百本だ」
俺はその煙の列を見ていた。
十二年前、俺は一人だった。村を二月かけて回って、五つ断られて、六つ目でようやく頷いてもらった。番人の年寄りが二人死んだ。十年で六つまで減った。
その六つが、今は百になっている。隣で、祭どのが言った。
「……文台さまに見せたかったのう」
俺は答えなかった。答えられなかった。しばらくして、雪蓮さまが口を開いた。
「見てるわよ」
「そうかのう」
「見てるわ。……見てないなら、こっちで勝手に見せたことにしましょ」
その言い方に、祭どのが笑った。
「……そうじゃな。そういうことにしとくか」
俺は煙を見ていた。あの日、川岸で煙を見て落ち着かなかった男が、十二年経って、百本の煙を見ている。落ち着かなくは、なかった。
ただ、少しだけ、泣きそうだった。
「――灘」
雪蓮さまが横から言った。
「泣かないの」
「泣かん」
「泣いていいのよ」
「泣かん」
「もう。あなた、いつもそれね」
この人はそう言って笑った。それから、小さな声で付け加えた。
「……でも、今日はちょっと待ってあげる」
俺はそのあと半刻ほど、そこに立っていた。誰も、急かさなかった。その夜、村で酒が出た。
四十戸の村が出せる量は知れている。五十人で分けたので、一人あたり一口ずつだった。それでも、誰も文句を言わなかった。
俺は、村の外れに座って煙の跡を見ていた。火はもう落としてある。足音がして、雪蓮さまが来た。この人は、俺の隣に腰を下ろして、しばらく黙っていた。
「……ねえ、灘」
「なんだ」
「私、覚えてることがあるの」
「なんだ」
「十二年前。あなたが、川岸で煙を見てたときのこと」
俺はその言葉に、少し顔を上げた。
「――見ていたか」
「見てたわ」
この人はそう答えて、膝を抱えた。
「あのとき、私、あなたに聞いたのよ。嬉しくないの、って。……そしたら、あなた、こう言ったの。『俺がいなくても回る』って」
「……言ったな」
「覚えてるのね」
「覚えている」
俺は煙の跡を見た。
「あのとき、村が初めて自分たちで賊を追い払った。俺の隊は間に合わなかった。……間に合わなくても、村が助かった」
「それが、嬉しくなかったのね」
「嬉しかった」
俺は正直に答えた。
「嬉しかったが、落ち着かなかった。……自分が要らなくなった気がした」
雪蓮さまは、しばらく黙っていた。黙ってから、こう聞いた。
「……今は?」
俺はその質問に、すぐには答えなかった。答えなかったのは、答えがわかっていたからだ。わかっていたが、言葉にするのに時間がかかった。
「……今は、落ち着いている」
「なんで」
「百本あるからだ」
俺は煙の跡を指した。
「百本のうち、俺が見ているのは、たぶん二十本くらいだ。……残りは、誰かが見ている。亞莎が記録をつけて、蓮華さまが数を持って、小蓮さまが風を読む。番人が二百人以上いる」
「……」
「俺がいなくなっても、百本は上がる。……それが、落ち着く」
雪蓮さまは、その答えにしばらく黙っていた。黙ってから、小さくこう言った。
「……ずるいわ」
「――なぜだ」
「私、そういう話を聞きに来たんじゃないもの」
この人はそう言って、膝に顎を乗せた。
「……ねえ、灘。前に言ったこと、覚えてる?」
「……どれだ」
「三年待つって言ったでしょ」
俺はその言葉に、少し身構えた。覚えていた。小蓮さまの初陣の夜だ。あんたが自分で気づくのを三年待つ、三年経っても気づかなかったら私から言う、と言われた。
あれから、二年が経っている。
「……覚えている」
「一年早いけど、言うわ」
雪蓮さまはそう言って、こちらを見た。俺は身構えたが、何を言われるかは、まだわかっていなかった。
「私、あなたのことが好きよ」
しばらく、俺は何も言えなかった。言葉の意味はわかった。わかったが、それが自分に向けられているという実感が、遅れて来た。
「……灘?」
「――待ってくれ」
「待たない」
この人ははっきりと言った。
「二年待ったの。その前もずっと待ってた。……もう待たない」
俺は膝の上で手を握ったまま、動けずにいた。
「あなた、たぶん今、断る理由を三つくらい考えてるでしょ」
「……四つだ」
「四つもあるの」
「ある」
「言ってみて」
俺はしばらく言葉を選んだ。
「一つ。俺は三十八だ。あんたは二十七だ」
「知ってるわ」
「二つ。あんたは王で、俺は家臣だ」
「それも知ってる」
「三つ」
俺はそこで少し詰まった。
「――俺は、あんたが十四のときから知っている」
雪蓮さまは答えなかった。
「あんたが舟に乗せろと言って、俺が三つ条件を出した。手のひらを破りながら櫓を押した。……あれから十三年だ。その俺が、あんたをそういう目で見るのは」
「見てるの?」
「――なんだ」
「あなた、私をそういう目で見てるの?」
俺は答えられなかった。答えられなかったこと自体が、答えだった。雪蓮さまは、そこで少しだけ笑った。
「……よかった」
「よくない」
「よくないの?」
「よくない。……俺は、あんたが子供だった頃を知っている。それを知っている男が、今のあんたをそう見るのは、俺はずっと、それは違うと思っていた」
俺はそこまで言って、煙の跡のほうを見た。
「四つ目は」
「……脚だ」
「俺は走れん。右肩は雨の日に上がらん。朝は腰が固まる。……あんたより十年早く、動けなくなる」
しばらく、雪蓮さまは何も言わなかった。やがて、この人は立ち上がった。そして、俺の正面に来て、座り直した。近かった。
「――灘。私、一つずつ返すわ」
「……」
「一つ目。年よ。あなたは三十八で、私は二十七。それが何?」
この人はまっすぐ俺を見ていた。
「うちの兵で、十歳違いの夫婦なんて掃いて捨てるほどいるわ。誰も気にしてない。……気にしてるの、あなただけよ」
「――だが」
「まだ終わってない。二つ目」
雪蓮さまは指を立てた。
「私が王で、あなたが家臣。……これは、確かに問題があるわ」
「そうだろう」
「でも、それは私の問題なの。あなたの問題じゃない」
「……どういう意味だ」
「私が王だから、あなたが断れないんじゃないかって、あなたは心配してるでしょ」
俺は口を閉じた。その通りだった。四つのうち、一番言いにくかったのがそれだ。
「だから、先に言っておくわ」
この人ははっきりと言った。
「あなたが断っても、私は何もしないわ。あなたの隊も、あなたの烽火も、あなたの立場も、一つも変わらない。……明日も普通に軍議をするし、私は普通にあなたに仕事を頼む」
「……」
「それでも断りにくいなら、私が悪いわ。でも、そこは信じてほしいの」
俺はその言葉を、しばらく胸の中で転がした。この人は、俺が一番引っかかるところを、正確に潰しに来ていた。二年、たぶんそれを考えていた。
「三つ目」
雪蓮さまは続けた。
「あなたが私の十四の頃を知ってること。……あのね、灘。私、あなたに一度も『子供扱いされた』って思ったことないの」
俺は顔を上げた。
「あなた、十四の私に条件を三つ出したでしょ。舟から立つな、母様に話を通す、乗るなら漕げ。……あれ、大人に出す条件よ」
「……そうか」
「そうよ。母様は私を殴った。冥琳は私を子供扱いした。祭は私を可愛がった。……あなただけ、最初から取引をしたの」
この人は少し声を落とした。
「私、それがずっと嬉しかった。……だから、あなたが私の十四を知ってるのは、私にとっては減点じゃないの。むしろ、そこが一番大きいのよ」
俺は返す言葉を持たなかった。
「四つ目」
雪蓮さまはそこで少し黙った。それから、俺の左脚のほうへ目をやった。
「……脚ね。これは、返すのが一番簡単よ」
「――簡単か」
「簡単よ」
この人はこちらを見た。
「その脚、母様を庇って潰したんでしょ」
俺は答えられなかった。
「私、その脚を見るたびに思うのよ。ああ、この人は母様に覆いかぶさったんだって。……十一年間、毎回思ってる」
雪蓮さまはそこで手を伸ばして、俺の左脚の、膝の少し下に触れた。触れられて、俺は少し身を固くした。この脚に人が触れるのは、医者以外では初めてだった。
「――だから、私はこの脚が好きなの」
「……」
「動かないから困る、なんて言わせないわ。私、この脚が動かないことに、十一年助けられてきたんだから」
俺はその言葉に、何かが崩れるのを感じた。十一年間、俺はこの脚を恥じていた。走れないこと、跳べないこと、先頭に立てないこと。若い連中が舷から舷へ跳ぶのを見るたびに、腹の底で何かがざらついた。
その脚を、この人は十一年見ていた。見て、別のものを思っていた。
「……雪蓮さま。俺は、あんたに何も返せん」
「俺は三十八だ。あと十年もすれば、たぶん舟にも乗れなくなる。そうなったら、俺はただの帳面をつける男になる」
「そうね」
「あんたは王だ。もっと若くて、もっと役に立つ相手がいくらでもいる」
「いるでしょうね」
雪蓮さまはあっさりと言った。
「でも、私が欲しいのはあなたなの」
その言い方があまりに単純だったので、俺は何も言えなくなった。
「……ねえ、灘。私、王よ」
「知っている」
「王って、欲しいものを言っていい立場なの」
この人はそう言って、少し笑った。
「他のことは全部、我慢してるわ。母様の仇も待ってる。江東を取るのに何年もかかった。袁術に頭を下げるのに何年も。……そういうのは、全部我慢した」
「……」
「だから、一つくらい、欲しいって言わせてよ」
俺はしばらく黙っていた。黙って、この人の顔を見ていた。二十七だった。俺が初めて会ったとき、この人は十四だった。仁王立ちになって、母親に「私も行く」と喚いていた。
あれから十三年、俺はずっとこの人を見てきた。
北から帰って人を斬った話をしたとき。母を喪って泣けなかったとき。館の二年。江東へ発った日。百本目の烽火。
全部、覚えていた。覚えているのは、たぶん、そういうことだった。
「――雪蓮さま。俺は、たぶん、あんたが思っているより前から」
言いかけて、俺はそこで詰まった。自分でも、いつからかがわからなかった。雪蓮さまは待っていた。急かさなかった。
「……いつからか、わからん」
俺は正直に言った。
「気づいたのは、たぶん、あんたが飯を食いに来なくなった日だ。……三日来なかったことがある。あの三日、俺は粥を二人分作った」
「……作ったの?」
「作った。三日ともだ。……作ってから気づいた」
雪蓮さまは、その答えにしばらく黙っていた。黙ってから、両手で顔を覆った。
「……遅いわよ」
「遅い」
「本当に遅い」
「……すまん」
「謝らないで」
この人はそう言って、俺の手を取った。俺の手は櫓と刀で潰れていて、指の関節が太い。この人の手も、実はそう変わらない。二十七の王の手は、俺が思っていたよりずっと硬かった。
「……灘。返事は」
俺はその手を握り返した。
「――受ける」
雪蓮さまは、しばらく動かなかった。それから、ふっと肩の力を抜いて、俺の胸に額を押しつけた。
「……よかった」
「……」
「私、断られたら、明日から普通に軍議できるかなって、それだけが心配だったの」
「できるだろう。あんたなら」
「できないわよ。三日は寝込むわ」
この人は俺の胸に顔を埋めたまま、そう言った。しばらく、二人ともそのままでいた。俺はこの人の背中に手を置いた。置いてから、どうしていいかわからなくなった。
「……あなた、緊張してる?」
「している」
「即答ね」
「即答した」
「かわいいところあるじゃない」
「三十八の男に言う言葉ではない」
「言うわよ」
雪蓮さまは顔を上げた。近かった。俺はそこでようやく、この人の目が濡れていることに気づいた。
「……泣いているのか」
「泣いてないわ」
「泣いている」
「泣いてない。……ちょっと目が汗をかいてるだけ」
「それは泣いていると言う」
「言わないの」
この人はそう言って、俺の襟を掴んだ。掴んで、引き寄せた。あとのことを、俺は上手く書けない。
書けないというより、書き方を知らない。俺は帳面をつける男で、記録の書き方しか知らない。何人出て、何人帰ったかを書く書き方しか知らない。
だから、覚えていることだけを書く。この人の手が、思っていたより硬かったこと。髪をほどいたら、思っていたより長かったこと。
俺の脇腹の傷跡――十五年前、四十人を助けに行ったときのものだ――を、この人が指でなぞったこと。なぞって、「これ、いつの」と聞いたこと。俺が答えたら、「知らなかった」と言ったこと。
左脚の、膝から下の歪みに触れたとき、この人が一度手を止めたこと。止めて、それから何も言わずに続けたこと。俺が、途中で一度、動きを止めてしまったこと。
三十八の体は、思っているようには動かない。特に、左脚が要る動きは、まるで駄目だった。俺は自分でそれに苛立って、しばらく動けなくなった。
そのとき、この人が笑ったこと。馬鹿にする笑い方ではなかった。
「……いいのよ、そんなの」
そう言って、俺の顔を両手で挟んだこと。
「あなた、いつもそう。全部自分でやろうとするの」
「……」
「二人でやるのよ。そういうのは」
その言い方があまりに当たり前だったので、俺の力が抜けたこと。抜けたら、あとは、なんとかなったこと。この人が、途中で一度、俺の名前を呼んだこと。
真名のほうを、呼んだこと。その声を、俺はたぶん、一生忘れない。夜が更けてから、俺たちは並んで横になっていた。
村の外れの小屋だ。百本目の薪を積むあいだ、俺たちが寝泊まりに使っていた場所だった。板の隙間から、月の明かりが少し入っていた。
「……ねえ、灘。私、ずっと考えてたことがあるの」
「なんだ」
「あなた、母様に真名を渡さなかったでしょ」
俺は少し驚いた。
「……知っていたのか」
「知ってるわ。母様が言ってたもの。『あいつ、真名を教えねぇんだよな』って」
「……」
「なんで教えなかったの」
俺は天井を見ながら、しばらく考えた。
「――教える機会がなかった」
「嘘」
「……嘘だ」
俺は言い直した。
「あの人は、俺の主君だった。……主君に真名を渡すと、それは忠誠の証になる。俺は、それが嫌だった」
「嫌?」
「あの人についていったのは、忠誠ではなかった。……あの日、焼け跡で、あの人が柵のほうへ走った俺を見て『気に入った』と言った。それだけだ」
俺は天井を見ていた。
「主君と家臣になる前に、あの人と俺は、川で会った二人だった。……真名を渡すと、それが上下になる気がした」
雪蓮さまはしばらく黙っていた。
「……そう」
「今から思えば、渡しておけばよかった」
「そんなことないわよ」
この人はあっさりと言った。
「母様、たぶんわかってたわ。だから『教えねぇんだよな』って笑ってたのよ。……あの人、そういうの気づく人だもの」
俺はその言葉に、少し救われた。
「……ねえ、灘。私が最初だったのよね。真名」
「……母を除けば」
「じゃあ、私が最初ね」
この人は俺の肩に頭を乗せた。
「私、それがずっと自慢だったの。十六のとき、あなたが『灘という』って言ったでしょ。あのとき、私、しばらく声が出なかったのよ」
「そうだったか」
「そうよ。……気づいてなかったの?」
「気づいていなかった」
「もう」
雪蓮さまは笑った。それから、少し真面目な声になった。
「……灘。明日から、どうする?」
「――どう、とは」
「隠す? 言う?」
俺は少し考えた。
「……隠せると思うか」
「思わない」
「即答だな」
「即答よ。冥琳なんて、三日で気づくわ。……ううん、明日で気づく」
「祭どのは、たぶんもう気づいている」
「え?」
「昨日、薪を積みながら言われた。『今日は飲まんほうがよかろう』と」
雪蓮さまが、がばりと起き上がった。
「祭、あの人! 私、何も言ってないのに!」
「五十四だそうだ」
「関係ないでしょ!」
この人はしばらく憤慨していた。それから、また横になった。
「……蓮華には、私から言うわ」
俺はその言い方に、少し引っかかった。
「――蓮華さまに」
「そう」
「……なぜ、あの人にだけ、あんたが直接言う」
雪蓮さまはしばらく答えなかった。やがて、こう言った。
「……あなた、本当に鈍いのね」
「そうらしい」
「そうよ」
この人は俺の肩に頭を戻した。
「……でも、それも私が引き受けるわ。私が言い出したことだもの」
「――何の話だ」
「いいの。……明日、わかるから」
俺はその意味を、そのときはわからなかった。翌朝、目が覚めたとき、隣に人がいるという感覚に、俺はしばらく戸惑った。三十八年、一人で寝てきた。舟の底でも、陣の幕でも、館でも、家でも。
雪蓮さまは、まだ寝ていた。寝顔を見て、俺は少し可笑しくなった。この人は寝相が悪かった。掛けたものを半分蹴っていて、腕を投げ出していた。
王とは思えない寝方だった。俺は蹴られた掛け物を戻して、それから起き上がった。起き上がるのに、いつもより時間がかかった。腰が固まっていた。
小屋を出ると、煙の跡がまだ残っていた。村の者が、朝から薪を足している。今日から、この村の火は村のものだ。明日も明後日も、ここで焚かれる。
俺はその様子を、しばらく見ていた。見ながら、百本という数を、もう一度頭の中で数えた。数え終わって、少しだけ笑った。