すいません。
バキバキに画面の割れた旧端末を第七学区のショップへ持ち込み、最新機種のスマートフォンへの機種変更を無事に終えた、その二日後。
日付は――七月二十七日。俺は携帯ショップに近くにあったベンチに座って、メールなどの設定を終わって、今後の魔術サイドの戦いに備えた演算データの整理を行っていた、まさにその時だった。俺の手の上で、ピカピカの最新のスマートフォンが、軽快な電子音を鳴り響かせた。画面に表示された着信相手の名前は、お隣さんの――『上条当麻』。
「……おい、カミジョウさん。ようやくそのバケモノじみた睡眠プログラムから帰還したのか?」
受話器を耳に当て、いつもの飄々とした感じの声をかける。だが、スピーカーから返ってきた当麻の声は、いつもと違って、酷く真剣で、どこか申し訳なさそうな色を帯びていた。
『……ああ、鳴海。今、目が覚めたよ。インデックスから全部聞いた。俺が寝てる間の三日間、お前が小萌先生への言い訳を考えてくれて、あいつに美味いチャーハンを作ってくれて……看病まで手伝ってくれたって。……ありがとな、鳴海』
「フン、飯の対価ならあの居候さんから『美味い』の言葉で回収済みだ。お前への貸しは、今後の夏休み補講の宿題のノートで手を打ってやるよ」
俺が鼻で笑ってあしらおうとした、その瞬間だった。当麻は、受話器の向こうで強く、深く、拳を握りしめるような気配をさせて、冷徹な一言を告げてきた。
『だけどな、鳴海。――ここから先は、もうお前は関わるな』
「……なんだと?」
『インデックスから、魔術だのイギリス清教だのって話を聞いたろ? あいつの言ってることは本当だ。俺をこんな風に切り裂いた奴らは、科学のルールが通じない、本物の化け物なんだよ。レベル1のお前が首を突っ込んでいい世界じゃない。これ以上は、マジで命が関わる。だから――もう今回の件には、一歩も近づかないでくれ』
親友を、これ以上危険なオカルトの暴力に巻き込みたくないという、上条当麻の100%の優しさと拒絶。だが、その綺麗事の数式を突きつけられた瞬間、俺の目が、最高に不敵な光を宿して細められた。
「ハハッ……おいおい、カミジョウさん。お前の脳内プロセッサは、そんなに都合のいい計算しかできないのかよ」
『え……? 鳴海……?』
「『関わるな』だと? だったら、お前が寝ている間に俺が使った時間、お前の看病に割いた余力、あの居候に食わせた飯の材料費――その全てで、お前は俺に特大の『貸し』を作ったんだよ。科学の世界じゃな、一方的な踏み倒しなんて計算は成立しないんだわ」
俺はベンチから立ち上がり、灰色の空を見据えながら、携帯に向けて魂の底からの理詰めの数式を叩きつけた。
「踏み倒すつもりなら、今すぐその対価を寄越せ。俺が要求する対価はただ一つ――俺を今回の件に、お前の隣に関わらせろ」
『っ、お前……バカ言えよ! 相手は本物の魔術師なんだぞ!? お前が戦う理由なんてどこにも――』
「理由なら、お前が作ったんだよ、上条ッ!!!」
喉を震わせ、かつて学校の教室で、ボロボロだった俺の苦しみを見つけてドアをぶち破ってくれた、あのお節介な男の名前を叫ぶ。
「お前が、そんなボロボロに傷ついて、包帯だらけになってまで助けたがっている少女がそこにいる。だったら、そんなお前を――俺が助けたいと思うことに、これ以上のどんな計算式が必要だって言うんだよッ!!」
『鳴海……お前……っ』
受話器の向こうで、当麻が言葉を失って絶句するのが分かった。実家の両親に見捨てられ、世界の数字に裏切られていた俺に、もう一度、鮮やかな色彩をくれた命の恩人。アイツが命を懸けて誰かを守ろうとしているなら、それを冷徹に傍観していることなど、俺のプライドが120%拒絶する。
「確かに俺はただのレベル1でお前みたいに強くない。けど、流石のお前でも一人じゃ、未知の不条理に殺されるぞ。……だから、俺の計算を貸してやる。もう一度言うぞ、上条。――生きて、あの居候を守り抜くぞ」
数秒の沈黙の後。受話器の向こうから、いつもの、顔をくしゃくしゃにして笑っているような、最高に頼もしい相棒の声が返ってきた。
『……あはは。やっぱりお前、最高に人として落第点だけど……最高にカッコいいな。分かったよ、鳴海。俺の右手を、お前の計算で完璧に導いてくれ!』
「了解した。……そっちへ行く」
◇
通話を切り、俺は最新のスマートフォンをポケットに滑り込ませ、――上条当麻の自室へと向かった。ドアを開けると、そこには包帯姿でベッドに座る当麻の姿があった。そして、俺が部屋に入り、当麻の無事な姿をその目で確認した瞬間、インデックスの小さな肩から、張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れたのが分かった。トウマが倒れてからの三日間、彼女は小さな体で、一睡もせずに必死に看病を続けていたのだ。
大好きな日常が戻ってきた圧倒的な安堵感から、彼女は大きなあくびを一つ漏らすと、ベッドの端でこてん、と糸が切れたように眠り込んでしまった。規則正しい小さな寝息を立て始める純白の少女。当麻はその寝顔を愛おしそうに見つめ、布団を優しくかけ直すと、パイプ椅子に腰掛けた俺に向き直り、今回の事件の『不条理な前提』を小声で語り始めた。
あいつはインデックスを魔術師から守るために戦った。だが、その敵であるはずの魔術師たちもまた、インデックスを大切に想っているからこそ、彼女を回収しようと必死に戦っているのだという。
「……で、具体的な目的を教えてもらおうか。相手側はなんで、大切なインデックスをあんな怪我をお前に負わせてまで取り戻したいんだ。大切にしたいなら、怪我をさせる前に話し合うなりいろんなことがあったはずだろ」
「それがさ……。あいつらには、どうしても今日中にインデックスを回収しなきゃいけない『リミット』があるんだよ。……あの二十四日の夜、俺を切り裂いた『神裂』っていう魔術師の女が、去り際に俺に言ったんだ」
当麻は、神裂から告げられたというインデックスの脳のシステムについて話し始めた。見たもののすべてを1ミリも忘れずに脳内に完全保存してしまう『完全記憶能力』。それを使って、彼女の脳内には10万3000冊もの『魔導書』の情報が詰め込まれている。
「インデックスの脳の容量はね、その魔導書のせいで、もうほとんど残ってないらしいんだ。全体の八割以上が魔導書に占領されていて、残りの容量はあと数パーセントしかなくて……。だから、1年周期で『記憶を全て消去』しないと、脳がパンクして死んじゃう。……そして、今日が、その一年のタイムリミットの日なんだよ。あいつらは、インデックスの命を救うために記憶を消しにくる」
記憶を消さなければ、脳が焼き切れて死ぬ。だから魔術師たちは、心を鬼にして彼女を連れ去ろうとしている――。当麻が悔しげに奥歯を噛み締めながら語った、残酷な前提。
「……」
だが、その話を聞いた瞬間、俺の脳内プロセッサが、強烈なエラーを叩き出した。俺は片手で額を押さえ、怪訝極まりない、深く考え込むような顔で沈黙した。
「……鳴海? どうかしたか? そんなに難しい顔してさ」
当麻が心配そうに覗き込んでくる。俺は鋭い顔つきのまま、ベッドの上の親友を冷たく見据えた。
「いや……なんか、致命的に違和感があってさ」
「違和感……?」
「ああ。科学的に考えて、人間の脳がその程度のことで壊れるはずがない。人間のニューロンが持つ記憶容量は天文学的だ。ただの本の文字列を10万冊記憶したくらいで、物理的にパンクするなんてあり得ないんだよ」
「……は?」
俺の言葉を聞き放心する上条に俺は続ける。
「いいか、人間の脳の神経細胞のリンク数と記憶容量は、最新の科学の試算でもペタバイト、あるいはそれ以上の天文学的な数値を誇っている。対して『本』というデータの文字列《テキスト情報》なんて、1冊あたりせいぜい数メガバイト、10万冊集めたところで数百ギガバイトの領域にすら届かない。脳全体の容量からすれば、爪の先ほどのドットデータにも満たないんだよ」俺の放つ、冷徹な理系の計算式。「完全記憶能力のバグだとしても、そんな低レベルなテキストデータの蓄積だけで脳の容量の大部分を使い切るなんて、最初から計算の前提が狂ってる。」
俺の科学的な知識を用いておかしな点を指摘した。
「もし、その『脳が死ぬ』という話が本当だとするなら、俺の知性で導き出せる仮説は二つだ。……一つは、その『魔導書』とかいうデータの情報量が、現代科学の常識を遥かに超越して天文学的に巨大であること。そしてもう一つは――」
俺は顔を上げ、すやすやと眠るインデックスを見つめた。
「脳の容量問題なんかじゃない。インデックス、あの少女自体の肉体に、外部から何かしらの制限が加えられているかだ。後者だった場合、もしかしたら誰かに仕込まれているんじゃないか?」
「っ――外部からの、制限……!?」
当麻が息を呑み、目を見開いた。まだ魔術の全貌は分からない。だが、科学サイドの俺の計算は、確かにこの不条理なルールの裏にある『真実』の輪郭を捉え始めていた。
――バンッ!!!!!!!
その刹那、何の前触れもなく、上条の部屋の薄い木製のドアが、凄まじい力で勢いよく蹴り破られた。
「ひゃああっ!?」
その爆音に、眠っていたインデックスが短い悲鳴を上げて跳び起きる。開け放たれたドアの向こうから室内に流れ込んできたのは、真夏だというのに肌を刺すような、凍てつくほどの不気味な空気の捻じれ。そこに立っていたのは、不敵にタバコを咥えた長身の赤髪の男――ステイル=マグヌス。
そして、その背後に佇む、日本の刀を手にしたあまりにも圧倒的な存在感を放つポニーテールの女――神裂火織。空間の周波数が、科学のルールを無視して完全に歪んでいく。その不条理な光景を前に、俺はポケットの新端末を握りしめ、仮面の下の『素の目』を極限まで鋭く尖らせた。
「……おい、上条。……あれが、話に出てきた魔術師か」
「……ああ。間違いない、アイツらだ」
当麻が包帯だらけの身体のまま、インデックスの前に立ちはだかり、その右手を固く構える。突入してきたステイルは、煙草の煙をふぅ、と吐き出しながら、冷酷な瞳で室内の異変を鋭く見つめた。そこには、上条とインデックスの他に、全く計算にない『見知らぬ少年』が一人、パイプ椅子に座って自分たちを冷たく睨みつけていたからだ。ステイルの視線が、真っ直ぐに俺へと向けられる。
「……誰だ、その男は。僕たちの邪魔をするなら、科学のゴミごと焼き尽くすだけだが」
互いの視線が交錯し、一触即発の火花が散る。世界を欺く教会の嘘を解体するための、未知なる魔術サイドとの最終決戦。その戦いの火蓋が、今、大散らかった学生寮の一室で、最悪の緊迫感と共に切って落とされた。