柱合会議から数日後。
蝶屋敷には、今日も若き鬼殺隊士たちの怒号と悲鳴が響き渡っていた。
「もう一回です!」
「む、無理だあああああ!! もう腕が動かないよぉぉぉ!!」
「まだ終わってねぇぞ、善逸!」
「伊之助さんも! あと五回!」
「五回だと!? 望むところだァ!!」
縁側から聞こえてくる騒ぎ声に、竈門炭治郎は思わず苦笑した。
那田蜘蛛山での戦いを終え、蝶屋敷へ運び込まれた炭治郎、善逸、伊之助。
三人は現在、栗花落カナヲたちによる機能回復訓練を受けていた。
傷は癒えつつある。
だが、次の戦いに備えるためには、ただ怪我を治すだけでは足りない。
全集中・常中。
それを身につけなければ、鬼殺隊士としてさらに上へ進むことはできない。
「……全集中・常中」
炭治郎は両手を握りしめる。
「まだ完全にはできない。でも……絶対に身につける」
夕暮れ。
訓練を終えた炭治郎が縁側で一人、静かに呼吸を整えていると――。
コト。
隣に冷たい茶が置かれた。
「飲め」
「え?」
顔を上げる。
「獪岳さん!」
そこに立っていたのは、鬼殺隊最強格の柱の一人。
鳴柱・獪岳だった。
黒地の羽織には雷の意匠。
腰には日輪刀。
いつも通り、不機嫌そうな顔をしている。
「お前、顔が死んでるぞ」
「えっ……」
「訓練程度でへばってんじゃねえ」
「す、すみません!」
「謝る暇があるなら飲め」
「はい!」
炭治郎は茶を一気に飲んだ。
「……美味しいです!」
「当たり前だ。俺が選んだんだからな」
「獪岳さんが?」
「悪いか」
「いえ! すごく嬉しいです!」
獪岳は小さく鼻を鳴らし、炭治郎の隣へ腰を下ろした。
「で、全集中・常中は?」
「少しずつですが、掴めてきました!」
「そうか」
獪岳は炭治郎の呼吸を観察する。
「だが、まだ浅い」
「……!」
「息を吸う量、吐く量、筋肉への酸素の回し方。全部が甘い」
「そんなところまで分かるんですか?」
「柱を何年やってると思ってんだ」
獪岳は指を一本立てる。
「全集中・常中ってのは、戦闘中だけ使えればいい技術じゃねえ」
「はい」
「飯を食ってる時も、寝てる時も、歩いてる時も、常に全集中を維持する」
「はい!」
「それができて、ようやく鬼殺隊士としての土台ができる」
獪岳は炭治郎を見た。
「死にたくなけりゃ、身体に叩き込め」
「……分かりました!」
炭治郎は深く頷いた。
しばらく二人の間に静かな時間が流れる。
やがて炭治郎は、ずっと気になっていたことを口にした。
「あの……獪岳さん」
「あ?」
「柱合会議の時に思ったんです」
「何をだ」
「しのぶさんも、カナエさんも、不死川さんも……皆さん、獪岳さんをすごく信頼していますよね」
「……」
「どうしてですか?」
獪岳の眉が僅かに動いた。
「どうしてって何がだよ」
「獪岳さんは、口も悪いですし……怒ると怖いですけど」
「おい」
「でも、誰よりも仲間を助けようとする人だと思います」
「……」
「どうして、そこまで強くなろうと思ったんですか?」
獪岳はしばらく答えなかった。
夕焼けに染まる空を見上げる。
その瞳には、いつもの苛立ちとは違うものが浮かんでいた。
「……昔の俺はな」
炭治郎が静かに耳を傾ける。
「自分が生き残ることしか考えてなかった」
「……」
「怖かったんだよ」
その言葉に、炭治郎は目を見開いた。
鳴柱。
最強の雷の剣士。
どんな鬼を前にしても怯まず、仲間を守りながら戦場を駆け抜ける男。
その獪岳が。
「死ぬのが怖かった。捨てられるのが怖かった。誰にも必要とされなくなるのが怖かった」
獪岳は拳を握る。
「だから強くなった」
「……獪岳さん」
「でもな」
獪岳は自分の拳を見つめた。
「強くなってみて分かった」
「……?」
「自分一人だけ生き残っても、何も嬉しくねぇんだよ」
風が吹く。
庭の木々が揺れる。
「師範も」
「……」
「善逸も」
「……」
「仲間も」
「……」
「しのぶも」
獪岳は少しだけ視線を逸らした。
「誰も死なせたくねぇ」
その言葉には、強烈な覚悟があった。
「だから、俺は泥を被る」
「……」
「泥をすすってでも生きる。嫌われてもいい。恥をかいてもいい。傷だらけになってもいい」
獪岳の目に、青白い光が宿る。
「大切な奴らが生きてるなら、それでいい」
炭治郎の胸が熱くなる。
その言葉から感じる匂い。
雷のような激しさ。
けれど、その奥には――。
雨のような優しさがあった。
「それが……獪岳さんの強さなんですね」
「あ?」
「霹靂のように運命を叩き割って……その後に、慈雨みたいに皆さんを守る」
「……勝手に綺麗な言葉にすんな」
獪岳は照れくさそうに顔を背けた。
「俺はそんな立派な人間じゃねえ」
「でも、俺にはそう見えます」
「……ったく」
その時。
「ふふっ」
柔らかな笑い声がした。
二人が振り向く。
庭の向こうから、胡蝶しのぶが歩いてくる。
「また炭治郎くんに、格好いいことを言っていたんですね」
「しのぶ……!」
獪岳の表情が僅かに変わる。
「別に格好つけてねえよ」
「そうでしょうか?」
しのぶは微笑みながら獪岳の隣に座った。
「私は、あなたに何度も救われました」
「……」
「『無理して笑うな』」
しのぶが優しく言う。
「『お前が死んだら俺が泣く』」
獪岳は黙っている。
「あなたがそう言ってくれたから、私は復讐だけを生きる理由にしなくてよくなった」
しのぶは獪岳の手へ、自分の手を重ねた。
「今の私は、生きたいと思えます」
「……しのぶ」
「あなたと一緒に」
獪岳の頬が僅かに赤くなる。
「……人前で言うなよ」
「本当のことですから」
「そういうところだぞ、お前……」
しのぶは楽しそうに笑った。
その二人を見ていた炭治郎は、思わず微笑む。
「……すごく温かい匂いがします」
「炭治郎」
「はい?」
「それ以上言ったら斬る」
「すみません!」
しのぶがクスクス笑う。
「獪岳さん、照れてますね」
「うるせぇ!」
その時――。
「獪岳ああああああ!!」
屋敷の奥から絶叫が響いた。
黄色い髪が飛び出してくる。
「助けてくれよぉぉぉ!! カナヲちゃんに全然勝てないんだよぉぉぉ!!」
「うるせぇぞ善逸!」
続いて猪頭の少年が飛び出す。
「鳴柱ァ!」
「今度こそ俺が勝つ!」
「伊之助、落ち着いて!」
「お前も勝負しろぉ!」
「だからうるせぇっつってんだろ!!」
獪岳が立ち上がる。
善逸は怯え、伊之助は嬉々として構える。
「よし」
「え?」
「そんなに元気なら、追加訓練だ」
「ええええええ!?」
「望むところだ!」
「馬鹿かお前らは!」
獪岳が三人をまとめて庭へ追い立てる。
「炭治郎! お前もだ!」
「はい!」
「善逸! 泣くな!」
「無理ぃぃぃ!!」
「伊之助! 突っ込むな!」
「俺は猪突猛進だぁぁ!!」
夕暮れの蝶屋敷に、再び騒がしい声が響き渡った。
縁側では、カナエがその光景を眺めながら微笑んでいる。
「ふふ。獪岳は本当に面倒見がいいですね」
「姉さん」
しのぶも笑う。
「ええ。口は悪いですけど」
「聞こえてんぞ!」
庭から獪岳の怒声が飛ぶ。
「ふふふ」
カナエは楽しそうに笑った。
やがて、夜が訪れる。
訓練を終えた炭治郎は、空を見上げた。
満天の星。
そして、その先に待つ未来。
無限列車。
新たな任務。
新たな鬼。
新たな戦い。
それでも、もう以前の自分とは違う。
守ってくれる先輩がいる。
共に戦う仲間がいる。
そして、自分もまた誰かを守れる強さを手に入れようとしている。
「俺も……」
炭治郎は拳を握る。
「獪岳さんみたいに強くなりたい」
霹靂のように、運命を叩き割る強さ。
慈雨のように、大切な人を包み込む優しさ。
その二つを胸に抱き、炭治郎は静かに決意する。
「俺も、誰かを守れる人になります」
その夜。
蝶屋敷に、新たな指令が届いた。
――無限列車。
多数の乗客が行方不明となっている列車へ向かえ。
そして、その任務には――炎柱・煉獄杏寿郎が向かう。
さらに。
「……俺も行く」
獪岳が指令書を手に取った。
その隣で、しのぶも微笑む。
「私も同行します」
「おい、しのぶ」
「恋人ですから」
「……ったく」
獪岳は小さく笑った。
霹靂の雷と、慈雨の温もり。
新たな戦いの幕が、静かに上がろうとしていた。