新章突入に伴い、現在第一回から現行最新話までの話の内容の改訂作業を行っています。大まかな内容は変えるつもりは今のところありませんが、もしかしたら若干内容が変わってしまうかもしれません。ご了承ください。
それでは本編どうぞ!
第十七回:初陣、高佐原の戦い
十月初頭、俺たちはついに打倒陶晴賢・大内義長の兵を挙げた。
まず行ったのは各地へ激文を飛ばして味方を呼び寄せ、集まってきた兵を嘉年勝山城をはじめとする周辺の要衝へ手際よく配置していく作業だった。足りない拠点の戦力を補いつつ、城内の兵糧を改め、井戸の水質を確認し、矢や鉄砲の弾薬を運び込んで強固な防衛線を構築していく。
街道を塞ぎ、見張りの数を増やすにつれて、俺が思い描いていた「挙兵」のイメージとの違いを強く実感させられた。
大勢の兵が一斉に城門をくぐり、敵の陣営に向かって突き進む姿こそが戦の始まりだと思い込んでいたのだが、実際には交戦に至る前の地道な準備作業こそが勝利の成否を分けるのだと知った。
戦う前からやるべきことは山のように積み重なっており、むしろ直接刃を交える前だからこそ絶対に抜かりがあってはならない仕事のほうが圧倒的に多かった。
「御屋形様。こちらの兵糧ですが――」
頼定から差し出された報告を受けとる。
余談だが、本来は陪臣である頼定が正頼を飛び越えておれに報告できるのは正頼が与力として頼定をつけてくれたからだ。
そんなこんなで帳面に目を通す。
そこに記されているのは、動員できる兵の数や馬の頭数、備蓄された米の量、さらには矢や鉄砲、火薬の過不足といった極めて現実的な数値の羅列だった。
数字の一つひとつを何度も念入りに確かめるたび、本当にこれから命を懸けた戦が始まるのだという重々しい実感が胸に押し寄せてくる。大内家を再興し、父の仇である陶晴賢を討ち果たすため、俺は自らの意思で戦う側に立ち、この大きな渦の中心に身を置いているのだ。
「御屋形様」
「うん?」
頼定が不思議そうな表情でこちらを見つめてきた。
「どうかなさいましたか?」
「……いや」
俺は軽く首を振って、浮かび上がりそうになった不安を振り払った。
「なんでもない」
「そうですか」
頼定はそれ以上深く追及してはこなかったものの、その静かな目は俺の心の揺らぎをすべて察しているようだった。俺は気持ちを切り替えるように、再び手元の帳面へ視線を落とした。
ここから先はもう二度と後戻りのできない茨の道なのだと、己の心に強く言い聞かせた。
❖
周防国渡川城に着陣した町野隆風は、馬上から視線を前方へと向けた。視界の先には秋の終わりを感じさせる山々がどこまでも連なり、細く険しい道筋が吉見の本拠である三本松城へと伸びている。
隆風は振り返り、自らが率いてきた整然と続く兵の列を見渡した。
「二千か」
「はっ」
軍勢としては決して少ない数ではないものの、要塞のごとき三本松城を力押しで攻め落とすにはあまりにも心許ない人数だった。
何とかかき集めても二千。惟弘の檄文が大内諸国に齎した影響はすさまじいもので、多くの諸将が冬支度だの、当主病につきだのいろいろな理由をつけて参陣はできないと言っていた。
どちらとも敵対しないといえば安全策のようにも見えるが、自分の領地が吉見領の目と鼻の先にある町野隆風からすればふざけるなと言いたくなる案件だった。
書状を見て檄していた陶晴賢も今回、兵力が思うように集まらなかったことに焦ったのか、三本松城ではなく支城を落とすよう命令した。
もっとも三本松城内城下には吉見勢が結集しており、下瀬、波多野、上領といった吉見譜代の家臣や冷泉、宗像といった惟弘の直臣。そのほか周辺の有力な国人や惟弘に味方するものたちも一斉に動きを見せている。
この二千の兵力で無謀にも城攻めを試みれば、城下に到達する前に返り討ちに遭う危険性が高かったので、たとえ三本松城を攻めろと言われても隆風は命令無視してでも攻める気はさらさらなかった。
「三本松城は?」
「敵兵が集結し、日に日に増強されているとのことです」
「そうか…」
隆風は顎に手を当て、思案を巡らせた。正面突破が困難であるならば、命令通り周辺の支城を崩して吉見側の兵力を分散させるのが得策である。
「嘉年勝山城を狙うか」
「はっ」
隆風は手元の絵図を見下ろし、作戦の構想を練った。嘉年勝山城は三本松城からやや離れているとはいえ、吉見にとって防衛の要となる重要な拠点である。ここを脅かせば敵は救援を送らざるを得ず、戦力を削ぐことができるはずだった。
「無理に落とす必要はない」
隆風は周囲の部下たちに向けて静かに、しかし断固とした口調で命じた。
「周囲を偵察し、構造を調べて私に報告しろ」
もし予想外に堅牢な場合。城を牽制・監視するための別動隊を残し、本隊はそのまま北上して益田勢と合流する。そうして吉見の防衛線を徐々に崩していくことこそが、隆風が考える最も確実で現実的な攻略法であった。
「明朝、出陣する」
「はっ!」
町野隆風は再び前方の山々に目をやった。一見すると静まり返っている秋の山林だが、その緑の奥には牙を研ぐ敵勢が潜んでいる。隆風は経験豊富な将らしく、決して油断することなく周囲への警戒を強めていた。
「斥候を多めに出せ」
「承知しました」
「この山では、敵がどこに潜んでいるか分からん」
隆風の命を受け、密偵たちが素早く影のように山中へと駆け去っていった。
❖
「町野隆風が渡川まで来た?」
急報をもたらした正頼の言葉に、俺は思わず顔を上げて絵図から視線を外した。
「はい」
正頼は重々しく頷いた。
「兵力は?」
「およそ二千とのことです」
「二千……」
俺は広げられた絵図の渡川周辺を指でなぞった。二千という軍がすでに目と鼻の先まで迫っている事実に、思わず緊張で唾を飲み込んだ。
「三本松城を攻めてくるの?」
「おそらく、それはないでしょう」
側に控えていた頼定が冷静な口調で口を開いた。
「二千では、今の三本松城を攻めるには少なすぎます」
「じゃあ、どこへ?」
「周辺の城でしょう」
その予測を補足するように、吉見家家臣にして嘉年勝山城主・波多野滋信の嫡男。波多野秀信が静かに発言した。
「おそらく我が嘉年勝山城かと」
「嘉年勝山城……」
俺は視線を嘉年勝山城の位置へと移した。
「なら、援軍を出す?」
「すでに手配しております」
正頼が間髪入れずに答えた。
「頼定の兵百を援軍に遣わす予定です」
「それなら大丈夫?」
「嘉年勝山城は三本松城には負けますが、存外堅牢です。小兵力でもある程度は防げます。そう簡単には落ちないでしょう」
頼定の言葉には確かな根拠があったが、彼の表情はまだ晴れてはいなかった。
「ですが――」
「何?」
頼定は一瞬だけ言葉を溜めた。
「町野が嘉年勝山城を無視する可能性もあります」
「え?」
「城を攻めるふりをして兵を釘付けにし、そのまま別の場所へ向かうかもしれません」
俺は食い入るように絵図を見つめた。確かに敵にとって拠点を一つずつ愚直に落とす必要はなく、こちらの兵力を分断・孤立させることが目的ならば、通過してしまうのも手の一つだ。
「では、どうする?」
正頼の問いかけに対し、部屋の中に重苦しい静寂が広がった。誰もが最適な一手を模索する中、秀信が口を開いた。
「総大将も嘉年勝山城へお越しいただくのがよいかと」
「俺が?」
予期せぬ提案に俺は驚いて秀信を見つめた。
「はい。総大将はこれまで、戦の準備を学ばれてきました」
「うん」
「ですが、戦場そのものをご覧になったことはありません」
秀信の言葉が胸に突き刺さり、鼓動が早くなるのを感じた。
「だから……行けってこと?」
「はい」
秀信の眼差しは真剣そのものだった。
「大戦の先駆けとなろう此度の戦に総大将が前線へおられれば、兵の士気も上がります」
「総大将たる御屋形様を前線に出すのは危険だ」
危険性を危惧した正頼がすぐさま口を挟んだ。
「当然です」
秀信は正頼に視線を移し、言葉を続けた。
「だからこそ、殿は総大将に頼定殿をお付けしたのでは?」
「それは……そうだが……」
「俺も賛成です」
頼定が深く頷きながら進み出た。
「御屋形様は、いずれ兵を率いなければなりません」
「……」
「ならば、実際の戦場を知らずして兵を率いることは難しいでしょう」
二人の言葉に、俺は言葉を失った。本心では恐ろしい。戦場へ出れば凄惨な死が待っており、己の命すらどうなるか分からない。だがここで足がすくんで逃げ出してしまえば、俺は永遠に一人前の大将にはなれないだろう。
「分かった」
俺は意を決して頷いた。
「俺も嘉年勝山城へ行く」
「御屋形様!」
正頼が目を見開いた。
「伯父上、兵を二百ほど付けてほしい」
「……二百ですか」
「うん」
俺は絵図を指差した。
「俺は兵二百を率いて城に入る」
「承知しました」
「元満と元豊も一緒に」
「「御意」」
「氏隆は後詰を任せる。伯父上と一緒に三本松に残ってくれ」
「かしこまりました」
「伯父上…どうでしょうか」
正頼はしばらく腕を組み、深く思案していたが、やがて静かに息を吐き出した。
「……分かりました」
「本当に?」
「ええ」
正頼は温かい眼差しで俺を見つめた。
「ただし、無茶はしないこと」
「分かってる」
「本当に?」
「……うん」
念を押すような問いかけに、俺は少し苦笑いを浮かべた。
「分かったよ」
「では、準備を」
頼定が威勢よく立ち上がった。
「明朝、嘉年勝山城へ向かいましょう」
「うん」
俺は大きく頷いた。こうして俺は人生で初めて、自らの兵を率いて城を打って出る決意を固めたのだった。
❖
嘉年勝山城の城門をくぐった瞬間、俺を迎えたのは地鳴りのような大きな歓声だった。
「御屋形様だ!」
「大内の御屋形様がお見えになったぞ!」
「若君がお越しくださった!」
「……え?」
周囲を取り囲む凄まじい熱気に、俺は思わず馬上で身を硬くさせた。まさかこれほどまでに熱く歓迎されるとは思ってもみなかった。
道の両側にはズラリと兵士たちが立ち並び、深々と頭を下げている。その表情には連日の緊張による疲労の色も伺えたが、それ以上に俺の到来を喜ぶ強い力が宿っていた。
「御屋形様!」
再び響き渡る声に、俺は気恥ずかしさで胸がいっぱいになった。
「……俺、本当に御屋形様なんだな」
ポロリと漏らした呟きに、並走していた元豊が楽しそうに鼻で笑った。
「何を今さら」
「いや、なんか……」
視線を巡らせると、誰もが俺をまっすぐに見つめている。期待と忠誠が入り混じったその視線を受け止めながら、誇らしさと同時に恐ろしいほどの責任の重さを感じた。俺が一歩判断を誤れば、この忠実な兵たちが命を落とすのだ。
「御屋形様」
頼定が穏やかな声で呼びかけてきた。
「はい」
「よい顔をしておられます」
「そう?」
「はい」
俺が照れくさそうに笑みを浮かべた、まさにその時だった。
「おーい、若」
頭上から場違いなほど軽い声が降ってきた。驚いて見上げると、そこには目を疑う光景があった。
「天狗!?」
なんと城の櫓の上に、まるで最初からそこにいたかのように天狗が悠然と立っていたのだ。
「よぉ」
「よぉ、じゃないよ!」
俺は我を忘れて叫んでしまった。
「いつ来たの!?」
「さっき」
「さっきっていつ!?」
「お前らが城に入る前」
悪びれる様子もなくニヤニヤと笑う天狗に対し、俺は頭を抱えた。
「で、何しに来たの?」
「偵察だ」
「偵察?」
「ああ」
天狗はひらりと跳び下りると、南側の山道を指差した。
「町野の野郎が高佐原まで来てる」
俺の顔から冗談めかした色が消えた。
「もう?」
「ああ」
「兵は?」
「本隊が千五百ほど」
「千五百?三本松では二千って聞いたけど……?」
「あぁ、奴さん兵を分けたようだ。五百ほどの兵がまとまった動きをしてやがる」
「別動隊?」
「そういうこった」
俺は急いで腰の筒から絵図を取り出し、地上に広げた。
三本松での軍議で出た予想が的中した。
「じゃあ町野はこの城を攻めしない感じ?」
「ああ」
天狗は首を縦に振った。
「城は攻めねぇ。主力はこのまま北へ抜けて、益田と合流するつもりらしい」
「益田……」
「その後、吉見の別の城を攻める」
俺は険しい表情で絵図を見つめた。
「じゃあ、嘉年勝山城を無視するの?」
「ああ」
「じゃあ、別動隊は?」
「城を見張る役目だろうな」
天狗は軽く肩をすくめた。
「若たちが出てくるのを防ぐために置いていったんだろ」
「……」
あまりにも手際よく情報を持ってくる天狗に、俺は呆れ交じりの視線を向けた。
「おまえ、いつやってきて、どうやって敵陣に行って、こんな情報取ってきたの?」
「そりゃお前」
天狗は胸を張ってへらへらと笑った。
「俺は天狗だからな」
「それで全部説明できると思ってる?」
「できるだろ」
「できないよ!」
あまりのやり取りに、側にいた元満が耐えかねて吹き出し、厳格な頼定までもが口元を緩めていた。
「まあ、細けぇことはいいじゃねぇか」
天狗は楽しそうに笑い飛ばした。
「大事なのは、町野がどう動くかだ」
「……うん」
釈然としないが天狗の言葉通り、無駄話をしている余裕はない。敵の脅威はすぐそこまで迫っているのだから。
❖
「高佐原から北に抜けるには、ここを通るしかありません」
頼定が指し示した絵図の地点には、急峻な山々に挟まれた極めて狭い峠道が描かれていた。嘉年勝山城に置かれた本陣には、俺や頼定をはじめ、元満、元豊、城主の波多野滋信、そして主だった家臣たちが車座になって集まっていた。
「この峠は道が狭い」
頼定の解説に熱がこもる。
「町野隆風の本隊が一気に通ることはできません」
「つまり、隊列が長くなる?」
「はい」
滋信が力強く頷いて同調した。
「そこを叩くわけですな」
「そうです」
頼定は指先を動かした。
「私が事前に百を率いて先に進みます」
「先に?」
「はい。敵が必ず通る場所に伏せます」
「俺たちは?」
「若君は城に残っていただきます」
俺は理解を示して深く頷いた。
「そして、波多野殿」
「はっ」
「城を背に出て場外で伏せていてください敵軍が峠に入るころに天狗殿を遣わしますので、別動隊に気取られぬよう行軍し、この場所まで進んでください」
頼定は城の裏手側からゆっくりとその地点まで指を動かした。
俺はその動きを見ながら頭の中で陣形と動きをシミュレーションした。
「敵が頼定殿に集中する頃合いを見計らい、我ら横合いから突き崩せばよいのだな」
「そういうことです」
暗闇が包む狭い山道。そこを進むの敵勢を前と横から十字に攻撃にする作戦だ。
「……うまくいくかな」
「うまくいかせます。そのためにも天狗殿に逐一報告していただいても?」
「あぁ」
頼定の力強い言葉が不安を吹き飛ばしてくれた。
「では、俺は?」
「御屋形様には別の役目がございます」
頼定は城外の指差した。
「町野隆風は城を監視するため、別動隊を残しており、こちらに向かっております」
「うん」
「本隊が襲わたことが伝われば、いずれ救援に動くでしょう」
「それを背後から……ってこと?」
「はい」
俺は息を呑んだ。
「俺の二百で?」
「そうです」
元満が俺の目を見つめて言った。
「若君。ご覚悟を」
「うん」
俺はしっかりと腹を括った。
「やる」
全員の役割が完全に定まった。頼定が先行して伏兵となり、滋信は刻限に合わせて出撃、俺は城内で機を窺い、動き出した別動隊の隙を突く。
「では」
頼定が凛とした佇まいで立ち上がった。
「御屋形様、御下知を」
俺は力強く頷き、作戦の始動を告げたのだった。
❖
静まり返った嘉年勝山城の櫓で、俺はひたすらその時を待っていた。昼間の喧騒が嘘のように静まり返った夜の山は、不気味なほどの深閑さに包まれていた。空には冷たい月が浮かんでいたが、鬱蒼と茂る樹木が光を遮り、地上は一寸先も見えない漆黒の闇に覆われている。城内に待機する兵たちは息を潜め、緊張感で空気すら凍りついているかのようだった。
「若君」
静かに歩み寄ってきた元満が声をかけてきた。
「うん」
「まだです」
「分かってる」
俺は汗ばんだ手で太刀の柄をぎゅっと握りしめた。生まれて初めて挑む本物の戦に対する恐怖で、心臓が破裂しそうなほど激しく脈打っていた。
その時、風に乗って微かな異音が耳に届いた。蹄の音、甲冑の擦れ合う金属音、そして抑えられた人間の声。
「……来た」
誰かの緊張した呟きが闇に消えた。別動隊が動きを見せないまま時間が過ぎていったが、ついにその沈黙が破られた。遠く高佐原の方向から悲鳴のような伝令の声が上がったのだ。
「本隊が襲われたとの報!」
「何!?」
「高佐原にて、敵の伏兵が出た模様!」
「本隊は!?」
「交戦中です!」
敵陣が蜂の巣をつついたような大混乱に陥った。別動隊が混乱し、本隊の救援へ向かおうと陣形を崩したその瞬間に、俺は立ち上がった。
「……今だ」
俺は弓を携え、声を張り上げた。
「出るぞ!」
「はっ!」
城門が開き、二百の兵が一気に夜の暗闇へと打って出た。俺もまた馬の腹を蹴り、無我夢中で前線へと突き進んでいった。
❖
「前方、異常なし!」
斥候からの報告を連続して受けながら、町野隆風は慎重に行軍を続けていた。夜間の山道を進軍するのは極めて危険であり、万が一の混乱を避けるために細心の注意を払っていた。
「この先が峠か」
「はい」
「よし」
月明かりの下、極端に狭まった危険な峠道が伸びている。
「先頭を少しずつ進ませろ」
「はっ!」
兵たちが整然と足を進めたが、一向に襲撃の兆候は見られない。
「敵影なし!」
「伏兵も確認できません!」
隆風は胸を撫で下ろし、胸中の警戒を少しゆるめた。
「そのまま進め」
だが、その安心感が打ち砕かれたのは一瞬のことだった。
峠道をしばらく行軍した頃、夜の静寂を切り裂いて飛来した矢が、先頭を行く兵の喉元を深く穿った。
「ぐあっ!」
「なっ!?」
隆風が叫ぶ間もなく、闇の中から無数の矢が雨のように降り注ぎ始めた。
「敵襲!」
「どこだ!」
「分からん!」
凄惨な悲鳴が狭い峠道にこだました。隆風の顔から血の気が引いていく。
「しまった!!」
事前に完璧な警戒を行っていたはずなのに、敵は計算し尽くされた完璧なタイミングで牙をむいてきたのだ。さらに闇の奥から、下瀬頼定が得意とする巨大な弓から放たれた強力な矢が飛来し、兵士たちの体を容易く貫いてまとめて吹き飛ばした。
「放て!」
号令とともに猛烈な射撃が続き、逃げ場のない狭い通路で町野軍はパニック状態に陥った。前進すれば味方同士で押し合いになり、後ろからの押し寄せる兵で隊列は完全に崩壊しかけていた。そこへ追い打ちをかけるように、右手の斜面から凄まじい馬蹄の音が迫ってきた。
「突撃!」
波多野滋信率いる三百の精鋭が、完璧なタイミングで町野軍の側腹部へ猛然と突っ込んできたのだった。
「なにっ!?」
嘉年勝山城に籠もっていたはずの兵がなぜここにいるのか、隆風は絶望的な状況を瞬時に悟った。前からは下瀬の強弓、横からは波多野の急襲。完全に敵の罠にはまったのだ。
「いかん!」
これ以上の戦いは徒に損害を増やすだけだ!と感じた隆風は苦渋の決断を下し、声を枯らして叫んだ。
「引け!」
「退却だ!!」
「今ならまだ戻れる!」
隆風は素早く馬首を返し、命からがら来た道を退却し始めた。夜の山道には、敗走する町野軍の怒号と乱れた馬蹄の音が空しく響き渡っていた。
❖
「敵が来ます!」
俺と率いてきた兵は城の裏手から山沿いに進み、途中で馬を降りて林に伏せた。
元満の鋭い声に、俺は弓を構え直した。月明かりに照らされての向こうから、本隊の危機を知ってパニックになりながら駆けつけてくる町野の別動隊の姿が見えた。
「まだだ」
俺は引きつる声を必死で抑え、兵たちを制した。
「もっと引きつける」
恐怖で全身の血が逆流するような感覚の中、心臓が爆発しそうなほど高鳴っていた。逃げ出したい衝動を必死で抑え込む。
「まだ…」
「もう少し…」
「今だ!」
敵の最後尾が眼前に迫った瞬間、俺は立ち上がり引き絞った矢を放つ。
――ヒュンッ
放たれた矢は吸い込まれるように飛んでいき、敵兵の方に刺さったのか叫ぶ声が聞こえた。俺はその声を皮切りに叫ぶ。
「かかれ!」
闇の中から躍り出た二百の兵が、不意を突かれた敵別動隊に襲いかかった。
背後からの奇襲で対応できていなかった別動隊は損害を受けつつも一部の兵はこちらに食らいついてくる。金属と金属が激しくぶつかり合う凄惨な音が響き渡り、乱戦となると俺の目の前にも殺気を放つ敵兵が躍り出てきた。振り上げられた敵の刃が月光を反射して光る。
「――っ!」
思考よりも先に体が動いていた。抜き放ち、振り上げた俺の刀は、吸い込まれるように敵兵の体に食い込んだ。鈍い手応えとともに敵の動きが止まり、ゆっくりと膝から崩れ落ちていく。
「……あ」
自分の手で人間を斬ったという恐ろしい感触が手に残り、俺は金縛りに遭ったように動けなくなった。刀の先から赤黒い血が滴り落ちるのを見つめる俺に、容赦なく次の敵が迫る。
「若君!」
間一髪のところで割り込んだ元満が、敵兵を一刀のもとに斬り捨ててくれた。
「戸惑ってはいけません!」
元満の叫びが、呆然としていた俺の意識を現実へと引き戻した。
「ここは戦場です! 躊躇えば若君が斬られます!」
「……そう、だ」
俺は荒い息を吐き出しながら、己に強く言い聞かせた。足すくんでいる暇はない。俺が倒れれば、俺を信じてついてきてくれた兵たちも全滅するのだ。
「怯むな!」
腹の底から声を張り上げた言葉は味方への鼓舞かはたまた自分への鼓舞だったのかと、どこか他人事な感情を抱きながらも迫り来る別の敵兵に対して踏み込んだ。相手の攻撃をがむしゃらに弾き返し、そのまま刃を叩き込む。倒れ込む敵を無我夢中で蹴り飛ばし、次の脅威に備えて刀を構え直した。
「はぁ……はぁ……」
周囲は味方の歓声と敵の悲鳴が混ざり合う地獄絵図と化していたが、俺の意識は不思議と冴え渡っていた。
「若様!」
血煙の中から駆け寄ってきた元豊が叫んだ。
「こちらは押しております!」
「……そうか」
元豊の言葉を聞いて俺は浴びた帰り血を拭った。
声は震えていたが、それでも命令だけは出した。
「深追いするな! 逃げる敵を追いすぎるな!」
闇夜の深追いは禁物だ。過度の追撃は隊列を乱し、返り討ちに遭う危険性がある。
「退け!」
俺は刀を高く掲げた。
「城へ戻るぞ!」
「はっ!」
背後からの奇襲戦で勝利を収めた俺たちは、鮮やかに暗闇の中へと引き揚げていったのだった。
❖
嘉年勝山城へ戻り着いた頃には、東の空がほの暗く白み始めていた。無事に馬から降り立ったものの、安堵感が広がると同時に急激な疲労が押し寄せてきた。
「……」
足に全く力が入らず、歩き出そうとした瞬間に膝が激しく笑った。
「若様!」
元豊が慌てて駆け寄り、倒れそうになった俺の体を支えてくれた。
「大丈夫ですか!?」
「……うん」
強がろうとしたものの、体の震えは止まらず、そのまま地べたにへたり込んでしまった。激戦の最中は アドレナリンが出ていて気づかなかったが、死の恐怖と人を手かけたショックが今になって一気に押し寄せてきたのだ。
「……俺」
俺は血に濡れた自分の両手を見つめた。
「人を斬った」
重苦しい沈黙が流れる中、歩み寄ってきた頼定が静かに俺の肩に温かい手を置いた。
「御屋形様」
「……頼定」
「初陣、お疲れ様でした。御味方大勝利です」
「……うん」
「よく戦われましたな」
「……怖かった。手が……まだ震えてる」
「それでよいのです」
頼定は優しく微笑んだ。
「初陣で何も感じない者の方が、私は怖いと思いますよ」
その言葉に救われた気がした瞬間、後ろから豪快な笑い声が聞こえてきた。
「ぶわっはっは! 初陣にはよくあることですぞ!」
「皆、最初はそうなります!」
家臣たちが次々と温かい笑い声を上げ、俺の初陣を称えてくれた。命を奪い合う凄惨な現場から生還したばかりだというのに、当たり前のように笑い合う彼らの姿に、俺は一種の狂気のようなものを感じて呆然となった。
「……狂気だ」
ぽつりと漏らした言葉は周囲の歓声にかき消されたが、俺は苦笑いを浮かべるしかなかった。
人を殺め、その死の感触に怯えることすらも受け入れ、それでも前へ進む。これこそが戦国の世を生きていく人間のたくましさであり、業なのだと理解したからだ。
「若君、立てますか?」
元豊と元満が左右から手を差し伸べてくれた。
「ゆっくりで構いませんよ。若様」
二人のおかげでなんとか立ち上がることができた俺は、周囲で疲労に困憊しながらも誇らしげな表情を浮かべる兵たちの姿を見渡した。誰一人として逃げ出すことなく、俺という未熟な大将を支え切ってくれたのだ。
「……勝ったんだよね?」
「はい」
頼定が力強く頷いた。
「勝ちました」
「そっか」
空を見上げると、朝焼けの光が静かに山々を照らし始めていた。
「よかった…」
誰かが上げた歓声を皮切りに、城内にいた全員の声が一つに重なっていった。
「勝鬨を!」
「おお!」
「若君!」
「御屋形様!」
俺もまた残された体力を振り絞り、空に向かって叫んだ。
「勝鬨を上げよう!えい!!えい!!」
「「「おおおおおっ!」」」
朝の澄み切った空に、兵たちの雄叫びがいつまでも響き渡った。手に残る嫌な感触と激しい震えは消えなかったが、俺は逃げずに戦い抜き、生き残った。
まずはそれだけで十分だった。差し込んできた朝日に向けて、俺は震える拳を強く握りしめた。次の戦いではもっと強くなってみせる――そう心に誓いながら、俺は兵たちの誇らしげな勝鬨の声に包まれていた。
おっきー:初陣によってSAN値がめっちゃ下がった。
天狗:本当におっきーが死にそうなら助けてる
まぁギリギリ二桁のおっきーが総大将であるにもかかわらず戦場に出て敵を倒しているのはお察しの通りご都合主義的展開です。
ほら、主人公のSAN値とか下げてみたくなっちゃうんですよ、あと活躍させたかったし、でもちょっと雑になった感じがあるので気を付けていきたいところさんですね
今宵はここまでにいたしとうございまする。
読んでいただきありがとうございました。