阪急浜離宮大回廊。
天井高十メートル。
壁面全体を覆う巨大な強化硝子の向こうには、金融破綻で灯を失った旧東京の街並みと、鉛色の寒空を映す東京湾が広がっていた。
大型変圧器の鉄心が、ジジ……と重く低く震えている。
天井灯の白光が、磨き上げられた床に冷たく反射していた。
長卓の正面。
帝国海軍第二種軍装の立襟を隙なく正した国家戦略院院長、井上成美と、庄内木綿のように粗野で重い気配を纏う陸軍大臣、石原莞爾。
長卓の末席。
純白のレースエンパイアドレス。
肘上までを覆う特注の白絹手袋。
三人の少女が、白光を真っ向から受けて並んでいる。
十四歳の真下ミサヲの右手袋は、算盤の激打で親指と人差し指の生え際が割れ、白絹を朱に染めていた。
十六歳の石原時子は、計算尺の真鍮遊標を往復させるたび、皮の剥げた親指から肉が引きつる激痛を肘まで奔らせる。
二十一歳の井上靚子は二人の手元を注視し、吐き出される計算票の数値を瞬時に照合して長卓へ並べていた。
彼女たちが身を削って叩き出しているのは、単なる外交の数字ではない。
米国の封鎖を裏返し、東日本の凍える数百万人へ回す糧食と燃料の底値を確定させる、冷酷な算術そのものだった。
靴底を硬質に響かせて入ってきた男——ルーズベルト大統領特別特使兼海軍次官、ジェームズ・V・フォレスタルは、厚い英文提示書を長卓へ叩きつけた。
元ディロン・リード社長にして、ウォール街の怪物。
焦燥に苛まれる男の眼光が、末席の少女たちの血と真鍮粉に汚れた手袋を捉えた瞬間、瞳孔が不気味に収縮した。
ハバナ葉巻の重い紫煙が漂う。
「条件は二つだ。
第一にオハならびにバタヴィアの精製プラントを即時全面封印しろ。
代わりにテキサスの航空揮発油を無制限供給する。
第二に、パンナム四発艇の『太平洋横断ライン』を開口しろ。
呑まねば、明日から太平洋の全米系給油拠点は貴国の白鶴を即刻完全遮断する」
フォレスタルは長卓の二人に冷たく指を突きつけた。
「今この瞬間も、東日本じゃ数百万が飢えと寒さで死にかけているはずだ。
九月に我が国がマニラで貴様らの足と現金を奪ったように、拒むというなら即時全面封鎖だ。
我が国の巨大な物量で、太平洋の藻屑に変えてやる!」
井上成美が、氷のような絶対敬語を静かに滑らせた。
「特使、破格のご提案に深く感謝申し上げます。
……燃料の供給につきましては、東日本の民生用途に限り拝受いたします。
なお、金融破綻地域の不良債権処理費用、および供給網の再建に伴う治安維持費は、供給側たる貴国資本のご負担と理解しております」
「ふざけるな!」
フォレスタルが卓を叩いた。
ハバナの灰が散る。
「九月にマニラで比島領空権を叩き潰され、最後の二百万ドルまでむしり取られた負け犬が、何を対等に口を利いている!
我が国はパラオ沖に独自で大型給油船を浮かべる準備もある。
貴様らの助けなど最初から要らんのだ!」
その時。
長卓の最下端から、乾いた打撃音が響いた。
ジャジャッ、チリッ。
言葉の交わしはない。
ミサヲの算盤の打撃が跳ねた瞬間、時子の指先が血を滲ませて真鍮を滑らせる。
導き出された数値を井上靚子の透き通る指先が無言で受け止め、石原莞爾の卓上へ滑らせた。
紙片の数値を目に捉えた瞬間、石原の喉が低く鳴った。
「……特使。
おめさん、マニラで勝った気でいっだなが」
石原は軍服の懐から、黒インキの筋が深く刻まれた複写文書を取り出し、卓上へパチンと滑らせた。
末尾に躍る『J. Stalin』の自筆署名。
「何だ、それは」
フォレスタルの目が、太い赤線が引かれた箇条で停止した。
『米英による対日封鎖発動の際、満州興業産加工大豆および北樺太原油の全出力をソ連極東軍へ即時迂回供給し、白鶴航空網をソ連軍兵站線として全面開放する』
フォレスタルは書類から目を上げられなくなった。
太平洋を封鎖した瞬間、ソ連極東軍の膨大な兵站網が太平洋側へ直接接続される。
自ら破綻させた東日本を越えて、ユーラシアの巨大な影が米国の目と鼻の先へ噴出する構造が、その一行に凝縮されていた。
「九月に、あと一八〇日足りなかった。
だから二百万ドルと南の空ばくれてやったんだの」
石原は署名を指で叩いた。
「お前さん方が勝ったと思う必要があったんだ。
この紙が乾くまでな。
……お前さん方が太平洋塞いだ瞬間、満州の大豆も樺太の油も全量ソ連の胃袋さ雪崩れ込む。
極東軍の兵站ば太らせんのは、お前さん方の封鎖だの」
フォレスタルの額に薄っすらと脂汗が浮かぶ。
自国の仕掛けた封鎖が、最大の敵の兵站を太らせる。
だが、男はすぐに口角を吊り上げた。
「……ハッ、政治的ブラフだ!
強行便は軍の力づくで通す。
パラオ沖の給油船で給油すれば済む話だ!」
その焦燥の叫びを、石原が先ほどの計算票を卓上へ叩きつける音で撃ち抜いた。
「『高度一万米圏・偏西風風速』
『波音三一四型・航続距離減衰率』
『波浪遅延一五〇分』
『定時運航成立率: 零』」
石原の指が、冷酷な算術を突き刺す。
「冬の波浪だば給油艦さ横付けすらできねぇ。
旧戦艦『扶桑』の六十ヘルツ超高圧急速給油システムさ繋がらね汎米艇は、太平洋のど真ん中で干からびる。
……強行便ば一機飛ばすことと、時刻守って飛ばし続けることは別物だの」
運用上の完全な破綻。
フォレスタルの顔から血の気が失せていく。
そこへ、井上成美が流麗な英語で静かに引導を渡した。
「ミスター・フォレスタル。
提示書四十二ページ目……
戦略院演算隊の真下さんが見抜いた隠し計算表です」
井上が滑らせた紙片には、極めて短い数値と時刻だけが記されていた。
『シカゴ穀物相場・日本資金引き揚げ時の連鎖暴落予測』
『ディロン・リード社 追証発動時刻:米国東部標準時 十四時十二分』
静寂。
「我が国が資金を引き揚げれば、数時間でシカゴの穀物相場は暴落し、貴方の古巣は追証不足で即死します。
刻限は東部時間十四時十二分。
九月に貴国が一方的に閉ざしたフィリピン領空の即時再開、ならびにこの条件を受け入れ、ご自身の会社の破綻劇と引き換えに開戦なさいますか」
フォレスタルは提示書の四十二ページ目を見つめ、それから長卓の末席へ視線を移した。
三人の少女は彼のことなど一瞥(いちべつ)すらしていなかった。
血と真鍮粉にまみれた白手袋を嵌め、ただ冷徹に次の数値を弾き出している。
自らの身体を削りながら世界を計算し尽くすその姿に、ウォール街の怪物たるフォレスタルは、逃げ場のない恐怖を覚えた。
フォレスタルはハバナ葉巻を灰皿へ深く揉み消した。
「……五時間待て。
ワシントンの承認を取る」
フォレスタルの声から感情が削ぎ落とされていた。
「東日本への限定供給、太平洋ラインの相互運航権……
ならびに、九月に停止した貴国白鶴のフィリピン領空通過権の即時再開で暫定協定を結ぶ」
米特使団が去り、大広間から井上成美と石原莞爾が静かに退出していく。
重い扉が閉まった瞬間、時子の肩が大きく揺れた。
張り詰めていた息が、ようやく喉を抜ける。
左側から、ミサヲがすがりつくように寄ってきた。
手袋から滲んだ血が、時子の純白ドレスの脇腹へじわりと移る。
「……時ねえ。
おらたちの弾いた計算で、東の街に米が回るべか。
……神田の人たち、暖炉焚けるべか」
「うん。
回る。
ミサヲちゃんの指先が、一番早かったからや」
右側から、井上靚子が寄り添い、二人を強く抱き寄せた。
「……時子ちゃん。
コンマ一ミリも、狂っていませんでしたわ」
「……おねえちゃん」
白檀の甘い香りに、生血と真鍮粉の匂いが混じり合った。
時子の汚れた手袋が靚子のドレスに黒と赤の痕を残す。
時子は黒革の手帳を、カチリと閉じた。
翌朝。
神田。
婦人問題研究所。
冷え切った木造建築の廊下に、煤けた石油ストーブの匂いと、刷り上がったばかりのガリ版インクの匂いが漂っていた。
表の通りには、肩をすぼめた女たちが、寒空の下で薄い風呂敷を抱えて長い配給の列を作っている。
霜の降りた足元で、子供たちがかじかんだ手を擦り合わせていた。
「時子、なんだて。
昨日はえらい大きな交渉だったんと違うんかい。
……大丈夫なんのかね」
机の上の雑多な書類を整理しながら、市川房枝が眼鏡の奥から視線を投げかけた。
足元には、すり減った革靴と、各地から届いた凄惨な困窮を訴える手紙の山がある。
「大丈夫かどうかやなく、やるかやらんかです」
時子は制服の袖口から覗く、血と真鍮粉で黒ずみ、白包帯を巻き直した親指を静かに背中に隠した。
市川は一瞬だけ時子の手元に目をやったが、眼鏡の奥で何かを飲み込み、それ以上何も尋ねなかった。
無造作に腕まくりをし、分厚い半纏を羽織る。
「ふん、無駄口叩いとる暇なんか無いでね。
早速行くで、みんな配給米待っとるんだて」
「はい」
時子が短く答え、扉を開けた。
表の通りに伸びる女たちの薄い肩の列——昨日自分たちが血を流して護り抜いた命の列へ、二人は足を踏み出した。