長江の古狼 ―― 孫呉異聞   作:無いなら作ればええねん

26 / 26
百本

百本目の場所を決めるのに、三月かかった。九十九本まで来たのが、その年の春だった。そこから先が進まなかった。理由は単純で、条件の揃う村が残っていなかったからだ。

 

 番人になれる者が三人いること。薪の林が近いこと。水が近いこと。隣の村と仲がいいこと。逃げ込む山があること。五つのうち三つ揃えば置く、と決めていた。残った村は、どこも二つしか揃わない。

 

 俺は舟で上流を回り、下流を回り、それでも決まらなかった。三月目に、亞莎が口を挟んだ。この娘は、俺の帳面の写しを取る仕事のかたわら、九十九本の記録を全部頭に入れていた。

 

「隊長。一つ、気になっていることがあります」

 

「言え」

 

「九十九本のうち、番人が三人いない村が、十一あります」

 

 俺はその指摘に、しばらく黙った。黙ってから、帳面を繰った。繰って、確かめた。確かに十一ある。

 

「……置いたときは、三人いた」

 

「はい。ですが、今はいません。死んだか、里へ移ったかです」

 

 亞莎はそう答えて、自分の写しをめくった。

 

「一番少ないところは、一人です。……上流の、七十三本目の村です」

 

 俺はその村を思い出した。二年前に置いた。丘の見通しがよくて、薪の林が近かった。番人になれる年寄りが三人いると聞いて、そこに決めた。

 

「……その一人は、いくつだ」

 

「六十四です」

 

 俺はその数を聞いて、少し息を詰めた。六十四で一人だ。病めば消える。

 

「――置く場所を探すのをやめる」

 

「え?」

 

「百本目は、あとでいい。……先に、減っているところを直す」

 

 俺は帳面を閉じた。

 

「増やすことばかり考えていた。……減っていることを、俺は数えていなかった」

 

 十一の村を回るのに、二月かかった。回ってみて、事情はさまざまだった。番人が死んで、代わりがいない村。若い者が城下へ働きに出て、年寄りしか残っていない村。隣の村と揉めて、火を上げても誰も来なくなった村。

 

 一番厄介だったのは、番人が三人いるのに、三人とも「もうやりたくない」と言った村だった。理由を聞くのに、丸一日かかった。飯を食って、去年何が穫れたかを聞いて、それから聞いた。返ってきた答えは、こうだった。

 

「……去年、火を上げた。二度上げた。二度とも、賊ではなかった」

 

「――間違えたか」

 

「間違えた。一度目は、山火事の煙を見間違えた。二度目は、夜に舟の灯りを見間違えた」

 

 年寄りはそう答えて、少し目を伏せた。

 

「二度とも、下の村から人が来た。舟が三艘来た。……来て、何もなかった」

 

 俺はその話を聞いて、腹の底が少し重くなった。

 

「……それで、責められたか」

 

「責められとらん」

 

 年寄りは首を振った。

 

「誰も責めん。来た連中は、笑って帰った。『間違いなら、それが一番いい』と言うとった」

 

「では、なぜやめる」

 

「笑われるほうが、こたえるんじゃ」

 

 俺はその答えに、返す言葉を持たなかった。持たないまま、しばらく黙っていた。黙ってから、こう聞いた。

 

「……三度目を、上げられんか」

 

「上げられん」

 

「なぜだ」

 

「三度目も間違えたら、次は誰も来んからじゃ」

 

 年寄りはそう答えて、手元を見た。

 

「わしが間違えたせいで、本当に賊が来たときに誰も来んようになったら、それは、わしが村を殺したことになる」

 

 俺はその理屈を、しばらく考えていた。考えて、こう答えた。

 

「――間違えていい」

 

「……なんじゃと」

 

「間違えていい。……というより、間違えるようにできている」

 

 俺は帳面を開いた。十二年分の記録がある。

 

「二十三本あった頃、一年に十七度火が上がった。そのうち、本当に賊が来たのは六度だ。……十一度は間違いだった」

 

 年寄りが顔を上げた。

 

「……そんなに間違えとったのか」

 

「間違えていた。……今でも同じだ。去年、九十九本で七十三度上がった。賊が来たのは二十一度だ」

 

 俺はその頁を指した。

 

「五十二度、間違えている」

 

 年寄りは、その数字をしばらく見ていた。読めるかどうかはわからない。だが、数字の並びは見ていた。

 

「……みんな、間違えとるんじゃな」

 

「間違えている」

 

「……そうか」

 

 この人はそう言って、少し肩の力を抜いた。

 

「わしは、うちだけかと思うとった」

 

 俺はその一言で、自分の落ち度に気づいた。十二年間、俺は間違いの数を数えていた。数えていたが、誰にも言っていなかった。

 

 言っていなかったので、この村は自分だけが間違えていると思っていた。

 

「……すまん」

 

「なぜ謝る」

 

「数えていて、言わなかった」

 

 俺は帳面を閉じた。

 

「今年から、間違いの数も配る。……どの村が何度間違えたかではなく、全部でいくつ間違えたかを配る」

 

 その手は、思ったより効いた。十一の村を回りながら、俺は同じ話をした。全部で五十二度間違えている、と。どの村もみな間違えている、と。

 

 三つの村で、やめると言っていた番人が続けると言い直した。

 

 残り八つは、人が足りない。そこは、うちから出すことにした。名簿から、村の出身者を拾って、番人として戻す。軍籍は残したまま出す。

 

 出した者には、一つだけ言った。

 

「間違えていい。……間違えた数は、俺が数える」

 

 十一の村を直し終わって江東へ戻ると、公瑾どのが妙な顔をした。

 

「……二月で十一ですか」

 

「十一だ」

 

「百本目は」

 

「まだ決めていない」

 

 この人は湯呑みを回して、しばらく黙っていた。

 

「楚航どの。あなた、百本を諦めましたか」

 

「諦めていない」

 

「では、なぜ後回しに」

 

「増やしても、後ろから減るからだ」

 

 俺は帳面を開いた。

 

「九十九本のうち十一が弱っていた。直すのに二月かかった。……放っておけば、来年は十五になる。増やす速さより、減る速さのほうが速い」

 

 公瑾どのは、その説明を聞いて湯呑みを置いた。

 

「……それ、軍でも同じですね」

 

「同じだ」

 

「兵を集めることばかり考えて、いる兵を数えていない。……よくあることです」

 

 この人はそう言って、少し目を細めた。

 

「では、百本目はいつ立てますか」

 

「わからん」

 

「わからん、では困ります」

 

「――なぜだ」

 

「雪蓮が待っているからです」

 

 俺はその答えに、少し驚いた。

 

「……待っているのか」

 

「待っています。三月前から、毎日聞かれます。『今日は何本になった』と」

 

 公瑾どのは、そこで少し笑った。

 

「九十九で止まっているのが、あの子には堪えるようですよ」

 

 百本目の場所が決まったのは、その年の秋だった。決めたのは、俺ではない。上流の外れに、四十戸ほどの小さな村がある。人が少なすぎるので、ずっと後回しにしていた場所だ。

 

 その村から、使いが来た。年寄りが二人、歩いてきた。三日かかったという。

 

「……烽火を、置いてもらえんか」

 

 俺はその申し出に、少し面食らった。

 

「――こちらから頼むものだと思っていた」

 

「頼まれるのを待っとったんじゃ」

 

 年寄りの一人がそう答えて、少し笑った。

 

「じゃが、いつまでも来ん。……こちらから来た」

 

「あんたの村は、四十戸だろう。番人が三人おるか」

 

「おる」

 

「薪は」

 

「ある。林が裏じゃ」

 

「水は」

 

「ある」

 

「隣の村とは」

 

「仲がよい。……去年、水争いで一度揉めたが、話をつけた」

 

 俺はその答えを、一つずつ帳面に書いた。書きながら、五つ揃っているのに気づいた。

 

「……逃げ込む山は」

 

「ある。裏の林の奥じゃ」

 

 五つ揃っていた。俺は帳面を閉じて、この二人を見た。

 

「――なぜ、今来た」

 

「去年から話しとった」

 

 年寄りはそう答えた。

 

「村で話しとった。烽火を置いてもらおうか、と。……じゃが、うちは四十戸しかない。百本近くあるのに、うちみたいな小さい村に置いてくれるかどうか、わからんかった」

 

「それで、待っていたのか」

 

「待っとった。……じゃが、今年、うちの下の村に置かれたじゃろう。あそこは三十二戸じゃ。うちより小さい」

 

 この人はそう言って、少し胸を張った。

 

「うちより小さい村に置いたなら、うちにも置けるはずじゃ。……そう思うて、来た」

 

 俺はその理屈に、思わず笑った。笑ってから、こう答えた。

 

「――置く」

 

「よいのか」

 

「置く。……ただし、一つ言っておく」

 

 俺は指を一本立てた。

 

「あんたの村が百本目だ」

 

 年寄り二人は、その言葉の意味を、しばらく飲み込めなかったらしい。顔を見合わせて、それからもう一度俺を見た。

 

「……百本目」

 

「百本目だ。十二年かけて、九十九本まで来た。……あんたの村で、百になる」

 

 この二人は、そこでしばらく何も言わなかった。言わないまま、また顔を見合わせた。それから、片方がぽつりと言った。

 

「……えらいことになったのう」

 

 百本目に火を入れる日は、半月後と決まった。薪を積むのに十日かかるからだ。積むのは、俺の隊がやることになっていた。だが、その話を聞いた小蓮さまが、自分も行くと言い出した。言い出したら、なぜか全員が行くことになった。

 

 当日、その村に着いたとき、俺は少し困った。四十戸の村に、こちらが五十人近く押しかけている。雪蓮さま、蓮華さま、小蓮さま、公瑾どの、祭どの、思春、明命、穏どの、亞莎。それに隊の者が四十人。

 

 村の者が、明らかに萎縮していた。

 

「……薪を積むだけだぞ」

 

 俺がそう言うと、小蓮さまが平然と答えた。

 

「積むだけだから、来たんだよ」

 

「五十人も要らん」

 

「多いほうが早いでしょ」

 

 確かに早かった。半日で積み終わった。十日かかると言われていたものが、半日で終わった。

 

 終わってから、全員で高さを測った。測ったのは蓮華さまだ。この人は、背の高さを基準にして、自分の背の何倍かで測っていた。

 

「……私の一・八倍です」

 

「足りるか」

 

「足ります。九十九本目と同じ高さです」

 

「よく覚えているな」

 

「覚えています。全部の高さを書いてありますから」

 

 俺はその答えに、少し呆れた。呆れていると、祭どのが薪の山を蹴った。蹴って、崩れないのを確かめてから、こう言った。

 

「……若い者は積み方が雑じゃ」

 

「崩れんだろう」

 

「崩れん。じゃが、風が入っとらん。……これでは、煙の出が悪い」

 

 この人はそう言って、山の下のほうから何本か引き抜いた。引き抜いて、隙間を作った。

 

「火は、下から空気が入らんと燃えん。……湿った薪を混ぜるなら、なおさらじゃ」

 

 俺はその手つきを見ていて、一つ気づいた。

 

「……祭どの。あんた、烽火を積んだことがあるのか」

 

「あるとも」

 

 この人はあっさり答えた。

 

「長沙でな。文台さまの代じゃ。……あんたが来る前から、あそこには烽火があった」

 

「――知らなかった」

 

「知らんじゃろう。あんたが来たときには、もう使うとらんかったからな」

 

 祭どのはそう言って、手についた木屑を払った。

 

「廃れたんじゃ。……番人がおらんようになって、誰も直さんかった」

 

 俺はその話に、しばらく黙っていた。黙ってから、こう聞いた。

 

「……何本あった」

 

「十四本じゃ」

 

「いつ廃れた」

 

「わしが二十五、六の頃じゃな。……三十年前か」

 

 この人はそう答えて、薪の山を見上げた。

 

「三十年で、十四が百になったわけじゃ。……あんたのおかげではないぞ。時代が変わっただけじゃ」

 

「そうか」

 

「そうじゃ。……じゃが、まあ」

 

 祭どのはそこで少し言葉を切った。

 

「十四を百にしたのは、あんたじゃな」

 

 火を入れたのは、日が傾いてからだった。俺は、村の年寄りに火を渡そうとした。だが、その年寄りは首を振った。

 

「あんたが焚きなされ」

 

「――俺は、この村の者ではない」

 

「知っとる。じゃが、百本目じゃろう。うちの村は、たまたま百本目じゃっただけじゃ」

 

 この人はそう言って、笑った。

 

「わしらの火は、明日から焚く。今日はあんたの日じゃ」

 

 俺はしばらく突っ立っていた。突っ立ってから、火を受け取った。薪に火を入れると、白い煙が上がった。湿った薪を混ぜてあるので、煙がよく出る。十二年前、俺が最初に覚えた工夫だ。

 

 煙は、真っ直ぐ上がった。しばらくすると、下流の村から煙が上がった。その次からも上がった。

 

 俺たちは、村の外れの高いところに立って、それを見ていた。九十九、九十八、九十七――と、下流へ向かって順に消えていく数を、小蓮さまが数えていた。

 

「……ぜんぶ、ついた」

 

 この子は、途中から声が小さくなっていた。

 

「そこう。ぜんぶ、ついたよ」

 

「ついたな」

 

「……ひゃっぽん」

 

「百本だ」

 

 俺はその煙の列を見ていた。

 

 十二年前、俺は一人だった。村を二月かけて回って、五つ断られて、六つ目でようやく頷いてもらった。番人の年寄りが二人死んだ。十年で六つまで減った。

 

 その六つが、今は百になっている。隣で、祭どのが言った。

 

「……文台さまに見せたかったのう」

 

 俺は答えなかった。答えられなかった。しばらくして、雪蓮さまが口を開いた。

 

「見てるわよ」

 

「そうかのう」

 

「見てるわ。……見てないなら、こっちで勝手に見せたことにしましょ」

 

 その言い方に、祭どのが笑った。

 

「……そうじゃな。そういうことにしとくか」

 

 俺は煙を見ていた。あの日、川岸で煙を見て落ち着かなかった男が、十二年経って、百本の煙を見ている。落ち着かなくは、なかった。

 

 ただ、少しだけ、泣きそうだった。

 

「――灘」

 

 雪蓮さまが横から言った。

 

「泣かないの」

 

「泣かん」

 

「泣いていいのよ」

 

「泣かん」

 

「もう。あなた、いつもそれね」

 

 この人はそう言って笑った。それから、小さな声で付け加えた。

 

「……でも、今日はちょっと待ってあげる」

 

 俺はそのあと半刻ほど、そこに立っていた。誰も、急かさなかった。その夜、村で酒が出た。

 

 四十戸の村が出せる量は知れている。五十人で分けたので、一人あたり一口ずつだった。それでも、誰も文句を言わなかった。

 

 俺は、村の外れに座って煙の跡を見ていた。火はもう落としてある。足音がして、雪蓮さまが来た。この人は、俺の隣に腰を下ろして、しばらく黙っていた。

 

「……ねえ、灘」

 

「なんだ」

 

「私、覚えてることがあるの」

 

「なんだ」

 

「十二年前。あなたが、川岸で煙を見てたときのこと」

 

 俺はその言葉に、少し顔を上げた。

 

「――見ていたか」

 

「見てたわ」

 

 この人はそう答えて、膝を抱えた。

 

「あのとき、私、あなたに聞いたのよ。嬉しくないの、って。……そしたら、あなた、こう言ったの。『俺がいなくても回る』って」

 

「……言ったな」

 

「覚えてるのね」

 

「覚えている」

 

 俺は煙の跡を見た。

 

「あのとき、村が初めて自分たちで賊を追い払った。俺の隊は間に合わなかった。……間に合わなくても、村が助かった」

 

「それが、嬉しくなかったのね」

 

「嬉しかった」

 

 俺は正直に答えた。

 

「嬉しかったが、落ち着かなかった。……自分が要らなくなった気がした」

 

 雪蓮さまは、しばらく黙っていた。黙ってから、こう聞いた。

 

「……今は?」

 

 俺はその質問に、すぐには答えなかった。答えなかったのは、答えがわかっていたからだ。わかっていたが、言葉にするのに時間がかかった。

 

「……今は、落ち着いている」

 

「なんで」

 

「百本あるからだ」

 

 俺は煙の跡を指した。

 

「百本のうち、俺が見ているのは、たぶん二十本くらいだ。……残りは、誰かが見ている。亞莎が記録をつけて、蓮華さまが数を持って、小蓮さまが風を読む。番人が二百人以上いる」

 

「……」

 

「俺がいなくなっても、百本は上がる。……それが、落ち着く」

 

 雪蓮さまは、その答えにしばらく黙っていた。黙ってから、小さくこう言った。

 

「……ずるいわ」

 

「――なぜだ」

 

「私、そういう話を聞きに来たんじゃないもの」

 

 この人はそう言って、膝に顎を乗せた。

 

「……ねえ、灘。前に言ったこと、覚えてる?」

 

「……どれだ」

 

「三年待つって言ったでしょ」

 

 俺はその言葉に、少し身構えた。覚えていた。小蓮さまの初陣の夜だ。あんたが自分で気づくのを三年待つ、三年経っても気づかなかったら私から言う、と言われた。

 

 あれから、二年が経っている。

 

「……覚えている」

 

「一年早いけど、言うわ」

 

 雪蓮さまはそう言って、こちらを見た。俺は身構えたが、何を言われるかは、まだわかっていなかった。

 

「私、あなたのことが好きよ」

 

 しばらく、俺は何も言えなかった。言葉の意味はわかった。わかったが、それが自分に向けられているという実感が、遅れて来た。

 

「……灘?」

 

「――待ってくれ」

 

「待たない」

 

 この人ははっきりと言った。

 

「二年待ったの。その前もずっと待ってた。……もう待たない」

 

 俺は膝の上で手を握ったまま、動けずにいた。

 

「あなた、たぶん今、断る理由を三つくらい考えてるでしょ」

 

「……四つだ」

 

「四つもあるの」

 

「ある」

 

「言ってみて」

 

 俺はしばらく言葉を選んだ。

 

「一つ。俺は三十八だ。あんたは二十七だ」

 

「知ってるわ」

 

「二つ。あんたは王で、俺は家臣だ」

 

「それも知ってる」

 

「三つ」

 

 俺はそこで少し詰まった。

 

「――俺は、あんたが十四のときから知っている」

 

 雪蓮さまは答えなかった。

 

「あんたが舟に乗せろと言って、俺が三つ条件を出した。手のひらを破りながら櫓を押した。……あれから十三年だ。その俺が、あんたをそういう目で見るのは」

 

「見てるの?」

 

「――なんだ」

 

「あなた、私をそういう目で見てるの?」

 

 俺は答えられなかった。答えられなかったこと自体が、答えだった。雪蓮さまは、そこで少しだけ笑った。

 

「……よかった」

 

「よくない」

 

「よくないの?」

 

「よくない。……俺は、あんたが子供だった頃を知っている。それを知っている男が、今のあんたをそう見るのは、俺はずっと、それは違うと思っていた」

 

 俺はそこまで言って、煙の跡のほうを見た。

 

「四つ目は」

 

「……脚だ」

 

「俺は走れん。右肩は雨の日に上がらん。朝は腰が固まる。……あんたより十年早く、動けなくなる」

 

 しばらく、雪蓮さまは何も言わなかった。やがて、この人は立ち上がった。そして、俺の正面に来て、座り直した。近かった。

 

「――灘。私、一つずつ返すわ」

 

「……」

 

「一つ目。年よ。あなたは三十八で、私は二十七。それが何?」

 

 この人はまっすぐ俺を見ていた。

 

「うちの兵で、十歳違いの夫婦なんて掃いて捨てるほどいるわ。誰も気にしてない。……気にしてるの、あなただけよ」

 

「――だが」

 

「まだ終わってない。二つ目」

 

 雪蓮さまは指を立てた。

 

「私が王で、あなたが家臣。……これは、確かに問題があるわ」

 

「そうだろう」

 

「でも、それは私の問題なの。あなたの問題じゃない」

 

「……どういう意味だ」

 

「私が王だから、あなたが断れないんじゃないかって、あなたは心配してるでしょ」

 

 俺は口を閉じた。その通りだった。四つのうち、一番言いにくかったのがそれだ。

 

「だから、先に言っておくわ」

 

 この人ははっきりと言った。

 

「あなたが断っても、私は何もしないわ。あなたの隊も、あなたの烽火も、あなたの立場も、一つも変わらない。……明日も普通に軍議をするし、私は普通にあなたに仕事を頼む」

 

「……」

 

「それでも断りにくいなら、私が悪いわ。でも、そこは信じてほしいの」

 

 俺はその言葉を、しばらく胸の中で転がした。この人は、俺が一番引っかかるところを、正確に潰しに来ていた。二年、たぶんそれを考えていた。

 

「三つ目」

 

 雪蓮さまは続けた。

 

「あなたが私の十四の頃を知ってること。……あのね、灘。私、あなたに一度も『子供扱いされた』って思ったことないの」

 

 俺は顔を上げた。

 

「あなた、十四の私に条件を三つ出したでしょ。舟から立つな、母様に話を通す、乗るなら漕げ。……あれ、大人に出す条件よ」

 

「……そうか」

 

「そうよ。母様は私を殴った。冥琳は私を子供扱いした。祭は私を可愛がった。……あなただけ、最初から取引をしたの」

 

 この人は少し声を落とした。

 

「私、それがずっと嬉しかった。……だから、あなたが私の十四を知ってるのは、私にとっては減点じゃないの。むしろ、そこが一番大きいのよ」

 

 俺は返す言葉を持たなかった。

 

「四つ目」

 

 雪蓮さまはそこで少し黙った。それから、俺の左脚のほうへ目をやった。

 

「……脚ね。これは、返すのが一番簡単よ」

 

「――簡単か」

 

「簡単よ」

 

 この人はこちらを見た。

 

「その脚、母様を庇って潰したんでしょ」

 

 俺は答えられなかった。

 

「私、その脚を見るたびに思うのよ。ああ、この人は母様に覆いかぶさったんだって。……十一年間、毎回思ってる」

 

 雪蓮さまはそこで手を伸ばして、俺の左脚の、膝の少し下に触れた。触れられて、俺は少し身を固くした。この脚に人が触れるのは、医者以外では初めてだった。

 

「――だから、私はこの脚が好きなの」

 

「……」

 

「動かないから困る、なんて言わせないわ。私、この脚が動かないことに、十一年助けられてきたんだから」

 

 俺はその言葉に、何かが崩れるのを感じた。十一年間、俺はこの脚を恥じていた。走れないこと、跳べないこと、先頭に立てないこと。若い連中が舷から舷へ跳ぶのを見るたびに、腹の底で何かがざらついた。

 

 その脚を、この人は十一年見ていた。見て、別のものを思っていた。

 

「……雪蓮さま。俺は、あんたに何も返せん」

 

「俺は三十八だ。あと十年もすれば、たぶん舟にも乗れなくなる。そうなったら、俺はただの帳面をつける男になる」

 

「そうね」

 

「あんたは王だ。もっと若くて、もっと役に立つ相手がいくらでもいる」

 

「いるでしょうね」

 

 雪蓮さまはあっさりと言った。

 

「でも、私が欲しいのはあなたなの」

 

 その言い方があまりに単純だったので、俺は何も言えなくなった。

 

「……ねえ、灘。私、王よ」

 

「知っている」

 

「王って、欲しいものを言っていい立場なの」

 

 この人はそう言って、少し笑った。

 

「他のことは全部、我慢してるわ。母様の仇も待ってる。江東を取るのに何年もかかった。袁術に頭を下げるのに何年も。……そういうのは、全部我慢した」

 

「……」

 

「だから、一つくらい、欲しいって言わせてよ」

 

 俺はしばらく黙っていた。黙って、この人の顔を見ていた。二十七だった。俺が初めて会ったとき、この人は十四だった。仁王立ちになって、母親に「私も行く」と喚いていた。

 

 あれから十三年、俺はずっとこの人を見てきた。

 

 北から帰って人を斬った話をしたとき。母を喪って泣けなかったとき。館の二年。江東へ発った日。百本目の烽火。

 

 全部、覚えていた。覚えているのは、たぶん、そういうことだった。

 

「――雪蓮さま。俺は、たぶん、あんたが思っているより前から」

 

 言いかけて、俺はそこで詰まった。自分でも、いつからかがわからなかった。雪蓮さまは待っていた。急かさなかった。

 

「……いつからか、わからん」

 

 俺は正直に言った。

 

「気づいたのは、たぶん、あんたが飯を食いに来なくなった日だ。……三日来なかったことがある。あの三日、俺は粥を二人分作った」

 

「……作ったの?」

 

「作った。三日ともだ。……作ってから気づいた」

 

 雪蓮さまは、その答えにしばらく黙っていた。黙ってから、両手で顔を覆った。

 

「……遅いわよ」

 

「遅い」

 

「本当に遅い」

 

「……すまん」

 

「謝らないで」

 

 この人はそう言って、俺の手を取った。俺の手は櫓と刀で潰れていて、指の関節が太い。この人の手も、実はそう変わらない。二十七の王の手は、俺が思っていたよりずっと硬かった。

 

「……灘。返事は」

 

 俺はその手を握り返した。

 

「――受ける」

 

 雪蓮さまは、しばらく動かなかった。それから、ふっと肩の力を抜いて、俺の胸に額を押しつけた。

 

「……よかった」

 

「……」

 

「私、断られたら、明日から普通に軍議できるかなって、それだけが心配だったの」

 

「できるだろう。あんたなら」

 

「できないわよ。三日は寝込むわ」

 

 この人は俺の胸に顔を埋めたまま、そう言った。しばらく、二人ともそのままでいた。俺はこの人の背中に手を置いた。置いてから、どうしていいかわからなくなった。

 

「……あなた、緊張してる?」

 

「している」

 

「即答ね」

 

「即答した」

 

「かわいいところあるじゃない」

 

「三十八の男に言う言葉ではない」

 

「言うわよ」

 

 雪蓮さまは顔を上げた。近かった。俺はそこでようやく、この人の目が濡れていることに気づいた。

 

「……泣いているのか」

 

「泣いてないわ」

 

「泣いている」

 

「泣いてない。……ちょっと目が汗をかいてるだけ」

 

「それは泣いていると言う」

 

「言わないの」

 

 この人はそう言って、俺の襟を掴んだ。掴んで、引き寄せた。あとのことを、俺は上手く書けない。

 

 書けないというより、書き方を知らない。俺は帳面をつける男で、記録の書き方しか知らない。何人出て、何人帰ったかを書く書き方しか知らない。

 

 だから、覚えていることだけを書く。この人の手が、思っていたより硬かったこと。髪をほどいたら、思っていたより長かったこと。

 

 俺の脇腹の傷跡――十五年前、四十人を助けに行ったときのものだ――を、この人が指でなぞったこと。なぞって、「これ、いつの」と聞いたこと。俺が答えたら、「知らなかった」と言ったこと。

 

 左脚の、膝から下の歪みに触れたとき、この人が一度手を止めたこと。止めて、それから何も言わずに続けたこと。俺が、途中で一度、動きを止めてしまったこと。

 

 三十八の体は、思っているようには動かない。特に、左脚が要る動きは、まるで駄目だった。俺は自分でそれに苛立って、しばらく動けなくなった。

 

 そのとき、この人が笑ったこと。馬鹿にする笑い方ではなかった。

 

「……いいのよ、そんなの」

 

 そう言って、俺の顔を両手で挟んだこと。

 

「あなた、いつもそう。全部自分でやろうとするの」

 

「……」

 

「二人でやるのよ。そういうのは」

 

 その言い方があまりに当たり前だったので、俺の力が抜けたこと。抜けたら、あとは、なんとかなったこと。この人が、途中で一度、俺の名前を呼んだこと。

 

 真名のほうを、呼んだこと。その声を、俺はたぶん、一生忘れない。夜が更けてから、俺たちは並んで横になっていた。

 

 村の外れの小屋だ。百本目の薪を積むあいだ、俺たちが寝泊まりに使っていた場所だった。板の隙間から、月の明かりが少し入っていた。

 

「……ねえ、灘。私、ずっと考えてたことがあるの」

 

「なんだ」

 

「あなた、母様に真名を渡さなかったでしょ」

 

 俺は少し驚いた。

 

「……知っていたのか」

 

「知ってるわ。母様が言ってたもの。『あいつ、真名を教えねぇんだよな』って」

 

「……」

 

「なんで教えなかったの」

 

 俺は天井を見ながら、しばらく考えた。

 

「――教える機会がなかった」

 

「嘘」

 

「……嘘だ」

 

 俺は言い直した。

 

「あの人は、俺の主君だった。……主君に真名を渡すと、それは忠誠の証になる。俺は、それが嫌だった」

 

「嫌?」

 

「あの人についていったのは、忠誠ではなかった。……あの日、焼け跡で、あの人が柵のほうへ走った俺を見て『気に入った』と言った。それだけだ」

 

 俺は天井を見ていた。

 

「主君と家臣になる前に、あの人と俺は、川で会った二人だった。……真名を渡すと、それが上下になる気がした」

 

 雪蓮さまはしばらく黙っていた。

 

「……そう」

 

「今から思えば、渡しておけばよかった」

 

「そんなことないわよ」

 

 この人はあっさりと言った。

 

「母様、たぶんわかってたわ。だから『教えねぇんだよな』って笑ってたのよ。……あの人、そういうの気づく人だもの」

 

 俺はその言葉に、少し救われた。

 

「……ねえ、灘。私が最初だったのよね。真名」

 

「……母を除けば」

 

「じゃあ、私が最初ね」

 

 この人は俺の肩に頭を乗せた。

 

「私、それがずっと自慢だったの。十六のとき、あなたが『灘という』って言ったでしょ。あのとき、私、しばらく声が出なかったのよ」

 

「そうだったか」

 

「そうよ。……気づいてなかったの?」

 

「気づいていなかった」

 

「もう」

 

 雪蓮さまは笑った。それから、少し真面目な声になった。

 

「……灘。明日から、どうする?」

 

「――どう、とは」

 

「隠す? 言う?」

 

 俺は少し考えた。

 

「……隠せると思うか」

 

「思わない」

 

「即答だな」

 

「即答よ。冥琳なんて、三日で気づくわ。……ううん、明日で気づく」

 

「祭どのは、たぶんもう気づいている」

 

「え?」

 

「昨日、薪を積みながら言われた。『今日は飲まんほうがよかろう』と」

 

 雪蓮さまが、がばりと起き上がった。

 

「祭、あの人! 私、何も言ってないのに!」

 

「五十四だそうだ」

 

「関係ないでしょ!」

 

 この人はしばらく憤慨していた。それから、また横になった。

 

「……蓮華には、私から言うわ」

 

 俺はその言い方に、少し引っかかった。

 

「――蓮華さまに」

 

「そう」

 

「……なぜ、あの人にだけ、あんたが直接言う」

 

 雪蓮さまはしばらく答えなかった。やがて、こう言った。

 

「……あなた、本当に鈍いのね」

 

「そうらしい」

 

「そうよ」

 

 この人は俺の肩に頭を戻した。

 

「……でも、それも私が引き受けるわ。私が言い出したことだもの」

 

「――何の話だ」

 

「いいの。……明日、わかるから」

 

 俺はその意味を、そのときはわからなかった。翌朝、目が覚めたとき、隣に人がいるという感覚に、俺はしばらく戸惑った。三十八年、一人で寝てきた。舟の底でも、陣の幕でも、館でも、家でも。

 

 雪蓮さまは、まだ寝ていた。寝顔を見て、俺は少し可笑しくなった。この人は寝相が悪かった。掛けたものを半分蹴っていて、腕を投げ出していた。

 

 王とは思えない寝方だった。俺は蹴られた掛け物を戻して、それから起き上がった。起き上がるのに、いつもより時間がかかった。腰が固まっていた。

 

 小屋を出ると、煙の跡がまだ残っていた。村の者が、朝から薪を足している。今日から、この村の火は村のものだ。明日も明後日も、ここで焚かれる。

 

 俺はその様子を、しばらく見ていた。見ながら、百本という数を、もう一度頭の中で数えた。数え終わって、少しだけ笑った。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

読者層が似ている作品 総合 二次 オリ

【黒山の狼、乱世を嗤う】(作者:パスカルDX)(原作:恋姫†無双)

▼あらすじ▼後漢末期――黄巾の乱によって大陸は荒れ果て、民は飢え、役人は腐り、弱者は踏みにじられていた。▼太行山脈を根城にする巨大賊軍「黒山党」。▼その頭領こそ、“黒山の狼”と恐れられる男、張燕――真名を《時雨》。▼残虐。狡猾。冷酷。▼官軍も諸侯も嫌う外道。▼だが彼は、ただの盗賊ではなかった。▼民を見捨てる漢王朝。▼名門の誇りに酔う諸侯。▼正義を掲げながら弱…


総合評価:1012/評価:6.8/連載:307話/更新日時:2026年09月08日(火) 17:01 小説情報

幽州を変えようか(作者:雑草弁士)(原作:恋姫†無双)

三国時代初頭、幽州の地にて。出立する劉備(桃香)に多大な物資と兵馬を与え、客将であった趙子龍(星)までもを持っていかれた公孫瓚(白蓮)。しかしこの時間軸、この外史では、星と引き換えの様な形で白蓮の元に居残った人材が居た。もともと劉備陣営では目立った働きをしていなかったらしい、ただ古参なだけのその男。彼の正体は。


総合評価:6314/評価:8.76/短編:3話/更新日時:2026年08月08日(土) 17:10 小説情報

転生して型月版・沖田総司になったけど、労咳を克服したら明神弥彦の母になっていた件 〜るろ剣世界で最強のママやってます〜(作者:だいたい大丈夫)(原作:るろうに剣心)

かつて京都を震撼させた「人斬り抜刀斎」と並び称された、新選組一番隊組長・沖田総司。▼労咳の運命を越え、彼女が手にしたのは平穏な明治の世と、亡き夫が残した一人息子・弥彦だった。▼しかし、その剣はまだ、錆びついてはいない。▼「たまには人を斬っておかないと、腕が鈍るでしょう?」▼昼は息子の教育に頭を悩ませる士族の未亡人。夜は月夜に紛れ、暗殺者として死体の山を築く。…


総合評価:3200/評価:6.81/連載:100話/更新日時:2026年09月02日(水) 01:06 小説情報

双白の花(作者:心ここにあらず)(原作:BLEACH)

原作では悲しい別れになってしまった松本乱菊と市丸ギン…この2人の中にもう1人幼馴染が居たら…あの時乱菊を助けられたんじゃ…ギンが愛染を相手に1人で立ち向かわなくても良いんじゃないか。▼そう言う思いを書き詰めた作品です。オリ主モノで恋愛描写も有るかもです!苦手な人は回れ右です!またBLEACHの知識で知らないこともあるかと思います。どんどん指摘して無知な私めに…


総合評価:314/評価:9.25/連載:16話/更新日時:2026年07月30日(木) 07:16 小説情報

彼方の光芒(作者:総流し)(原作:真・恋姫†無双)

オリ主劉琦に黄祖を添えて。


総合評価:784/評価:8.58/連載:9話/更新日時:2026年05月31日(日) 00:00 小説情報


小説検索で他の候補を表示>>