精霊使役科の最後の課題は、精霊憑依を使わないことだった。
学院西庭の白樺には、風の精霊へ呼びかける印として使った緑の布が残っている。
高い枝へ結ばれた布を見上げ、精霊使いの講師がミレナへ告げた。
「片づけろ」
「はい」
ミレナは両手を空けた。
白樺を巡る風へ意識を向ける。
弱い返事が、枝の葉を揺らした。
風の精霊を身体へ迎えれば、あの枝まで上がることもできるかもしれない。
普通の精霊魔法を頼み、結び目をほどいてもらう方法も考えられる。
ミレナは何も頼まなかった。
「グンヒルダ。物置の梯子を見てくれる?」
「持ってきな」
短い梯子が運ばれた。
グンヒルダが横木の割れと縄の緩みを確かめる。
アルマニアが根元を押さえ、シャーナシアが反対側へ足を置いた。
「布一枚へ大げさではありませんこと?」
「殿下が離したら、もっと大げさなことになります」
「離しませんわ」
ミレナは梯子を上り、手を伸ばした。
結び目を解き、緑の布を持って地面へ戻る。
それだけだった。
「なぜ使わなかった?」
講師が尋ねる。
「梯子で届いたからです」
「精霊はいた」
「いました。でも、私たちだけで安全にできる仕事を頼む必要はありません」
「憑依なら、もっと早い」
「戻る時に命を失うかもしれない力を、布一枚へ使いません」
講師は実習記録を開いた。
第四期の最後へ、短い一行が加えられる。
使える力ではなく、仕事に必要な力を選ぶこと。
「精霊使役科、修了とする」
四つ目の課程が終わった。
◇
その日の午後、アルマニアの実習記録には、新しい頁が増えていた。
頁の上には、方角と行き先を書く欄がある。
「次の実習場は、学院が用意しない」
主任講師は大きな地図を机へ広げた。
「四つの課程で基礎は教えた。ここから先は、どこへ行き、誰と組み、何を仕事にするか、自分で選べ」
「全部を続けて学べる場所はありますか?」
「人の話を聞け」
返事は、入学した頃から変わらなかった。
「行き先は、明日までに一つ書け」
主任講師が部屋を出ていく。
残された地図の周りへ、四人が集まった。
「悩む必要はありませんわ」
最初に地図へ手を置いたのは、シャーナシアだった。
赤い鞘の短剣を、オーファンから西へ延びる街道へ載せる。
「わたくしと西へ来なさい」
「西方ですか?」
「西方の都市国家群と、その先の未開の地を見たくありませんの?」
青い瞳が輝いている。
「秘境ですわ! きっと英雄にふさわしい冒険を約束してくれます」
「約束はしていないと思います」
「見つからなければ、わたくしたちで探します」
シャーナシアにとって、秘境は待っているものではないらしい。
「王家の務めはどうするんです?」
「王城で誰かの役目が空くのを待つより、外で功績を持ち帰ります。誰にも代われない魔法戦士になるには、学院の訓練場だけでは足りません」
彼女は短剣の鞘を、西へ押した。
「わたくしが突破口を開きます。あなたは残りをつなぎなさい。今度は実習ではなく、本物の冒険で」
「僕を後ろへ置くのではなく?」
「置いていかれたくなければ、ついてきなさい」
誘っているはずなのに、挑戦状の形をしていた。
「西へ行くなら、山越えの荷を選び直しな」
グンヒルダが、赤い鞘の横へ一枚の木札を置いた。
荷物と人数、出発地が刻まれた隊商の札だった。
「あたしは南へ行く」
「故郷へ戻るんですか?」
「違うよ。まずはロマールの闘技場。そのあと、巨人の里を目指す」
シャーナシアが身を乗り出した。
「闘技場に出ますの?」
「最初は見る。武器も防具も、工房へ置いて眺めてるだけじゃ分からない壊れ方があるからね」
「最初は?」
「出られそうなら、一度くらい試す」
グンヒルダは細い腕で力こぶを作った。
「あなた、昨日まで右手を気にしていたでしょう」
ミレナが呆れた声を出す。
「もう動く。任せられるかは、これから確かめる」
「自分で確かめる内容がおかしいよ」
「だから闘技場へ行くんだろ」
止める者が必要な旅になりそうだった。
グンヒルダは南へ延びる街道を指でなぞった。
「巨人の里では、あたしたちとは違う大きさの石と装身具を見たい。大きな力へ耐える留め方もね。あたしは宝石職人だ。何でも作れるようになるつもりはない」
「では、僕は何を?」
「古い文字を読んで、周りを見て、あたしが動けなくなった時だけ仕事をつなぐ」
「治癒も?」
「必要なら頼む。でも、転んだだけで祈るんじゃないよ」
「分かっています」
「それなら、一緒に来な。あたしに必要なのは半端な弟子じゃない。自分の仕事を持った仲間だ」
木札は地図の南で止まった。
「二人とも、危ない場所を楽しそうに勧めないでよ」
ミレナが一冊の薄い冊子を置く。
オランの賢者の学院に収められた古代王国資料の目録を、オーファン分校で書き写したものだった。
「私は東へ行く」
「ターシャスの森ですか?」
「森へ寄る道もあるけど、行き先はオラン」
ミレナは目録を開いた。
魔法の泉。
経験を与える遺物。
契約した精霊と人の間に起きる現象。
どれも、目録には短い題名しか載っていない。
「双鴉の泉のことも、アルの取得経験倍化のことも、私たちは知らないことが多すぎる。ブラウニーがした仕事の経験までアルへ入る理由も分かっていない」
「オランなら記録がありますか?」
「あるとは言えないよ。でも、調べる場所としては、ここより多い」
分かっていることと、分からないことを分けた答えだった。
「精霊憑依についても調べたい。一度戻れたからって、次も任せられるわけじゃないから」
ミレナは冊子を、地図の東へ置いた。
「アルが来なくても、私は行くよ」
「僕に必要な知識を探すのに?」
「だからって、行き先まで代わりに決めたら、また同じでしょう」
少しだけ言いにくそうにしてから、ミレナは続けた。
「一緒に来てほしい。でも、守るために連れていくんじゃない。何を知りたいか、どの記録を読むかは、アルが決めて」
西には赤い鞘。
南には隊商の木札。
東には古い資料の目録。
三つの道が、地図の上でアルマニアを待っていた。
◇
「順番に行くのは——」
「却下ですわ」
「駄目だね」
「駄目だよ」
三人の返事が重なった。
「まだ、最後まで言っていません」
「西へ行ってから南へ回り、最後に東へ行くつもりでしょう」
シャーナシアに先を読まれた。
「一度に三つではありません」
「順番へ並べただけで、選んでいないのは同じさ」
グンヒルダが言う。
「仕事も隊商も、アルが来るまで待ってくれないよ」
「道だって変わる。今日安全な道が、何年後も同じとは限らない」
ミレナも続けた。
「今行く一つを選んで」
四つの課程で、何度も言われた言葉だった。
アルマニアは三つの印を見た。
西へ行けば、シャーナシアが前を切り開く。
南へ行けば、グンヒルダが本物の仕事を見せる。
東へ行けば、ミレナと知らない答えを探せる。
どれも自分にできることがある。
どれも、自分に足りないものがある。
「どうして、僕を誘うんです?」
シャーナシアが眉を上げた。
「今さら、それを聞きますの?」
「行き先ではなく、僕の役目を知りたいんです」
三人は、すぐには答えなかった。
最初に口を開いたのはシャーナシアだった。
「わたくしは前へ出ます。後ろを見るために足を止めるつもりはありません」
赤い鞘を指で叩く。
「だから、後ろを預けても前へ進める相手が必要です」
グンヒルダは隊商の札を持ち上げた。
「あたしは自分の仕事を、あたしより上手くやれとは言わない。でも、あたしが倒れたら、仕事ごと捨てて逃げる奴とも組めない」
「壊さず、次へ渡せる相手が必要なんだ」
ミレナは目録を閉じた。
「私は、道を見つけたら先にアルの手を引いてた」
いつものように笑おうとして、少しだけ失敗する。
「今度は、道を見つけたあと、どちらへ進むかを任せられる相手と行きたい」
三人とも、アルマニアを一人前の専門家とは呼ばなかった。
代わりに、自分の仕事だけでは足りない場所を見せた。
そこへ立ってほしいと頼んだ。
「選べます?」
アルマニアが尋ねる。
「選びなさい」
シャーナシアが答える。
「選んだあとに間違いが分かったら、直しな」
グンヒルダが言う。
「選ばなかった二つが、間違いになるわけじゃないよ」
ミレナが最後に言った。
三人は、それぞれの印を地図へ残した。
答えは明日の朝に聞くという。
◇
夜。
宿舎の机には、三つの旅支度が並んでいた。
赤い鞘の横には、西方への道を書き写す紙。
隊商の木札の横には、南へ持っていく工具の一覧。
資料目録の横には、オランで尋ねることを書き始めた記録板。
少し前までのアルマニアなら、三つとも完成させていた。
眠る時間まで使い、どの旅にも出られるよう荷を作っただろう。
いまは、何も袋へ入れない。
「まだ、片づけなくていいです」
机の下にいるブラウニーへ伝える。
小さな木槌が二度鳴った。
壁にはアルマニア一世。
窓辺にはギンとニン。
机には三つの道。
どの道にも、待っている仲間がいた。
だからこそ、その誰かについていくことを、自分で選んだ道だと言ってよいのか考えた。
アルマニアは地図をもう一度広げた。
西、南、東。
三人が置いた印を、勝手に動かさない。
そのどれとも重ならない場所へ目を向ける。
古い魔法の伝統を残す国。
自分が何を任されるかも、誰の空いた場所へ立つかも、まだ分からない土地。
そこには、アルマニアを誘う者がいなかった。
だから、最初の役目から自分で探さなければならない。
この日、技能は一つも増えなかった。
代わりにアルマニアは、三つの道を一つへ重ねることをやめた。
白紙の行き先欄へ、国の名を一つだけ書く。
ラムリアース。